「営業アウトソーシング」に関する裁判例(90)平成22年 7月21日 東京地裁 平20(ワ)37419号 建物明渡請求事件
「営業アウトソーシング」に関する裁判例(90)平成22年 7月21日 東京地裁 平20(ワ)37419号 建物明渡請求事件
裁判年月日 平成22年 7月21日 裁判所名 東京地裁 裁判区分 判決
事件番号 平20(ワ)37419号
事件名 建物明渡請求事件
裁判結果 一部認容 文献番号 2010WLJPCA07218010
要旨
◆建物を所有し、被告に賃貸していた原告が、耐震強度が不足しているなどの理由から明渡料の支払と引き換えに建物の明渡を求めた事案において、本件建物の耐震診断によれば、本件建物は地震によって崩壊する危険性があることが認められるが、耐震性の不足は著しいものではなく、耐震改修工事によって補強することができるが、周辺地区の情勢や他のテナントがほとんど退去済みであることなどに鑑みれば経済的不利益を十分に補填することができれば正当事由が認められるとして、原告が求めていた額の約3倍である4000万円以上の明渡料を認めた事例
参照条文
借地借家法28条
裁判年月日 平成22年 7月21日 裁判所名 東京地裁 裁判区分 判決
事件番号 平20(ワ)37419号
事件名 建物明渡請求事件
裁判結果 一部認容 文献番号 2010WLJPCA07218010
東京都港区〈以下省略〉
原告 ヒカリ株式会社
同代表者代表取締役 A
同訴訟代理人弁護士 小林良明
東京都港区〈以下省略〉
被告 株式会社生活の友社
同代表者代表取締役 B
同訴訟代理人弁護士 金田英一
同 金田賢太郎
同 星野馨
同 井上雅弘
主文
1 被告は,原告に対し,原告から4026万6000円の支払を受けるのと引き換えに別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。
2 訴訟費用は,被告の負担とする。
事実及び理由
第1 請求
1 原告は,当初,「被告は,原告に対し,1200万円もしくは裁判所が認める適正な明渡料の支払と引き換えに別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。」との裁判を求めた。
ついで,原告は,第3回口頭弁論期日において,訴えの追加的変更を申立て,
「1 被告は,原告に対し,1200万円もしくは裁判所が認める適正な明渡料の支払と引き換えに別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。
2(1) 主位的請求
被告は,原告に対し,平成19年10月31日から上記建物明渡済みまで1か月当たり146万2300円の割合による金員を支払え。
(2) 予備的請求(第一次)
被告は,原告に対し,平成20年4月1日から上記建物明渡済みまで1か月当たり146万2300円の割合による金員を支払え。
(3) 予備的請求(第二次)
被告は,原告に対し,裁判所が認定する相当の明渡料を原告が支払った日から上記建物明渡済みまで1か月当たり146万2300円の割合による金員を支払え。」
との裁判を求めた(請求の趣旨第1項については,従前の請求と変更がない。)。
ついで,原告は,第8回口頭弁論期日において,「被告は,原告に対し,原告から2000万円の支払と引き換えに別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。」と請求の趣旨を変更した(以下,第3回口頭弁論期日における申立ての請求の趣旨第1項に係る部分の変更を「本件請求の趣旨変更」という。)。
2 被告は,本件請求の趣旨変更は請求の減縮に該当するというべきであり,この部分に係る請求の減縮には同意しないと述べた。なお,予備的請求に係る部分の訴えの一部取り下げについては,何ら異議を述べておらず,民事訴訟法261条5項により,同意したものとみなされる。
第2 事案の概要
1 請求原因
(1) 原告は,別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を所有している。
被告は,郵政事業に関する図書の出版業,生命保険販売業などを営む会社である。
(2) 原告は,平成10年10月6日,被告に対し,本件建物を下記条件で貸し渡した(以下「本件賃貸借契約」という。)。
記
ア 賃貸借期間 平成10年9月12日から平成12年3月31日まで
イ 賃料 月額127万6400円(消費税別途)
ウ 使用目的 事務所
エ 使用量相当損害金 契約終了の翌日から建物明渡済みまで賃料の倍額相当額
(3) 賃料減額の経緯
ア 平成14年10月1日,原告と被告は,月額賃料(消費税別途)を114万8760円に減額改訂した。
イ 平成15年7月1日,原告と被告は,契約期間を平成16年3月31日までとして,月額賃料(消費税別途)を95万7300円に減額改訂した。
ウ 被告は,平成18年3月末日の賃貸借期間満了に際し,原告に対し,賃貸借床面積を半減させること及び賃料を50パーセント引き下げることを内容とする要請を受けた。しかし,賃貸借床面積を半減させるためには改装工事費用が必要になることから,双方の負担を考慮し,平成18年4月20日付け覚書(以下「本件覚書」という。)を締結し,平成18年5月分から同年7月分までの間,暫定的措置として,月額賃料を従前賃料(104万4500円)から30パーセント相当額を引き下げることとし,賃料月額73万1150円とした。
エ 以上のとおり,本件建物月額賃料は,平成10年10月以降平成18年4月までの間に概ね半減している。
(4) 本件建物の利用状況と原告の収支
ア 本件建物を含む地下1階地上12階建ての一棟の建物(以下「aビル」という。)は,昭和38年12月に建築され,1階部分の一部と本件建物を含む4階部分を除いて,訴外森ビル株式会社(以下「森ビル」という。)が所有し,全館が事務所として賃貸されてきた。
イ 原告は,昭和39年12月以降,aビルの敷地(182.51坪)のうちの17.35坪を森ビルから賃借し,本件建物を区分所有し,事務所として被告らに賃貸してきたが,平成16年4月からは,賃借人は被告のみとなり,被告は,4階部分の床面積の半分強を使用してきた。
ウ そして,原告の貸室業の収支は,賃借人が被告のみとなった平成16年4月から赤字となり,その後,月額賃料が従前賃料の70パーセント相当額に減額された平成18年4月以降,赤字額が毎年266万円ないし354万円となっていた。
(5) 平成18年7月,森ビルは,aビルの耐震診断を実施し,その結果,震度6強から震度7の地震があった場合,「地震の震動及び衝撃に対して倒壊し,又は崩壊する危険性がある」と確認されたことから,原告に対し,安全上の問題によって新規賃貸営業を中止するので,原告所有区画の使用中止等についても早急に検討するように求めた。
(6)ア 原告は,(4)のとおり貸室業の赤字が続いていたこと及び(5)の森ビルによる要請を受けたことから,本件建物における貸室業を中止するのもやむを得ないと判断し,平成19年4月16日,被告に対し,(5)の耐震強度問題というやむを得ない解約理由があるとして,本件賃貸借契約を平成19年10月30日をもって解約する旨通知した(以下「本件解約1」という。)。
イ ついで,平成20年2月7日,原告は,原告訴訟代理人弁護士を介して,被告に対し,適正な立退料支払いによる正当理由を根拠として本件賃貸借契約を解約する旨通知し(以下「本件解約2」といい,本件解約1とあわせて「本件各解約」という。),本件建物の明渡を求めるとともに,上記解約通知を本件賃貸借契約の更新拒絶の通知(以下「本件更新拒絶」という。)をし,本件賃貸借契約の平成20年3月31日付け期間満了を理由とする本件建物の明渡を求めた。
ウ 原告は,平成20年4月,被告を相手方として適正な立退料の支払と引換による本件建物の明渡を求める民事調停を申し立て(東京簡易裁判所平成20年(ユ)第50103号事件),その調停手続において,本件建物の明渡料として1200万円を提示したが,被告は了解せず,同年12月16日,調停は不成立により終了した。
2 請求原因に対する認否
(1) 請求原因(1)は認める。
(2) 同(2)は認める。
(3) 同(3)ア,イ及びエの事実は認める。
同ウの事実のうち,被告が原告に対して賃貸借床面積を半減させること及び賃料を50パーセント引き下げることを内容とする要請をしたとの事実は正確ではない。被告は,賃料の減額を図り,原告に対し,賃料が半額くらいになればありがたい旨の打診をし,これに対する原告の応答がないため,本件建物と同じaビルの4階部分の空室(面積が狭くなる。)に移れば賃料を安くしてもらえるかと移転をにおわせたところ,原告から賃料の30パーセントを減額するとの妥協案が提案され,本件覚書が作成されたものである。
(4) 同(4)ア及びイの事実は認め,ウの事実は不知である。
(5) 同(5)の事実は不知である。
(6) 同(6)の事実は認める。
3 争点及びこれに対する当事者の主張
(1) 本件各解約あるいは本件更新拒絶に正当事由があるか否か
ア 原告
(ア) 本件建物は,既に築後45年間を経過し,建築基準法改正前の耐震基準(いわゆる旧耐震基準)に基づいて設計建築された建物であり,新耐震基準による耐震診断の結果,「震度6強から7の場合,倒壊し,又は崩壊する危険性がある」とされている。
また,本件建物には,防火壁の不備という消防法上の問題がある。
さらに,原告の本件建物に係る貸室業は赤字が累積している。
したがって,本件においては,借地借家法28条の正当事由があるというべきである。
(イ) 原告は,平成18年7月21日に森ビルから本件建物の使用中止要請を受けたが,現在,被告以外のaビルのテナント(入居者)はほとんど退去している。
(ウ) 被告は,平成18年3月末の契約更新の際,原告に対し,「賃借面積の半減と賃借料50%引下げ」を原告に求めてきたのであって,交渉の結果,平成18年5月分から7月分までの暫定的措置として,従前の賃借面積のまま,月額賃料を30%減額することで双方合意したものであり,本来であれば,平成18年8月分以降についての賃借面積及び月額賃料を協議決定する必要があった。
(エ) 被告が主張する立退料は不当に高額である。
①賃料差額補償
被告は約6900万円と主張するが,賃料差額の補償は必要がない。上記(ウ)の事情から明らかなとおり,被告自身が事務所スペースとしては,30ないし40坪程度で十分と考えていたのである。被告では,平成16年頃までは10名前後の従業員が在籍したようであるが,現在の従業員は2名とのことであったし,月刊b誌,c誌,月刊d誌等が休刊している。また,被告が月額賃料を50%も引き下げを求めていたことからすれば,賃料が従前の賃料より2.5倍もする高額な賃料のテナントビルに入居することは,考え難い。
東京都心のテナントビルの平均賃料は,坪当たり月額1万5000円台とみられている。
②敷金差額補償
被告は約239万円とするが,移転先の月額賃料・共益費額(70万円)の10か月分とみなした場合の差額は,約59万円となる。
③取引先への移転通知費用
被告は郵便料840万円が必要などと主張するが,3万5000箇所もの通知先に3回も通知する必要があるなどとするのは論外である。被告の主な得意先で郵政関係の取引先10社程度で,被告の売上げの大半(約90%)を占めており,上記のように広範な通知先に通知する必要はない。
④取引先への周知出張費
被告の主な取引先は10社程度である上,事務所移転の訪問活動は被告の営業活動の一環であり,その費用を原告が負担するいわれはない。
⑤引越期間の固定的経費補償
被告は14万円の補償が必要とするが,不要である。
⑥引越作業に係る従業員給与分の補償
被告は42万円の補償が必要とするが,不要である。被告の従業員は2名程度である。
⑦その他の営業補償
被告は,ホームページの再構築費用として100万円が必要であるとするが,事務所変更の掲示にそのような費用は必要ない。
⑧動産引越費用,⑨移転先選定費用(不動産仲介料),⑩移転旅費費用
一定の費用が必要であることは認める。
⑪その他の雑費
被告は1000万円もの費用が必要とするが,根拠不明である。
イ 被告
(ア) 原告の本件建物を利用した貸室業が赤字続きであるとしても,それは被告と関係のない空室の発生によるものであって,正当事由の有無を判断するにあたって考慮されるべきではない。
(イ) 仮に本件建物を含むaビルが,耐震診断の結果,震度6強から震度7の地震があった場合,「地震の震動及び衝撃に対して倒壊し,又は崩壊する危険性がある」としても,耐震改修工事によって対処できる限りこれによるべきであって,その一事によって正当事由が充たされるものではない。
(ウ) aビルは,港区愛宕1丁目に所在し,環状第2号線新橋・虎ノ門地区再開発事業の事業区域に極めて近接した場所にあり,再開発事業が終了した際には,より高い価値を有する場所である。そこで,森ビルは,aビルの賃借人を立ち退かせた上で,全面的に改築し,高収益物件とすることを計画しており,原告においてはそのような森ビルによる開発利益に預かることを意図しているものであって,耐震強度の問題は単なる口実にすぎない。
(エ) 被告は,そもそも原告から昭和32年頃「eビル」を賃借していたが,「eビル」の取り壊しに伴って,原告の意向に従い本件建物を賃借し,以後40年にわたって本件建物を本店として営業を継続してきた。被告は,郵政事業に関する出版物の発行に特段の営業力を発揮することで発展してきたところ,取引先である書店は無論のこと,全国の郵便事業に関与している職員にあまねく「愛宕のaビルの生活の友社」と認識されているのであって,被告が「愛宕のaビル」を離れ,移転すると多大な営業上の損害を被る。
(オ) 仮に移転に応ずるとしても,被告が明渡に応ずるためには,下記のとおり,合計1億0758万1500円の費用が必要であるから,同額の立退料が提供されて初めて正当事由が認められるべきである。
(借家人補償)
①賃料差額補償 約6900万円
現在の賃借面積(約63坪)の広さのオフィスを確保するためには,平均坪単価2万5996円が必要であり,1か月約188万円の賃料が必要となり,これと従前の賃料との差額を5年分補償すべきである。
原告は,現在の半分の面積で十分であるとするが,出版業は,印刷及び正本は無論のこと,デザイナー,フォトグラファーやライター,印刷所に出すデータ制作等アウトソーシングの多い業態である一方,これらの者の作業場所や作業のための備品(パソコン等)は出版会社が提供する必要があることが多く,従業員数に比して床面積が必要な業態である。
②敷金差額補償 約239万円
上記の条件で物件を賃借した場合には約1600万円の敷金が必要となり,これと現在の敷金約405万円との差額の10年間の運用益(運用利回り年2%)を補償すべきである。
(営業補償)
③取引先への移転通知費用 郵便料 840万円
移転案内作成費用 332万0100円
被告の取引先である郵便局株式会社,郵便事業株式会社,株式会社ゆうちょ銀行,株式会社かんぽ生命保険の本支店は全国に約2万8000箇所あり,書店は全国に約6000箇所あり,その他の関係者(執筆者,取材関係者,座談会出席者,広報担当者,イラストレーター,カメラマン等)が1000人程度いるから,3万5000箇所への移転通知が必要である。そして,それに対する周知徹底を図るためには,3回は通知を出す必要がある。
④取引先への周知出張費 740万円
⑤引越期間の固定的経費補償 14万円
引越をすると2週間程度は業務ができなくなるのに,その期間もリース料,保険料等を支払わなければならない。
⑥引越作業に係る従業員給与分の補償 42万円
被告の従業員が引越作業に2週間程度従事するものとみられるが,その給与分は移転費用と一部というべきである。なお,被告の従業員は,正規従業員3名及びパート1名の合計4名である。
⑦その他の補償(発行済み書籍に訂正シール代24万1500円,名刺・印鑑の変更20万円,各種封筒等の変更25万8300円,商業登記等の変更20万円,ホームページの再構築費用100万円)
(その他の損失補償)
⑧動産引越費用 250万円
⑨移転先選定費用(不動産仲介料) 161万1600円
⑩移転旅費費用 50万円
⑪その他の雑費 1000万円
防災設備,空調工事,スプリンクラー設置工事などが必要となることが見込まれる。
(2) 本件請求の趣旨変更の効力をどうみるべきか
ア 原告
本件請求の趣旨変更は,明渡料(立退料)の提供の点について,従前の1200万円もしくは裁判所が認める適正な明渡料の支払を受けるのと引き換えにとする申し入れを,2000万円を限度として建物の明渡を求めることを明示することにより,申立ての範囲を明らかにしたものである。
したがって,本件請求の趣旨変更は請求の減縮には該当せず,被告の同意を要するものではない。
イ 被告
本件請求の趣旨変更は,「裁判所が認める適正な明渡料と引き換えに」とある部分を削除することにより,鑑定における明渡料4026万6000円の明渡料が命じられるのを防ぐことを意図したものであるから,請求の減縮に該当することは明らかであって,被告の同意がない限り,本件請求の趣旨変更の効力は生じない。
第3 当裁判所の判断
1 本件の中心的な争点は,原告による更新拒絶の通知又は解約の申し入れに借地借家法28条の正当の事由があるか否かである。そして,それは,建物の賃貸人及び賃借人が建物の使用を必要とする事情のほか,建物の賃貸借に関する従前の経過,建物の利用状況及び建物の現況並びに建物の賃貸人が建物の明渡の条件として又は建物の明渡と引き換えに建物の賃借人に対して財産上の給付をする旨の申出をした場合におけるその申出を考慮して,決定される。
2 賃貸人である原告側の事情,建物の利用状況および建物の現況について
本件において,原告が本件建物の明渡を受ける必要があるとする主な根拠は,本件建物の耐震性に問題があり,危険性があるということにある。そこで,以下では,まずこの点について検討する。
(1) 証拠(認定事実の末尾に掲記する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア aビルは,昭和38年12月に竣工した地上10階,塔屋2階,地下1階の鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物であって,竣工後45年を経過している上,旧耐震基準に従って設計された建物である。本件建物はaビルの9階部分である。(甲1,2,弁論の全趣旨)
イ 森ビルは,平成18年7月,株式会社入江三宅設計事務所(以下「訴外設計事務所」という。)に委託して,財団法人日本建築防災協会耐震診断基準(三次診断)に基づく診断を実施した。ただし,この診断は,構造図及び構造計算書の情報のみに基づく概略検討であった。その結果,耐震性能判定値Is(Seismic Index of Structure構造耐震指標。平成18年1月25日国土交通省告示184号によれば,Is値が0.6以上であれば,地震に対して倒壊又は崩壊する危険性が低いとされる。)は,X方向0.5~0.627,Y方向0.572~0.798であった。この結果は,数値の低い部分に着目すれば,上記告示の別表6『(二)地震の震動および衝撃に対して倒壊し,又は崩壊する危険性がある』に該当する。(甲21)
ウ 森ビルの設計部構造設計グループは,平成18年7月,昭和56年6月1日施行の建築基準法施行令が定めるいわゆる新耐震設計法による「保有水平耐力」(建物が地震による水平方向の力に対して対応する強度)を診断した。ただし,この診断は,構造図及び構造計算書の情報のみに基づく検討であった。その結果,保有水平耐力比は,X方向で0.396~0.509,Y方向で0.379~0.640であり,q値は,X方向で0.713,Y方向で0.682~1.024であった。これをもとに,工学的にIs値を類推すると,0.3未満になるとして,前記告示の別表6『(一)地震の震動および衝撃に対して倒壊し,又は崩壊する危険性が高い』に該当するとしている。(甲21)
エ 前記告示の「別表第6」によれば,本件のようにIs値がX方向0.5~0.627,Y方向0.572~0.798であり,q値がX方向で0.713,Y方向で0.682~1.024の場合には,「地震の震動及び衝撃に対して崩壊し,又は崩壊する危険性がある」に該当することになる。(甲22)
(2) 以上の事実に基づき検討するに,本件建物は,前記告示の「地震の震動及び衝撃に対して崩壊し,又は崩壊する危険性がある」に該当するというべきである。(1),ウの森ビルの設計部構造設計グループによるIs値の推計は,国土交通省が承認する方式に基づくものとは認められないし,その推計結果は訴外設計事務所によるIs値の算定と矛盾する上,q値からIs値を推計することの合理性が一般的に承認されているのなら,前記告示の「別表第6」が,Is値とq値を別のものと把握した上で,両者の相関関係によって耐震性を判断していることの合理性に疑問が生ずることになるから,採用できない。また,森ビルは耐震性を不足を理由としてテナントに明渡を求める側であるから,この点からしても,その検討結果をそのまま信用することはできない。
(3) 証拠(乙1の1,2,乙12の1,2,乙13)および弁論の全趣旨によれば,aビルが所在する地域(東京都港区愛宕)の周辺では,東京都による「環状第二号線新橋・虎ノ門地区再開発事業」が進められており,平成20年6月20日付けで虎ノ門街区(Ⅲ街区)の都市計画変更が決定されたこと,平成21年6月,森ビルが上記再開発事業の虎ノ門街区の特定建築者予定者となることに決まったこと,aビルの周辺の建物は森ビルが所有者の三興森ビルを含めて次々に建て替えられていることが認められる。そうすると,森ビルによるaビルの改築も,耐震問題はその1つの理由にすぎず,主たる動機は,上記再開発事業に伴い,aビル周辺も再開発することにあると推認するのが相当である。
(4) そうすると,本件建物の耐震性の不足は著しいものではなく,耐震改修工事によって補強することが十分に可能であると推認される。
しかし,証拠(甲20)および弁論の全趣旨によれば,森ビルがaビルのテナントに明渡を求めた結果,現在では本件建物の賃借人である被告以外のテナントは1階の喫茶店を除いて退去した状況にあり,aビルの区分所有建物である本件建物の所有者にすぎない原告のみでは耐震改修工事を実施することは不可能であると認められるから,森ビルのaビル改築の主たる動機が再開発事業にあり,また,耐震改修工事が物理的に可能であるからといって,原告について直ちに正当の事由を否定することは相当ではない。
3 賃借人である被告側の事情,建物の賃貸借に関する従前の経過について
(1) 証拠(各認定事実の末尾に掲記する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の各事実を認めることができる。
ア 被告は,原告から「eビル」を賃借していたところ,昭和39年,原告が森ビルとの間で等価交換によりaビルの4階部分の区分所有建物(本件建物はその一部)を取得したことから,本件建物を賃借するようになり,以後,43年間にわたって,本件建物で出版業を営んできた。原告の出版物は,全国各地の郵便局及び郵便局職員に対して販売される定期刊行物が中心であるが,単行本も出版しており,これらの43年間にわたって刊行してきた出版物には,すべてに本件建物が住所地として印刷表記されている。(甲8,17,18,31,乙5)
イ 原告と被告は,平成18年4月20日,本件賃貸借契約について,下記の内容の「覚書」を交わした。(甲5)
記
(ア) 従前の賃料月額104万4500円を30%引き下げ月額73万1150円とする。
(イ) この覚書による賃料は,平成18年5月分賃料から3ヶ月間のみ有効とし,以降は別途協議とする。
(ウ) この覚書は,「賃借面積の半減およびそれに伴う賃借料の50%引下げ要請に対し,賃借面積を半減する場合の改装工事費が高額(約3500千円)となり,双方折半とした場合でも,双方にディメリットが大きいための,暫定的措置である。」
ウ 被告の主要な得意先は,郵便局株式会社,郵便事業株式会社,株式会社ゆうちょ銀行,株式会社かんぽ生命保険であるところ,郵政民営化の進展に伴い,平成14年には売上高が3億5100万円であったのに,平成19年には1億5000万円に減少している。そして,原告が発行してきた定期刊行物である「d誌」,「c誌」,「b誌」はいずれも休刊となっている。(甲16,17)
(2) 以上によれば,被告の出版事業にとって本件建物を住所とすることに営業上の価値があり,また,売上高及び覚書を交わした経緯から見て,引越料等を負担して他の場所に移転し,高額な賃料を負担して出版業が続けられるほど,被告に資金的余裕があるとはいえず,比較的賃料が安い本件建物を賃借し続けることに重大な利益があると認められる。
4 正当の事由についての検討
2及び3に検討したところによれば,原告の本件建物の明渡を求める必要性(本件建物の耐震性の程度と改修工事によることができない理由)と被告における本件建物の使用の必要性を比較すると,後者が勝っているというべきであって,原告の解約申入れあるいは更新拒絶は,そのままでは正当の事由を具備しているとは認め難い。
しかし,前記のとおり,本件建物(aビル)が所在する地域の付近では,東京都による「環状第二号線新橋・虎ノ門地区再開発事業」が進められており,平成21年6月には森ビルが上記再開発事業の虎ノ門街区の特定建築者予定者となることに決まり,aビルの周辺の建物は次々に建て替えられているというのである。他方,aビルは,昭和38年12月に竣工した地上10階,塔屋2階,地下1階の鉄骨鉄筋コンクリート造りの建物であって,竣工後45年を経過しており,耐震改修工事によって利用は可能であるものの,森ビルの意向抜きに進められない上,上記のような周辺地区の情勢及び他のテナントがほとんど退去済みであることに鑑みれば,社会経済的な見地からは,aビルを改築の可能とすることにも合理性があり,本件建物の明渡による被告の経済的不利益を十分に補填することができれば,正当の事由を備えることが認められるというべきである。
5 正当の事由を基礎づける立退料の額について
(1) 鑑定人Cによる鑑定の結果(以下「本件鑑定」という。ただし,平成22年4月2日付けの修正後の評価書を指す。)によれば,立退料は,下記のとおり,借家権価格1174万5000円及び営業補償等2852万1000円の合計4026万6000円が相当であるとしている。
(2) 本件鑑定は,借家権及び補償(家賃差額補償,営業休止補償,移転費用相当額等)については各種の考え方があることを踏まえ,本件の場合には,被告が本件建物に店舗兼営業所があることについて「立地的な特別効用」を得ているとし,かつ,不随意立ち退きに伴う正当事由の補完としての立退料が問題になっているとの判断の下,借家権価格及び立ち退きに伴う補償額の合計額をもって立退料の額とすべきものとした。
(3) 借家権価格について
ア 本件鑑定は,借家権価格を求める手法については,①賃借人が権利に基づき建物を占有している状況を所与として,敷地利用権の一定割合及び建物価額の一定割合が占有者に帰属するものとして両者を加算して借家権価額を算定する方法(割合法)と②自用の建物及びその敷地の完全所有権価額と貸家及びその敷地の価額の差額を配分する方法(自建貸家差額法)によることとした。
イ 割合法による算定
(ア) 積算価格
まず,本件不動産の積算価格を求めた。
土地の価格の算定において,一団地更地価格を1m2あたり202万9000円とし,一団地建付地価格を1m2あたり192万8000円とした上,原告が有する借地権の準共有持分に相当する地積を30.10m2とし,借地権設定土地価格を5803万3000円,借地権価格をその80%である4642万6000円と算定した。
建物価格の算定において,建物再調達原価に耐用年数に基づく減価(耐用年数をあと4年と算定)及び観察減価(減価率90%)を加えて,一棟全体の建物価格を1億2786万円とし,これに階層別効用比率及び位置別効用比率を乗じて,配分率を0.057658として,本件建物の積算価格を求めると737万2000円となると算定した。
以上から,本件鑑定は,本件不動産の積算価格は,以上の合計額の5379万8000円となるとした。
(イ) 収益価格
本件鑑定は,月額賃料として現行の賃料73万1150円を採用し,消費税を除いた69万6333円とし,総収益額を847万円,総費用を533万8000円とし,その結果,総収益は313万2000円となり,還元利回りを8%ととして,収益価格を3915万円と算定した。
(ウ) 本件鑑定は,以上の積算価格と収益価格のうち,収益価格の3915万円をもって本件不動産の価格とした。
(エ) 借家権割合については,国税庁の財産評価基本通達に基づき,30%とし,割合法による借家権価格を1174万5000円とした。
ウ 自建貸家差額法による算定
積算価格5379万8000円から収益価格3915万円を控除した1464万8000円をもって,自建貸家差額法による借家権価格とした。
エ 借家権価格の決定
本件鑑定は,上記ウ及びエの借家権価格のうち,割合法による借家権価格1174万5000円をもって本件建物の借家権価格とした。
(4) 補償額について
ア 立ち退きに伴う補償額は,「公共用地の取得に伴う損失補償基準」(昭和37年10月12日用地対策連絡協議会理事会決定。以下「補償基準」という。)に基づき,動産移転料(補償基準31条),借家人の補償(同34条),移転雑費(同37条),営業休止補償(同44条)を算出し,それらの合計額をもって補償額とするものとした。そして,本件不動産は,被告の事務所見店舗として利用されており,立ち退き,引越のためには一定期間営業を行えないため,営業休止補償等も必要となると判断している。
イ 動産移転料(補償基準31条)として,53万円が相当であるとした。
ウ 借家人補償(補償基準34条)としては,家賃差額補償額1316万6000円,返還されない一時金(権利金等)として124万5000円,返還される一時金(敷金)の運用益喪失分として136万円の合計1577万1000円とした。
なお,家賃差額補償額の算定の前提としての現行賃料は,69万6333円とした。
エ 移転雑費(補償基準37条)として,移転先選定に要する費用126万2900円,法令上の手続に要する費用20万円,取引先への移転通知費用770万8000円,発行済み書籍訂正シール代23万円,印鑑・名刺等の変更費用20万円,各種封筒などの変更24万6000円,間仕切り工事16万円,電源・LAN工事100万円,電話工事50万円の合計1004万4000円とした。
なお,取引先への移転通知費用の前提として,通知先について,被告主張の3万5000箇所を信用できるものとし,回数については,被告主張よりも減らして2回とした。
オ 補償額の合計
本件鑑定は,以上の合計として,補償額を1150万6900円と算定した。
(5) 本件鑑定の採否について
ア 原告は,修正後の本件鑑定について,①本件鑑定は,裁判例を参照しているが,それらの裁判例の事案と異なる本件建物のような「事務所」についてまで借家権価格と営業補償額の合算を認めるのは相当ではない,②「借家権価格」は,建物の立退料を算定するに当たり,その「借家権価格」を買い上げるとの視点から金銭評価されるものであり,他方,補償基準における借家人補償は,新たな借家権を取得するための費用を算定するものであり,借家権価格に借家人補償を加えるのは妥当ではない,③家賃差額補償を算定する前提としての従前の賃料として,30%減額した暫定賃料(消費税を除くと69万6333円)を採用したのは不当である,④取引先への移転通知費用の前提として,通知先について,被告主張の3万5000箇所を採用したのは不当である,と主張した。
イ 原告主張の上記①,②についてみれば,立退料は正当の事由を補完するものであるから,立退料提供以外の事情により,どの程度正当の事由が基礎付けられているかによってその額が左右されるべきものである。この点,原告の場合には,本件建物の耐震性が不十分である(それもIs値が0.6を少し下回った程度である。)というだけの事由で明渡を求めているのであり,その背景には,aビルの所有者である森ビルによる周辺の再開発計画があるというのであるから,正当の事由を補完するためには相当額の立退料の提供が必要になるべきである上,被告による本件建物の使用については,被告が「立地的な特別効用」を得ていることも考慮すれば,上記主張は採用できない。
ウ 次に,原告の主張③についてみるに,前記認定のとおり,現在の賃料は平成18年5月から7月までの暫定賃料であるとの覚書があることは事実であるが,その後現在に至るまで上記金額の賃料が授受されてきたという事実をみれば,もはや暫定賃料と見るのは相当ではなく,原告の上記主張は採用できない。
エ 最後に,原告の主張④をみれば,本件鑑定が被告の主張を採用したことが不合理であるとまではいえない。被告の経費(PL)の中で通信費の占める割合は,第58期で実額323万4720円(10.68%),第59期で実額202万7761円(6.76%),第60期で実額187万3356円(6.95%)と高く,被告の営業が通信に頼るものであること,被告は郵便事業関係の取引によって成り立ってきた会社であるところ,郵便局株式会社の支社,郵便局等が2万4025箇所,郵便事業株式会社の支社,支店,集配センター等が3668箇所,株式会社ゆうちょ銀行の本社,営業所が235箇所,株式会社かんぽ生命の直営店等が86あること,日書連加盟店(書店)が約6300あること,それらに対する通知が不要であるとする根拠は見出し難いことからすれば,被告主張の3万5000箇所を採用したことが不当であるとはいえない。
オ その他,修正後の本件鑑定の信用性を否定するに足りる事情は認められないから,本件鑑定の結果を採用すべきであり,立退料は,借家権価格1174万5000円及び営業補償等2852万1000円の合計4026万6000円をもって,相当と認める。
6 本件請求の趣旨変更の可否について
賃貸人がいったん申し出た立退料の減額を申し出ることが認められるべきかについては,民事訴訟法246条の趣旨に照らせば,認められないと解すべきである。そして,本件請求の趣旨変更前は,「金1200万円もしくは裁判所が認める適正な明渡料の支払と引き換えに」という請求の趣旨であったのであるから,これを「金2000万円の支払と引き換えに」とすることは,本件鑑定による4026万6000円の立退料が認定できないようにしようとする意図であることは明らかであって,立退料の減額申出とみることができる。したがって,本件請求の趣旨変更は,請求の減縮に該当し,被告の同意がない限り,その効力を生じないというべきである。
原告としても,本件建物の現況,利用状況に照らせば,上記の程度の立退料が上乗せされたとしても,本訴請求が棄却されるよりも本件建物の明渡を受けることに大きな利益を有しているはずであり,実質的に見ても妥当である。
7 以上によれば,原告の請求は理由があるのでこれを認容することとし(減額の申出が認められないとすると,全部認容となる。),訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条,仮執行の宣言につき同法259条1項を各適用して,主文のとおり判決する。
(裁判官 齊木敏文)
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