判例リスト「営業代行会社 完全成果報酬|完全成功報酬」(381)平成14年12月18日 東京地裁 平11(刑わ)2731号 暴力行為等処罰に関する法律違反、恐喝、恐喝未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件
裁判年月日 平成14年12月18日 裁判所名 東京地裁 裁判区分 判決
事件番号 平11(刑わ)2731号・平11(刑わ)3177号・平11(刑わ)3575号・平12(刑わ)606号・平12(合わ)481号
事件名 暴力行為等処罰に関する法律違反、恐喝、恐喝未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件
裁判結果 有罪 文献番号 2002WLJPCA12189004
要旨
◆A寺と従前その墓地の管理等を行っていたN石材店との間で、以前から墓地管理委託の解除等を巡って民事紛争が続いていたところ、被告人が、N石材店経営者のN及び同人からA寺との交渉を依頼されたDらと共謀の上、B住職からN石材店の立退料名目で多額の金員を喝取しようと企て、Dを党首とするC党の名前を明示しながら、5か月余りの間に合計79回にわたって、街頭宣伝活動や中傷ビラの配布等の脅迫行為を繰り返し、B住職に対し暗に金員を要求したが、未遂にとどまったという事案ほか4件の事案について、本件各犯行は悪質であり、また、被告人は、累犯前科を含め懲役刑に処せられた前科数犯を有し、相当長期間服役したことがあるにもかかわらず、本件各犯行に及んでいることなどから、懲役15年を言い渡した事例
出典
裁判所ウェブサイト
参照条文
刑法60条
刑法249条1項
裁判年月日 平成14年12月18日 裁判所名 東京地裁 裁判区分 判決
事件番号 平11(刑わ)2731号・平11(刑わ)3177号・平11(刑わ)3575号・平12(刑わ)606号・平12(合わ)481号
事件名 暴力行為等処罰に関する法律違反、恐喝、恐喝未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件
裁判結果 有罪 文献番号 2002WLJPCA12189004
主文
被告人を懲役一五年に処する。
未決勾留日数中六六〇日をその刑に算入する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、A寺住職Bらに対する街頭宣伝活動等を行っていた政治団体C党の最高顧問であったが、
第一 C党党首Dと共謀の上、平成一一年四月一日午後四時一二分ころ、東京都世田谷区のA寺墓地内において、同寺の警備員E(当時三二歳)に対し、被告人が右Eの後方から右腕を同人の首に巻き付けて締め上げるなどの暴行を加え、右Dが右Eの所持していたビデオカメラを取り上げ、右ビデオカメラ内からビデオテープを抜き取るなどし、さらに右ビデオテープの返還を求めようとした右Eに対し、被告人が「殺すぞ。」などと語気鋭く申し向け、右Eの生命・身体等に危害を加えかねない気勢を示して脅迫し、その旨同人を畏怖させ、よって、同人から右ビデオテープ一巻(時価八〇〇円相当)を喝取し、
第二 C党員であった分離前の相被告人Fとともに、平成一一年九月五日午前一〇時四五分ころ、東京都世田谷区のA寺境内のB住職方西側外壁付近において、同寺境内を警戒中の警備員G(当時四一歳)に対し、被告人が右Gに近づき、至近距離で同人をにらむようにしながら、「てめえ殺してやる。」と語気鋭く申し向けるなどし、右Fが右Gに体当たりする気勢を示しながら同人に近づき、至近距離で同人をにらみ付けるなどし、こもごも同人の生命、身体等に危害を加えかねない気勢を示して脅迫し、もって、数人共同して脅迫し、
第三 被告人が同乗していた普通乗用自動車とH(当時五五歳)運転の普通乗用自動車とが接触した交通事故に関し、右Hに因縁を付け、同人から迷惑料名目で金員を喝取しようと企て、
一 平成一一年九月一六日午後一時ころ、東京都世田谷区の喫茶店Z店内において、右Hの代理人である弁護士Iに対し、「俺のほうとしては一人五〇、それなりに忙しい人間が乗っていて、一人五〇万掛ける四人で二〇〇ぐらいは考えていた。そちらのほうから二〇という金額が出ると思っていなかった。ただ、先生の顔を立てて取りあえず一〇〇、内容としては二〇万の四人分、それに上乗せ二〇万という形で一〇〇という線であれば構わない。」「とにかく明日までに連絡をよこせ。連絡をよこさなければ直接会いに行く。うちの若い衆を毎日交代で行かせる。我々の場合には名前がこういう形だから一般人の方は名前だけで驚く、恐怖を感じるということもあるけれども、我々のほうがちょっと動くとすぐに警察に目をつけられる。だから警察に捕まるような形はやらない。ただ、こういう時期だからまあ若いもんが会いに行ってどうなるかは俺は知らない。」「本人のほうには、あの人も社会的に地位がある人だろうから金が大事なのか命が大事なのかよく伝えておいてくれ。」旨などと語気鋭く申し向け、同日午後五時ころ、東京都千代田区のJ法律事務所において、右Iをして右Hにその旨伝えさせて金員の交付を要求し、
二 平成一一年九月一七日午後五時一五分ころ、右Iが横浜市中区の横浜地方裁判所から被告人の携帯電話に電話をかけ、被告人に、「迷惑料は二〇万円で何とかならないか。」旨申し向けた際、右Iに対し、「分かった。もういい。先生は代理人だからしょうがない。あとは直接本人と話をするから。明日からすぐ行くから。」「本人のほうに金が大事なのか命が大事なのか伝えておいてくれ。」などと語気鋭く申し向け、同月二〇日午後五時三〇分ころ、前記J法律事務所にいた右Iをして東京都港区赤坂の事務所にいた右Hに電話でその旨伝えさせて金員の交付を要求し、この要求に応じなければ、右Hの生命、身体等にいかなる危害を加えるかも知れない気勢を示して同人を脅迫し、同人を畏怖させて、同人から金員を喝取しようとしたが、同人が警察に被害を届け出たため、その目的を遂げず、
第四 Kと共謀の上、いずれも法定の除外事由がないのに、平成一一年九月一八日午前三時三六分ころ、東京都杉並区のL方前道路において、走行中の普通乗用自動車内から同人方に向け、けん銃一丁で弾丸二発を発射し、もって、不特定若しくは多数の者の用に供される場所において、けん銃を発射し、
第五 A寺の元僧侶であるM、C党党首D及び同寺の墓地管理等を営む有限会社N石材店の取締役Nと共謀の上、B住職(当時四七歳)から金員を喝取しようと企て、平成一一年四月二七日ころから同年一〇月一五日ころまでの間、
一 別紙番号一一、同一四ないし一八及び同二八の各欄記載のとおり、いずれも右B住職に対し、暗に金員を要求するとともに、その要求に応じなければ、同人及び同人の妻Oの生命、身体及び名誉等に危害を加えかねない気勢を示し、各犯行当時A寺内にいた右B住職を脅迫し、
二 別紙番号二四ないし二七、同二九ないし三七、同三九、同四一、同四五、同五○、同五二、同五四、同五五、同五七ないし五九、同六一、同六三ないし六五、同六七、同六九、同七一、同七四、同七五、同七八及び同七九の各欄記載のとおり、右B及び右Oの身体、名誉等に危害を加えかねない気勢を示し、各犯行日欄記載の年月日ころ、A寺内において、同寺の警備員を介して、各犯行状況欄記載の内容等を右B住職に知らしめ、いずれも同人に対し、暗に金員を要求するとともに、その要求に応じなければ、同人及び右Oの身体、名誉等に危害を加えかねない気勢を示して右B住職を脅迫し、
三 別紙番号一ないし一○、同一二、同一三、同一九ないし二三、同三八、同四○、同四二ないし四四、同四六ないし四九、同五一、同五三、同五六、同六○、同六二、同六六、同六八、同七○、同七二及び同七三の各欄記載のとおり、右B住職、右O、同寺檀家総代P及び同Qらの身体、名誉等に危害を加えかねない気勢を示し、いずれも各犯行日欄記載の年月日ころ、A寺内において、同寺の警備員並びに各犯行状況欄記載の街頭宣伝活動対象者等であるQ、P、R、S及びTらを介して、同欄記載の内容等を右B住職に知らしめ、いずれも同人に対し、暗に金員を要求するとともに、その要求に応じなければ、同人、右O、右P及び右Qらの身体、名誉等に危害を加えかねない気勢を示して右Bを脅迫し、
四 別紙番号七六及び七七の各欄記載のとおり、右B住職及びUらの生命、身体等に危害を加えかねない気勢を示し、同年八月二五日ころ、A寺内において、右Uをして同寺警備員Gを介して、右B住職に対し、「毎日毎日C党のほうに行って、お前は何やってるんだ、住職のほうに約束を守るようにちゃんと伝えろという形でがんがん言われて、もう非常に困っている。このままでいくと、私もBも危ない、殺されるかもしれない。」などと伝えさせ、いずれも右B住職に対し、暗に金員を要求するとともに、その要求に応じなければ、同人及び右Uらの生命、身体等に危害を加えかねない気勢を示し、もって右U及び右Gを介して右B住職を脅迫し、
その旨右B住職を畏怖、困惑させたが、同人が右要求に応じなかったためその目的を遂げなかったものである。
(事実認定の補足説明等)
第一 初めに
弁護人は、起訴されたすべての事件について被告人の刑事責任を争っているところ(ただし、判示第一の事実関係については特に争いはない。)、これらの事件を概観すると、平成一一年刑(わ)第三五七五号恐喝未遂被告事件(判示第三)以外の事件は、A寺と有限会社N石材店とのトラブル等に介入したC党の者らが、A寺の住職Bから、金員を喝取しようと企て、また、その過程において敢行された一連の犯行として起訴されたものである。そこで、まず、A寺と直接関係のない平成一一年刑(わ)第三五七五号恐喝未遂被告事件(判示第三)について検討し、次に、時系列順にA寺関連の事件を検討し、最後に平成一二年刑(わ)第六〇六号恐喝未遂被告事件(判示第五)について、検討を加えることとする。
第二 判示第三の恐喝未遂について
一 弁護人の主張
弁護人は、被告人は、金員を喝取する目的で、Hの代理人であるI弁護士を介して、Hを脅迫したことはないから、被告人は無罪であると主張し、被告人もこれに沿う供述をするので、以下検討する。
二 関係各証拠により認められる事実(12ないし15並びに17の各事実以外は特に争いがないか容易に認定できるものであり、12ないし15並びに17の各事実については、三での検討から認定することができる。)
1 平成一一年八月二〇日午後二時三五分ころ(以下年月日は特に表示しない限り、いずれも平成一一年である。)、首都高速都心環状線外回り線港区麻布永石町(飯倉出口付近)先路上において、Hが運転する車両(メルセデスベンツ)と被告人、D、K同乗のV運転の車両(トヨタセンチュリー)が接触事故(以下「本件交通事故」という。)を起こした。本件交通事故により、V運転の車両は、右側後部ドアなどが凹損し、塗装がはがれるなどし、H運転の車両は前部バンパー部分が凹損するなどした。被告人を含めて本件交通事故で傷害の被害により医師の治療を受けた者はなく、警察の捜査においても道路交通法違反被疑事件(物損事故)として取り扱われた。その後、Hは、両肩から腕にかけて入れ墨をのぞかせている被告人、D、Kに囲まれ、被告人から、どうしようとしているんだなどと言われたため、保険屋に電話しようと思っている旨答えたが、被告人から、そんなことよりももっとやることがあるだろう、早く謝らんかいなどと言われた。Hが、Vと名刺を交換した後、被告人らは、その場を立ち去ったが、その際、被告人は、ベンツに乗っているのか、金持ちだな、後で病院に行くからななどと言った。
2 Hは、W保険株式会社の自動車総合保険に加入していたため、同社に電話をして本件交通事故の状況等を説明の上、担当者を至急決めてほしい旨頼んだ。
3 Hが、東京都港区赤坂のHの事務所にいたところ、八月二〇日午後五時ころ、被告人から電話があり、奥沢の事務所に来るように言われた。Hは、保険会社の担当の人に行ってもらう旨答えたが、被告人は、保険屋が来るのは当たり前で、まずお前自身が来なきゃ始まらないだろう、事務所に来ないなら、自分のほうから出向いてもいいんだぞなどと言ってきた。Hが、行くつもりもないし、こちらに来られても困る旨言うと、被告人は、電話を切った。その後、Hは、六本木交番に行って相談をし、C党が暴力団と関係のある団体である旨聞いた。
4 Hは、八月二三日、WのX及びYと話し、本件交通事故に関する交渉を依頼した。
5 Hは、Xを通じ、Yにおいて八月二五日にC党事務所に行ったところ、被告人から事故状況の説明が違うから、保険屋が来る前にH本人が来るべきだなどと言われた旨の報告を受けた。
6 Hは、八月二五日又は二六日ころ、Wから紹介されたJ法律事務所所属のIに、本件交通事故についての処理を委任した。
7 八月二七日、被告人、D、K及びVは、Hの事務所に赴いたものの、Hが外出していたため、Dは、対応に出た女性事務員を介して、J法律事務所のJと連絡をとり、「Hはなぜ来ないんだ。来ると言ったのではないか。」などと言ったが、Jから、「Hは怖がっているし、代理人として弁護士が入っている。弁護を受任したんだから交渉はこちらでやる。直接応対しないでほしい。とにかく帰りなさい。」などと言われた。これに対し、Dが、「車の修理代はどうする。」などと言ったところ、Jから、「修理代はこちらで持つ。代車はそちらで手配して、後で請求してくれ。会社にいないので帰ってください。」と言われたため、被告人らは、Hの事務所から立ち去った。
8 Iは、八月三一日、V及びDに対し、J法律事務所所属の他の弁護士と連名で、Hから委任を受けて、本件交通事故の処理を担当する旨の内容証明郵便を送った。
9 Iは、九月一日、東京都千代田区のJ法律事務所において、被告人からの電話を受けた。その際、Iは、被告人から、受任通知をもらったが弁護士が入るとはどういうことだ、Hのほうが出てきて話をすべきじゃないか、保険会社に話がいったり、それから弁護士に話がいったりとか、話の順番がちょっと違うじゃないかなどと言われたが、今後のことに関しては後で連絡する旨伝え、いったん電話を切った。その後、Iは、Jと協議の上、同日夕方、被告人に連絡をとり、翌日、被告人と会って話をすることとした。
10 Iは、九月二日午後三時三〇分ころ、東京都世田谷区の喫茶店Zで被告人と会って話し、その際、修理費用、代車料を支払うことなどを伝え、さらに、同所に後から来たDに対しても同様のことを話した。
11 Iは、九月四日又は五日ころに、Hと会い、今後の対応について基本的な方針を確認した。
12 Iは、九月一六日朝、Wの担当者とも話した上、Dに電話し、修理代及び代車料に加え、車の評価損を考慮し解決金として二〇万円を支払う旨伝えた。Iは、その約一時間後、被告人からの電話を受け、二〇万円というのは一人分かと尋ねられたのに対し、総額で二〇万円である旨答えると、被告人から、今日会う必要もないと言われ、電話を切られた。Iは、再度、被告人と連絡をとり、同日午後一時に、Zで被告人と会うこととした。
13 Iは、同日午後一時ころから、Zにおいて、被告人から、「俺は最初聞いたときに二〇と言ったから、一人二〇だと思ったんだ。先生のほうでその金額を考えてくれと言ったことも悪かったかもしれないけれども、俺のほうとしては一人五〇、それなりに忙しい人間が乗っていて、一人五〇万掛ける四人で二〇〇ぐらいは考えていた。そちらのほうから二〇という金額が出ると思っていなかった。ただ、先生の顔を立てて取りあえず一〇〇、内容としては二〇万の四人分、それに上乗せ二〇万という形で一〇〇という線であれば構わない。」旨などと言われ、さらに、「とにかく明日までに連絡をよこせ。連絡をよこさなければ直接会いに行く。うちの若い衆を毎日交代で行かせる。我々の場合には名前がこういう形だから一般人の方は名前だけで驚く、恐怖を感じるということもあるけれども、我々のほうがちょっと動くとすぐに警察に目をつけられる。だから警察に捕まるような形はやらない。ただ、こういう時期だからまあ若いもんが会いに行ってどうなるかは俺は知らない。」「本人のほうには、あの人も社会的に地位がある人だろうから金が大事なのか命が大事なのかよく伝えておいてくれ。」旨などと言われた。
14 Iは、同日午後五時又は六時ころ、J法律事務所で、HやYと会い、Iの提示した案に対する前記の被告人の反応をHに伝えるとともに、C党員などがHの事務所などに直接来た場合には、Iや警察に連絡をするようにとアドバイスした。
15 Iは、九月一七日午後五時一五分ころにも、横浜市中区の横浜地方裁判所において、自分の携帯電話から、被告人の携帯電話に電話をかけ、「迷惑料は二〇万円で何とかならないか。」旨言ったところ、被告人から、「分かった。もういい。先生は代理人だからしょうがない。あとは直接本人と話をするから。明日からすぐ行くから。」「本人のほうに金が大事なのか命が大事なのか伝えておいてくれ。」旨言われ、電話を切られたため、Hの事務所に電話し、このやり取りをHに伝えるよう頼んだ。
16 Hは、九月二〇日、警視庁捜査四課に行き、本件交通事故の事後処理に関するトラブルについて、相談した。
17 Iは、九月二〇日午後五時三〇分ころ、Hの事務所から電話をかけてきたHに対して、被告人から、明日にでも若い者を行かせるから、命が惜しいのか金が惜しいのかという話をしておけと言われたことなどを伝えた。
18 Hは、八月下旬から九月中旬ころにかけて、A寺とN石材店とのトラブルにC党が関与しており、九月九日ころには、A寺の警備員が射殺されるという事件も発生したという報道がなされていることを知った。
三 検討
前記二の12ないし15並びに17の各事実については、被告人がこれを否定する供述をしているので、これらに沿いかつこれらの事実の認定に重要な証拠となるI及びHの公判供述の信用性が問題となる。
1 Iの公判供述の信用性
そこで、まず、Iの公判供述の信用性を検討するに、Iの被告人との会話内容に関する供述は、被告人が述べた要求額の具体的な積算根拠まで含むもので、相当具体的かつ詳細な内容になっているし、Hが当公判廷において、Iと被告人との交渉内容について、Iから報告を受けたものとして述べているところとも符合している。また、Iが、九月一六日に被告人と交渉した際、被告人が「うちの若い衆を毎日交代で行かせる、まあ我々の場合には名前がこういう形だから一般人の方は名前だけで驚く、恐怖を感じるということもあるけれども、我々のほうがちょっと動くとすぐに警察に目をつけられる、だから警察に捕まるような形はやらない、ただ、こういう時期だからまあ若いもんが会いに行ってどうなるかは俺は知らない。」などと述べたとする点については、争いなく認定できる一連の経緯、特に、被告人らがHやIに対しC党と記載のある名刺を渡すなど、少なくとも外形的にはC党に所属する者として行動していること、本件交通事故発生後に被告人らが複数名でHの事務所に赴いていること、当時、A寺とC党とのトラブルやA寺の警備員が九月九日に殺害される事件が発生したことなどが報道されていたことなどに照らしても、自然な内容になっている。さらに、Iは、弁護人からの反対尋問に対しても、揺らぐことなく、一貫した供述をしているし、Iが弁護士であって、Hの代理人として本件交通事故の事後処理に関わる過程において、初めて被告人と面識を持ったもので、被告人を陥れようとするとは考えにくく、Iにはあえて虚偽の供述をする動機も見いだせない。
これに対し、弁護人は、①Iは、Hから示談交渉を依頼された代理人であり、Hの利益を擁護する義務を負っていたのであるから、被告人との交渉の際、被告人から明らかに恐喝罪に該当する脅迫的言動を受けたのであれば、当然、Hの代理人として直ちに所轄警察署に刑事告訴をしたり、被告人側の面会禁止の仮処分の申立てをするなどの措置を執るべきであるところ、Iはそのような措置を執ることなく、Hに対し、被告人らが押し掛けてきた際にビデオカメラでその様子を撮ることを勧めているのみであること、②前記のとおり、Iと被告人の交渉内容について、Hの公判供述と符合してはいるものの、交渉の相手方が暴力団関係者であり、相手方に脅されて怯えている依頼者本人に、然るべき刑事手続ないし保全手続を採ることを説明しないで、そのまま依頼者たる本人に脅迫内容を伝えるというのは疑問であることなどを指摘し、Iの公判供述には疑いを抱かざるを得ないなどと主張している。
しかしながら、Iが、刑事告訴や面会禁止の仮処分の申立てなどの法的手段を採るためには、ある程度の疎明資料となり得るものを収集することが、その前提として必要であるから、Hに対し、ビデオカメラでその様子を撮るよう指示したIの行動は、Hの代理人として、相応合理的なものといえるし、Iが、その後、右のような法的手段に出ていないことについては、Iが、当公判廷において、九月二〇日、Hが同日午前中に警察に相談に行ったことを聞き、その後被告人が逮捕されたことを知り、被告人らがHを恐喝するなどの現実的危険性が大きく減少したものと認識したためである旨説明していて、その説明は納得し得るものであるから、弁護人が指摘する①の事情はIの公判供述の信用性に影響を及ぼすものとはいえない。また、②についても、後記のとおり、Hの公判供述がそれ自体信用できるものであることはもとより、Iが、Hに対し、あえて脅迫内容を伝えた理由として、被告人らが、Hの事務所に押し掛けてきた場合に、Hに直接交渉してもらっては困るし、その際の対応をHに認識してもらう必要があるなどと述べていることも、代理人の行動として相応合理的で首肯できるものであることからすると、これもIの公判供述の信用性に何ら影響を与えるものではないというべきである。
こうした事情からすると、Iの公判供述は信用できる。
2 Hの公判供述の信用性
次に、Hの公判供述の信用性を検討するに、Hは、本件交通事故発生後の事実経過について、自己の心情を交えながら、時系列に沿って、具体的かつ詳細に供述しており、その内容も自然である。また、Iと被告人との交渉内容に関する供述は、信用できるIの公判供述とも符合する。特に、前記認定のとおり、Hは、九月二〇日に警察に相談に行っているのであるから、それ以前に、自己の身に危険が迫りつつあることなどを認識したものと考えられるが、こうした観点からすれば、九月一六日に、Iから被告人の脅迫的言動について報告を受け、翌日午後四時過ぎころにも、これから、被告人と話して被告人の要求を断るから、被告人やその関係者等がHの事務所に押し掛けてくる可能性もあると聞いたとするHの公判供述は、自然で合理的な内容であるといえる。さらに、Hは、本件交通事故まで、被告人と一面識も有していなかったもので、あえて虚偽の供述をしてまで、被告人を陥れようとする動機等も見当たらない。
以上のことからすると、Hの公判供述も信用できる。
四 被告人の弁解
これに対し、被告人は、Iには、Hの謝罪を求めただけであって、金員の要求をしたことはないなどと弁解する。
確かに、前記のとおり、被告人は、本件交通事故の直後、Hに対して謝罪するよう述べ、その後もIらに対し、執拗にHとの直接交渉を求めているし、実際にかかった修理費用も、Wの見積りより一三万余り低額に収まっており、被告人はこれを過分に請求するような行為には出ていない。
しかしながら、前記のとおり、Iが、九月一七日にも、被告人の携帯電話に電話をかけて、二〇万で何とかならないかと再度交渉を持ちかけていること自体は、被告人も争っていないところ、仮に被告人が弁解するとおり、Hが謝罪することが前提であり、Iがこれに応じなかったため、九月一六日の交渉が物別れに終わったとすれば、その翌日に、Iが、Hの謝罪について何ら触れることなく、再度具体的な金額を提示して、被告人に交渉を持ちかけてくるとは考えにくく、被告人の弁解には不自然なところがある。また、被告人自身、公判廷において(第四四回)、「九月一六日に、Iから、修理代、代車料のほかに解決金として二〇万円支払う旨提示された際に、自分が、最初一人二〇万かと聞いたら、Iが、違う、みんなで二〇万だと言うので、それならもういいと断った。」旨供述するなど、前後矛盾するような供述もしている上、言葉のあやであるとはいうものの、「一〇〇万くらいの誠意は見せてくれとIに言ったことはある。」などと、Iとの交渉の成否が、HあるいはWからの金額の多寡によっていることを認めるような供述もしている。さらに、被告人が、Hとの直接交渉を執拗に求めていることも、一般の社会生活を送っているHが暴力団関係者と見てとれる被告人らとの直接交渉を嫌っていることは被告人も十分認識していたと推認されるところ、示談交渉に慣れたWの担当者やIを相手にするよりは、そうした経験に乏しい一般の社会生活を送り相応の財産も有すると目されるHを相手にしたほうが、多額の金員を取得できる可能性が高いからであると考えても不合理でないことに鑑みると、このことは、必ずしも、Hの謝罪を求めたにすぎないとする被告人の弁解を裏付けるものでもない。また、実際にかかった修理費用がWの見積りより低額に収まっている点については、修理費用を水増しして請求するためには、自動車修理業者の協力等が必要となり、ある程度の困難を伴うところ、それよりは、一義的に算定しにくい慰謝料という形で多額の金員を請求しようと被告人が考えたとしても不自然ではないのであるから、このことも、必ずしも、被告人の弁解を裏付けるものとはいえない。
こうした事情や信用できるIやHの公判供述と対比すると、被告人の弁解は信用できない。
五 結論
前記二の事実のうち争いがないか容易に認定できる事実に、以上のとおり信用できるI及びHの公判供述などによって認められる二の12ないし15並びに17の事実を併せ考慮すると、被告人は、Hから金員を喝取する目的で、Iを介してHを脅迫したが、その目的を遂げなかったものと認めるのが相当であるから、被告人には、恐喝未遂罪が成立するものというべきである。
なお、弁護人は、被告人は、本件交通事故の被害者ないし被害者側の代理人として、加害者Hの代理人であるIに対して、不法行為に基づく損害賠償請求権を行使したもので、正当な権利行使として、社会通念上一般に認容すべきものと認められる程度を超えていなかったものであるから、その違法性は阻却されるべきである旨も主張するが、被告人の脅迫内容やその頻度に加え、前記認定の本件交通事故の内容や被害の程度に照らし、被告人の要求額はその権利の範囲を大きく逸脱するものであったと認められることをも考慮すると、被告人の行為は、社会通念上許容される程度を超える違法なものと認められるから、弁護人の主張は採用できない。
第三 判示第二の暴力行為等処罰に関する法律違反について
一 弁護人の主張
弁護人は、被告人において、Gを脅迫したことはないし、被告人はFの行為については認識しておらず、共同実行の意思も事実もないから、無罪であると主張し、被告人もこれに沿う供述をするので、以下検討する。
二 関係各証拠により認められる事実(5ないし11の事実中、被告人やFの具体的言動には争いがある部分もあるが、三の検討によりこれらの事実も認定できるし、その余の各事実は、特に争いがないか容易に認定できるものである。)
1 C党は、A寺とN石材店との民事上の紛争に介入し、N石材店側について、同党党員をして、B住職やその家族らを誹謗する街頭宣伝活動を行わせたり、夜間に、鐘を鳴らしながらA寺境内や墓地内を徘徊させ、さらには、A寺境内のB住職方に押し掛けさせ、A1(B住職の趣旨)出てこいなどと大声を出させるなどして、A寺側に対する嫌がらせを繰り返していた。そこで、B住職は、警備会社に警備を依頼し、A寺に警備員の派遣を受けるようになり、平成一一年九月当時は、株式会社B1、株式会社C1の二社の警備員が警備に当たっていた。
2 Fは、兄のD1がC党に加入していたことから、平成一一年五月ころ、同党党員となり、右のような街頭宣伝活動等に参加するなどしていた。また、被告人は、同党最高顧問の立場にあり、遅くとも平成一一年二月初旬ころには上京していた。他方、Gは、株式会社C1に勤務し、平成一一年七月から平成一二年五月まで、A寺の警備を担当していた。
3 Fは、平成一一年八月一三日(以下年月日は特に表示しない限り、いずれも平成一一年である。)、C党党首であったDから指示を受けて、B住職に対する嫌がらせをするため、B住職方前まで行ったところ、A寺の警備員と衝突し、B住職方のガラス戸を割るなどしたことから、現行犯人逮捕されたが、九月二日又は三日ころ、釈放された。
4 Fは、九月五日、C党事務所前の道路で、ビラを配っていたところ、Dから、B住職方裏(西側)まで、脚立を持っていってくれ、そこには被告人がいる旨言われたため、C党事務所から、脚立を持ち出し、B住職方裏(西側)に向かった。
5 B住職方裏(西側)には、墓地部分とB住職方を区切る外壁があり、墓地の方から外壁に向かって土手状に高くなっていた。その土手の部分と墓地通路の境には立ち入り禁止の立て札が立ててあった。Fは、脚立を持って、B住職方裏(西側)に赴き、既にそこにいた被告人から指示を受けて、土手を上り、この外壁のすぐ近くに脚立を置いた。被告人は、脚立に上り、B住職方をのぞき、その間、Fは、脚立を押さえていた。
6 A寺の警備に当たっていたGは、他の警備員から被告人らの行動について連絡を受けて、B住職方裏(西側)に赴き、被告人らの行動を監視していたところ、被告人が、右のとおり立ち入り禁止とされている場所に入り、B住職方をのぞき始めたため、土手の下の墓地通路部分から「軽犯罪法違反になりますよ。」などと注意した。
7 Gは、被告人がその後もB住職方をのぞくのをやめないので、再度、「軽犯罪法になりますよ。」などと注意した。すると、被告人は、脚立から降り、サングラスをかけた状態でGをにらむような仕草をし、Fは、Gをにらんだ。
8 その後、被告人らが脚立を放置したまま帰ろうとしたため、Gは、「このまま放置すると不法物件として撤去します。」などと言った。これに対し、被告人は、「俺らが持ってきてんの分かってんだろう。」などと怒鳴るように言って、そのまま土手を下りて帰ろうとした。
9 Gが、被告人らに対して、再度、「不法物件として撤去します。」と言ったところ、被告人は、Gの至近距離まで近づき、Gに対し、にらむようにして、「てめえ殺してやる。」と言い、そのまま土手を下りて行った。
10 Fは、Gをにらみ付けながら、Gに早足で向かっていったが、直前でその勢いを緩め、Gをにらんだ。このとき、被告人は、墓地通路に立ち、Fの様子を見ていた。
11 その後、Fは、いったん墓地通路に出たが、被告人から脚立を持ってくるように指示され、脚立を取りに行った。Fは、脚立を肩に担いで、再び墓地通路に向けて土手を下りていったが、Gの側を通る際、Gをにらみ付けた。このときも、被告人は、Fのほうを見ながら、Fが下りるのを待っていた。
12 本件当時、Fは、身長一八一センチメートル、体重約一一〇キログラムであり、被告人は、身長一七八・五センチメートル、体重約七八キログラムであったのに対して、Gは、身長約一七七センチメートル、体重約八〇キログラムであった。
三 検討
前記二の5ないし11の各事実のうち、被告人やFの具体的言動には、被告人が否定する供述をしている部分も含まれているので、これらに沿いかつこれらの事実の認定に重要な証拠となるGの公判供述及びFの捜査段階の供述の信用性が問題となる。
1 Gの公判供述の信用性
そこで、まず、Gの公判供述の信用性から検討するに、Gは、被告人らとのやり取りについて、自己の心情を交えながら、会話の内容やFの行動まで含めて具体的かつ詳細に供述しているし、その内容にも特段不自然な点は認められない。また、Gの公判供述は、後記のとおり信用できるFの捜査段階の供述とも概ね符合しているし、被告人が、Gに近づき、殺すという趣旨の言葉を言った点については、E1の公判供述によっても裏付けられている。確かに、Gは、株式会社C1に勤務してA寺の警備を担当していたもので、本件当時、B住職らに対する嫌がらせを繰り返していた被告人らとは対立関係にあったことからすれば、Gが、被告人に不利な供述をする動機が全くないとはいえないものの、他方で、Gは記憶がはっきりしない部分はそのように答えるなどその供述態度は誠実であるし、前記のように、Gの公判供述の信用性を肯定する方向の事情は多く、Gがことさらに被告人に不利な虚偽の供述をしたとは認められない。
これに対し、弁護人は、被告人の供述に基づき、被告人は、当時、麦わら帽子を被り、深緑色のサングラスをかけていたのであるから、サングラス越しに目の動きが見えるはずがなく、サングラス越しに目の動きが見えたとしているGの公判供述は信用できないと主張する。
しかしながら、Gは、太陽光線の関係で、サングラス越しに被告人の目が見えたときもあったと供述しているにすぎず、常に見えたとしているものではないし、また、Gは、その際の被告人とGの位置関係や被告人の顔の向き等の事情を総合して被告人ににらまれたと判断しているのであって、サングラス越しに被告人の目が見えたこと自体をその判断の根拠としているわけではないのであるから、仮に、時間の経過によりGの記憶が変遷し、サングラス越しに被告人の目が見えることもあったという部分が思い込みであったとしても、このことはGの公判供述の信用性に影響を及ぼすものではない。
2 Fの捜査段階の供述の信用性
次に、Fの捜査段階の供述の信用性について検討するに、Fは、警備員が発した言葉などについては、若干の変遷が見られるものの、事実の流れ自体については、概ね一貫した供述をしているし、その供述内容は、GやE1の公判供述とも概ね符合している。確かに、C党の一党員にすぎないFにとって、その最高顧問である被告人とともに本件犯行に及んだ旨供述することは、F自身の刑事責任を軽減する方向に働くとも考えられるが、Fは、被告人から明示的な指示を受けて本件犯行に及んだ旨供述しているわけではないし、本件犯行についての自身の裁判が終わり既に服役していた証人尋問の時点においても、被告人が、Gに近寄って関西弁で殺すぞと言ったなどと供述していることに鑑みると、Fが、自己の刑事責任の軽減を狙って、あえて被告人にとって不利な事実を述べたとは考えられない。
また、Fは、被告人と併合審理された第一回公判期日の本件被告事件に対する陳述の際、公訴事実中の被告人が「「てめえ殺してやる。」と語気鋭く申し向ける。」という部分について、それについてはよく聞こえなかった、それと私は関西弁がよく分かりません、これと似たようなことは言っていたようですなどと述べており、捜査段階の供述と異なる供述もしている。しかしながら、Fは、その理由について、第三一回公判期日において、被告人と同じ弁護人が自分にも付き、被告人と一緒に裁判がなされていたから、言いたいことが言えなかった旨述べており、その理由とするところは、当時のFの立場を考えれば、その心情として理解できるものといえるから、この点も、Fの捜査段階の供述の信用性に影響を与えるものではないというべきである。
以上によれば、Fの捜査段階の供述は信用できる。
3 E1の公判供述の信用性
E1も、被告人の発言やFの行動など主要な部分については、公判廷で具体的な供述をしており、Gの公判供述やFの捜査段階の供述とも符合しているところである。また、E1の公判供述は、弁護人からの詳細な反対尋問にも揺らいでおらず、一貫している。株式会社B1に勤務し、A寺の警備に当たっていたE1にも、Gの公判供述の信用性を検討した際に触れたとおり、被告人に不利な供述をする動機が全くないわけではないが、その供述態度などに特に不審なところは見当たらない上、前記のとおり、E1の公判供述の信用性を肯定する方向の事情が多いことからすると、E1がことさらに被告人に不利な虚偽の供述をしたとは認められない。
これに対し、弁護人は、被告人の供述を前提として、その供述するE1と被告人との位置関係からすれば、コンクリート塀が邪魔になって、E1からは被告人が見えるはずはないのであるから、FがGに向かっていった際、被告人がFのほうを見ていたとするE1の公判供述は信用できないと主張する。
そこで、まず、その前提となるE1が右状況を目撃した位置やその際の状況について検討するに、この点、E1は、「はっきりとは覚えていませんけれども、正確な場所は。ただ、全員がいるところの後ろ側にいたと。」「(被告人たちとの距離を尋ねられたのに対し)目測なんで、一〇から一五メートルくらいかと思います。」「(E1が自分が見ているということを被告人やFに分からせようとして、あえて被告人やFからも見える位置から堂々と見ていたのか、それとも、墓石に隠れて、見ていることを知られないようにして見ていたのか、どちらかを尋ねられたのに対し)後者です、知られないように。」などとして、明確な供述はしていないものの、これらの供述を総合すると、E1は、被告人らの後方一〇ないし一五メートルの位置において、被告人らの行動を意識的に観察しようとしていた旨の供述をしているものと認められる。また、E1は、FがGに向かって土手を下りてきた際、Gは、一瞬身体を後ろの方に反らせる動作をしたなどと、被告人らの行動等について、具体的かつ詳細な供述をしている上、本件当時、E1は眼鏡を掛けており、矯正視力は両眼とも一・五であったことや、E1と被告人らとの間には、墓石などが存在するものの、証拠上認められる墓石等の佇立状況からすれば、視界を全く遮蔽されるような状況にはないこと(甲三写真三)などに鑑みれば、E1が目撃したと供述する位置から、先に述べたような状況を視認することは可能であるといえ、E1の公判供述に不自然不合理な点があるということにはならない。
他方、被告人は、前記のとおり、E1が被告人を見ることができない位置にいた旨供述しているものの、E1は、GらとともにA寺の警備に当たっていたもので、被告人やFがA寺の墓地内に侵入したとの無線連絡を受けて、Fの跡を追い、被告人らの行動を意識的に観察しようとしていたものと認められるのであるから、そのE1がわざわざ被告人らの行動を確認できないような位置にいたとするほうが不自然不合理である。被告人の供述は信用できない。
そうすると、弁護人の主張は、その前提を異にすることになるから、この点がE1の公判供述の信用性に影響を及ぼすものとはいえず、前記の事情も考慮すると、E1の公判供述は信用することができる。
四 被告人の公判供述の信用性
ところで、被告人は、公判廷において、「Gをにらんだりしたことはないし、Gに詰め寄っててめえ殺してやるとも言っていない、FがGに対して体当たりをするような姿勢を示しながら詰め寄ったというところは見ていないし、Fに脚立を持ってこいと指示した後、一回振り向いてそのまま帰ったから、Fが脚立を取りに行ってから戻るまで、FとGがどのような状況にあったかというのも見ていない。」などと弁解しているが、これらは、信用できるGの公判供述及びFの捜査段階の供述に明らかに反していてそのままこれを信用することはできない上、被告人も、被告人らがGから脚立の撤去を求められ、Gにきつい言葉を言うなどして揉めていたことについては認めており、さらには、Fに脚立を取りに行かせたことをも認めていることからすれば、その後のFの行動やそれに対するGの対応が気にならないはずはないのであって、Fの行動を全く見もしなかったというのは不自然である。
よって、被告人の前記の弁解は信用できない。
五 被告人とFとの共同実行の意思と共同の実行行為の認定
信用できるGの公判供述、Fの捜査段階の供述及びE1の公判供述などの関係証拠によれば、前記二の事実関係が認められ、この事実関係を前提にして共同実行の意思と共同の実行行為について検討する。
共同実行の意思については、右の事実関係からも、被告人とFが事前に共同実行の意思を有していたとか本件の現場で明示的な共同実行の意思の連絡を行ったと認定することができないのは弁護人が指摘するとおりである。
しかしながら、まず、前記認定のC党とA寺との関係、本件当日の被告人の行動状況、FのC党における立場、Fと被告人との関係に加え、F自身が、前記二3記載のとおり、A寺の警備員と衝突したことで身柄を相当期間拘束され、A寺の警備員に対して不愉快な感情を抱いていたと推認できることなどからは、Gから脚立を撤去するよう求められた被告人が、Gに対して脅迫的言動に出る際に、Fもこれに乗じて、被告人とともにGを脅迫しようと考えたとしても不自然ではないし、F自身、捜査段階において(乙一五)、その旨認める供述をしている。また、Fは、自身がGをにらみ付けたり、同人に早足で近づくなどして同人を脅迫した際には、いずれも土手に接する墓地通路にいる被告人から見られているのを認識している旨供述していることを併せ考慮すると、Fにおいて被告人と共同してGを脅迫する意思があったことは優に認定することができる。
そして、被告人も、Fと被告人との関係、C党とA寺との関係、これまでのC党の活動などからすれば、自らがGを脅迫するような言動に出れば、これを認識したFも、追随してGを脅迫するであろうことを認識しこれを容認していたと推認できる上、前記のとおり、被告人が自らGを脅迫した後、土手に接する墓地通路から、Fが早足でGに近づき、GをにらむなどしてGを脅迫するのを見ていたことが認められることからすれば、被告人にもFの行為を利用する意思があったものといえ、被告人のほうにもFと共同してGを脅迫する意思があったということができる。以上によれば、被告人がGに対し脅迫行為に及ぶ際には、被告人とFとの間にGに対して共同して脅迫する黙示の意思の連絡があったと認定するのが相当である。この点、弁護人は、被告人がFの右行動を見ていたとしても、被告人はFの行動を認識し、それを利用して、さらにGに対して、何らかの脅迫的言動を取ったことがないことは、本件関係証拠上明らかであるから、共同実行の意思は認められない旨主張するが、被告人は、前記認定のとおり、自らGを脅迫した場合のFの行動を予測しつつGに対する脅迫行為に及んだ上、その予測に見合うFの行動(脅迫)を認識しながら、そのままその場にいて何らこれを制止するような行動にも出ていないのであるから、Fの行動を利用したものと評価することができ、その後、被告人自身がFの行動を利用して、さらにGを脅迫する具体的な言動に出なかったからといって、被告人の共同実行の意思が否定されるものではない。弁護人の右主張は採用できない。
そして、共同の実行行為については、前記二認定の事実関係と前記の検討も前提にして考えると、本件は、C党最高顧問の被告人と同党党員のFが、対立するA寺の警備員で被告人らに注意などしてきたGに対し、同じ場所で、連続して脅迫行為を行ったものであり、その脅迫行為の時点が完全に同時で重なるとはいえないまでも、被告人の脅迫行為にすぐ続いてFの脅迫行為がなされている事実と右認定の被告人とFとの共同実行の意思からすれば、被告人とFの脅迫行為を捉えて共同して脅迫したと評価するのが相当である。
以上によれば、被告人には、暴力行為等処罰に関する法律違反(共同脅迫)の罪が成立する。
第四 判示第四の銃砲刀剣類所持等取締法違反について
一 弁護人の主張
弁護人は、被告人がKと共謀した事実はないから、被告人は無罪であると主張し、被告人もこれに沿う供述をしているので、以下検討する。
二 特に争いがないか、容易に認定できる事実
関係各証拠によれば、以下の各事実は、特に争いがないか、容易にこれを認定することができる。
1 被告人は、C党党首であるDから、同党に参加するように誘われて、平成一一年一月末ないし二月初旬ころ(以下年月日は特に表示しない限り、いずれも平成一一年である。)上京し、春ころには、C党の事務所が置かれていた、東京都世田谷区のF1二〇五号室に居住するようになった。なお、被告人とDは、ともに大阪にある指定暴力団G2会H2組に所属していたが、H2組内における地位は、被告人のほうが上であった。また、被告人は、C党において、最高顧問の立場にあった。
2 C党は、三月又は四月ころから、同党党員をして、A寺周辺などで、B住職やその家族らを誹謗する街頭宣伝活動を行わせるなどして、A寺側に対する嫌がらせを行うようになり、六月三日に行われたDとB住職との直接交渉が決裂した後は、一層、街頭宣伝活動を激化させ、東京都杉並区のL(Lは、A寺住職Bの姉であるTの夫である。)方付近で、Tらを誹謗する街頭宣伝活動を行うこともあった。その後、L方に対する街頭宣伝活動はいったん中断されていたものの、九月一六日ころ再開された。
3 Kは、大阪にある暴力団E2組F2組に所属し、同組若頭補佐として活動していたところ、平成一〇年八月二八日に広島刑務所を出所した被告人と知り合った。Kの所属する暴力団E2組は独立団体であって、被告人の所属する暴力団G2会H2組とは系列を異にしており、Kは、暴力団の稼業としての仕事を被告人と一緒にしたことはなかった。
4 Kは、大阪に居住していたところ、七月ないし八月ころ、被告人に誘われて、上京し、F1二〇二号室に寝泊まりするようになったが、その後も、C党が行っていたA寺側に対する街頭宣伝等の活動にはほとんど参加せず、大阪にも、時折帰っていた。
5 九月九日、A寺の警備員が射殺される事件が発生し、警察によって、A寺周辺の警備が強化されるようになった。
6 Kは、九月一二日ないし一四日ころ、再び上京し、それ以降、F1二〇二号室に寝泊まりしていた。
7 Kは、F1から、一人でG1の車両(コロナ)を運転して、L方まで行き、九月一八日午前三時三六分ころ(甲一六六)、同人方窓ガラスに向けて、けん銃で弾丸二発を発射した(以下この事件を「本件発砲事件」という。)。
8 KやKの関係者の携帯電話の利用明細記録に基づき、架電先を捜査した携帯電話架電先判明捜査報告書(甲一九二)によれば、Kの携帯電話から、①九月一八日午前零時四一分ころに、二分二四秒間、Kの妻H1の電話に架電された事実と、②同日午前二時五二分ころに、一三秒間、午前三時五七分ころに、一四秒間、午前四時二四分ころに、三五秒間、それぞれ被告人の携帯電話に架電された事実が認められる。
9 I1は、九月二一日、被告人から預かった紙袋をその中身と一緒にゴミ捨て場に捨てた。
10 Kは、被告人が逮捕された後、Dに呼ばれ、一〇月二六日に、Dが逮捕されるまで、Dと一緒に逃亡生活を送っていた。
三 Kの捜査段階の供述要旨及びその信用性
1 Kの捜査段階の供述要旨
Kは、検察官に対して、要旨以下のとおり、供述する。
はっきりした日にちは覚えていないが、被告人が「今度は荻窪の姉さんのところに行かんといかんなあ。」などと言っていた。この話を聞き、私は、被告人が住職の姉の家をターゲットにして何かしようと考えていることは分かったが、具体的にどのようなことを考えているのか分からなかった。九月一五日午後一〇時ころから一六日午前零時ころまでの間に、被告人の部屋に呼ばれ、被告人から「住職の姉さんの家にかち込む。ガラス割りでいいんだ。他の奴にも一人一人聞いたんだが、腹の据わった奴がおらん。お前しかおらん。頼む。いややったら、俺がやってもかまへんが。」と言われた。順番からすれば、私ではなく、C党の党員がやるべきだと思ったし、家族のためにもやりたくなかった。そこで、「東京の道も分かりませんし、家がどこにあるのかも分かりません。運転手は付くんですか。」と尋ねると、被告人は「運転手のことは考えてみる。家はこれから教えたる。」と答えた。本当は、断りたかったが、これを断ったら、もうこの稼業では生きていけない、関西にその話が伝わったら、「Kは根性のない奴だ。使い者にならん。」という噂が流れ、どこの組も相手にしてくれなくなるから、断るわけにはいかないと思い、これを承諾した。それから、すぐに、被告人と二人で、下見に出発した。被告人は、Tさんの家の前をゆっくり走りながら「ここや。監視カメラがついとるからな。写らんように気を付けろ。」などと教えてくれた。私は、被告人からかち込みを命令された後、これは被告人が一人だけで決めたことではなく、Dと二人で話して決めたことだろうと思った。そこで、私が、Dに、「ほんまにいくんですか。」と尋ねると、Dは、「ああそうだ。一発か二発でいい。」などと答えた。Dは、「偽造のナンバープレートを用意しておくから、行くときはそれを使え。」などと言ったので、Dは、住職の姉の家にかち込むことは知っていたはずである。
私は、一六日ころ、被告人から「明日、やってくれんか。終わったら、取りあえず新宿に逃げてきてくれ。」と言われた。運転手は、まだ決まっていないということだったので、唖然とした。私は、これを聞き後悔したが、いったん引き受けた以上今更断ることはできなかった。私は、九月一七日、自分で運転してかち込みにいく場合に備え下見に行った。翌一八日午前零時ころ、被告人に呼ばれて部屋に行くと、被告人は、私に、「これや。」と言って紙袋を一つ手渡した。私は、けん銃だと分かり、その場で中身を確認すると、白いタオルに包まれたものや、緑色っぽいチェック柄のつばの付いた汚れた感じの帽子が入っていた。綿の白の手袋も入っていたような気がする。白いタオルの中を確認すると、けん銃一丁が出てきた。弾倉を外したところ、弾が六発込められていた。被告人は、私に、「時間は三時から四時ころにしろ。ガラスに五、六発撃ち込め、出発する前に俺の携帯に連絡しろ。車は奈良ナンバーのG1の車を使え。運転手は、誰もやる奴がおらん。G1が運転手役を断ったから、「大阪に帰れ。」言うてやった。かち込んだ後は、新宿の歌舞伎町まで来い。非常線が引かれて検問にあったら、そんなんは突破しろ。
遠くまで走って、道が分からんようになったら、車を放って、タクシーで逃げろ。」などと言った。被告人は、こんな無茶苦茶なことを言うくらいだから、俺が捕まっても、家族の世話は見てくれないだろうと思ったが、もう、やるしかなかったので、被告人の命令に文句も言わず従った。私が、Dに挨拶しに行った際、Dから、普通のコピー用紙のような薄い紙に、自動車のナンバーを印字して、ナンバープレートの大きさに切った偽造ナンバープレートを渡されたので、私は「いりませんわ。」と言って返した。私は、最後に妻に電話で別れを告げようと決め、自分の携帯電話から、大阪市の自宅に電話をかけ、妻と話した。そして、私は、同日午後三時前後ころ、被告人から預かった紙袋を持ち、被告人から指定された、奈良ナンバーのG1のコロナのキーを持ち出し、C党事務所の駐車場に停めてあったコロナに乗った。そして、被告人から言われたように、C党事務所を出発するときに、自分の携帯電話から被告人の携帯に電話をかけ、「これから行きますわ。」と報告した。被告人は、「分かった。終わったら、新宿に来い。」などと言った。こうして、私は、一八日午前三時前後に、コロナを運転してC党事務所を出発した。
2 Kの捜査段階の供述の信用性
(一) 内容自体の具体性、合理性等
Kは、被告人との会話内容や、その後の行動経過などについて、被告人からけん銃発砲を指示された際のとまどいやその後の後悔等自己の心の動きにも触れながら、具体的かつ詳細に供述している。また、前記のとおり、Kは、七月ないし八月ころになって、大阪から上京してきたもので、それまでは、何らC党とA寺とのトラブルに関係がなかったばかりか、その後も、C党が行うA寺などへの街頭宣伝等の活動にはほとんど参加していなかったのであるから、K自身に本件犯行に及ぶ固有の動機は見当たらないというべきであって、Kが誰からの指示も受けていないのに、自らL方に発砲したとは考え難い。前記認定のC党とA寺との関係、被告人のC党における立場などからすると、被告人からの指示を受けて本件犯行に及んだとするKの供述は、合理的かつ自然である。
これに対し、弁護人は、①Kは、被告人とは所属していた組が異なるため、序列は関係なく被告人と対等の立場にあった上、被告人に対して何の義理等もない関係にあったのであるから、Kが公判廷において自認するとおり、被告人の指示を断ることもできたはずであり、Kが被告人の指示を断れなかった理由として供述するところは、説得力を持たない、②誰がいつまでに、本件発砲に使用するけん銃を準備するかという点に関するKと被告人との間のやり取りや、被告人が、Kにけん銃の使用歴を尋ねたり、交付したけん銃の操作等について説明したことなどについて、Kが捜査段階で何ら供述していないのは不合理である、③G1の警察官調書(甲二一二)によれば、Kは、本件犯行の前日である九月一七日夜は、午後七時過ぎから午後一〇時ころまで、F1二〇二号室にいたことになるが、そうであるとすれば、東京の道路事情に明るくないKが、午後一〇時過ぎにF1を出発し、被告人から呼び出されたとする九月一八日午前零時ころまでの約二時間で、果たして一回しか行ったことのないL方まで往復できたのか疑問が残る、④Kは、F1一階のC党事務所の鍵を所持していなかったのであるから、九月一八日午前三時前後に、C党事務所に入って、G1の車両の鍵を持ち出せたのか疑問が残るなどと主張する。
しかしながら、①については、Kが、Kと被告人との立場やその他被告人との人間関係上、被告人の指示を断ることが可能であったとしても、断った場合、今後暴力団員として生活していくことができなくなることを恐れ、被告人の指示に従おうと考えたとしても、あながち不合理ではなく、Kの説明を一概に否定することはできないし、そのことがKの供述全体の信用性に疑問を生じさせるともいえない。また、②についても、Kは、被告人から本件発砲事件について指示を受けたのであれば、使用するけん銃についても、被告人が用意するものと考え、特に、これを被告人に問いただすことはしなかったと考えても不自然ではないし、Kも暴力団員であり、仮にけん銃を使用したことがなくても、その操作等について、知識を有していたとしても不自然ではなく、被告人としても、そのように考えてけん銃の操作等に関し特に説明をしなかったとしても不合理とはいえないのであるから、こうした点をとらえてKの供述が不自然不合理であるとはいえない。さらに、③についても、被疑者引当り捜査報告書(甲一九一)によると、日時は異なるものの、F1からL方まで、Kの指示に従って車で走行した場合の所要時間は五三分で、距離は二〇キロメートルであったことからすると、約二時間あれば、東京の道路事情に明るくないKであっても、F1とL方を往復することが可能であるということができる。最後に、④についても、KがG1の車両に乗って、L方に発砲したこと自体は、弁護人も争っていないのであるから、関係証拠上、Kが、C党事務所に入室し、G1の車両の鍵を持ち出すことができた理由が必ずしも明確になっていないとしても、このことが、Kの供述の信用性に影響を与えるものとはいえない。
(二) 客観的証拠による裏付け
前記のとおり、本件発砲事件は、九月一八日午前三時三六分ころ、G1の車両を使用して敢行されているところ、こうした事実は、Kが被告人から指示された内容として供述しているところと符合している。また、Kは、本件発砲事件を起こす前に、妻と被告人に携帯電話で電話をかけた旨供述しているが、これも、前記携帯電話架電先判明捜査報告書謄本(甲一九二)記載の架電状況と符合している。
これに対し、弁護人は、Kの妻に対する架電については、Kが暴力団員であることに照らすと特異な時間帯に架電しているとまではいえないし、通話時間も短いものではないこと、また、被告人に対する架電については、被告人とKが当時暴力団員として深夜まで活動したり、麻雀等をしていたことなどを挙げ、こうした事情からすると、右架電の事実が存するとはいえ、それが、Kの供述する通話内容までをも確実に裏付けるものとはいえないなどと主張する。
しかしながら、弁護人が指摘する事情は、前記のとおり、客観的に認められる架電事実が、その時間帯や通話時間等、Kの供述と概ね符合していることを何ら覆すものでもない。また、多数架電している中で、記憶のみで通話の時間帯や通話時間等含め矛盾なく供述することは一般的には困難であるにもかかわらず、Kの供述と符合する架電状況が客観的に認められることは、何らかの記憶に残る事情があった際の架電であると考えて不自然ではなく、Kの通話内容に関する供述が不自然ではないこととも結びつくところがある。
(三) 公判供述との一貫性等
Kは、公判廷においても、被告人から指示されて本件発砲事件を敢行したこと自体は供述しており、基本的には、Kの供述は一貫しているものといえる。
この点、確かに、Kは、公判廷においては、被告人から指示された際の文言など詳細については明言を避けているものの、右公判供述は、C党最高顧問であった被告人の面前で、しかも、被告人の関係者と推認される者が傍聴する中でなされたものであって、被告人らへの遠慮や恐怖心などから、Kがちゅうちょした結果、その供述内容が後退したものと考えて不合理ではないから、このことをKの捜査段階の供述の信用性を判断するに当たって過度に重視するのは妥当ではない。
これに対し、弁護人は、Kは、捜査段階では、B住職の姉が杉並区の荻窪のほうに住んでいることは知っていた旨供述しているのに対し、公判廷では、これを否定する供述をしているのであって、その供述は変遷しているし、変遷した理由の説明も、「ちょっと、はっきり覚えていなかったもんで。」などとするばかりで、不自然であるなどと主張する。しかしながら、Kの公判供述は、本件発砲事件から約二年を経過した時点でなされたもので、ある程度記憶に減退があったとしても、やむを得ない面があるといえるし、その核心部分やそれと密接に関わる部分について変遷しているわけでもないことからすると、Kの公判供述全体の信用性に影響を与えるものとはいえない。
(四) Dの捜査段階の供述との符合
Dは、捜査段階において、「日時ははっきり断言できないが、九月一七日の夜か、一八日の深夜、私がC党事務所に一人でいると、Kが一人で入ってきた。Kは、私に、「会長、池さん(被告人を指す。以下同じ。)が杉並のほうへ五、六発撃ち込めというんですが。」などと言ってきた。そこで、私は、Kに、「やるのか。」と聞くと、Kは「はい。」などと答えたものの、あまりやる気が感じられず、むしろ本心ではやりたくないような態度だった。私は、事務所の車が使われると迷惑すると思い、パソコンで作った偽造ナンバーをKに渡し、「使ったらどうだ。」などと言ったが、Kは受け取らなかった。私は、住職の姉の家にけん銃を撃ち込むなどとは、全く迷惑な話だと思った。それでなくても、九月九日にガードマンが射殺されるという事件が発生し、C党が一方的に悪者とされてしまい、警察も黙っていないだろうと思っていたし、それに加えて、住職の姉の家にけん銃を撃ち込めば、ますます立場が悪くなると思った。Kの話を聞き、さらに、池とKで決めたことを俺に相談されても困る、勝手にやればいいだろうという気持ちだった。」(甲二〇五)などとして、Kが、被告人からL方に発砲するように指示されたと言っていた旨供述している。
右捜査段階の供述は、KからL方に発砲することを聞いた際の自らの心情にも触れながら、その会話内容などについて相当具体的に述べたものである上、その内容としても自然なものとなっている。すなわち、前記のとおり、当時は、A寺の警備員が射殺されて間もないころで、C党は、これまでA寺に対する街頭宣伝活動を繰り返すなどしてA寺と対立してきていたことから、右事件への関与を疑われ、C党関係者の一挙手一投足が注視される状況下にあったのであるから、こうした中で、さらにC党に出入りしていたKが、A寺関係者の自宅などに対して発砲するような事態になれば、C党が一層窮地に追い込まれる可能性があったといえ、C党党首であったDがその旨危惧していたという供述は自然である。さらに、Dの捜査段階の供述は、Kの供述とほぼ符合している上、被告人とは親しい関係にあるDが、被告人に不利な供述をしたものであり、こうした事情も考え併せると、Dの検察官調書の内容は概ねこれを信用することができる。
これに対し、弁護人は、①Dは、形式的には参考人として取り調べられていたにせよ、Kが、捜査段階において、本件発砲事件について、Dも被告人と共謀していたことが強く推認される内容の供述をしていることを踏まえて、実質的には、被疑者として取り調べられたもので、その結果、Dが、恐喝未遂(本件判示第五の事実と同一のもの)を終わらせて、早く服役しようとしているのに、本件発砲事件についても、責任を追及され、裁判が長期化するような事態になるのは避けたいなどと考えて、事実に反する供述調書の作成にやむを得ず応じたことは推認するに難くないところである、また、②Dは、Kが被告人から本件発砲事件について指示を受けたと供述しているに過ぎず、本件発砲事件について自らの関与を認めるなど、実質的に本件発砲事件の被疑者としての立場にあったD自身に不利益な事実を述べているわけではないなどとして、こうした事情からすると、Dの捜査段階の供述はにわかに信用することはできない旨主張する。
しかしながら、Kの右供述によれば、Dは、Kから被告人の指示でL方に発砲することになったと聞く前に、本件発砲事件について、被告人と話し合っていたことになるのであるから、検察官がDを被疑者として、その刑事責任を追及することを考えていたのであれば、当然、事前に被告人とDの間でどのような話し合いがなされたか、その他、Dの本件犯行において果たした役割などに焦点をあてて、Dの供述を聴取するはずであるが、Dの検察官調書(甲二〇五)を見ても、そのような点に関する記載はない。そして、実際に、Dが本件発砲事件に関し起訴されなかったことをも考え併せると、Dは、本件発砲事件に関し、参考人として取調べを受けたものというべきである。また、Dは、Dにとっても刑事責任を追及される可能性のある供述も一部した上で被告人のことにも言及しているのであって、自らにとって不利益な事実を全く供述していないものではないし、前記認定のDと被告人の関係も併せ考えると、Dが自己の刑事責任を免れるために被告人に罪を負わせる虚偽の供述調書の作成に応じたと推認できるとはいえないし、弁護人指摘の点は、いずれもDの検察官調書の信用性に影響を与えるものではない。
もっとも、Dの検察官調書には、KとDが話した日時や、KがDに対し本件発砲事件に関し被告人から指示を受けたと言ったか否かという点等について、Kの検察官調書と相違している部分もあるかのように見える。しかしながら、両者の供述を検討すると、少なくとも被告人の指示を受けた後、発砲しに行くことをDに伝えているという点においては一致しているし、KやDの検察官調書は、いずれも犯行後約九か月余りを経過した後に作成されたものであるから、特に会話内容などの細かな点について、ある程度記憶違いがあってもやむを得ない面もあるのであるから、この点を信用性を吟味する際に過度に重視するのは妥当ではない。こうした検討からすると、概ね信用できるDの検察官調書は、Kの検察官調書の信用性を補強し得るものといえる。
これに対し、Dは、公判廷においては、「Kがどこに撃ち込むか、誰から指示を受けたかについては聞いていない。Kは、車を貸してほしいと言ってきたので、パソコンから車の偽造ナンバーを出して渡した。Kが自分の考えで撃ち込みをやるということについては、物騒な話なので、ちょっとこっちも気持ち悪いし、聞かなかった。」などとして、捜査段階とは異なる供述をしている。
しかしながら、Dの公判供述は、やや具体性に欠ける上、その内容も不自然かつ不合理である。すなわち、前記認定のC党をとりまく客観的状況や、Dの立場からすれば、Dは、Kから、撃ち込むから車を貸してほしいと言われた際には、既にその計画を耳にしていない限りは、当然、どこに撃ち込むのか、誰の指示によるのかなどといった点についてKに確認するはずであって、Kに何も問いたださなかったとする公判供述は、いかにも不合理であるし、前記のとおり基本的に信用できる捜査段階の供述と対比しても信用できない。
また、前記のとおり、Dの供述は捜査段階から変遷しているが、その理由について、Dは、捜査段階においても、公判廷と同趣旨の供述をしたが、検察官から「本人(Kを指す。)がそういうふうに言っている。」「要するにDさんが責任取るというんだから責任取ってくださいと、あんたの言っている意味は分かるけど、この調書でないと責任取れないんだ。」などと言われたため、自己の意に反する内容の検察官調書に署名指印した旨説明するにとどまっており、供述の変遷に関するDの供述は納得のいくものとはいい難い。
したがって、Dの公判供述は、信用することができない。
以上の検討からすると、結局、概ね信用できるDの検察官調書は、Kの検察官調書の信用性を補強しているものといえる(Kの検察官調書と符合するところは、相互にその信用性を補強し合っているといえよう。)。
(五) I1及びK1の公判供述による補強
I1は、「私は、九月二〇日夕方前、被告人から電話をもらって、喫茶店ラムーで被告人と会った。その際私は被告人から、「汚れ物だ、預かってくれ。」などと言われ、口をガムテープで留められた紙袋を渡されたので、これを自宅に持ち帰り、仕事に出かけた。翌日午前二時半か三時ころ、自宅に戻った私は、紙袋の中身を確かめようと、その中に手を入れると、固いごつごつしたものが手に当たった。それから、紙袋の中を見たところ、鉄でできた筒状のものが、約五、六センチメートル見えたので、けん銃だと分かった。大変驚いて、パニック状態になったので、その紙袋を、ごみと一緒に黒色ビニール袋に入れて捨てた。」「被告人が逮捕された後、店のほうに男性から電話があり、「池のところのものです。」「池からの伝言で、預かったものを処分してくれ。」などと言われた。」などと供述している。
このように、I1は、被告人から紙袋を預かり、その紙袋にけん銃が入れられていることを認識するまでの経緯について、具体的かつ詳細に供述している。また、I1は、被告人と個人的に親しい関係にあるにもかかわらず、時折涙ぐみながらも、あえて、被告人から預かった紙袋にけん銃が入れらられていたという被告人にとって相当不利益な事実を供述している上、その供述は、弁護人からの反対尋問にも揺らいではいない。さらに、被告人が逮捕された後、被告人からの伝言であるとして、けん銃を処分してほしい旨の電話がかかってきたとする点については、I1の供述内容は、I1に、被告人からの伝言で廃棄処分するよう電話をかけたとするKの公判供述の内容とも概ね符合していることなどに照らすと、I1の公判供述は基本的にその信用性を肯定することができる。
これに対し、弁護人は、I1が被告人から紙袋を受け取った後、被告人と別れた際の状況について、I1は、喫茶店の出入口付近で預かった紙袋を右手に持ちながら、大久保通り方向に歩いていく被告人を、七、八メートルくらい離れるまで見送り、その後被告人に背を向けて帰宅した旨供述しているところ、Kは、被告人が車に戻ってきたとき、被告人の側に、見覚えのあるI1がいた旨供述しているのであって、この点に関する両者の供述は相違している旨主張する。しかしながら、両者の供述は、この事実があったとされる九月二〇日から相当時間を経過した後になされたものであって、ある程度記憶違いがあってもやむを得ないものである上、前記のとおり、両者の供述の信用性を肯定する事情が多く認められることからすると、こうした供述の相違は、両者の供述の信用性を低めるものとはいうことができない。
また、弁護人は、その他、被告人から預かった紙袋の重量や、紙袋内のけん銃を認識した際の状況などに関するI1の供述についても、疑問があると主張するものの、弁護人指摘の点は、いずれも瑣末なものである上、必ずしも不合理といえるものでもなく、I1の公判供述の信用性に影響を与えるものではない。
結局、弁護人の主張するところは、いずれも、I1の公判供述の信用性を左右するものではない。
また、K1は、「九月二一日ころ、被告人が逮捕され、その一週間か二週間後の正午ころ、C党の事務所に被告人の弁護士から電話がかかってきた。自分の事件も担当した弁護士だった。弁護士が、「L1さんいますか。」と言ったので、二〇二号室にL1を呼びに行った。L1は電話に出たが電話の内容は聞こえなかった。L1から飲み屋の女の電話番号が書いてあるメモを見せてもらった。L1はその電話の内容を、後から事務所に来たKに話した。L1は、Kに対して、被告人の弁護士から、飲み屋の女に預けている被告人のものがあるから、それを処分するように頼まれたと話していた。メモは最終的にKが受け取ったが、Kも行くことができなかったことから、後から事務所に来たM1に、M1の知り合いの男の電話番号を聞いて、Kが電話をかけた。しかし、相手が留守だったので、Kの携帯電話の番号を教えて、折り返し電話をくださいと伝えた。」「飲み屋には誰も電話をかけていない。最終的に飲み屋に電話をかけたのは、第四の男だと思うが、自分は、見ていないから、行ったか行かないかは分からない。」「洗濯物を被告人の部屋に持っていったときに、けん銃を見た。サイドボードの上にサックに入れたけん銃があった。サックから取り出し、手に取ってみると、回転式のけん銃だった。被告人は、本物と言ったし、重かったから本物と思った。」などと供述しているところ、被告人の弁護士からの電話の内容やその後のL1やKのやり取りなどに関する供述は、いずれも具体的である上、その供述するところは一貫しており、弁護人の反対尋問にも揺らいでいないこと、K1に虚偽の供述をしてまで被告人を陥れるような事情は見当たらないことなどに鑑みると、K1の供述も基本的にはその信用性を肯定することができる。
これに対し、弁護人は、K1の右供述は、K自らがI1に電話をかけたとするKの供述と相反する内容になっている旨主張している。しかしながら、K1は、最終的に誰がI1に電話をかけたかについては認識していないのであって、Kが、何らかの事情でやむを得ず自分でI1に電話をかけたということも考えられないわけではないし、たとえ、K1の供述のとおり、KがI1の店の電話番号が記載されたメモを事務所に置いたままであったとしても、その折り返し電話をくれるよう伝えた相手からI1の電話番号を聞くなどして、I1に電話をかけることは可能であったといえ、両者の供述は必ずしも相反する内容とはいえない。むしろ、被告人が弁護士を通じてI1に預けた物の処分を依頼したという重要な点については、両者の供述は符合していることも考慮すると、この点に関するK1の公判供述の信用性は左右されない。
そうすると、これらの公判供述により、①本件発砲事件からそれほど日がたたない時期に被告人がI1にけん銃様のものを預けたこと、②被告人が、弁護士を通じ、I1に預けた物の処分を依頼したこと、③被告人が、本件発砲事件以前に、けん銃様のものを所持していたことが認められるが、これらの事実は、被告人の指示により本件発砲事件を敢行したとするKの捜査段階の供述を直接裏付けるものではないものの、被告人の本件発砲事件への関与を推認させる方向に働くものといえるし、Kの捜査段階の供述の信用性を補強し得るものといえる。
(六) 小括
以上の検討からすれば、Kの検察官調書の内容は、信用できる。
四 被告人の公判供述の信用性
被告人は、本件発砲事件について、Kに指示したことはないし、自分が所持していたけん銃は、本物ではなくモデルガンであって、それをI1やK1が本物と勘違いしたにすぎないと供述している。
しかしながら、被告人が本件発砲事件について指示していなかったとすれば、Kは自らあるいは被告人以外の何者かからの指示を受けて本件発砲事件を起こしたことになるが、前記のとおり、Kが自ら本件発砲事件に及ぶような事情は見当たらないし、被告人以外の何者かから指示されたような事情も認められず、被告人の供述は不合理である。
また、被告人は、モデルガンは、他の暴力団と交渉する際に使うために持っていた旨供述しているものの、一般人に対して示すのであればともかく、他の暴力団と交渉する際使うのであれば抗争を招きかねないことなどからすれば、被告人の述べる用途自体不合理であるし、本物のけん銃を見たことがあるI1やK1が、いずれも、本物のけん銃とモデルガンを勘違いしたというのは不自然である。
したがって、被告人の公判供述は信用できない。
五 結論
以上の検討からすると、Kの検察官調書の内容は信用することができるのに対し、これに反する被告人の公判供述は信用することができず、結局、信用できるKの検察官調書などの関係証拠によると、被告人が、Kに指示して、本件発砲事件を行わせたものと認めることができ、被告人には、銃砲刀剣類所持等取締法違反(発射罪)の罪の共謀共同正犯が成立するというべきである。
第五 判示第五の恐喝未遂について
一 弁護人の主張
弁護人は、被告人は、D、N、MらとB住職から金員を喝取することを共謀したことはなく、その実行行為を分担したものでもないから、無罪であると主張し、被告人もこれに沿う供述をするので、以下検討する。
二 特に争いがないか、容易に認定できる事実
関係各証拠によれば、以下の各事実は、特に争いがないか、容易にこれを認定することができる。
1 Nは、N石材店を経営し、A寺の墓地管理などを業務として行っていたが、平成四年、A寺から、N石材店が墓地を勝手に増設したり、本来A寺に支払われるべき墓地の永代使用料等を曖昧に処理しているなどの問題を指摘され、同年一二月ころ、墓地管理業務の委託を解除する旨伝えられた。これに対して、Nは、平成五年一月、A寺に対して営業妨害の禁止を求める仮処分を申し立て、同年一二月ころ、両者の間で相互に業務を妨害してはならない旨の和解が成立したものの、その後も、Nは、A寺から営業妨害を受けたとして、平成九年七月上旬ころ、営業妨害をしてはならない旨の間接強制の申立てをし、同年九月、A寺に対し間接強制決定がなされた。
なお、こうした中で、N石材店の売上は、平成二年度一億五四〇〇万円余、平成三年度一億四〇〇〇万円余、平成四年度八六〇〇万円余、平成五年度四九〇〇万円余、平成六年度六一〇〇万円余、平成七年度五四〇〇万円余、平成八年度五〇〇〇万円余、平成九年度二三〇〇万円余と、年々減少していった。
2 Mは、A寺に勤務する僧侶であったが、平成二年九月ころ、A寺から、住職に無断で戒名を付けてその料金を得るなどの不正を行っていたとして、本堂勤務という謹慎処分を受けた上、平成四年一二月ころ、謹慎処分後も態度の改善が見られないということを理由に同寺を解雇された。これに対し、Mは、平成五年一月ころ、A寺に対して地位保全を求める仮処分を申し立てたものの、却下され、平成七年ころには、本案の民事訴訟を提起したが、同年一二月ころ、MとA寺の間で、MがA寺の職員としての地位にないことを相互に確認し、A寺がMに退職金として六〇〇万円を支払う旨の和解が成立した。
3 しかし、N及びMは、右のようなA寺からなされた一連の処分等は、A1(なお、同人は、平成四年にA寺副住職となった後、平成七年に住職(代表役員)に就任し、その後Bと名を変更した。)が、A寺の住職の座に就き、同寺の実権を握るために、その障害となるN及びMをA寺から排除しようとしたものと認識していた。なお、NとMはもともと親しい関係にあった。
4 こうした経過の中で、N及びMは、顔を合わせては、B住職に対する悪口を言い合い、前記訴訟等も功を奏しないことが明らかになった平成九年ころからは、何とかB住職に対する恨みを晴らす方法がないかなどと話し合うようになった。そして、Mは、甥のN1を通じて知り合ったDをA寺との紛争を解決してくれる人物としてNに紹介したところ、Nが興味を示したため、D、N及びMは、平成一〇年九月下旬ころ、目黒通りにあるしゃぶしゃぶ料理店「O1」において、話合いを持った。
5 D、N及びMは、平成一〇年一〇月下旬ころ、地元であるY1商店街のフランス料理店に集まった。Nは、A寺とN石材店との確執などについて話した後、Dに対し、A寺から立退料を取れないだろうかと言った。Dは、全部任せてほしいなどと述べ、Nの右申出をいったんは了承し、Dの報酬については、A寺側から受け取る金員の半分ということになった。また、この際、Nは、Dに対し、港区所在のP1寺に対する七三〇万円の未収金の取立ても依頼し、Dはこれを引き受け、P1寺に対する取立てを行ったものの、警察沙汰になるなどし、Nも手を引くよう要請してきたため、これを中止した。
6 D、N及びMは、平成一〇年一一月下旬ころ、世田谷区奥沢のN石材店事務所に集まり、A寺に対する要求内容について話し合ったが、そのとき、N石材店がA寺の墓地の管理業務に復帰すること(以下、この要求のことを「N石材店の復帰」ということがある。)を要求するという話が出た。その後、D、N及びMは、A寺に対して要求していくに際し、Nが経費を、Mが情報を提供することに決めた。
7 Dは、右翼団体を作ってA寺に圧力をかけるため、C党を設立することとし、平成一〇年一二月中旬ころ、N所有のアパートであるF1にC党の事務所を構えることとし、街頭宣伝車の整備や看板の手配等した。その一方で、Dは、同年一二月上旬ころ、当時大阪に在住していた被告人に電話をし、C党に参加するように誘った。被告人とDは、ともに、大阪にある指定暴力団G2会H2組に所属していたが、H2組内における地位は、被告人のほうが上であった。
8 被告人は、平成一一年一月末ないし二月初旬ころ(以下年月日は特に表示しない限り、いずれも平成一一年である。)、上京し、Dの依頼によりNが用意したI2の一室に住んだが、春ころ、F1二〇五号室に移り住んだ。
9 Dは、一月一四日、東京都選挙管理委員会に名称をC党とする政治団体の届出を行ったが、Dは、自らを同党党首とし、被告人を最高顧問としていた。
10 Dは、一月二七日、Q1に、街頭宣伝車をA寺の駐車場に停めさせてほしい旨書かれた挨拶状と日本酒二本を持たせ、A寺に行かせたが、翌日、B住職の代わりの者が、断りの手紙と日本酒二本を返してきたため、B住職と接触することはできなかった。
11 Dは、二月ころから、覚せい剤はやめましょうなどと書かれたC党の機関誌「人の道」を通行人に配布したり、A寺の檀家に郵送するなどし、街頭宣伝車で軍歌やお経を流すなどの活動も始めた。
12 Dは、三月ころから、徐々に街頭宣伝活動を活発化し始め、四月ころからは、別紙のとおり、A寺周辺で軍歌などを流すばかりでなく、A寺筆頭総代Pや檀家総代Qの自宅や職場周辺で、同人らを誹謗中傷する内容の街頭宣伝活動を行うようになり、五月には、B住職の妻Oの実家である秋田県北秋田郡阿仁町において、B住職やOを誹謗中傷する内容の街頭宣伝活動も行った。その他、Dは、C党のホームページを開設してその中にB住職らのことを記載したり、A寺境内に「銃器の持ち込みはやめましょう。」等と記載された看板を設置するなどして、B住職らに対する嫌がらせを行った。
13 こうした度重なる街頭宣伝活動等の嫌がらせに困ったB住職は、高校時代の同級生であったUに、その解決策について相談したところ、力のある右翼であるとして、R1を紹介され、同人にC党との仲裁を依頼することとした。
14 これを受けて、R1がC党について調べたところ、J2組を破門された指定暴力団G2会H2組に所属する者が関与していることが判明したため、R1は、まず、以前J2組K2組L2組組長であったS1にC党との交渉を依頼した。右依頼を受けたS1は、四月中旬ころ、D及び被告人と会い、金銭的解決を持ちかけたが、Dがこれに応じなかったため、交渉は失敗に終わった。
15 そこで、R1はS1に代わって、J2組直参のT1にC党との交渉を依頼した。T1は、この依頼を引き受け、五月中旬ころ、Dと会い、同人に対して、五億円を出すから手を引けなどと言ったものの、Dが、これに応じなかったことから、結局交渉は失敗に終わった。
16 他方、B住職は、五月二九日には総代会を開き、Uの関係者にC党との交渉を依頼し、Nの所有ないし管理にかかる物件をすべて処理するのに、C党に一〇億円を支払うということについて、檀家総代らの了承を得た。しかし、その後、B住職は、R1からT1を通じての交渉が失敗に終わったことを知らされた。
17 こうして、S1及びT1を通じての各交渉がいずれも失敗に終わったため、R1の事務所に勤めていたU1の提案により、B住職は事態収拾のためDと直接会うこととし、六月三日、A寺開山堂において、U、U1同席の下、話合いを行った。その席において、Dは、B住職に対して、N石材店の復帰、MへのV1寺(共同墓地)の譲渡、Qの自宅敷地部分のセットバック及び檀家総代の解任、Pの筆頭総代の解任等を要求したが、いずれも断られ、他方、B住職は、N所有ないし管理にかかる桶小屋、住居、アパートなどすべてを一〇億円で買い取るという条件を提示したが、Dは即答しなかった。
18 Dは、六月四日、U1に対し、A寺に、Nに対する墓地立ち退き料や墓地内の建物・事務所・倉庫・作業場に対する権利放棄費用などの名目で合計一七億円を要求するなどの内容の「お知らせ」と題する文書を渡した。U1が、翌日、これをB住職に渡したところ、B住職は、記載内容が六月三日の交渉の結果と全く異なっていることに怒りを覚えたものの、思い悩んだ挙げ句、いったんは、N石材店の所有ないし管理にかかる土地建物を買い取った上、C党及びN石材店との債権債務関係がないこととすることを条件に、一五億円でC党と交渉することをUを通じてU1に依頼した。これを受けて、U1は、Dに対し、二億円まけてもらえないかなどと話し、その数日後、六月一一日に、再びB住職と会ってほしいなどと言った。
19 しかし、B住職は、A寺の警備に当たっていた警備会社の社長、弁護士、A寺檀家総代らと相談の上翻意し、六月一〇日、Uに対し、Dとの話合いには応じない旨告げた。
20 六月一一日、B住職との会談が中止になったことを知ったDは、被告人とともにR1事務所に行き、R1を問い詰め、同人に対し、B住職との面談の場を再度設定するよう求めた。
21 その後、Dは、街頭宣伝車の数を増やし、別紙のとおり、A寺周辺、B住職の実姉であるT方周辺、秋田のOの実家周辺で、激しい街頭宣伝活動をするようになり、ビラの内容も、B住職やOらの誹謗中傷を含むより過激な内容のものになった。
22 Dと被告人は、七月二二日ころに、R1事務所を訪れ、R1に対し、六月三日にB住職とC党の間で合意した事項は、立退料、建物などの権利を放棄する費用あわせて一五億円であること、Pを筆頭総代から解任すること、V1寺をMに譲渡することであるところ、R1事務所の仲介を尊重して八月一六日まで待つことなどと記載された文書を渡した。また、被告人は、R1に対し、帰り際に、「これはもう決まっている約束事ですから約束は守ってください。」などと言った。
23 Uは、八月一三日、Dから呼び出しを受けたため、R1事務所のW1と一緒にC党事務所を訪れた。その後、同月一四日及び一八日にも、Uは一人で、C党事務所を訪れた。
24 Uは、八月二三日及び二五日に、A寺を訪れ、B住職との面会を求めた。
25 被告人は、X1に声をかけ、八月二九日及び九月五日、多数の暴力団関係者と見られる者とともに、A寺境内を歩き回った。
26 被告人は、平成一一年九月、R1が入院している病院を二回訪れ、R1に対し、「できるだけのことはせいよ。納得できることはせな許さんぞ。ただし、これはDの仕事やから、支払方法についてはDと話しせい。このまま見逃すことはできんから、お前入院してようが何してようが関係ない。殺すぞ。」などと言った。
27 被告人は、Dから、五月の連休時に五〇万円、六月の韓国旅行に出発する前に一五〇万円、六月末帰国時に一〇〇万円、その他の機会に、たびたび二〇万円、三〇万円程度の金員を受け取っていた。
三 共謀の有無とその内容及び成立時期
これらの事実を前提に、以下、本件の争点である共謀の有無とその内容及び成立時期について検討する。
1 D、N及びMの共謀
(一) Dの供述要旨とその信用性
(1) Dの供述要旨
ア Dの捜査段階の供述要旨
Dは、捜査段階において、検察官に対し、要旨以下のとおり供述する(甲一五九)。
私は、Mから、A寺の住職に寺の墓地から追い出されて困っている石屋がいる、住職は一切話合いに応じない態度を示しているので、何とかしてやってくれないかと仲裁を依頼された。そこで、私は平成一〇年九月初旬ころ、MとともにN石材店事務所に行き、Nと会った。このとき、Nは、簡単にN石材店とA寺の権利関係等の話をしたが、あまり詳しい話ではなかった。Nは、私に対する警戒心があったようだった。
私は、同月二四日ころ、「O1」で、M、Nと三人で会った。私は、Nに対し、「私に任せるのであれば、全部任せてもらう。自分を信用してくれれば、問題は全部解決する。安心して任せてくれ。」などと言ったが、Nはまだ私に対する警戒心が取れない様子で、A寺とのトラブルの内容はあまり詳しく聞けなかった。私は、同年一〇月二三日ころの夕方、Y1商店街のフランス料理店で、M、Nと会った。Nは、私にすべてを任せる決意をしてきたのか、「これまでN石材店は、A寺と墓地管理業務委託契約を結び、墓地の管理業務をしてきた。ところが、B住職は、先代住職が入院した後、他の実力のある僧侶や古い付き合いのある葬儀屋、石材店などの出入り業者を追放し、新しく入れた業者からリベートを取っている。N石材店に対しても一方的に「墓地管理業務契約を解除する。」と通告してきた。A寺の墓はN石材店がすべて独占管理してきて、管理料、墓石等の販売などで年間八〇〇〇万円の売上げがあったのに、これが全部だめになりそうだったので、A寺に対して営業妨害差止の裁判を起こし、営業権を確保した。しかし、A寺側はその後も様々な妨害をしてきたことから、檀家で「Y1を考える会」を結成して抵抗したが、営業妨害がエスカレートし、檀家に対して「N石材店とは手を切れ。」などと言い、新しく入った石材店に仕事を流してしまった。A寺から立ち退くにしても立退料を取らなければ納得できない。立退料を取れないだろうか。」などと話してきた。Nが今収入がないので報酬を出せないなどというので、成功報酬として立退料の半分をもらうと言い、Nの話を受ける旨答えた。Nが経費も今すぐ出せないというので、すぐに金の取れそうな案件はないのかと聞くと、Nは、P1寺の修復工事代金七三〇万円が未払いになっているなどという話をしてきた。Nは、このほかにもA寺に絡む案件をいくつか言っていたが、私は、手始めにするにはA寺以外の案件がいいだろうと思い、P1寺と交渉することにした。
私がP1寺の件から手を引いた同年一一月中旬以降、A寺に対する要求の話に移り、私、N、Mの三人は、同月下旬ころ、N石材店事務所に、何度か集まり、A寺に対する要求の確認やその方法などについて協議した。同月二〇日ころ、私、N、Mの三人でN石材店事務所で話し合った際、Nは、私に、「A寺は、自分を追い出したいらしいが、立退料をもらわないと出ていけない。弁護士どうしで話し合っており、五〇〇〇万円と言っているが、そんな額では話にならない。」と言うので、いくらなら出て行くのか聞くと、Nは「三億から五億は欲しい。」と言った。私がA寺にどれくらい金があるのか聞くと、Nは「前の住職のときに、裏金を作るのに協力した。そのとき、二〇億くらいになったはずだ。今はもっとあると思う。」と答えたので、私は、A寺は三〇億くらいは持っているから、一〇億くらいは出せるだろうと思った。私がNに、「じゃあ、立退料は一〇億にしよう。報酬は折半だ。」と言うと、Nは、「はい、それでお願いします。」と言った。私は、A寺に対する要求に当たり、私のこれまでの稼業上の経験を生かしてB住職などに圧力をかけることを考えており、NやMも、そのことを期待して私にA寺との交渉を依頼してきていることは分かっていた。しかし、やるにしても、一〇億円を正面から要求したら恐喝で警察に捕まる、過去に川崎で労災保険の補償金の請求を弁護士を通じて要求したのに、恐喝でパクられたという事件があったが、あれを恐喝というなら、自分のやることは間違いなく恐喝になってしまう、自分ももう五〇歳だから、手が後ろに回りたくないと思った。それで、私は、Nを復帰させるということも前に出したらどうかと思った。立退料として一〇億円取れれば、それはそれでいいし、NとA寺との関係を昔に戻すことがもしできれば、Nと業務提携して一緒に墓地の管理や造成販売などの仕事をし、将来にわたって安定した収入が得られるとも考え、それはそれでおいしい話だとも思った。G2会の看板を出せば、他のやくざも金のにおいをかぎつけて寺側についたり、仲介してきたりしてややこしくなる、そうなると警察も黙ってないだろうと思い、右翼団体を作って街頭宣伝活動でB住職に圧力をかけて交渉の場に座らせようと思った。私は、同月二五日、N石材店事務所で、N及びMと会って、私の考えを伝えた。その際、私は、Nに「A寺にNさんが復帰するのはどうなんだ。」と聞くと、Nは、「昔に戻れればそれはそれでよい。」と答えたので、私は、「じゃあ、Nさんの復帰も要求して、それがだめなら、立退料一〇億ということでどうだ。」ということにした。そして、私は、Nに「右翼団体を作って、A寺やB住職、檀家総代を街宣活動で攻撃して圧力をかける。そうすれば、B住職も話合いに応じるだろう。住職をほめ殺しでもするか。」などと言ったところ、Nはそりゃいいですねなどと乗り気な様子だった。
イ Dの公判供述の要旨
これに対し、Dは、公判廷において、要旨以下のとおり供述する。
私は、Mと知り合ってほどなく、Mから、Nを紹介された。A寺の墓地管理をしていたが、A寺から嫌がらせをされて、追い出されそうになっているということだった。平成一〇年秋ころ、N石材店事務所にMと一緒に行き、Nと会った。Nから、A寺の愚痴を聞かされたが、具体的な話はなかった。私は、九月二四日ころ、「O1」でN、Mと会った。A寺とは別の寺の話をしたように思うが、全部任せてもらうという話をした。Nに、P1寺に墓地の造成費として七〇〇万円の未収金があるから、取り立ててほしいと依頼されたが、A寺絡みの未収金の取立ては依頼されなかった。
私は、一〇月ころ、フランス料理店でN、Mと会った。Nは、A寺とのトラブルについて詳しく話し、三代にわたって寺の墓番をやっていたが、A寺から一方的に追い出されようとしている、墓地管理業務委託契約などないのに、それを解除したと突き付けてきた、住職が嫌がらせをするので、年間一億六〇〇〇万円あった売上が二〇〇〇万円に減った、二〇〇〇基くらいの墓を管理していたのに、それが五分の一くらいにまで減り、経営が苦しくなったと言っていた。Nが、A寺のほうは弁護士に五〇〇〇万円から八〇〇〇万円くらいは出してもいいと言ってきているが、それでは納得がいかないと言うので、私は、もう少し多く取れればいいんじゃないか、最低でも五億円か一〇億円は取れるんじゃないかという話をし、立退料が取れた場合には、報酬は折半にしようと言うと、Nもこれを承知した。
P1寺の件が終わった一〇月か一一月ころ、私は、N石材店事務所で、M、NからA寺に関する問題について相談された。Nは、興信所の資料を見せながら、B住職の愚痴を言っていた。MがA寺から追い出されたという話も既に聞いていた。一一月が終わる前に、Nから、A寺が提示している五〇〇〇万円ないし八〇〇〇万円では納得できないと聞かされた。Nは、立退料として三億円から五億円はほしいと言っていた。Nからは、先代の住職のときに裏金を作るのに協力したから、A寺には二〇億円くらいあると聞いた。私は、三億円から五億円取るためには、一〇億円は要求する必要があると考えたので、その旨話し、さらに一〇億円取れたら、報酬は折半にしようと話した。
A寺に立退料一〇億円を要求しても、下手すれば恐喝になるだろうし、自分の知り合いにも、川崎で同じような件で恐喝で捕まっているのがいた。また、Nを復帰させた場合、私がNの仕事を共同でできるようになれば、毎月金が入ってきて自分も安定するのでプラスになるなどと考え、立退料として一〇億円を請求するのをやめ、N石材店の復帰を要求する方向でいくこととし、Nにも一〇億円請求しても恐喝で捕まったらどうにもならないから、復帰したほうがいいと話した。N石材店が復帰できた場合には共同で事業をし、上がった利益を分けてもらうということになった。N石材店を復帰させるための方法としては、政治団体を作ってA寺に圧力をかけることを考えており、NとMに対し、その旨伝えたところ、二人は、復帰できればそれが一番いい、是非やってくださいなどと言った。平成一〇年秋当時、Nは、桶小屋の立ち退きに関して弁護士を立てて交渉していたが、私は、復帰もできないことはないと考えていた。
(2) Dの供述の信用性
ア Dの捜査段階の供述の信用性
Dの右各供述の信用性を検討するに、右検察官調書は、D、N及びMの三者間で、立退料名目で一〇億円を要求する旨の合意が成立する過程についてその会話やその際の心情等が、詳細に述べられており、特段不自然、不合理な点は認められない。例えば、Dは、立退料を正面から要求すると恐喝として検挙されるおそれがあることから、N石材店の復帰を前面に出し、それが拒絶された場合に立退料を要求しようと考えた旨述べるが、この点に関するDの供述は、Dの述べる自分の経験してきた事柄との対比を考えても了解可能なものであるし、Dが必ずしも正確な法律知識を有していないということを前提とすれば、N石材店の復帰を要求した場合であっても強要罪が成立する可能性があるということを認識していなかったとしても不合理ではない。また、右三者間で合意が成立した経緯や話合いの際の会話内容に関するDの供述は、その日時や場所などについて、若干食い違う部分もあるものの、三者間で合意が成立するに至った基本的な流れは、NやMの各検察官調書の内容とも符合している(Mの供述内容には、Dと同様、特段不自然、不合理な点は認められないし、Mが、自ら進んで本件合意に関与したことを認め、その果たした役割についても詳細に供述していることも併せ考えると、Mの検察官調書は、その信用性を肯定できるし、基本的に、Nの検察官調書が信用できるのも、後記のとおりである。)。さらに、Dの検察官調書には、Dが、N石材店の復帰を前面に出し、それが拒絶された場合に立退料を要求しようと考えた理由について、過去に川崎で労災保険の補償金の請求を弁護士を通じて要求したのに、恐喝でパクられたという事件があったなどと、Dから進んで供述しない限り捜査機関において知り得ないような事実も記載されていることからすると、Dの検察官調書は、Dが自己の記憶に基づいて任意に供述したことを録取したものと認められる。
これに対し、弁護人は、①DやMは、各検察官調書において、右三者間で、B住職に対して一〇億円の立退料を要求する旨の合意をした後に、N石材店の復帰をも要求することをもちかけて、同店の復帰を要求し、それが拒絶された場合には立退料を要求するという合意が成立した旨述べているのに対し、Nは、検察官調書において、右三者間で、N石材店の復帰は諦め、B住職に対して一〇億円の立退料を要求することを合意した旨述べており、本件事件の発端であり、また、核心でもあるN石材店のA寺に対する要求内容についての供述が矛盾している、②Dは、検察官調書において、C党を結成したのは、G2会の看板を出せば、他のやくざも金のにおいをかいで寺側についたり、仲介してきたりしてややこしくなる、そうなると警察も黙っていないだろうと考えたからである旨述べているのに対し、Nは、この点、検察官調書において、天下のA寺との戦いになるから、下手に動くことはできないので、右翼として正面から寺を攻めるためである旨述べているのであって、A寺に対する要求を実現する手段としての右翼団体の結成目的という重要部分についての供述が矛盾しているなどと主張する。
しかしながら、①について、D、N及びMの捜査段階で供述する要求内容については、何度かの話合いの中で立退料の要求とN石材店の復帰という二つの事項が話題にのぼったことは合致しており、これらの事項が要求内容となったという点でも共通するところがある上、他方で、D、N及びMは、それぞれ異なる経歴、社会経験を持ちながら、A寺側から多額の経済的利益を引き出そうとの点で意思を一致させたもので、それまでの同寺との関わりの濃淡に応じて、決着のつけ方に異なった見通しを持っていたとしても不自然ではないし、同寺相手の交渉に着手もしていない段階では、右最終合意の内容について、各自の思惑に従っていくぶん異なった受け止め方をしたとしても不合理とはいえない。また、②についても、Dから説明を受けた内容としてNが捜査段階で述べるところは、抽象的なものにとどまり、Dの供述と必ずしも矛盾するものとはいえないし、Dが、Nに対し、C党を結成する目的について前記のとおり説明することで、Nが、怖じ気づき、A寺に対する交渉を中止してほしいと言い出すのを避けたいなどと考えて、抽象的な説明にとどめたとしても不合理ではないのであるから、いずれにしてもDとNの検察官調書における供述内容が矛盾するとはいえない。
また、弁護人は、③Dが、平成一〇年一一月の時点で、NやMとの間で、B住職に対して、立退料を要求する旨合意していたのであれば、それ以降、具体的な金額を提示して、金銭的解決を前提とした行動をとっているはずであるのに、Dは、六月四日、「お知らせ」と題する文書で一七億円を要求するまで、そうした行動を取っていないし、S1から金銭的解決を持ちかけられた際にも、さらには、T1から五億円という相当額の金員を提示されて、手を引くように言われた際にも、一貫して「N石材店の復帰要求が目的であり、金の問題ではない。」としてこれを拒否しており、DがA寺に対して一次的であれ、二次的であれ、一〇億円の立退料を要求する目的であったことと矛盾する対応を採ったことは明らかであるから、Dらの間で、B住職に対して、立退料を要求する旨の合意が成立していたとするDの検察官調書の内容は信用できないと主張する。
しかし、前記二で認定のとおり、Dは、六月三日にB住職と会うまではB住職に対してN石材店の復帰や金銭の支払を要求する機会がなかったものである上、六月三日にB住職にN石材店の復帰等の要求をしたものの、B住職からこれを拒まれ、金銭による解決を提示されると、これを拒否することなく、翌日に早速一七億円の支払などを求める要求に変更しており、弁護人指摘のT1からの金銭による解決の申出からそれほど時間の経過していないところでDがこうした行動に出ていることなどからすると、DとN及びMのA寺に対する要求がNの復帰等であって立退料などの金銭の支払を求めるものではなかったとするDの公判供述は不自然・不合理であり(なおこの点を含めてDの公判供述が検察官調書の内容と対比して信用できないことは後で詳述)、いずれB住職に金銭の支払を求める目的があったとするほうが自然であるし、また、こうした事実関係とDがNやMからA寺には二〇億円から三〇億円の金があると聞いていたことなどからすると、DがT1の金銭による解決の申出を断ったのも、より多くの金額を望んでいたからであったとしても不自然ではない。DがT1の金銭による解決の申出を断ったことは、平成一〇年一一月の時点で、DがNらとの間で、B住職に対して立退料を要求する旨合意していたとするDの検察官調書の信用性を否定するものではない。さらに、六月四日の「お知らせ」と題する書面による要求まで、Dが具体的な金銭の支払を要求するような行為に出ていないことも、前記のとおりそもそも六月段階までDがB住職に具体的な要求をする機会がなかったことや、前記の事実関係からすると、Dは、B住職に対し金銭の支払を要求するに当たって、恐喝罪の責任を問われる可能性があることから策を講じ、右翼団体を設立するなどして街頭宣伝活動等をまず行って、A寺の出方を見極めていたものと考えられることなどに照らせば、この点も平成一〇年一一月の時点で、DがNらとの間で、B住職に対して立退料を要求する旨合意していたとするDの検察官調書の信用性に疑問を生じさせるものではない。この点でのDの検察官調書の信用性がないとする弁護人の主張は採用できない(なお、弁護人は、R1が、T1から、Dとの交渉経過について聞いた内容として、T1が五億円での解決を提示したのに対して、Dが「寺には三〇億か四〇億の金があるのは確実なんです。八月一六日にある「お面かぶり」の行事まで街宣をやらせてください。お面かぶりは寺にとって大事な行事だから、ここまでやれば住職は参って、三〇億でも払うといってきます。もう少し、やらせてください。」などとして、これを断った旨供述している点については、R1の供述は、Dが立退料名目でA寺から三〇億円を取る旨の発言をしたことを立証趣旨とすると、再伝聞供述であり、証拠能力に問題があるほか、供述内容の信用性についても、R1からUないしUを介してB住職に伝えられたT1とDとの交渉に関する報告には、明らかに虚偽の事項が多数含まれていること、R1からC党の街頭宣伝活動の中止ないし退去の交渉依頼を受けたものの、これをまとめることができなかったT1が、DがN石材店の復帰を理由に金銭的解決を拒否したことを報告する代わりに、過大請求をした旨の虚偽の報告をした可能性があることなどから、R1の供述を信用することはできない旨主張しているので付言しておく。まず、R1の供述は立証趣旨との関係では再伝聞にあたる内容を含むものの、弁護人の同意がある以上、証拠能力には問題はないと解される。そして、その信用性についても、R1の供述は、T1との会話内容が事細かに述べられている上、その内容も具体的であって、R1がT1から聞いたことをそのまま述べたものと考えられるし、また、Dが、前記のとおり、現実にB住職に対して一七億円を要求していることや、Nらから、A寺には二〇億円から三〇億円あると聞いていたことからすると、このような発言をしたとしても必ずしも不自然ではない。弁護人は、T1が、R1に対し虚偽の報告をした可能性を指摘するが、仮に、DがN石材店の復帰を理由に金銭的解決を拒否したため、交渉が決裂したとしても、T1とすれば、それをそのままR1に伝えればよく、あえてDが過大請求をしたなどとして虚偽の報告をする必要はないし、そのような虚偽の報告をするのに、DがいったんはT1の申出を受け入れ、街頭宣伝活動の中止と墓地内にあるN石材店の作業所などの権利放棄を条件に五億円で解決することを承知したということまで述べる必要はない。また、R1からUを介してB住職に、DとT1の交渉内容が伝えられる過程で、R1やUが実際に、T1とDの交渉の場に立ち会っていなかったことから、相互に意思の疎通が図れず、結果として相互の供述に相違する点が生じたとしても、それほど不自然とはいえない。弁護人の指摘を考慮しても、R1の供述は、信用できるものといえる。)。
さらに、弁護人は、④あらかじめ、D、N及びMの間で予備的(二次的)にせよ、一〇億円の立退料を要求する合意が成立していたのであれば、六月三日のDとB住職との話合いの場において、B住職から一〇億円を支払って金銭的解決を図る案を示された際、Dとしては、その必要がないのに、改めてNと協議し、同人の了解を取っていることも不可解である旨主張している。
しかしながら、Dとしては、B住職から金銭的解決を図る案を提示された際、Nらとの間で立退料の要求をすることになっていたとしても、金額やその他の条件などについてより有利な内容の要求を通すため、いったんはその場を引き取り、改めて内容を検討してB住職に要求するのは自然なことであり、その際、明渡しなどを求められるNに要求内容を相談して了解を得ることも自然であるといえる。
以上の検討からすると、Dの検察官調書は信用できる。
イ Dの公判供述の信用性
これに対し、Dの公判供述は、D、N及びMの三者間において合意したのは、B住職に対して、N石材店の復帰を要求するということであって、立退料の要求ではないというものである。しかしながら、以下に述べるとおり、Dの公判供述は信用できない。
まず、これまでのN石材店とA寺との紛争経緯からすれば、平成一〇年一〇月ころには、既にN石材店の復帰の要求をA寺が受け入れることは客観的には難しい状況にあったと認められるところ、NやMから右紛争経緯を聞いていたDとすれば、そのことは容易に理解できたことである。また、Dは、B住職との交渉を進める際、政治団体を作って、圧力をかけることを考えていたとするが、そもそもN石材店がA寺に復帰するためには、A寺と良好な関係を継続していくことが前提となるのであるから、右のような行動に出てしまえば、B住職とのN石材店の復帰を目的とした交渉が成功する可能性が低いことは自明であることや、Nが、弁護士を通じて、N石材店の桶小屋等の明渡しを前提として、A寺と立退料の交渉を行っているにもかかわらず、NもDもこの交渉を中止するなどの行為に出ていないことも併せ考慮すると、右三者間でN石材店の復帰を要求することで合意したとするDの公判供述は、不合理である。Dの公判供述を前提とすれば、Dは、六月三日のB住職との会談の際に、B住職からN石材店の復帰を断られたことで、すぐに立退料要求の交渉に切り替えたことになるが、初めて実質的な交渉に入った段階で、B住職から、N石材店の復帰要求を断られたからといって、Dが直ちにそれを受け入れ、Nに復帰は無理であると告げ、立退料を要求することを提案したというのも不自然である。
右三者間で合意していたのは、B住職に対し、N石材店の復帰を要求することであるとする供述は、恐喝の犯意を否定するものであり、そうした意味で、Dの供述は自己の刑事責任を軽減する方向に変遷しているところ、Dは、その理由について、検察官が、警察官調書の内容を認めず、検察官調書を作成し、その訂正を申し立てたが同意しなかった、裁判になれば警察官調書も証拠として出ると思ったし、面倒なので署名指印した旨述べるが、警察官調書においても、N石材店の復帰、それができないときには立退料一〇億円の獲得が目的であった旨記載がある上、そのような記載があることについて、Dが、弁護人から尋問された際にも、それは私のミスですなどと供述するのみで何ら具体的理由を明らかにできていないことなどからすると、信用できないといわざるを得ない。
さらに、Dの公判供述は、全体的に曖昧で、信用できるMやNの検察官調書の内容と食い違う部分も多い。
これに対し、弁護人は、Dが、Nから、従前のN石材店とA寺間の紛争の経緯及び交渉の経緯について、説明を受けていたとしても、この紛争はA寺もN石材店もいずれは解決を図らざるを得ない問題であること、立退料として一〇億円を要求することも、恐喝となる点を措くとしてもその実現が困難であること、N石材店のA寺への復帰による解決についても、A寺側からすれば、一〇億円を支払わなくても済むし、N石材店側としても、N自身の墓地管理業務等への復帰にこだわるのではなく、Nは引退しその息子に跡を継がせるとか社名を変更するなどの形で譲歩することが可能であることなどからすれば、方法如何によってはN石材店の復帰という解決も可能であると考えたとするDの公判供述もそれなりの合理性を持つと主張する。
しかしながら、前記のとおり、A寺は、N石材店が不正な行為を行ったとして、同店との墓地管理業務委託を解除したもので、その後のA寺とN石材店との確執も考えれば、仮に、N本人が引退し、その息子が跡を継いだり、あるいは社名を変更したとしても、その実質に本質的な変更がない限りは、B住職がN石材店の復帰を了承する可能性は低かったものと認められる。また、一〇億円は確かに多額ではあるものの、A寺側からすれば、N石材店の復帰という形で解決を図ったとしても、その後も様々な問題が生じかねない上、最悪の場合には、C党がN石材店、さらにはA寺に居座る口実を与えかねないのであるから、それよりは、C党及びN石材店に対し一〇億円を支払って今後の関係を一切断つという解決方法を選ぶほうが得策と考えるのが自然である。そして、Dのこれまでの経験やNから聴取していた事項などを総合すれば、Dは、平成一〇年一一月の時点で、当然こうしたことを認識していたものと推認できるのであるから、三者間でN石材店の復帰のみを要求することで合意したとするDの公判供述は、弁護人の前記の主張を考慮しても、不合理であるといわざるを得ない。
また、弁護人は、D、N及びMの間で、B住職に対して、N石材店の復帰を要求することで合意していたとしても、N石材店の立ち退きが切迫している状況になかったことから、Dが、Nが弁護士を通じて立退料の交渉をしていることに気を留めなかったとしても不自然ではないし、Nは、従前の民事裁判や弁護士による交渉に不信感を抱いて、DにA寺との紛争の解決を依頼したのであるから、Nが、弁護士を通じた立退料の交渉を度外視し、これを中止したり、確認したりすることをしなかったとしても右合意の存在と矛盾するものではないなどと主張する。
しかしながら、前記二で認定したN石材店の売上げの減少が示すとおり、N石材店にとって、A寺が墓地管理業務委託を解除するとしてきたことは、事実上N石材店の経営を困難にするものであったといえるし、それまでの民事訴訟の経緯を知悉しているNの弁護士が、A寺側の弁護士との間で、立退料を支払う旨の要求に絞り、かつこの支払に関する交渉を成立させる可能性も十分にあったものといえ、DやNが、Mも含めた三者間で、B住職に対して、N石材店の復帰を要求していくことのみで合意していたとすれば、それと本質的に矛盾する右交渉の行く末について無関心であったことも、また不信感を抱いている弁護士による交渉を放置しておくことも考え難いところであり、DやNの右対応は、やはり右三者間でN石材店の復帰のみを要求することで合意していたということと矛盾するものといえる。
さらに、弁護人は、六月三日のB住職との会談後に、右三者間で当初合意していたN石材店の復帰から、立退料要求に方針を転換したことに関するDの説明は、Dが一貫して、S1やT1らの金銭的解決の申出を断っていることや、Dが、六月四日の「お知らせ」と題する書面で一七億円を要求するまで、第三者を介しても一切金員の要求をしていないこととも合致しているし、Dが、六月三日の右会談において、B住職を説得し、N石材店側の復帰の条件として、Nの引退、社名変更等の譲歩案を示してB住職を説得したものの、B住職からN石材店の復帰を拒否された際、そこにはA寺とN石材店との因縁のような自分の理解を超えるものがあったなどと供述していることに照らしても、首肯でき、Dの方針転換はそれなりの合理的な事情に基づくものであると主張する。
しかし、前記のとおり、DがS1やT1らの金銭的解決の申出を断ったのも、より多くの金額を望んでいたからであったとしても不自然ではないし、六月四日の「お知らせ」と題する書面まで、Dが具体的に金員を要求するような行動に出ていないことも、特に不合理不自然ではないのであるから、こうしたDの行動は、右三者間で、B住職に対してN石材店の復帰を要求することのみを合意していたことを裏付けるものでもない。また、仮に、Dの公判供述のとおり、右三者間で、B住職に対して、N石材店の復帰のみを要求する旨の合意が成立していたとすれば、実質的に初めての交渉の場であった六月三日、B住職からN石材店の復帰を断られたとしても、引き続き、N石材店の復帰に向けた交渉を継続していくのが自然であって、そうした合意を前提としながら、Dがすぐに立退料要求に方針転換したというのは、不自然かつ不合理であるといわざるを得ない。
加えて、弁護人は、Dは、自己の公判廷においても、NやMとの間の合意の内容について、当公判廷と同様に供述している旨主張するが、前記のとおり、Dの公判供述は不自然不合理といわざるを得ないのであるから、それに符合する供述が存在するからといって、Dの公判供述の信用性が高まるというものでもない。
以上によれば、Dの公判供述は信用できない。
(二) Nの供述要旨とその信用性
(1) Nの供述要旨
ア Nの捜査段階の供述要旨
Nは、捜査段階において、要旨以下のとおり、供述する(甲一五七)。
私は、平成一〇年九月下旬ころ、Mと一緒に「O1」で、Dと初めて会った。Mは、私に代わって、これまでのB住職とのいきさつを説明したが、既にDに対してある程度の説明をしていたようで、詳しく言わなくともDは分かっているような様子だった。このとき、Mも、「N石材店の件だけでなく、私のこともあわせて解決してほしい。」などと言っていた。Dは、「私が乗り出した以上、すべての問題を任せてくれ。もう心配はいらない。安心してくれ。」などと力強く言ってくれた。このとき、私はまだ迷いがあり、Mに「Dは普通の人ではないよね。」などと言ったが、Mは、「大丈夫だよ。」などと答えた。
この数日後、私は、Mから連絡を受け、Y1商店街にあるフランス料理店で、Dと会った。このとき、私は、Dにすべてを任せる決意をしていたので、これまでのいきさつについて、「住職のA1は、先代の住職が病気のため執務できなくなると、寺の改革を名目に、A1の邪魔になるような僧侶や私を寺から追い出した。墓地の中での花や線香の販売を妨害されている。裁判で勝ったのに、A1が相変わらず嫌がらせを続けており、これをやめさせる有効な手段がない。墓地内の桶小屋の立ち退きを迫られている。」などと話した。私が、Dに、謝礼を支払えない旨言うと、Dは、「すべてを任せてください。謝礼は、住職から取る金の半分をいただきます。」などと言ってきたので、私は、これを承知した。そして、手始めに、私がP1寺に持っていた七三〇万円の未収金の取立てをDにやってもらうことになった。このほかに、私のA寺に対する債権についても、Dに取立てを依頼した。
平成一〇年一一月下旬ころ、Mから連絡があり、DとMがN石材店の事務所に来て、A1から金を取る話を具体的にした。Dが「もう一度、A寺に戻りたいのか。」等と聞いてきたので、私は、「できればまたA寺で仕事をやらせてもらえれば一番いいとは思っています。」などと答えたが、本音を言えば、無理なことはよく分かっていた。Dは私の気持ちを見抜いているかのように「寺が復帰を認めず、N石材店のA寺の土地からの撤退を迫ってきたらどうするんだ。」などと言ったので、私は、「もちろん、ただで立ち退くわけにはいきません。今、弁護士に桶小屋の立ち退き問題で交渉してもらっています。その弁護士は、数千万円程度の立退料の話をしているようですが、私は、そんな金額では納得できません。少なくとも三億から五億はもらいたいと思います。」などと答えた。桶小屋だけでそれほどの価値があるわけはなく、法外な要求であることは分かっていたが、私の気持ちの中では、それくらいの金をA1からふんだくってやらないと気が済まないという思いだった。それに、私は、噂で、A1と前の奥さんが離婚したときに、奥さんに三億円の慰謝料が支払われたと聞いていた。また、私は先代の住職の奥さんがMの奥さんに「裏金が二〇億はある。」と言っていたとMから聞いたことがあったので、五億円くらいの金をもらってもどうということはないと思っていた。Dは、「寺にはそんなに金があるのかい。」と聞いてきたので、「先代の住職のときに、裏金が二〇億あるとMの奥さんから聞いたことがありますよ。」などと答えた。DがMに確かめると、Mも、これを肯定した上、「今だったら、三〇億か四〇億はあるんじゃないですか。」などと答えた。このような話をした数日後の一一月二五日ころ、DとMがN石材店事務所に来て、Dが真剣な様子で、「Nさん、お寺に戻るのが無理だということだから、寺からは立退料ということで五億もらおう。俺の取り分も同じで五億もらう。あわせて一〇億を住職からもらうことにしよう。」と言い出したので、私は「それでお願いします。」などと言った。Dは、「天下のA寺との戦いになるから、下手に動くことができない。右翼として正式に届けて正面から寺を攻めよう。そのためには、いろいろと経費がかかるがNさんに何とかしてほしい。」と言ったので、「分かりました。」と答えた。このとき、Mも「Dさんがそこまでやってくれるのであれば心強い。私もお寺の情報を提供する。」旨言い、このとき、私、D及びMの三人は、協力して、A1から合計一〇億円を取ることを決めた。
イ Nの公判供述要旨
これに対して、Nは、公判廷において、C党を設立する前の時点では、Dとの合意の内容は、B住職に対して、N石材店の復帰を要求するというものであって、その後、R1が仲介に入り、A寺との交渉が煮詰まるに至って、B住職に対して、Nの取り分として五億円、Dの取り分として五億円の合計一〇億円を要求するという話がDのほうから出てきた旨供述している。
(2) Nの供述の信用性
ア Nの捜査段階の供述の信用性
まず、Nの検察官調書の信用性から検討するに、右検察官調書は、Dの検察官調書と同様、D、N及びMの三者間で、立退料名目で一〇億円を要求する旨の合意が成立する過程の会話が、詳細に述べられており、特段不自然、不合理な点は認められない。例えば、Nの公判供述を前提とすると、Dは、平成一〇年一一月ころ、何らの報酬の取り決めもせずに、A寺との交渉を引き受け、その後も、少なくとも、平成一一年四月あるいは五月ころ、R1がS1やT1に依頼するなどして、DらとA寺との仲裁に入るまでの間、報酬について取り決めないまま、A寺との交渉を続けていたことになるが、それまで特にDとNとの間に人的な関係があったわけでもないことからすれば、いかにも不合理で、依頼に当たって十分な謝礼を支払えない旨述べるNに対し、Dが、B住職から受け取る金員の半分をもらうことで了承したとの検察官調書の分け前の分配を決めた経緯のほうが、合理的である。
また、Dらとの間で成立した最終的な合意の内容には、相違が見られるものの、右合意が成立するに至った基本的な流れについては、信用できるDやMの各検察官調書の内容と符合していることも、Dの検察官調書の信用性を検討した際に触れたとおりである。
さらに、Nの検察官調書には、Nが、A寺に対する債権の取立てをDに依頼した旨の記載があるが、債権の発生原因やその額についても具体的に記載されているほか、DやMの各検察官調書に記載されていない内容をも含んでいることからすると、Nの検察官調書は、Nが自己の記憶に基づいて任意に供述したことを録取したものと認められる。
以上によれば、Nの検察官調書は、基本的に信用できる。
イ Nの公判供述の信用性
これに対し、前記のとおり、Nは、平成一一年四月あるいは五月ころ、R1がS1やT1に依頼するなどして、DらとA寺の間の仲裁に入り、交渉が煮詰まるに至って、B住職に対して、金銭を要求するという話がDのほうから出てきた旨供述しているものの、他方で、検察官から、D、N及びMがいたときに、金銭要求の話が出たのではないのかと尋ねられた際、「N石材店の事務所でその話が出たと思う。調書に平成一〇年一一月二五日ごろと記載があれば、そうだろうと思う。」とも供述しているのであって、公判供述自体に変遷がある。また、その理由について、検察官から質問を受けた際も、「(時期については)はっきりした記憶がございませんので。」などと供述するのみで、その理由を明らかにしていない上、公判供述は全体として曖昧な供述が多々みられる。
さらに、Dらとの間で、B住職に対して、N石材店の復帰を要求する旨合意していたとする内容が不合理であることは、既にDの公判供述の信用性を検討した際に触れたとおりであり、Nの「昔のように私のうちでもって、二〇〇〇軒のお檀家の掃除、すべての件について復帰できるということを、話をさせてもらいました。」「一番の願いは、何と言っても、昔のような仕事をさせてもらいたいという気持ちのほうが一番強かったですから。」「(A寺との関係で何を解決してもらうということなんですかとの問に対し)それは私の復帰という以外にはないです。」旨の公判供述は、あくまでも無理と分かった上での主観的希望を述べたものにすぎないと評価して不合理ではない。また、Nの公判供述には、ベンツが燃焼するなどの事件が起きた平成一一年夏ころ、Dから、N石材店が復帰を果たした場合、Dの会社と業務提携し、事業収益を折半するという話が出たなどと、前記のとおり、それ以前に、Dが、六月三日のB住職との交渉で同人からN石材店の復帰を断られていることに照らせば、明らかに不合理な内容も含まれている。
こうしたことからすると、この部分に関するNの公判供述は信用できない。
(三) 小括
以上のとおり、信用性の高いD、N及びMの各検察官調書によれば、平成一〇年一一月下旬ころ、右三者の間でB住職に対し、N石材店の復帰を要求するとともに、それが無理な場合には同店の立退料名目で金員を要求するとの合意が成立したものと認められる。
もっとも、その時点では、B住職に要求を受け入れさせるための具体的方法の選定は、Dに任されており、NやMは、街頭宣伝活動やDの作成するビラの内容を具体的に認識していたとまではいえないし、その後、Dが行ったような、街頭宣伝活動等でB住職らを誹謗中傷して脅迫するということを確定的に認識していたとも認めることはできない。しかし、前記のとおり、Nの検察官調書には、「右翼として正式に届けて正面から寺を攻めようと聞いた」旨、Mの検察官調書には、Dが「右翼団体を作って、A寺やB住職、檀家総代を街宣活動で攻撃して圧力をかける」ことを企てた旨の記載があることからすると、少なくとも右翼を標榜する団体を設立してB住職に圧力をかける程度のことは、NやMも了解していたものと認められる。そして、Mは、A寺の庫裏の放火に関与したなどとして、暴力団からゆすられた際、これをDに解決してもらったことがある上、Dの仕事の内容やその左手小指が欠損していることも認識していたのであるから、遅くとも、平成一〇年九月下旬ころまでには、Dが暴力団員であることを認識していたものといえるし、Nも、同人の検察官調書に、Mから「力を持った人である」として紹介を受けたDについて、「まともな力を持った人ではなく、相手に有無を言わせない現実の力を持った人ということであり、結局は右翼や暴力団のような人だろうと思った。」旨の記載があることや、公判廷においても、Dと会ってからはDが暴力団関係者であることが分かった旨供述していることからすると、平成一〇年九月下旬ころには、Dが暴力団員であることを認識したものと認められ、平成一〇年一一月下旬の右三者間での合意成立時には、DがB住職に要求を受け入れさせるために強い手段方法をとり、脅迫行為に及ぶことも十分予想していたと推認されるほか、両名とも、平成一〇年一一月ころ、DがP1寺に取立てに行った際警察沙汰になったことを耳にし、平成一一年一月ころには、F1にC党の看板も設置され、二月には街頭宣伝活動が、三月にはC党員によるビラの配布や境内の徘徊も開始されたことなども目にしているのであるから、遅くとも本件犯行が開始された時点、すなわち、A寺檀家総代方への街頭宣伝活動が本格化する四月二七日の段階においては、DがB住職に対し、要求を受け入れさせるために、街頭宣伝活動等による脅迫を行うことについて、確定的認識を有していたものと認められるし、両名が街頭宣伝活動が開始されているのを知りながら、宣伝材料となり得るB住職や檀家総代らに関する情報を提供していることからすれば、それを容認していたことも認めることができる。
さらに、N及びMは、これまでのN石材店とA寺との紛争経緯からすれば、平成一〇年一一月下旬の時点でも、N石材店の復帰を要求してもこれをA寺側が受け入れることは相当困難であると考えており、それよりも同店の立退料名目で金員を要求することに重点を置いていたと推認できるし、右のとおり、Dが、脅迫という手段を用いることを確定的に認識したことで、遅くとも本件犯行が開始された時点においては、N石材店の復帰がA寺側に受け入れられる可能性は乏しいことを認識し、同店の復帰はほぼ諦め、立退料名目で金員を要求していくと考えるに至ったものとも推認できる。また、B住職らに対する攻撃の手段やその内容を自ら選定したDもこうした事情を認識していたもので、右三者ともに、Nの復帰の可能性は乏しいと考えていたものと推認される。
したがって、平成一〇年一一月下旬の段階で、D、N及びMとの間で、B住職に対して強い手段をとり、脅迫に及ぶこともあることを前提にN石材店の復帰を要求し、それが無理な場合には、同店の立退料名目で金員を要求して喝取する旨の共謀が成立していたと認められるし、また、遅くとも本件犯行が開始された時点においては、右三者間で、B住職に対し、街頭宣伝活動等の脅迫行為を行い、N石材店の立退料名目で金員を喝取する旨の共謀が成立していたものと認められる。
2 Dと被告人との共謀
(一) 被告人とUとの交渉内容
(1) Uの公判供述要旨とその信用性
ア Uの公判供述要旨
Uは、公判廷において、要旨以下のとおり、供述する。
私は、Dから呼び出しを受け、八月一三日午後二時ころ、W1と一緒にC党事務所に行った。同事務所前路上において、Dからベンツを見せられ、「寺(A寺を指す。以下同じ。)のガードマンが夜に勝手にぶつけてきた。」「大型のベンツが燃やされた件で寺に交渉に行ったら七人逮捕された。」と言われ、さらに、「頼んでもないのにヤクザ者を送り込んでくるからこうなるんだ。」と言われた。事務所の中に入り、「お前ら、ちゃんと住職と連絡取ってるのか。」「時間ばっかりたって何も変わらないんじゃないか。」「住職が一五億払うと言ってきたんだから、会わせろ。」「飽くまでも一六日までに交渉を終わらせたい、タイムリミットは一六日だ。」と言われた。そのようなことをDから言われている間に、被告人が事務所に来た。私が事務所の中に入ってから、二〇分ないし三〇分後だったと思う。被告人は、「二か月も何もしてない。」「命を張ってやれ。」「なめてるんじゃないぞ。」「なめたらぶっ殺すぞ。」「住職の首と一五億を持ってこい。」と言っていた。被告人は、上着を脱いで彫り物を見せて、命を張ってやれ、やらなければ殺すという内容の言葉を繰り返した。私は、W1と一緒に開山堂に行った後、C党の事務所に戻り、午後五時半前後、C党の車に乗って、M2警察署に行ったが、住職には会えなかったので、C党事務所に再度立ち寄り、住職に会えなかった旨報告した。一五億円というのがA寺の代理人としての自分の責任ないしはR1事務所の責任が追及されているものだとは思わなかった。一五億円は、寺から持ってくるものと思っていた。
この一三日の際、もう一度明日来いと言われていたので、私は八月一四日、一一時過ぎ、C党事務所に一人で行った。Dから、「もう住職は出てこない。Uが金を払って、後で寺に請求しろ。」と言われた。最初は、「三億円払え。」と言われた。「R1事務所も、R1の家も、Uの家もよく知っている。自分が行かなくても若い者が行く。みんな疲れ切っているから。」などと言われた。私には金を工面するのは不可能だったし、仮に工面して支払ったとしても、A寺からはお金が出ないと思った。断ったら、殺されるのか、相当危ないことをされるなと感じた。
私は、また、呼び出され、八月一八日午後三時ころ、一人で、C党事務所に行った。すると、同所には被告人がおり、喫茶店に行こうと誘われたので、喫茶店に行った。その後、C党事務所に戻ってから、被告人から、「こちらからやれということを言わなければ何もしない。」「命を懸けてやってない。」「なめたらぶっ殺すぞ。」「今ここに住職の首と一五億を持ってきて、それから考えてやる。」「仕事が大事なのか命が大事なのか、よく考えろ。」と言われた。これに対し、私が「命です。」と答えると、「普通の生活もさせないし、命も分からんぞ。弱い奴ほど早くぶっ殺す。警察だろうと、それはもう構わん。みんなぶっ殺す。」などと言われた。それを聞いて、もう引きようがないのかな、殺されるのかなと非常に怖い思いをした。私は、八月二三日及び二五日、A寺に行き、非常に危ないというような内容を記載した名刺を、警備員に渡し、B住職に渡してくれるよう頼んだ上、「自分もB住職も危ない。」「C党と連絡をとって、交渉をするのかしないのか、代理人でもいいからきちんと前に出てきて話をしてくれ、そうしないとC党に殺される。」などと伝えてくれるよう頼んだ。
イ Uの公判供述の信用性
前記のとおり、Uは、公判廷において、Dや被告人から脅迫された際の状況について、自己の心情を交えながら、「住職の首と一五億を持ってこい。」などと特徴的な言葉を挙げるなどして詳細に供述している上、その公判供述の内容にも特段不自然、不合理な点は認められない。また、八月一三日にC党事務所を訪れた際の状況については、その後、B住職に会うために行った場所やその行った順番の点で若干の食い違いが認められるものの、概ねW1の検察官調書の内容とも符合している。もっとも、W1は、公判廷において、「なめたらぶっ殺すぞ。」という言葉については言われた記憶がなく、検察官にも訂正の申立てをしたと述べるが、W1の検察官調書には、訂正の申立てがなされた旨の記載はなく、その後の検察官の対応についても曖昧な供述をしているほか、前記のとおり、右検察官調書にはUの供述と食い違う記載もあり、検察官がW1の供述をUの調書に合わせようとした事情も窺えないことからすると、W1の右公判供述をたやすく信用することはできない。
こうしたことからすると、Uの検察官調書は信用することができる。
(2) 被告人の公判供述とその信用性
ア 被告人の公判供述の要旨
被告人は、公判廷において、要旨以下のとおり、供述する。
八月一三日に、Uを呼ぶことについて、事前にDから話はなかった。私は、途中から話に加わったが、Uだけではなく、W1もいた。Dが何か怒鳴っていたし、脅せばR1にも伝わるだろうと思って、Uに対して、「お前ら何や、R1もお前も時間ばかりかかって何も話が進んでないやないか。」「なめとったらあかんぞ。」「お前らR1事務所と一緒に金は作れよ。」「R1にもよう言うとけ。」などと言った。しかし、てめえぶっ殺したるとか、住職の首と一五億を持ってこいとは言ってない。W1に対して、「今のことをR1によう伝えとけ。年寄りやからってお前承知せんど。病気みたいなふりしても許さんぞ。」などと言った。
Uが金を作って持ってくるとは思っていなかったし、Uが、B住職のところに行って、脅されて身が持たないなどと言うとも思っていなかった。八月一四日、Uが来たことは知らない。時期ははっきりしないが、Dは、Uに代理権うんぬんの話をしていたことがあった。その際、私は、Uはもう関係ないと言っているのだから、無理な話だと思ったが、Uを責めれば間接的にR1事務所に圧力がかかるだろうとは思っていた。八月一八日、私がC党事務所にいたところ、UがDを訪ねてきたが、Dがいなかったので、私はUと一緒に喫茶店に行った。そしてC党事務所に戻り、Dが来てから、私は、Uに対し、「全くやる気がないな、なめとんのか、命をはれと言っただろう。」「だらだらするな。」などと言った。これは、R1事務所に圧力をかけるために言った。しかし、「なめたらぶっ殺すぞ。」とは言っていない。私は、R1がB住職とC党との間に入りながらも、当事者であるB住職が約束を守らないのだから、R1を脅してR1に仲介人として独自の責任を取らせようと考えていた。R1を使って、B住職に金員を要求しようとは考えていなかった。
イ 被告人の公判供述の信用性
前記のとおり、被告人は、Uを責めたのは、B住職に対して金員を要求するためではなく、R1に仲介人としての独自の責任を取らせるためであった旨供述している。確かに、六月一一日に予定されていたB住職とDとの会談が、B住職の申出により、中止になり、それ以降、DらがB住職と接触することができなかったという客観的状況に照らせば、被告人らが、B住職に対して金員を要求することを諦め、この際、R1に仲介人としての責任を果たすよう要求して、少しでも金員を得ようとしたとしてもおかしくはないし、この点、Dも、公判廷において、R1に仲介人としての責任をとってもらい、金銭で解決することを考えていた旨供述しているところでもある。
しかしながら、①Uは、六月一〇日、B住職から委任契約を解除する旨告げられたとはいえ、それまでは、B住職の代理人として、Dらとの交渉に当たっていたものであること、②被告人が、Uに対し、「住職の首と一五億を持ってこい。」などと申し向けていること、③Uが、八月一三日に、Dや被告人と面談した後、C党の車でM2警察署などに行き、現実にB住職との接触を試みていること、④前記のとおり、七月二二日ころに、Dと被告人がR1に渡した文書から読みとれるDらの要求内容、右文書には、A寺にとって重要な行事であるお面かぶりが行われる日である八月一六日がA寺との約束の期限として記載されているところ、被告人らがUと交渉した時点では、右期限は未だ到来していないか、到来した直後であること、⑤A寺とR1の資力の差は明らかであり、R1から多額の金員をとることは期待し難いこと、⑥前記二で認定のとおり、B住職との会談が中止になった後も、C党員らによるB住職らを誹謗する街頭宣伝活動は続いており、八月二九日の時点でも、C党員が、B住職やOを中傷する内容が記載されたビラを通行人に配布するなどして、なおB住職らに対する嫌がらせ行為を継続していること(この点、被告人は、Dから、腹が立ったので、A寺からB住職を追い出すために街頭宣伝活動等を続けていると聞いていた旨供述しているが、たとえ、B住職をA寺から追い出したとしても、それによって、Dらが金員などの経済的利益を手にできるわけではなく、その他現況を打開できる見込み等何ら存しないにも関わらず、Dが人的にも物的にも多大な負担を余儀なくされる街頭宣伝活動等を単にB住職をA寺から追い出すために続けていたとは考えにくく、右供述は信用できない。)、⑦被告人自身、八月二九日及び九月五日、X1に声をかけて呼び集めた暴力団関係者と見られる者とともに、A寺境内を歩き回っている上、前記第三認定のとおり、九月五日、B住職方をのぞき見たりしていることなどからは、Dが検察官調書において供述するとおり、八月一三日及び一八日の時点において、被告人らが、B住職に対して金員を要求することを諦めていたとは考えられず、Uを脅せば、Uがその旨をB住職らに伝えることになり、B住職を脅迫することになることを認識していたと推認され、結局、UをしてB住職に同人を畏怖させるに足りる事項を伝えさせて、同人を畏怖させ、同人に金員を支払わせるため、Uを脅迫したと考えるほうが合理的である。被告人らは、あくまでも、B住職に対して金員を要求してもその目的が達せられない場合の予備的・二次的なものとして、R1に対し仲介人としての責任を追及していたにすぎないとみるのが自然である。
さらに、被告人は、公判廷において、Uに対して、約束を守るよう言ったなどと供述しているところ、被告人らがそれ以前にUやR1と何らかの約束をしたような事情は窺われないことに鑑みると、「約束」とは、DとB住職の約束を指すものとしか考えられず、被告人自身矛盾した供述もしている。
こうしたことからすると、被告人の公判供述は信用できない。
(3) 小括
以上のとおり、信用できるUの公判供述によれば、被告人は、Dとともに、Uをして、B住職らに対しB住職を畏怖させるに足りる事項を伝えさせて、同人を畏怖させ、同人に金員を支払わせるため、Uを脅迫したものと認められる。(二) Dの被告人に対する説明内容
(1) Dの供述要旨とその信用性
ア Dの供述要旨
ⅰ Dの捜査段階の供述要旨
Dは、被告人をC党に誘った際に、同人に説明した内容について、「一二月上旬には、何度か電話で、被告人に連絡を取り、C党に参加するよう誘った。(中略)私は、C党を設立して、A寺を攻めるに当たっては、金のにおいをかいだ様々なやくざ組織が介入してくることを予想していたから、そのやくざ組織を押さえる人材が欲しかった。(中略)私は、被告人に「A寺という寺があり、その寺から石屋が追い出された。その石屋を復帰させるか、石屋の立退料として金を取るために、右翼団体を作って寺を攻める準備をしている。そっちの仕事がうまく行ってないなら、こっちに来て手伝わないか。」などと言って誘い、被告人もこの話に乗ってきた。」などと供述している(甲一五九)。
ⅱ Dの公判供述の要旨
これに対し、Dは、公判廷において、要旨以下のように供述している。
平成一〇年一二月ころ、被告人に声をかけた。被告人は何もしてないし、大阪にいるよりは東京に出てきたほうがいいんじゃないか、石屋を復帰させる話で仕事が安定すれば永久的にこちらも安定するからどうだという話をして誘った。寺も資金力があるからやくざ者を頼んでくるなり、何かやってくるだろうと思った。そのときに、一人で対処するのは無理なので力になってくれる人間が必要だった。被告人に対しては、Q1に話したのと同じ内容、すなわち、石屋を復帰させる仕事をするので、時間もかかるだろうが、うまくいけば寺の仕事ももらえるし寺の墓地の権利が半分入る、そうすれば安定するんじゃないかという話をした。
イ Dの供述の信用性
前記のとおり、平成一〇年一一月の時点で、D、N及びMの間で、A寺にN石材店の復帰を要求するとともに、それが無理な場合には同店の立退料名目で、A寺側に対し金員を要求するとの合意が成立していたと認められるところ、Dは、自ら被告人と連絡をとって、被告人を誘い、被告人をC党最高顧問として迎え入れており、その後も、被告人に対しては、他の党員とは異なり、C党事務所とは別にマンションの一室を用意し、多額の金員を与えるなど、被告人を自らの片腕としてそれ相応の扱いをしていることからすると、Dが被告人をC党に誘い入れたのは、右合意を実現していくに当たっての協力を得るためとみるのが自然であり、誘い入れる際、被告人に対して、右合意の内容と異なる話をするのは不自然であり、Dの公判供述よりも検察官調書のほうがその内容は合理的である。また、Dの検察官調書の内容は、Dの公判供述の内容より被告人にとって不利なものになっているが、Dと被告人との関係からすると、Dが被告人に有利な供述をする可能性はあっても、ことさらに被告人に不利な虚偽の供述をして被告人に本来負うべきでない刑事責任を背負わせるようなことをするとは考え難い。さらに、前記のとおり、被告人は、Dとともに、Uをして、B住職らに対しB住職を畏怖させるに足りる事項を伝えさせて、同人を畏怖させ、同人に金員を支払わせるために、Uを脅迫したと認められるのであるから、当然、それ以前に、Dとの間で、B住職から金員を喝取することを通謀していたと推認され、Dの検察官調書はこのこととも矛盾していない。加えて、Dの公判供述は変遷しているが、その理由について、Dが説得力のある説明をなしえていないことも、既に、D、N及びMの共謀に関し、Dの公判供述の信用性を検討した際(前記三1(一)(2)イ)に触れたとおりである。
これに対し、弁護人は、①Z1、Q1、A2、D1も、検察官調書においては、C党の設立目的ないし活動目的は、A寺から金員を喝取する目的であった旨供述しているところ、当公判廷において証言した際には、これを覆し、その目的は、N石材店の復帰であった旨供述しているが、同人らの公判供述によれば、こうした検察官調書は、検察官が、当初からC党はA寺から金員を喝取する目的で設立されたものであるとの予断や偏見に基づいて取り調べた結果作成されたものであることが明らかであるから、C党の党首であるDに対しては、Z1ら以上の予断と偏見に基づいて取調べが行われたことは推認するに難くない、②Dは、捜査段階から本件について、自己の責任を認める供述をしている上、自己の公判においても、自己の刑事責任を認め、公訴事実を争わなかったのであるから、こうした対応を採ったDの説明が、歯切れが悪く、首尾一貫しない説明になることも、無理からぬものがあることに注意を払う必要がある旨などと主張する。
しかしながら、Z1、A2、Q1は、C党を設立した目的ないし活動目的に関し、検察官と言い争いになった、あるいは、検察官との行き違いがあったとしているのみで、明確に検察官からの誘導があったことを認める供述をしているわけではない。また、D1も、警察官から取調べを受けた際、警察官から説明を受けて初めて、C党の設立目的ないし活動目的が、A寺から金を喝取することであったことに気づいた旨供述しているものの、その一方で、「(先ほどの主尋問でははっきりしなかったところを確認したいんですけども、D党首からお寺が金を払うかどうかの見通しについて聞いたことがあるということだったですよねとの問に対し)ええ。」「(寺から一〇億取れると踏んでいるという表現で聞いたということですが、それははっきり覚えていますかとの問に対し)それは覚えていますね。」として、これに反する供述もしている。そうすると、Z1らの公判供述のうち、C党を設立した目的ないし活動目的に関する部分の供述が検察官調書の内容と異なっていることのみから、同人らの検察官調書が検察官の予断や偏見に基づく取調べによって作成されたということはできない。
また、弁護人が指摘する②の事情やその余の弁護人が主張する事情を考慮しても、供述の変遷に関するDの説明は、やはり不合理であるといわざるを得ない。
こうしたことからすると、Dの公判供述は信用できず、Dの検察官調書のほうが信用できる。
(2) 被告人の公判供述とその信用性
ア 被告人の公判供述要旨
これに対し、被告人は、公判廷において、要旨以下のとおり、供述する。
平成一〇年一一月か一二月ころ、東京に飲みに来て、Dの部屋に泊まった際、Dから、寺に何十年か何百年か出入りしていたのに、寺から一方的に解雇されて困っている石屋がいる、この石屋を元に戻して一緒に仕事をするから、よかったら手伝わないかということを聞いた。年が明けてからとのことだったので、ええよ、声かけてと軽く社交辞令として返答した。NとはDの紹介で知り合った。Mとは会ったこともないし、名前も知らない。平成一一年一月ころ、Dから、三、四回電話がかかってきて、部屋もこっちで段取りするから上京し、仕事を手伝ってくれと言われたが、私は、今用事がある旨答え、先延ばしにした。二月に入り、月が替わったから、兄弟、そろそろ出てきてくれへんかと言われ、私は、ちょうど二月三日に個人的な用事があったので、そのついでに上京することとした。私は二月三日に上京した後、Dから、「A寺のBという坊主と石屋は先代からの付き合いだり、Dの公判供述よりも検察官調書のほうがその内容は合理的である。また、Dの検察官調書の内容は、Dの公判供述の内容より被告人にとって不利なものになっているが、Dと被告人との関係からすると、Dが被告人に有利な供述をする可能性はあっても、ことさらに被告人に不利な虚偽の供述をして被告人に本来負うべきでない刑事責任を背負わせるようなことをするとは考え難い。さらに、前記のとおり、被告人は、Dとともに、Uをして、B住職らに対しB住職を畏怖させるに足りる事項を伝えさせて、同人を畏怖させ、同人に金員を支払わせるために、Uを脅迫したと認められるのであるから、当然、それ以前に、Dとの間で、B住職から金員を喝取することを通謀していたと推認され、Dの検察官調書はこのこととも矛盾していない。加えて、Dの公判供述は変遷しているが、その理由について、Dが説得力のある説明をなしえていないことも、既に、D、N及びMの共謀に関し、Dの公判供述の信用性を検討した際(前記三1(一)(2)イ)に触れたとおりである。
これに対し、弁護人は、①Z1、Q1、A2、D1も、検察官調書においては、C党の設立目的ないし活動目的は、A寺から金員を喝取する目的であった旨供述しているところ、当公判廷において証言した際には、これを覆し、その目的は、N石材店の復帰であった旨供述しているが、同人らの公判供述によれば、こうした検察官調書は、検察官が、当初からC党はA寺から金員を喝取する目的で設立されたものであるとの予断や偏見に基づいて取り調べた結果作成されたものであることが明らかであるから、C党の党首であるDに対しては、Z1ら以上の予断と偏見に基づいて取調べが行われたことは推認するに難くない、②Dは、捜査段階から本件について、自己の責任を認める供述をしている上、自己の公判においても、自己の刑事責任を認め、公訴事実を争わなかったのであるから、こうした対応を採ったDの説明が、歯切れが悪く、首尾一貫しない説明になることも、無理からぬものがあることに注意を払う必要がある旨などと主張する。
しかしながら、Z1、A2、Q1は、C党を設立した目的ないし活動目的に関し、検察官と言い争いになった、あるいは、検察官との行き違いがあったとしているのみで、明確に検察官からの誘導があったことを認める供述をしているわけではない。また、D1も、警察官から取調べを受けた際、警察官から説明を受けて初めて、C党の設立目的ないし活動目的が、A寺から金を喝取することであったことに気づいた旨供述しているものの、その一方で、「(先ほどの主尋問でははっきりしなかったところを確認したいんですけども、D党首からお寺が金を払うかどうかの見通しについて聞いたことがあるということだったですよねとの問に対し)ええ。」「(寺から一〇億取れると踏んでいるという表現で聞いたということですが、それははっきり覚えていますかとの問に対し)それは覚えていますね。」として、これに反する供述もしている。そうすると、Z1らの公判供述のうち、C党を設立した目的ないし活動目的に関する部分の供述が検察官調書の内容と異なっていることのみから、同人らの検察官調書が検察官の予断や偏見に基づく取調べによって作成されたということはできない。
また、弁護人が指摘する②の事情やその余の弁護人が主張する事情を考慮しても、供述の変遷に関するDの説明は、やはり不合理であるといわざるを得ない。
こうしたことからすると、Dの公判供述は信用できず、Dの検察官調書のほうが信用できる。
(2) 被告人の公判供述とその信用性
ア 被告人の公判供述要旨
これに対し、被告人は、公判廷において、要旨以下のとおり、供述する。
平成一〇年一一月か一二月ころ、東京に飲みに来て、Dの部屋に泊まった際、Dから、寺に何十年か何百年か出入りしていたのに、寺から一方的に解雇されて困っている石屋がいる、この石屋を元に戻して一緒に仕事をするから、よかったら手伝わないかということを聞いた。年が明けてからとのことだったので、ええよ、声かけてと軽く社交辞令として返答した。NとはDの紹介で知り合った。Mとは会ったこともないし、名前も知らない。平成一一年一月ころ、Dから、三、四回電話がかかってきて、部屋もこっちで段取りするから上京し、仕事を手伝ってくれと言われたが、私は、今用事がある旨答え、先延ばしにした。二月に入り、月が替わったから、兄弟、そろそろ出てきてくれへんかと言われ、私は、ちょうど二月三日に個人的な用事があったので、そのついでに上京することとした。私は二月三日に上京した後、Dから、「A寺のBという坊主と石屋は先代からの付き合いだが、今度の坊主に代わって、一方的に契約を解除した。この坊主は女好きで、毎日飲み歩いてとんでもない奴だ。それで、石屋が困っているから、石屋のために一肌脱いで、何とか元のさやに納めて、自分も今後その石屋と仕事をしていくから。」と聞いた。私が、「そんな悪い坊主だったら、何も遠慮することはない。飲んでる先見付けて、刀でも突き付けて、こらと言って脅したら、それで済むんやないか。」と言ったら、Dは、「いや、兄弟、そんな手荒なことをしちゃいかん。仕事をするんだから、兄弟は何もせんでええ。ぶらぶらしておってくれたらええ。」と言った。私が、「ぶらぶらしてるんだったら、俺大阪へ帰る。」と言うと、Dから、「いやいや、こっちにおってくれたら、兄弟がおるだけでほかの党員がみんなしゃきっとするから、とにかくぶらぶらしておってくれたら小遣い渡すからそうしておいてくれ。」と言われた。その際、復帰のために右翼団体を結成し、街宣活動をがんがんやるという話はなかった。Dから説明を受けた際に、石屋の復帰はダミーであるとか、石屋の復帰がうまくいかなかったら、二段構えで立退料だなどという話は聞いていない。私は、介入してくる人間とのトラブルを解決するときの手助けをDから期待されていることは暗黙のうちに分かっており、相手のやくざが出てきたら知らん顔はしないつもりだった。Dからは、石屋が復帰できて、一緒に仕事をしたら、毎月五〇万円から一〇〇万円渡せるようになると言われていた。
イ 被告人の公判供述の信用性
確かに、被告人は、右のとおり、DからC党への参加を誘われた際に、同人から説明を受けた内容について、具体的に供述しているし、その内容は、Dの公判供述とも符合するところではある。
しかしながら、Dの公判供述が信用できないことは先に述べたとおりであり、また、Dから、B住職に対して、N石材店の復帰を要求していくと説明を受けたとする内容が不合理であるのも、既にDの公判供述の信用性を検討した部分で触れたとおりである。さらに、前記のとおり、Dは被告人に対し、多額の金員を提供しているのであるから、当然被告人にそれに見合う相当の役割を期待しているはずであって、その点について何ら説明を受けず、ただぶらぶらしていてくれればいい旨言われたというのも不合理であるといわざるを得ない。また、被告人の公判供述は信用できるDの検察官調書の内容と食い違っており、これとの対比においても信用し難い。
よって、被告人の公判供述は信用できない。
(3) 小括
以上のとおり、信用性の高いDの検察官調書によれば、平成一〇年一二月ころ、Dは、被告人に声をかけた際、B住職に対し、N石材店の復帰又は同店の立退料名目で金員を要求するつもりである旨説明したものと認められる。
(三) Dと被告人との共謀についての小括
そして、平成一一年一月末ないし二月初旬ころ、被告人が大阪から上京し、Dの用意したマンションに住み、C党事務所に出入りしていることなどからすれば、被告人は、遅くとも、その時点においては、Dの依頼を受けるつもりでいたものと認められる。そして、長年暴力団員として活動してきた被告人の経験や、実際に、F1に設置されたC党の看板や街頭宣伝車なども目にしているものと推認できることからは、右翼団体を作って寺を攻めるというDの言葉の意味するところも十分に理解できたものと考えられるのであるから、この時点において、被告人とDとの間に、B住職に対して、街頭宣伝活動等の脅迫行為を行って、N石材店の復帰又は同店の立退料名目で金員を要求して喝取する旨の共謀が成立したものと認められる。さらに、平成一一年二月には街頭宣伝活動が、三月にはC党員によるビラ配布や境内の徘徊などが開始されているところ、被告人が当時F1に居住していなかったとはいえ、同所からそれほど離れた場所に居住していたわけではなく、上京してきた経緯やDとの関係なども考慮すると、当然これらのC党の活動を認識していたものと推認できるし、また、これらの活動等がA寺とN石材店との関係に与える影響等をも容認していたものと認められる。こうした事情からすると、被告人も、遅くとも、本件犯行が開始される四月二七日ころまでには、N石材店の復帰がA寺側に受け入れられる可能性が乏しいことを認識していたとしても不自然ではない。もっとも、被告人が、この時点において、Dらと同様に、N石材店の復帰をほぼ諦め、同店の立退料名目で金員を要求していくと認識するに至っていたとまで認定するのは困難なところがあり、そうだとすれば、結局、被告人とDの認識には若干相違があったことになる。しかしながら、前記のとおり、平成一一年一月末から二月初旬の段階で、両者ともに、重点の置き方等に程度の差こそあれ、B住職に対して、街頭宣伝活動等の脅迫行為を行って、N石材店の立退料名目で金員を喝取することも認識・認容した上でその旨の意思の連絡もあったと認められる以上、なお、この時点において、両者間で恐喝罪の共謀が成立していたものということができる。
四 結論
以上によれば、被告人は、平成一一年一月末から二月初旬の段階で、D、N及びMとの間で、Dをかすがいとして、相互に意思を通じ、B住職に対して、街頭宣伝活動などの脅迫行為を行って、N石材店の立退料名目で金員を喝取することを含めた共謀を遂げていたと評価することができる。そして、前記のとおり、D、N及びMの間の共謀、D及び被告人の間の共謀の内容は、時間の経過とともに、N石材店の復帰を要求するか否か、また、その要求の重点の置き方等について、若干異なるところがあるものの、本件犯行が開始される時点においても、いずれも、B住職に対し、街頭宣伝活動等の脅迫行為を行って、N石材店の立退料名目で金員を喝取することをその内容として含むものであったと認められる以上、被告人、D、N及びMの間で恐喝の共謀が成立していたものと評価することができる。
そして、これまで検討してきたとおり、①被告人が、八月一三日及び一八日に、Uを脅迫するなど、恐喝の実行行為をも分担していることが認められるのみならず、②被告人が、四月中旬ころ、DとS1との交渉の場に同席していること、③被告人が、六月一一日に、R1事務所において、DがR1に対し、B住職との面談を再度求めた場面に同席し、さらに、七月二二日ころにも、DとともにR1事務所を訪れ、R1に対し、B住職に対する具体的な要求内容について記載された書面を交付し、その履行を求めていること、④被告人が、C党員とともに、数回ほど、A寺境内を歩き回り、八月二九日及び九月五日にも、X1を通じて呼び集めた多数の暴力団関係者と見られる者とともに、A寺境内を徘徊していること、⑤被告人が、Dにおいて、B住職らを誹謗中傷する内容の機関誌やビラを作成した際、内容を確認した上、Dにアドバイスをしたことがあること、⑥被告人が、前記第三認定のとおり、九月五日、B住職方をのぞき見たりもしており、B住職に対する嫌がらせと評価される行為を行っていること、⑦被告人が、Dから多額の金員を受け取っていること、⑧被告人がC党の最高顧問の地位にあったことなどの事実に鑑みれば、被告人は、判示第五の恐喝未遂罪の共同正犯の責任を負うというべきである。
(累犯前科)
被告人は、(1)昭和五九年六月一九日大阪地方裁判所で殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪により懲役一〇年に処せられ、平成六年一〇月四日その刑の執行を受け終わり、(2)その後犯した住居侵入、傷害罪により平成九年三月二六日岡山地方裁判所津山支部で懲役一年四月に処せられ、平成一〇年八月二七日右刑の執行を受け終わったものであって、この事実は検察事務官作成の前科調書(乙四)及び(2)の前科に係る判決書謄本(乙八)によってこれを認める。
(公訴棄却の主張に対する判断)
一 公訴棄却の主張に対する判断
弁護人は、判示第一の事実について、警視庁M2警察署(以下「M2署」という。)の警察官が、平成一一年四月五日(以下年月日は特に表示しない限り、いずれも平成一一年である。)、C党事務所を訪れ、本件被害品であるビデオテープの返還を求めた際、同党幹事長Q1に対し、右ビデオテープを返還すれば事件は終了する旨申し向け、Dの同意を得たQ1から任意提出を受けたなどの事情があるから、本件起訴は公訴権の濫用に当たり、公訴棄却されるべきであると主張しているので、以下検討する。
1 B2らとQ1との間の不立件約束
Q1は、公判廷において、「M2署の公安係の警察官二人が、「二、三日前に、会長(Dを指す。以下同じ。)らが警備員から取り上げたビデオがあるだろう。それを返せ。返さなければ事件になる。今日返せば事件にならない。」と言うので、会長に電話でその旨連絡すると、会長から、「それは大変なことだ。じゃあ、すぐ返せ。」と言われたので、ビデオテープを返した。」などと供述している。
右Q1の公判供述は、警察官二人との会話内容など、具体的かつ詳細であるし、M2署警備課課長代理C2外一二名作成の一一〇番処理及び臨場等報告書(甲九八、一二二)に、「「本件については、被害届に基づき四月五日捜査係においてC党に赴き「被害届」が出ていることから捜査をするが、被害が回復すれば事件は終了する。」と申し向けたところQ1からビデオテープ一本を任意提出させ、被害を回復した。」などとして、右Q1の公判供述に沿うような記載があることなどに鑑みると、その信用性を肯定できるようにも思われる。
しかしながら、当日、C党事務所に赴き、Q1から、本件ビデオテープの任意提出を受けたB2及びD2は、Q1に対し、本件について被害が回復すれば事件は終了するなどと述べたことはないなどとして、Q1の公判供述に反する内容の供述をしているし、Dも、Q1から、ビデオテープを返せばどうなるかという話は聞いていないなどと供述しており、Q1の公判供述は、関係者の供述と食い違う内容になっている。
また、Q1自身、捜査段階においては、「私が、C党の事務所に、一人で待機していたら、私服の男二、三人位がやってきて、そのうちの一人が、警察手帳を見せた後、私に、「M2署だ。DがA寺の警備員からビデオテープ取り上げたそうだけど。」と言い、続けて、「これは大変な事件だぞ。ビデオテープ返せないのか。」と尋ねてきた。警察官から、「ビデオテープを返せば、事件にはしない。」とか「ビデオテープを返せば、事件は終わりになる。」などと言われたことはないし、そんなことを言われたということをD党首から言われたこともない。」(甲四七)などとして、公判供述とは異なる供述をしている。さらに、Q1は、公判廷で、当初、本件について検察庁で取調べを受けたことはないなどと供述していた上、その後、検察官から、検察官調書を示され、検察官調書に、右のように公判供述と相反する供述があることを指摘されても、取調べ当時は記憶がはっきりしておらず、勘違いで話したのだろう、公判供述前の証人テスト等によって記憶を喚起してはっきり思い出したから、法廷で述べたことのほうが事実であるなどと説明しているところ、B2らがQ1に対し、不立件約束をしたか否かは、本件の重要な争点であったのであるから、検察官がQ1に対し、この点について追及しないはずはないのであって、捜査段階において、Q1に記憶喚起の機会が与えられていなかったとは考えられず、単なる勘違いというだけでは合理的な説明とは言い難いし、Q1の公判供述には、C党事務所を訪れた警察官を取り違えている点など、明らかに事実に反する部分もあり、Q1がどの程度正確に記憶喚起して供述したのか疑問であることや、人間の記憶は、通常、時間の経過とともに減退していくものであることも考え併せると、供述の変遷に関するQ1の説明は不合理である。
さらに、Q1の検察官調書は、Q1が執行猶予判決を受けた三日後に作成されたもので、自己に有利な判決を得ようと捜査機関に迎合した供述をする必要性もなく、Q1があえて自己の経験に反する供述をする理由も見いだせないのに対し、Q1の公判供述は、C党党首であったDや同党最高顧問の被告人、さらには傍聴しているC党関係者の面前でなされたものであるから、Q1が従前の上下関係などの影響を受けて、Dや被告人の主張に沿うように供述を変遷させた可能性も否定できない。
なお、一一〇番処理及び臨場等報告書については、D2は、ビデオテープを領置したことをC2に報告した際、「被害品が返ってくれば、事件としては難しいのかな。」という程度の感想を述べたので、C2が誤って右報告書にそのような記載をしてしまったのではないかと説明しているが、そのような事態は通常考えにくく、右説明は説得力に欠けるところがある。しかし、D2自身は同報告書の作成時にその内容を確認しておらず、C2自身は任意提出された際、C党事務所に同行していないことからすると、両者の意思疎通が十分図られなかったことによってこのような記載がなされた可能性も否定できず、必ずしもこの記載をもって、B2らがQ1に対し不立件の約束をしてビデオテープを任意提出させたということはできず、右報告書はQ1の公判供述の不自然さを消散させるほどの証拠価値を持つものではない。また、B2とD2の両名は、そもそも本件の捜査担当ではない上、B2としては、犯行当日に当直勤務をしていて被害届を受理したことから、被害品を速やかに返還させようと考えてC党事務所に赴いたものであるし、D2としても、B2の案内役として同行したものであることからすると、両名がその判断で本件を不問に付すということを明言し約束できる立場にはなかったものと考えられる。
そうすると、Q1の公判供述は、信用することができず、B2らがQ1に対し不立件の約束をしてビデオテープを任意提出させたとは認められない。
2 C2とDとの間の不立件約束
前述のとおり、Dは、公判廷(第八回)において、ビデオテープを返却してから、二、三日後に、C2から、本件は事件化しない旨の電話があったと述べているところ、C2の発言内容に関する供述は具体的かつ詳細であるし、本件犯行当時、Eから被害届が提出されたにもかかわらず、再度九月二七日に、被害届が取り直されており、Eの検察官調書が録取されたのは一〇月一九日であることなど本件の本格的捜査が開始されたのは九月以降であることからすれば、警察側としては被害の回復をもって、いったんは本件の処理を終了したものと推認されることとも符合している。そうすると、Dの公判供述のとおり、警察側の事件処理終了の意図がDに伝えられていた可能性がないわけではないが、これは法的に拘束力を有するものではないし、事件が犯罪として成立し、訴追するのに妨げになる事情がない場合に、その後の事情変更等により、捜査を行うことは可能であり、必要があれば、相当な範囲で強制捜査に踏み切ることもまた許されており、違法とはいえないし、ましてや、起訴権限は検察官に属する以上、警察側の意図や方針が検察官を拘束するものではなく、右のような事情があったとしても、検察官が事件の内容等を検討し、起訴相当と判断して、公訴提起することが違法となるともいえない。加えて、Q1は、このようなDとC2とのやり取りとは無関係にビデオテープを返還したものであるし、DもQ1に対する提出についての了解を与えている上、捜査機関側が右のような事件終了の意図を伝えることで特に関係者から自白等の証拠を引き出したというわけでもないことも考えると、検察官による本件起訴がその訴追裁量を逸脱しており、公訴権の濫用に当たるとは認められないし、違法性を帯びるものでもない。
したがって、公訴棄却を求める弁護人の主張は理由がない。
(量刑の理由)
本件は、東京都世田谷区所在の名刹として知られるA寺と従前その墓地の管理等を行っていたN石材店との間で、以前から墓地管理委託の解除等を巡って民事紛争が続いていたところ、被告人が、(一)N石材店経営者のN及び同人からA寺との交渉を依頼されたDらと共謀の上、B住職からN石材店の立退料名目で多額の金員を喝取しようと企て、Dを党首とするC党の名前を明示しながら、五か月余りの間に合計七九回にわたって、街頭宣伝活動や中傷ビラの配布等の脅迫行為を繰り返し、B住職に対し暗に金員を要求したが、未遂にとどまったという事案(判示第五の事実)ほか三件のA寺関連の事案、すなわち、(二)Dと共謀の上、A寺側の依頼で境内の警備やB住職の身辺警護に当たっていた警備会社の警備員からビデオテープ一個を喝取したという事案(判示第一の事実)、(三)C党員であるFと共同で、A寺の警備員に対して脅迫したという事案(判示第二の事実)、(四)C党に出入りしていたKと共謀の上、B住職の実姉夫婦宅に、けん銃で銃弾二発を発射したという事案(判示第四の事実)、さらにA寺関連ではない、被告人が同乗していた乗用車とHの乗用車とが接触したことに因縁を付け、同人から迷惑料名下に金員を喝取しようとしたが、未遂にとどまったという事案(判示第三の事実)である。
まず、犯情悪質な判示第五の犯行についてみるに、本件は、右民事紛争に介入してA寺から多額の金員を脅し取ろうと考えた被告人らが、右翼を標榜して街頭宣伝活動等を行うことでB住職に圧力をかけ、同人が話合いに出てこざるを得ない状況を作出し、同人を直接脅迫し、目的を実現しようとしたもので、あらかじめ政治団体を設立し、その旨届け出て事務所を開設し、街頭宣伝車や実際に活動を行う者など人的物的な準備を整えた上で行動を開始し、次々に脅迫行為に及んだという組織的かつ計画的な犯行である。犯行態様は、街頭宣伝活動や中傷ビラの配布等の方法でB住職を脅すという極めて悪質なものであるが、具体的には、まずA寺の檀家総代等に対して街頭宣伝活動を行い、徐々にB住職やその妻を標的にし、街頭宣伝活動や配布ビラの中で、B住職らのプライバシーを暴きたてたり、虚構の事実を作出して誹謗中傷したりといった人格非難を繰り返し、さらにはB住職らの親族宅にまで街頭宣伝活動の範囲を広げるなど、そのやり方は卑劣としかいいようがない。脅迫行為は、判示のような多数回に及んでいて、耐えかねたB住職がいったんは被告人らの不当な要求に応じるかのような姿勢を示したものの、周囲からの忠告を入れて翻意し、右要求を拒絶する姿勢に転じた後は、さらに激しさを増した脅迫行為が繰り返されており、結局その期間は五か月以上もの長期にわたっている。この間誹謗中傷と激しい街頭宣伝活動等にさらされ、いたたまれない日々を送っていたB住職やその妻、その他街頭宣伝活動対象者の心労は、言葉では表現できないほどであり、困惑と恐怖の渦中に陥れられ、神経性の疾患を発病するなどした者もおり、精神的にも相当の痛手を負ったものといえる。こうしたことからすると、B住職らが、被告人らの逮捕によって、脅迫行為が収束し、平穏な生活を取り戻した現在においても、被告人らの厳重な処罰を望み、被害感情にも非常に厳しいものがあるのも当然である。また、B住職が被告人らの金員要求に応じなかったことから、本件は未遂にとどまったものの、A寺側は警備会社への長期にわたる警備依頼によって、多額の支出を余儀なくされたほか、窮地に立たされたB住職が本件の解決を知人に依頼し、被告人らとの仲介役となったUらに手数料名目で多額の金員を提供していることからすると、本件に関連してB住職らA寺側が被った財産的損害も大きい。さらに、直接の街頭宣伝活動対象者ばかりでなく、周辺住民も長期間にわたり激しい街頭宣伝活動やC党員の徘徊等によって、不安な生活を強いられたのであって、本件が地域社会に及ぼした影響も軽視できない。
被告人は、街頭宣伝活動やB住職との交渉に直接的に関与した部分はほとんどないものの、C党最高顧問の肩書きを有し、他の暴力団が介入してきた際にはこれに対応し、また、右Uを脅迫するなど本件犯行の実行行為の一部分も行っている。Dは、B住職との交渉や具体的犯行計画の策定などで、A寺との交渉に介入してくる暴力団に対応するまでの余力がないことから、被告人を大阪から呼び寄せたものであるが、前記のとおり、被告人はこうしたDの期待に十分に応えたものといえ、被告人が本件犯行において果たした役割は小さいものではない。被告人は、DがA寺とN石材店との民事紛争に介入し、A寺側から多額の金員を引き出そうとしていることを理解した上で、自らもその利益に与かろうとして、Dの誘いを受け入れ、判示第五の犯行に関与したもので、その利欲的動機に酌量の余地はない。また、被告人が、Dから多額の金員の提供を受けたほか、Nからも、C党員の食事代などと称して、相当額の金員を捻出させていることも見逃すことはできない。こうした事情からすると、被告人の責任は、共犯者の中でも相当に重い。
次に、判示第一、第二の犯行についてみると、これらの被害者はいずれも、被告人らの判示第五の犯行を受けてA寺の警備やB住職の身辺警護に当たっていた警備員であって、被告人らが、警備員らに敵意を抱いていたことを背景に、判示第五の被告人らのA寺への恐喝行為と関連して行われた一連の事件と位置付けられる。判示第一の犯行は、被告人らの姿を撮影していた被害者に暴行脅迫を加え、同人からそのビデオテープを脅し取ったというもので、被告人は、自分たちの姿を撮影していた被害者に対し、ビデオテープを渡すよう要求したところ、同人がこれに応じなかったため、その対応に腹が立ち、右犯行に及んだ旨供述しているものの、被害者は、B住職らに対する嫌がらせを繰り返す被告人らに対抗するため、ビデオカメラによる撮影を行っていたもので、その行動は正当な採証活動として是認される範囲の行動といえ、被告人の供述する動機は自己中心的なものといわざるを得ず、酌量の余地はない。被告人は、自ら被害者の後方から右腕を同人の首に巻き付けて締め上げるなどの暴行を加えるとともに、ビデオカメラを取り上げるなど、実行行為を担当しているし、右ビデオカメラ内からビデオテープを抜き取るなどしたDに対して、被害者に預り証を渡したほうがいいなどと、被害者に被害届を出されたような場合、言い逃れできるよう、狡猾なアドバイスもしているのであって、犯行後の事情も芳しくない。また、判示第二の犯行は、被告人が、B住職方をのぞいていたところ、被害者から注意されたことに腹を立て、同人に対し、Fと共同して脅迫を加えたというものであるが、被害者は、B住職の身辺警護や墓地内の警戒など警備員としての任務を忠実に遂行したにすぎないのであるから、かかる被害者の行動に怒りを覚えたというのは誠に身勝手といえ、その動機に酌量する余地はない。被告人ら複数のC党員から暴行等を受けた判示第一及び第二の被害者の恐怖感は相当なものであったと推察される。
また、判示第四の犯行は、その法定刑が示すとおり、それ自体重大な犯罪である。そして、被告人が犯行を否認しているため、その真の狙いは明らかではないものの、B住職の実姉夫婦宅への発射であったことからすると、これもB住職に対する脅迫の一環と考えられ、やはり、A寺に対する恐喝行為の中で発生した一連の事件と位置付けられるものといえる。Kが公道上からL方目がけて発射した銃弾は、一発はガラス窓のアルミサッシに着弾してアルミサッシを凹損させ、もう一発は、ガラス窓を貫通して、内壁にめり込むなどしているところ、銃弾が撃ち込まれた部屋やその隣室にはLらが就寝中であり、銃弾が当たる危険性も十分にあったことをも考慮すると、本件は危険極まりない犯行であったといえる。深夜、自宅で就寝中に、突如として、銃弾を撃ち込まれたLらの恐怖感は、極めて強く、処罰感情が峻烈であるのも当然であるといえる。銃弾によって破壊されたガラス窓や内壁などの損害もさることながら、さらなる攻撃に怯えたLらがその後の対策等に費やした費用も相当額に上っているし、閑静な住宅地で敢行された本件は、周辺住民に強い不安感を与えたもので、地域社会に及ぼした影響も看過することはできない。
さらに、A寺関連ではない判示第三の犯行についてみるに、被告人は、被害者の代理人である弁護士が提示した解決案をはねつけ、高額な迷惑料を要求した上、右要求に従わなければ、C党員らが被害者の生命、身体等にいかなる危害を加えるかも知れない気勢を示して脅迫したもので、その犯行態様は悪質である。暴力団員である被告人から、右のように脅された被害者の恐怖感は強く、一時期はC党員らが事務所に押し掛けてくることを恐れ、出社を控えたほどであって、その処罰感情が厳しいのも理解できるところである。被告人が、判示第三の犯行に及んだのは、利欲目的以外にはなく、動機に酌量の余地はない。
このような重大で悪質な犯罪行為に及んだにもかかわらず、被告人は、判示第一の事実を除いて、捜査段階から一貫してその犯行を黙秘あるいは否認した上、公判廷においても、不合理な弁解をしているものであって、反省の情は認められない。その他、被告人は、暴力団員として活動している期間も長い上、前記累犯前科を含め懲役刑に処せられた前科数犯を有し、相当長期間服役したことがあるにもかかわらず、またもや本件各犯行に及んでいるのであって、規範意識が明らかに欠如している。
これらの諸事情に照らすと、被告人の刑事責任は誠に重大である。
他方、犯情悪質である判示第五の恐喝未遂において、被告人が相応の役割を果たしたことは否定できないものの、そもそも、A寺から多額の金員を喝取することを計画し、別紙記載の個々の脅迫行為の具体的計画を立案し、C党員に実行させていたのはDであって、犯行の首謀者たるDのそれと比べれば、被告人の刑事責任はいくぶん軽いものにとどまっていること、判示第一の被害品であるビデオテープは返還されていること、判示第三及び第五の犯行は未遂に終わっていること等、被告人にとって斟酌すべき事情も認められるが、これらの事情を十分勘案しても、本件事案の重大性、犯行態様の悪質さ、生じた結果、被害者及びその周囲の者に与えた影響、被告人の果たした役割、共犯者らの刑責との均衡等からすれば、主文掲記の刑は免れないと判断し、主文のとおり量刑した。
よって、主文のとおり判決する。
(求刑 懲役一六年)
(別表略)
(裁判長裁判官 安井久治 裁判官 宮武芳 裁判官 鎌倉正和)
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