【営業代行から学ぶ判例】crps 裁判例 lgbt 裁判例 nda 裁判例 nhk 裁判例 nhk 受信料 裁判例 pl法 裁判例 pta 裁判例 ptsd 裁判例 アメリカ 裁判例 検索 オーバーローン 財産分与 裁判例 クレーマー 裁判例 クレプトマニア 裁判例 サブリース 裁判例 ストーカー 裁判例 セクシャルハラスメント 裁判例 せクハラ 裁判例 タイムカード 裁判例 タイムスタンプ 裁判例 ドライブレコーダー 裁判例 ノンオペレーションチャージ 裁判例 ハーグ条約 裁判例 バイトテロ 裁判例 パタハラ 裁判例 パブリシティ権 裁判例 ハラスメント 裁判例 パワーハラスメント 裁判例 パワハラ 裁判例 ファクタリング 裁判例 プライバシー 裁判例 プライバシーの侵害 裁判例 プライバシー権 裁判例 ブラックバイト 裁判例 ベネッセ 裁判例 ベルシステム24 裁判例 マタニティハラスメント 裁判例 マタハラ 裁判例 マンション 騒音 裁判例 メンタルヘルス 裁判例 モラハラ 裁判例 モラルハラスメント 裁判例 リストラ 裁判例 リツイート 名誉毀損 裁判例 リフォーム 裁判例 遺言 解釈 裁判例 遺言 裁判例 遺言書 裁判例 遺言能力 裁判例 引き抜き 裁判例 営業秘密 裁判例 応召義務 裁判例 応用美術 裁判例 横浜地裁 裁判例 過失割合 裁判例 過労死 裁判例 介護事故 裁判例 会社法 裁判例 解雇 裁判例 外国人労働者 裁判例 学校 裁判例 学校教育法施行規則第48条 裁判例 学校事故 裁判例 環境権 裁判例 管理監督者 裁判例 器物損壊 裁判例 基本的人権 裁判例 寄与分 裁判例 偽装請負 裁判例 逆パワハラ 裁判例 休業損害 裁判例 休憩時間 裁判例 競業避止義務 裁判例 教育を受ける権利 裁判例 脅迫 裁判例 業務上横領 裁判例 近隣トラブル 裁判例 契約締結上の過失 裁判例 原状回復 裁判例 固定残業代 裁判例 雇い止め 裁判例 雇止め 裁判例 交通事故 過失割合 裁判例 交通事故 裁判例 交通事故 裁判例 検索 公共の福祉 裁判例 公序良俗違反 裁判例 公図 裁判例 厚生労働省 パワハラ 裁判例 行政訴訟 裁判例 行政法 裁判例 降格 裁判例 合併 裁判例 婚約破棄 裁判例 裁判員制度 裁判例 裁判所 知的財産 裁判例 裁判例 データ 裁判例 データベース 裁判例 データベース 無料 裁判例 とは 裁判例 とは 判例 裁判例 ニュース 裁判例 レポート 裁判例 安全配慮義務 裁判例 意味 裁判例 引用 裁判例 引用の仕方 裁判例 引用方法 裁判例 英語 裁判例 英語で 裁判例 英訳 裁判例 閲覧 裁判例 学説にみる交通事故物的損害 2-1 全損編 裁判例 共有物分割 裁判例 刑事事件 裁判例 刑法 裁判例 憲法 裁判例 検査 裁判例 検索 裁判例 検索方法 裁判例 公開 裁判例 公知の事実 裁判例 広島 裁判例 国際私法 裁判例 最高裁 裁判例 最高裁判所 裁判例 最新 裁判例 裁判所 裁判例 雑誌 裁判例 事件番号 裁判例 射程 裁判例 書き方 裁判例 書籍 裁判例 商標 裁判例 消費税 裁判例 証拠説明書 裁判例 証拠提出 裁判例 情報 裁判例 全文 裁判例 速報 裁判例 探し方 裁判例 知財 裁判例 調べ方 裁判例 調査 裁判例 定義 裁判例 東京地裁 裁判例 同一労働同一賃金 裁判例 特許 裁判例 読み方 裁判例 入手方法 裁判例 判決 違い 裁判例 判決文 裁判例 判例 裁判例 判例 違い 裁判例 百選 裁判例 表記 裁判例 別紙 裁判例 本 裁判例 面白い 裁判例 労働 裁判例・学説にみる交通事故物的損害 2-1 全損編 裁判例・審判例からみた 特別受益・寄与分 裁判例からみる消費税法 裁判例とは 裁量労働制 裁判例 財産分与 裁判例 産業医 裁判例 残業代未払い 裁判例 試用期間 解雇 裁判例 持ち帰り残業 裁判例 自己決定権 裁判例 自転車事故 裁判例 自由権 裁判例 手待ち時間 裁判例 受動喫煙 裁判例 重過失 裁判例 商法512条 裁判例 証拠説明書 記載例 裁判例 証拠説明書 裁判例 引用 情報公開 裁判例 職員会議 裁判例 振り込め詐欺 裁判例 身元保証 裁判例 人権侵害 裁判例 人種差別撤廃条約 裁判例 整理解雇 裁判例 生活保護 裁判例 生存権 裁判例 生命保険 裁判例 盛岡地裁 裁判例 製造物責任 裁判例 製造物責任法 裁判例 請負 裁判例 税務大学校 裁判例 接見交通権 裁判例 先使用権 裁判例 租税 裁判例 租税法 裁判例 相続 裁判例 相続税 裁判例 相続放棄 裁判例 騒音 裁判例 尊厳死 裁判例 損害賠償請求 裁判例 体罰 裁判例 退職勧奨 違法 裁判例 退職勧奨 裁判例 退職強要 裁判例 退職金 裁判例 大阪高裁 裁判例 大阪地裁 裁判例 大阪地方裁判所 裁判例 大麻 裁判例 第一法規 裁判例 男女差別 裁判例 男女差别 裁判例 知財高裁 裁判例 知的財産 裁判例 知的財産権 裁判例 中絶 慰謝料 裁判例 著作権 裁判例 長時間労働 裁判例 追突 裁判例 通勤災害 裁判例 通信の秘密 裁判例 貞操権 慰謝料 裁判例 転勤 裁判例 転籍 裁判例 電子契約 裁判例 電子署名 裁判例 同性婚 裁判例 独占禁止法 裁判例 内縁 裁判例 内定取り消し 裁判例 内定取消 裁判例 内部統制システム 裁判例 二次創作 裁判例 日本郵便 裁判例 熱中症 裁判例 能力不足 解雇 裁判例 脳死 裁判例 脳脊髄液減少症 裁判例 派遣 裁判例 判決 裁判例 違い 判決 判例 裁判例 判例 と 裁判例 判例 裁判例 とは 判例 裁判例 違い 秘密保持契約 裁判例 秘密録音 裁判例 非接触事故 裁判例 美容整形 裁判例 表現の自由 裁判例 表明保証 裁判例 評価損 裁判例 不正競争防止法 営業秘密 裁判例 不正競争防止法 裁判例 不貞 慰謝料 裁判例 不貞行為 慰謝料 裁判例 不貞行為 裁判例 不当解雇 裁判例 不動産 裁判例 浮気 慰謝料 裁判例 副業 裁判例 副業禁止 裁判例 分掌変更 裁判例 文書提出命令 裁判例 平和的生存権 裁判例 別居期間 裁判例 変形労働時間制 裁判例 弁護士会照会 裁判例 法の下の平等 裁判例 法人格否認の法理 裁判例 法務省 裁判例 忘れられる権利 裁判例 枕営業 裁判例 未払い残業代 裁判例 民事事件 裁判例 民事信託 裁判例 民事訴訟 裁判例 民泊 裁判例 民法 裁判例 無期転換 裁判例 無断欠勤 解雇 裁判例 名ばかり管理職 裁判例 名義株 裁判例 名古屋高裁 裁判例 名誉棄損 裁判例 名誉毀損 裁判例 免責不許可 裁判例 面会交流 裁判例 約款 裁判例 有給休暇 裁判例 有責配偶者 裁判例 予防接種 裁判例 離婚 裁判例 立ち退き料 裁判例 立退料 裁判例 類推解釈 裁判例 類推解釈の禁止 裁判例 礼金 裁判例 労災 裁判例 労災事故 裁判例 労働基準法 裁判例 労働基準法違反 裁判例 労働契約法20条 裁判例 労働裁判 裁判例 労働時間 裁判例 労働者性 裁判例 労働法 裁判例 和解 裁判例

判例リスト「営業代行会社 完全成功報酬|完全成果報酬」(469)昭和58年10月12日 東京地裁 昭51(特わ)1948号 受託収賄、外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反事件 〔ロッキード事件(丸紅ルート)〕

判例リスト「営業代行会社 完全成功報酬|完全成果報酬」(469)昭和58年10月12日 東京地裁 昭51(特わ)1948号 受託収賄、外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反事件 〔ロッキード事件(丸紅ルート)〕

裁判年月日  昭和58年10月12日  裁判所名  東京地裁  裁判区分  判決
事件番号  昭51(特わ)1948号・昭51(特わ)1831号・昭51(特わ)2635号・昭51(特わ)2139号・昭51(刑わ)3936号・昭51(特わ)2092号
事件名  受託収賄、外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反事件 〔ロッキード事件(丸紅ルート)〕
裁判結果  有罪(控訴)  文献番号  1983WLJPCA10120002

要旨
◆内閣総理大臣の職務権限
◆内閣総理大臣に対する受託収賄罪が認められた事例
◆受託収賄罪と外国為替及び外国貿易管理法違反罪との罪数関係

新判例体系
刑事法編 > 刑法 > 刑法〔明治四〇年法律… > 第二編 罪 > 第二五章 汚職の罪 > 第一九七条 > ○単純収賄罪・受託収… > (四)行為 > A 「職務ニ関シ」 > (3)職務の範囲 > (イ)職務と密接な関… > (ⅱ)該当する事例 > 内閣総理大臣の場合
◆内閣総理大臣は閣議にかけて決定した方針に基づいて、各国務大臣の所管と権限を有する事項について指揮監督する権限を有しており、閣議決定方針に基づき全日空に対しL一〇一一型機を選定購入せしめるべく行政指導をせよと運輸大臣を指揮監督するような行為は、内閣総理大臣の職務権限に属する行為であり、内閣総理大臣自らが直接全日空に対し右行政指導と同じ内容の働きかけをするような行為は、右指揮監督権を背景とし、右権限行使に準ずる公務的性格の行為であって、内閣総理大臣の職務と密接に関係する準職務行為である。

 

裁判経過
上告審 平成 7年 2月22日 最高裁大法廷 判決 昭62(あ)1351号 外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反被告事件 〔ロッキード事件丸紅ルート事件・上告審〕
控訴審 昭和62年 7月29日 東京高裁 判決 昭59(う)263号 受託収賄、外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反被告事件 〔ロッキード事件丸紅ルート・控訴審〕

出典
刑月 15巻10号521頁
判時 1103号3頁

評釈
香川達夫・ジュリ 803号55頁
渥美東洋・法教 41号69頁
渡辺脩・法と民主主義 200・201号169頁
小田中聰樹・法と民主主義 200・201号66頁
加藤哲郎 他・法と民主主義 196号5頁(特集)
板倉宏・月刊社会党 331号112頁
白取祐司・法時 57巻11号70頁
渥美東洋=板倉宏=山本祐司・法セ 347号16頁(特集)
正森成二・前衛 501号18頁
長谷川正安・前衛 500号52頁

参照条文
外為法70条
刑法197条1項(昭55法30改正前)
刑法54条(昭55法30改正前)
航空法100条
航空法101条
航空法108条
航空法109条
国家行政組織法2条
内閣法6条
内閣法8条
日本国憲法68条
日本国憲法72条
日本国憲法73条

裁判年月日  昭和58年10月12日  裁判所名  東京地裁  裁判区分  判決
事件番号  昭51(特わ)1948号・昭51(特わ)1831号・昭51(特わ)2635号・昭51(特わ)2139号・昭51(刑わ)3936号・昭51(特わ)2092号
事件名  受託収賄、外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律違反事件 〔ロッキード事件(丸紅ルート)〕
裁判結果  有罪(控訴)  文献番号  1983WLJPCA10120002

被告人 田中角榮 ほか四人

 

主  文

一、被告人田中角榮を懲役四年に処する。
同被告人から金五億円を追徴する。
二、被告人榎本敏夫を懲役一年に処する。
同被告人に対し、この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。
三、被告人檜山廣を懲役二年六月に処する。
四、被告人伊藤宏を懲役二年に処する。
五、被告人大久保利春を懲役二年に処する。
同被告人に対し、この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。
六、訴訟費用中、証人若狹得治に対し第五五回公判期日における証人尋問の関係で支給した旅費・日当全部及び同証人に対し第五九回公判期日における証人尋問の関係で支給した旅費・日当のうち被告人大久保利春の関係のみで行われた尋問手続にかかる分(以上合計四、二五〇円)は被告人大久保利春の負担とし、その余の訴訟費用は、被告人田中角榮、同榎本敏夫、同檜山廣、同伊藤宏、同大久保利春の連帯負担とする。

 

理  由

第一章  認定事実
第一節  被告人らの経歴及び本件の前提ないし背景となる事情
一  被告人らの経歴
被告人田中角榮は、昭和一一年ころから建築設計事務所、土木建築会社等を経営していたが、昭和二二年に新潟県の選挙区から衆議院議員選挙に立候補して当選し、爾来連続一四回当選して現在に至るまで同院議員の職にあり、その間、その所属していた自由民主党(昭和五一年七月二七日に離党している)の政務調査会長、幹事長をつとめ、昭和三二年七月一〇日から約一年間第一次岸内閣の郵政大臣、同三七年七月一八日から約三年間引続いて第二次・第三次池田内閣及び第一次佐藤内閣の大蔵大臣、同四六年七月五日から約一年間第三次佐藤内閣の通商産業大臣を歴任したあと、昭和四七年七月七日、内閣総理大臣に任命されて第一次田中内閣を組織し、同年一一月衆議院が解散された後の同年一二月二二日に再び内閣総理大臣に任命されて第二次田中内閣を組織し、同四九年一二月九日、内閣総辞職の結果その地位を失うまで、引続いて二年五か月間、内閣の首長たる地位にあった者である。
被告人榎本敏夫は、昭和二三年四月以降、自由民主党(その前身である民主自由党等を含む)本部職員として勤める傍ら、昭和三〇年から連続二期東京都北区議会議員をしていたが、そのうち被告人田中を知って傾倒し、同被告人の関係する建設会社に入りその役員などをしたあと、昭和四〇年ころ、田中の秘書となり、主として政務に関する事項を担当し、田中が通商産業大臣及び内閣総理大臣に在任中は、右各大臣の官制上の秘書官に任命されていた者である。
被告人檜山廣は、昭和七年以降貿易会社に勤め、昭和二四年、その勤務する大建産業株式会社が過度経済力集中排除法の適用によって四社に分離されたことから、同社の商事部門を継承し内外物資の輸出入及び販売等を営む総合商社として設立された丸紅株式会社に入った。その後、同社は高島屋飯田株式会社と合併して商号を丸紅飯田株式会社と変更し、東通株式会社を吸収合併したあと、昭和四七年一月、丸紅株式会社の名に復した(以下右昭和二四年の設立以降の同社を、商号の変遷にかかわらず「丸紅」と略称する。)が、その間に事業所を国内に五三箇所、海外に一一〇箇所有し、従業員約九、九〇〇人、資本金三〇二億五、〇〇〇万円(昭和四七年一〇月一日現在)の大企業に成長した。同被告人はこの間、同社丸の内支店長を経て、昭和二七年一一月取締役、同三二年五月常務取締役、同三五年五月専務取締役、同三六年一一月取締役副社長と昇進したうえ、同三九年五月三〇日取締役社長に就任し、同五〇年五月三〇日同社取締役会長となるまでの一一年間、丸紅の業務遂行の最高責任者として従業員を指揮監督し業務活動全般の掌理推進に当り、傍ら、日本貿易会副会長、日本経営者団体連盟及び経済団体連合会の各常任理事など財界の団体の役職についていたが、現在は右取締役会長を辞して同社理事をしている者である。
被告人伊藤宏は、昭和二三年四月、丸紅の前身である前記大建産業株式会社に入社したが病気療養中除籍されて昭和二六年丸紅に復籍、主として同社社長室に勤務し、昭和四六年五月取締役、同四七年一一月常務取締役、同五〇年六月専務取締役と昇進したが、同五一年二月これを辞し、現在は同社理事である。同被告人は、昭和四四年六月から同五一年二月まで、同社社長室長として、組織・禀議・投資・秘書に関する事務のほか、経営会議・常務会・本部長会等の事務局としての業務等を統轄し、職員を指揮してその推進に当っていたが、同室では政治献金に関する事務を取扱うなど政治家とのかかわりをもつことも多く、政界の事情に通じていた者である。
被告人大久保利春は、昭和一三年ころから銀行に勤務したあと、昭和二四年ころ、鉄鋼・機械等の輸出入業を営む会社を経営していたが、約九年で商社の朝日物産株式会社に吸収合併された。同被告人は、同社が商号を変更した東通株式会社で役員などをしているうち、昭和四一年に同社が前記のとおり丸紅に吸収合併されたのに伴って丸紅に入り、同四三年五月取締役、同四六年五月常務取締役、同五〇年五月専務取締役と昇進したが、同五一年二月これを辞し、現在は同社理事となっている。同被告人は、昭和四三年六月から同四四年五月まで、航空機の輸入販売等の業務を担当する電機輸送機械部(のちにこの部の名称は「建設輸送機械部」を経て「輸送機械部」へと変更された。)航空機課を含む六箇部三十数課から成る機械第一本部の副本部長、昭和四四年六月から同五一年二月まで同本部長をつとめ、同本部職員を指揮し、航空機を含む各種機械の輸入販売等の業務に従事していた者である。
二  本件の前提ないし背景となる事情
(一) 大型航空機の開発とわが国への売込開始
昭和四〇年代に入って世界的に航空旅客需要増加の傾向がみられ、世界の主要な航空機製造企業は大型ジェット航空機の開発製造に力を注ぎ始めた。当時の主力機は定員一三〇人程度のジェット機であったが、その胴体を伸長して定員を二〇〇名前後に増加させたもの(例えばB七二七―二〇〇型機〔一七八人乗り〕、DC八―六一型機〔二三四人乗り〕)が製造される一方、これらより格段に大きい新たな機種、すなわちエアバスと呼ばれる定員三〇〇人余りのもの、さらに大型で定員四五〇人ないし五〇〇人のジャンボと呼ばれるものが開発されるに至った。エアバス級の機種としては、米国のマクダネル・ダグラス・コーポレイション(以下「ダグラス社」という)のDC一〇型機、同国のロッキード・エアクラフト・コーポレイション(以下「ロッキード社」という)のL一〇一一型機(愛称トライスター)のほか、英国のBAC一一一型機、ヨーロッパのアエロスパシアルによるA三〇〇型機があり、ジャンボ級の機種は米国のザ・ボーイング・カンパニー(以下「ボーイング社」という)のB七四七型機であった。昭和四三年までにはこれらの機種の開発が公表され、世界の主要な航空企業に対する売込が開始された。
わが国においては、昭和四三年ころから、国内線、国際線ともに航空旅客需要が驚異的な伸びを示すようになり、空港の発着便数能力に限度があったこと、乗員が不足であったこと等の事情もあって、航空機の大型化が強く求められるに至り、運輸省も大型ジェット機導入の方針を打出し、昭和四四年三月、運輸大臣は国会においてエアバスを導入したいとの意向を表明した。このような情況の下で、昭和四四年、日本航空株式会社(以下「日本航空」という)は前記DC八―六一型機を、全日本空輸株式会社(以下「全日空」という)は前記B七二七―二〇〇型機をそれぞれ導入したが、両社ともさらにエアバス級ないしジャンボ級の航空機の導入を計画し、昭和四三年暮から同四四年にかけて新機種選定及びその受入準備計画策定の作業を開始し、その過程で両社とも導入すべき候補機をDC一〇型機、L一〇一一型機、B七四七型機の米国三機種に絞るに至った。
前記各航空機製造企業、とくに米国の右三社は、いずれもわが国の航空企業を、非常に大きな需要が見込まれ、かつ、近隣アジア諸国にさらに販路を拡げる足がかりとなる有力な市場として重要視し、昭和四四年ころから日本航空及び全日空の両社に対する売込活動に努力を傾け、三社間で激しい競争を展開するに至った。そうするうち、ロッキード社は、日本航空の技術担当者たちがL一〇一一型機のロールスロイス社製エンジンに馴染がないとして好意を示さなかったこと、日本航空はボーイング社と長期にわたり緊密な関係を保っているとみられたこと、L一〇一一型機は中距離用の飛行機であるのに日本航空は長距離用の機材を求めていたこと等の事情から、同社にL一〇一一型機を売込むことは困難であると考え、やがて全日空への売込に全力を傾注することとなった。
右全日空への売込は、昭和三三年以来ロッキード関連会社との間にロッキード社の製品につき販売代理店契約を結んでいた丸紅がこれを担当することとなり、ロッキード社社長のアーチボルト・カール・コーチャン(以下「コーチャン」という)は、しばしば来日して日本国内で販売活動に従事していたロッキード社職員を指揮するとともに、前記のとおり丸紅の機械第一本部長であった被告人大久保と会談して売込方法につき協議し、同被告人以下当時の同本部電機輸送機械部、航空機課の部課長その他の職員は、ロッキード社の職員を伴うなどして全日空の各部門の役員、職員らと広く接触してL一〇一一型機について説明をし、全日空における機種選定作業の進捗状況、各機種に対する同社職員らの見解、競争会社の動向等に関する情報収集をするなどの活動を行った。ダグラス社も総合商社である三井物産株式会社(以下「三井物産」という)と、ボーイング社も総合商社の株式会社日商岩井(以下「日商」という)と、それぞれ販売代理店契約を結んでいたことから、これらの商社も全日空に対して丸紅同様の売込活動を展開し、三商社間では激しい競争が行われるに至った。
(二) 全日空の機種選定作業開始とその中断
全日空は、昭和二七年に設立された日本ヘリコプター輸送株式会社が成長発展した航空企業で、昭和四四年には数多くの国内ローカル路線を運営するほか、日本航空とともに国内幹線に定期便を運航させていたが、なお国際線への進出を強く望んでおり、これが近い将来には政府によって認められるものと期待している情況にあった。同社は、ジャンボないしエアバス級の大型ジェット航空機を導入するにつき、昭和四五年一月、常務会の議により、社長の諮問機関として新機種選定準備委員会(以下「選定委」という)を社内に発足させた。選定委は、整備・運航・営業・契約・コスト資金の各専門部会、これを統合する総括部会及びその上に位する本委員会から成り、本委員会の委員長には副社長、委員に専務取締役及び本部長がなり、総括部会は企画室長を部会長とし、関係部長、室長を構成員として、企画室がその事務局となるという全社的プロジェクト組織であった。同社は当初昭和四七年四月にエアバスないしジャンボ機を就航させることを目標としていたので、就航までの準備期間をとる必要上、選定委において昭和四五年三月末までに新機種に関する調査検討の作業を終えることとし、同年二月には米国の前記三航空機製造企業に調査団を派遣するなどして検討を進めた。
ところが選定委の作業が遅れているうち、同年五月に入ると、わが国の航空業界再編成の動きが表面化し、新機種選定作業に影響を及ぼすようになった。すなわち、それまでは航空企業の合併を促進し日本航空と全日空の二社のみとしてこれに国内線を運営させるという、いわゆる二社体制が政府の方針として定められていたが、右方針の下で、日本航空、全日空とそれぞれ合併することになっていた日本国内航空株式会社(以下「国内航空」という)、東亜航空株式会社(以下「東亜航空」という)の二社が合併して第三の会社を作ろうという動きが出てきたため、運輸政策審議会(以下「運政審」という)で、従前の方針を変更して右の動きに副った方針に改めるか否か、全日空の国際線進出の点も含め各社の運航する路線をどうするかを審議することになり、これらの点について同審議会の結論及びこれを受けた運輸省ないしは政府の方針が出されなければ、機種決定はなし難い情況となった。加えて同年六月一日同社の大庭哲夫社長が急遽退陣して、若狭得治新社長に交代するということがあり、同年秋には需要の伸びが急激に下落したことから大型機導入の時期は慎重に決定すべきであるとの見解が台頭するに至って、新機種の選定は遅れた。同年一一月二〇日、内閣は運政審の答申を受けて、国内航空と東亜航空の合併を認めたほか、「航空企業内容の充実強化を図り、航空の安全性の基礎のうえに、航空機のジェット化・大型化を推進する。」、「近距離国際チャーター航空については、日本航空と全日空の提携のもとに余裕機材を活用し、わが国国際航空の積取比率向上に資する。」との閣議了解を行ったが、なお、全日空は機種決定に至らないまま、昭和四六年二月に運輸大臣(運輸省航空局)が大型航空機導入時期を昭和四九年度まで延期するよう日本航空と全日空に対して行政指導したのに対して、これに従うこととした。そうこうするうち、昭和四六年七月、全日空のB七二七―二〇〇型機が岩手県雫石上空で自衛隊機と接触墜落し、乗員乗客一六二名全員が死亡するという大事故が発生したため、その衝撃と事故の後始末に忙殺されたことなどから、選定委の活動は中断のやむなきに至った。
(三) 全日空の機種選定作業再開から決定に至る経緯
昭和四七年二月に全日空選定委は作業を再開し、前記米国の各航空機製造企業から契約申込条件提示書(プロポーザル)を取寄せ、それまでの調査結果をまとめ、同年五月にはパイロット、整備関係者らが渡米して補充調査を行うなどしていたところ、同年七月一日運輸大臣丹羽喬四郎は、日本航空、全日空等に対して「航空企業の運営体制について」との示達を文書で行い、その中で、「国内幹線への大型ジェット機の投入は、昭和四九年度以降、これを認めるものとする。ただし、沖縄線については例外とし、空港事情の許すかぎり昭和四七年度より大型ジェット機を投入し得るものとし、投入の時期、便数等について企業間において協議のうえ決定する。なおその他の国内幹線においても共同運航等の方法により共存共栄をはかることが可能な場合には、各社協議の上、投入時期の繰上げをはかることを妨げない。」との方針を明らかにしたことから、全日空も昭和四九年から大型機を導入することとして作業を進めた。昭和四七年七月下旬、ダグラス、ロッキードの両社は東京、大阪等でDC一〇型機、L一〇一一型機の公開飛行(以下「デモフライト」という)を行ったが、選定委はこの結果を含めてそれまでの検討結果をとりまとめ、同年八月三〇日に開いた本委員会において、候補三機種間には決定的な優劣はなく、これを一機種に絞ることは困難である旨の結論に達し、そのころその旨若狭社長に答申した。
同社長は同年九月、全日空各部門の幹部職員らと会って機種選定に関する意見を徴し、同年一〇月七日に役員会(常務取締役以上)を召集して各役員の意見を聴いたあと、その席上で同社長への一任方を提案し全員の賛同を得た。同社ではそのころから副社長らが米国三企業の代表者らと価額等契約内容についての最終折衝を行ったうえ、同月二八日の役員会で若狭社長が、大型機はロッキード社のL一〇一一型機を選定することとした旨報告し、同月三〇日の取締役会で右機種の選定を承認した。若狭社長は同日、ボーイング社のB七四七型機の購入を決定した日本航空社長と共に運輸大臣に会って右機種購入決定につき報告し、そのうえで全日空はL一〇一一型機の選定を公表した。
全日空は、同年一一月二日、ロッキード社に対し、L一〇一一型機を六機確定注文する旨の注文内示書(レター・オブ・インテント)を発し、さらに一五機をオプション(仮押えの注文)することとして、昭和四八年一月一二日、同社との間で、以上の内容の購入契約を締結した。
(四) 日米貿易収支不均衡と緊急輸入
昭和四五年秋以降、わが国では国際収支の黒字が著しく増加し、それが国際問題にまでなったため、政府は、昭和四六年六月、対外経済政策推進関係閣僚懇談会において、輸入自由化の促進・資本自由化の促進等八項目にわたる総合的対外経済政策を決め、さらに昭和四七年五月に同閣僚懇談会において輸入促進・外貨の活用等七項目の対外経済緊急対策を決定し、各政策の推進により収支黒字幅の縮小を図ってきたが、その間、内閣は昭和四六年一二月一九日の閣議において右八項目の政策をなお積極的に推進することを決定し、昭和四七年七月一八日には右八項目及び七項目の両対策を機動的かつ強力に推進し、輸入促進等の施策を進めることを閣議決定した。ところが、これらの施策にもかかわらず、わが国の貿易収支不均衡は拡大し、ことに米国との間のそれが甚だしくなり、米国側から、同月下旬に箱根で開催された日米通商会議の席上等で同国からの輸入を増大させるための具体策を強く求められたこともあって、わが政府は米国から数種の品目を特別に買付けることとし(この施策は「緊急輸入」といわれた。以下この語を用いる。)、その品目として、農作物・ウラン等と共に航空機が挙げられ、運輸省が、前記のとおり機種選定作業を続けていた全日空等航空各企業から航空機の購入計画、支払予定額を提出させ、これをもとにして昭和四七年及び同四八年度中にわが国の民間航空企業が米国から購入する予定の航空機に対する支出金額を約三億二、〇〇〇万ドルと見積った。この数額は他の輸入予定品目の数額と合わせて昭和四七年八月二五日及び同月二八日に、鶴見外務審議官とインガソル駐日米国大使との間で行われた会談において合計約一一億ドルとして米国側に示され、同年九月一日、米国ハワイ州での田中内閣総理大臣とニクソン米国大統領の首脳会談の際に発表された。その発表文中、航空機購入に関しては「日本の民間航空会社は、米国から約三億二、〇〇〇万ドル相当の大型機を含む民間航空機の購入を計画中である。これらの発注は昭和四七及び四八会計年度になされることとなろう。日本政府は購入契約が締結され次第、これら航空機の購入を容易ならしめる意向である。」とあり、わが国政府は右緊急輸入予定額の達成、ひいて、その中で大きな部分を占める航空機の購入ないし輸入の達成につき国際信義の上からも責任を問われるべき立場に立つに至った。
第二節  罪となるべき事実等
第一  贈収賄、外国為替及び外国貿易管理法(以下「外為法」という)違反関係
一 犯行に至る経緯等
(一) ロッキード社・丸紅の全日空に対する売込状況と不安要素
ロッキード社と丸紅は、全日空に対するL一〇一一型機の売込に当って、同機が精度の高い自動着陸装置など技術的に時代の最先端を行く装備をしていること、第二エンジンが整備の容易な位置形状に装着されていること、米国連邦航空局による測定結果では、エンジンの騒音値が他二機種に比し最も低かったことなどを大いに強調した。ことに、全日空がエアバス等の大型機を乗入れたいと考えていた大阪空港は住宅密集地の近傍にあって航空機による騒音に対し周辺の地域住民から強い抗議がなされ、厳しい規制措置を求める運動が展開されており、同社としてはエンジンの騒音量の大小を選定の重要な要素としていたため、ロッキード社はL一〇一一型機を「ささやくジェット機」と呼んで、その騒音値の低さを大いに宣伝した。
しかしながら、ロッキード社はかなり以前には民間航空機を製造した経験はあるものの、長期間にわたって軍用機の生産に専念してきたため、ダグラス社やボーイング社が旅客機製造企業として世界的にも有名で、わが国においてもその名が通り信用を得ているのに比べると、航空企業や乗客の間での知名度や信用面に劣るところがあった。またロールスロイス社によるエンジンの開発が難航したため、L一〇一一型機自体の開発製造が他機種と比較してかなり遅れていたうえ、ロッキード社は、米国国防省に売渡す契約を結んでいた武装ヘリコプター(シャイアン)が、昭和四四年四月ころ、試験飛行中に墜落事故を起こしたために契約を破棄され、そのころ、同省から一〇〇機ほど受注していた大型輸送機ギャラクシーC五Aについて、コスト高を理由にその一、二割に当る分の契約が破棄されるということもあって、財政状態が著しく悪化するに至った。しかも右ロールスロイス社が昭和四六年二月に倒産するという事態を迎え、L一〇一一型機の生産自体が可能か否かが危ぶまれる情況になった。これらの事情に加え、他の二機種についてはいずれも長距離用と中距離用の二種類が生産される見通しとなったのに、L一〇一一型機は前記のとおり中距離用であって長距離用が開発できるか否かが未知数の状態であり、前記のとおり、昭和四五年一一月の閣議了解により国際線チャーター便の運航を認められ、さらに将来国際線定期便運航を目指していた全日空の要求を充たさないおそれがあったこと、昭和四四年ころ、三井物産が当時の全日空大庭哲夫社長の了解の下に、全日空のためDC一〇型機を一〇機発注(最終的に確定注文六機、オプション四機となった。)したということがあり、昭和四五年六月、前記のとおり同社社長が若狭得治に交代したあとも、三井物産の幹部が全日空社長に対して右発注にかかるDC一〇型機の購入を強く求めるなどしたところから、全日空がこれに応じざるを得なくなるのではないかとの心配もあったことなど、L一〇一一型機売込には多くの不安要素が潜在していた。
(二) 全日空の機種選定作業再開後の売込競争
全日空の機種選定が前記のとおり大きく遅れ、中断している間に、昭和四六年八月、米国政府がロッキード社に対する民間融資二億五、〇〇〇万ドルの保証をすることが同国議会で認められて同社の財政再建のめどがつき、さらに英国政府もロールスロイス社のL一〇一一型機のエンジン生産を引継いで行うこととなったうえ、昭和四七年三月には若狭全日空社長が、大庭社長の関与したDC一〇型機の件につき、全日空には全く責任がないということで三井物産側と話合い解決した旨言明するなどL一〇一一型機をめぐる情勢はやや好転したものの、全世界における同型機の売行きは芳しい情況になく、同年二月現在DC一〇型機が二二四機受注(確定注文一三九機、オプション八五機)、B七四七型機が二〇七機受注(すべて確定注文)していたのに対し、L一〇一一型機の場合は一五四機受注(確定注文一〇八機、オプション四六機)したに止まっていた。しかし、全日空に対する売込に関しては、B七四七型機は、国内幹線には大き過ぎ、また前記のような厳しい騒音問題を抱えた大阪空港には入れるのが困難であるという事情から、不利な立場にあり、同年七月ころには事実上DC一〇型機とL一〇一一型機の間の争いとなっていた。
三井物産では社長と副社長が連れ立って数度にわたり全日空に若狭社長を訪ねるなど活発にDC一〇型機の売込活動を行い、ロッキード側も同社のコーチャン社長や丸紅の被告人檜山(社長)が被告人大久保を伴って若狭社長に面談するなどしてL一〇一一型機の売込活動に努め、前記のとおり、同月下旬にはダグラス、ロッキード両社ともにデモフライトを挙行するなど、激しい競争が展開された。右デモフライトの結果、L一〇一一型機が全日空の役員や幹部職員の間で好評を博し、同機に好意を寄せる者が多くなり、そのうえ同年五月初めから七月末にかけて、DC一〇型機は三度にわたって航空事故を起こし、それらが飛行中のエンジン脱落(二回)や貨物室扉の脱落を原因とする重大なものであったため、ダグラス社及び三井物産は大きな衝撃を受け、反面L一〇一一型機には有利な展開となった。
(三) 被告人檜山の情勢判断と決意
しかしながら、ロッキード社及び丸紅にとって右のような明るい材料が出て来たとはいえ、ロッキード社の財政状態は依然として不安定であり、米国にはそのことをことさら書き立てる新聞もあり、前記L一〇一一型機売込をめぐる不安要素はまだかなり残っていたうえ、もともと航空機には、その機種が事故を起こせばただちに売込に不利になるという一面が常に存在するものであることから、ロッキード社及び丸紅としても到底楽観ばかりしていられるような情況ではなかった。そして、丸紅にとってL一〇一一型機の販売により直接得られる金銭上の利益はさほど大きなものではなかったけれども、常日頃業績を競い合っている他商社をしのいで、近代産業の花形であり時代の先端を行くものとして象徴的な意味を有する大型航空機の売込に成功するということは、商社の実力及び信用に対する評価を高め、後々にまで社の大きな成果、社長の功績として残るものと考えられていたのであり、さればこそ、丸紅社長の被告人檜山は、一流商社の面子にかけ、何としてもこの売込を成功させようと考えていた。
ところで被告人檜山は、国内幹線への大型ジェット機の投入を昭和四九年度以降認める旨の運輸大臣示達及びデモフライト挙行などの動きから、昭和四七年八月に入って、全日空の機種選定はここ一、二か月が山場であろうと考えるとともに、前記のような情況に鑑み、また、他社も売込に関して政治的に動いていると推測して、これまでの全日空に対する直接的な売込活動だけでは競争に負けてしまうのではないかとの強い危惧の念を抱いて焦慮するに至った。折りから、前記航空機等の緊急輸入及びハワイの首脳会談について報道がなされていたことから、被告人檜山は、右ハワイ会談で航空機購入のことが田中・ニクソン両首脳の間で話題にのぼるであろうと考え、ニクソン大統領がその出身州の大企業であるロッキード社と深い関係にあるとも考えた結果、被告人田中に全日空をしてL一〇一一型機を選定購入せしめるよう協力方を依頼しておけば、右会談の際両首脳の話はいきおい同型機の導入に及ぶであろうと思案するとともに、内閣の最高責任者であり、各大臣を指揮監督する強大な権限を有している同被告人は、航空企業の航空機導入に関し許認可権限を有する運輸大臣(その他の大臣)を指揮し、ないしは同被告人自ら全日空に働きかけて同型機を導入させることができるであろうから、この際同被告人に右のような指揮ないし働きかけによる協力方を依頼し、かかる協力に対する報酬として同被告人に対し金員を供与しようと決意するに至った。
(四) 被告人檜山、同伊藤、同大久保及びコーチャンの間の共謀
1 そこで被告人檜山は、昭和四七年八月上旬ないし中旬ころ、東京都千代田区大手町一丁目四番二号丸紅東京本社(通称。登記簿上は支店)において、同社のL一〇一一型機売込の実行責任者である被告人大久保に対し、「金を使ってトライスターの件を早くまとめたいと思う。そのことで総理に話をしようと思っている。」と話した。被告人大久保は、これが被告人田中に対し、全日空にL一〇一一型機を選定購入せしめるよう、その権限を行使して運輸大臣(等関係大臣)を指揮し、ないしは自ら同社に働きかけるよう依頼し、その協力に対する報酬として金員を供与するとの趣旨であると了解したうえ、右被告人檜山の提案に賛同した。
2 被告人檜山はさらにそのころ、同所において、丸紅の社長室長で前記のとおり政界の事情に通じている被告人伊藤に対し、全日空に対するL一〇一一型機の売込が最終段階を迎え、DC一〇型機と熾烈な競争になっていることを話したうえ、「われわれとしてもここまで努力してきたのだからどうしても全日空にトライスターを押込みたい。田中総理に頼むのはどうだろうか。」と提案した。被告人伊藤は同檜山と内閣総理大臣の権限について話合ったうえ、右提案が被告人田中に対して、全日空にL一〇一一型機を選定購入せしめるよう運輸大臣らを指揮し、ないしは直接同社に働きかけてくれるよう依頼するという趣旨であることと了解し、かねて全日空に対する航空機の売込競争は、丸紅として長期間とくに力を注ぎ込んできた、逃がすことのできない大きな商談であって何としても勝たなければならないと考えていたところから、これに賛同した。そして被告人檜山及び同伊藤は、引続きそのころ、同所において協議し、被告人田中の右指揮ないし働きかけを依頼するにつき、その協力に対する報酬として金員を供与することとし、その報酬の額を五億円とすることに決めた。
3 同月二〇日ころ、全日空の機種決定間近しとみたダグラス社のマクゴーエン社長が来日し、そのことを知らされたロッキード社のコーチャン社長も最後の売込活動を展開するため急遽来日したが、かねてコーチャンは、全日空に対するL一〇一一型機の売込が前記のとおり財政不安を抱えたロッキード社にとってその存続にもかかわる重要な意味をもつものであるため、全日空に対して強力な売込工作をする必要性を痛切に感じていた。そこで同月二一日、コーチャンは、前記丸紅東京本社において、被告人檜山と面談した際、檜山が「田中総理のような実力者に頼んで側面から全日空に導入させるよう働きかけてもらったらどうだろうか。」と提案したのに対し、被告人田中が内閣総理大臣の権限を行使して関係者に働きかけてくれるならそれは最も強力な手段であると考え、「ぜひそうしよう。早急に総理に会って頼んでほしい。」と要望し、被告人檜山はこれを承諾した。そして同被告人は翌二二日、被告人大久保に対し、「田中総理に会って頼むことに決定した。手ぶらで頼むわけにもいくまいから、コーチャン社長に話して五億円見当の金を用意させよ。」と指示し、これに基づいて被告人大久保が同日、前記丸紅東京本社においてコーチャンに対し、被告人田中に依頼するについて五億円を用意するよう提案し、折衝の結果、コーチャンは、売込に成功したらとの条件付で五億円をその協力に対する報酬として被告人田中に支払うことを承諾した。被告人大久保は、同日、同所において、被告人檜山に対して右コーチャンとの折衝結果を報告するとともに、同被告人との間で、被告人田中に対し右のような趣旨で成功報酬五億円を支払う意思を互いに通じ合った。なお、コーチャンも、田中が内閣総理大臣としての権限を行使して閣僚等関係者に対しL一〇一一型機を全日空が選定するに至るよう働きかけてくれるべきことを田中に依頼し、その協力に対する報酬の趣旨で五億円を供与するものであることを十分認識していたものである。
4 以上のようにして、被告人檜山と同大久保との間、同檜山と同伊藤との間、同檜山ないし同大久保とコーチャンとの間でそれぞれ、内閣総理大臣たる被告人田中に対し、運輸大臣(等関係大臣)を指揮して全日空にL一〇一一型航空機を選定購入するよう働きかけさせるべきこと、ないし同被告人が直接全日空へその旨働きかけるべきことを依頼し、その働きかけ等協力に対する報酬として同被告人に対し五億円を供与する旨の共謀が順次形成された。
(五) 被告人田中の職務権限
内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、各国務大臣を、その大臣の所管し権限を有する事項について指揮監督する権限を有している。
そして運輸大臣は、定期航空運送事業を営もうとする者に対する免許権限、定期航空運送事業者の事業計画変更の認可権限を有しており、同事業者が新機種を選定しこれを就航させるには、法令により当然に事業計画変更が必要となるから、同大臣は右認可権限の行使を通じて新機種の路線への就航の可否を決する権限を有し、さらに右権限を背景として機種選定に関し行政指導をすることができ、したがって同大臣が全日空に対してL一〇一一型機を選定購入するよう働きかけるような行政指導をすることは、その職務権限に属するものである。
また前記のとおり、内閣は昭和四五年一一月二〇日に「航空企業の運営体制について」と題する閣議了解を行い、「航空機のジェット化・大型化を推進する」こととしたが、これはジェット大型航空機導入の推進を国の政策とすることを明らかにしたもので、その実行のため必要な場合に航空企業に対し大型ジェット機を導入するよう行政指導することはその趣旨に副うものであった。さらに、内閣は前記のとおり、昭和四六年一二月一九日に前記八項目の政策の積極的推進を、昭和四七年七月一八日には、右八項目及び前記七項目の両対策の機動的かつ強力な推進をそれぞれ閣議決定したが、その後政府が採用した航空機等の緊急輸入の施策は右両対策、ひいては右各閣議決定と目的を等しくし、その枠内でこれを具体的に実施に移した方策の一つであり、その達成については前記のとおり国際信義上責任を問われるべき性質のものである。したがって、全日空に対して、大型ジェット機の一種であり、また、前記のところから明らかなとおり緊急輸入の対象となり得る航空機の一つであったL一〇一一型機の購入を勧める行為は、結局、右閣議了解及び各閣議決定による方針に基づくものということができる。
してみると、内閣総理大臣たる被告人田中は、昭和四七年八月二〇日過ぎころには、閣議にかけて決定した前記各方針に基づき、全日空に対してL一〇一一型機の選定購入を勧める行政指導をなすべく運輸大臣を指揮監督する権限を具体的に有していたと解せられる。
なお、内閣総理大臣が直接、自ら全日空に対してL一〇一一型機を選定購入するよう働きかけることは、同大臣の国務大臣に対する指揮監督権限を背景とし、右権限行使に準ずる公務的性格の行為であって、内閣総理大臣の職務と密接に関係する行為である。
二 罪となるべき事実
(一) 被告人檜山、同伊藤及び同大久保は、前記一(四)のとおり、昭和四七年八月上旬から同月二二日までの間に、いずれも前記丸紅東京本社において、コーチャンを加え四名の間で、順次、前記一(四)4に示したとおりの趣旨の共謀をしたうえ、これに基づき被告人檜山が、同月二三日、東京都文京区目白台一丁目一九番一二号の田中角榮方において、前記一(五)に示したとおりの職務権限を有する内閣総理大臣たる同人に対し、丸紅及びロッキード社の利益のため、全日空がL一〇一一型航空機を選定購入するよう同社に行政指導をなすべく運輸大臣(その他機種選定に関して同社に働きかける権限を有する国務大臣)を指揮し、ないしは田中自ら直接に同社に働きかけるなどの協力方を依頼して請託するとともに、同社に対する同型機の売込が成功した場合に、右協力に対する報酬の趣旨で現金五億円を供与することを約束した。そして前記のとおり同年一〇月三〇日に同社がL一〇一一型機の購入を決定し、さらに翌昭和四八年六月ころ、右田中側が右約束の履行方を催促してきたので、右被告人三名は、米国にいるコーチャンを督励し、その結果同人の指示を受けたロッキード社の子会社であるロッキード・エアクラフト・アジア・リミテッド(LAAL)社長で同社東京事務所代表者ジョン・ウィリアム・クラッター(以下「クラッター」という)の許に右ロッキード社から五億円が送られてくることとなったため、被告人大久保がクラッターから入金の連絡を受けてこれを被告人伊藤に伝え、同被告人がその金員を右田中の秘書(当時内閣総理大臣秘書官)で同人から五億円受領の指示を受けていた榎本敏夫に交付することとした。このようにして右被告人三名及びクラッターは、同年七月ころ、法定の除外事由がないのに、本邦に住所を有する右田中及び榎本の両名に対し、米国カリフォルニア州所在のロッキード社のために前記五億円の支払をすることを順次共謀した。
以上のようにして、被告人檜山、同伊藤及び同大久保は、
1 コーチャンを加えた前記共謀のうえ、これに基づき、被告人伊藤が、別紙現金授受事実一覧表記載のとおり、昭和四八年八月一〇日から同四九年三月一日までの間四回にわたって、同記載の各日時に、それぞれ同記載の各場所において、前記協力に対する報酬の趣旨で、内閣総理大臣田中角榮の(趣旨につき情を知らない)使者榎本敏夫に対し、同記載の金額ずつの現金合計五億円を交付し、田中はその趣旨を了解して榎本を使者としてこれを受領し、もって、公務員たる右田中に対しその前記のとおりの職務に関し、賄賂を供与し
2 その一面、クラッターを加えた前記共謀のうえ、これに基づき、いずれも本邦に住所を有する者であるところ、法定の除外事由がないのに、米国カリフォルニア州所在のロッキード社のために、本邦に住所を有する田中及び榎本の両名に対し、前記1(別紙現金授受事実一覧表)記載の各日時、各場所において、四回にわたり同記載の金額の現金を榎本に交付し、もって、それぞれ非居住者のためにする居住者に対する支払をし
たものである。
(二) 被告人田中は、
1 前記(一(五))のような職務権限を有する内閣総理大臣に在任中の昭和四七年八月二三日、東京都文京区目白台一丁目一九番一二号の自宅において、檜山廣から丸紅及びロッキード社の利益のため(一)記載のとおりの協力方を依頼されて承諾し請託を受け、同記載のとおりその協力に対する報酬の趣旨で現金五億円の供与を受ける約束を檜山との間でなしたうえ、そのころ、前記榎本に右現金五億円の受領を指示して右受領方の使者と定め、右約束に基づき、別紙現金授受事実一覧表記載のとおり、昭和四八年八月一〇日から同四九年三月一日までの間、四回にわたって同記載の各日時に、それぞれ同記載の各場所において、前記協力に対する報酬の趣旨であることを了解して、檜山との共謀者の一人たる前記伊藤宏から、同記載の金額ずつの現金合計五億円を(趣旨につき情を知らない)榎本を使者として受領し、もって、公務員たる自己の職務に関して賄賂を収受し
2 その一面、前記のように本邦に住所を有する者であるところ、法定の除外事由がないのに、前記のように榎本敏夫に対し現金五億円を受領することを指示して、米国カリフォルニア州所在のロッキード社のための支払を受領することを同人と共謀したうえ、本邦に住所を有する伊藤宏らから、前記1(別紙現金授受事実一覧表)記載の各日時、各場所において四回にわたり、同記載の金額の現金を同社のための支払として右榎本が受領し、もって、それぞれ非居住者のためにする居住者に対する支払の受領をし
たものである。
(三) 被告人榎本は、本邦に住所を有する者であるが、法定の除外事由がないのに、右田中と米国カリフォルニア州所在のロッキード社のための支払の受領をすることを共謀のうえ、本邦に住所を有する伊藤宏らから、別紙現金授受事実一覧表記載のとおり、昭和四八年八月一〇日から同四九年三月一日までの間四回にわたって同記載の各日時に、それぞれ同記載の各場所において同記載の金額の現金の交付を受け、もってそれぞれ非居住者のためにする居住者に対する支払の受領をしたものである。
第二  議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律(以下「議院証言法」という)違反関係
一 前提事実
(一) ピーナツ、ピーシズ領収証の作成と交付
被告人伊藤は、前記第一・二(一)のとおり、クラッターの許に送られて来た現金を四回にわたって同人から受取り、これを被告人榎本に交付したのであるが、あらかじめ被告人大久保を通じてクラッターから、ピーナツあるいはピーシズの符号を使い、一ピーナツ、一ピースをそれぞれ一〇〇万円として領収証を作成交付するよう求められていたところから、別紙現金授受事実一覧表記載の各現金を同人から受領するに際し、一九七三年八月九日一〇〇ピーナツ(Peanuts)、同年一〇月一二日一五〇ピーシズ(Pieces)、一九七四年一月二一日一二五ピーシズ、同年二月二八日一二五ピーシズを受取った旨の各領収証に署名して、いずれもこれをクラッターに交付していた。
(二) ユニット領収証の作成と金員の流れ
全日空若狭社長は、昭和四七年一〇月二八日、前記のとおり役員会を開いてL一〇一一型機の選定を報告したあと、これが同月三〇日の取締役会で正式に承認されるのを前にして、藤原亨一同社経営管理室長に対し、ロッキード社から契約する同型機一機につき五万ドルの割合で六機分合計三〇万ドル(九、〇〇〇万円)を日本円で全日空に支払ってもらい、なおそのほかにもロッキード社あるいは丸紅の支出で機種選定の過程で世話になった衆議院議員の橋本登美三郎、二階堂進、佐々木秀世、佐藤孝行、福永一臣、加藤六月の六名に全日空からの謝礼として、橋本、二階堂の両名に各五〇〇万円、佐々木に三〇〇万円、その他の三名に各二〇〇万円程度の金員を丸紅の職員の手で届けてもらうよう丸紅と折衝するよう指示し、藤原は翌二九日、丸紅の機械第一本部輸送機械部副部長松井直に右若狭からの要請を伝えると共に、松井と協議して右六名の議員に贈る金員を、前記橋本、二階堂に対しては各七〇〇万円、佐々木に対しては五〇〇万円、福永に対しては五〇〇万円か三〇〇万円、加藤、佐藤に対しては各三〇〇万円とすることを一応の案として決め、松井は、右金額を合計三、〇〇〇万円として大久保に伝えることとし、被告人大久保に対し、三、〇〇〇万円を全日空の名前で同社が世話になった右各議員に同社からの謝礼として丸紅の手で渡してほしい旨の申入があったなど、右藤原との話合の結果を伝えた。被告人大久保は同日夜遅くコーチャンを宿泊中のホテルに訪ねて種々協議した結果、同人は右三、〇〇〇万円と九、〇〇〇万円の支払を承諾し、翌一〇月三〇日丸紅東京本社にコーチャンから指示を受けたクラッターが三、〇〇〇万円を持参して同被告人に渡した。その際同被告人はクラッターの申出により一〇〇万円をあらわす符号としてユニットを用い、一九七二年一〇月三〇日、三〇ユニッツ(Units)と記載された紙片に領収の趣旨で署名してこれをクラッターに交付した。右三、〇〇〇万円のうち二、〇〇〇万円は取分けられて、そのころ、被告人伊藤らの手で、前記橋本、二階堂に各五〇〇万円、佐々木、福永に各三〇〇万円、加藤、佐藤に各二〇〇万円が届けられ、残り一、〇〇〇万円は同年一一月一六日ころ、丸紅からの謝礼として同被告人から被告人榎本を介して被告人田中に贈られた。また、前記九、〇〇〇万円は、同月六日ころ、丸紅東京本社でクラッターから被告人大久保に渡され、同被告人はその際、同様一九七二年一一月六日九〇ユニッツと記載された紙片に受領の趣旨で署名してクラッターに交付し、右金員はそのころ、前記松井を通じて前記藤原に渡された。
二 犯行に至る経緯
昭和五一年二月四日、米国議会上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会でロッキード社の会計検査を担当しているアーサー・ヤング会計検査事務所のウィリアム・ジー・フィンドレイが、「伊藤宏がサインしたピーナツ一〇〇個の領収証は一億円の受領を意味しており、この金は政府当局者と得意先航空会社の代表者の両方に渡ったと聞いている。」旨証言したとの報道、同月六日、同委員会の公聴会でコーチャンが「一億円はある政府高官に対する支払として伊藤に渡された。政府高官に対する支払は、丸紅の檜山か大久保のいずれかから、もし成功しようと思うならば必要であると勧告された。丸紅を通じて政府高官に渡された金はおよそ二〇〇万ドルである。」旨証言したとの報道がそのころわが国で大々的になされ、国中が騒然とした雰囲気となった。被告人檜山はそのころ同伊藤から聞いて、同被告人が本件五億円の授受に関して前記一(一)の各領収証を作成しロッキード社側に渡していたことを知ったが、ことがもと内閣総理大臣の被告人田中にかかることであり、真相が明らかになった場合、同被告人の政治生命にもかかわる大問題となり、丸紅も極めて大きな打撃を受け再起不能になるかもしれないなどと考えて、同様の認識をもった被告人伊藤と打合わせ、ピーナツ領収証はロッキード社から頼まれて署名のみをしたもので、金の授受を伴っているものではないとすることとし、記者会見でもそのような弁明を行った。また、そのころ、前記一(二)のユニット領収証も明るみに出たが、これについても、被告人檜山、同伊藤及び右両被告人と同様の認識をもった被告人大久保は、右と同様に、署名はしたがロッキード社の不正な金銭には一切関与していないものとする旨話合ったうえ、右被告人らは国会に証人として喚問された場合にも、右各領収証につき右の基本線に基づいて証言することとして、それぞれその準備をした。
三 罪となるべき事実
(一) 被告人檜山は、昭和五一年二月一七日、東京都千代田区永田町の衆議院予算委員会において、証人として法律により宣誓のうえ証言するに際し、前記第一・一(四)、第一・二(一)、第二・一(一)の各事実に関し、自己の認識に反して、「私や大久保がコーチャンに対し、日本において航空機の売込を成功させるためには政府高官に金を持って行かねばならないと勧めたことは絶対にない。私あるいは丸紅の者が二〇〇万ドルを政府高官に支払ったことはない。大久保及び伊藤の両名からピーナツ、ピーシズの領収証に関して金品の授受は一切関知していないとの報告を受けたのでそれを確信している。ピーナツ一〇〇個が一億円をあらわすということは全然知らない。右一億円が政府高官に渡されたことはないと思う。」旨虚偽の陳述をしたものである。
(二) 被告人伊藤は、
1 昭和五一年二月一七日、前記衆議院予算委員会において、証人として法律により宣誓のうえ証言するに際し、第一・二(一)、第二・一(一)の各事実に関し、自己の認識に反して「ピーナツ、ピーシズの四通の領収証に署名したときピーナツ、ピーシズの意味を全然知らなかった。右四通の領収証に伴う金品の授受については全く関知していない。ワン・ハンドレッド・ピーナツが一億円を意味すること及びこの金が日本の政府高官にロッキードの飛行機売込の賄賂として使われたことは全く知らない。コーチャンが米国上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、二〇〇万ドルが丸紅の役員を通じて政府当局者に飛行機売込の賄賂として使われたと証言しているが、私はさようなことに全く関知をしていない。ピーナツの領収証は大久保に手渡した。」旨虚偽の陳述をし
2 同年三月一日、右衆議院予算委員会において、証人として法律により宣誓のうえ証言するに際し、前記第一・二(一)、第二・一(一)の各事実に関し、自己の認識に反して「ピーナツ、ピーシズの四通の領収証のピーナツ、ピーシズが金銭の符号であるなどその意味するところは全く知っていない。右領収証にサインしたが金銭の授受については全く承知していない。政界に流れたといわれている二〇〇万ドル、六億円余の金については全く関知していない。ピーナツ、ピーシズの領収証はサインして大久保に手渡した。」旨虚偽の陳述をし
たものである。
(三) 被告人大久保は、
1 昭和五一年二月一七日、前記衆議院予算委員会において、証人として法律により宣誓のうえ証言するに際し、前記第一・一(四)、第一・二(一)、第二・一(一)、第二・一(二)の各事実に関し、自己の認識に反して「クラッターから三〇ユニット、九〇ユニットと記載された領収証にサインを求められたときその内容を知らないでサインした。ユニットが金を意味していることは知らなかった。ユニット、ピーナツ、ピーシズの各領収証の内容が分らないので何度もロッキード側に尋ねたが教えてくれなかった。右の各領収証について金品の授受は一切ない。ユニット領収証関係金員が航空機売込に関する運動資金等と結び付きがあるとは思わない。コーチャンに対し航空機の売込に成功するためには政府高官に対し金を渡さなければならないからその金を提供するようにと申したことは一切ない。コーチャンが米国上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で証言している二〇〇万ドル、六億円の授受は一切していないし、その金がどこへ流れたか一切知らない。」旨虚偽の陳述をし
2 同年三月一日、右衆議院予算委員会において、証人として法律により宣誓のうえ証言するに際し、前記第一・二(一)、第二・一(一)、第二・一(二)の各事実に関し、自己の認識に反して「ユニット、ピーナツ、ピーシズの各領収証の内容についてクラッターに尋ねたが教えてもらえなかった。右の各領収証に関連して一切何も受取っていないし、金の流れは一切知らない。ピーナツ、ピーシズの領収証は自分が伊藤から受取ってクラッターに手渡した。」旨虚偽の陳述をし
たものである。
第二章  (証拠の標目)(略)
第三章  法令の適用
被告人田中の判示第一章第二節第一・二 罪となるべき事実 (二)の所為中、1の受託収賄の点は、行為時においては昭和五五年法律三〇号による改正前の刑法一九七条一項後段に、裁判時においては右改正後の同法一九七条一項後段に該当するが、犯罪後の法律により刑の変更があったときに当るから、刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、2の非居住者のためにする支払の各受領の点はいずれも刑法六〇条、昭和五四年法律六五号(外国為替及び外国貿易管理法の一部を改正する法律)附則八条により同法律による改正前の外為法七〇条七号、二七条一項三号後段に該当するが、右1の受託収賄罪は一罪であり、これと2の各外為法違反はそれぞれ一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により、結局以上を一罪として最も重い受託収賄罪の刑で処断することとし、その刑期の範囲内で同被告人を懲役四年に処する。同被告人が判示犯行により収受した賄賂は没収することができないので、同法一九七条の五後段によりその価額金五億円を同被告人から追徴する。
被告人榎本の判示同章同節第一・二(三)の各所為はいずれも刑法六〇条、昭和五四年法律六五号附則八条により同法による改正前の外為法七〇条七号、二七条一項三号後段に該当するので、いずれも所定刑中懲役刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、犯情の最も重い別紙現金授受事実一覧表番号2の支払受領にかかる罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で同被告人を懲役一年に処する。情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。
被告人檜山、同伊藤及び同大久保の判示同章同節第一・二(一)の各所為中、1の贈賄の点はいずれも刑法六〇条、一九八条一項(昭和五五年法律三〇号による改正前の規定)、罰金等臨時措置法三条一項一号に、2の非居住者のためにする居住者に対する各支払の点はいずれも刑法六〇条、昭和五四年法律六五号附則八条により同法律による改正前の外為法七〇条七号、二七条一項三号前段に該当するところ、右贈賄罪は一罪でこれと各外為法違反はそれぞれ一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により結局以上を一罪として、右各被告人につきいずれも犯情に照らして最も重い贈賄の罪の刑によって処断することとし、いずれも所定刑中懲役刑を選択する。被告人檜山の判示同章同節第二・三 罪となるべき事実 (一)の所為、同伊藤の判示第二・三(二)12の各所為、同大久保の判示第二・三(三)12の各所為はいずれも議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律六条一項に該当する。被告人檜山の第一・二(一)の罪と第二・三(一)の罪、同伊藤の第一・二(一)の罪と第二・三(二)1と2の各罪、同大久保の第一・二(一)の罪と第二・三(三)1と2の各罪はそれぞれ刑法四五条前段の併合罪であるから、いずれも同法四七条本文、一〇条により、被告人檜山については重い第二・三(一)の罪の刑に、同伊藤については刑期及び犯情に照らして最も重い第二・三(二)1の罪の刑に、同大久保については刑期及び犯情に照らして最も重い第二・三(三)1の罪の刑に、それぞれ(被告人檜山については同法四七条但書の制限内で)法定の加重をし、その各刑期の範囲内で被告人檜山を懲役二年六月に、同伊藤を懲役二年に、同大久保を懲役二年にそれぞれ処する。
被告人大久保については、情状により刑法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から四年間、右刑の執行を猶予する。
訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条により主文第六項のとおり負担させる。
第四章  判示第一章第二節第一の贈収賄罪にかかる事実の認定の理由
(注・証拠の呼称について―弁論が分離されて甲被告人関係でのみ公判期日が開かれている場合、同期日における証人又は甲被告人の供述で、乙被告人の関係でも公判準備における証言ないし甲関係公判調書中の供述記載〔書証〕として証拠になっている場合には、甲・乙全被告人の関係につきこれを単に証言、公判廷供述又は公判期日供述等〔公判期日の回数は甲被告人の関係の公判期日の回数で特定する〕と称する。)
第一節  被告人及び弁護人の主張
判示五億円の賄賂供与・請託の共謀及びその実行、賄賂収受の各事実について、関係の各被告人及びその弁護人はそれぞれつぎのとおり公判において主張している。
一  被告人田中の主張
被告人田中は、本件五億円供与の申出及び請託のいずれも受けたことはなく、五億円収受の事実はない。右金員を被告人榎本が受領したとされる日時に同被告人にはアリバイがあるから、これを受領したということはあり得ない。内閣総理大臣に検察官主張のような職務権限はない。
二  被告人檜山の主張
被告人檜山は本件五億円の供与については知らない(ただし弁護人個人の見解として、検察官主張の日時・場所における五億円の収受はなかったと主張する。)。同被告人は昭和四七年八月二三日に被告人田中の私邸に赴いて同被告人と面談したことはあるが、その際田中に対して五億円相当の献金をする意向であるとのロッキード社社長コーチャンからの伝言を取次いだだけであって、被告人伊藤及び同大久保らと共謀して請託やその成功報酬の申出などしたことはない。したがって右五億円の供与はロッキード社の責任において行われるべきものであったから、その被告人田中側への引渡につき、被告人伊藤及び同大久保の両名に対して指示を与え、両名らと共謀するなどの関与は一切していない。内閣総理大臣の職務権限について検察官主張の法解釈には誤りがあり、また被告人檜山には右職務権限の認識がなかった。
三  被告人伊藤の主張
被告人伊藤は昭和四八年八月から昭和四九年三月まで四回にわたってクラッターから「現金が入っている」という段ボール箱を社員野見山を介して渡され、それをその都度被告人榎本に渡したことはある。その中身が現金であることは分っていたが中を開けて見てはいない。被告人檜山、同大久保らと本件請託、賄賂の供与につき共謀をしたことはないし、内閣総理大臣の職務権限についての検察官主張は誤っており、被告人伊藤には右職務権限の認識はなかった。
四  被告人大久保の主張
被告人大久保は昭和四八年八月から昭和四九年三月まで四回にわたり、クラッターから「金の用意ができた」という連絡を受け、それを被告人伊藤に取次いだことはあるが、金員の授受については関係していないから知らない(弁護人の意見として検察官主張の日時場所における授受には疑問があると主張する。)。被告人檜山と田中私邸に同行したことはあり、その際ロッキード社からの支出すべき金が五億円になったことは聞いたが、檜山が被告人田中に対して本件請託、五億円供与の申出をしたか否かは知らない。被告人檜山の指示によりコーチャンと交渉し、L一〇一一型機の売込に成功したら田中に対し五億円支出させることとしたことはあるが檜山及び伊藤らと田中に対する請託、賄賂の供与を共謀したことはない。内閣総理大臣には検察官主張のような職務権限はない。
第二節  請託と賄賂供与の申出及びその受諾、請託・賄賂供与の共謀
第一  直接証拠の概観
一 被告人檜山の供述
被告人檜山はその検察官面前調書においてつぎのとおり供述している。[1]トライスターの全日空への売込につき田中内閣総理大臣の側面からの働きかけをお願いしようと考え、昭和四七年八月中旬ころ、被告人大久保にその旨話して賛同を得た(昭和五一年八月一〇日付〔甲再一77・乙15〕四項)。[2]同月二一日、右の考えをコーチャンにも話したところ、早急に総理に会って頼んでほしいと言われたので、その旨約束した(同調書五項)。[3]同月二二日、被告人大久保から「トライスター導入を頼むに当ってロッキード社から田中総理に五億円程度の献金をする用意があるから、総理に頼む際、五億円のお礼をすると言ってくるようコーチャンが言っている。」と聞いた(同調書五項)。[4]同月二三日、被告人田中の私邸で「ロッキード社は今全日空に対して飛行機の売込をかけているが思うようにいかない。ロッキード社の方からそれができたら総理に五億円程度の献金をする用意があると言ってきている。なんとか全日空がロッキード社の飛行機を導入するよう何分のご協力をお願いする。」旨依頼したところ、被告人田中は快く引受けてくれた(同調書六項)。[5]田中総理にお願いすれば、全日空がトライスターを導入するよう運輸大臣その他の関係大臣を指揮し、あるいは自ら同社に働きかけるなどその権限を行使してくれるものと期待していたし、コーチャンも被告人田中に内閣総理大臣としての権限を行使して全日空にトライスター導入方を働きかけてくれと依頼し、その成功報酬として五億円差上げるものであることは十分承知していた(同調書五項)。[6]被告人田中との会談のあと、被告人大久保及び同伊藤にそれぞれ、互いに連絡をとって五億円の受渡をするよう指示した(同調書七項)。[7]昭和四八年の五・六月ごろ、被告人伊藤から、「総理の榎本秘書から例の五億円をまだもらえないかという催促の電話があった。」旨聞き、「先方がどうなっているか大久保君にきいてちゃんとしておきなさい。」と指示したが、その際、金はロッキード社があげるのだから、丸紅が関係した形を絶対にとらないよう注意した(同調書一一項)。
これに対し被告人檜山は公判廷において、「[1]のように考えたこと及び被告人大久保に話したことはない。[2]のコーチャンとの話合のとき同人は、『新総理に会ったときにロッキードの名前を覚えておいてもらうように話してもらいたい。』と言い、私はできたら会いましょうという趣旨のことを言ったと思うが、それ以外に検察官面前調書記載のような事実は全くなかった。[3]の被告人大久保の伝えたコーチャンの言葉は『ロッキード社として五億円相当(または程度)の献金をしたい。』というものだった。[4]の総理邸訪問の主目的は表敬であった。就任のお祝いを述べたあと『ロッキードとして五億円相当の献金をいたしたいということを伝えてほしいというのでお伝えします。』と伝言しただけで、検察官面前調書記載のようなことは言っていない。[5]の点については、被告人大久保は五億円献金の趣旨について何も説明しなかったが、私はロッキード社の名を売ってもらうための献金だと理解した。検察官面前調書記載のようなことは考えなかったし、総理の権限は知らなかった。[6]の点に関しては、被告人大久保には伝えてくれと言われたとおり伝えたよといい、被告人伊藤には『今日総理邸をお訪ねしてこういうことを伝えたよ。』ということと、もし万一そのことに関して同被告人の方に連絡でもあったときに失礼でも申上げてはいけないから、よく注意しておくようにと言った。[7]の催促は、昭和四八年五、六月か総理訪問からやや一年たつんじゃないかと思うころ、被告人伊藤から『田中総理の秘書の方から、あのお金はいただけるのかという連絡があった。』とは聞いたが、榎本秘書という名前は聞いた記憶がない。驚いて被告人大久保に対し、『ロッキードは今なお何だ、早くしてもらいなさい。』と言った。被告人伊藤には『ロッキードの献金でわが社は何も関係がないから指一本触れてはいかん。』と指示し、同被告人は『承知しました。』と言った。」と述べている。
二 被告人伊藤の供述
被告人伊藤はその検察官面前調書においてつぎのとおり供述している。[1]昭和四七年八月上旬ころ、被告人檜山から、どうしても全日空にトライスターを売込みたいので田中総理に頼むのはどうだろうかときかれたので賛成した(昭和五一年八月一〇日付〔一七丁のもの。甲再一92・乙33〕二項)。[2]それから一週間か一〇日位後の同月中旬ころ、被告人檜山から相談を受け、被告人田中のところへ持っていく金額について二人であれこれ考えたうえ、私が五億円が適当ではないかとの意見を述べ、それがその場の結論となった(同調書三項)。[3]この金は被告人田中が総理という地位を利用してトライスターを全日空に導入してくれたことに対するお礼として渡すもので、後ろめたい金であることは承知していた(昭和五一年八月一二日付〔甲再一94・乙35〕三項)。[4]総理大臣は運輸大臣など各行政機関を指揮監督する権限をもっているから、被告人田中は運輸大臣等を指揮して、あるいは自ら直接に、全日空にトライスターを採用するよう強力に働きかけてくれるものと期待した(前記甲再一92・乙33六項)。[5]同月二三日かその翌日ころ、被告人檜山から「トライスターの売込につき、五億円を用意しているので総理にお力添えをお願いしたいと頼んだ。総理もこれを承知し、売込が成功したら五億円が総理に行くことになるから承知しておいてくれ。」と言われた(昭和五一年八月五日付〔甲再一90・乙34〕一一項)。このとき「この金を総理に渡す役を、大久保君と相談しながらやってくれ。総理から榎本秘書にこの件の話があるはずだから彼と連絡をとって受渡をするように。」との指示を受けた(前記甲再一92・乙33五項)。[6]昭和四八年五、六月ころ被告人榎本から電話で、「一体例のロッキードのものはどうなっているのでしようか。いつ頃になるのでしようかね。」ときいてきた。この件はただちに被告人檜山に報告した(前記甲再一90・乙34)。[7]このころ被告人檜山から五億円供与の実行につき、「丸紅がこの受渡に直接関与しないようなやり方でやってくれ。」と言われ、丸紅からこの件がバレたり足がついたりすることがないように注意してやれという意味に了解した(前記甲再一94・乙35一項、昭和五一年八月一四日付〔甲再一95・乙38〕二項)。
被告人伊藤は公判廷において、右検察官面前調書の記載につき、「[1]・[2]のような事実は全くなかった。[3]の点に関して、五億円を何のために渡すのか被告人大久保からもとくに聞いていない。この事件が起こるまでそういうことは考えていなかった。[4]の総理大臣の権限というものについて思ってみたこともない。[5]のときに社長から言われたことは、ロッキード社から被告人田中へ五億円相当の献金がなされることになったということと、被告人大久保が委細承知しているからということだけで、トライスターの件は言っていなかったし、五億円に関する役割についての指示など全くなかった。榎本秘書の名前がでたこともなかった。[6]については記憶がうっすらとしているが、催促といってよい電話であった。早速被告人檜山に報告し、同被告人は非常にびっくりして『まだだったのか。』というようなことを言って早速被告人大久保を呼びつけ、ロッキードの方に連絡するように言ったと思う。[7]の被告人檜山の話は『これはロッキードの金であるからタッチしてはいけないよ。』と念を押されたのであり、検察官面前調書のような趣旨ではなかった。」と供述している。
三 被告人大久保の供述
被告人大久保はその検察官面前調書において、つぎのとおり供述している。[1]昭和四七年八月に入って間もないころ、被告人檜山から「金を使ってトライスターの件を早くまとめたいと思う。そのことで総理に話をしようと思っている。」と言われて承知した(昭和五一年七月二三日付〔甲再一75・乙23〕四項)。[2]同月二二日朝、被告人檜山から電話で「いよいよ総理に会って頼むことに決定したよ。手ぶらで頼むわけにもいくまい。君の方でもコーチャン社長と話して五億円見当で打診してほしい。これは丸紅を通さない形でロッキード社が取運ぶようアレンジしてほしいんだ。」と言われた(昭和五一年八月八日付〔甲再一76・乙24〕三項)。[3]同日、コーチャンと交渉し、同人は五億円を支払うことを、全日空に対するトライスターの売込成功を条件として同意した(同調書三・四項)。[4]翌同月二三日、被告人檜山と共に田中総理私邸を訪問し、被告人田中と会って「うちで航空機の仕事をやってもらっている。」などと檜山から紹介されたあと、席を外して控えの部屋で待っていたら二、三分、長くとも四、五分くらいで檜山が出て来た。待っている間二人の声はボソボソと耳に達したが内容までは聞えなかったけれども、被告人田中に対しては当然被告人檜山からトライスター実現のためお力添え願いたいということと、その成功報酬としてロッキード社から金をおくらせましょうとの約束が話合われたことに疑問の余地はないと思う(前記甲再一75・乙23八項)。[5]帰りの車の中で被告人檜山は私に片手五本の指を拡げて「これだよ。」と言った。ここで最終的に被告人檜山と同田中の面談の結果、田中もトライスター導入実現のための協力を約束し、一方檜山はその成功報酬として田中に五億円を贈ることを約束したことが明確化されたと思った(同調書九項)。[6]同日、私はコーチャンと面談し、被告人檜山と共に被告人田中を訪問したことを告げるとともに、「総理は受けた。これでロッキード社から五億円が円札で支払われることが必要だ。」などと話した。もちろんコーチャン社長にとってもこの五億円が田中総理にトライスター実現のため力になってもらうことの報酬または謝礼として必要な金であることは分っていたはずである(同調書一〇項)。[7]田中内閣総理大臣は運輸大臣初め関係当局を指揮監督する権限を有し、運輸行政全般について強力に支配できる権限をもっているので、運輸大臣等関係者に対して全日空へのトライスター導入につき何らかの指示をし、あるいは自ら同社に手を差しのべてくれるとの期待をした(同調書一一項)。
被告人大久保は公判廷において、前記検察官面前供述のうち、多くの部分を維持し、なお補足してつぎのとおり供述している。[8]前記[3]の交渉のあと、同日、被告人檜山に対し、右交渉の結果を、コーチャンが売込に成功したら五億円を払うと言っていたので、そのことを中心に伝えたと思う。[9]同月二三日、田中邸から帰ってすぐあと被告人檜山から「実行に関しては伊藤と協力してやれ。」と指示を受け、その日だったと思うが被告人伊藤に檜山からの指示を伝えたら、伊藤は五億円の経過について分っているようであった。被告人檜山からの右指示の際、榎本秘書官の名前は多分聞いたんじゃないかと思う。[10]昭和四八年六月の終りころ、被告人檜山及び同伊藤の双方から、被告人田中側からの催促について知らされ、米国にいるコーチャンと電話をし、応じられないと言う同人を二度の電話で説得して支払うことを了承させた。
被告人大久保は、公判廷において、前記検察官面前供述のうち外形的事実に関する供述の一部を変更し、また同被告人自身及び関係者の認識にかかる供述については、その相当部分を翻した。その要点はつぎのとおりである。[1]の被告人檜山の話は「総理のような実力者の方にお願いする。」というものであって、「金を使って」と言われた記憶はない。[2]の電話では「総理に会う」という話だけで「頼む」ということは言われた記憶はない。[4]の被告人田中への紹介の際「航空機の仕事をやってもらっている。」と言われた記憶はない。[4][5][7]の被告人大久保自身の判断・認識については、そのような認識をもったことはない。[6]のコーチャンの認識として述べられている点も知らないことである。本件五億円は賄賂とは考えなかった。それは正常な営業取引から発生する金ではないから、心に重い感じ、くもりを感じる金だと思った。
四 コーチャンの供述
コーチャンはつぎのとおり証言している。[1]昭和四七年八月二一日、被告人檜山に、日本の総理大臣に会ってL一〇一一の長所について話してもらいたいと頼み、その同意を得た(コーチャン証人尋問調書二巻〔甲再一19・甲一155〕)。[2]翌同月二二日、総理大臣と被告人檜山との会談につき被告人大久保と話した際、同被告人から「もしわれわれが成功を望むならば、われわれは五億円の献金を約束する用意がなければならない。」と言われ、種々話合のすえ、L一〇一一の売込に成功した場合に支払うべきものと理解して、その約束をすることを承諾した(同二巻〔甲再一19・甲一155〕、五巻〔甲再一22・甲一158〕、六巻〔甲再一23・甲一159〕)。[3]この約束の意図はL一〇一一を販売する可能性を残しておきたかったことといってよく、L一〇一一に関係していることがその約束をする唯一の理由だった(同五巻)。[4]同月二三日、被告人大久保から、同被告人と被告人檜山が総理大臣に会ったこと、五億円の約束をしてきたことを聞いた(同二巻、五巻)。[5]昭和四八年六月中頃から末までの間に、被告人大久保から右の約束を果すことを要求された。多分この約束は消えたのだろうと思っていたから抗議したが、もう一度電話が来て、そのあとで支払うことに同意した(同三巻〔甲再一20・甲一156〕)。
以上の被告人檜山及び同伊藤の各検察官面前供述、被告人大久保の[1]ないし[10]の各供述、コーチャンの[1]ないし[5]の各供述は、本件贈収賄の犯罪事実中、請託及び五億円供与の申出並びにその共謀、右請託及び申出の受諾の諸点を肯認に導き得る直接証拠であり、右の諸点を認定することができるか否かは主として右各供述の信用性の有無にかかっている。
第二  直接証拠の信用性概説
そこで以下に、右直接証拠たる各供述について、その内容たる事項ごとに、関係各供述との比較対照、検察官面前供述の場合にはこれがなされるに至った経緯やその供述内容を否定する公判廷供述の合理性の有無、客観的諸情況との整合の有無等の諸点の検討を通じて信用性を吟味していくこととするが、右各供述全般について弁護人からつぎのような主張がなされているので、それにつき判断を加えつつ、右直接証拠の信用性につきひととおり概観しておくこととする。
一 弁護人の主張
被告人田中及び同榎本の弁護人は、「本件は米国上院外交委員会多国籍企業小委員会(いわゆる「チャーチ委員会」。以下この呼称に従う)及び米国証券取引委員会(以下「SEC」という)におけるコーチャンらの証言を、検察官が歪曲して無理やり被告人田中に結び付け、同被告人を収賄の犯人とする事実無根の事件の筋書を作り上げたうえ、これを手本として各担当検事が、主任検事の采配と厳重な統制の下に、被告人ら及びその他の関係者に対し、威圧、偽計、誘導等の無理な、ときには違法な取調を継続して右の筋書を押付けて捜査を進めたものである。そして被告人檜山、同伊藤及び同大久保(以下「丸紅三被告人」という)らは、丸紅の事情によって検察官の右態度に屈し、あるいは迎合して、右各供述調書のような供述をさせられるに至ったもので、それらの供述は到底信用することができない。」と主張している。
被告人伊藤の弁護人は、検察官による誘導、強制による押付けがあったと主張する点では右と同じであるが、さらに、そのような捜査は事件の核心部分につきほとんど全面的にロッキード社提出資料とコーチャンの供述に依拠しつつ、これに符節を合わせた検察官面前調書を被告人大久保から得、これらを軸とするという形で展開されていったのであり、コーチャンの供述は信用性に乏しく、しかも右の経過からすれば国内関係者らの供述が米国側の資料や供述に符合するからといって、ただちにその信用力が高いと評価することはできないと主張している。さらに被告人檜山の弁護人は、人間の記憶は誘導・暗示によって極めて変容し易いものであり、もともと記憶力が弱く暗示にかかり易い被告人大久保らが、正義漢を自認し「巨悪」を有罪にしようとの熱意を示す検察官らによって、チャーチ委員会におけるコーチャン証言の「檜山か大久保かから田中総理への献金をリコメンドされた。」ということを出発点とするシナリオに合わせるように威迫、強制、誘導され、赤子の手をねじるように「自白」させられていったということを強調して、前記の直接証拠たる各供述の証明力を争っている。
二 丸紅三被告人の検察官面前供述と公判廷供述
各弁護人らによる右主張を通観して生ずる第一の問題点は、丸紅三被告人その他の関係者が、いずれも公判廷においてそれぞれの検察官面前供述と相反する供述を行っているところもあるものの、相当程度、しかもかなり重要な事実に関して、検察官面前供述を維持していることと弁護人の主張は矛盾しないかという点である。例えば丸紅三被告人は、前記のところから明らかなとおり、本件五億円供与の申出及びその受諾の点にかかる重要事実である被告人田中側から五億円支払の催促があった事実を、三名ともに検察官面前から引続き公判廷においても認めているのであり、そのほかにも以下のとおり、三名それぞれに、本件事案の根幹をなすというべき重要な諸事実を公判廷においても供述しているのである。
すなわち被告人大久保は、検察官面前供述の大半の部分を公判廷においても維持し、L一〇一一型機を全日空に売込むことに被告人田中の協力を求めようとの話が被告人檜山からあったこと、檜山の指示で大久保は、檜山が田中方を訪問するにつき、田中に対し五億円の献金をすることをコーチャンに承諾せしめたこと、その際コーチャンは右売込に成功した場合にとの条件付きで献金を承諾したこと、田中邸訪問の帰りの車中で檜山が大久保に対し片手五本の指を拡げて「これだよ」と言ったこと、大久保はその日コーチャンに田中訪問の報告をし、「総理は受けた。これでロッキード社から五億円が円札で支払われることが必要だ。」などと話したこと、田中邸から帰ってすぐあと、大久保は、檜山から、実行に関しては伊藤と協力してやれとの指示を受け、伊藤に右指示を伝えたこと等々事案の核心に触れる重要な諸事実を捜査段階から引続いて公判廷においても、詳細に供述しているのであり、検察官面前供述を否定ないし変更しているのは、L一〇一一型機売込についての田中に対する協力要請と五億円供与の結び付きを直接示すような檜山らの言動や、右結び付きに関する大久保自身及び他関係者の認識ないし理解、内閣総理大臣の職務権限についての自身及び他関係者の認識その他これらに関する諸事項に限られるといってよい。
被告人伊藤は、捜査段階から一貫して、公訴事実掲記のとおり四回にわたって本件五億円を被告人榎本を介して同田中に交付した事実、昭和四七年一一月一六日ころ、同様榎本を介して田中に現金一、〇〇〇万円を交付した事実を公判廷において供述しているのである。もっとも被告人伊藤は、L一〇一一型機の全日空に対する売込について、被告人田中に協力を要請する旨被告人檜山と話合ったことはない、檜山との間で、田中に対して五億円を供与する話合をしたことはなく、また右金員供与の実行方を檜山から指示されたことはないとして本件請託及び五億円供与の共謀に関する検察官面前供述をすべて否定する一方で、昭和四七年八月二三日かその翌日ころ、檜山から「ロッキード社から田中総理へ五億円相当の献金がなされることになった。」と言われたとして、田中に対する五億円供与の約束がそのころなされたことにつながる重要な事実についての供述は公判廷においてもこれを維持しているのである(もっともこの点に関する公判廷供述は後にみるとおり変遷している。)。
被告人檜山は、同田中に対してL一〇一一型機売込について協力を要請したことも、そのことについて被告人大久保やコーチャンと話合をしたこともないとするなど検察官面前における供述の重要部分のほとんどを公判廷において否定あるいは変更しているのであるが、昭和四七年八月二三日に被告人田中に対し、五億円の献金をする用意がある旨のコーチャンの言葉を伝えたとして、本件の核心に関連する事実を認める供述を公判廷においてもしていることに注目しなければならない。
弁護人主張のような捜査経緯によって検察官面前供述が作成されたとするならば、以上のように、検察官面前供述のかなりの部分、ないしは核心的部分が公判段階にまで維持されている理由を見出すのは困難であるといわなければならない。また、被告人田中及び同榎本の弁護人は、前記のとおり丸紅の事情の介在を主張しており、右供述の公判廷における維持もそれが同社の利益に合致しているからであるとするのであるが、到底首肯し得ない。すなわち、被告人檜山及び同伊藤がそれぞれ検察官面前供述を変更して公判廷において述べているところは、丸紅は五億円供与の当事者ではなく、単に取次をしただけだというのであるから、その限りでは丸紅の利益に合致しているといえるが、しかし、丸紅の利益だけを考えるなら一切無関係であったと供述する方が合理的であって、右のように丸紅の社長が顧客のロッキード社に代って、いわゆる賄賂とされている五億円の供与を申出たというような、丸紅の信用を損なうような事実をただ同社の利益のために述べたということはおよそ考えることができないというべきである。被告人伊藤が公判廷で述べているのは、被告人檜山の公判廷供述からうかがわれるところよりももっと深く丸紅の重役たちが右のような五億円の供与にかかわっている事実であり、被告人大久保の公判廷供述に至っては、同社社長が本件を主導したことを内容とするものであって、これが丸紅の利益に反することは明らかである。
被告人田中及び同榎本の弁護人は、右検察官面前供述が公判廷においても維持されているさらに別の理由として、それが検察官から押付けられて固定観念になっているのだと主張している。この点は前記のとおり被告人檜山の弁護人が人間の記憶は暗示・誘導によって変容するものであると説くところと軌を一にするものと思料されるのであるが、問題の公判廷供述はいずれも、時の内閣総理大臣に対して五億円という巨額の金員を供与するという、まことに異例の出来事の核心部分にかかわる事実に関するものなのであって、いかに人間の記憶が当てにならないものであるとしても、これほどの重大な事実があったとしたら忘れようとしても忘れ得ない強烈な印象とともに深く脳裡に刻み込まれるのが通例というべきであり、細部にわたる点についてはともかく、かかる事実があったかなかったかについて、いかなる者といえども明確な記憶を保持しているはずというべきである。捜査官の押付けによって記憶がなかったのにそのような事実があったとの固定観念を抱くに至ったというようなことがあり得べからざることは多言を要しないところである。また、仮りに右主張のように不真実につき固定観念が形成されていたと仮定しても、釈放後自ら関係資料に当り、関係者の話を聞き記憶の整理をすることにより誤りありとすればこれにすぐ気付くはずであり、丸紅三被告人がなお公判廷において、検察官面前供述の一部を維持した理由は、固定観念、誘導・暗示といったことで説明し得るものではないというほかはない。
そして右丸紅三被告人は、それぞれ検察官面前供述を変更した諸点については、後記のとおり、公判廷において不自然・不合理な供述を繰返し、中には支離滅裂というほかはないような供述内容に陥っている例もみられるのに対し、右のように一貫して供述を維持している点に関しては、被告人田中及び同榎本の弁護人らによる詳細かつ種々の角度からする質問追及を経てもこれに耐え、不合理、不自然な点は見受けられないのであって(なお、被告人伊藤は後記のとおり、前記第一・二[5][6]の点に関する公判廷供述についても、被告人質問の途中から記憶はあいまいで推測・臆測がかなり入っていると供述するに至っているが、大筋においては初めの段階の公判廷供述は維持しているものと考えられる。)、いずれもその信用性は高いということができる。
三 検察官による無理な押付けの有無
つぎに検察官が威迫・偽計・誘導によって押付けたとの主張について個々に検討することとする。
(一) 被告人大久保の供述について
被告人大久保は公判廷において、前記各検察官面前調書には、自分が任意に検察官に対してした供述がそのとおり録取されていると述べている。被告人田中及び榎本の弁護人は、被告人大久保が昭和五一年二月五日、事件の報道が始まるとともに渡米してコーチャンらとの接触、情報収集を命ぜられ、これに従って寧日なく、帰国後は報道機関の標的とされて心身を消耗するうち、二度にわたり苛烈な国会証言を余儀なくされ、その後も部内外からの注視監視の眼は厳しく、心身の疲労、動揺が激甚であったところ、同年六月二二日、議院の告発がないのに拘らず議院証言法違反の罪で違法逮捕されたうえ、酷暑の真只中に五七日間という異常な長期にわたる拷問的身柄拘束を受けたこと、その間勾留事実である議院証言法違反の点につき同年七月一三日に起訴がなされ、同被告人は同事実についてはほぼこれを認めていたのであるから、勾留を続ける要件に欠けていたというべきであるのに、依然同事実により不当な身柄拘束が続けられる中で同月二三日付及び同年八月八日付の各検察官面前調書が録取されたこと等の事情があるから、右各調書はいずれも不当な、かつ、長期の身柄拘束ののちに作成され、任意性も信用性も具備するに由ないものであると主張している。しかしながら、告発を待って受理すべき議院証言法違反の罪につき、告発前に被疑者を逮捕することは、告発があくまで訴訟条件であることに鑑みれば、事案によりその妥当性が問題となることがあり得るとしても、これを違法と解すべき根拠はないものというべきであり、また本件において被告人大久保の逮捕を不当と目すべき事情もないといわざるを得ない。また、同被告人が議院証言法違反の勾留事実をほぼ認め、これにつき公訴提起されたあとでも、当時の諸事情の下で勾留の要件が欠けるに至ったとは到底いうことができず、また当該事件自体の重要性及びその内容、とくに本件贈賄事件との関連を考慮すれば、同被告人に対する勾留が名を議院証言法違反の事実に借りて、実は贈賄事件の捜査を目的とする違法不当なものであったともいうことはできない。そして同被告人の検察官面前供述の内容、その供述を行うに至った経緯についての同被告人の公判廷供述、公判廷における検察官面前供述中一部維持と一部変更の状況等の諸点に照らせば、右検察官面前供述が同被告人の心身の疲労状態や三〇日ないし五〇日間勾留されたことと因果関係を有することをうかがわせるものはなく、却って前記第一・三[2]の被告人檜山からの電話についての供述のように、勾留中熟慮して記憶喚起につとめ、その結果従前の供述を変更して前記八月八日付調書に録取され(なおこの点は後記参照)、なお右変更された供述が前記のとおり大筋において変わることなく公判廷においても維持されているという例も存するのであって、以上を総合し、被告人大久保の検察官面前供述は記憶するところを自発的に述べたものと認められる。
被告人伊藤の弁護人は、被告人大久保の昭和五一年七月二三日付検察官面前調書(甲再一75・乙23)における昭和四七年八月二二日の大久保、コーチャン間の交渉についての供述記載は、コーチャンのSECにおける昭和五一年四月九日の証言と見事に対をなすように合致しており、ただ右証言ではコーチャンに対して五億円を出すように言い出したのが被告人檜山か同大久保であるのかが明確ではなかったところ、大久保の右調書では檜山がこれをコーチャンに先ず話したようになっていたのであるが、同年七月二八日に正式に伝達されたコーチャンの嘱託尋問では右の点が大久保が言い出したことに明確になるとともに、同被告人の同年八月八日付調書(甲再一76・乙24)でも檜山の指示で大久保がコーチャンに対して五億円支払の約束を求めたように供述が変更しているとして、検察官がコーチャンの供述に符節を合わせた検察官面前供述を大久保から得ていった経緯は明らかであると主張し、そこに検察官による押付けと同被告人側の迎合があると説くが如くである。しかしながら、弁護人が言及しているSECにおける証言の速記録写(甲四110)によると、コーチャンは、ロッキード社外では被告人大久保以外の人と五億円献金の問題について検討したことはないと明言しており、コーチャンから「五億円の支払が必要と檜山社長から言われたが」として相談を受けた旨の被告人大久保の右乙23の昭和五一年七月二三日付検察官面前調書記載は明らかにこれに反しているのである。のみならず、右SEC証言においては五億円の支払が必要であるとの助言をされこれを承諾するまでの間の経緯についての供述は極めて簡単なものであるのに、右乙23の調書においては、コーチャンが被告人檜山と会って、同被告人に総理訪問を頼むなどした翌日に五億円につきコーチャンと話合ったことなど、被告人大久保は右SEC証言で全く触れられていない事実についても供述し、この事実が後にみるようにコーチャンに対する本件嘱託尋問における証言によって裏付けられているのであって、大久保の乙23の検察官面前供述が、SEC証言と符節を合わせるべく押付けられ、あるいは同被告人が迎合したものであるとは考えることができないというべきである。
なお弁護人指摘の昭和五一年八月八日付検察官面前調書(甲再一76・乙24)三項には、第一・三[2]の趣旨の供述があり、右乙23の調書記載が変更されているのであるが、それは檜山から昭和四七年八月二二日にコーチャンとの交渉を指示された状況、内容について、自発的に記憶を喚起したところに基づき被告人大久保が供述しなければ検察官として知り得ない詳細な事実が録取されていると認められるのであって、検察官が単にコーチャンの証言に符節を合わせるため押付け迎合させた末の調書と認めることは到底できないのである。
(二) 被告人伊藤の供述について
被告人伊藤は「昭和五一年七月二日に逮捕されたあと五日間、被疑事実について全面的に否認していたところ、取調検事から、厳しい態度で『壁に向かって立て。』、『壁の方を向いて頭を下げろ。』と言われ、これに従うと頭の下げ方が悪いといって何回もやり直しをさせられたうえ、『国賊』、『人非人』、『ゴキブリ』、『売国奴』、『冷血漢』などという罵詈雑言を浴びせられたりした。一度は同検事が私の椅子を蹴飛ばしたため私がひっくり返ってしまったこともあった。」と公判廷において供述し、「弁護人との接見の際にそのような検事の行為を訴えたところ、弁護人から検察庁に抗議が行ったらしく、右のような仕打ちを受けることはなくなったが、当分の間は検事の言うとおり言わないとまたそういうような目に遭うんじゃないかという不安があった。」と述べている。被告人伊藤の取調に当った松尾邦弘検事は右のような暴言や乱暴の事実を否定し「児玉誉士夫らを『国賊』、『売国奴』と非難する投書が新聞雑誌に掲載されていることを話したことがあるにすぎない。また被告人伊藤は国会で偽証をしたとの被疑事実を徹底否認して、『良心に恥じるところはない。国会でもどこでも何回でも繰返し宣誓でも何でもしてどこでも言う。」と言い、立上って実際に宣誓をするということが数回あった。そのうちの一回、同被告人が立上ったとき、その机と壁の間が非常に狭く、椅子が邪魔になって立ちにくいと思ったので、私がその椅子を足で向うへ押しやったところ、同被告人がよろけたので支えてやったということはあった。」と証言しているのであるが、その証言によっても、被告人伊藤の態度ともあいまって同被告人に対する取調が当初平穏裡に進められていたわけでないことは優に認められる。しかし同被告人は公判廷において、前記のような検察官面前供述をした理由を縷々述べているのであるが、その中で前記の供述のような検察官による暴言や暴行は挙げていないのである。却って同被告人は、「逮捕後四日目ころから前記のような罵詈雑言等はなくなり、検事から『自分も中学生のころに父親が戦後の大きな疑獄事件に連座して八〇日間も獄につながれた。そのときの自分の心境を思うとあんたの息子さんの気持は本当によく分る。何も一人で頑張っていなくたっていいじゃないですか。』などと諄々と説得され、非常に親近感を覚えるような気持になり、それで自分が関与したり承知していることについて申上げようという心境に至ったのである。」とか「非常に穏やかな しかも自分の心情に合ったような話をされて心をほだされた。」と供述しており、同被告人が保釈により釈放された際、「明日よりはなるにまかせて行く末の運命を負わん君を恃みて」との歌を松尾検事に贈っており、取調が進むにつれ両者の間にかなりの信頼関係が醸成されていったものと認められること(松尾証言)、同被告人が勾留中に取調を受けた事項その他出来事及びこれらについての感想等を書き記してあった「ノート」(弁551)中に本件の主任検事として捜査に当った吉永検事に対する上申書の下書きが書かれているのであるが、その中に「忘れもしません。7日のひるすぎ、松尾さんが君の背負っている負担が如何に大きいかはよくわかる、といわれた一言です。私の心がわかって下さったのか。それが私のすべて申上げる気持にさせた一言の言葉だったのです。」との文章があることを考え合わせると、右上申書の下書きがその作成目的からしてかなり迎合的な気持で書かれていることを考慮してもなお検察官面前供述が松尾検事に威迫されたために虚偽の供述をせざるを得ない状況でなされたものとは到底考えることができないというべきである。
また被告人伊藤は、前記第一・二[1][2]の検察官面前供述を行うに至った経緯として、「昭和五一年七月二四、五日ころから、本件五億円の供与について、被告人檜山の田中邸訪問以前から相談に与っていたのではないかと厳しく追及されていた。そうした最中の同月三一日の取調の際、検事が女子監房に留置されている連合赤軍事件の女性未決囚のことに触れ、『同女は自分が取調べた。あの人はかわいそうに死刑になるだろう。あんたはまさか死刑にはなることはないが、そういうように頑張っていると、いつまでも出てもらうわけにはいかない。ここは冬になるととても寒いところで、あんたは昔胸の病気をしたから、とてももたないんじゃないか。』と言われて、絶望感というか、打ちひしがれたような気持になってしまった。そのうえ『五億円に関する檜山との相談の件について供述しないなら調べを打切る。いつまでも入っていなさい。』とも言われて突き放された状態になったこともあり、同年八月二日夜、自分から検事に会いたい旨連絡して取調を受けたところ、検事から笠原政則運転手が自殺したことを知らされ、検事の言うとおりにしないとまたまた犠牲者が出るのではないかという気持に襲われ、自分で全部背負ってしまおうとの自暴的、自己犠牲的な気になって私から檜山に対して五億円の話をしたという事実に反する供述をした。」旨公判廷において供述しているのであるが、後に詳細に検討するとおり、当時被告人伊藤が主として取調べられていた事項は右供述にある五億円供与の件ではなかったと認められるのであり、この件について供述した夜の状況についての右供述には不合理な点が多々存することまた後記のとおりであるから、同被告人が右供述のようにして第一・二[1][2]の検察官面前供述を押付けられたとはいうことができないのである。
被告人伊藤は、その他の第一・二[3]ないし[7]の検察官面前供述を行った理由を「検事があらかじめ考えていた筋書に合うように、理詰で追及されるなどして押付けられた。」とか、「関係者の供述を教えられたり、誘導されて、推理・推測を述べた。」と公判廷において供述しているのであるが、前記のとおり、同被告人は、田中邸訪問後の被告人檜山の指示に関し、その際檜山は被告人榎本のことに言及したと検察官面前で述べているけれども、檜山はそのような供述はしていないという例に見られるとおり、他関係者の供述していない点まで述べ、あるいは、他関係者の検察官面前供述とは異なる供述を検察官の面前で行っているという点がかなり存するのである。そのうえ、被告人伊藤が誘導された、あるいは理詰で追及されたという点についてみると、例えば前記第一・二[7]の供述について、伊藤は「私は当時社長からタッチしてはいけないよと言われていることを検事に話し、その点は検事もそのとおり素直に受取ってくれていた。しかし現実に私はやむを得ずデリバリーに関与してしまったので、そのことを検事にそのとおり言ったところ、検事から、『この仕事は大体タッチしないでやれと言われてもできないことで、当初からそのくらいのことは社長も分っているんであって、要するに社長の言われんとするのは、そういう証拠を残しちゃいかん、丸紅から足がつくようなことをしちゃいかんのだということではなかったか。』というふうに、理詰というか、決めつけられ、私も実はそう言われてみるとそういう解釈も成立ち得るし、また、それが検事の考えていたストーリーというか、檜山が伊藤と大久保を両側に使ってこれをやらしたんだという趣旨にも合うので、了解はできなかったが、致し方ないというか、その気持はうまくいえないが、検察官面前調書のような記載になってしまった。別に異議も訂正の申入もしていない。」と供述しているのであるが、右供述中の検事の質問は、仮りにあったとしても誰もが当然に抱くような疑問に基づいて尋ねてきたというにすぎないというべきであり、右供述内容からうかがわれる伊藤のこれに対する応答ぶりに鑑みても、右の点に関する取調が、検事のあらかじめ考えた筋書に合わせるように理詰で、強度の精神的圧迫を加え真実を述べることができないほどの追及をするものであったとは到底考えられないところである。右第一・二[7]以外の各供述に関する被告人伊藤の公判廷供述に徴しても、同被告人が右のような追及を受けていたことを疑う余地は全くないということができる。
以上のとおり同被告人に対する取調は威迫によってその自発的供述を妨げるというようなものではなかったと認められるが、なおつぎの点を指摘することができる。被告人伊藤の検察官面前調書には同被告人がコーチャンと会ったことについての供述記載はないのであるが、コーチャンはその証言の中で、後記のいわゆる陰謀話にかかる一挿話として、伊藤に会い調査してもらった旨供述しているのである。右の事項の重要性に照らして当然考えられるとおり、伊藤が何日間にもわたってこの点につき取調を受けたことは同被告人の供述、松尾証人の証言によって明らかである。ところが伊藤は最後までこれを認めなかったのであるが、同被告人はこの間の事情を「全く記憶にございませんでしたから、こればかしはございませんでしたと申上げておりました。」と供述しているのである。このように、同被告人が検察官の追及に対してこれを否定しようと思えばそれを貫くことができたことは明らかであるといわなければならない。
以上を総合して被告人伊藤の前記検察官面前供述には十分に任意性を肯認することができるというべきであり、これを無理な押付けの結果であるとは到底考えることができない。
(三) 被告人檜山の供述について
被告人檜山は自ら公判廷で変更した検察官面前供述について、「取調に当った安保検事は執拗に検事の理屈や検事の事実を押付けてきた。それに抵抗したが、検事の態度は非常に強圧的で威嚇的であり、とくに取調の初期の段階においては、『国賊』、『ばかやろう』、『うそつきめ』、『こっち向け』と罵詈罵倒を重ねられ、まさに問答無用と、何を言っても取上げてくれないことから、そのような不愉快さから脱出するには迎合しておけば楽な道であるということで、おりから暑い最中に眠れない晩が三分の一もあったと思うが、そういう状態でまともな応答ができるわけでもないということもあって、半ばあきらめの体で、どうぞどうぞということで署名して調書が作成されたのである。したがって自分の記憶に反することは検事が勝手に書いた作文である。」と公判廷において供述している。
被告人檜山の取調に当った安保憲治検事は、これに対して、「同被告人は逮捕直後の二日間は、『すぐ釈放してくれ、何の証拠があっておれを逮捕したのか。』と相当強い口調で食ってかかり、立上ったり、わめいたり、最後には窓際の方に横向きになり足を組んで外ばかり見ているという状況になるなど極めて反抗的な態度をとっていたが、逮捕後二日目の夜に私が山奥の貧農の子供として生れ育ち、苦学して検事となった話などをしてから次第に同被告人との間に信頼関係が生じて来て、三日目の夜から同被告人は自白を始めた。供述に当って同被告人は、間違ったことを言って他人に迷惑をかけてはいけないということで極めて慎重であり、とくに被告人田中のこととなると、一分一厘間違っていては大変だということで、私が事務官に口授しているのをときどき止めさせて表現の変更や訂正を求め、調書を読み聞かせた際も終始耳を傾け、調書の字を眼で追っているという状況であった。このように検察官面前調書は、被告人檜山が自発的に行った供述を正確に録取したもので、私が作文したことは全くない。同被告人が自白するまでの間、田中邸に大久保を連れて行ったことがあるかないか厳しく追及したが、『国賊め』、『ばかやろう』、『嘘つきめ』などとは言っていない。被告人檜山に『世間では国賊だというような言い方をしている者もいる。』と言ったことはある。また前述のとおり、横向きになって足を組んだりしたときに、『こちらを向きなさい。』ということは言ったことがある。逮捕後ずっと健康について必ず尋ねていたが、取調期間中、檜山はいたって元気で、週一度の健康診断の結果にも異状はなかった。最初の晩は眠れなかったということであり、七月下旬ころに、寝つきが悪いので睡眠薬をもらって飲んでいると言っていたが、一週間くらいしてから、よく眠っているから薬はいらないと断ったと言っていた。」旨述べ、さらに同被告人が任意に供述したとしてその状況を、供述した事項ごとに具体的かつ詳細に証言している。右証言は、反対尋問に耐え、同被告人の検察官面前調書の内容に相応して自然であるということができる。
これに対して検事の理屈や考えの押付けに屈服して署名するに至ったという経緯について被告人檜山のなす説明は画一的であり、どの事項についても「検事の押付けに対抗して最後まで頑張り、それを認めたことはなかったけれども、検事の方で勝手に綴り合わせて書いてくるので、精も根も尽き果てて署名した。」と述べているのである。最後まで肯定しなかったのに調書に書かれたあとは抵抗する気力を失って署名したということ、しかもそれを各事項ごとに何回も繰返したということはまことに不自然というほかない。また同被告人は、検察官面前調書が非常に大切なものだという知識も持合わせなかったと述べているのであるが、同被告人の経歴、見識、さらに後記認定のとおり、本件発覚のあと予想される逮捕を前にして、丸紅において捜査への対策を練り、被告人伊藤及び同大久保が交互に検事役となって他方を問い質し、取調を受ける練習を行うなどの準備をしていたのであり、檜山もこれに同席していたこともあったという事実に照らして、右供述は到底信用することができないといわざるを得ない。
さらに被告人檜山の各検察官面前調書及び証人安保憲治の供述を総合すると、同被告人は安保検事の取調の際、同検事から問い質されたつぎの諸事項等につき、否定し、あるいは思い出せないと述べたため、これらについては調書に事実関係を録取することができなかったことが明らかである。
[1] 五億円供与の件について、被告人檜山は同大久保ないし同伊藤と事前に謀議をしたか否か。
[2] 五億円献金の話を始めたのは檜山ではないか。
[3] 五億円供与の実行の関係で被告人榎本の名前がいつあがって来たか。
[4] 被告人田中の催促があったことを伊藤から聞いた際、大久保に指示をしたことはないか。
これらの事項はいずれも他の関係者の供述している重要な点であって、当然安保検事から被告人檜山は繰返し追及を受けたものと思料されるところ、同被告人がこれらの点につき否定し、あるいは記憶がないとの供述を貫いたということは、同被告人に対する取調の状況が、その公判廷供述のような検事の押付けや作文に終始したというようなものではなく、檜山は否定すべき点は否定し、記憶のない点はないと供述し、その供述したところに従って調書が作成されていたことを示すものということができる。また同被告人の昭和五一年八月一〇日付供述調書(甲再一77・乙15)七項に、五億円実行につき被告人大久保に指示をした旨の供述記載があるのであるが、その指示の時期について、「田中総理の私邸から帰るときの車中であったか、会社に着いてからであったか、あるいは二回にわたってであったかはっきりしませんが。」と書かれている。この点は前記(第一・三[5])被告人大久保の「車中で檜山が片手を拡げて見せた。」旨の供述(これは被告人大久保の昭和五一年七月二三日付供述調書に記載されていた重要事項であるから、被告人檜山の右供述調書作成の時点では恐らく安保検事にも告知されていたと認められる。)の真否確認のため検事としては十分に問い質したはずのところである。また昭和四七年八月二三日の田中邸訪問のアポイントメント取得の指示をした時期について、昭和五一年七月一七日付検察官面前調書(乙58)には「(昭和四七年八月中旬)大久保からコーチャンの五億円献金申出の話を聞いてアポイントメント取得の指示をした。」、同月二二日付調書(乙59)には「アポイントメントの指示の時期はあとでよく思い出すようにする。」、同年八月一四日付調書(甲再一79・乙16)には、「八月二一日、コーチャンと会ったあとにとったものではなく、もっと前に申込んでいたように思う。」と不明暸、かつ、変遷する供述がそのまま録取されていることが看取されるのである。その他被告人檜山の検察官面前調書には、「………しました。」、「……記憶があります。」、「……の記憶が出てまいりません。」、「……までは思い出せません。」、「……があったようにも思いますが、」等々記憶の程度を示す書き分けがなされているのであり、このことからも同被告人の供述した趣旨が忠実に録取されたものと解され、安保検事の作文によって調書が作成されたわけではないことが認められる。
以上のとおり、被告人檜山の検察官面前供述については、任意性を十分に肯認することができ、これを検察官の無理な押付けの結果であるということはできない。
四 丸紅三被告人の検察官面前供述を否定、変更する公判廷供述の不自然性、不合理性
(一) 被告人大久保の供述について
被告人大久保は、公判廷で変更した検察官面前供述部分につき、その供述を行った理由として、「取調当時、賄賂ということで騒がれ、私自身が大きな疑惑の中に当事者として身を置いていたところから、本件五億円が賄賂であるという既成概念が生じ、勾留中もこの既成概念に強く支配されていたところ、記憶喚起が十分にできておらなかったこともあり、知っていることと知っていることとをつなぎ合わせて知らないことを賄賂の概念で想像で述べてしまった。」と供述しているのであるが、賄賂の概念に支配されて供述したということ自体たやすく理解し難いというほかはないのみならず、後記認定のとおり、本件にかかる疑惑が報道され、社会が騒然たる状況になったあと取調を受けるまでの五か月間にわたって、被告人大久保は、渡米してコーチャンら関係者と会い、米国における証言についての資料を検討し、国会における追及を経たうえ、検察当局による捜査に備えて取調に対する応答の練習をするなどの準備を重ねていたのであり、その間、当然に自己の体験した事実を思い起こし、事件の核心である五億円供与の趣旨についての自己の認識やこれに関する記憶は細かな点以外はすべて思い起こしていたものと推認し得るのであって、取調時に環境に支配されて自己の経験・認識に反する供述を検察官に対して行ったとの公判廷供述は極めて不自然であるといわざるを得ない。
そして被告人大久保が公判廷において供述を変更した個々の事項についてみても、第一・三[2]の点については同被告人自身が「『頼む』ということは状況上、やっぱり当然言われたかなという感じもあるわけなので、記憶はないけれども言われたかも知れないというのが本当である。『手ぶらで頼むわけにもいくまい。』ということについても同じである。」と述べており(一二五回公判)、第一・三[4]の「航空機の仕事をやってもらっている。」という紹介の言葉についても、「状況上多分あったと思われる。」と供述している(一二五回公判)のであって、いずれも被告人大久保が公判廷で供述する本件一連の情況下ではそのような言葉が言われることが自然であり、その蓋然性が高いことは同被告人も肯定している。この点は第一・三[1]の「金を使ってトライスターの件を早くまとめたい。」との被告人檜山の言葉に関しても同様であって、被告人大久保は「おそらくその後に田中総理邸に行ったことなど合わせて、直結して私が想像で述べてしまったことではないかと思っている。」と供述している(七三回公判)のであり、前同様、大久保の公判廷で述べる一連の経緯の下ではこの言葉が発せられたのが自然であるといえるのである。また同様にその他[4]ないし[7]中の被告人大久保自身及び同檜山やコーチャンの認識についても、大久保が公判廷において供述する諸情況に照らせばごく自然に生ずる認識というべきである。被告人大久保はこれらの認識を否定して公判廷において、例えば[2]の被告人檜山からの電話では、「きのうコーチャンと会った。田中総理に会うことに決まった」と言われたが、何のために総理に会うのか分らなかった、八月上旬に総理のような実力者にお願いするという話があっても分らなかった、それほど深くそういう問題を考えることをしない私の性格であるので考えなかったのは事実であると思うなどと、大久保の供述する当時の諸情況の下で同被告人が置かれていた立場からはおよそ考えることのできない不自然な供述を行っている。またこの電話について、被告人大久保は、「手ぶらでは行かれないということからコーチャンに用意させる五億円を総理に差上げるんだということを理解したことはない。私は檜山氏が目白邸にお伺いするについてというふうにしか考えていない。五億円が何のために必要な金か檜山社長に確かめなかったのは、トライスターの売込に協力を求めるためだと分ったからでない。私は檜山さんに言われたことを確かめたことはほとんどない。」とも公判廷において供述している。この供述はそれ自体上司の指示に対して通常人がとる態度に照らしても不自然であるばかりではなく、これが真実であるとすれば、コーチャンに五億円もの大金を出させる困難な交渉(被告人大久保は「その交渉の責務が大きく肩にのしかかってきたという感じであった。コーチャンがたやすく応じるとは思わなかった。」と公判廷で供述している。)に、その五億円の使途や必要性もよく分らないままに臨み、相手を説得してその支出を約束せしめたという、まことに不可解なことになるのである。また、被告人大久保は、田中邸訪問後コーチャンに言ったという「総理は受けた。これでロッキード社から五億円が円札で支払われることが必要だ。」との言葉について、「『総理は受けた。』とはトライスター導入に対するご協力をいただくことを受けたという意味で、五億の問題について私は別個に言っているわけである。」(七三回公判)、「『これで』というのは趣旨としてそう言ったということで、『だから』という意味ではない。」(一二五回公判)と述べているのであるが、英語で「これで」に当る言葉として何と言ったかを詮索するまでもなく、一連の言葉の前段と後段とを敢えて関連のないことと意味づけて解するのは困難というほかはない。このように被告人大久保が検察官面前供述を否定ないし変更する公判廷供述には極めて不自然、不合理な点が目立つといわなければならない。
以上の点に加え、同被告人が否定、変更している検察官面前供述は、前記のとおり五億円の賄賂性に直接に結び付く事項に限られていることを考え合わせると、被告人大久保が賄賂罪の成立を強く争っている相被告人らの面前では、前記第一・三[1]ないし[7]の検察官面前供述を維持することが憚られ、右のような変更・否定の供述を行っているのではないかとの推認は避けられないところといわなければならない。右変更・否定の供述は信用性に乏しいというべきである。
(二) 被告人伊藤の供述について
被告人伊藤についても、前記直接証拠たる検察官面前供述を変更した公判廷供述には諸処に不可解、不自然な点が見られる。例えば、同被告人は前記第一・二[7]の供述を変更して「檜山社長からは『これはロッキードの金であるから君らはタッチしてはいけないよ。』と念を押された。」と公判廷で供述しているのであるが、同じく公判廷において「檜山社長からは他方『間違いなく届けるように。』という指示もあり、社長から田中総理に取次がれたものであるということを聞かされていたものだから、私としてはこれが円滑に渡るようにということを第一義的に考えていた。」とも供述しているのである。被告人伊藤は右の二つの指示を矛盾するものとは考えなかったと述べているけれども、「タッチするな。」とは「自身及びその部下が金員の受渡に関与するな。」との趣旨であると理解したというのであるから、これらの指示をいずれもそのとおり実行することは極めて困難であったといわざるを得ないのであるが、伊藤はそのように困難な仕事の遂行の方策を事前に検討することも全くなく、被告人大久保からレシートにサインするよう求められ、そうすることが被告人檜山の「タッチするな。」との指示に反することを知りながらこれに応じ、被告人榎本にロッキード社へ金員を取りに行くように求めたところ、取りに行けないという趣旨のことを言われて、さほど強くこの点を要求することもなく、後記認定のとおり、五億円をクラッターから受領して榎本に渡すという、受渡行為そのものの実行を始めてしまったということになる。「タッチするな。」との指示の意味を被告人伊藤の右公判廷供述のとおりに理解する限り、社長がわざわざ念を押して注意したという右指示部分を、その信望が最も厚いはずの社長室長がごくあっさりと無視したということになるのであって、関係証拠からうかがわれる伊藤の平素の優秀な勤務ぶりと対比してまことに不自然なことというほかはない。
被告人伊藤は、昭和五一年八月二日の夜、笠原運転手自殺の事実を知らされ、検事の言うとおりにしないとまたまた犠牲者が出るのではないかとの気持から、全部自分で背負ってしまおうと考え、前記第一・二[1]・[2]の検察官面前供述を始めたと公判廷において供述していること前記のとおりであるが後に右[1][2]の点につき事実認定をする際詳細に論述するとおり、この検察官面前供述は、これによると被告人檜山が同田中に対する金員供与の話を提案するなど本件の謀議に主導的役割を果したことが明らかにされるのであって、被告人伊藤が全部自分で背負ってしまうというような内容のものではないのである。同被告人は法廷においてこの点の矛盾を衝かれたが首肯するに足る説明をすることができなかったことは、これまた後に述べるとおりである。
その他後に各事項の個別的検討の際に触れるとおり、被告人伊藤がその検察官面前供述を否定、変更する公判廷供述には随所に右の例のような不自然不合理な点が見られる。そのような点に注目したうえで、同被告人が検察官面前供述のうちで否定、変更している事項を通観すると、その大半は被告人檜山の公判廷供述と被告人伊藤の検察官面前供述とが矛盾抵触している事項であることが知られるのである。すなわち被告人伊藤は、同檜山が公判廷において供述しているところと符節を合わせた供述をしようとの意図をもって自己の検察官面前供述を否定、変更していることが明らかに看取し得るのであって、かかる公判廷供述の信用性は乏しいといわなければならない。
(三) 被告人檜山の供述について
被告人檜山についても、公判廷において、検察官面前供述を否定し、これが真実であると述べるところには極めて不自然・不合理な点が多くみられる。例えば、同被告人は、昭和五一年二月の米国上院チャーチ委員会において、コーチャンが「ピーナツ一〇〇個は一億円を意味する。この金はある政府高官に対する支払として丸紅の役員の一人である伊藤宏に渡されたものである。政府高官に対する支払を勧告したのは檜山か大久保のいずれかである。丸紅を通じて政府高官に渡された金はおよそ二〇〇万ドルである。」旨証言したことについて、「その証言が、自分の取次いだ五億円のことを言っているとは思わなかった。衆議院予算委員会で証言した際もそこで質問されたことが右取次にかかる五億円のこととは考えなかったし、ロッキード社からの五億円の支払の受領という外為法違反容疑で逮捕されても、それが取次いだ五億円に関することとは思わなかった。逮捕されたあと最初の弁護人との接見の際、初めて右の五億円のことで取調を受けているらしいと知って、それなら伝言をしたことがあると検事に述べた。」と公判廷で供述している。しかしながらロッキード社からの五億円の献金を被告人田中に取次いだという事実があれば、その後「被告人田中」、「ロッキード社」、「丸紅」、「五億円」ということをめぐって社会が騒然とし、被告人檜山らに大きな疑惑の眼が向けられ、現実に逮捕されるまでに至ったのであるから、その間に社会の非難、捜査の対象となっている五億円が、自分が関与したものであるか否かについては十分に確かめ、明確な認識を有していなければならないはずであり、逮捕後、弁護人との接見の際、自分の取次いだ五億円のことで取調を受けているらしいと知ったなどということがあり得ようはずはないのである。
また被告人檜山は、「総理に取次いだ献金はロッキード社が伝えてくれというのだから、当然同社として責任をもってやるんだろうと思っていた。あそこには日本語を話せる人もいるし、立派ないろんな人がいるんだから、そういうことは最も得意とするところじゃないかと考えていた。」として、自分自身、実行につき何の心配も配慮もしなかったというのであるが、献金の申出すら自らなし得ず、伝言を依頼した会社が、全く檜山ら丸紅の者の協力なしに献金の実行をすることができると考えることは困難というべきであり、それなのにそのいう伝言だけをして自らの役目を終ったとするのは一国の内閣総理大臣に対する大商社の社長の行動としては、到底常識で推し測ることのできない無責任なものというほかはないこととなるのであって、右供述は全く不自然というほかはない。
さらに、被告人檜山は前記第一・一([6]を変更した公判廷供述)のとおり、「伊藤に対しては、『今日、総理邸をお訪ねしてこういうことを伝えたよ。』と五億円献金の伝言をした旨話した。」と供述し、その理由として、「もし万一、社長室の伊藤の方に田中総理の側から電話があったりなんかして、連絡でもあった場合に、私も留守がちだから、伊藤が私のその伝言に関して何か失礼なことでも申上げちゃいかんからである。」と供述している。しかし被告人檜山の公判廷供述によれば、五億円供与に丸紅は何らかかわることはないと考えていたというのであるから、丸紅幹部職員に五億円献金の件で被告人田中の方から電話などが来ることを心配する必要もなかったというべきであり、それなのに右のような理由で被告人伊藤にそのような話をしたというのはいささか不可解であるのみならず、檜山は公判廷において、「私の気持としては、仮りに田中側から督促がきた場合には、伊藤でも大久保でも、どちらが言おうといいことだが、『それはロッキード社の方に言ってください。』と、要するに私の方じゃないということを言ってもらえば済むと思っていた。」とも述べているのであるが、そのような電話に対しては「自分は知らないから檜山にきいてみる。」と言えば済むことであって、右檜山供述のような応対こそ内閣総理大臣に対する非礼以外の何ものでもないというほかはないのであり、右供述は公判廷での検察官の追及質問に対し、その場を取り繕う無責任な言辞としかいいようのないものである。そして後記の諸事項についても右のような常識では考え難いような内容の供述が諸処にみられ、以上のような不自然さ、不合理さを衝く検察官らの質問に対して檜山は十分納得のいく説明をなし得ないばかりか、支離滅裂としかいいようのない応答を繰返す場面も多くみられたのである。以上の点と被告人檜山が検察官面前供述を否定、変更している事項の内容を総合すれば、同被告人の右のような公判廷供述は、本件五億円の供与につき丸紅には責任がないとの立場を無理に貫こうとするものと認められ、信用性に乏しいといわざるを得ない。
五 丸紅三被告人の検察官面前供述の動機等
ところで、丸紅三被告人の前記検察官面前供述は、その内容から明らかなとおり、それぞれ本件贈賄の罪を犯した旨の自白であるうえ、本件五億円の供与につき丸紅が重要な役割を果したことを認める内容のものであり、とくに被告人伊藤及び同大久保の各検察官面前供述はこれを丸紅の檜山社長らが発意してコーチャンを説得して敢行したとの同社にとって極めて不利益な事実の承認を内容とするものである。しかも三被告人が一致して全く同じ事実を供述しているというわけではない。右被告人らが「丸紅の事情によって」検察官の押付けに屈し、あるいは迎合して各検察官面前供述をするに至ったものとは到底考えることができないというべきである。
却って、三被告人の地位・経歴、ことに三名が丸紅の社長ないし会長・専務取締役という同社の最高幹部であったことを考えるならば、右のような供述をすることにより、自らが刑罰に処せられるばかりか、世間にこれが知れて同社の信用を著しく失墜せしめ、その営業活動に測り知れない打撃を与え兼ねない結果となることは当然熟知していたところというべきである。そしてまた、もと内閣総理大臣の地位にあり、なお政財界に極めて大きな勢力を有している被告人田中の政治生命に甚大な影響を及ぼし、政財界に大きな混乱をもたらすに至るべきことも知悉していたところと考えられる。前記のとおり、検察官の取調中、被告人檜山は、こと被告人田中のことになると一分一厘間違っていては大変だということで、供述調書の表現の変更や訂正を求めるなど極めて慎重であったことが認められるし、また、被告人伊藤は取調の当初の段階においては田中の名前を検事に対して供述することを躊躇し、伊藤の昭和五一年七月七日付検察官面前調書(三丁のもの・乙65)には、五億円の渡し先として「ある政府高官」としか記載されていないのである(被告人伊藤の九四回公判における供述)が、これらは右のことのあらわれであるということができる。このような丸紅三被告人が虚偽の事実を述べて自分たちや会社を前記のような状態に置き、被告人田中を陥れなければならない理由は全く考えられない。被告人檜山は同田中とは、後記認定のとおり、再三にわたってその私邸を訪問、面談して中国問題の話を聞き、石油政策につき意見具申し、また田中内閣総理大臣を囲む財界人の会である「月曜会」その他諸種の会合においてよく同席し、またフィリピンで共にゴルフをしたこともある間柄であり、被告人伊藤も田中の秘書官である被告人榎本とは、その実弟の婚礼に際し媒妁人をつとめたこともあって、極めて親密な仲になっていたのであり、いずれも田中を庇うのが当然という立場にあったといえこそすれ、同被告人らを憎み、これと反目する関係にあったとは考えられないのである。被告人大久保も同田中らに敵対し、これに反感を抱くような立場になかったことは関係証拠に照らして明らかである。
丸紅三被告人が、それぞれ自ら処罰されるおそれがあるのみならず、丸紅の信用を大きく損ない、右のような関係にある被告人田中らを窮地に追い込むような供述を検察官面前で行ったのは、前記二及び三で指摘した諸点をも考え合わせるならば、それらが真実に副うものであると右三被告人がそれぞれ考えていたからであると、高度の蓋然性をもっていい得るものと考えられる。
なお、以上三、四及び本項で説明した諸点を総合すると、丸紅三被告人の各検察官面前調書記載の供述については、いずれも十分に任意性を肯認することができるばかりでなく、当該被告人の公判廷供述と相反する各部分(相反部分と一体をなす部分も含む。甲再一75・76の各供述調書中、昭和五七年二月一八日付書面による当裁判所の決定の第一・一で示した部分。甲再一77の調書全部。甲再一78の調書一・四・六・八項。甲再一89ないし95の各調書中、同年六月一七日付書面による当裁判所の決定で示した部分)につきいずれも特信性を優に認めることができる。
六 コーチャン証言の信用性
ここで、前記直接証拠たる各供述のうち、コーチャン証言の信用性につき一般的に検討を加えておくこととする。同証言は東京地方裁判所裁判官が刑事訴訟法二二六条に則って米国の所轄裁判所に嘱託し、これを受けた同国カリフォルニア州中央地区連邦裁判所において、同裁判所が執行官に指名したケネス・N・チャントリー主宰の下に実施された証人尋問手続においてなされたものである。右証人尋問手続は、同国司法省特別検事ロバート・G・クラークほか一名の副執行官が尋問に当り、わが国東京地方検察庁検事二名がこれに立会ったが、本件各被告人及びその弁護人は立会っておらず、その立場からの反対尋問は行われていない。しかし、右証人尋問の調書が刑訴法三二一条一項三号の要件を充足し、証拠能力を肯認すべきものであることは当裁判所が昭和五三年一二月二〇日の決定において詳細に示したところである。そこで論述したとおり、右尋問手続は、米国の裁判所において、同国の訴訟手続関係法規に則って施行され、主宰した右チャントリーは同州退任判事であって、同国の尋問規則に従い、公正かつ公平な立場に立って手続を進めたと認められること、コーチャンは証言に先立って宣誓を行い、虚偽の供述をすると偽証罪に問われることのある旨の告知を受けていること、本件手続には弁護士がコーチャンの代理人として常に立会って、副執行官の尋問に対し異議を申立て、コーチャンに対し証言内容につき適宜助言するなどし、それによって誘導誤導等により同証人が虚偽供述をするに至ることを防止しようとし、あるいは記憶の確実性の有無を明確に区別するよう同証人に注意するなど虚偽供述発生の防止に努めているのであってその活動は証言の信用性を担保するように作用していると認められること、コーチャンはその証言内容からみて記憶の有無や現に記憶の存する事項と推測にわたる事項との別を明確に意識して証言していると認められること、尋問の過程で客観的資料を示され、自己の記憶の正確さを確認しあるいは記憶を喚起して証言していること、本件尋問調書は公認速記者により一問一答式で正確に録取されており、なおコーチャンは尋問終了後これを閲読して不正確又は誤りと認めた箇所を自ら訂正したうえ、その正確性を承認して自らこれに署名していること等の諸事情が存するのであり、これらを総合すると、コーチャンの証人尋問調書は全体として高度の信用性が担保されていると認め得べき情況下において作成されたものであるということができる。そして副執行官は本件約束・請託の関係では、誘導となるような問いを避け、コーチャンをして自分から一連の経過を証言させ、その間の疑問の点を順次尋問して行くという方法をとっていることが明らかであり、前記直接証拠たるコーチャン証言の信用性は一般的に高いということができる。
被告人伊藤の弁護人は、コーチャン証言には幾多の矛盾点が存するとして証言中の種々の箇所を指摘しているが、後に検討するとおり、そのいずれについても指摘するような矛盾撞着、不自然性は存しないというべきである。また被告人檜山の弁護人は、「コーチャンは昭和五一年当時、チャーチ委員会、SECでの証言では、P三C対潜哨戒機の対日売込に支障のない形で証言内容を収拾する必要があった。事実同人は五億円をL一〇一一と結び付けて構成することによってチャーチ委員会、SECでの証言を切抜けてP三C隠しに成功した。」と主張し、コーチャンの本件証言は五億円献金の目的につき虚構を述べているもので信用し得ないと説いているが、首肯し得るに足りる十分な根拠を示していないのみならず、本件証拠上右のような点をうかがわせるものは見当らない。却って、コーチャンは、本件証言においてP三Cにも言及し、とくに本件五億円支払を催促されたときのことについて述べる中で、右支払を履行しない場合に影響を受けるものとしてP三Cの日本における販売を挙げ、本件五億円支払とP三Cの関係が全くないわけではないことを自分から供述しているのである。右弁護人の主張は臆測の域を出ないものというほかはなく、排斥を免れない。
七 直接証拠たる各供述の信用性のまとめ
被告人大久保の前記第一・三[1]ないし[7]の検察官面前供述及び同[8]ないし[10]の公判廷供述(以下、右[1]ないし[10]の供述を合わせて「検察官面前供述等」という)の内容は、全体として一貫しており、述べられている個々の事実及びその推移、被告人自身及び他の関係者の認識も、供述中にあらわれた客観的諸情況に照らして合理的であり、自然であるということができる。そして右検察官面前供述のほとんどは公判段階においても維持されているのであり、前にも触れたとおり、同被告人に対しては一三回にも及ぶ公判期日において、検察官及び相被告人らの各弁護人がそれぞれの立場からいずれも詳細かつ種々角度を変えた被告人質問を行い、同被告人の公判廷供述及び検察官面前供述の双方について、事実上の反対尋問による信用性の吟味が十分になされたということができるのであるが、その結果、検察官面前供述を否定ないし変更する公判廷供述部分については、前記のとおり不自然、不合理な点がみられ、これらに前記二ないし五の諸点を考え合わせると、被告人大久保の前記検察官面前供述等については高度の信用性を肯認し得るというべきである。
また、前記第一・二の被告人伊藤の検察官面前供述も、以上二ないし五の諸点に加え、内容に一貫性と合理性が認められるうえ、被告人大久保の右検察官面前供述等と大筋において符合しているのであって、前記のとおり、検察官による押付け捜査が行われたといい難いことを考え合わせると、その信用性は極めて高いということができる。同様にコーチャン証言も被告人大久保の検察官面前供述等と非常によく符合していること、後記のとおりであって、前記五の点も考え合わせ、極めて高度の証明力を認め得るといわなければならない。
被告人檜山の前記第一・一の検察官面前供述も、その公判廷供述に比べればその内容に合理性があって前記二ないし五で述べたところに鑑みると一般的にその信用性は高いといい得るのであるが、他の関係者の供述と符合する点も存する反面、これらと相反する点も少からず見られるのである。その詳細については後に個別的事項につき検討するところに譲るが、これら相反する点については、いずれも他関係者の供述の方が自然であると認められるのであり、右検察官面前供述中一部には、信用性に乏しいところがあるといわざるを得ないのである。
第三  請託と賄賂供与の申出及びその受諾
そこで以下、判示事実を認定した理由につき、本件証拠上問題となる事項ごとに検討、説明を加えていくこととする。先ず、本件請託及び五億円供与の申出とその承諾の事実があったか否かを検討することとするが、この点の直接証拠は前記第一・一[4]の被告人檜山の検察官面前供述のほかになく、同被告人は公判廷で右検察官面前供述の内容たる事実のほとんどを否定し、被告人田中も右事実は全くないと公判廷で述べているので、関係する諸事実を認定しながら、右檜山検察官面前供述の信用性を検討吟味していくこととする。
一 直接関係者の供述
(一) 被告人檜山の供述
1 検察官面前供述
右第一・一[4]の被告人檜山の検察官面前供述はこれを詳細に示すとつぎのとおりである。
昭和四七年八月二三日早朝、大久保とともに田中総理の私邸へ行った。先客がありしばらく待たされたあと、大きな応接室風の部屋に案内された。私がその部屋に「丸紅の檜山です。」と言って顔を出したところ、田中総理が一人正面奥の一人用の椅子に坐っており、「やあやあ」と右手をあげながら親しげな態度で迎えてくれた。総理に断って大久保を中に入れ「この人は明治の元勲大久保朝臣の孫に当る者で、うちでは航空機の方の仕事を担当しております。」などと言って紹介したあと、同人を下がらせ、田中総理に、内閣総理大臣に就任したことに対する祝いの言葉を述べたあと、本題に入り、「実はアメリカのロッキード社が今、全日空に対して飛行機の売込をかけているんですが、なかなか思うようにいかないんです。実はロッキード社の方からそれができたら総理に五億円程度の献金をする用意があると言ってきているんです。」と言ったところ、田中総理は「ああ、ああ」と言って顔を上げ、それから顔を上下に動かしながら快諾された。私はさらに、「ご承知かと思いますが、丸紅はロッキード社の飛行機を全日空に買ってもらおうと思って、いろいろと骨を折っておりますが、何分にも競争が激しく全日空も難渋しているので困っているんです。なんとか全日空がロッキード社の飛行機を導入するよう、総理の方から然るべき閣僚へ働きかけるなどして何分のご協力をお願いします。」と話したところ、田中総理は「丸紅がロッキード社のエージェント(代理店と言ったかもしれない。)だったか。」と言ったので、私は「そうなんです。それでこのようなお願いに。」と言ったところ、田中総理は顔を上下に動かしながら、「よしゃよしゃ」と言って快く引受けてくれたことから、やっぱり金の力だと思い、ほっとした。そのとき私は金のことが一寸気になったので、「先程お話したお礼の五億円はロッキード社から全額出していただくもので、丸紅から出すものではございませんので、その点お含みおき下さい。」と言った。それに対し田中総理は「ああ、わかった、わかった。」と言っていた。悪いことだから隣の待合室風の部屋の客に聞えないように気を配りながら、普通よりもやや低い声で話したが、田中総理のすぐ右手横に坐っての話なので、田中総理が聞き落すとか、聞き違えるといったことはあり得ない。田中総理の態度は上機嫌そのもので、私からの右のお願いや、五億円の献金については渋るとか、断わるといった態度はみじんも見られず、逆に快く承諾されたので、私はこれでトライスターの売込は決定的になると、内心うれしく思った。(昭和五一年八月一〇日付〔甲再一77・乙15〕六項)
2 公判廷供述
右検察官面前供述につき、被告人檜山は公判廷において、「田中総理に総理就任のお祝いを述べたあと、最後に『ロッキードとして五億円相当の献金をいたしたいということを伝えてほしいというのでお伝えします。したがってこれは丸紅のものではございません。丸紅からではございません。』と申上げた。これに対して総理は、『丸紅がロッキードのエージェントをやっているのか。』というようなことを言ったような気がする。何故ロッキード社が五億円相当の献金をするかということについて何も言わなかった。田中総理が五億円相当の話のときに肯いたかどうか、はっきり分らない。以上のほか右検察官面前供述のようなやりとりはなかった。」と述べ、種々の理由をあげて右のようなやりとりはあり得なかったことを強調している。
(二) 被告人田中の供述
被告人田中は公判廷において、「八月二三日の被告人檜山の自宅訪問について記憶は全くないが、おそらくは表敬訪問であったと思われ、同被告人の供述するような要請や金員供与の話は、そのときの応接室の状況等からもあり得ないことであったし、事実全くなかった。政治家の第一歩は第三国人からはいかなる名目によらず政治献金を受けてならないということであって、金員供与の申出など常識的にあり得ることではない。」と供述している。
(三) 被告人檜山の右公判廷供述の不自然性
被告人檜山が、前記(一)2のとおり「なかった」とする事柄がその検察官面前調書に記載されている理由について、同被告人は公判廷において、最後まで抵抗したが、取調検事が勝手に調書に作文するので精も根も尽き果てて署名したとの前記のとおりの供述を繰返すのみであって、その信用性に乏しいことは前述したとおりである。そのうえ、被告人檜山の右公判廷供述によれば、同被告人は被告人田中に対し、内閣総理大臣就任祝いの言上をしたあと、唐突にロッキード社が五億円の献金をする意向である旨の話を出し、その献金の趣旨を田中に告げることも、その点に関する田中からの質問もなく、ただちに退出したということになるわけである。被告人檜山自身は、献金の趣旨について、田中総理邸訪問の二日前に、コーチャンから「総理が代ったようだが、できれば総理に会ったときにロッキードの名前を覚えておいてもらいたい。」というようなことをちょこっと言われたような気がするので、そのことを合わせて、ロッキードの名を売るためと理解したと公判廷において供述している。しかし五億円もの巨額の金員を、単に右のような趣旨で供与するということは、到底常識で理解し得ることではない。また、後に認定するとおり、五億円供与の申出を受入れ、これを約束と受止めて催促までしてきた被告人田中がその趣旨を全く知らされていなかったということもまことに考え難いところというほかはない。この点からも右公判廷供述には多大の疑問を禁じ得ないのである。
これに対し前記(一)1の検察官面前供述は極めて詳細かつ具体的であり、検察官にとってあらかじめ全く知りようのないことで、誘導、押付けのしようもない事柄であるということができる。そこでなお、関係事実を認定してそれと右(一)1の検察官面前供述との整合の有無を検討したうえ、被告人檜山及び同田中の両名が右供述のような事実はあり得ないとして、弁護人ともども主張する諸点について順次検討を加えていくこととする。
二 被告人檜山の指示とコーチャン、被告人大久保の交渉
一の被告人檜山による田中邸訪問前後における一連の大久保・コーチャン会談の事実について、先ず、被告人大久保が前記第一・三[2][3]の旨を供述し、コーチャンが同四[2]の旨証言しているとおりに認められるか否かについて検討する。
(一) 関係者の供述
1 被告人大久保の供述
(1) 昭和四七年八月二二日朝、私が出社してしばらくした午前中、檜山社長から電話があった。この日の電話はいつになく低い声でコソコソした話しぶりであったことから記憶がたどれたものと思う(昭和五一年八月八日付検察官面前調書〔甲再一76・乙24〕三項)。その内容は、冒頭「昨日コーチャンに会った。で、田中総理に会うことに決った。」と言い(七二回公判)、「いよいよ総理に会って頼むことに決定したよ。手ぶらで頼むわけにもいくまい。君の方でもコーチャン社長と話して五億円見当で打診してほしい。これは丸紅を通さない形でロッキード社が取り運ぶようアレンジしてほしいんだ。」という骨子のものであった(同調書三項)。
(2) そこで早速コーチャンと私の部屋で面談し、私から檜山社長の意を伝達した。すでにコーチャンはその前日檜山社長と面談のうえ田中総理にトライスター売込実現を協力してもらうべく同総理に対する訪問を要請したとかで、私には金額の点についてコーチャンからも話が出されたような気がするが、すでに私は檜山社長から五億円見当という基準額を示され、この線で打診してくれということだったから、五億円という数字は私が持出したものと思う(同調書三項)。私は「それ(田中総理と檜山社長が会うこと)について五億円の政治献金を用意しろ。」という趣旨のことを話した。コーチャンは「なぜ五億円でなくちゃいけないのか。」というようなことを言い、私は五億円の基準が分らないので、「これが適当な額(英語で『ノーマル・アマウント』と言った〔七八回公判〕。)であろう。」というようなことを言った。それに対してコーチャンは金額に非常にこだわっていたけれども、出すことについての抵抗はなかったという印象であった。金額について、一億、二億、三億というような額の間を何回か往復したあとでコーチャンは承諾した。交渉中コーチャンは「この金は丸紅で出すわけにいかんのか。」、「立替えて出さんか。」、「一定額がたまるまで丸紅の金庫で預ってくれんか。」とも言っていた。承諾するに当ってコーチャンの方から自発的な形で、「それでは五億円は成功したら払いましょう。」と言った(七二回公判)。コーチャン社長は檜山社長が田中総理を訪問のうえ、トライスターを全日空に買わせるように働きかけてもらうことに強い期待を寄せており、五億円を支払うことに関しては売込が成功することを条件として同意した(同調書四項)。同日、檜山社長に対し、コーチャンと交渉した結果を同人が売込に成功したら五億円を支払うと言っていたので、そのことを中心に伝えたと思う。同社長は「よし、明日、田中総理の目白邸にお伺いするから、お前は朝の六時半までにおれの自宅に来い。」と言った(七二回公判)。翌八月二三日檜山社長と二人で田中邸を訪問したあと会社に戻って早速コーチャンと面談し、右訪問のことを告げるとともに、「総理は受けた。これでロッキード社から五億円が円札で支払われることが必要だ。」などと話した。もちろんコーチャンにとってもこの五億円が田中総理にトライスター実現のため力になってもらうことの報酬なり謝礼として必要な性質の金であることはこれまでの経過から分っていたはずだし、さらにコーチャン社長の頭の中には、ロッキード社と密接な関係のあったニクソン大統領と田中総理との間の太いパイプを通じて、今後の日本に対するロッキード社の航空機を初め当時問題となっていた対潜哨戒機P三Cの売込が有利に展開するのではないかとの意図もあってのことか、さしたる抵抗もなく五億円の支払に同意してくれた(昭和五一年七月二三日付検察官面前調書〔甲再一75・乙23〕一〇項)。
2 コーチャンの証言
昭和四七年八月二一日に私は檜山と会って田中総理大臣に会うように頼み、その翌日大久保との間で、総理大臣との会合のときに取上げる戦略の話をした。その際大久保から「もしわれわれが成功を望むならば、われわれは五億円の献金を約束する用意がなければならない。」と言われた。それはわれわれがもし成功したら、その際誰かへの引渡のために丸紅にわれわれが支払うことになる金額ということであった。私は何故それが五億円なのか不審なのできくと、大久保は「このような大きな買物には普通の額だ。」、「五億円は普通のレートである。」と言った。私は、「多分一億円か二億円ならできるでしょう。」と言ったと覚えている。そしてその会話から球技をするための参加料を支払うつもりなら五億円の約束が必要であり、そしてもちろんそれはわれわれが成功したときにのみ支払うものであることを理解した。何故丸紅がその手数料からそれをしないかについて話合うなどしたあと、私はその日、多分、その次の日に彼に対し、ロッキードの為にそのような約束をする用意があると彼に言ったと思う。私は、もしわれわれが金をいくらか集め出したらそれを丸紅の金庫室に貯めておくことができるかと言ったら彼は拒み、私が抗議したが、彼はその点については極めて頑固だった(コーチャン証人尋問調書二巻〔甲再一19・甲一155〕)。「このような献金の約束をすることは、この仕事が行われてきたやり方あるいは習慣であった。」と大久保は言った(同調書三巻〔甲再一20・甲一156〕)。私は大久保に立替払を求めたが断わられた(同調書五巻〔甲再一22・甲一158〕)。
金の行先は田中氏のオフィス(合衆国におけるホワイトハウスと同様のもの)、すなわち田中氏の下の行政機関と思った。私は常に成功した場合にのみ要求されるということで、同じような約束が私の競争相手からもなされていると信じ込まされていた。そして私はこれを競争に加わることの入場料だと受止めていた。私が知っていることは私の競争相手と同じ立場に私が立つことができると受止めたある約束を私がしたことである。この約束の意図はL一〇一一を販売する可能性を残しておきたかったことといってよく、田中氏の政治的経歴を高めること、さらに高めることは私にそういう具合には出されなかった。それはわが国でわれわれがいうように政治献金であり得た。これはL一〇一一に関係しており、それがその約束をする唯一の理由だった(同調書五巻)。大久保は私との会談の際、「彼らが田中氏と会うときに五億円の約束をする。」と示唆した。しかしそれが田中氏に対してされたかどうか、私には確かではない。私はされたように感じているのだが、具体的に彼らがそれは総理大臣に対するものだと言ったということを思い出せないのである(同調書第六巻〔甲再一23・甲一159〕)。八月二三日、大久保は「総理大臣に会った。彼らが申出をした。そしてその線の辺りで約束がなされた。」と言った(同調書二巻)。大久保が私に話したことで憶えているのは、五億円の約束がなされたということであって、その約束が誰になされたのかは分らないのである。約束をしてきたことだけは疑いなくはっきりと私に伝えられた(同調書五巻)。
被告人大久保は公判廷において、右検察官面前供述中の被告人檜山の言葉の中に「総理に頼むことにした。」ということはなかったし、被告人田中に働きかけてもらうことに対するコーチャンの強い期待とか、五億円の供与の趣旨やさらに将来の売込に関する同人の意図についての供述はいずれも勾留中に大久保が賄賂の概念に支配されて想像で述べたことであって、昭和四七年八月当時、コーチャンの右のような認識や意図は知らなかったし、自分自身も五億円の供与につき右のような認識を有していなかったと述べていること前記のとおりであるが、第二・四(一)において詳細に説明したとおり、右公判廷供述は信用性に乏しいといわざるを得ない。以下右に記した大久保の検察官面前供述及びコーチャンの供述の証明力について検討する。
(二) コーチャン・被告人大久保間の交渉の成立
1 交渉経過と結果に関する供述の符合
大久保とコーチャンの右両供述は、これを対比してみて明らかなとおり、つぎの各点において完全に符合している。
[1] 昭和四七年八月二二日、その前日にコーチャンが要求して被告人檜山が田中内閣総理大臣に会いに行くことになったことから、それについて被告人大久保がコーチャンと会談したこと
[2] 大久保の方からコーチャンに対して、右の総理大臣訪問につき五億円の献金の約束をするよう求めたこと
[3] コーチャンが五億円という金額の根拠を尋ねたのに対し、大久保は「それが適当な(普通の)額である。」と応じ、コーチャンが、一億円か二億円ならできると言うなど、金額について話合ったあと、コーチャンは五億円の支払いを、これがL一〇一一の売込に成功した場合にのみすべきものとして承諾したこと
[4] コーチャンはこの五億円を丸紅が手数料から出さないか、丸紅が立替払できないか、ロッキードが金を集め始めたらそれを丸紅の金庫で預ってくれないかなどと要求したが大久保は右の要求を全部拒んだこと
両者の供述は、右の交渉に関して、五億円は売込に成功した場合に支払うべきものとすることを言い出したのがどちらかという点や、被告人大久保が右交渉中にコーチャンに対して、「もしわれわれが成功を望むならば、われわれは五億円の献金を約束する用意がなければならない。」、「五億円はこのような大きな買物には普通の額だ。」と言ったか否か、英語で「ノーマル・アマウント(normal amount)」という言葉を使ったか否か(コーチャンは同被告人が「ゴーイング・フィギュァ〔going figure〕」という言葉で話したように証言している。)などといった点で符合していないのであるが、交渉の過程の大筋や結論について右のように完全に合致している以上、このような細かな点についての不合致はとくに問題とする必要はないというべきであるし、右の程度の不整合は人間の記憶の能力からみてむしろ自然のことということができる(被告人檜山の弁護人は右の英語の言葉にコーチャンの意図を示す重要な意味がある旨主張しているが、その失当であることは後記のとおりである。)。そして前記のとおり、いずれも高度の信用性が認められる被告人大久保及びコーチャンの供述が、前記のような諸点で完全に符合しているということは、右符合する供述中の昭和四七年八月二二日の両者間の交渉過程及び結論が真実であることを示すものというべきであり、その旨の事実を認定する。
2 五億円供与の趣旨についての両者の認識
また右五億円支払の趣旨目的について、前記(一)1の被告人大久保の供述によれば、同被告人はこれが全日空に対するL一〇一一売込のために被告人田中の協力を得るにつき、その協力に対する報酬であるとの認識を有し、かつ、コーチャンもこれと同じ認識を有していることを大久保は知っていたということになる。この点につきコーチャンもまた、前記のとおり、「この約束の意図はL一〇一一を販売する可能性を残しておきたかったことといってよく、田中氏の政治的経歴を高めること、さらに高めることはそういう具合には私には出されなかった。これはL一〇一一に関係しており、それがその約束をする唯一の理由だった。」と証言しているほか、「私の感じでは、もし私が彼(被告人大久保)に拒絶したら、そのときは、私は注文を失うだろうということでした。」とも証言しているのである。これらの証言と、五億円は売込成功の場合のみ支払うべきものと理解していた旨の証言を総合すると、コーチャンはこの五億円が対価関係に立つ職務行為を直接期待しないという意味でのいわゆる「政治献金」ではなく、L一〇一一の売込に成功するためのものと考えていた旨を明確に述べているものということができる(なお、前記のとおり、コーチャンは、「それはわが国でわれわれがいうように政治献金であり得た。」との言葉を挿んでいるのであるが、右供述の前後には明らかに本件五億円が前記のような意味のいわゆる「政治献金」ではないという趣旨の証言をしているのであるから、右にいう米国の「政治献金」とは、そのような意味のものではないことを当然の前提としているものというべきであり、右のような言葉によってコーチャン証言を本文のとおり理解することが妨げられるべきものではない。)。この点でも両者の供述は符合しているということができる。
もっともコーチャンは前記のとおり、「同じような約束が私の競争相手からもなされていると信じ込まされていた。」、「私はこれを競争に加わることの入場料だと受止めていた。」、「(私はこの約束によって)私の競争相手と同じ立場に私が立つことができると受止め(ていた。)」と証言している。さらにまた同人は、「二八日の大久保氏と貴方との会話で、貴方は田中氏がロッキードに対し、その販売キャンペーンについて何らかの特別の考慮を払うことを聞かされましたか。」との問いに対して「いいえ。私が実際にそこで求めていたことは、もし支払の不均衡の是正の話合の中で、…ホノルルでの話合の間に、合衆国の航空機を購入する問題が持上ってきたとき、もし製造会社の名前が話に出るならば、私は私の会社が他の会社と同様に名前を出されることを期待していたのです。それが私の希望していたすべてです。」と答え、また「私はホノルルへの訪問が近づきつつあることを十分知っていましたし、私としては、ロッキードの将来に何らかの影響を与える機会が生じたときに総理大臣の心にそれを焼付けておきたかった。」とも証言している。この点をとらえて、被告人檜山の弁護人は、コーチャンの本当の狙いは、被告人檜山によってロッキードの名を総理の心の中に刻み込んでもらい、ハワイ会談で、ロッキードも他競争会社と同格の扱いを受けることを確実にするということであったのであり、L一〇一一の採用決定を特定の目的ないし条件とするような結果ないし効果を期待していたわけではないと主張している。
しかしながら、右の証言によると、コーチャンは単に総理大臣にロッキードの名前を心に刻みつけるよう望んでいたのではなく、航空機購入問題が話合われるものとコーチャンが考えていたハワイ会談と結び付けてこれを希望していたことが明らかである。後に詳細に示すとおり、当時わが国の米国からの航空機を含む物資等の緊急輸入が問題となっていたのであり、関係証拠によると、右緊急輸入の対象となることが期待されたロッキード社の製品としてはL一〇一一型機しかなかったことが明らかであるから、コーチャンの右の希望が、同型機の売込に関するものであったことは疑う余地がないというべきである。そして、この点にL一〇一一の販売が五億円支払の約束の唯一の理由であり、拒絶したら注文を失うだろうと思った旨の前記のコーチャンの証言及び同人の認識に関する前記被告人大久保の検察官面前供述を考え合わせると、コーチャンはハワイにおける日米首脳会談において、購入する機種の名を挙げて緊急輸入の問題が話合われ、その話合の結果は内閣総理大臣たる被告人田中がこれを実現すべく全日空等に働きかけるものと考え、被告人田中が右のようにして全日空の購入する航空機に関する問題を取扱うに際して、すでに同様の金員供与の約束をしているとコーチャンが信じていた競争会社よりもロッキード社が不利な扱いを受けないことを含めた、はからい、協力を田中に期待していたことは十分に推認し得るというべきである。弁護人の前記主張は失当であるといわなければならない。
また、被告人田中及び同榎本の弁護人は、「競争に加わることの入場料ならば、勝敗(成功不成功)に関係なく先払するのが常識であるのに先払されていないから、果してコーチャンと被告人大久保の間にいかなる話合がなされたのか不明で、到底まともな約束が成立していたとはいえない。」旨主張しているのであるが、コーチャンは、五億円は成功した場合に払うとの約束をしたと証言しているのであり、そのような約束自体が入場料という趣旨で述べられていることは右証言全体から明らかで、その意味は十分に理解できるところであるから、右主張は採用し得ない。
以上を総合すると、本件五億円供与の趣旨及びこれについてのコーチャン及び大久保の認識に関しては、前記(一)1の被告人大久保供述どおりの事実を認定するのが相当である。
(三) 右認定事実に関する前記以外の弁護人の主張に対する判断
1 成功報酬の点をめぐる諸主張について
また、被告人田中、同榎本の弁護人、被告人伊藤の弁護人は、コーチャンが「九月に約束が出来てから、私は大久保氏に、二、三回『これについて私は何かすべきですか。』ときいた。そして彼は『私はあなたに知らせますよ。』と言った。二、三回注意した後で、私はすぐにはこれは起こらないと思い、この件をドロップした。販売が行われた後で、私はもう一度彼に尋ねたところ、彼は『私はあなたに知らせますよ。』と言った。」と証言していることをとらえて、販売に成功することを条件に支払を約束したことと右証言は矛盾する旨主張しているのであるが、コーチャンの証言によれば、五億円を現金で準備することはさほど容易なことではなく、児玉誉士夫等への多額の支払の必要もあったことから、五億円の支払を求められる時期がいつごろになるかをコーチャンがあらかじめ知りたいと考えていたことは明らかであるところ、成功報酬とはいっても、具体的には全日空の機種決定の直後に支払うことになるのか、同社とロッキード社とのL一〇一一型機購入の正式契約後に支払うのか、あるいは全日空による採用決定が確実視されるに至った段階で支払うべきなのか等々、支払時期については種々の可能性が考えられたはずであるから、「いつ支払うべきであるか」を問うことは成功報酬の約束と何ら矛盾するものではない。
被告人大久保も前記乙23の検察官面前調書において、コーチャンが五億円支払を約束したあと全日空による決定の前、支払時期について考える面があったのか、一、二回何かの話のついでに何時実行すればよいのか、支払いはどうすればよいかといった質問をしてきたことがあったように思う旨、右コーチャンの証言と符合する供述をしたうえ、「私にしてみればこの金の性格が賄賂であるだけに心情的にはできるだけ触れたくない気持が一方にあり、またその支払時期についてはいずれ田中総理から檜山社長あるいは伊藤専務のチャンネルを通して私の許に連絡が寄せられるものと思っていたし、コーチャン社長にしても軽い話として支払時期を問題にしていただけに、『そのうち連絡するから』くらいで返答しておいた。」と述べており、公判廷においても、右供述は賄賂概念に支配されてしたもので真実ではないと言いながらも、本件五億円は「心にくもりを感ずる金」だから、できるだけ触れたくないという気持がなかったとはいえない旨供述している。このように同被告人は五億円のことに触れたくない気持からコーチャンに対してあいまいな態度をとったものと認められるのであり、その結果コーチャンが前記のとおり、五億円支払の準備を考えながらも、その反面、次第にこの支払は急いでする必要はないのではないかと考え、さらに時日の経過につれてこの支払は必要でないのかもしれないとの気持をもつに至ったことは十分推認し得るところである。コーチャンは、前記のように「ドロップした。」と証言し、また「われわれが契約を得たとき、私はもう彼(被告人大久保)には尋ねなかった。私は『さあ、多分、あれはただ約束しただけのことで、もうそれを払わなくてもいいのかもしれない。』と思った。」旨証言していること(コーチャン証人尋問調書第六巻)、なお「私はバーバンクに戻り、この注文の関係でどれだけの金を私が日本で使ったか、あるいは約束したかについてホートン氏とわが社の首席財務担当であるアンダーソンに報告した際、その中にこの五億円を、これが現実化するか私としては不確実だったので入れなかった。月が経つに従って多分この約束は消えたのだろうと思った。」、「(そうするうち被告人大久保から五億円支払を実行するよう催促を受けたが)、私は時間が経ったこと、そしてもはや原因結果の関係がないことという理由に基づいてそれに反対した。」との同人の証言(同証人尋問調書第三巻)等を総合すると、コーチャンは全日空によるL一〇一一型機採用決定のころ以降時日の経過につれ漸次本件五億円を支払う必要はなくなったのかもしれないと考えるに至り、被告人大久保の催促に対しても右のような反論をしたものと認められる。被告人大久保を除くその余の各被告人の弁護人は、コーチャンの右各証言、L一〇一一売込の関係の必要経費等を書き出したコーチャン証人尋問調書第四巻添付副証26、27(弁687)に本件五億円に関する記載がないこと、昭和四七年九月二〇日から同年一〇月一七日までの間にクラッターの許に合計七億五、〇〇〇万円の資金が送られ、同月二七日の時点で同人の手許には四億三、七〇〇万円の資金があったことがうかがわれ(クラッター証人尋問調書四巻及びこれに添付の副証27D〔甲再一25・甲一161〕、同調書五巻添付の副証1〔弁695〕)、この中から児玉誉士夫に対する支払が行われたこと(コーチャン証人尋問調書六巻)は成功報酬として五億円支払の約束をした旨のコーチャンの証言と矛盾し、右のような約束が真実なされたか否かは疑問であると主張しているが、五億円の成功報酬的性格に対して前記認定の被告人大久保の態度及びコーチャンの気持の推移を考え合わせるならば、右主張のような矛盾は何ら存在せず、その失当であることは明らかである。(なお、被告人檜山の弁護人は、前記コーチャン証言中の「もはや原因・結果の関係がない。」という部分をとらえて、これは五億円の約束とL一〇一一売込との間に関係がないとの同弁護人の前記主張を裏付けるものであると説いているが、右証言部分は、「もはや(no longer)」原因結果の関係がないと言っているのであり、元来原因結果の関係があったものが月日を経てこれがなくなったという意味で右主張と反対の趣旨を述べていることは明らかである。また、同弁護人は、コーチャン証言中、「バーバンクの人たちに五億円の約束について、『“an open commitment”があるが、それは多分現実化しないでしょう。』と言った。」旨の部分について、右のopen commitmentの語は検察官のように「不確定な約束」と訳すべきではなく、ロッキード社の将来の長期展望を狙ったopenなもの、広くロッキード社の名を売るものの意味に訳すべきで、したがって本件五億円の約束がL一〇一一だけを狙ったものではないことを示すものであると主張しているが、この部分は前記引用にかかるホートン氏らにコーチャンが報告したときのことを述べるものであることは明らかであるところ、右引用部分後半の原文は「これが実現化するか私としては不確実だった(I wasn&#;t sure)」としか訳しようがないのであり、この点との対比及びopenの語のもつ意味からも前記検察官訳が正しいというべく、右主張も失当というほかはない。)
なお、被告人檜山及び同伊藤の各弁護人は、右コーチャン証人尋問調書四巻副証26は、同人の証言によると、L一〇一一売込にかかった経費を書出して、それだけの経費がかかったと言って丸紅の手数料を低く抑える理由づけにできるかどうかを見ようとしたものであるというのに、これに本件五億円が記載されていないのは、これが恰好の右理由づけに使えるものであることに照らして不可解であると主張しているが、右認定のコーチャンの本件五億円支払の問題に対する気持からすれば、丸紅に対し現実に履行を義務づけられる債務として確認したくないと考えるのにも合理性があり、右主張は理由がない。
また、被告人檜山の弁護人は、コーチャンが本件昭和四七年八月二二日の被告人大久保との交渉の経過についての証言の中で「私が思い出せる話では『ええそれは五億円以下の額でもいいですよ。』と言われたのに、それからしばらく経った後の私の判断ではむしろ一億円に値切って、結局、それを無駄使いする結果にはしたくないということだった。」と述べていることから、一億円支払って効果がなく無駄使いすることになるということは、L一〇一一採用決定の如何に拘らずこれと無関係に支払うことであって、成功報酬との証言と矛盾すると主張しているのであるが、右の証言部分は被告人大久保との交渉中の一局面におけるコーチャンの考え方を述べたものである。そして、コーチャンは被告人大久保との会話から五億円は成功したときにのみ支払うものであることを理解した旨証言しており、交渉の過程で大久保の言葉をそのように解するに至ったことが認められるところ、同被告人は前記のとおり、「コーチャンは五億円の支払を承諾するに当って『それでは五億円は成功したら払いましょう。』と言った。」旨供述しているから、右金員を成功報酬として支払うとの考えをコーチャンが確定的にもったのは交渉の終り近くとみるべき筋合であり、同人が前記証言のように無駄使いしたくない云々と考えたのはそれ以前の段階であったと推認される。してみると同人の証言が矛盾しているということはできないのであり、右主張も失当といわざるを得ない。
2 五億円供与の相手方に関するコーチャンの認識をめぐる主張について
被告人田中及び同榎本の弁護人は、「コーチャンは献金の相手方が被告人田中個人であるとは一言も証言していないのに、検察当局は政治的判断を加え、コーチャン証言の一部の田中に関係している部分を曲げて、五億円をL一〇一一売込に関する賄賂であるとの独断的な見込を立て、丸紅三被告人にこれを押付けたものである。」と主張している。
なるほどコーチャンは、前記のとおり、「五億円の約束は誰に対してなされたのか分らなかった。」と証言し、また「金の行先は田中氏のオフィス(合衆国におけるホワイトハウスと同様のもの)、すなわち田中氏の下の行政機関と考えていた。」旨証言しており、またSECにおける証言においては、「私の気持では、この金が与党自民党向けであることについては何の疑いもなかった。」と述べている(前記SECの証言速記録写し〔甲四110〕)。しかしコーチャンは、SECにおいて、政治家に対するものと、政党に対するものと、政治的な金の支払を区別するのが難しく、この金についてもその点ははっきりしない旨述べているのであり、同人には政党と行政機関の関係についての理解が十分でない点も見受けられるのであって、その各証言を通観し、また、コーチャンは「被告人檜山が約束を直接田中氏にしたのか、あるいは榎本氏とか総理大臣のスタッフのほかの誰かといった人にしたのかは私は確かでない。そして私はそれが誰かをはっきり尋ねなかった。もっとも私の当時の感じでは、そして今でもそうだが、それが特定の個人に対するものであるというにはいささかのためらいがある。」とも述べている(コーチャン証人尋問調書六巻)ことを考え合わせると、コーチャンが五億円の行先は被告人田中を長とする行政組織体であり、その供与の約束も右組織体の誰かに対してなされるということを一つの可能性として考えていたことは認められるところである。
しかし右に引用した証言に加え、前記のとおり、コーチャンが「私が記憶しているところでは、大久保は私との会談の際、彼らが田中氏と会うときに五億円の約束をすると示唆した。しかしそれが田中氏に対してなされたかどうか私は確かではない。私はされたように感じているのだが。」と述べていることに徴すると、コーチャンが前記のように考えていたのは、もともと五億円の行先も約束の相手方も内閣総理大臣たる被告人田中そのものであろうと思いつつも、そこに若干のためらいがあって、右組織体に五億円がいくのかもしれないと考えたにすぎないものと解するのが相当であって、コーチャンが五億円の行先として先ず第一には被告人田中を考えていたことを否定するものではないのである。しかも右のように金員の行先として行政組織体を考える場合でも、組織体の長であり最終的意思決定者である被告人田中個人の協力がL一〇一一型機売込につき重要であるとの認識はコーチャンが事柄の性質上当然に有していたはずであるし、このことは後記認定のとおり、コーチャンが昭和四七年八月二一日に被告人檜山に対して田中総理に会って頼んでほしいと要請した事実、檜山・田中会談のあと前記(一)1の被告人大久保供述により、大久保がコーチャンに対して「総理は受けた。これでロッキード社から五億円が円札で支払われることが必要だ。」と話したと認められること(前記(二)の諸点に照らし右供述は自然であって十分に信用することができる。)に徴しても明らかなところである。さらに供与の約束をした直接の相手方が被告人田中以外の者であり得ると考えた点についても、その者は同被告人の下の行政機関の一員であって同被告人の代理人の立場にあるというのがコーチャンの証言の趣旨であることは右に引用した証言の内容から優に推認し得るところである。コーチャンの五億円の行先等に関する供述は、同人の本件五億円供与の趣旨に関する認識についての認定を左右するに足るものとはいえない。
3 金員供与の提案をしたのはコーチャンであるとの主張について
被告人檜山の弁護人は、コーチャンは被告人田中に対して政治献金をしようと考え、同被告人に会いに行くことになった檜山にその旨伝言を求めることとしたが、政治献金の額が分らないため被告人大久保に尋ねたのが本件八月二二日の同被告人との対談であると主張し、第一三九回公判における証人坂篁一の供述をその根拠としてあげている。右証言の内容はつぎのとおりである。「昭和四七年八月二一日夜、松井副部長に呼ばれたので彼の席の前へ行くと、『コーチャンは檜山さんに、田中さんに会ってくれと言うんだよ。』と言った。そのあと同副部長は『政治献金の相場の最高限(あるいは「でかい方」と言ったかもしれない。)というのはどれ位かな。』と半ばつぶやくような調子で言った。私はああこの人はコーチャンから政治献金の相場というものをきかれたんだなと思った。同副部長は『コーチャンと大久保さんとの会談が明日あるよ。』とも言った。翌朝九時前に出勤して松井のところへ行き、『政治献金の相場の件ですけれども、五億円位じゃないですか。』と言った。ロッキードはどうせ参考意見をきいているのだろう。彼らのチャンネルもあってダブルチェックしたんじゃないかと考えて、それならば桁を間違えなければいいだろうと考えてこのように言ったのである。これを聞いて松井副部長は『すぐ大久保さんの所へ報告に行こう。あなたも来てよ。』と言い、二人で大久保本部長の所へ行き、コーチャン来日の意味など説明したあと、松井が『もしかしますとコーチャンから政治献金の相場というものをきかれるかもしれません。ちなみに相場は五億円見当だそうです。』と言った。」
右にみるとおり、右証言はそれ自体不可解な点を多く含み、まことに不自然というほかないのみならず、坂証人は五億円が相場であると考えた根拠など重要な点につき、公判廷で問い質されてもこの種の事項を立証事項とする証人としては極めて不可思議な供述を行っている。例えば同証人は、政治献金の相場は五億円位じゃないかと言った根拠を尋ねられて、「根拠というのはございません。」、「実はあまり真剣には考えなかったのです。と申しますのはロッキード、どうせこれは参考意見きいているのか、彼らのチャンネルもあるんだろう、ダブルチェックしたんじゃないかなと私の考えで…桁を間違えなければいいだろうと、まあ無責任とおとりになられるかもしれませんけれどもそういうふうに考えた記憶があることは事実でございます。」、「桁を間違えないということは誤差範囲が一〇倍ということですね。仮に五億円が大体相場と仮定いたしますか、それを五、〇〇〇万といえば桁を間違えたわけだし、五〇億と言えば桁を間違えたわけでございます。」と述べ、どういう情報に照らして桁は間違っていないというふうに考えたのかとの問いに対して「とくにそうおっしゃられましても明確な記憶もございませんし、論理的に考えた記憶はございません。」と答え、さらに五、〇〇〇万円は間違い(少な過ぎる)との判断はどこから出てきたかとの問いに「そう思ったんでございますね。敢えていうならば、そのときまでのすべての経験・判断でございましょうか、そう分析して考えたわけじゃございませんが。」と答えながら、政治献金についての知識が全くないことを自認し、「(しかし)貨幣価値というものはございましょう。」と述べ、貨幣価値から政治献金の相場がどうして出てくるのかと追及されて「頭の中で考えていることですから、論理的に説明できません。そう思ったということを申上げているんです。」、「根拠というものはございません。」と答えている。また一〇億円は間違い(多過ぎる)ということになるかということをきかれて、「多いでしょうね。」、「比較の根拠はございません。」、「私が多いと思うと(いうことです。)」と供述しているのである。
そして同証人は昭和五一年に検察官の取調を受け、昭和五二年に当公判廷において証人として尋問されたのであり、いずれの機会にも関係する事項につき詳細に尋問されたのに、右証言の内容たる事項について全く供述してはいなかったのであって、そのことに関し、第一三九回公判において突如証言するに至った理由、とくにいつどのようにして記憶を喚起したかにつき反対尋問において追及されたのに対して、言を左右にし、言い逃れとしか考えられないような供述に終始しているのである。総じて右坂証言は甚だしく不誠実であって到底信用することができないというほかなく、被告人大久保が「コーチャンと会う前松井らから政治献金の額を聞かされたことはない。」旨明確に否定している(一八二回公判)ことその他の関係証拠を総合してみて、右坂証言にいう事実の存在を認める余地は全くないといわなければならない。
被告人檜山の弁護人はまた、前記のとおり、コーチャンの証言中の「被告人大久保が五億円はこのような大きな買物には普通の額だと言った。」との供述中、普通の額と訳されている語はgoing figureであって、これは「通り相場」という意味であり、コーチャンがこの言葉を使ったことは坂証言のいうようにコーチャンが政治献金の相場をきいたということが真実であることをはからずも露呈しているのであると主張しているが、コーチャンは右のとおり「このような大きな買物にはgoing figureであると言われた。」旨証言しているのであり、「私は多分一億円か二億円ならできるでしょうといってやりとりした。」とか「何故丸紅の手数料からそれを出さないか。」との話をしたなど、繰返し繰返しコーチャンが政治献金の相場をきいたというのとは矛盾する状況を証言しているのであって、going figureを「通り相場」と訳しても前記(二)において認定した事実とよく整合することを考え合わせると、右主張に理由のないことは明らかというべきである。(同弁護人はさらに本件の交渉の過程で被告人大久保は、五億円が「適当な額」だという理由にならないことを言って五億円の約束を求めたというのに、「それは檜山の意見であるから」と一言半句も言っていないことは、この話が被告人檜山から出たものではないことの証左だとの趣旨の主張をしているのであるが、檜山の意見だと言っても結局その意見の根拠を尋ねられることになろうし、交渉中そのようなことに触れなくとも何ら異とするに足りない。)
なお、被告人伊藤の弁護人は、被告人大久保が本件発覚の後に渡米して米国から持帰り、これを検討して感想等を書込んだチャーチ委員会のコーチャン証言速記録(甲二150)に、同被告人は「無理矢理多勢カラ丸紅ヲ言ハセラレテル」と書き、また、同証言中の「これらの政府高官たちへの支払はあなた(コーチャン)の助言と同意によって行われたのか、それともあなたの承知と賛同によって行われたのか。」との質問及び「それは後者だ。承知と賛同による。」との答の双方につき、Bad & Wrong(間違っている)とコメントしていることから、客観的真実は五億円供与がコーチャンの言い出したものであるとの趣旨の主張をしている。しかしながら、右Bad & Wrongの文字は、右速記録五二頁の上から四行を括弧でくくってその横に書込まれており、その四行には右弁護人主張の問いと答が記されているのであるが、右四行については部分的に下線が引かれ、左側の行数を示す数字が丸で囲まれているところ、同様の下線と丸印は前頁最後の三行にもあるのであり、そこには「(一〇〇ピーナツのほかに)伊藤の雇主に対しても支払があり、伊藤にも他の支払があった。」旨の、関係証拠によれば誤りとしか考えられない点を含む証言が記載されていて、五二頁の四行はそれらすべての支払についてコーチャンが「承知と賛同」によると答えたという内容であることが明らかで、右書込の形状や内容からすれば、被告人大久保はBad & Wrongの評価を前頁から引続く七行の問答に与えたものと解する余地は十分にあるということができる。そうとすれば、右の書込を根拠に前記(二)の事実を認定するにつき合理的疑いを挿む余地があるということはできず、弁護人の主張は失当である。
(四) 被告人檜山からの指示
以上のとおり、本件五億円供与の話はコーチャンから示されたものではなく、被告人大久保がコーチャンに要求したものであると認められるのであるが、関係証拠により明らかに認めることができる同被告人の経歴・担当業務・性格・行動傾向・関心の方向からみて、これが同被告人自身の発意によるものと考えることは困難であり、また、同被告人がことさらコーチャンの発意であると被告人檜山に報告したものと考えるべき事情も全くないというべきである。これに加え、前記(一)1の大久保の供述はその全体が一貫して自然であり、詳細具体的で迫真性が認められること、昭和四七年八月二二日朝の被告人檜山からの電話による指示については、捜査段階から公判段階に至るまで供述がほぼ一貫していて、相被告人の弁護人らの事実上の反対尋問を経てなおその信用性を疑うべき事情は全くうかがわれないこと、検察官面前供述と公判廷供述の相異点である「頼む」、「手ぶらで頼むわけにもいくまい」との言葉が発せられたか否かについては、前記のとおり、大久保自身が「状況上やっぱり当然言われたかなという感じもある。」と公判廷において供述しているとおり、情況上発せられたものとみるのが自然であること等に、前記大久保の検察官面前供述等の一般的信用性に関する諸点を総合すると、前記(一)1(1)の供述のとおりの事実を認定するのが相当である。
被告人檜山は、公判廷において、「昭和四七年八月二二日、被告人大久保から、『ロッキード社として五億円相当の献金をしたいということを田中総理にお伝え願いたい。』とのコーチャンの言葉を伝えられた。」旨、検察官面前調書においては、「同日、被告人大久保から、トライスターの導入を被告人田中に頼むに当って『ロッキード社から田中総理に五億円程度の献金をする用意があるから、総理に頼む際に五億円のお礼をすると言ってくるように。』とのコーチャンからの伝言を聞いた。」旨供述しているが、いずれも以上縷々説明したところに照らし、到底信用することができない。
(五) 前記(二)・(四)認定の各事実の意味
以上(二)・(四)において認定した各事実は、被告人田中に対してロッキード社から五億円相当の献金をする用意がある旨伝言しただけであるとの前記一(一)2の被告人檜山の公判廷供述とは整合せず、L一〇一一型機の全日空への売込につき協力を要請し、売込ができたなら五億円を供与する旨の申出をした旨の前記一(一)1の檜山の検察官面前供述と整合し、その信用性を支持する情況を示すものである。
三 田中邸訪問後の被告人檜山の言動及び同伊藤、同大久保に対する指示
(一) 関係者の供述
1 被告人大久保の公判廷供述
昭和四七年八月二三日、田中邸からの帰りの車中で、檜山社長が片手を拡げて出し、「これだよ。」と言った。後部座席の左側に私、右側に檜山社長が坐っていたと思う。私の性格だと思うが、確実にしておきたいと思ったから、五億という意味で、「大きい方でしょうね。」と言うと、同社長は「きまってるじゃないか。」と言った。会社に帰ってすぐあと社長から実行に関しては伊藤と協力してやれと指示を受けた。その際榎本の名前は多分聞いたのではないかと思う。伊藤と近いからと。だから榎本の名は五億支払の実行に関連する話として出たということになる。その日だったと思うが伊藤のところへ連絡をとりに行ったと思う。同人に右の檜山社長の指示を伝えたら、伊藤は五億円の経過について分っているようで、「目白邸へ行ったんだそうだが。」ということを言っていたと思う。これは知っておられるのだなと思ったから私はすぐ引下った。
2 被告人伊藤の検察官面前供述
檜山社長から田中私邸訪問の結果を聞いたのは、八月二三日当日かその翌日ころであった。このとき社長は「トライスターの件総理に頼んできたよ。総理は引受けてくれたよ。」と私に言った。社長からこのとき「ロッキード社の金五億円が総理に行くことになるから承知していてくれ。この金を総理に渡す役を君やってくれ。この件は大久保君と相談しながらやってくれ。」と言われ、その際「総理から榎本秘書にこの件の話があるはずだから彼と連絡をとって受渡をするように」との指示もあった。(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔一七丁のもの、甲再一92・乙33〕五項)
3 被告人檜山の検察官面前供述
大久保に対し、田中邸から帰るときの車中であったか会社に着いてからであったか、あるいは二回であったかはっきりしないが、「田中総理にトライスターの件を頼みロッキード社から五億円をあげることになったので、伊藤君にも話しておくが、トライスターが決ったら二人で連絡をとって実行してくれ。」と指示した。また伊藤に対しても同人が社長室に来たときに「実は田中総理にトライスターの件をお願いしてロッキード社から五億円を差上げることになったので、大久保君が承知しているが、その受渡の方は大久保君と連絡をとり合ってやってくれ。」と指示した。伊藤にも指示したのは、彼が政界筋の通で当社の政治家との窓口的存在であったうえ、田中総理の番頭格である榎本とはその弟の結婚の仲人までつとめた関係にあり、かつ、口も固く、しっかりしているからである。(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔甲再一77・乙15〕七項)
(二) 各供述の符合と榎本への言及
以上(一)123の各供述は相互に非常によく符合しているということができる。また被告人伊藤及び同大久保が五億円の受渡の関係で被告人榎本の名前を聞いたと供述していることにはとくに留意を要する。コーチャンも、被告人大久保から、同被告人らが田中邸訪問から帰ったあと五億円支払の約束がなされたことを聞いた際、それをどう払うかについていくらか話があり、そのときに榎本という名前が出たと証言しているからである(コーチャン証人尋問調書六巻)。関係証拠により明らかに認められる被告人大久保の経歴・担当業務内容・関心の方向に照らせば、同被告人は公判廷で供述しているとおり、その当時においては田中内閣総理大臣の秘書官が誰であるかも、榎本敏夫の名前も全く知らなかったと認められ、またコーチャンも、関係証拠を考え合わせると、その証言のとおりそのころまで榎本秘書官の名前を知らなかったものと認められるから、両名が一致して五億円支払の話の際に同秘書官の名前が出たと供述していることに、被告人伊藤も同檜山から五億円の支払実行の関係で榎本秘書官の名前を聞いたとの同様の事実を述べていることをも考え合わせると、そのころ檜山から大久保及び伊藤に対し、支払実行に関して同秘書官の名前が出されたことは動かし難いというべきである。
被告人檜山の弁護人は、コーチャンの情報源は複数あったから、コーチャンとしては被告人榎本の名を別の情報源から聞き出すことは容易であったと主張しているが、五億円の件を離れてコーチャンが榎本の名を知る必要があったとはコーチャンの全証言によっても考えられず、同人の証人尋問調書四巻添付のコーチャンが情報伝達のルートと考えるところを書留めたいわゆるコーチャン・チャート(副証24)に「大久保→榎本→田中」の記載があることに徴しても右主張は失当であるといわざるを得ない。また、コーチャンは別の箇所では「大久保から榎本の名前を聞いたのは、八月二二日に大久保と戦略を話しているときである。」と証言しているが(コーチャン証人尋問調書四巻、五巻)、右のとおりその日には被告人大久保はまだ榎本の名前を知らなかったはずであるうえ、コーチャンは、右の箇所でも、「いつどうやって五億円の献金ないし約束が履行されるかについて話合っているとき、その関係で榎本の名前がでてきた。」と供述しており、そのような話は田中邸訪問後の同月二三日にもなされていることが明らかであるから、右証言は日を混同しているものと思料され、右四巻、五巻の証言は右の判断を左右するに足るものではないというべきである。
被告人檜山は公判廷において「大久保には、伝えてくれということだからあのとおり伝えたよということは言ったが、献金の実行は伝えてくれというロッキード社が当然責任をもってやるんだろうというふうに思っていた。大久保なり伊藤なりがアシストするなんてことは考えもしなかった。」、「伊藤に対しては『今日総理邸にお訪ねしてこういうことを伝えたよ。』ということを、もし万一社長室の方に電話でもあって失礼なことでも申上げちゃいかんから、『よく注意しておいて下さい。』と話した。」と供述しているが、これらの供述自体、極めて不合理な内容のものであるうえ、被告人檜山がこれを敷衍して説明するところがその不合理性をますます拡大するものであったことは前に詳しく述べたとおりであって、右公判廷供述は到底信用することができないのである。
また、被告人伊藤は、第九二回公判において、「檜山社長から昭和四七年八月二三日かその翌日ころ言われたことは、ロッキードから田中総理へ五億円相当の献金がなされることになったということと、大久保が委細承知しているからということだけで、トライスターの件は言っていなかったし、五億円に関する指示や榎本秘書のことなど話に出なかった」旨供述している。しかし、被告人伊藤は公判廷において、その後さらに供述を変更し、田中邸訪問のことは昭和五一年二月以降、本件に関する報道が行われるようになって初めて知ったと述べるに至っているのであるが、もし、昭和四七年八月に右訪問のことを聞いていないとすれば、当然五億円のことも、後に認定する昭和四八年六月ころの被告人榎本からの催促のときまで全く知らなかったということになるはずである。ところが被告人伊藤は第九二回公判において、催促を受けたときの印象を「そのお話は前年にお聞きしたことがございますものですから、あれはまだだったのかなというふうに非常にいぶかしく思った記憶はございます。」、「私は、なんか、あれはまだだったんかなというように、非常に怪訝に思ったのははっきり覚えております。」と極めて生々しく、真に記憶しているところを卒直に述べているとしか考えられないような言葉で供述していたのである。結局、昭和四七年八月二三日ころ田中邸訪問及び五億円の件を聞いた旨の当初の公判廷供述は十分に信用し得るというべきである(伊藤ものちに右供述を結局は維持しているともみ得る供述をするに至っている。)。そして前記(一)2の検察官面前供述について、これを行った理由として同被告人は「トライスターの件総理に頼んできたよ、総理は引受けてくれたよ。」と言われた旨の供述は全くの創造というか作文であると述べながらも、検事から「そうだろう。」と言われたので、敢えて強く否定しなかったと不自然で首肯し難い供述を繰返すのみであり、前記第二において同被告人の検察官面前供述と公判廷供述の信用性につき一般的に述べたところを考え合わせれば、以上の同被告人の公判廷供述に比し右(一)2の検察官面前供述の信用性は格段に高いというべきである。
(三) 弁護人の主張に対する判断
以上の諸点について被告人伊藤の弁護人は、同被告人が被告人檜山から五億円授受を担当するよう指示されたのは昭和四八年の授受の前ころであるとして、(1)関係各供述において、いずれも伊藤が右の指示を受けたのは、被告人榎本と近いからだとされているが、昭和四七年八月ころ、伊藤は榎本とは親しい関係になかったのであり、このことは右指示が両者が親しくなった昭和四八年になされたことの証左である、(2)伊藤の検察官面前調書は、昭和五一年七月八日付では右指示が昭和四八年のことであったと述べていたのに、昭和五一年七月二二日付以降の調書はかかる記憶の原点から離れて何らの根拠も示すことなく指示の時期を転々させているのみで何ら信用すべき要素はない、(3)伊藤はこの指示と並んで「この五億円に指一本触れてはいけない(タッチするな)。」との指示を檜山から受けているが、このタッチしてはいけないとの指示は檜山にとっては重要な指示であったはずで、単に受渡役を命じただけだったらタッチしてしまうかもしれないから、右両指示は同時になされる必要があるというべきところ、関係証拠によればタッチしていけないとの指示は昭和四八年にあったとされているから、五億円授受担当の指示も同年のはずである、(4)前記(一)1の被告人大久保の供述によれば、五億円の実行に関しては二人で協力してやれと指示を受けながら、実行に関する打合せなどを何もせずに引下ったことになるが、これは極めて不可解であり、伊藤から大久保に対して授受に関する具体的事項を尋ねることもなかったということは、右供述のころ檜山の指示も、大久保が同伊藤に右指示を伝えに来た事実もないことを雄弁に物語っていると主張するほか、(5)昭和四七年八月二三日ころ、授受担当の指示があったことをうかがわせるものとして検察官が主張する各事実についてその事実あるいは内容を争い、(6)そのころ右指示があったとすれば、これと矛盾することとなるべき間接事実を主張している。そこで以下これらの点について検討する。なお、(5)の点については、それぞれの事実について後に個別に検討を加えることとし、(6)の点についても、後に「全日空による機種決定後の丸紅関係者の動き」として関係事項につき検討、論述する際に、そこで取上げることとするが、右(5)・(6)の点について結論だけを示せば、いずれもその主張は失当であるというに帰する。
(1)の点について。関係証拠によると被告人伊藤は、昭和四八年五月二八日の被告人榎本の弟の結婚の媒妁人をつとめたのであり、その前ころから同被告人と極めて親しい仲になったと認められること前記のとおりである。しかし右被告人両名は、公判廷において、昭和四七年八月当時、それまでに一ないし三回くらい会って、互いに面識があったと述べているのであり、被告人檜山の昭和五一年八月一四日付検察官面前調書(甲再一79・乙16)によれば、檜山が右のような伊藤・榎本両被告人の仲を「互いによく知っている」と考えて本件五億円の授受の担当を指示したものと認められる(被告人檜山は公判廷においてこのような認識を当時有していたことを否定しているが、前記第二において述べたところに照らすと、同被告人が検察官の取調に対してこのような点について虚偽の供述をしたとは考えられない。)。そして右の認識を被告人檜山が同大久保に話し、大久保がその話から被告人伊藤と同榎本が近いとの認識をもったことは前記(一)1の供述から容易に推認し得るところである。なお、コーチャンはその証人尋問調書第五巻のとおり「大久保は私が後で伊藤と知った人が榎本と関係があると言った。」と証言しているが、これも右推認したところに照らせば異とするに足りないというべきであり、これらの供述によった場合右の指示を昭和四八年のことと考えなければならない理由はないということができる。
(2)の点について。弁護人の主張は、被告人伊藤のこの点に関する検察官面前供述は検察官の押付けによって変転させられていることを前提としているものと考えざるを得ないのであるが、そのような取調が行われたということができないことは前記第二・三(二)で詳説したとおりである。その主張する供述の変遷は、被告人伊藤が捜査の進展とともに種々の情報を各関係者らから得つつ取調を続ける検察官の追及に対し、記憶を喚起し、あるいは秘していた事実を述べることにした等の理由によるものと考えるほかなく、そのような変遷の根拠がいちいち検察官面前調書に記されていなくとも、前記(二)のような関係証拠と対比して信用性が高いと認められる前記(一)2の検察官面前供述の証明力が損なわれるものでないことは多言を要せず明らかというべきである。
(3)の点について。「タッチするな」との指示は、前記認定のとおり、関与の証拠を残すなとの意味であり、授受の実施に際しての具体的方法の指示にすぎないから、被告人檜山が本件田中・檜山会談の直後には取敢えず役割分担についての指示のみを行い、右のような具体的実行方法についての指示は五億円供与が現に実行されるという段階に行ったとしても、とくに不思議ではないというべきである。
(4)の点について。本件五億円は売込が成功したら供与されるものであることは被告人伊藤も同大久保もよく知っていたと認められる(被告人伊藤について前記第一・二[5]の供述)から、この実行がかなり先のことになり得るものであることは右両被告人に明らかであったはずであって、昭和四七年八月二三日の時点で実行に関する打合せ等具体的な話がなされなかったことをもって、とくに不合理とすることはできない。
以上、いずれの点についても前記弁護人の主張は失当であるといわなければならない。
(四) 認定事実とその意味
以上の証拠関係に加え、被告人大久保が公判廷においてした前記(一)1の供述につき、前記のとおり種々の質問追及(事実上の反対尋問)を受けながら総じてその供述中に不自然不合理な点が見られなかったこと、後記認定のとおり、被告人伊藤は同大久保と連絡をとったうえで本件五億円をロッキード社のクラッターから受領し、これを被告人田中の使者である被告人榎本に交付する役割を果した事実及びその他の関係証拠を考え合わせると、結局、前記(一)1・2の各供述どおりの事実を優に認定することができる。
そして、右認定事実によるとつぎの諸点を指摘することができる。
五億円授受の被告人田中側の担当者が誰になるかは被告人田中の口から出たのでなければ被告人檜山の知り得るはずのないところであるうえ、檜山が想像で勝手に被告人榎本が担当するものとしてそのような指示をするはずもないというべきであるから、田中・檜山会談でそのことが田中の口から話されたものと認めるほかはなく、このことはまた、その前提としての五億円供与の申出及び田中がこれを受入れたこと等の事実の認定を導くものである。被告人大久保が公判廷において「檜山社長が総理に五億円を贈る約束をして来たのだとは理解しなかった。」旨述べている点は、以上に照らして信用し難く、大久保がその検察官面前供述(昭和五一年七月二三日付調書〔甲再一75・乙23〕九項)において、「車中で檜山社長から片手を拡げて示され、ここで最終的に田中総理と檜山社長の面談の結果………田中総理に五億円を贈る約束がなされたことが明確にされたと思った。」との供述を採るべきであり、これは前記一(一)1の被告人檜山の検察官面前供述とよく整合しているといわなければならない。
なお、被告人伊藤の弁護人は、被告人榎本の昭和五一年八月一二日付検察官面前調書(乙53)二項に、昭和四八年の授受の直前に被告人田中から同檜山に架電のうえ「うちの榎本は昔からわしのところに居るんだ。うちの榎本を使いに出すからよろしく。」と言ってもらった旨記載されており、これは昭和四七年八月二三日に、田中が檜山に対して金員授受に関する連絡役として榎本を当てることを告げたということを否定する有力な証拠となると主張しているが、そもそも榎本は捜査段階において、「田中・檜山会談で五億円供与が話合われたということは知らず、伊藤から選挙資金として五億円出すと言われたことから本件金員の授受が始まった。」旨の供述をしているところ、関係証拠に照らして右供述は到底信用することができず、右田中の電話の内容や榎本が電話することを求めたということ自体、右の選挙資金から授受に至る一連の話として述べられているのであるから、同様に信用し得ないものというほかはないのである。弁護人の右主張は採用し得ない。
四 被告人田中側からの五億円支払の催促と被告人大久保、コーチャンの交渉
(一) 関係者の供述
1 被告人大久保の公判廷供述
昭和四八年六月の終りころであったと記憶しているが、檜山社長から五億円の支払につき「先方は待遠しくなっているよ。」と言われ、そのあとで伊藤からも同じような催促の話があったので、米国のコーチャンの自宅へ国際電話を入れて「昨年の約束を果してほしい。」と言ったと思う。同人は「その予算は全部使い果してしまったので応じられない。」との趣旨のことを言った。電話を切って檜山社長に報告したところ、社長は「一体コーチャンは何を考えているんだ。私は日本にいられなくなる。丸紅としてはこれ以上ロッキードの製品を日本で売るわけにいかない。その辺のことをよく分ってもらえ。」と言った。そこで再度コーチャンに国際電話を入れ、右と同じことをきつく言った。コーチャンから前のような拒否態度は消えており、はっきりした返事がその場であったか、暫くしてあったのかはっきりしないが、いずれにしても電話で「お引受けします。」ということであり、引渡時期や方法についてはクラッターによく話しておくからということであったと思う。このことは檜山社長には当然報告した。催促は田中の方面から来たのではないかと推測した。
2 被告人伊藤の供述
(公判廷供述)昭和四八年の六月に入ってからだったと思うが、榎本秘書から電話があり「確か檜山さんから総理へロッキードの献金の申出があったが、ご存じですか。」と言うので、聞いている旨答えたら、「いつごろになるのでしょうかね。」と催促というのが適切なことを言われたと思う。その話は前年に聞いたことがあったものだから、まだだったのかなというふうに非常にいぶかしく思った記憶がある。早速社長に報告した。社長は「まだだったのか。」というようなことを言って非常にびっくりし、早速大久保を呼んでロッキードの方に連絡をするようにということであったと思う。榎本秘書には「早速、ロッキードの方に連絡をいたしております。」との趣旨の回答をしたと思う。
(検察官面前供述)昭和四八年五、六月ころだったと記憶している。会社にいた私に榎本秘書から電話があって「一体例のロッキードのものはどうなっているのでしょうか。いつごろになるのでしょうかね。」ときかれた。私は例の五億円を催促しているのだなあと感じた。同秘書の口調がいくらか不満げだったから田中総理側はこのときこの五億円の引渡を待っているのだろうと思った。ただちに檜山社長に対してこの督促の件を報告したことはいうまでもない。私はそのころ榎本秘書に電話を入れて「ロッキード側に連絡をとっています。」と言っておいた。(昭和五一年八月五日付検察官面前調書〔甲再一90・乙34〕七項)
3 被告人檜山の公判廷供述
昭和四八年の五、六月ころか、総理邸訪問から一年経つのではないかと思うころ、田中総理の秘書からと思うが、あのお金はいただけるのかという連絡があったということを伊藤から聞いて、一年も経つ今日までそういうことが履行されていなかったというので驚き、大久保に「早くロッキードの方に履行してもらわなければぼくが困る。」、「早くしてもらいなさい。」というようなことを言った覚えがある。
4 コーチャン証言
一九七三(昭和四八)年の六月中ごろから末の間、米国カリフォルニア州バーバンクにいた私に大久保から「今が貴方の約束を果すときですよ。」との電話があった。私は彼に抗議し、注文は六か月も前に受けたのだし、こういうことの予算はずっと前に使ってしまったし、それに私はそれをすべきだとは思わない旨言った。大久保は「じゃ、もう少し検討してみて、貴方にまた連絡します。」と言った。このあとで私はわが社の取締役会長ホートンのところに行って事情を説明し、会長はとくに何も私に指示せず、私自身に決断を委ねた。大久保はもう一度私に電話をしてきて、「この件について檜山と話した。同人の意見は貴方が貴方の約束を果さない場合は、ロッキードは日本においてこれ以上製品を決して売れないということだ。」と言って強く支払を要求した。全日空には二一機買入れてもらう予定で、六機については確定注文を得ていたが、あと一五機はオプションの状態であった。さらにL一〇一一やほかのわが社の製品を日本に販売しようと努めていた。私は「そうですね。もう少しそれについて考えさせてください。」と言って電話を切ったが、約束を果すことに決め、ホートンにその旨話したあと、多分大久保に電話した記録のある七月二日に、同人に返事の電話をした。そのときか、そのあとかに私は「この種の金は一度に貴方に送れない。われわれは若干時間をかけざるを得ないので、これについてクラッターから貴方に話してもらうから。」と言った。(コーチャン証人尋問調書三巻)
(二) 各供述の符合
以上のとおり、昭和四八年五、六月ころ、被告人田中の秘書から五億円供与の実行方を催促する趣旨の電話が被告人伊藤に対してあり、同被告人からこのことを聞いて驚いた被告人檜山が、同大久保に指示し、これに基づいて大久保が米国にいるコーチャンと二度にわたり電話で交渉した結果、五億円の供与が実行されることとなったとの大筋において、右関係者の供述は極めてよく符合しているということができる。とくに被告人大久保とコーチャンとの間のやりとりについては、その両名の供述はいずれも非常に詳細かつ具体的であるうえ、相互にほぼ完全に合致しているといってよい。
前記各関係者の各供述中、右のとおり大筋において符合している部分に限って考察すれば、被告人檜山の公判廷供述については、その任意性を疑う余地なく、被告人田中及び同榎本の弁護人による事実上の反対尋問ともいうべき質問に耐えており(被告人田中及び榎本の弁護人は、被告人檜山が催促のあったことは記憶なのか推測なのかはっきりしない供述をしていると主張するが、その指摘する公判廷供述の部分は、被告人伊藤から催促があった旨を聞かされた記憶はあるが、そのときの同被告人の具体的な言葉は記憶していないと言っているにすぎないのであって、右主張は事実に反する。)、前記のような檜山の経歴、従前からの田中との関係に照らして考えると、檜山がとくに田中に極めて不利益であるというべき右のような事実を、真実に反して敢えてその面前で供述することは考えられないのであって、その信用性は高いということができる。被告人伊藤の供述は右(一)2のとおり、公判廷供述が検察官面前供述からやや変遷しているのであるが、いずれも大筋においては他関係者の各供述と符合している。もっとも同被告人は、公判廷供述において、その記憶の明瞭さの程度を後退させ、「(検察官の取調のときに)何か榎本から電話があったような記憶がぼんやりとあった。何で前年度のやつがそんなに遅れるかということを検事もいろいろ言っていたときであり、『なんか電話をいただいたようなことがありますな。』ということから、『やっぱり催促の電話じゃなかったのか。』というふうにだんだん固まっていったような感じがする。」、「(この榎本からの催促の電話の件も)もともとそのことをはっきり記憶していたわけではなく、何か漠然とそんなことであったかなという程度であったが、取調の過程でいろんなことを言われたり、いろんなことが入ってくるとだんだんそういうことに固まってきて、今日では結論として確かそういうことである。あったに違いないと思うに至った。」、「現時点でそうであったと思うに至っている事柄にも推測、臆測に過ぎない部分がかなり含まれているということになろうと思う。」などと供述しているのであるが、時の内閣総理大臣に五億円もの大金を供与するという極めて特殊、かつ、重大な事柄に関して、しかも催促を受けるまで放置していたという丸紅ないしロッキード社の非礼にあたるとの見方もできる行為にかかることであるだけに、被告人榎本からの催促の電話があったならばそのことは極めて強く印象に残っていたはずというべきところであって、漠然とそんなことがあったかなという程度のことであったとはおよそ考えることができない。そして前項においても指摘したとおり、被告人伊藤の前記(一)2の供述は、非常にいぶかしく思ったとのそのときの印象を極めて具体的卒直に述べ、さらに「『あれはまだだったんかな。』というように非常に怪訝に思ったのは、はっきり覚えている。」とその印象が明確に記憶に残っていることを明らかに示すような言葉で語られており、事柄の性質上右の印象と分ち難く記憶されているはずの催促電話について同被告人が体験した事柄を記憶のままに述べたものと考えるほかはない。また、コーチャン、大久保の右各供述はいずれも極めて具体的、かつ、詳細であり、供述の行われた時も所も大きく異にし、供述を求められる状況も全く異なるのに、前記のとおり右両者の供述が完全に合致しているということは、その信用性が極めて高いことを示すものということができる。
(三) 各供述間の相異点
もっとも、前記各関係者の各供述の間には、つぎのような相異点が存するので、それらにつき以下検討を加える。
1 催促電話をして来た者の特定とこれについての被告人檜山の認識
被告人伊藤は、催促の趣旨の電話は被告人榎本からあった旨一貫して供述しているのに対して、被告人檜山はその電話は田中総理の秘書からと聞いた旨公判廷において供述していること前記のとおりである。被告人檜山は榎本秘書という名前は聞いた記憶がないと公判廷で述べているのであるが、その昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書(甲再一77・乙15)一一項においては、被告人伊藤から「総理の榎本秘書から前に話のあった例の五億円をまだもらえないかという催促の電話があった。」と聞いた旨供述していたのである。前記認定のとおり昭和四七年八月二三日の田中・檜山会談の際、五億円授受の田中側担当者として被告人榎本の名が被告人田中の口から話されていたうえ、後記認定のとおり本件五億円は現に被告人伊藤と榎本の間で受渡されていること、内閣総理大臣に対する五億円の供与の催促という重要な電話について、被告人檜山に対して報告をするにつき電話をかけて来た者が具体的に誰であるかをも告げるのが当然と考えられること等を総合すると、催促電話をかけて来たのは榎本である旨の伊藤の前記各供述は十分に信用し得るというべきであり、またそのことを伊藤から聞いた旨の檜山の右検察官面前調書の記載に高度の信用性が存するというべきである。
2 被告人檜山の同大久保に対する指示の内容
前記(一)1のとおり、被告人大久保は、コーチャンが五億円の支払要求に応じられないと言っていることを被告人檜山に報告したところ、同被告人は「私は日本にいられなくなる。丸紅としてはこれ以上ロッキードの製品を日本で売るわけにはいかない。その辺のことをよく分ってもらえ。」と言った旨公判廷において供述しているのに対し、檜山は公判廷において、右大久保供述のようなことを言った記憶はないし、言うわけもないと述べているのであるが、右大久保供述は前記のとおりコーチャン供述と極めてよく符合しているのであり、また、コーチャンからの拒否回答に接した大久保としてはこれを檜山に報告しないはずはなく、これを聞いた檜山としては、仮りにその主張のとおり、田中にコーチャンの献金の伝言を取次いだだけであった場合でも、その献金が履行されなければ、大商社の社長が時の内閣総理大臣に対していい加減な伝言をしたとの非難は免れず、非常な苦境に立たされることになるはずのところであるから、何としてもコーチャンに五億円の支払を履行させるよう強く説得すべきことを大久保に対して求めるのがごく当然の成行きであり、その間の事情は強く心に残って然るべきことと思われる。右に述べたところに即して考えれば被告人大久保の右供述する被告人檜山の言葉はごく自然であり、また迫真性に富むものというべきであるのに対し、この間の事情について記憶がないとし、特段の理由も示すことなく、そのような言葉を発するわけもないとする檜山の公判廷供述は不自然で、到底信用することができないといわなければならない。
3 催促電話のあった時期
前記のとおり、この催促電話のなされた時期について、各関係者の供述は区々に分れているのであるが、被告人檜山は「昭和四八年五、六月ころ」と言いながら、他方、「(昭和四七年八月二三日の)総理邸訪問から一年経つんじゃないかと思うころ」と述べており、被告人伊藤も検察官面前調書では「昭和四八年五、六月ころ」と述べているけれども、公判廷においては、同年の「六月に入ってからだったと思う」と供述していて、いずれも同年の六月の中ころから終り近くであったとする被告人大久保及びコーチャンの各供述と矛盾するものではないというべきところ、コーチャンは「私は七月二日に大久保に電話しているのを記録で見かけたが、それが返事の電話であると思う。大久保からの最初の電話がこれより二週間以上も前であったとは思わない。(最初の電話で私が拒否したあと)彼は一週間位して私に電話してきた。彼が檜山の言葉を言ったのはその電話だったと思う。それから四、五日経っていたかもしれない。私は大久保に電話をして先に進むことに同意した。」と証言し、記録を参照するなどしながら、細かな点にまでわたって記憶喚起に努めたあとがうかがわれるのであって、その信用性は極めて高いということができる。
4 被告人伊藤の供述の変遷
なお、前記(一)2のとおり、被告人伊藤の公判廷供述は検察官面前供述から変遷しており、その相異点は被告人榎本からの電話の言葉が、五億円を「例のロッキードのもの」と呼んだのか、すなわちこの金員のことが両被告人間でかねて話合われていたのか(検察官面前供述)、あるいはこのことが両被告人間で初めて言及されたのか(公判廷供述)という点である。これについては昭和四七年八月二三日ころ、田中・檜山会談のあと被告人伊藤が同榎本に電話をして五億円授受の話をしたことがあったか否かにかかるので、後に詳細に検討するが、結論として昭和四七年八月二三日ころの電話によってこの件が話合われたものと認定することができる。また他の相異点は、検察官面前供述においては、被告人榎本の口調は「いくらか不満げであったから、田中総理側はこの五億円の引渡を待っているのだろうと思った。」と言っているのに対し、公判廷においては榎本の口調が不満げであったことはないと供述している点であるが、そのいずれが信用できるか否かを問うまでもなく、「いつごろになるのでしょうかね。」との榎本の言葉から、田中の側で五億円の支払を待っていたものと明らかに推認し得るというべきであって、右相異点にそれほどの意味はない。
以上のとおり、各供述間の相異点は前記の符合する各供述の信用性を何ら損なうものではないということができる。
(四) 被告人榎本の供述及び弁護人の主張に対する判断
これに対し、被告人榎本は公判廷において、「被告人伊藤が公判廷で供述したような催促電話をしたことは絶対にない。自分は催促みたいなことをしたことは一切ない。」と供述し、さらに「田中事務所は従来政治献金の催促をしたことはなく、それを誇りに思っていたくらいである。」とまで言っている。しかし被告人榎本は、捜査過程において金員の授受が始まったあとの何回目かの授受の前のことであるとしながらも「この五億円を授受するに至った経緯に関し、いろいろと記憶をたどるうち、私は丸紅の伊藤に電話で『その後どうなっておりましょうか。』といった内容のいわば催促を何か他の用件の交信におり混ぜて連絡したことがあるような気がする。」旨、右公判廷供述と矛盾する供述を検察官に対して行っている(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔六丁のもの、甲再一84・乙9〕一項)のである。被告人田中及び同榎本の弁護人は、「榎本は否定したのに取調検察官が強硬に押付けるので、一回目の授受以降一回催促をしたということで妥協したのである。」と主張しているけれども、後記のとおり、同被告人の検察官面前供述は全体としてその任意性を十分肯認し得るというべきであり、右催促の事実を認めた供述についても別異に解さなければならない事情は全くない。そして五億円授受に関する後記の証拠関係に照らして、右授受への関与を一切否定する同被告人の公判廷供述全体が極めて信用性に乏しいものであることを考え合わせるならば、催促の事実を否定する右公判廷供述も到底信用に値しないといわなければならない。
また、被告人田中及び同榎本の弁護人は、「本件の請託から第一回の授受まで約一年(全日空の機種決定からでも約一〇か月)が経過しており、その間丸紅が献金実行に無関心であった(請託が存在したとすればあり得べからざることである)ことから、検察官がコーチャン証言中の大久保常務からの催促を取上げ、田中総理側の催促があったという丸紅関係者の調書を作成した。」と主張しているのであるが、被告人大久保、同伊藤及び同檜山の三名はいずれも検察官面前から公判廷に至るまで引続き一貫して右催促に関する供述を行っているのである。右三名とも本件事案全体に関しては、検察官面前供述の一部を事実に反すると公判廷において変更し、とくに被告人伊藤及び同檜山は検察官面前供述のかなりの部分を、検察官の押付け、あるいは検察官の作文であるとして極めて強く否定しながら、この催促の件については伊藤が前記のように供述内容をややあいまいにしているだけで、他の部分のような否定をしていないのである。そして被告人田中及び同榎本の弁護人は右のように丸紅三被告人が検察官面前供述を維持しているのは「丸紅側の事情」によると主張しているのであるが、そのような事情の存在を疑わしめるものすら本件証拠中皆無である。また右弁護人は、一国の総理大臣との約束を盾にとればこれほど履行要求の理由として強いものはないはずであるのに、被告人大久保はコーチャンに対して「総理大臣との約束だから履行してもらわなければならぬ」と言っておらず、トライスターの売込に成功しその後も緊密な提携を続けている丸紅とロッキード社との間では考えられないような「丸紅としては、これ以上ロッキードの製品を日本で売るわけにはいかない」等の言葉を発したというのは、トライスターや被告人田中とは無関係なことで何らかの交渉があったというのが実体であったとしか考えられないと主張しているのであるが、本件が内閣総理大臣との約束であるからこそロッキード社が履行しなければ、丸紅は総理大臣に対して面目を失う結果、ロッキード社との信頼関係も損なわれ取引関係も終止せざるを得ないこととなるという趣旨で被告人檜山ないし大久保は履行を催促したのであり、督促の理由の前提として内閣総理大臣に対する約束であるとの趣旨は既にこめられていたのであって、右主張は失当である。
その他各被告人の弁護人らは、五億円供与の約束が八か月ほども履行されずに放置され、催促されて初めて支払われたのは不自然であり、またその間被告人榎本は何回も被告人伊藤に会っているのに、催促はおろか、五億円の話すらなかったことは、「催促」が架空の話であることを示す等の主張をし、この点については五億円供与の約束と請託の存否に関する重要な情況証拠である全日空による機種決定後の丸紅関係者の動きについて検討する際、関係する諸事項と合わせて論述することとするが、そこで詳細に説くとおり、右主張の諸点は本件五億円供与の約束及び催促があったと認定するにつき妨げになるものではないというべきである。
(五) 認定事実とその意味
以上に説明したとおり、丸紅三被告人の公判廷供述が催促のあった点で符合しており、その後の経過につき被告人大久保とコーチャンの供述が細かな点についてまで完全に符合しているうえ、右各供述相互間の相異点や弁護人の種々主張する点が右符合している各供述の信用性を減殺するものではないのであるから、右に述べたその他の諸点をも総合すると、つぎの事実は動かし難い確実なものとして認定することができる。
昭和四八年六月半ば過ぎごろ、被告人榎本は同伊藤に対し、被告人檜山から同田中に申出のあった五億円の供与について、「一体例のロッキードのものはどうなっているのでしょうか。いつごろになるのでしょうかね。」との催促の電話をした。被告人伊藤は前年に聞いた話であったから、まだであったかと非常にいぶかしく思い、早速、被告人檜山に榎本から催促の電話があったことを報告し、檜山は驚いて大久保に「早くロッキードの方に履行してもらわなければぼくが困る。早くしてもらいなさい。」と指示し、同被告人は米国カリフォルニア州バーバンクにいるコーチャンに電話して「昨年の約束を果してほしい。」と言ったところ、同人から「その予算は全部使い果してしまったので応じられない。」などと拒否された。被告人大久保からその旨の報告を受けた被告人檜山は「一体コーチャンは何を考えているんだ。私は日本にいられなくなる。丸紅としてはこれ以上ロッキードの製品を日本で売るわけにいかない。その辺のことをよく分ってもらえ。」と指示し、大久保は再びコーチャンに電話をして右檜山の言葉を伝えて強く支払を要求した。コーチャンは結局五億円支払を履行することとし、その旨被告人大久保に電話で伝えるとともに、金員引渡の時期や方法についてはクラッターに話しておくと述べた。被告人大久保はこれを同檜山に報告した。
右の事実は、被告人檜山から同田中に対して五億円供与の申出がなされ田中がこれを受入れて五億円供与の約束ができており、昭和四八年六月ころには田中は右金員の支払を要求し得べき立場にあったこと及びこの五億円はロッキード社が支出することが同社社長のコーチャンと大久保ないし檜山の間ですでに約束されていたこと等を十分に示すものであって、これが前記二、三の認定事実とよく整合するとともに、前記一(一)1の被告人檜山の検察官面前供述がこれと極めてよく符合するものであることは多言を要せず明らかである。
五 昭和四七年八月二三日の田中・檜山会談をめぐる諸情況
そこでつぎに、昭和四七年八月二三日の田中・檜山会談に関する諸事実を認定し、これと前記一(一)1の供述との整合の有無につき検討を加えることとする。
(一) 会談の目的
被告人檜山は、前記のとおり、公判廷において、「本件八月二三日の田中邸訪問は、被告人田中が内閣総理大臣に就任したので、それに対する表敬のためであって、本件五億円については、表敬のついでにコーチャンからの伝言を伝えたにすぎない。」と供述している。そこで先ず、右訪問の目的が何であったかを証拠により検討することとする。
1 訪問のアポイントメント取得を命じた時期
(1) 関係者の供述
被告人檜山は公判廷において、「田中総理邸訪問のアポイントメントは、昭和四七年八月二一日の二週間か一〇日位前に副島秘書課長にとるように言ってあった。同月二二日、大久保がコーチャンの五億円程度の献金をしたいとの伝言をもって来た。私は前日コーチャンと昼食をとった際、同人から総理大臣にロッキード社の名前を売ってもらいたいとの話が出ていたので、その日に、秘書課長に総理とのアポイントメントがとれるか再度チェックしてみてくれと督促したような気がする。したがって大久保が私のところに連絡しに来たときにはまだそのアポイントメントはとれていなかったと思う。アポイントメントがとれたという連絡が夕方にあったので、大久保に連絡し、明日七時から七時半ころ私邸で会おうということであったのでその旨を伝えた。」と供述している。この供述は、被告人檜山がもともと田中総理を表敬訪問することになっていて、コーチャンからの伝言は表敬のついでにしたにすぎないとの供述を支持するものということができる。しかしこの点につき檜山は検察官面前で前記(第二・三(三))のとおり、あいまいかつ変遷する供述をし、その中では「被告人大久保から、コーチャンの五億円献金の話を聞いてアポイントメント取得の指示をした。」との公判廷供述と矛盾する供述もしていたのである。
これに対し、右秘書課長であった副島勲は「八月二〇日か二一日ころ、檜山社長から『田中総理に至急会いたい。できるだけ早い機会にアポイントをとってくれ。』と命ぜられ、その日のうちに、八月二三日の総理私邸での面会のアポイントメントがとれた。」旨供述しており(昭和五一年八月六日付検察官面前調書〔甲再一52〕)、公判廷においても、被告人檜山から命ぜられたのは八月二〇日前後ではなかったかと思うと証言している。
(2) 信用性の検討
被告人檜山が公判廷で供述するように、田中総理訪問のアポイントメントが一週間から一〇日間もとれないままでいたというのは、督励したらすぐにとれたということと考え合わせると、多忙な大商社の社長の日程に関する事務を処理する者の作業として不手際が大き過ぎる点で首肯し得ず、もしそれほど長い期間アポイントメントがとれない事情があったのであれば、こと内閣総理大臣訪問にかかることであるから、副島秘書課長の記憶に当然残ったものと思われるのであるが、副島証人は長期間アポイントメントがとれなかったとか、檜山社長から督励を受けたというようなことをうかがわせるような供述は全くしていないばかりか、命ぜられたその日にアポイントメントはとれた旨の供述を公判廷においても一貫して維持しているのである。すなわち表敬訪問のため一〇日も前からアポイントメント取得を命じてあったとの被告人檜山の供述は信用することができないというべきである。そして副島証人はそのアポイントメントをとった日の特定について、八月二三日の面会の事実をもとにして、これからあまり離れていない日であったとの記憶を加味して逆算したものであると証言しており、証人友野弘の供述によると、副島は取調に対し、本件のアポイントメントをとったのは八月二〇日であるというので検事が暦を見たところその日は日曜日であり、それを教えたところ、それなら一九日か二一日にしておいてくださいと供述したことも認められるのであって、要するに副島証人には八月二三日の間近であったという以上の記憶はないと考えられるから、他の証拠の示す情況と合わせて、その日が八月二一日又は二二日であったと認定することは十分に可能であると思料される(なお、同証人は弁護人の反対尋問に対して、同年一〇月一四日にも被告人檜山が総理私邸を訪問した事実を知らされると、証言しているアポイントメントが八月二三日のものであるか一〇月一四日のものか区別できないと供述するに至っているが、友野証言によれば、取調中に話した田中・檜山会談のアポイントメントは、被告人檜山が洋行した九月より前のことであったと述べていたことが認められ、その記憶は過去の事実と結びついた具体性をもつものであったということができるから、右区別できない旨の供述は信用することができない。)。
そして被告人檜山が公判廷で「大久保が五億円献金の話をもってきたときにはまだアポイントメントはとれていなかった。」という、檜山自身の主張からみて不利益ともいうべき事実を自認していることに鑑みれば、この点は真実を述べているものと考えられること、被告人大久保は「檜山社長からお前も目白邸に来いといわれたのが夕方であったような気がする。」と公判廷において供述しており、夕方にアポイントメントがとれた旨の連絡があったとの檜山の供述と符合していること、大久保の公判廷供述によると、八月二二日の朝早くに檜山から電話を受け、そのあとコーチャンを呼び、午前中に同人と一時間半くらい交渉して同人が五億円の支払を承諾したと認められるから、当然その直後には大久保から檜山に対してその旨の報告がなされたと考えられること等の諸点に前記副島勲の供述を総合すると昭和四七年八月二一日又は二二日ころ、檜山ないし大久保がコーチャンと会談した前後ころに檜山が副島秘書課長にアポイントメント取得を命じたと認定するのが相当である。
右認定したところによると、被告人檜山は、同田中にL一〇一一型機売込に対する協力を求める目的で同被告人と会うことを取決め、(後に認定のとおり従前からの共謀にかかる金員供与の申出をも含め)その目的のもとに訪問したものというべく、表敬のついでに伝言をするというのとは事情を異にすることが明らかである。
2 被告人大久保同道の理由
(1) 被告人大久保の同道と被告人田中への紹介
被告人檜山及び同大久保の各供述によれば、昭和四七年八月二三日の被告人田中私邸訪問に際し、檜山は大久保を同道のうえ田中に紹介したことが明らかである。なお、両被告人ともに、検察官面前調書(檜山・昭和五一年八月一〇日付〔甲再一77・乙15〕六項、大久保・同年七月二三日付〔甲再一75・乙23〕八項)においては、右紹介の際大久保に「航空機の仕事をやってもらっている。」と担当業務の紹介をした旨供述していたが、いずれも公判廷においてはこれを否定している。しかしながら、前記のとおり、被告人大久保は「担当業務の紹介をされたかどうかについて記憶はないが、状況上多分あったと思う。」旨述べているのであり、わざわざ連れて行った部下を紹介するのに担当業務に触れないというのは通常考え難いところというべきであり、前記のとおり右各被告人のいずれについても検察官面前供述の方がこれを変更する公判廷供述よりも格段に信用性が高いことを考え合わせて、「航空機の仕事をやってもらっている。」との紹介もなされたものと認められる。
(2) 同道・紹介の理由
被告人檜山は検察官の面前において「私が大久保を連れて行こうとしたのは(トライスターの全日空への売込への協力要請に対して)総理からトライスターの売込経過や売込上の隘路などについて質問があったときに、私では十分説明ができないと思ったことのほか、(大久保が明治の元勲大久保利通の孫であることを話し)わが社にも人ありというところを見せて、今後のために田中総理に顔つなぎをしておこうと思ったからである。」と供述している(前記甲再一77・乙15の検察官面前調書)。被告人檜山は公判廷においては、「もし総理にロッキード社の献金の話を伝えた際に、ロッキードのことについて質問でもされた場合、何も知らないのではまことに失礼なので、ロッキード社の代理店の責任者である大久保を同伴したのである。」、「わが社にもこういう人間がいるんだということを紹介したい気持が潜在的にはあったのかもしれない。」と述べている。また、被告人大久保の公判廷供述によると、事件発覚のあと渡米した同被告人が帰国したところ、被告人檜山は、本件田中邸訪問について、大久保に対して「大久保君、あれはなかったことだよ。本当になかったんだよ。」と言い、昭和五一年五月ころにも、「おい、大久保君、目白台には俺が一人で行ったんだからな。俺が一人で。これは絶対に間違わんでくれ。」と言った事実が認められる。さらに、事件発覚後前記のとおり、被告人伊藤、同大久保らが、検察官による取調を予想して、これを受ける練習を行った際、昭和四七年八月二三日の被告人檜山の田中邸訪問に大久保は同道しなかったとの供述を貫く練習がなされていた事実も認定することができる(大久保の公判廷供述)。証人安保憲治の供述によれば、被告人檜山は検察官による取調の当初、本件田中邸訪問は自分一人で行った旨、極めて強硬に述べ立てていたことも認められる。以上の諸点によると、被告人大久保の同道が、五億円に関する贈収賄罪の成立に密接なかかわりを有していると、被告人檜山らが考えていたことが推認されるのである。(なお、証拠によると被告人大久保は前記紹介のあと被告人檜山の合図で、被告人田中との会見の部屋から退出したことが明らかであるが、単なる表敬であれば、右のような退席の必要はなかったものと考えられる。退出させた理由につき被告人檜山は公判廷において数度にわたり説明を求められ、縷々供述を行っているが、ついに首肯し得る理由を説明し得ていないのであり、田中・檜山間で表敬に止まらない秘密の話がなされる必要のあったことが十分にうかがわれる。)
以上に加え、被告人大久保が「檜山社長は大久保が航空機を担当している直接の役員であることを告げることによって田中総理との約束事については直接の衝にある役員をも納得させて実行させますということで、檜山社長の意のあることが一層具体的に打出すことができ、同じ約束をするについても田中総理に与える印象がより鮮明化することを狙って同行したものと思ったし、また私に対して、大きな仕事をどんな障害を乗り越えても実現するんだというふんぎりの気持をつけさせる意図もあったのではないかと思う。」と供述している(前記甲再一75・乙23の検察官面前調書)ことを考え合わせると、大久保を同道し、同被告人を航空機担当であるとして被告人田中に紹介したのは、ロッキード社からの伝言などではなく、同社のL一〇一一型機売込に関する事柄を田中に強く印象づけて話し、売込協力の約束を取付けるのに役立たせる目的であったためと認定するのが相当であり、この事実は檜山から田中に対して右売込に関する協力要請が行われた旨の前記一(一)1の檜山の供述とよく整合しているといえる。
(二) 会談の状況等
しかしながら、前記のとおり被告人田中は、会談の状況等からして被告人檜山との間の本件会談において同被告人の前記一(一)1の検察官面前供述の事実はもとより同2の公判廷供述のような事実もなかったと供述し、田中の弁護人はこれに副う詳細な主張を展開しているので、以下この点につき検討を加えることとする。
1 被告人田中と同檜山の間柄
被告人田中及び同榎本の弁護人は、田中と格別昵懇とも思えない被告人檜山が、田中の総理大臣就任後初めての訪問で、何の前触れもなく突然ロッキード社の五億円献金の申出などを持出せるものでないことは明らかであるとし、右両者の関係を示す証拠として、「市川前社長が大阪商工会議所会頭であったときあいさつに連れて行かれたのが初対面で、その後は正式には会っていないから、昭和四七年八月二三日当時、私を覚えていてくださるか分らない状況であった。」との檜山の公判廷供述、当日、田中に「丸紅の檜山です。」と言った(弁護人はこれを自己紹介と主張している。)旨の被告人檜山の検察官面前供述をあげている。
しかしながら、被告人田中は、「丸紅の社長であった檜山は経済界の代表の一人として面識をもつようになった。檜山は経済界の政策マンであり理論派と称される水上達三、木川田一隆らと並ぶ論客で、こういったメンバーの一人であるという認識はあったが、いつのころからこう認識するようになったのかは定かな記憶はない。私は昭和三六年に自民党の政調会長に就任し、その後引続いて大蔵大臣、幹事長、通産大臣を歴任したので、その間において檜山と経済団体の諸会合などでしばしば会っているはずである。」と供述しており(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔乙4〕)、被告人檜山は公判廷において、「市川前社長が大阪商工会議所の会頭になったとき、当時通産大臣か大蔵大臣をしていた田中のところに、あいさつに連れられて行って初めて会った。同被告人が総理大臣在任中は五ないし七回くらい田中私邸を訪問した。昭和四七年八月二三日のあと、秋にも韓国台湾中心に業務を進めていくべきか否かにつき、日中国交回復に調印して帰った総理に、どういう考えで中国を承認し、また日中関係の将来はどういうふうな展開をしていくのかを伺いに行った。その後石油につき消費地精製が行われているが将来は現地精製に変わるであろうから、法律で製品輸入が非常に規制されているのは問題であり、自由化の方向にお願いできないかということを話し、あるいは意見を伺いに行ったこともある。大きな貿易商社の社長で構成されている日本貿易会では時の通産大臣、総理、関係諸大臣との意見の交流というようなことをやっていた。あと総理出席の財界パーティ、政界パーティなどに私も出ているような場合はできるだけあいさつをしたいというようなことであったが、なにさま大勢の中だから、会って話したということは非常に稀じゃないかという気がする。」と供述している。
右各供述によれば、被告人田中と同檜山は、田中が内閣総理大臣に就任するかなり以前から知合っており、公的な会合でよく会っていたばかりでなく、檜山は田中の私邸を訪問したこともあり、田中も檜山をすぐれた経済人として評価していたことが認められる。ところで、被告人田中及び証人山田泰司の当公判廷における供述を総合すると、田中が私邸で来客と面会するのは朝の一時間余りのごく限られた間であるが、通常、来客は極めて多く、一組の客との面会時間は短く、わずか二、三分であり、また客の用件も代議士等の場合を除いてほとんどが表敬であったと認められるのであるが、昭和四七年八月二三日のあと間もないころ、そのような繁忙の時間を割いて前記のように中国問題や石油の製品輸入の問題を論じたということは、檜山が田中にとって単に一般の表敬訪問客とは異なる関係にあったことを推認させるに十分である。
とくに昭和四七年八月二三日の被告人檜山の田中私邸訪問の際は、来客が極めて多く、檜山の公判廷供述によれば「応接室に隣接する待合室には門前市をなすといった感じで人の山であったから一〇〇人以上はいたと思われる。」というのであり、面会のアポイントメントの取付も容易ではなかったものと考えられるのであるが、前記認定のとおり、檜山は直前の八月二一日ないし二二日ころに当該面会の約束を申込んですぐに受入れられたのである。また、被告人大久保の供述によれば、八月二三日、同被告人と被告人檜山は田中私邸に着くとすぐ待合室に通され、そこには先客が三、四組いたのに、そのとき田中と面会していた人が済むと檜山らはすぐに呼び入れられて田中と会うことができたことが認められる。これらの事実からも被告人檜山と被告人田中との関係には、公的な会合で顔を合わせるだけというような間柄に止まらないかなり親しいものがあったと認めることができる。
以上の諸事実に照らせば、弁護人引用の前記被告人檜山の公判廷供述は、被告人田中との関係を極めて稀薄なものとするための作為的なものというほかなく、到底信用することができない。また、「丸紅の檜山です」と言った旨の供述について、これを仔細に検討すると、「田中総理に取次を頼んでしばらく待っていると、書生ふうの男が『どうぞ』と言って大きな応接ふうの部屋に案内してくれた。私がその部屋に『丸紅の檜山です。』と言って顔を出したところ、田中総理が一人正面奥の椅子に坐っており、『やあやあ』と言って右手をあげながら親しげな態度で迎えてくれた。」というのであり、多勢の来客が、かわるがわる面会している状況下において、部屋に入るに際し自分が誰であるかを告げたものであるから、これは、両者が親しい関係にあることを否定するものではない。被告人檜山は、公判廷において、「果して私の顔を覚えていただいたかどうか疑問であり、私自身なりにその程度ではないかというふうな感じで、『丸紅の檜山です。』と申上げたと思う。」と供述しているが、以上の諸点に照らして信用することはできない。
被告人田中と同檜山の関係が稀薄であったことを前提とする前記の弁護人の主張は採り得ない。
2 本件会談の時間
被告人大久保は公判廷において、「檜山社長と共に田中邸の応接室に入って田中総理に紹介されたあと、席を外せと檜山社長から合図されて部屋を出、待合室のようなところの入口付近に出ていた。二、三分、長くとも四、五分はかからないくらいで檜山社長が出て来た。」と述べ、被告人檜山も「私が田中総理と話合った時間は長くとも五分以内であったと思う。」と検察官面前において供述し(前記甲再一77・乙15の調書)、「大久保を退らせたあと、話をして帰ってくる迄の間は二、三分、多くとも四分とはかかっていない。」と公判廷において述べている。被告人大久保の車の運転を当時担当していた運転手の川上総三郎は、この日同被告人らは田中邸に入ってから一〇分くらい表通りで待っていたら出て来たと述べている(昭和五一年八月一七日付検察官面前調書〔甲一49〕)。以上の各供述を考え合わせると、被告人大久保が応接間を出たあと、被告人田中と同檜山の会談の時間は大久保の供述する程度の長さのものであったと認めるのが相当である。
ところで被告人大久保は、公判廷において、右のような二、三分、長くても四、五分かからないくらいの間に、「私としては、一国の総理が、丸紅の大会社の社長といきなり金の話をするということは常識上考えられなかった。」、「礼儀作法上、そういう無礼な話が出るはずがない。」と供述しており、被告人田中及び同榎本の弁護人は右供述に合理性があると主張している。しかし、被告人大久保は、まさにその五億円供与の話が右の間になされたと思った旨の供述を前記のとおり検察官の面前において任意に行っていたのである。そして被告人檜山は同大久保の「金の話が出ることは常識上考えられなかった。」との供述につき公判廷において「それは大久保の考えであろうが、自分は確かに五億円の話を出した。」と明確に供述しており、檜山は、田中との間では、そのような金の話を出すことがとくに非礼にわたるということにはならないと考えていたことが明らかである。
また、被告人田中及び同榎本の弁護人は、右のように短い時間のやりとりの中で、被告人檜山の前記一(一)1の検察官面前供述にあるような申出が同被告人からなされ、被告人田中がその趣旨を十分理解したうえで即座にこれを快諾したなどということはあり得ない旨主張し、田中も公判廷においてこれに副う供述をしている。
しかしながら証人石黒規一の供述によると、同証人は三井物産の常務取締役であった昭和四五年夏ころ、当時自由民主党の幹事長であった被告人田中を訪ねて、同社が販売代理店をしていたダグラス社のDC一〇型機の全日空への売込につき要請をしたことがあったこと、右の要請の内容は、かねて全日空の大庭社長の依頼で、三井物産がダグラス社にDC一〇型機の製作手配をしていたところ、全日空の社長が若狭得治に交代して、大庭社長の約束が反古にされたため、三井物産が大変な窮地に立つことになったことから、その間の事情を話して、全日空に対し思い直すよう口添をしてほしいというものであったこと、その際右石黒常務は、全日空への航空機の売込については、主としてロッキードとダグラスの競争になると思われるが、ロッキードはかねてからえげつないやり方をする会社であるから、そのロッキードのようなやり方で仕事が左右されるということが起こらぬようお願いするとの趣旨の話を田中に対してしたこと、その後同常務は同被告人が自由民主党の幹事長である間に二回、同被告人を訪ねて同じ要請をしたことが認められる。右供述は、石黒証人の病状悪化のため弁護人らによる反対尋問を経ていないのであるが、宣誓のうえ、受命裁判官、検察官及び弁護人の面前で、厳格な規定に則って施行された尋問手続の下での証言であって供述の信用性は情況的に保障されているというべきであり、刑訴法三二一条一項各号の趣旨に鑑み、その証拠能力はこれを認めるに十分である。のみならず、右証言は関係証拠によって認めることのできる諸情況とよく整合しているばかりでなく、内容が詳細、具体的であるうえ、明確かつ自然であり、証人の供述態度も真摯である。被告人田中及び同榎本の弁護人は、石黒証言には、同証人が若杉三井物産社長らと同行して総理官邸で被告人田中と会った際には、航空機の話をする絶好の機会なのに、これをすることなく帰ったと述べるなど不自然な点が諸処にあるとして、これらを挙げ、証言全体が不自然で信憑性を欠くと主張しているが、右主張において不自然とされている諸行動をとった理由について、石黒証人はその証言中で十分に首肯するに足りる説明を加えているのである。してみると、右証言の信用性についてはこれを肯認することができる。
また、後に、第五章「内閣総理大臣の職務権限について」の項において認定するとおり、昭和四七年夏には、わが国の対米国の貿易収支が大幅な黒字となり、同年七月末に箱根で開催された日米通商会議等を通じて、米国側から、わが国の米国からの輸入増大のための具体策を強く求められたこともあって、同国から数種の品目を緊急輸入することとなり、同年八月、関係各省庁でその品目や数額の検討が行われたが、その中には昭和四七年及び同四八年度中にわが国の民間航空企業が米国から購入予定の航空機(運輸省は全日空を含む航空各企業から購入計画を提出させ、その額を約三億二、〇〇〇万ドルであるとした。)が含まれていた。被告人田中の検察官に対する昭和五一年八月八日付供述調書(乙3)その他の関係証拠によると、内閣総理大臣であった田中はこの間の事情は十分認識していたことが明らかであり、全日空が近く航空機を購入する予定であることも知悉していたものと認められる。
以上を総合すると、被告人田中は、前記一(一)1の被告人檜山の供述中にある同被告人の言葉を聞いてただちにその意味するところを十分に理解するに足る知識を有していたものと認められる。このことに照らすと、「丸紅がロッキードのエージェント(または代理店)だったか。」と被告人田中が言ったという点もごく自然な反応で右のような事情を示すものということができる(なお、田中は公判廷において「私はエージェントという言葉は過去のどんなところでも言ったことはない。」と述べており、たしかにエージェントという言葉そのものが一般にはさほどよく使われるものではないことを考えると、田中が檜山にエージェントという言葉を言ったとは断定し難いのであるが、檜山は「田中があるいは代理店と言ったかもしれない」とも述べていること前記のとおりであり、田中は通常よく使われる「代理店」という言葉を使ったものと認める余地は十分にあるのであるから、右「エージェント」と言ったとの点をもって檜山の一(一)1の供述の信用性を否定することはできない。)。そして前記認定のような短い時間内のやりとりで、被告人檜山が前記一(一)1のような内容の話をし、被告人田中がこれを承諾することは十分に可能であったといわなければならない。
3 本件会談の部屋の状況
証人山田泰司は、「当時の夏、田中の面接する応接室の窓は隣接の待合室との間の窓も含めすべて開け放たれており、入口の戸も開いていたうえ、同人は大きな声で話をするので、通常右応接室入口前のホールに立っている自分や面接を待っている人々にも田中の話の内容が聞こえる状況であった。」旨供述している。これに基づき被告人田中及び同榎本の弁護人は、右のように開放的な状況下で五億円供与の話などできるはずがないと主張している。しかしながら、検察事務官作成の昭和五一年七月三一日付報告書(甲一209)及び証人山田泰司の供述、第一三四回公判調書の同証人の証言速記録添付図面によれば、面接に用いられた応接室はたて八・二メートル、横五メートルの広い部屋で、面接用のソファの被告人田中の位置から応接室入口までは約五メートル、隣接する待合室との間の窓までも約五メートルあるから、話し声を少し小さくすることによって、容易に、人に聞かれることなく会談することができたものと認められるのである。実際、被告人大久保は、前記のとおり、本件八月二三日の被告人田中と同檜山との会談中、応接室を出て待合室のようなところで待っていたのであるが、「その間、二人の声はボソボソと耳に達するだけで内容は聞こえなかった。」と検察官の面前で供述している。被告人大久保は、公判廷では「二人の声はボソボソというようにも聞こえなかった。」と供述するに至りそこに変遷はあるのであるが、いずれにしても話の内容が分らなかったという点では一貫しているのであって、大久保の供述につき一般的に論述した前記の諸点に照らし、右の一貫する限度でその供述は十分に信用することができるというべく、田中及び檜山の両名は小さな声で話をしていたものと認められるから、他の証拠と合わせてその間に外聞を憚かる秘密の話が交わされていたことを推認させる情況として十分であり、弁護人の主張は失当であるといわざるを得ない。却って右大久保供述によって認められる状況は、請託と五億円供与の話をしていた旨の前記一(一)1の檜山検察官面前供述によく相応するものということができる。
4 「よしゃ よしゃ」の言葉について
被告人田中及び同榎本の弁護人は、一(一)1の被告人檜山の供述中、田中が言ったとされる「よしゃ よしゃ」の言葉について、[1]檜山の検察官面前調書には「よしゃ よしゃ」ないし「よしや よしや」と記載されており、検察官はこれをいずれも「よっしゃ、よっしゃ」のことであると言っているが、このようなあいまいなこと自体、これがなまの言葉ではなく取調検察官の日常用いる語感によって表現作成されたものであることを示している、[2]「よっしゃ」は関西方面の方言であって、かつて田中がそのような発言をする生活体験をしたことがなく、そのような発言をしないことは公知の事実であり、この点は検察官の創作にかかる架空のことに属すると主張している。
たしかに被告人檜山の検察官面前調書(昭和五一年八月一〇日付)の文字は「よしや よしや」となっているのであるが、物事を引受けるときの人の言葉として考えられる通常の発音からすれば、これは「よしゃ よしゃ」と読むのが自然であると考えられる。証人安保憲治も、被告人檜山は「よしゃ よしゃ」と言っていたし、安保検事は立会の谷沢事務官に対して「よしゃ よしゃ」と口授したのであるが、同事務官の「や」の字を殊更大きく書く字のくせのため、「よしゃ」と書いたつもりが「よしや」となっているのであると供述しており、同調書中の他の「や」の字と比較対照してみると、右のような事務官の字のくせは看取することができる。そして「よしゃ」という言葉と、「よっしゃ」という言葉とは発音が酷似しているから、検察官が冒頭陳述において被告人田中が「よっしゃ」と言った旨主張したからといって、そのことに弁護人主張の[1]の結論を導き得るほどのあいまいさは存しないというべきである。右[1]の点の主張は理由がない。
つぎに右主張[2]の点に関する判断に入る前に、右「よしゃ よしゃ」の言葉を被告人田中が発した旨の被告人檜山の検察官面前供述がなされたときの状況について検討を加えておくこととする。被告人檜山は公判廷においては、「よっしゃ よっしゃ」とか「よしゃ よしゃ」という言葉は聞いたことがないとし、これは「何かリアルな、現実的な対話があったかのごとく、何がアピールするかということを考え、ワーディングを考えた結果そういう言葉が出てくるんだろう。」との旨の供述をし、これが検察官の作文であることを強調しているのであるが、前記のとおり、同被告人が検察官の追及に対してかなり多くの他の関係者が供述している事項につき供述をせず、あるいはそれらと異なる供述をし、また、こと被告人田中のこととなると極めて慎重な供述態度をとっていたことなど、前記第二において被告人檜山の検察官面前供述につき指摘した諸点に照らして右公判廷供述はにわかに信じ難いというべきである。これに対し、証人安保憲治は、このくだりを調書にとるに当って、被告人檜山の言うことが、「よしゃ よしゃ」であるのか耳で聞いただけではなかなか区別できないような説明であったので、極端にいえば「よしゃ よしゃ」になるのか、あるいは「よっしゃ よっしゃ」になるのかということをきいたら、本人が自分でしゃべってみて、「やっぱり、どちらかといえば『よしゃ よしゃ』に近いですね。その方が正確でしょう。」ということで、言うがままに調書にとったと証言している。この証言は詳細具体的であるばかりでなく、文字にあらわした場合には広く使われているといえる「よっしゃ よっしゃ」ではなく、ことさら「よしゃ よしゃ」という表現が検察官面前調書においてなされていることに照らしても極めて信用性が高いというべきである。
さて、弁護人の前記主張[2]の点につき検討すると、証人山田泰司は、「田中が『よっしゃ』というような関西弁を使うのは聞いたことがない。話の趣旨が分ったとき同人は私には『分った』という。」旨証言しており、また被告人田中が、日本国語大辞典(弁457〔T131〕)に「よっしゃ」を方言とする地域として挙げられている滋賀県彦根、大阪、奈良県、岡山県児島、徳島県、香川県、高知県で生活した経験のないことが明らかである。しかしながら、ある地方の方言とされている言葉を話す人が他の地域に移動して他者に影響を及ぼすなどのことにより、その方言が当該地方で生活したことのない者の口にものぼることは、われわれのよく経験するところである。まして右大辞典にあるように、「よっしゃ」という言葉がもともとかなり広い地域で使われており、しかも非常に口にし易いものであることからすれば、これが右の地域と全くかかわりをもたない人々の間でも極めて多く使われているものということができるのであって、被告人田中がその生活して来た地域を理由に、「よっしゃ」ないし「よしゃ」という言葉を使うことがあり得ないとは到底いうことができない。また証人山田泰司の供述によれば、同人は昭和二〇年ころ、被告人田中の経営していた田中土建に入り、爾来今日まで同被告人の秘書的な仕事を行ってきた者であると認められ、そのような同被告人との緊密な関係及び同人の供述態度に照らし同証人は、同被告人にとって不利益なことを言うことが困難であると考えられる者であるところ、その前記証言によって、田中が右の言葉を使うことがあり得ないとは断ずることができないことも多言を要しないところである。
以上の証拠関係に照らすと、前記安保証言のとおり、被告人檜山の述べるがままに、被告人田中が「よしゃ よしゃ」と言った旨検察官面前調書に録取されたものと認定するのが相当であり、前記第二・四で述べたとおり、檜山がこのような点について敢えて真実の体験に反してまで田中に不利益な事実を供述したと考える理由も全く見当らないから、檜山は自ら記憶していると信ずるままを取調の安保検事に供述したものと認められる。すなわち、被告人檜山は田中が発した言葉を「よしゃ よしゃ」と聞いたと記憶している旨認定することができるのであり、右記憶された「よしゃ よしゃ」の語感及び両者の会談におけるやりとりの脈絡に照らせば、被告人田中は檜山の申出を承諾する趣旨でかかる言葉を発したことが明らかである。ただ、右のような短い、瞬時に発せられた言葉について、その正確な発音まで被告人檜山が明確に記憶し得たか否かは事柄の性質上疑問を挿む余地があるといわねばならず、被告人田中が、「よしゃ よしゃ」と言ったか、「よっしゃ よっしゃ」と言ったか、あるいはこれに近い発音の別の言葉を使ったかは断定し難いところというべきである。被告人田中は被告人檜山の話を聞いて、「よしゃ よしゃ」又はこれに類する発音の言葉で承諾したと認定するのが相当である。
5 要請と成功報酬の文言
被告人檜山は、公判廷において、前記一(一)1の検察官面前供述中の「それができましたら」という言葉について、「そんなことは気違いでもなければ申上げられない。あり得ないことである。できたらとは、裏を返せば、できなかったらあげませんという失礼極まることで一国の総理に言うはずがない。」と述べるほか、「そんな馬鹿なことをもしコーチャンが言ってくださいというんだったら、いかに私が低能な経営者であっても即座に断わる。一国の総理にそんな失礼極まることを言って、もし『君は何を言っているんだ帰り給え。』とでも言われたら、それで私の人生は終りではないか。」との趣旨を繰返して供述している。また前記検察官面前供述中の「総理の方から然るべき閣僚に働きかけるなどして何分のご協力をお願いします。」との言葉についても、檜山は公判廷において「一国の総理を私が駆使するようなことはあり得ない。」と述べている。
被告人田中も公判廷において、「檜山が事前にも事後にもそういう問題を全く依頼もせず、突然訪問してきて、いやしくも国会議員の職にあり、総理大臣の現職にある者に、成功したら向うがお払いしますと、そんなことを言うことは正に言語道断である。私はそのようなことを同人が述べておるなら退室を求めたであろうし、以後同人との交友など起こるはずがない。政治家の第一歩は外国人、第三国人からはいかなる名目にかかわらず、政治献金を受けてならないというのが大原則である。そういうことを一体どういうことで同人が言ったというのか、私は全く人格を疑う。」と述べている。
被告人田中及び同榎本の弁護人は、被告人檜山は八月二三日以前に田中とは公式には一回しか会っておらず、「覚えてくれているだろうか、会っていただけるか」と小心翼々たる心境で訪ねたのに、唐突に然るべき閣僚に働きかけてなど総理を指揮するような発言をしたり、売込に成功したらお金を差上げるから何分のご助力をという趣旨の失礼な依頼をするということは、到底考えられないと主張している。右主張中の「覚えてくれているだろうか、会っていただけるか」と心配していたとの点は、被告人田中と同檜山の間柄につき前述したところに照らして事実に反すること明らかである。
その余の点についてであるが、証人安保憲治は、「取調の過程で檜山は、『田中総理にその金の話をしたときに心配があった。それは万が一にもトライスターを全日空が買わないようなことがあったときにその五億円を催促してくるかもしれない。あの人なら分らない。だからあらかじめ断っておかないといけないと思ったから、その言葉をつけ足した。その言葉ができればという言葉だった。五億円を差上げることを話す際の心境としては、まず田中総理は間違いなく受けてくれるだろうが、万が一にも渋ったり、あるいはそれはまずいというようなことを言われたときにはどうしよう、うまくその場をつくろって、例えばロッキード社がそれだけ熱意をもって当っていることを汲んでやってほしいと言ってその場を逃れようと考えた。ところが実際に話してみるとあっさり快諾されたので、内心ほっとすると同時に、田中という人はやはりお金で動く人なんだなと思ったし、最初はそこまで詳しく話すつもりはなかったけれども、ほかの会社だってどういうことをやっているか分らない。だから田中総理から直接話してくれるのは当然のことであると予定しているけれども、さらに閣僚にも話してもらいたいと、そういう気持があったので、あんまり簡単に引受けてくれたんで調子にのって、というかいい気になって、そこまでしゃべってしまった。』と話していた。」旨供述している。この供述中の被告人檜山の述べる部分は、被告人田中との話合の進展する経過、状況の描写が詳細で自然であり、その間の被告人檜山の心理の動きや配慮を十分に示し、その検察官面前調書の信用性を十分に担保するものといえる。そして、右のような話合の経過の中で、適切な言葉を選んで話すならば、礼を失することなく一(一)1の供述にあるような趣旨の要請や成功報酬の話はできたものと考えられる。
この点から考えると、「それができましたら」あるいは「しかるべき閣僚へ働きかけるなどして」という言葉は、そのまま会話の中に使われたとするならば不自然に感ぜられるところがないではない。しかしながら安保証人は前記のとおり、「檜山は供述をするについて極めて慎重で、とくに田中の問題になると『一分一厘間違っちゃ大変だ。』ということで、常に考えながらしゃべっていた。」と証言しているほか、「檜山は八月二三日の田中総理との面談の状況について、非常に気を使って、できるだけ正確に申上げますからということで話してくれたし、私もいろいろ細かくきいていった。」、調書は「会話体になっているようなところは、本当の生言葉として本人の口から言わせてそれでとった。」と証言しているのであり、安保証言の信用性について前述したところは右の各証言にも妥当し、これらは十分に信用し得るというべきであるが、被告人檜山自身、右被告人田中との会談において自己が発した言葉は、その重要性に鑑み、その趣旨は忘れるはずもないといえるとしても、前項の田中の承諾の言葉同様、現実に発した一言一句をそのまま記憶していることは事柄の性質上考え難いというほかなく、前記一(一)1の檜山の検察官面前供述は右会談の言葉そのものを必ずしも正確に再現しているとはいえないというべく、檜山は、その地位・経歴に鑑み、田中に対して、その会話の状況に応じた適切な言いまわしをしたものと推認することができる。
以上のとおり成功報酬と関係閣僚への働きかけの話が、なされるはずのないものであったとの主張は失当であるといわなければならない。
六 請託等の存在を推認せしめる情況証拠
つぎに、本件請託の存在を推認せしめる間接事実の存否についての検討に移ることとする。
(一) 被告人伊藤の同榎本に対する接待
1 関係者の供述
(1) 被告人伊藤の検察官面前供述
檜山社長から昭和四七年八月二三日ころ、ロッキード社からの五億円を受渡す役をやってくれとの指示を受け、その日のうちだったと思うが、榎本秘書に会社から電話をし、「うちの檜山社長からロッキードの五億円の話を聞いた。私が田中先生に対する窓口となり、大久保常務がロッキード側の窓口になることになった。今後、この件では貴方に連絡するように言われたがご存知か。」と尋ねた。榎本秘書は「総理から聞いて承知しています。」と答えていた。私はこの後「久し振りに一杯いかがですか。」と榎本秘書に誘いをかけた。私は檜山社長と大久保常務が田中総理にトライスターの件をお願いに行った件で、私としても番頭格の秘書である榎本に一献差上げて頼んでおいた方が同人に対する仁義をつくすことにもなるし、いいのではないかと考え、一席招待する誘いをかけたのである。榎本秘書は私のこの申出を快く受けてくれた。同月二五日、料亨「木の下」で私は榎本秘書に対して、招待者側の月並なあいさつをした後、「うちの檜山と大久保が伺いました件、ひとつよろしくお願いします。トライスターの売込についてはうちとしても力を入れているので、榎本さんからもひとつよろしくお願いします。」と頼んでおいた。(昭和五一年八月五日付〔甲再一90・乙34〕三項)
(2) 副島勲の検察官面前供述
昭和四七年八月二五日、伊藤社長室長に同道して「木の下」へ行き、榎本秘書を接待した。若干世間話が出て、田中総理になったから景気もよくなるでしょうとか、商売にもいい影響が出るでしょうといった話になり、伊藤室長は「お陰さまで丸紅も大変忙しいんですよ。」などと言ったあとさらに「今、私どものところではロッキード社のエアバスの売込で大変なんですよ。先日檜山がお伺いしました件はよろしくお願いします。榎本さんからもよろしくお願いしますよ。」と言い、榎本秘書は「はあはあ承知しました。」とかしこまった調子で承諾した。(昭和五一年八月六日付〔甲再一52〕四項)
被告人榎本は公判廷において、「昭和四七年八月二五日に伊藤、副島の両名と『木の下』で会ったらしいが私の記憶にはない。」と述べている。また被告人伊藤は、「同月二五日の接待は、かねて榎本秘書とは面識があったから、首席秘書官の就任をお祝いするかたがた一献差上げたいと思っており、大分前からお願いはしてあったと思っている。この席と檜山社長らの総理訪問とは関係がない。右訪問の件やトライスターの売込に私は触れていない。」と公判廷において供述し、副島勲は、「八月二五日の会合でロッキードの話が出たことはない。そういうことがあったとは、そのソーシァブルな場所ではあまり考えられない。」と証言している。
2 各検察官面前供述の信用性
被告人伊藤の供述、副島勲の証言に、料亨「木の下」の昭和四七年八月二五日付「伝票」(甲二80)、「経費台帳1972・4~73・3」と題する簿冊(甲二81)の記載を総合すれば、右八月二五日に伊藤が丸紅秘書課長の副島勲と共に料亨「木の下」において被告人榎本を接待したことが明らかである。
右接待の会合の目的及びそこにおける話題並びに右会合に先立つ電話についての前記1(1)の検察官面前供述について被告人伊藤は、「被告人榎本に八月二五日に会ったということが検事に分ったものだから、八月二三日の訪問の件でやったに違いない、何もそんなお祝いだけのためにやったなんてことは考えられないではないかというような理詰、理屈による追及をされて認めてしまった。」と述べているのであるが、右の事項について、右供述にあるような程度の理由をあげた追及があったとしても、前記のとおり否認すべき点は否認を貫く態度を持していた伊藤が、真実に反して事実を認めざるを得ないほど心理的に追いつめられたとは考え難いといわざるを得ず、右の捜査過程における同被告人の供述態度に加え、その供述にかかる事項が、自分自身のみならず、被告人檜山、同田中及び榎本ら関係者にとって極めて不利益となるまことに重要な事実であることを考え合わせると、伊藤が敢えて任意に供述したのはそれが真実であるからということを強く推定せしめるものといわなければならない。そのうえ、同被告人は右供述中の重要な部分である八月二五日の会合において話した言葉について、「(取調の際、)まあ言ったとしたらどういう口調で言ったとかいうようなことを、あるいは私が言葉は申上げたかもしれない。」とも供述しており、会合における被告人榎本との会話が詳細具体的であって体験した者でなければ述べ得ない内容であることを考え合わせると、伊藤が記憶しているところを進んで供述したものであると十分に認め得るのである。以上の点に加え、被告人伊藤の1(1)の検察官面前供述は、前述1(2)の副島の検察官面前供述ともよく符合しているのであって、信用性は高いということができる。
副島は、右の会合の話題に関する前記検察官面前供述について、「私は『そういう話は出なかったはずです。』と申上げたのだが、検事は、『なかったなんて考えられないぞ。』ということで、もう疲労もしているし、何か根拠をもってそういう話をされているのだとすれば、これはどこまでも抵抗しても記憶の証明ができないわけだから、一種のあきらめ的な心境だったと思う。うなずくとか肯定したかも記憶にない。」と供述している。すなわち、疲労とあきらめのような気持から検事の言うままに供述を調書に取られたというのである。しかし、副島の検察官面前調書には記憶がないこと、確かでないことはそれぞれそのように記載されている例がみられるのである。また副島自身の証言によっても、同人を取調べた友野弘検事は、「時間をかけて何すれば(思い出せば)何年前のことでも思い出せるもんですよ。まあじっくり思い出してくださいよ。」と言い、記憶がないと言うと、「それじゃ出るまで待ちましょう。」というような調べ方であり、誰それがこう言っているというような取調は皆無ではなかったけれども露骨にそういうことを言うようなことはあまりなかったと思うということであって、検事の方から不当な誘導をし、あるいは強く押付けるなどといったことはなかったと認められる。以上の諸点に照らして検事の言いなりになった旨の前記供述は信用することができないというべきである。そして副島証人は1(2)の検察官面前供述中の被告人伊藤の言葉について、「あまりにもよくできすぎているが、調書にそうなっているとすれば私が抵抗を感じた問題だと思う。」とも述べているのであるが、同人の証言を総合すると、抵抗を感じたという意味は要するに、理屈でいえばそうなるのかなとか、単に推理だけでそういうこともあり得ると思われることなのに調書に書かれ、それが何らかの重要な意味をもって取り上げられることに対する抵抗を感じ、責任を感じたということであると認められる。以上の諸点を総合すると、副島は1(1)の検察官面前供述中の核心ともいうべき、八月二五日の会合における被告人伊藤の言葉については、検察官の質問を受け、検察官とやりとりをしながら、理屈や可能性をも考えつつ、しかし真摯に、過去の体験事実を再構成しようとしたものだということになり、その際検察官面前調書のもつ重要性は十分に認識していたものと認められるから、この点に関するその検察官面前供述の任意性は十分にこれを肯認することができ、特信性も優に認め得るのみならず、その信用性も高いということができる。(右の副島に対する取調状況等の諸点を勘案しつつ、甲再一52ないし54の同人の各検察官面前調書の内容とこれを否定する同人の公判廷における証言を対比して検討すると、右各調書記載の供述中昭和五七年二月一二日付書面による決定中で示した部分にはいずれも特信性を肯認し得る。)
なお、副島は、右検察官面前供述中の前記被告人伊藤の言葉に対する被告人榎本の応答のくだりについて、「初め、調書には『はあはあ』とだけ記載されていた。それに私が印をついてできた調書を検事が持って部屋を出て行ったが、帰って来て、『これでは話のつじつまが合っておらんではないか。返事になっておらんではないか。承知しましたというのがあったはずじゃないか。』と言うので、検事が確信をもっている、私がそうじゃないと言っても通じない、身体が疲れている、こういう状況が永久に続けば職場の放棄はどうなるかわからん、こういう気持で私はその訂正も受けさせられた。」と証言しているのであるが、「はあはあ」の記載だけで十分に承諾の意向が示されているのであるから、検事がこれに対して右証言のような言動をとったということ自体、首肯しかねることであって、これを否定する友野検事の証言は十分に信用することができ、前記の諸点をも考え合わせ、右被告人榎本の応答についての副島検察官面前供述の任意性、信用性もまた肯認し得るというべきである。
3 弁護人の主張に対する判断
被告人田中及び同榎本の弁護人は、(1)被告人伊藤は社長室長で航空機売込とは全く関係がなく、田中邸訪問を知ったのも昭和五一年二月以降のことであること、(2)L一〇一一型機売込の依頼ということであれば、責任者の被告人大久保が同席しないのは不自然であること、(3)伊藤はそれまでさほど親しい間柄にはなく、榎本と飲食の席を共にしたことがないのに、「久し振りに一杯」というような電話をしたとされていることをあげて、前記1(1)(2)の各検察官面前供述は客観的情況と反するから、その供述内容たる事実を認定することはできないと主張している。
しかしながら被告人伊藤は同檜山らの田中邸訪問を、これが行われた昭和四七年八月二三日に知ったのであり、そればかりでなく、同日五億円の受渡を担当するよう指示されていたことは前に認定したとおりであるから、かかる巨額の現金の授受という重要な役割を円滑に、かつ、支障なく果たすために、被告人榎本と連絡をとり、同被告人と懇親の度を深め、かつ、檜山を補佐すべき社長室長として、同被告人が被告人田中に依頼したL一〇一一型機売込の件につき、自らも田中の秘書である榎本にあいさつしようとすることはまことに当然の事柄である。ことに、後記認定のとおり、L一〇一一型機の売込が丸紅にとって最重点項目の一つであり、その成否は全社的に注目されており、社長室長の地位にあった被告人伊藤としてもこれに多大の関心を抱いていたことが明らかであるうえ、被告人田中に対する工作及びその一環としての伊藤の同榎本に対する接待は、丸紅の通常の営業活動としてではなくこれとは別に行われる側面からの働きかけというべきであるから、被告人伊藤が右売込に関してあいさつをし、またその席に被告人大久保が同席していなくとも何ら不自然ではない。また右被告人伊藤及び同榎本の両名は公判廷においていずれもそれまで両被告人が飲食の席を共にした事実はなかったと供述しているのであるが、被告人伊藤の公判廷供述につき一般的にこれまで縷々述べてきたところ、被告人榎本の公判廷供述につき後述するところに照らして、これらが信用に値するものとはただちにいうことができず、「久し振りに一杯」の言葉を理由として前記1(1)の伊藤の検察官面前供述の信用性を否定することはできない。弁護人の右各主張はいずれも失当といわなければならない。
また、被告人伊藤の弁護人は、(1)「木の下」への招待の電話は副島がかけたものであって、伊藤が昭和四七年八月二三日にかけたものではない、(2)右の電話をかけた時期について、副島は八月二五日の一週間くらい前であると証言し、伊藤も、記憶の根拠を具体的にあげて、同じころに副島が電話をしたと公判廷で供述しており、この電話及び招待は被告人檜山の伊藤への指示の有無とは何ら関係がない、(3)被告人伊藤が1(1)の検察官面前供述のような依頼に出向くのであれば、副島を同道させるはずがない、(4)被告人伊藤が同檜山から、五億円の件について指示を受けていたのだとしたら、「木の下」での会食の際に引渡時期、引渡方法などの話が出ないはずはなく、また伊藤は、被告人榎本に会う前にL一〇一一型機の販売状況や機種決定の時期等を被告人大久保らに問合わせるなどして予備知識を得ておくことが当然と思われるのに、そのような事実が全くなかったことはそのころ右の指示が行われていなかったことの証左であると主張している。
そこでこれらの点について検討するが、先ず(2)の点について考えると、副島証人は、その昭和五一年八月六日付検察官面前調書(甲再一52)においては、「同月二三日ころの午後か、二四日ころ、伊藤室長から言われて榎本秘書に連絡し、宴会のアポイントメントを取付けた。」との供述を行っているのであるが、公判廷においては「八月二五日の会合のアポイントメントは伊藤室長の指示で私がとったが、その指示は、伊藤も忙しい人だったから会合の一週間かその前後くらい前に受けたと思う。検察官面前調書に書かれている日ころに指示を受けた記憶はない。右調書の記載は私が述べたというよりも、可能性がないかと尋ねられてうなずいたのかもしれない。可能性から入っていろいろ質問があるし、まあそんなところでしょうということになるわけである。」と証言している。しかし、右証言の一週間かその前後くらいというのが副島の明確な記憶に基づくものでないことは、その根拠が「伊藤室長も忙しい人だったからそう思う」ということにすぎないことから明らかである。また弁護人主張のとおり、被告人伊藤も、副島がアポイントメントを取ったのは八月二五日から一週間よりも前のことであったと公判廷で供述しているのであるが、「それは何か具体的な根拠があるのか」と質問されて、結局は「秘書官に就任してそう遠くない時期のことで、お忙しいからかなり先のご予定をいただいたんじゃないかと思う。」と言うのみで、会合の時期から単に推測をしているにすぎないのであって、これが記憶の根拠をあげた明確な供述ということはできないのである。これに加え、副島は前記検察官面前調書記載の日に同人が被告人榎本に電話をした可能性が存することを、その証言でも敢えて否定しないのであり、前記副島の検察官面前供述の一般的信用性をも考え合わせればこれに副う認定の妨げになるものはないから当該検察官面前供述を採用すべく、結局弁護人主張の(2)の点には理由がない。そうすると、被告人伊藤が1(1)の検察官面前供述の趣旨の電話を被告人榎本にかけたあと、副島がアポイントメント取得の電話を同被告人にかけるというのは自然のことであるから、右(1)の主張も失当であるということになる。
(3)の点の主張については、被告人伊藤の同榎本に対する依頼は、1(1)の供述のとおり、「うちの檜山と大久保が伺いました件」、「トライスターの売込について」よろしく頼むという程度のもので、副島に聞かれて困るような具体的な内容に触れているわけではないし、後記認定のとおり、伊藤は田中に対して一、〇〇〇万円を供与する際も副島に事情を話したうえで同道しているのであり、同人にはそのようなことは知られても差支ないと考えて信頼していたことが明らかである。右主張に理由のないことはいうまでもない。(4)の点についても、いまだL一〇一一型機売込の成否も、全日空の決定がいつになるかも明らかではない段階で五億円引渡についての具体的な話を想定するまでの要はなく、また1(1)の検察官面前供述のようなあいさつ程度のことにL一〇一一型機の販売状況等詳しい予備知識が必要であったとは到底考えられないから、この主張もまた失当であるといわざるを得ない。
4 認定事実
以上を総合して前記1(1)の被告人伊藤の検察官面前供述どおりの事実を認定するのが相当である。
(二) 被告人檜山の同田中に対する再度の要請
1 関係者の供述
(1) 被告人檜山の検察官面前供述
昭和四七年八月二三日のあとヒース英国首相訪日の前に田中総理と会って話した記憶がある。ヒース来日は同年九月中旬で、私は同月二日から同月二四日までアフリカに出張しているので、会ったのは同年八月二四日から同月末までの間ということになる。会ったことは間違いないが総理私邸でか、何かの会合で一緒になったときのことか、はっきり思い出せない。田中総理にトライスターの機体はアメリカだがエンジンは英国のロールスロイス社のものを使っているので、トライスターを導入することは英国の国際収支の改善に大いにプラスになることだから、ヒース首相来日の際そのことを強調しておくことは英国にもひとつの貸しをつくることになり、英米に対して一石二鳥になるということを話したのである。このとき五億円のことについては全く話をしていない。私の話に対し田中総理はよく分ったという態度を見せただけで、とくに意見は言わなかった。(昭和五一年八月一四日付検察官面前調書〔甲再一79・乙16〕)
(2) 被告人大久保の公判廷供述
田中邸訪問後、田中総理がハワイ会談に出発されるまでの間の昭和四七年八月下旬、ある財界人のパーティの席で総理にお目にかかったと檜山社長から聞いた。目白邸へ行ってから間もなくだったという記憶である。話の内容は「総理に呼びとめられて、しばらく総理と話をした。」というようなことであったと思う。社長は会社でわざわざ私に「大久保君、俺は田中総理からちょっとちょっとと呼ばれてね。」というふうに声をかけた。「皆からはずれたところへ連れて行かれて二人きりで話をしたらまわりの者がびっくりしたように俺たちのことを眺めていたよ。」という趣旨であったと思う。コーチャンにこのことをいつ伝えたかははっきりしないが、できるだけそういうことは早く伝えていると思う。
(3) コーチャンの証言
副証12の8/28の欄(PMが檜山と話した)は、総理大臣が檜山と話したことを意味している。大久保と話して知ったことと思うが、それは一種の接待であり、私の記憶では檜山が総理大臣に対してL一〇一一についてもう少しばかり話をする機会があったと私に報告したのである。(コーチャン証人尋問調書二巻)
これに対し被告人檜山は公判廷において、「右の期間中に総理に会ってヒース首相来日に関して話した記憶はない。」と述べている。
2 八月二八日千代新における会合(檜山公判廷供述の信用性)
「田中角栄前内閣総理大臣行動日程(実績)一覧表」(甲一41)によると、被告人田中は昭和四七年八月二八日午後六時三八分から同七時五七分の間「千代新」で「月曜会」に出席していることが認められる。また三井物産秘書課長本間敏雄作成の照会回答書(甲再一64・甲一211)によると、被告人檜山が右月曜会の構成員であること、右八月二八日千代新で月曜会の会合が催され、被告人檜山がこれに出席する旨の回答を出していたことが明らかであり、前記「経費台帳」と題する簿冊(甲二82)によれば、右八月二八日の「月曜会二次会」の費用として料亭中川に丸紅から四万二、六二四円の支払がなされていることが認められるから、被告人檜山が同日の月曜会に出席したあと、自ら幹事となって右料亭において二次会を開催したものと推認することができ、月曜会において檜山と被告人田中が同席したことを認定し得る。そして関係証拠によると前記1(1)の被告人檜山検察官面前供述中の期間に檜山と田中が同席する機会が他にあったとは考えられないから、右1(1)の供述が信用し得るものとすれば、両被告人の会った場所というのは右千代新の月曜会ということになる。
ところで被告人檜山は、公判廷において、「千代新の会というのが記憶にもさっぱり出て来ない。月曜会ではどういう恰好でテーブルなどが配置されていたかも全く記憶に残っていない。八月二八日の出席者は財界の最長老格の方ばかりで、最近は盃交換ということもまずないし、そういう座敷で丸紅だけに関係する個人的なことで総理と話合うことは絶対といっていいほどあり得ない。」と供述している。証人小長啓一は、この種の会合の席について一般的に「細長いテーブルをいくつか継ぎ合わせて横に長くし、その真中の上座に総理が、その周囲に年輩の方や財界の経歴の長い方が坐る。月曜会は財界の長老クラスと財界の第一線で働いている経営者を構成員にしており、八月二八日の月曜会出席者の顔ぶれを見ても檜山氏は財界活動のキャリアからみると末席の方ということになると思う。酒が入って雑談ということになるが、大体自分の席に坐ったまま歓談するのが通例であった。田中総理は日本酒はあまり飲まずスコッチ・ウイスキーを飲んでいたから、総理のそばへ行って献盃ということもなかった。」と証言している。しかし、財界の長老、首脳が列席し、末席に坐っていたからといって、酒が出て雑談が交わされている席において、檜山がその検察官面前供述のような話を被告人田中に対してする機会が絶対にあり得ないというのは不自然というほかなく、右檜山公判廷供述は疑問であるといわなければならない。
3 檜山検察官面前供述の信用性と認定事実
これに対し、1(1)の被告人檜山の供述は、1(2)(3)の被告人大久保及びコーチャンの各供述と相応している。右大久保、コーチャンの供述は符合しているうえ、コーチャンのつけていた前記副証12のメモの日付と月曜会の会合の日が合致していること、大久保の供述が詳細、具体的に檜山の話しぶりを描写していて迫真性があることに鑑み、右檜山供述はこれら大久保らの供述によって裏付けられているということができる。また、被告人檜山の取調に当った安保検事は、「八月二三日のあとトライスターのことを田中総理に重ねて話したことはないかと尋ねていたが、被告人檜山は一回だけだと言っていた。ところが何かの機会に同被告人は縮刷版を見ていて、『検事さんありましたよ。』と言うので何のことだろうと思ったら、ヒース首相が来日するという予定記事を開いており『これを見てはっと思い出したんですよ。記憶というものは忘れるもんですね。』と言って、1(1)の供述を始めた。」と証言しており、この証言は内容が極めて具体的であり、かつ自然であって十分に信用し得るものというべく、右の経緯で被告人檜山が任意に供述するところを録取した前記1(1)の検察官面前供述もまた以上に述べた諸点を考え合わせ、十分の信用性を肯認されるべきものと考える。
以上の証拠関係に基づき、昭和四七年八月二八日、被告人檜山は料亭「千代新」において開かれた月曜会の宴席で被告人田中と会い、同被告人に対して前記1(1)の検察官面前供述のとおりの内容の話をし、同被告人はよく分ったという態度を見せた事実を認定することができる。
(三) 昭和四七年一〇月上旬の被告人伊藤の同榎本への問合せ
1 被告人伊藤の検察官面前供述
昭和四七年一〇月上旬ころ、私はロッキードの件で榎本秘書と電話で話した記憶がある。このころ檜山社長から「総理にお願いして一か月以上経った。業界の情報では全日空に関してトライスターが有利だと言われているが決定的な状況には至っていないらしい。どんな見通しなのか榎本秘書から聞いてみてくれ。」と言われ、榎本秘書に電話した記憶がある。このとき榎本秘書は調べたうえですぐ私に電話をくれたように思う。同秘書は「トライスターに決まる見込はあるのですが、いろいろな動きがあって最終的に決着がついたということはまだ言えません。総理がトライスターに決まるよう努力中です。」と私に言ったので、早速そのとおり檜山社長に報告した。(昭和五一年八月五日付検察官面前調書〔甲再一90・乙34〕四項)
2 関係者の供述
被告人檜山は公判廷において、被告人伊藤にL一〇一一型機売込について情報収集をしろとの指示をしたことは全くないと供述しており、被告人榎本もまた、「伊藤が全日空の機種選定につき電話で問合わせてきたことはない。私がその電話に回答するとしたら、調べるすべがなく、どんな方法をとったらいいか分らない。」と公判廷において供述している。被告人伊藤も、公判廷においては、「右検察官面前供述のような事実は全くなかった。右の供述をしたのは、取調検事から、『コーチャンに会ったことがあるはずだ。』と何日にもわたって執拗に言われ、認めないと、そんな馬鹿なことがあるかと言わんばかりに大変叱られ、最後には『そんなものは記憶の問題じゃない。』とまで言われて非常に困惑していたところ、『全日空が買う飛行機について何か調べさせられたことがあるだろう。』と言われ、私は全日空で存じている役員方はいない、全日空に直接お願いすることでもない、またそんなことは私の仕事でもないと非常に困惑していると、『じゃ榎本にきいたことがあるんじゃないか。八月にもそんなことで話してるぐらいだから当然あるだろう。』ということであったかと思うが、榎本にきいたんだということにとうとうされてしまった。」と述べている。
3 伊藤検察官面前供述の信用性の検討と認定事実
被告人伊藤を取調べた松尾邦弘検事は、取調中同被告人に対して、コーチャンと会ったことはないかということを何回にもわたって問い質したが同被告人は否定を続け、そんな問題まで記憶がないというのは釈然とせず、言いたくないのか、何か思惑でもあるのかと思って「記憶の問題ではないんじゃないか。」とまで言った旨証言し、その点では右被告人伊藤の公判廷供述と符合している。しかしながら、同被告人は右の追及にも拘らずコーチャンと会ったことはついに認めなかったのであるが、その代り検事の追及、誘導に負けて被告人檜山及び同榎本に関する前記の内容の事実を述べるに至ったと主張するのである。しかしながら右の事実は本件五億円供与に関し請託の存在を裏付けるとともに、上司の被告人檜山及び親交ある被告人榎本、ひいてはもと内閣総理大臣たる被告人田中の事件への関与を強く裏付け、これらの者たちにとって極めて大きな不利益となる重要な事実なのであって、これが真実でないならばコーチャンと会ったことについては否定を貫いた伊藤が認めることは、およそ考えることができないものというべきである。また、右の事実は、被告人檜山も同榎本も供述していないのであり、検察官として誘導あるいは押付けることができない性質のものであるから、被告人伊藤が自ら述べたものとしか考えられないのである。被告人田中及び同榎本の弁護人は、コーチャン証言には被告人大久保が同伊藤を呼んでいわゆる陰謀話(前出)を伝え、情報をとるよう依頼した旨の記載があるから、右事実を検事はよく知っていたと主張しているが、陰謀話には被告人檜山も榎本も登場せず、それと前記1の伊藤の検察官面前供述とは内容がかなり相違しているのであって、陰謀話をもとにして検事が押付けて右検察官面前供述をさせたものとは到底考えることができない。
また右弁護人は、右供述にかかる事実は、(1)問合せの発意が被告人檜山であり、その実行が売込と全く関係のない被告人伊藤であって、売込の責任者たる被告人大久保が全く登場しないのは社会常識に反する、(2)檜山がどのようにしていかなる「情報」を得たかが何ら明らかにされておらず、当然機械第一本部が主体となって収集した情報なるものがなければならないのにその点が全く無視されている、(3)右調査の結果檜山らがこの件をどう処置したかについて何らの主張も立証もないことに照らして不自然、不合理であると主張している(なお、すでに前に認定した諸事実と異なる点を前提とした主張もなされているが、採り上げない。)。しかしながら、右検察官面前供述のいうところは、被告人檜山が機械第一本部による通常の営業部の活動等を通じて得た「業界の情報」とは別に、政治家ないし行政機関を通じて情報を得ようとしたというものであることが明らかであり、そのため檜山が、田中の秘書であり五億円授受につき田中側の担当者として指名された榎本に尋ねるよう伊藤に求めたということは、伊藤が榎本をよく知っていると被告人檜山は考えていたし、五億円の件では伊藤と榎本との間で直接受渡をすることになっていたうえ、関係証拠によると、政治献金等を扱う社長室長の職務柄伊藤は政界の事情に通じていたと認められることに徴し、当然のこととみることができ、大久保がこれに関与しなかったとしても何ら異とするに足りないし、伊藤から調査結果の報告を受けて檜山らがこれにつき何らの行動に出なかったとしても、これによって右伊藤の検察官面前供述が不自然となるという関係にないことは自明のところというべきである。弁護人の前記主張は失当であるといわなければならない。
また、被告人伊藤の弁護人は、(1)前記1の検察官面前供述のとおり被告人檜山が伊藤に命じたというためには、檜山が、航空機の販売状況について榎本に尋ねれば事態が分るということまで認識していなければならないが、檜山がそのような認識を有していたとの証拠はない、(2)右1の検察官面前供述では檜山の言葉として「全日空に関してトライスターが有利だと言われているが、決定的な状況には至っていない」と言われたことになっているが、同被告人がこのような認識を有していたと認めるべき証拠はないと主張している。しかしながら、内閣総理大臣の政務担当秘書官である被告人榎本に尋ねれば、同被告人が被告人田中あるいは他の政治家に尋ね、これらの者に行政機関を介して全日空に問合わせるなどしてもらい必要な情報を得てくれるものと被告人檜山が期待していたことは容易に推認し得るところというべきである(榎本は前記2のとおり、1の供述のような問合せを受けても調べるすべがないと供述しているが、右の点に加え、同被告人は判示のとおり自由民主党及びその前身である民主自由党に長く勤務し、本件当時は田中の政務担当の秘書官をつとめていたのであって政治家に知人も多く、右のような情報を得る手段が種々存したことは容易に考えられる。)。弁護人の右(1)の主張は失当である。
また、(2)の主張については、後記認定のとおり、昭和四七年九月ころには丸紅の航空機売込担当者にはL一〇一一型機が有利であるとの情報がもたらされていたけれども、いまだ予断を許さないと考えられる情勢であったのであり、この点は前記1の供述中の被告人檜山の言葉と合致している。後に詳細に説明するとおり被告人檜山はこの売込に大きな関心を有していたと認められるうえ、被告人大久保の公判廷供述によると同被告人は全日空若狭社長から機種選定の時期について話を聞くとそれをその都度檜山に報告していたなど、売込状況について折り折りに報告していたものと認められる。そして輸送機械部長作成の大久保常務あての「L一〇一一現状市川会長ヘ報告ノ件」(昭和四七年九月一二日付)と題する書面(甲二72〈16〉)には「昨日の大久保常務―松田大阪空港支店長会談の内容を考えると、ここ二、三日中に『全日空L―一〇一一に決定か』というようなニュースが出る可能性が極めて僅かではあるが考えられる。L一〇一一プロジェクトは全社的な性格を持ち、かつ、現在は社長が不在でもあるので、一応儀礼的にも会長に対して現状報告と機械第一本部の見通しを連絡してもらえればベターと考える。」旨記載されており、その内容に以上の諸点を考え合わせると檜山には前記のような九月の売込担当者の把握していた情勢が報告されていたことは疑いの余地がないというべきであり、弁護人の前記(2)の主張は理由がないといわざるを得ない。
そして右の諸点に徴すると、却って被告人伊藤の前記1の検察官面前供述の内容は自然であるということができ、以上を総合し、これに伊藤の検察官面前供述及び公判廷供述につきこれまで縷々述べてきたところを考え合わせれば、前記1の検察官面前供述どおりの事実を認定することができる。
(四) 昭和四七年一〇月一四日の田中・檜山会談
1 関係者の供述
(1) 被告人檜山の検察官面前供述
昭和四七年一〇月一四日の早朝、私はかねてから考えていた日中貿易に関する三原則についての田中総理の意見を伺うべく同総理私邸を訪問し、総理と二人だけで面談した。三原則の話が一とおり終ったとき、田中総理から「ところでこの前頼まれた例のロッキードの件はうまくいっているでしょう。心配はないから。」と言われた。それで総理が関係閣僚らを動かしてうまくやってくれているんだなあと思い、「ああお陰さまで。」と言って頭を下げた。そのときはあらためて頼まなくとも大丈夫だと思ったのでとくにトライスターの件は話さず、間もなくおいとました。(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔甲再一77・乙15〕九項)
(2) 被告人大久保の公判廷供述
昭和四七年一〇月に入ってから、檜山社長が田中総理を訪問した上での話として、トライスターが好調にいっているということを言っていた。それは同月中旬のことではなかったかと思う。檜山社長から言われたことは「田中総理も結構うまくやってくれているらしいよ。」という趣旨であった。この話はコーチャンに「檜山が総理にお目にかかったら非常に順調にいっておるという話だった。」と報告した。
(3) コーチャンの証言
副証12に「10/14檜山がPMを訪問した―すべての事が有利」とあるのは檜山が総理大臣に会ったことについての大久保からの報告であった。そして彼はさらに檜山がこの競争に参加したことが非常に有利な状況にあると言った。
この点について、被告人田中は、昭和四七年一〇月一四日に被告人檜山が来宅したことは事実と思うが、用件については全く記憶にないと供述している(昭和五一年八月一四日付検察官面前調書〔乙51〕)。被告人檜山は公判廷においては、「この訪問で日中貿易三原則の話はしたが、ロッキードの話はなかった。総理はいろんな方と面会してどんどん処理していくので、私が伺ったことについて、『こうだろう。』、『ああそうですか。どうもありがとうございます。』と言葉を交わすのが普通で、案件以外のことを言われるはずがない。一〇月一四日の前後ころに大久保からトライスターの売込の進行状況について聞いたか聞かないか分らない。私は仕事のことでコーチャンと話したことは全くないから、検察官面前供述のようなことを同人に伝えたことはない。」と供述している。
2 各供述相互の符合と信用性
検察事務官作成の昭和五一年八月一〇日付捜査報告書(甲一50)に関係証拠を総合すると、被告人檜山が昭和四七年一〇月一四日に被告人田中私邸を訪問し同被告人と面談したことは明らかである。そして前記1(1)ないし(3)の各供述を通観して明らかなとおり、右各供述は互いに非常によく符合している。被告人田中及び同榎本の弁護人は、右大久保供述は伝聞証拠で証拠能力を欠くと主張しているのであるが、右供述は田中が実際にそのような発言をしたという立証事項であるならば証拠能力を欠くことになるけれども、丸紅における売込活動の経緯及び状況の立証、さらには檜山の前記1(1)の検察官面前供述の信用性の立証のためには、檜山が大久保に対して前記1(2)のような話をしたという事実を要証事実として許容されるべきものであることは当然である。なお、被告人大久保は公判廷において「一〇月中旬であったかどうかについての確たる記憶はない。」、「田中総理が何かやってくれているかどうかについてまでは、私は内容を聞いていないので分らない。」などとあいまいな供述もしている。しかしながら、コーチャンの前記日記ふうメモ(コーチャン証人尋問調書副証12)の一〇月一四日の項には、コーチャンの右1(3)の証言どおりの事項の記載がなされており、右証言の内容となっている事項は前記1(2)(3)の各供述及びその他の関係証拠を総合して明らかなとおり被告人大久保以外の者から聞いたものとは考えられないところであり、しかも右副証12のメモは、その内容自体及びコーチャン証言により、大久保その他L一〇一一売込の関係者らから聞いた情報を、その都度、正確に記録していたものと認められ、この記録が一〇月一四日の日付の下に書かれていて、その日付が前記のとおり被告人檜山が同田中とその私邸において面談した日と合致しており、「すべての事が有利」との記載は檜山の1(1)の検察官面前供述とよく符合しているから、大久保がその1(2)の公判廷供述どおり、檜山から聞いた田中との会談についての話を、そのころ、そのままコーチャンに伝えたことは疑いを容れる余地がないといわなければならない。被告人檜山が、同田中から言われもしないのに、作り話を被告人大久保に話す理由は全く考えられないところであるから、この点をも考え合わせれば、檜山の前記1(1)の供述は信用性の極めて高い諸証拠によってその信用性を十分に裏付けられているということができる。
3 被告人檜山の右検察官面前供述の信用性
被告人檜山は右検察官面前供述について、公判廷で、「私が絶対にそういうことはないと言ったのに、いやそんなことがあるかとの押問答があったような気がするが、私が否定するのに検事が勝手に書いたものである。」と述べ、とくに「閣僚を動かすなんてまあ私の方は考えられないことである。」と供述している。しかしながら他方右の点については、「押問答になったかもしれないし、そのへんは押問答なしに書かれたのかも分らない。」とあいまいな供述もしている。そして証人安保憲治は、右検察官面前供述がなされるに至った経緯について、「田中に頼んだあと確かめてみたのかと檜山に尋ねたところ、同人は『一国の総理がよしゃよしゃといって引受けてくれた、しかも五億円がぶら下っているというのに、いちいちどうなったんですかとか見込をきくのは大変失礼にあたる。当然やってくれるという大船に乗った気持でいたが、何かの機会にひょっこり田中先生の方から言われたんですよ。』と言い、ただそれがどんな機会のことか思い出せないと言っていたが、新聞の縮刷版を見ているうち、日中問題の記事を拾い出して、この問題のことで田中私邸に伺ったことを思い出したと言い、新聞の首相官邸欄の中から一〇月一四日の日を特定した。」と証言している。右証言にかかる被告人檜山の記憶喚起の経過は自然であり、同被告人の検察官面前供述及び公判廷供述についてこれまで述べて来た諸点に徴し、前記1(1)の供述の信用性は高いというべきである。
4 認定事実
以上を総合すると、右1(1)の供述どおりの事実は優に認定することができるというべきである。そして、右に認定した被告人田中の同檜山に対する話しぶり、及び前記(三)3において認定した事実を考え合わせれば、被告人田中がL一〇一一型機の全日空に対する売込につき関係者に働きかける等の協力を行っているものと被告人檜山、同大久保及びコーチャンが認識していたことは十分合理的に推認することができるといわなければならない。
(五) 五億円の支払と小佐野賢治の関係
1 関係者の供述
(1) 被告人伊藤の供述
(検察官面前供述)昭和四八年春過ぎころ、檜山社長が私に「ロッキード社から田中総理に行く金の件に小佐野が一枚噛んできている話を聞いた。田中総理へ行く金は小佐野を通すのが通例だという話も聞いた。榎本秘書を通じて田中総理側に、小佐野がこの件にどう関係しているのかきいてみてくれ。」と言った。私は早速榎本秘書に電話を入れて「例のロッキードの金の件で小佐野氏が一枚噛んでおられるという話もうちに入っているのですが、小佐野氏はこの件にどう関係しているのですか。」ときいた。(昭和五一年八月五日付検察官面前調書〔甲再一90・乙34〕六項)
(公判廷供述)榎本秘書はその場であったか後程だったか「それは関係がない」という返事をくれた。その返事はたしか社長に申上げた。
(2) 被告人大久保の公判廷供述
はっきりしないが昭和四八年の春ごろではなかったかと思う。檜山社長から、田中総理に対する五億円の件について、小佐野氏とは関係なしにしてほしいと聞いた。いっしょくたにしてくれるなという意味にとった。
(3) 被告人檜山の検察官面前供述
昭和四八年の初夏のころではなかったかと思う。大久保から聞いた記憶であるが、「小佐野の方から『ロッキードの件で田中総理にあげる金は俺の方に任せろ。』と言って来ているが。」と聞いた。小佐野とは一面識もなく、また電話等で話したこともないので一体何を言っているのだろう、どこで五億円の件を聞いたのだろう、田中からの話ならともかく、小佐野に渡すべきでないと思った。私はそのことを伊藤に話しただろうと思う。というのは、それから間もないころ、伊藤から田中総理の方ではあの金は小佐野氏とは関係なしにしてもらいたいと言っていた旨報告を受けた。それで私は大久保にその旨話したように思う。(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔甲再一77・乙15〕一一項)
(4) 被告人榎本の検察官面前供述
(五億円のうちの一回目に受領した一億円につき用意ができる旨の電話をもらった記憶がある。)このような電話のやりとりの時だったと思うが、伊藤から「例の件について小佐野さんから『俺が田中に通じてやろう。』とおっしゃっていますが、それでもよろしいのでしょうか。」という問いかけがあり、私には田中先生と小佐野の関係がこの五億円をめぐってどうなっているのか事情が分らなかったものだから、「先生にお伺いしたうえでご返事します。」と返答し、そのことを田中先生に伺ったところ、先生は即座に「いや、あれは小佐野は関係ないんだよ。いいんだよ、君でいいんだよ。」と言われた。そこで伊藤に「先生に伺ったら小佐野ではなくて私でよいそうですから。」と返事をした。(昭和五一年八月一二日付検察官面前調書〔甲再一87・乙53〕一項)
右各供述につき、公判廷において、被告人榎本は自己の(4)の検察官面前供述を全面的に否定し、被告人伊藤から右供述にあるような問合せがあったことはないと供述しているが、伊藤及び檜山はいずれも本件五億円供与の件に小佐野が介入するとか、関係している旨の話があったことは認めているものの記憶がはっきりしないことを強調している。
2 各供述相互の符合と信用性
以上1(1)ないし(4)の各供述は、本件五億円について小佐野賢治が介入、関係するという話があって、そのような介入を認めるべきであるのか否かを被告人伊藤が同榎本に問合わせ、同被告人から小佐野は関係がないとの回答を得たとの点で互いによく符合している。ことに小佐野が本件五億円供与の件に介入する等の話があったことは、丸紅三被告人が一致して公判廷において認めているのであって、注目を要するところといわなければならない。被告人田中及び同榎本の弁護人が指摘するとおり、丸紅関係者の供述でも誰がこの話の出所であるのかについては、区々に分かれていることは前記1(1)ないし(3)のとおりであるが、右のような核心的な部分で極めてよく合致している以上、結局実際上意味のある事態を何ら招来することもなく終ったこの話について、細かな点における関係者の供述間の食違いは、それらの供述の信用性を損なうものではない。右弁護人は実体の全くない事柄を検察官が作出したものであると主張しているが、検察官が押付けてこれだけの話が作り出せるものであるならば右のような食違いを残さないということも容易になし得たはずであり、何よりも丸紅三被告人が公判廷においても大筋において右の話と合致した供述を行っていることの説明は右主張によっては困難である。結局、丸紅三被告人の検察官面前供述の信用性につきこれまで指摘してきた諸点に、前記のとおり被告人伊藤も同檜山もそれぞれの検察官面前供述を公判廷においても大筋においてこれを維持する点が多く、細かな点をあいまいにしているというべきであること、被告人田中及び同榎本の弁護人が、丸紅三被告人が互いに符合する供述を行っているのは「丸紅の事情」があるからだと主張しているけれども全くそのような事情はうかがい知ることができないこと、被告人榎本の検察官面前供述もまた丸紅三被告人の前記1(1)ないし(3)の各供述と非常によく符合していることを考え合わせると、前記1(1)ないし(4)の各供述の信用性は高いといわなければならない。
3 被告人榎本の検察官面前供述の信用性
もっとも被告人榎本は、前記1(4)の自己の検察官面前供述につき、「検事から伊藤がそう言ってるぞと言われて迎合した。そんなことがあるはずない話であるから、ないと私は内心思ったのであるけれども、そう言ってるというもんだから迎合して、もし電話があったとすれば関係ないことだから関係ないと言うはずだと思って、田中先生にお伺いを立てて回答を得たという話を適当に作って供述した。実体はないんだから、あとの話なんかどうでもいいというふうな気持が私を支配していた。」と公判廷において述べて、右検察官面前調書には任意性も信用性もないと主張しているが、右公判廷供述自体まことに不自然な内容のものというほかはなく、また、前記1(1)の被告人伊藤の供述中の同被告人の榎本に対する問合せの言葉と1(4)の榎本検察官面前供述中のそれとは、両者を対比して明らかなとおり、かなり相異しているのであって、検事が誘導したものとは考えられないこと、右榎本検察官面前供述は、内容が極めて具体的であって、検事が誘導し、榎本が作り話をして捏造された類のものとは到底考えることができず、後記のとおり、同被告人の検察官面前供述には一般的に任意性を十分肯認し得るうえ、信用性も高度であるというべきこと、いかに誘導されたとはいえ、同被告人が本件五億円と田中との関係を明らかにし、田中に極めて不利益となるような作り話をしたと考えることが困難であることを総合すると、右1(4)の検察官面前供述については、任意性はもとより信用性も十分肯認し得るといわなければならない。
4 客観的情況との整合
後に認定するとおり、小佐野賢治は被告人田中と極めて親しい間柄にあり、かつ、同被告人の全日空に対する働きかけにも一役買ってもともと本件と深くかかわっていたうえ、コーチャン証言(証人尋問調書二巻)によると、昭和四七年九月ころ、小佐野はロッキード社の依頼を受けて、わが国におけるL一〇一一型機販売のため、従前から政府部内における情況の確定や情報提供の活動にあたっていた児玉誉士夫に協力して同様の活動を行うことになったこと、右小佐野が協力することになったことによりロッキード社が児玉らに対して支払う報酬は五億円増加することとなったことが認められるから、小佐野はロッキード社とも緊密な関係にあり、何らかの事情で、本件被告人田中への五億円供与の話を知って、それに介入するような言動をなし、それが丸紅関係被告人らの耳に入ったということは十分あり得るところで、本件小佐野関与の話は客観的状況とも整合しているということができる。
なお、前記のとおり、小佐野関与の話が出た時期についての各被告人の供述はまちまちで、かつ、あいまいであり、被告人伊藤は検察官面前調書ではこれを「昭和四八年春過ぎころ」と供述しておりながら、公判廷では五億円についての催促があったあとと思うと述べるに至っている。これに加え、被告人榎本が、五億円のうちの最初の一億円についての連絡をしているようなときに小佐野関与の話が出た旨供述し、具体的な出来事と関連付けて記憶を喚起しているものと考えられることに鑑みると、本件小佐野関与の話は、前記認定の本件五億円の催促のあと、昭和四八年八月の本件五億円の第一回分の支払がなされる前ころに出たものと認定するのが相当と考えられる。
5 認定事実とその意味
以上述べた諸点により前記1の各供述の信用性を検討し、これらに関係証拠を総合すると、
昭和四八年八月ころ、被告人檜山は、本件五億円供与の話に小佐野賢治が一枚噛んできており、その金の支払は同人を通すよう言っている旨聞知したことから、被告人伊藤に対して被告人田中側に、小佐野がこの件にどう関係しているのかきくよう指示し、伊藤は被告人榎本に対し、小佐野と右五億円の件の関係につき問合わせた。そこで被告人榎本が同田中に尋ねたところ、同被告人は「いや、あれは小佐野は関係ないんだよ。いいんだよ。君でいいんだよ。」と言うので、被告人伊藤に「先生に伺ったら、小佐野は関係なく、私でよいそうですから。」と返事をした。
との事実を認定することができる。右事実は本件五億円供与の約束の存在、右約束への丸紅三被告人の関与の程度を裏付ける重要な情況証拠であるといわなければならない。
七 被告人田中の関係者に対する働きかけ
(一) 小佐野賢治を介した全日空渡辺副社長に対する慫慂
1 関係者の供述
(1) 小佐野賢治の検察官面前供述
時期について確かな記憶は出て来ないが、田中・ニクソン会談があって間もないころのことであった。砂防会館の田中先生の事務所へ行ったときに、いろいろ雑談をしたが、その際田中先生から、「実はこの前のニクソン会談があったときに、ニクソンから日本が導入する飛行機はロッキードのトライスターにしてもらえれば有難いんだがなあ、そうしてもらえないかなあと言われたんですよ。全日空の方はどういう方針かなあ。」と言われた。そのとき私は全日空に一度きいてみようか位のことを言ったように思うが、はっきりした記憶はない。田中先生が全日空に右の話をしてくれと言ったかどうか、記憶が定かでない。大体政治家の話は、口ではっきり言わず遠回しに言うことが多いのでその言葉そのものから判断できないこともある。だから言葉で全日空に伝えてくれと言わなくてもそのような趣旨に受取ることもできたのである。(昭和五一年九月二四日付検察官面前調書〔甲再一74〕一項)
全日空の渡辺尚次とは会ったことが何回もある。四七年九月か一〇月ころ、国際興業でも会った。そのころ会ったときに、田中・ニクソン会談の際、ニクソンが日本でロッキード社のトライスターを導入してもらえば結構だがと田中総理に言っていたそうだと話したように思うが、その記憶がいまひとつはっきりしないのでよく思い出しておく。(昭和五一年九月一七日付検察官面前調書〔甲再一72〕六項) 渡辺は何か用事があって来たのか私が呼んだのか覚えていない。航空会社は航空事業を行ううえで政府の行政指導を受けるほか機種の選定、路線その他いろいろなことについて許可を受けているものと理解していた。だから関係閣僚等を指揮監督する総理のような権限をもっている方からの要望については不問にできない立場に置かれていることは承知していたわけだが、私のような何の権限もない者がとやかく言ったところでさしたる意味もないわけだから、私から全日空に圧力をかけるようなことは何ひとつしていない。渡辺には別に目的があって話したものではなく、何かの話のついでに、こんなことがあったそうだと教えただけである。(同月二一日付検察官面前調書〔甲再一73〕三項) 田中先生から頼まれたからという気持だけで渡辺に話したのではない。コーチャンから全日空に対するトライスターの売込について何回か頼まれていたし、田中先生も私にわざわざ話してくれたことだから、この際全日空にトライスターを買わせることが両国のためにもなるのだということを理解してもらうためだった。しかし全日空に対して圧力をかける気持で渡辺に話したものではない。(同月二四日付検察官面前調書〔甲再一74〕一項)
(2) 渡辺尚次の検察官面前供述
昭和四七年九月中旬ころ、国際興業本社応接室で小佐野賢治と会ったが、その際、同人からハワイにおける田中・ニクソン会談の際、田中総理が小佐野の経営するホテルに泊ったこと等につきひとしきり自慢話があったあと、「実はその時、角さんがニクソンと会談したあとで、ニクソンから全日空がトライスターに決めてくれるといいんだがという話があったそうだよ。この間、角さんに会ったらそう言っていたよ。」という話があった。言い方は婉曲だったが要するに小佐野としては全日空にトライスターを採用してくれということを言おうとしたのだと思った。私はそのように受取った。私は当らず触らずに「大詰に来ておりますので近い内決定するようになると思いますよ。」とだけ言って社内の動向等詳しい話は一切しなかった。私は小佐野の話をその直後に若狭社長にそのまま伝えた。社長は、「ああそうか、ニクソンならロッキードの関係があるから、その位のことは言うだろう。」等と言って別に驚いた様子もなかった。(昭和五一年八月九日付検察官面前調書〔甲再一59〕四項)
両名ともに、証人として尋問を受けた際には、右供述内容を一切否定し、各検察官面前調書に右のような供述記載がある理由について、小佐野は「否定したけれども、安保検事から渡辺も言っているし、若狭も言っているんだから思い出しなさいと責められ、押問答したが根負けしたのである。」と証言し、渡辺は「田中総理がハワイ会談の際、小佐野のホテルに泊ったと言われた気が若干すると検事に言ったところ、検事から、『そういう話が出ればそれだけのことはあるまい。おそらく何か飛行機の話でも出たんじゃないか。』ということを繰返し繰返し言われるうちに、小佐野と何回か会っている間に機種選定のことをきかれたことが頭の中にごっちゃになり、さらに当時の新聞雑誌にそういうことがいろいろと書かれており、それらを見たことが頭の一角にあったとも思う。何か聞いたような気がするということで署名したからである。何故小佐野がそういう話をしたかについてのくだりは、私は頼まれたというような記憶は全くないと言ったのに石川検事と論争して理屈で負け、無理に書かれてしまった。」と証言している。また被告人田中は、「ニクソン大統領が小佐野供述にあるようなことを希望していた事実はなく、小佐野にトライスターのことを話したことはない。」旨供述し(昭和五一年八月一四日付検察官面前調書〔乙51〕)、若狭も渡辺から同人の検察官面前供述のような話は聞いていない旨証言している。
2 両検察官面前供述の符合と信用性
両者の右1(1)(2)の各検察官面前供述は、小佐野が昭和四七年九月ころ、渡辺に対して、被告人田中が「ニクソンがトライスターを買ってもらえば有難いと言っていた。」旨話したということを伝えたという点で符合している。もっとも、小佐野は「ニクソンが日本でロッキード社のトライスターを導入してもらえば結構だが。」と言っていた旨被告人田中から聞いたと述べ、渡辺は、「ニクソンから全日空がトライスターに決めてくれるといいんだがという話があった。」ということを被告人田中の言葉として伝えられたと供述し、その文言には若干の食違いがある。しかし右(1)(2)のとおり両名ともに被告人田中の言葉を、全日空にトライスターを買わせるためのものと考えた旨の供述をしていることを考え合わせると、全日空がトライスターを購入することを、ニクソン、田中の両首脳が望んでいる旨の話が小佐野から渡辺に対してあったという点で両供述は完全に合致しているということができる。
小佐野は、前記のとおり、「渡辺も言ってるし、若狭も言ってるんだから思い出しなさい。」などと両名の供述が符合するように取調検事が作為したかの如き証言をしているのであるが、両名の証言中には右のような食違いが存するのであって、検察官が小佐野に、渡辺の供述と符合する供述をさせようと作為し、それを遂げたというのであれば、何故このような食違いがそのまま残されているのかの説明ができないのである。そして前記のとおり、小佐野の検察官面前調書には「確かな記憶は出てこない。」、「はっきりした記憶はない。」、「その記憶がいまひとつはっきりしない。」など、あいまいな点はそのまま録取されていることが明らかであって、同人が取調に当り、記憶していること、いないこと、記憶が十分ではないことなどを区別して慎重に供述していたことが看取し得るのであり、同人の供述の任意性につきのちに詳述する諸点とも考え合わせ、取調検事が符合する供述を獲得すべく作為する余地はなかったものということができる。
以上のような事情のもとで、小佐野・渡辺両検察官面前供述が符合しているということは、これらがともに高度の信用性を有していることを示すものというべきである。
3 両供述と客観的事実との整合
弁護人主張のとおり、田中・ニクソン会談の際、両首脳の間でトライスターに関する話が出たことを証明する証拠はなく、そのような話は出たことがない旨の証拠は種々提出されている(証人宇川秀幸、同小長啓一の各供述、牛場信彦・沼田貞昭各作成の各回答書〔弁546―2、弁547―2〕)。しかし、本件における問題は、ハワイでニクソンが現実にトライスター購入を望む旨の発言をしたか否かではなく、被告人田中が1(1)(2)の各検察官面前供述のとおり、小佐野を介して全日空の渡辺副社長に働きかけた事実があったか否かなのであり、そのような働きかけの手段として、田中が、真偽はともかく、ニクソン大統領の言葉なるものを作り出して話すということが証拠関係上考え得ないというわけではないから、ハワイにおいて民間航空機の話がニクソン・田中両者の間に出なかったという理由で、右1(1)(2)の各検察官面前供述の信用性を否定することはできないということになる。
同様に、ニクソンが現に「全日空」や「トライスター」の名を口にしたか否かは右各供述の信用性とかかわりのないことであるから、ニクソン大統領が全日空の名を知らず、同社が大型航空機を選定中であること、ロッキード社の大型航空機がトライスターと呼ばれていたことを承知していなくとも、これを理由として右各供述の証明力を否定することはできないのである。問題は被告人田中が右のような言葉を発したとされている以上、同被告人がこれらの事項を知っていたか否かということである(なお被告人田中及び同榎本の弁護人は、小佐野検察官面前供述中の田中発言なるものは伝聞事項であるから証拠能力はないと主張しているが、田中発言の内容である、ニクソンが日本が導入する飛行機はロッキードのトライスターにしてもらえば有難いんだがなあと言ったという事実の証明には、小佐野検察官面前供述は伝聞供述であって証拠能力を有しないけれども、田中が右のような発言をしたことは小佐野が直接見聞した事項であって、これを要証事実とする限りにおいて右供述が証拠能力を有することは多言を要せず明らかなところである。)。この点で問題となるのは、「トライスター」という言葉である。証人若狭得治は、「昭和四七年ころ、トライスターなどという言葉は作られていなかった。そういう愛称をつけたのは昭和四八年に機種決定をしてあと半年ぐらい経って社内で決定したときのことである。だから調書の中にトライスターという言葉がそれ以前のことでもしあるとすれば、その調書がもう既におかしいんだということがいえると思う。」と供述している。しかしロッキード社が昭和四七年七月に日本国内で印刷配布したチラシ(甲二69。家城政徳検察官面前調書〔甲一148〕)には、「騒音測定の結果、トライスターは現在のジェット旅客機の中では最も静かであることが証明されました。ケン・スミス アメリカ連邦航空局次長、世界で最も静かなジェット旅客機ロッキードL一〇一一トライスター」と書かれており、昭和四七年九月八日付朝日新聞の「全日空エアバス六機発注か」の記事の中でL一〇一一型機のことが「トライスター」と書かれている(第五九回公判調書・証人若狭得治の供述速記録添付のもの。若狭は「トライスターとは、三つのエンジンをつけているから、そう呼んだということで、DC一〇もトライスターと呼んでおかしくないはずである。新聞は『トライスター』の語を普通名詞として使っているんじゃないかと思う。」と証言しているが、三つのエンジンということでトライジェットの用語を用いる場合ならともかく、右の記事が固有名詞としてトライスターを用いていることは文面から明らかなところである。)。しかし、この言葉がわが国内で一般的に使われていたかどうか、被告人田中がこれを知っていたかどうかは疑問というべきであり(若狭証言によると、「昭和四八年の中ころに愛称として正式に決める前に、全日空社内でもトライスターという言葉で議論することは全くなかった。」という。)、同被告人が小佐野にこのような英語の愛称を使って話したとは断じ難いところがある。しかし、昭和五一年当時にはトライスターの愛称が広く使われていたことは関係証拠に照らして明らかであり、そのころ取調を受けた小佐野や渡辺が、田中が言っていたL一〇一一型機のことを、田中が実際に使った呼称を忘れ、同被告人が「トライスター」と言ったと考えて供述したということも十分あり得るところと考えられる。このような記憶違いは通常よく経験されることというべきであり、「トライスター」の言葉が入っていることを理由として、1(1)(2)の各検察官面前供述の信用性を否定することはできない。
証人渡辺尚次は、公判廷において、「小佐野は頼みごとをするとき、婉曲にまわりくどい言い方はしない。」と証言している。被告人田中及び同榎本の弁護人は、この点をとらえ、「小佐野は、元来、卒直にものを言う性質で、婉曲に表現をすることはないのであって、小佐野発言はその行動様式に反する。また、もし被告人田中の発言があったとすれば、その重みに鑑み、小佐野としては当然若狭に直接この旨を伝えるのが筋というべきで、何の用件で来たのか当人らにも思い出せないような偶然の出会いの渡辺に対し、婉曲に話すというのは不可解である。」と主張している。しかし内閣総理大臣の機種選定に関する民間航空企業への直接の働きかけは、前記檜山検察官面前供述のような依頼を受けてその実行として行われる場合には、卒直明瞭にL一〇一一型機購入を求めることが憚られるのが当然であり、小佐野が被告人田中の働きかけの一翼を担ったとすれば婉曲に話したというのもまた当然の事柄というべきであって、そのことは右檜山供述を裏付けるものといえこそすれ、小佐野らの1(1)(2)の各供述の証明力を減殺すべきものではない。また、本件においては小佐野が全日空の若狭社長に直接働きかけたとの証拠はないけれども、小佐野が渡辺に話すことによって若狭に伝わることを期待したと推認することはできる。すなわち、渡辺尚次は検察官に対して「小佐野とすれば、私にニクソン云々の話をすれば当然私が若狭社長にその言葉を伝えるだろうと期待していたに違いないと思う。」旨供述しているのである(前記甲再一59の検察官面前調書。もっとも同調書には右供述に引続いて「ただこのような大きな問題を私に話しただけで済ませたとは思わなかった。私のかねてから小佐野から受ける印象からして同人は人の見分け方とか使い方を熟知しているようにみえたので、当社の社内情勢もよく知っていて社長に非常に力があることも承知していたと思う。したがって、あくまで私の想像であるが、私に対する前述の依頼の話と別にやはり若狭社長に対してそれなりの話があったと思う。」の供述が記載されている〔前記甲再一59の検察官面前調書〕。)。また渡辺は若狭を補佐する副社長であり、新機種選定準備委員会の委員長であるから、同人に話しておけば右の話はただちに若狭に伝えられ、かつ、右委員会の結論にも影響を及ぼし得るという事情にあったのであって、仮りに小佐野が渡辺だけに話しておけば足りると考えたとしても、そのことは何ら異とするに足りないというべきである。
さらに、被告人田中及び同榎本の弁護人は、渡辺から話を聞かされたというのに、若狭が何らの行動に出ていないことは社会常識に反するし、仮りに被告人檜山の請託があったとすれば田中としては直接若狭に働きかけたはずであり、小佐野を介する渡辺への働きかけなどは、緩漫にすぎ、的外れで手ぬるく不自然であると主張している。しかし、被告人檜山の供述するような請託を受け、事を秘かに運ばなければならない場合、小佐野を介した婉曲な慫慂の方法を選ぶということはむしろ本件の情況に即した自然な行動であるということができるのであって、弁護人の右主張は失当というほかはない。
以上、前記1(1)(2)の各検察官面前供述の内容たる事実は客観的諸情況に照らしてあり得ないこととはいえないばかりか、むしろ情況に適合し、自然であるということができる。
4 小佐野検察官面前供述の任意性・信用性
小佐野の前記1(1)の検察官面前供述は、同人自身の議院証言法違反の犯罪事実を自認するものであることが関係証拠により明らかであり、被告人田中の検察官に対する昭和五一年八月一三日付一〇丁の供述調書(乙49)及び証人小佐野賢治の当公判廷における供述により明らかなとおり古くから極めて親しい仲にある田中にとって非常に不利益な事実を述べるものである。したがって小佐野は証人として右検察官面前供述と同旨の証言をすることがまことに困難な立場にあると認められる反面、右検察官面前供述が任意性の高いものであれば、それだけ高度の信用性をこれに認めることができる。
小佐野は高血圧症及び狭心症があったうえ動脈瘤の破裂が心配される状態にあり(証人安保憲治に対する証人尋問調書〔刑事二五部・五九回公判。甲四72〕)、医師山口三郎作成の診療録(甲四50)及び安保憲治作成の昭和五一年九月一七日付及び同月二四日付各捜査報告書(甲四75、76)によると、前記1(1)の三通の検察官面前調書が取られた日の小佐野の血圧は最高二三六~二一六、最低一一八~一三〇と極めて高く、脈搏も一〇〇を越え、取調の間の休憩時には血圧降下剤の注射を打ち、酸素を吸入するなどしていたことが認められる。しかしながら、右各証拠に証人山口三郎に対する当庁刑事第二五部の昭和五五年五月二二日の尋問調書(甲四47)を総合すると、この程度の血圧や脈搏はそれ以前にもしばしば見られたのであり、取調が終った日の夜に小佐野が発作を起こすことがあったが、これは必ずしも取調と関係があるとはいえないし、取調のあった日の夜に山口医師が小佐野宅に泊り込むこともなかったこと、小佐野は自分が被告人となっている当庁刑事第二五部の法廷において供述した際には血圧が最高二六〇にものぼり、脈搏も一〇〇を越え、途中休憩をとり、前記同様の注射等の処置を受けながら供述してきたこと、安保検事による取調は、小佐野の自宅において、常に隣室に山口医師を待機させ、必要と思われる都度休憩をとっては同医師に診察させ、同医師の意見を聞きその了承を得たうえで取調を始めるというようにして行われていたことがそれぞれ認められる。
被告人田中及び同榎本の弁護人は、小佐野が狭心症頻発状態で、不安感が悪循環し、倦怠感、無力感が生じたため、執拗な検事の追及に押問答を繰返すうち疲れ果て、調書を読み聞かされても、その内容に十分注意を払う精神的余裕がない病状であったと主張している。そして押問答といっても通常の健康人のするようなものではなく、弱々しく抗議し、検事も執拗に追及し、しかも当初二、三回で終えると言っていた取調を、入院を延期させて続けるなどして小佐野に強い心理的圧迫を与えたのであり、同人は調書を読み聞かされても理解できず、一刻も早く取調検事が立去ってくれることを鶴首した余り、そのまま署名押印したというのである。
しかしながら、前記のとおり、小佐野の検察官面前調書には、渡辺に対してニクソンが被告人田中に話したという言葉を伝えたことについて、「その記憶がいまひとつはっきりしない。」と書かれ、被告人田中と自分との会話についても、「私は全日空に一度きいてみようかくらいのことは言ったように思うがはっきりした記憶はない。田中先生が全日空にその話をしてくれと言ったかどうか、定かではない。」と記載されているのである。これらの事項は極めて重要なものであるから、取調検事が追及しなかったはずはないのであるが、そのような追及に対して常に肯定の調書が作られているわけではないことが、これによって明らかである。また、前記のとおり昭和五一年九月一七日付調書の中にはニクソンが被告人田中に言ったという言葉は誰から聞いたものかが記載されていないのであるが、この点も検事が繰返し追及したであろうことは事柄の内容の重要性に徴して明らかなところである。これについては、同月二一日付調書に「誰からか聞いていたことに間違いありません。」と書かれ、同月二四日付調書になって「当時の記憶を整理してみると田中先生から言われたものであることを思い出した。」と記載されるに至っている。そして証人小佐野賢治に対する当判所の尋問調書によると、右各日の取調の間に同人は自身の弁護人に右の事項について検察官から追及されていることを報告し、その後の取調にどのように対応するかを相談していることが認められるのである。さらに、前記九月一七日付調書には、取調検事から「コーチャンに対して、ダグラス社やボーイング社の幹部の名刺を見せなかったか。」と尋ねられて、「記憶が定かでないのでつぎの調べまでに思い出すようにする。」と書かれているけれども、九月二一日付調書ではこの点に関し、「その後いろいろ考えてみたが、お尋ねの名刺を見せた記憶がない。」となっており、小佐野が最後まで否定を続けている事項も存するのである。同人はこの点については検事から繰返し繰返しきかれたけれども、やむなく相槌を打つというようなことはしなかった旨公判廷において供述しており、同人に対する検察官の取調状況は前記弁護人の主張とは全く異なり、否定を貫こうと思えばそれがなし得る状況であったものと認めることができる。
また、証人小佐野に対する当裁判所の尋問調書をみても、同人は前記検察官面前供述中の「大体政治家の話は、口でははっきり言わず遠回しに言うことが多い。」とのくだりについて、取調検事とのやりとりを詳細、かつ、具体的に再現してこれが調書に記載された理由を説明しており、小佐野が病気のため無力感に襲われ調書に何が書かれているか理解もできない状態になっていたとは到底考えることができない。前記昭和五一年九月二四日付検察官面前調書の、渡辺に被告人田中が言っていたことを話した理由として供述している点について、小佐野は当裁判所の面前で、「押問答したが検事が腹に決めて思い込んで来ていることは、私が言っても聞き入れてくれないということで根負けしたのである。」と証言しながら、それなら内容は分っていながら署名したのではないかと尋問されると、調書の内容は理解できなかった、自分の述べたとおり書かれていると思ったと、前後矛盾する証言をするに至っているのである。ところで、小佐野の検察官面前調書中には、昭和四七年一〇月五日ころ、コーチャンが「ボーイングは日航に、ダグラスは全日空に、ロッキードは将来日航がエアバスを買う際に売れるようにしてやるとのことだがそれでは困る。」と言って来た件(小佐野は検察官面前調書中でこれを誰かの陰謀だと思うと述べているので、以下この件を「陰謀話」という)が書かれており、これについて「私は現在をとるか将来をとるかは大きな目で判断すべきことであると思った。そのようにコーチャンに話しているかもしれないが、言ったことをそのまま覚えていない。」旨供述記載がなされている(昭和五一年九月二四日付調書〔甲再一74〕)。右記載について、小佐野は「検事から何遍も何遍もきかれ、来るたびに思い出せというようなことで本当に疲れ果てて、弁護人に相談したところ、病気を治す方が先決だから、検事さんの言うとおりにしたらどうだと言われ、そのあとは押問答もしないで認めてしまったと思う。」と証言している。しかし、小佐野がコーチャンに話したことについては、右のとおり記憶が十分でないところはそのように書かれているのであって、決して検事の言うとおり認めてしまったものとは考えられない。またこの陰謀話に関し、小佐野は福田太郎に対して電話をかけたかどうか繰返し繰返し取調検事から尋ねられたけれども、電話番号も分らないし、その覚えはないとはっきり否定した旨証言しており、検察官面前調書に「私がこの陰謀に一役買っていたことは絶対にないし、私から流し、あるいはコーチャン、クラッターまたは福田に情報を知らせたことはない。」とある点についても、「そのとおり『そんなこと全然ありませんよ。』と取調検事に話した。これらの点については弁護士に相談していない。」と証言している。そしてニクソン大統領が言っていたということを被告人田中から聞いたという件については前記のとおり弁護士に報告したが、病気を治すのが第一だから検事の言いなりになりなさいと言われたことはないと思うと証言し、陰謀話の場合とどうして違うのかを尋ねられ、「ないものはないんで、それはいいんじゃないでしょうか。」、「陰謀の話は先生方は調べてあるし、調べて自分の方できちっとするからということだった。ニクソンの話の件では調べるとは言わなかった。」など理屈に合わない証言をしている。
以上の証言及び検察官面前調書の内容を総合すると、取調検事から繰返し追及されていたものの、小佐野自身、弁護人と相談するなどして、認めるべき点は認め、あいまいにする点はそのように供述し、あくまで否定しようとする点はそれを貫いたことが看取できるのであって、この点は証人安保憲治に対する当庁刑事第二五部の証人尋問調書二通(甲四72、73)の内容と相応しており、前記のとおり小佐野の病気に対して慎重な配慮の下に取調が行われたことを考え合わせれば、前記1(1)の同人の検察官面前供述の任意性は十分に認められるのみならず、その信用性も高いということができる。
もっとも、証人山口三郎に対する刑事二五部の昭和五五年五月二二日の証人尋問の調書によると、取調中安保検事が一、二度大きな声を出して追及していたこと、別の機会に同検事が調べ中飛び出して来て「一寸興奮させちゃったからすぐみてください。」と言ったので、すぐ酸素吸入等の処置をしたが、小佐野はそのまま発作を起こしてしまったということがあったことがうかがわれるのであるが、仮りにこのような事実があったとしても、以上縷々説明したところに照らせば、小佐野検察官面前供述の任意性、信用性に関する右の判断を左右するに足るものではないというべきである。
5 渡辺検察官面前供述の任意性・信用性
渡辺尚次は、検察官の取調全般について、つぎのとおり証言している。「拘置所に入って幾日も経たないころの夕方近いころのことだが、石川達紘検事の取調中に居眠りをしたため、同検事が憤慨して、『まことにけしからん。こんなに真面目にいろいろきいているのに居眠りするとは何事か。立て。うしろの壁に向かって不動の姿勢で立っておれ。』と言ったので立った。随分長い間立っていたように思うが実際には一〇分か一五分くらいだったんじゃないかと思う。その間検事は、私がよろけたりするようなことがあると『からだを真直ぐにしろ。』と言い、私の立っている脇にやって来て、『お前は部下に全部罪をなすりつけてノホホンとしている。お前が本当のことを言わないために部下がどれだけ苦しんでいるか分らない。全く見下げ果てた奴だ。今まで長い間いろんな人を調べて来ておるけれども、こんな男に会ったことはない。』と言ったりした。そして『お前は副社長という身でありながら悪いことは全部、部下とか他人に責任転嫁してまことにけしからん。お前みたいな男はこの世から抹殺してやる。』というようなことを言い、手を私の顔の前にぐっと出した。その手が私の眼の前でブルブル震えていたから、非常に憤激していたと思う。こんなことを言われてそのときは非常な恐怖心をもった。それがあるから、その後ずっと落ち着いてからも、いろいろ話合って多少私の記憶と違うようなことでも、石川検事の言うことに、『それで結構でしょう。』ということも言ったと思う。また、『拘置所を簡単に出られん。』というような言葉が非常に激烈な調子で言われた記憶もあり、私はある程度知らんことでも迎合していないと、そういうことをされるんじゃないだろうかという恐怖のような気持がそのとき頭の中にあった。」と証言している。
これに対して石川達紘検事は、「勾留三日目の昭和五一年七月一四日午後四時一五分過ぎ、それまで渡辺はふんぞり返って口をへの字に曲げて非常に横柄な態度をとっており、ロッキード社から二〇〇万円と一機あたり五万ドル相当を受取ったことを認めただけで、あとは『わしゃ知らん。』と言ってまともに答えるような空気ではなく、質問中答えず眼をつぶっていたが、そのうちいびきをかき始めた。まともに調べに応じる気持はないと感じ、大声で『渡辺さん』と言って立たせた。自分の方を向くのは照れくさいかなと思い、壁に向かって立たせ、机の横から、『不謹慎じゃないですか。取調中に居眠りをしていびきをかいたのはあなたが初めてだ。部下が勾留されているのに真面目にしなさい。』と言った。立たせるときは『眼を覚ましなさい。立ちなさい。』と言ったのであって、『立て。』とか『不動の姿勢』などとは言っていない。こぶしを前に突き出したことはない。立ちなさいと言ったとき手を前に出して示したのを渡辺は誤解しているか、誇張しているのだろうと思う。『この世から抹殺してやる。』ということは言っていない。そんなことを言ったら馬鹿にされるという気持があったから、そういうことはしていない。」と証言しており、細かな点でかなりの食違いはあるものの、壁に向って立たせたという点では符合している。そしてまた石川検事は、「せいぜい五分くらいと思われる間渡辺を立たせたあと坐らせ、すぐ夕食になった。六時ころから調べを再開したところ、渡辺は冒頭謝り、それまでの態度とは打って変った様子となった。そこで雑談的に説得をし、お互いに身内を失くした話などをし合って意志疎通ができるようになり、渡辺はその後真実を話すようになって、その翌日には『私の知っていることをすべて話します。』と言うに至った。」旨証言しており、同検事が立たせ、叱責したことが、渡辺に供述をさせる一つのきっかけになったことが明らかである。しかし同検事は、「渡辺が恐怖心から記憶にないことも認めたということは全くない。同人は記憶していること、いないこと、分らないことをはっきり区別して述べていた」と証言している。
渡辺が立たされたのは、居眠りをしたからであって、検事の欲するような供述をしなかったからでないことは明らかである。渡辺自身、「卒直に言って、検事の方も一生懸命に調べているのに非常に不覚であったという気持であった」ことを認めている。そして恐怖心をもったということの具体的内容として、「きかれても記憶がはっきりしないから、はっきりした答がなかなかできない。それを言わなければまたいろんなことを言われる。そういう意味の恐怖心である。」、「拘置所に入って、何年か前のことをいろいろきかれ、思い出せ思い出せと何回も言われ、考えてもなかなか思い出せない。半日でも一日でも検事の目の前にいて黙ったままで思い出せと、もう死ぬ思いをした。」などと、右の恐怖心が必ずしも叱責に由来するものであったわけではない趣旨の証言をし、「また叱られるかと思ったか。」との問いに対して、「いや、それは叱られるかもしれないとは思ったけれど、しかしあんな叱られ方というものはそうざらにあるまいと思った。」とか、「その後もまた眠くなることはしょっ中であった。」と答えており、叱られて恐怖心をもったといってもその恐怖心はさほど大きなものではなかったと考えるほかはない。そしてこの叱責の話は、渡辺が主尋問で検察官から証言と検察官面前供述の相異する理由につき、公判三期日にわたり、相異点の一つ一つに関し詳細に問われたときには全く触れることなく、反対尋問に至って突如証言をするに至ったのであるうえ、前記1(2)の検察官面前供述をした理由については前記のように「繰返しきかれているうちに何かそのようなことがあったような気がするようになった。」、「石川検事と論争して理屈で負けた。」と言うほか、「これは社会常識だと言われ、『ああそうですか。』ということになった。」など、叱責とはただちに結び付くことのない事柄を述べているのである。そして渡辺は、検察官から、DC一〇購入のオプション契約の件につき、大庭全日空社長退陣の際同社長から引継ぎを受けなかったかと執拗に問われたが、「全くそんなことがないことは記憶にもはっきりしていたから、そんな馬鹿なことは絶対にないと申上げた。」と述べており、否定しようと思う点ははっきりと否定を貫いているのであって、叱責されて迎合したとの渡辺の供述は信用性に乏しく、また叱責の事実を理由として1(2)の検察官面前供述の任意性に疑いを抱く余地もないというべきである。
ところで、渡辺は右検察官面前供述の内容たる事項について、「今日は記憶がないと言っているが、全くそういう話が話題にも何にも出なかったかと言われると、何かあったかなという気もするし、非常にあいまいもことしている。」と証言しているのであるが、これは同人が前記のとおり認めているように、昭和四七年当時から種々の新聞雑誌で取沙汰され、渡辺も読んでいた疑惑に関する重大な事柄であり、全日空の新機種選定準備委員会の委員長であるとともに同社の副社長として噂の渦中で選定作業に当ってきた渡辺としては、小佐野から実際にその話を聞いたのであれば、それは強い印象として心に残って当然のことというべく、あいまいもことした記憶が存在するなどという程度のこととは考えられない。また新聞雑誌の記事と、小佐野から現実に聞いた話とを混同したということもおよそあり得ることとは思われない。渡辺が「繰返し、繰返し、しつこく尋ねられるうち、そういうことがあるように思った。」、「検事と論争して理屈で負けた。」などと証言していることに鑑みれば、同人は時に理詰の質問を交えて追及を受けたものと推認するのが相当であるが、前記のとおり、同人が取調検事の追及、問い質しを受けながら、否定を貫き通した例もあることを考え合わせれば、その理詰を交えた追及が渡辺の黙秘権を侵害したといい得るほどに強力な精神的圧迫を加え、虚偽の供述を誘発する程度のものであったとは到底考えることができないというべきであって、この点からも前記1(2)の渡辺の検察官面前供述はその任意性に疑いを挿む余地もないというべきである。そして、右供述は、被告人田中にとって非常な不利益となる事項を内容とする重要なものであることに鑑み、これを右のように任意に供述しているということは、その信用性が高いことを示すものということができる。
6 認定事実
前記1(1)(2)の各供述に関係証拠を総合すれば、つぎの事実を認定することができる。
昭和四七年八月三一日及び同年九月一日の米国ハワイ州における日米首脳会談があって間もなくのころ、砂防会館の被告人田中の事務所において、田中はその親友であり、全日空の大株主であるとともに同社の社賓でもある小佐野賢治に対し、「実はこの前のニクソンとの会談があったときに、ニクソンから日本が導入する飛行機はロッキードのトライスターにしてもらえば有難いんだがなあ、そうしてもらえないかなあと言われたんですよ。全日空の方はどういう方針かなあ。」と言った。小佐野は、この話は全日空に伝えてくれという趣旨にも受取り、同月中旬ころ、国際興業本社応接室において、全日空の副社長で、同社の新機種選定準備委員会委員長であった渡辺尚次に対し、田中がニクソンと会談したあと、ニクソンがトライスターを全日空で採用することを希望するとの話をしていたそうだとの趣旨を話した。渡辺は、小佐野を介して田中が全日空にL一〇一一型機の採用を求めているものと理解し、その話をそのまま若狭得治全日空社長に伝えた。
右事実は、前記3で触れたとおり、前記一1(1)の檜山供述のような全日空に対するL一〇一一型機売込に対する協力要請があったことを裏付けるものということができる。
(二) 若狭全日空社長に対する働きかけ
1 関係諸供述
(1) 若狭得治の検察官面前供述
(機種決定を前にして)気にかかったことがあった。それは私が全日空の社長に就任して間もなくの昭和四五年六、七月ころだったが、当時の自民党幹事長であった田中角榮から会社にいた私に対し、電話で「三井物産からDC一〇を買うように口添してくれと言ってきているから、検討してくれ。」と言われたことがあった。その当時は「まだなにもお答えできない状態です。」と申上げておいたが、その後なんにも言ってこられなかったので、そのままにしていた。ところが、全日空において機種選定作業が大詰に近づいた昭和四七年一〇月二〇日ころの夜、私の家に三井物産の石黒副社長と村上常務(注・植村常務の誤りと認められる)の二人が訪ねてきて、「実は自民党の田中派など主だった派閥にごあいさつしてありますから、DC一〇を是非採用してください。」と言ってきたことがあった。「あいさつしてある。」とは「お金を差上げた」というように感じた。そこで私は田中総理が三井物産からダグラスを売込むよう頼まれておられたとすれば、全日空が事前に何のあいさつもせずに機種を決めてしまったのでは立場上お困りになり、気まずいことになると、心配になったのである。佐藤内閣当時、佐藤総理が全日空の近距離国際線進出を認めてはならないと一言言ったため、橋本運輸大臣もこれに従ってしまったことがあり、総理大臣の指揮監督権に基づく実力をいやというほど知っていた。このようなことから私は、この際田中総理がエアバスについてニクソンとどのようなことを話してきたかを聞くとともに、全日空の機種選定に関して理解していただき、事前に一言もことわりなしに決めてしまったといって怒られないようにしなければならないと思って総理官邸へ伺った。私と渡辺副社長の二人はあまり待たされず応接間に通され、田中総理もソファにかけて、三人だけで話をした。私から全日空機を田中総理の中国訪問の際使ってくれたお礼を申上げたところ、田中総理はいきなり、「この間ハワイ会談で飛行機の話があってね、ニクソンが私にロッキードをたのむよと言ったんだ。私はニクソンに日本の航空会社のどこかが買うでしょうと言っておいた。しかし私は民間航空会社であるおたくに買ってくれという立場ではないなあ。」と言った。この言葉の意味としては、買ってもらいたいというようにもとれる。私は田中総理がはっきり買ってくれと言わなかったのは、幹事長時代と違い一国の総理大臣としての立場からこのように言われたものと思った。私はダグラスと言われるのではないかと心配していたのだが、気が楽になり、その場ですぐ「全日空は三年にわたって技術的に検討してきた結果に従って近く事務的に決定させていただきます。」と言ったところ、田中総理は「ああそうですか、しっかりやってください。」と言ったので、私と副社長は退出した。(昭和五一年八月一一日付検察官面前調書〔甲再一69〕三、四項)
(2) 渡辺尚次の検察官面前供述
昭年四七年一〇月二四日、総理官邸に田中総理を訪ね、総理執務室の長椅子に腰をかけた。そこに坐ってから総理が、「時に大型機の選定の方はその後大分進んでいますか。」と切り出し、社長が「大体大詰にきておりまして、遅くとも月末までには決めたいと思っております。」と答えた。すると総理は、「実はこの前ハワイでニクソンとの会談があったとき、会談後の懇談会の席上でニクソンから全日空がトライスターに決めてもらえば非常に有難いと言っていましたよ。そして先頃イギリスのヒース首相が来日したときにもロールス・ロイスの話がでて、やっぱり全日空がトライスターに決めてもらうと非常に有難いと言っておりましたよ。外国の大統領や首相はなかなか商売に熱心なもんですな。あなたのところは民間会社だから私がとやかく言うことはないけれども、まあこんな話があったことをお伝えしておきます。」と言った。婉曲な言い方ではあったが、この話も小佐野の場合と同じく田中総理自身も全日空がトライスターに決めてくれることを望んでおり、そうしてほしいと言わんとしたことは明らかだった。私はそのつもりで言ったのだと解釈した。総理からこのような話があろうとは予期しておらず、いささかびっくりしたことを覚えている。しかも一国の総理ともあろう人が商売の斡旋をする言動をしたので、随分大胆なことを言われるものだと異様な感じを受けた。社長は別に驚いた様子はなく「私どもは最終的には安全性とか大阪の騒音問題があるので、そういう点を重点において決めたいと思っていますが大勢としてトライスターに決まる方向に進んでおります。」と答えると、総理は非常に満足そうに「ああそうですか。そうですか。まあしっかりやってください。」と言っていた。それだけ話をしてから総理が立上り、社長も私も席を立った。私はその後すぐ出口に向かったが、社長は席を立ったところで総理と二言、三言何ごとか立ち話をしてそれから出て来た。何分にも一〇月二四日といえば発表直前のことで、頼むにしては時期的にいかにも遅過ぎる感があり、どのような形で行われたかは全く不明だけれども私はすでに田中総理から、その以前にトライスターを採用してもらいたい旨の依頼が社長にあったと思った。勿論それは本人から直接あったのか他人を通じてあったのか不明である。そのようなことがあって、社長としては、この一〇月二四日の時点では、社内的にまずトライスターに決まっており、社長もその腹を決めていて、社外に発表する前に総理に会って、その意向を汲んで決める旨伝え、敬意を払っていることを見せたかったのだと思った。(昭和五一年八月九日付検察官面前調書〔甲再一59〕五項)
これに対し、被告人田中は、「昭和四七年一〇月二四日に総理官邸で、全日空の若狭社長らと会ったことは、私には記憶はないが、記録があるので事実だと思う。しかし、その際、同社長に対し日米首脳会談の折りにニクソン大統領がトライスターの購入を希望していた旨の話をするなんてことは全くない。同大統領がそのようなことを希望していた事実はないのだから、そのような話を私から若狭社長にするはずがない。」(昭和五一年八月一四付検察官面前調書〔乙51〕)と供述している。そして若狭は公判廷で、「昭和四七年一〇月二四日の田中総理訪問の目的は、中国への国交回復のフライトに日航と全日空の双方から一機ずつチャーターして使っていただいたり、国内の総理の旅行にも全日空の飛行機をよくチャーターしていただいたお礼である。総理と会って、これらのお礼を申上げ、丁度日米会議で大型機の導入が問題になるなどしたので、大型機の導入問題についてはいろいろとご厄介になっておりますと申上げ、『私のほうでは三年間にわたって技術的に、また経済的に、安全を第一に、騒音問題も含めて詳細な検討を三年間行ってきましたので、それによって決定いたします。できれば今月中に決定いたしたいと思っておりますのでご了承いただきたい。』ということを申上げたところ、『しっかりやってください。』というお話で、そこで私たちは出て来たのであり、これに反する検察官面前調書の供述記載はすべて事実に反する。そのような供述が録取されるに至ったわけは、当時の新聞雑誌が盛んに臆測記事を書いていて、検事から尋ねられてそのような臆測を私が述べたかもしれないが、一国の総理と大統領とが会って、そういう話をしているということは絶対にあり得ないことであるというふうに私は確信している。また私は絶対に何か依頼されたという記憶は一切もっていない。調書にサインしたのは将来問題になるということを、それほど痛切に感じていなかったからであり、私たちが休んでいる間に検事が一生懸命書いたもので、言葉については注文したいところも随分あったが、全然聞いてもらえないということだったから、やむを得ず署名したのである。」と証言している。渡辺も公判廷において自身の検察官面前供述のほとんどを否定し、被告人田中との会談の模様については、「若狭社長が中国フライト、国内のチャーターについてお礼を言ったあと、『全日空におきましては大型機の問題をもう三年近く時間をかけて安全面とかいろんなことを十分に調査いたしまして近く結論が出る運びになっております。』というようなことを報告し、総理から『この間、ハワイ会談で、ニクソン大統領は航空機の緊急輸入といったようなことについて非常に熱心に討議をされておりました。』との趣旨のことと、『先般、イギリスのヒース首相も日本にお出でになったときに、航空機の問題についていろいろおっしゃってた。』というようなことを言ってた記憶がある。それで若狭社長から、『まあ大型機の問題については随分時間もかかったけれど、相当煮詰ってきたので近く決まる予定です。』と言ったら、『ああ、それは結構です。まあひとつしっかりやってください。』というお話があり、立ち上って私はドアの方にすぐ行ったが、若狭社長は総理と立ち話みたいなことをしていた記憶がある。検察官面前供述の、ニクソンがトライスターに決まると結構だと言っていたということは、検事から『若狭が言っている。』と言われ、若狭社長の方が記憶力がいいから、それならそうかもしれませんねと言ったことが全部私が述べたような文章で書かれている。ほかのことも同様に検事の言葉であるが、私は記憶がもうろうとしており、『何かヒントがあったら、どうぞおっしゃってください。』ということは言っていて、それで検事の言葉が調書に録取されているのである。」と証言している。
2 若狭検察官面前供述の任意性・信用性
若狭得治は、検察官の取調について証言し、「初めのころ取調に当った山辺検事に対して被疑事実を否認し、『私は精神耗弱状態かなんかにならない以上はあなたが何か言えとおっしゃってもそういうことについてとやかく言うことはあり得ないことだと思う。』と言ったことがあり、それに対し同検事は非常に怒ったのだと思う、『壁を向いて立っておれ。』と言い、そばへ来て耳許で大きい声を出しながら椅子を蹴飛ばし、その椅子が飛んで後ろの壁に当ったということが一回あった。同じように椅子を蹴飛ばすことは広畠検事も一回やった。会社の中で役員が金を勝手に分けて使っておったのではないかと言われて、『そんな馬鹿なことをやるはずがありません。』と激論を交わしているうちのことであった。同検事はお前の女房も子供も全部逮捕してやるということも言っていた。」と証言している。若狭の取調に当った山辺力検事は、最初若狭が十分な根拠なしに他人が犯罪行為を行っているなどと供述をしたことについて語気を強めて注意をしたことがあり、また広畠検事が二度ほど若狭と大声を出し合ってやりとりをしたことはあるが、右若狭証言のような両検事の言動はなかったと証言しており、また若狭の右の点に関する証言は、山辺検事が椅子を蹴るに至った経緯、原因、どのような事柄についての取調中のことであるかなど、もし事実なら記憶に残っていないとはおよそ考えられない諸点をほとんど明らかにすることができず、広畠検事の右証言のような言動のあったという日について、逮捕後四、五日から二週間の間で供述を再三変更し、同検事の言動について、初めは「立てとか、あるいは壁を向いて立っておれとか、椅子を力いっぱい蹴飛ばすというような、そういうようなこともあった。」と証言しておりながら、後には、「(検事と言い合って)私も非常に興奮していたが、そこで立っておいでになって、椅子を蹴飛ばして、お前の息子も女房もすべて逮捕してやるんだということを耳許で非常に大きな声でわめきちらして、それから出て行かれた。」と異なった状況を証言するに至っている。そして若狭自身、「両検事とも右証言のような言動をしたのは各一回だけであり、山辺検事は、そのつぎからはもう大きい声を出さないでやりましょうということで、非常にお互い穏やかにお話をするという状態であった。」と述べたうえ、その述べる両検事の各言動のいずれについても、「私は別にこれは大変だとか、非常な苦痛であると考えたことはない。私は驚いたわけでも何でもないし、その場の行きがかりで言っていることで、別にそれほど動揺したということもない。」と証言しているのであり、また総理官邸訪問に関する検察官面前供述についての若狭証言中に、その述べる検事の言動の影響が右検察官面前供述に及んでいることをうかがわせるものは全く存しないのである。したがって仮りに山辺検事らとの間に激しいやりとりが行われたことがあったとしても、その後は同検事との間で穏やかに取調が進められ、前記1(1)の検察官面前供述の任意性に疑いを抱かしめるような影響を及ぼすことはなかったものと思われる。
また若狭は前記のとおり、1(1)の供述が録取されている供述調書は「私たちが休んでいる間に検事が一生懸命書いた」もの、すなわち面前で録取されたのではない調書であるという。ところで、証人山辺力は、昭和五一年八月九日付調書等、若狭から供述を聞いてメモにとり、若狭を房に帰したうえ、右メモに基づいて調書を書いたものがあるが、1(1)の同月一一日付調書は全部若狭の面前で書いた旨証言しており、仮りにそうでないとしても、右の若狭のいないところで書いた調書はいずれも同人に読み聞かせ、その内容を了知せしめたうえで署名を得ていることが、若狭、山辺両証言により明らかである。したがってこれが検察官面前供述録取書たる性格を否定されるべきものでないことは多言を要しないところであり、本件1(1)の検察官面前供述につき若狭がその内容を十分認識、理解していたことは、前記の同人の証言によって明らかである。
ところで、公判廷における証言と異なる検察官面前供述をした理由について、若狭は、前記のとおり、新聞雑誌の臆測記事を読んで頭の中にあったことを述べてしまったことをその一つに掲げているのであるが、このような臆測が流れる中で、その渦中にあって自ら機種を決定し、しかも右決定の際、全日空の全職員に対し、ハワイ会談に関連した種々の臆測記事が新聞に出ているが、今回の決定にはそういうことは一切ないとの内容の文書を配布(若狭証言)するまでのことをした全日空の社長が、記事にあったことと現実にあったこととを混同するなどということは、全く考えることができないのである。ことは時の総理大臣がまさにその臆測記事にあるとおりのことを言ったか言わないかという、まことに重要な事柄にかかるのであるから、同大臣が言ったか、言わないかのいずれかの記憶は明確に脳裡に残されていなければならないはずである。若狭は、「取調後に臆測を述べたことに気が付いたのだから、取調当時は疑問をもちながらも記憶として、『そんなふうなことだったかな。』ということで述べたんじゃないかと思う。出て来てから冷静になって考えて自分が間違ったことに気付いた。」など不合理で首肯し難い証言をしているのであって、前記1(1)の供述に関する証言は全く信用に値しないものというほかはない。さらに同人は、前記のとおり「注文したいところも随分あったが全然聞いてもらえないということだった。」と述べるほか、総理官邸における自己の発言など数か所の供述記載につき、「何回も、何十回も述べたのに」調書に書いてくれなかったと証言し、「検事はあらかじめ筋書を考えて、それに副うものは書き、筋書と違うものについては何十回申上げても採り上げてくれなかった。」旨主張している。しかし山辺検事は、「若狭の取調の際、昭和四七年一〇月二四日以前に被告人田中からL一〇一一型機を買ってほしいとの話はなかったか、小佐野を介して同被告人から同型機を買えとの話はなかったかとの点について尋ねた。前者の点については、昭和五一年八月一三日に、主任検事からきくようにとの指示があり、その夜及びその後四、五回調べたが、若狭は否定していた。後者についても、同年八月八日に指示があり、同月九日から同月中、下旬まで四、五回この点で取調べたがやはり否定した。」旨証言している。そして若狭も、右の小佐野からの話については、「そういうことは絶対にないというようなことを、私は非常に確信というか、もう確実に全くないことであるから、それは明確に一貫して申上げたので、まあそういうご質問は長く続けられるということはなかったように思う。現実に一度もそういうことはなかったから、そのように明確にお答を申上げている。」と述べ、若狭に対して被告人田中からL一〇一一型機を買えとの直接の電話がなかったかとの点の取調には、「私の方はないものはないんだということで話しているし、そういうことの全く記憶のないことについていかに言われてもそれはもう明確にしていた。」と供述して、事項によっては否定の供述を一貫して行い、そのため供述調書には書かれなかったものがあることを認めているのである。これらの事項は検事が筋書を考えて何としてもそれは調書にしたいと考えるならば、当然その筋書の主要部分を占めるべき事柄であるのに、調書にこれらの記載がないということは、若狭が取調を受けるに当って、検事からきかれることのうちで、認められる点は認め、否定しようと考える点は否定するという態度を貫くことができたことを示すものというべきであって、以上を総合して前記1(1)の検察官面前供述には任意性を十分肯認し得るというべきである。
また、全日空がL一〇一一型機を選定するについて、その社長が時の内閣総理大臣から前記1(1)のような話をされていたということは、それによって選定結果が左右されたか否かを問わず、それだけで同社の企業イメージが非常な悪影響を受けるものであるというべきであるうえ、被告人田中にとって極めて不利益な事実であるところ、若狭が公判廷の田中の面前で前記1(1)のような供述を極力避けようとする傾向性を示すことはそれなりに了解し得るところであり、そのような事実を任意に述べたと認められる前記1(1)の検察官面前供述は、これを否定する公判廷供述に比して信用性が高いということができる。 しかしながら、右検察官面前供述も前記1(2)の渡辺尚次の検察官面前供述との間にかなりの相異点を有している。また証人山辺力は昭和五一年八月一一日付調書の署名のあと若狭が、「田中さんの言っていたこと、結局は買ってくださいよということなんですよ。そこで私も田中さんの腹が分ったから『事務的に決めます。』という簡単な言葉で申上げただけで帰りました。それだけで私の方の考えも田中さんには読みとっていただけるはずだということはお互いに分っていることですよ。」と言い、すぐその場で追加の調書を取りたいという山辺検事に対して若狭は、「私としてはそのような供述調書を作られても署名するわけにはいきませんよ。私の立場も察してください。」と述べた旨証言している。右のようなやりとりがあったことを若狭は否定しているのであるが、右山辺証言は、以上に述べた全日空の立場、検察官面前供述の内容と相応していて十分に信用し得るというべきであり、以上によれば、若狭が1(1)の検察官面前供述をするにあたって、記憶していたところをすべてそのまま述べたか否かは疑わしく、全日空や被告人田中に決定的に不利益となるような供述は避けようとの配慮で事項を選択しつつ山辺検事に対して供述していたものと考える余地が十分に存するというべきである。
ことに、前記のとおり若狭は、渡辺から小佐野を介して被告人田中がしたというハワイ会談におけるニクソンの話というのは聞いていない旨捜査段階から一貫して供述しているのであるが、前項(一)6で認定したとおり、右の話を若狭は渡辺から聞いて知っていたのであり、それによってL一〇一一型機を勧めようとする同被告人の意図はすでに右の話を聞いた昭和四七年九月中旬ころには察知していたものと認めるのが相当であるから、右供述は虚偽であるというべく、若狭の前記1(1)の検察官面前供述中右虚偽供述及びこれと軌を一にした供述部分は信用し得ないものといわなければならない。
3 渡辺検察官面前供述の任意性・信用性
渡辺の前記1(2)の検察官面前供述に関する証言は要するに、記憶があいまい、もうろうとしているところ、検事から若狭も言っているなどと言われて認めさせられたというのである。しかし、右若狭供述に関する項で論じ、また前項で小佐野を介した被告人田中の慫慂につき説いたのと同じ理由で、当時から疑惑の焦点であった田中のL一〇一一型機推奨につながる言葉が、その口から出たのか出ないのかということにつき、あいまい、もうろうとした記憶しかないということは全く考えられないのである。その他の右検察官面前供述に関する渡辺の証言内容のあいまいさ、不自然さと、同人の取調状況について前述したところを総合すると、右検察官面前供述には任意性が肯認でき、信用性も高いといえる。
ところで、前記1(1)(2)の各検察官面前供述は、内閣総理大臣官邸において被告人田中が若狭らに対して言ったという言葉の内容として、[1]「ハワイにおけるニクソン大統領との会談の際、同大統領がロッキードの飛行機を日本で買ってほしい旨の話をした。」、[2]「自分は民間会社である全日空に対して買ってくれという立場ではないが。」との趣旨であった点で完全に合致している。右二点に関して、例えばニクソン大統領から[1]の話があったのが懇談会の席上であるか否か、ニクソンの言葉が「ロッキードを頼むよ。」というのであったというのか、「全日空がトライスターに決めてもらうと非常に有難い。」というものであったのかといった細かな相異点は存するのであるが、この程度の細部における不一致は人間の記憶力一般に照らしてごく自然のことというべきであり、右合致している点についての両供述の信用性を損なうものではない。さらに渡辺は若狭が全く述べていない、ヒース首相からも全日空がトライスターに決めてもらうと非常に有難い旨の話があったことも被告人田中の言葉に出ていた旨を供述しており、渡辺が言葉の内容は異なるものの、被告人田中が同首相の話に言及していたことを公判廷における証言においても一貫して述べていること、渡辺が真実に反してヒース首相の話を作り出して証言するまでの理由がないこと、渡辺は若狭と異なり、公判廷においても、被告人田中の口からニクソン大統領の話が出たことは証言しており、総じて若狭に比べれば真実を語ることを憚かる気持がより小さいものとうかがわれること等の諸点が存するから、これらを総合すると、被告人田中がヒース首相も全日空のL一〇一一型機購入を望んでいるとの話をした旨の渡辺の前記1(2)の検察官面前供述は信用性が高いということができる。
4 客観的諸情況との整合の有無
(1) 被告人田中から若狭への昭和四五年の電話
若狭は前記のとおり、昭和四五年に当時自由民主党幹事長の地位にあった被告人田中が若狭に電話でDC一〇型機の購入を検討してほしいと言ってきていたことを、昭和四七年一〇月の総理官邸訪問の動機の一つとして前記1(1)の検察官面前調書において供述している。そしてもと三井物産の副社長で航空機担当の前記石黒規一は、「昭和四五年夏ころのことと思う。全日空の社長が若狭社長に代って間もないころ、砂防会館の事務所で田中幹事長に会い、『大庭社長の依頼でDC一〇型飛行機を押えていたが、約束がふいにされて大変なことになってしまった。全日空には法的にも道義的にも責任がないということをどういうわけか三井物産の社長は認めてしまったが、担当者としてはこのままでは済まされない。何とかよりを戻してもらえるような助言を全日空に対してしていただけないか。』と依頼したところ、同幹事長は、『よし、やってあげましょう。』と言って、たしか若狭社長に話をしていただいた様子であった。つぎに会いに行ったとき、幹事長は『若狭社長に言っておいた。即答できる話ではないから検討しているだろう。』と言った。」旨証言しているが、これと前記若狭検察官面前供述は相応している。前記のとおり石黒証言は卒直、具体的、かつ、詳細であり、内容も自然であって、全体として信用性があり、右引用の部分についても特段その証明力につき問題とすべき点はない(同証人の昭和五一年六月九日衆議院ロッキード問題に関する調査特別委員会における証言と当裁判所受命裁判官の面前における証言との間に弁護人主張のような矛盾は存しない。昭和四五年当時三井物産は、将来全日空がDC一〇型機を選定することに確信を有していたとしても、大庭社長の依頼で押えていた同型機については納期も近づき、代金の部分的な支払も行ってその金利もかかるということから、右大庭社長の約束を全日空に履行せしめるべく種々の工作を行ったことは、商社として当然の動きというべきである。)。右のとおり相応している若狭検察官面前供述、石黒証言の信用性は高いというべきである。若狭は昭和四五年の電話の件につき、前記検察官面前調書記載のとおりの供述を取調検事に対して行ったことは証言において認めているのであるが、電話の内容については、被告人田中から例えば就職のことであるとか、いろんなことで電話を受けたことはあるが、今、はっきり機種選定についてどうこうということについて記憶を有していないとあいまいな証言を行うのみであり、時の政界の実力者から、全日空社長になって間もなく受けた、特定機種の購入を勧める趣旨の極めて重要な電話を就職依頼等のそれと取違えて検察官に供述することは通常あり得べからざることというべきであるから、右電話の内容に関する若狭の右証言は信用性に乏しいといわざるを得ず、前記若狭検察官面前供述、石黒証言のとおり、昭和四五年六、七月ころ、三井物産の石黒規一が、自由民主党の幹事長であった被告人田中に対して、「大庭社長の依頼でDC一〇型機を押えていたが、若狭社長に代って右航空機購入の約束がふいにされて大変なことになっている。何とかよりを戻してもらえるよう全日空に助言をしていただけないか。」との趣旨の依頼をし、これを引受けた田中が全日空社長若狭得治に対し電話で、「三井物産からDC一〇を買うよう口添してくれと言ってきているから検討してくれ。」と言ったとの事実を認定することができる。
右事実は、若狭の総理官邸訪問に至る重要な経過事実の一つであるばかりでなく、被告人田中が、政党幹事長の立場でではあるが、民間航空会社の選定すべき機種につき、商社から依頼を受けて該航空会社に働きかけた例があるという意味で、かかる働きかけがおよそあり得べからざるものとする弁護人の主張に反する重要な間接事実であるといわなければならない。
(2) 三井物産幹部の若狭宅訪問
前記1(1)のとおり、若狭は、三井物産の石黒副社長らが昭和四七年一〇月二〇日ころの夜、若狭宅を訪ねて来たこと及びその状況について検察官の面前において供述している。公判廷において同人は、「石黒らは『主な政治家のところへお願いしてございます。』と、とにかく政治家の方々に手を打っておりますというような意味のことを言っていた。政治家の名前や田中派、大平派という名前は出てこない。そういう名前が出たというのは絶対に間違いである。派閥とすれば、総理大臣は田中さんであり、運輸大臣が大平派だから、そんなところへ話したのかなと検事と話していたが、それがいく日かすると前記のような検察官面前調書の記載になって出てきた。お金を差上げたかどうかそこまで深く考えたわけではないが、そういうこともあり得ると感じて非常にいやな気がしたんだろうということを検事に申上げたらそういう調書になった。」と証言しているが、右証言はそれ自体あいまい、かつ、不自然というほかはないうえ、同人は派閥に関して、調書にそのように書かれたのは「おそらく私の思い違いじゃないか。」とも証言し、この件に関する検察官の尋問追及にしどろもどろといった感を免れない状況になっているのであって、右証言はただちに信用し得ないというべきである。ところで、石黒規一は、「若狭宅を訪問し、同人に『田中さんに会って運輸、通産大臣が検討し、必要があれば行政指導すると伺ったが、何か来ていないか。』と尋ねた。若狭社長は何も来ていないとはっきり言い切った。植村常務が、『うちは田中のほかに大平などがいるんだ。』と牽制するようなことを言った。」と証言しており、前記のとおり石黒証言が全体として高度の信用性を有していると認められるところ、右に引用の証言は前記若狭の検察官面前供述と非常によく相応していてこれに裏付けられているといえるから、右石黒証言のとおりの事実を認定することができる。
ところで、右石黒らの訪問は、同人が機種決定の一週間か一〇日前と証言しており、前記若狭検察官面前供述のとおり、昭和四七年一〇月二〇日ころであったと認められるのであるが、若狭は、公判廷において、同月一五、六日ころには総理訪問の日程が決まっていたと証言し、弁護人の「したがって同月二〇日の石黒訪問と総理官邸訪問とは無関係と聞いてよいか。」との問いに対して、「ええ、別に石黒さんがどうこうだから総理の耳に入れておかなければいけないというふうに感じたわけでは決してない。」と証言している。しかし、同月一五、六日ころに日程が決まっていたというのは取調後に秘書室長から言われてなるほどそうだったかと思ったというのであり、同室長の言ったことは何らかの記録に基づく確かなものというわけではないうえ、これによって若狭が記憶を喚起したというのも不自然である。また、官邸訪問のアポイントメント取得を命じた日について、同人は総理が中国訪問から帰って(関係証拠によると、これは同年九月下旬のことである)間もなくであったと証言しているのであるが、そうすると半月間も日程調整がつかなかったということになるのであって、そこにも不自然さが感じられる。そして石黒証人は、「昭和四七年一〇月二四日、三井物産社長と共に総理官邸に行った。あらかじめアポイントメントを取っておいて行った。若干早目に到着したが意外に三〇分くらい待たされた。秘書官が気の毒がって『飛入りの全日空社長・副社長が来ておられます。』と言っていた。」旨証言している。以上の証拠関係に石黒証言の信用性につき前述したところを総合すると、若狭の官邸訪問のアポイントメント申入及び取得は訪問日間近に行われたもの、すなわちこの訪問が急遽決まったものと認めるのが相当であり、このことは、若狭が石黒らの訪問を受けたことから被告人田中に会おうと考えた旨の前記1(1)の検察官面前供述を支持するものである。
(3) 機種選定につき若狭社長一任取付の時期
若狭は全日空の機種選定について、社長が決定を一任されたのは官邸訪問後の昭和四七年一〇月二八日の役員会においてであったと証言している。これに対して、右証言のとおりであるとすれば、1(2)の渡辺検察官面前供述のように、若狭が被告人田中に対して「大勢としてトライスターに決まる方向に進んでおります。」などと言うことはできないはずであるとの旨の弁護人の主張もあるので、右一任取付の日につき前記1(1)(2)の各供述の信用性を吟味する観点から検討することとする。
若狭は、「昭和四七年一〇月七日に各本部長の意見を全部聞いたが、この日に社長一任ということにはならなかった。その理由は、その日はまだ一つの機種を全役員が一致して支持する状態になっていなかったこと、鈴木専務の方から、いずれ今後の旅客需要の伸びということを考えると、五〇〇人乗り程度の飛行機を入れざるを得なくなるわけだから、最初からボーイング七四七を導入した方がよい、そのためには最初は少ない機数で賄って逐次多くしていった方が会社としてプラスなんだという意見があり、私は、そういう考えもあり得ると思い、当初いくら機数を少なくするといっても、一機や二機というわけにいくまいから、三機なり四機なりといった導入の仕方をせざるを得ないであろうが、その場合、最初のうちどの程度の赤字が出て、何年すればそれが回収できるから一貫してボーイング七四七を入れた方が得であるといえるのか数字を出してほしいと検討を求めたこと、DC一〇の騒音テストの証明が取れるということであったから、もしロッキードよりも低い数値が出るということであれば、私は当然選定委員会をもう一度開いていただいて検討していただかなければいかんだろうと考えていたことである。私は会社の運命を決すると思われる重要な問題だから、全員一致の決定が必要と考えており、どうしても意見が分れる場合に私に一任ということがあるかもしれないが、そういうことにならないように是非お互いに検討し合って結論を出そうと言ったことをはっきりと覚えている。」と証言している。
しかし証人鈴木正之は公判廷において「昭和四七年一〇月七日に、社長は『皆さんは会社のためによく意見を述べられた。会社を思う気持は同じだ。だからこのあとは私に任してくれ。』と言ったように思っている。出席者は『結構です。』と述べ、社長に機種選定を一任するということだった。」と供述している。またたしかに同証人も証言しているとおり、右一〇月七日の役員会の席上、同人は長く使える飛行機を選ぶべきであるということを含む数点をあげて、ボーイング七四七を推す意見を述べたことが明らかであるが、その際若狭社長からその証言するような数字を出すよう求められたことは鈴木証言にないばかりか、同証言によると同人はすでに同年九月ころ、経理部にエアバスとボーイング七四七の損益分岐点を算出してもらい比較検討していたことが認められるから、同年一〇月七日に仮りに若狭社長から数字を示すよう求められることがあったとしても、すぐにそれに応じることができたものと考えられ、その数字の提出があるまで決定を延ばすというような事情にはなかったということができる。そして、証人藤原亨一の供述によると、同年九月、若狭社長が全日空の各部門の担当者からじかに意見を聴取して歩いた際、すでに諏訪大阪市内支店長が「エアバスだと三〇〇人乗りくらいだから、大体五年から七、八年の間に小さくなって、次の機材がほしくなるだろう。そうであれば最初から五〇〇人近い大型を入れると長期間使えるだろう。」という意見を述べたこと、このころ若狭はすでに「路線適合性からいうとエアバスの方がサイズ的にはフィットしているが、長期的に見るとジャンボが路線適合の期間が長いであろう。大キャパシティのジャンボを今導入するとサイズが大きいという意味のロスが当初出る。そのロスと二機種を導入(現在小さい機種、将来大きな機種)する二重投資のロスのどちらが大きいかをスタディせよ。」と述べ、これが記録に残されていること(甲二124「新機種 藤原」と題するノート)が明らかであって、一〇月七日の会議の席上で若狭社長が鈴木専務の意見を聞いて、はじめてそういう考えもあり得ると思い、検討を命じたというのは事実に反するというべきである。また、証人鈴木正之の証言によれば、右一〇月七日の会議の少し前、同人は若狭社長と話合った機会に、ボーイングというものは将来やはり選ぶべき機種ではなかろうかと述べたところ、若狭社長は「ボーイングはやはり本命と思う。世界の一流の会社で使っているし、スリーエンジンよりもフォアエンジンの方が安定しており、ロスも少ない。しかし日航の動きも考えなければならない。日航はオーストラリア線で客が少ないためDC一〇を使うんではないか。するとそれを大阪に転用されるおそれなきにしもあらずで、そうなったとき全日空はなぜボーイングを選んだかという非難を受けることになるんで非常に悩んでいる。」と言ったことが認められるのであって、時期的関係を考え合わせても、このころ若狭社長は各機につき十分な比較検討を了していたと優に認められる。社長一任の取付時期に関する右若狭証言には右のように種々客観的状況に合致しない点が存し、信用性に乏しいといわなければならない。
これに対して、渡辺尚次の検察官面前調書(昭和五一年八月二六日付〔甲再一62〕、同年九月三日付〔甲再一63〕)には「私の記憶では昭和四七年一〇月七日の役員会で社長に一任されたと思っていた。」旨の供述記載があり、右八月二六日付調書には、「若狭社長が自分はそんなに早い時期に一任を取りつけた覚えはなく、同月二八日の取締役会の席で一任を受けたのだと強く言われるので、私なりに社長としては早い時期に一任を取付けたということになるとまずいのだなと思い、社長の意向を忖度して皆に徹底しておく必要があると考えた。当時私としてはできるだけ社長が不利にならないように皆の意思を統一して国会喚問や捜査当局の取調に対処する必要があると考えていたのである。そのような意図から昭和五一年三月三日に関係者を集め、この席で私は、『いろいろ考え違いがあるかもしれないが、とにかく社長が役員から機種決定の一任を取付けた時期は昭和四七年一〇月七日ではなく同月二八日の取締役会だということで意思統一をしてもらいたい。』旨発言し、出席者の了解をとった。要するに社長が一任を取付けたのは右一〇月七日が真実だったが、それを故意に一〇月二八日に遅らせたのである。」と記載されている。渡辺は公判廷においては、社長一任が右のどちらの日であったか分らない、昭和五一年三月三日には事実を確認しただけで、やっぱりはっきりしないんだなということで済んだと証言している。そしてこれに反する右検察官面前供述については、検事との押問答の結果心理的圧迫を受けて承認させられたと述べているのであるが、右各検察官面前調書は保釈による身柄釈放後の取調において作成されたものであり、渡辺証言につきこれまで縷々述べてきたところに照らして右証言はにわかに信用し得ず、これに対し詳細で内容の自然な右検察官面前供述の信用性は高いというべきである。
証人藤原亨一も、どちらの日に社長一任になったかはっきりしないと証言しながら、一〇月末に一任になったという方が妥当であるとし、その理由として、任せてくれと言ってすぐ決定せずそのまま放たらかしたということになるから一〇月七日では一任時期が早過ぎること、一〇月末にまた役員を招集して同じことをきいていること、一〇月六日にメーカーの代表を呼んで話をしているから、一〇月七日の時点ではまだ返事が来ていないこと、ダグラス社の方で非常に大きなポイントとなっている騒音問題で証明を取り直すと言ってきていたことをあげている。同証人及び証人植木忠夫の各供述によれば、昭和四七年一〇月六日に航空機メーカー三社を呼んで契約条件につき折衝が行われ、全日空の要求に対する回答期限が同月九日とされていたこと、証人若狭得治の供述によるとこのころダグラス社が、連邦航空局(FAA)の騒音証明を取り直すから一〇月の第三日曜日まで決定を待ってほしいと文書で申入れてきていたことが明らかであるが、一任を受けた社長が後に出る回答や証明を検討して結論を出して何ら差支ないはずであり、それらの点を検討するということであれば、一任から決定までの間隔が開いても異とするに足りないというべきである。また、最終決定の前に再度役員の意思を確認してもそれが社長一任の事実と矛盾するとはいえないから、右藤原証人のあげる諸点は昭和四七年一〇月二八日社長一任を根拠づけるものとはなし難い。
以上を総合して、同月二四日の総理官邸訪問前の同月七日若狭社長は全日空の幹部職員から機種選定を一任されていたものと認定することができる。そうすると、右官邸訪問に際し若狭は被告人田中に、渡辺の前記検察官面前供述のとおり、「トライスターに決まる方向に進んでいる。」と言うことのできる立場にあったということになる。
(4) ハワイ会談の際の航空機購入要請の有無
前記(一)3のとおり、ハワイにおける田中・ニクソン会談の際、両首脳間でトライスターに関する話が出たことを証明する証拠はないのであるが、問題は被告人田中がそのようなことを若狭らに言ったか否かであって、ニクソン大統領が言わなかったことを同被告人が話すということ自体はあり得ないことではない(弁護人は、ハワイ会談において話題とならない事項を被告人田中が若狭に対し同会談における話題として持出すことは考えられないと主張するが、全日空に対してL一〇一一型機を購入せしめるべく働きかけるのであれば、たとえ架空であるにせよ、ニクソン大統領の要請という、国際関係が絡んで尊重すべきものとして扱われるのが通常というべき話題に依ることが効果的であり、同被告人がこのような話をしたとしても何ら異とするに足りないところである。)から、ハワイにおいて話題になったとの証拠がないからといって、前記1(1)(2)の各検察官面前供述の証明力が減殺されるべきものではないこと前同様である。
5 認定事実
以上の諸点に前項(一)6で認定したところその他関係証拠を総合するとつぎの事実を認定することができる。
全日空社長若狭得治は、昭和四五年六、七月ころ当時自由民主党幹事長の地位にあった被告人田中から、「三井物産からDC一〇を買うよう口添をしてくれと言ってきているから検討してくれ。」との電話を受けたことがあったが、昭和四七年九月中旬ころ、全日空副社長の渡辺尚次から、田中の親友で全日空大株主の小佐野賢治が同被告人の言葉として、ニクソンと会談したあとで同人から「全日空がトライスターに決めることを希望する。」という話があったとの趣旨を渡辺に伝えたことを聞き、田中が今度はL一〇一一型機の購入を勧めようとしているものと了解した。若狭は昭和四七年一〇月七日全日空の役員会を開いて各役員から選定すべき機種についての意見を徴したところ、L一〇一一型機を推す者が多かったがなおDC一〇型機、ボーイング七四七型機を推す者もあった。同人は機種選定につきあとは社長の自分に一任してくれるよう求めて役員らの承認を得た。そうするうち、同月二〇日ころ、若狭社長は、自宅に三井物産副社長石黒規一らの来訪を受け、「自民党の田中派、大平派など主だった派閥にあいさつしてあるから、DC一〇を是非採用してほしい。」と言われ、同社も被告人田中らに働きかけていることを知ったことから、この際L一〇一一型機を勧める同被告人の意思を確かめ、これに副う方向に選定を行う意向であることを表明する必要があると考え、同月二四日、渡辺副社長を伴って内閣総理大臣官邸に同被告人を訪ねた。被告人田中は、「ハワイでニクソンとの会談があった時、会談後の懇談会の席上でニクソンが、全日空がトライスターに決めてもらえば非常に有難いと言っていた。」旨、また、イギリスのヒース首相が来日したときにもロールスロイルの話が出て、同首相が同様全日空がトライスターに決めてもらうと非常に有難いと言っていた旨を若狭らに告げ、なお、「あなたのところは民間会社だから、私がとやかく言うことはないけれども、まあこんな話があったことをお伝えしておきます。」と言った。若狭社長はこれによって被告人田中の意思が確認できたことから、「私どもは最終的には安全性とか大阪の騒音問題があるのでそういう点を重点において決めたいと思っていますが、大勢としてトライスターに決まる方向に進んでおります。」と答えると被告人田中は非常に満足そうに「ああそうですか、そうですか、まあしっかりやってください。」と言った。
以上の経緯を通観すると、右官邸における被告人田中の言葉は、全日空社長、副社長にL一〇一一型機の導入を慫慂する意図に出たものであることは明らかというべきであり、右事実は、結局、本件檜山の全日空へのL一〇一一型機売込についての協力要請の事実の存在を推認せしめるものということができる。
八 請託の存在と客観的情勢の整合の有無(全日空への大型機売込競争の状況と丸紅幹部の認識)
(一) ロッキード社の状態と全日空への売込にかける意気込み
コーチャン、松岡博厚及び坂篁一の各証言、被告人大久保の公判廷供述に関係各証拠を総合すると、大型航空機の開発とわが国への売込活動の経緯及び状況は判示のとおりであって、ロッキード社が全力を傾けてトライスターを売込もうとした全日空には、ダグラス社がDC一〇型機の、ボーイング社はB七四七型機の売込を図って熾烈な競争を展開し、ロッキード社の販売代理店丸紅、ダグラス社のそれである三井物産、ボーイング社のそれである日商岩井ともども激しい売込合戦を行った。判示のとおりロッキード社は、ロールスロイス社によるL一〇一一型機のエンジン開発難航による同型機開発製造の遅れ、武装ヘリコプター、シャイアンの試験飛行中における墜落事故を理由とする米国国防省による同機購入契約の破棄、さらには同省による大型輸送機ギャラクシー購入契約の一部破棄により財政状態が著しく悪化し、昭和四六年八月、ロッキード社に対する民間融資二億五、〇〇〇万ドルにつき米国政府が保証をすることが同国議会で認められ事態はやや好転したものの、全世界におけるL一〇一一型機の売行きは競争機種よりかなり劣っている状況であった。ここにおいて二〇機を越える機数の購入が見込まれる全日空への売込は、近隣アジア諸国にさらに販路を拡げる足がかりともなるものと考えられたこともあって、ロッキード社にとってはその存亡にもかかわる極めて重要なものであり、何としても成功を図らねばならぬとの意気込みのもと、コーチャン社長自ら陣頭に立ち、頻繁に来日したうえ、昭和四七年秋にはわが国にほぼ引続いて七〇日以上も滞在して売込活動を展開したことは同人の証言及び関係証拠によって明らかである。
(二) 全日空への売込をめぐる情勢
被告人田中、同榎本、同檜山及び同大久保の弁護人はいずれも、昭和四七年八月当時、全日空に対するL一〇一一型機売込をめぐる情勢は極めて有利に展開していたのであり、丸紅幹部が内閣総理大臣に右売込成功のため協力方を要請し、五億円供与を申出る必要はなかったと主張しているのでこの点につき検討を加える。
コーチャンの証言及び被告人大久保の公判廷供述によると、前記のとおりロッキード社は財政状態が著しく悪化していたうえ、L一〇一一型機のエンジンの開発生産に当っていた英国のロールス・ロイス社が昭和四六年二月に倒産するという事態を迎え、同型機の生産自体が可能であるか否かが危ぶまれる情況となっていたが、同年八月前記のとおりロッキード社への民間融資につき米国政府が保証をする法案が米国議会で可決成立し、これを受けてロールス・ロイス社についても、そのころ、英国政府が同社の航空機エンジン部門を引継いで生産を継続することとなり、右のような不安、懸念は一応解消されるに至っていたことが認められる。
また証人川井力、同松岡博厚及び同坂篁一の各証言を総合すると、L一〇一一型機はかねてから軍用機の製造を行ってきたロッキード社が開発した民間航空機であり、性能要件が厳しく高度の技術が要求される軍用機を開発製造してきた同社の経験と技術が生かされていて、全体としてDC一〇型機と同一水準にあるとの評価を受けるべき飛行機であって、米国における測定によりDC一〇型機よりも二、三ホーン低いという結果を得た騒音値の低さを特色とするほか、効率がよい三軸構造でコンパクトなエンジン、自動着陸装置など未来を指向する設計思想に支えられた高度の技術が売物であったことが認められるところ、証人渡辺尚次、同若狭得治、同藤原亨一、同松岡博厚の証言を総合すると、売込活動により全日空の関係者の間に右の点の認識が次第に浸透していったことが認定できる。
とくに以上の各証拠に被告人大久保の公判廷供述、全日空新機種選定準備委員会本委員会資料(甲二71)を総合すると、判示のとおり、昭和四七年七月下旬に行われたL一〇一一型機とDC一〇型機のデモフライトの結果、L一〇一一型機は騒音値が低く、自動着陸装置がすぐれていることなどが示され、騒音測定の際、ロッキードは沢山の予備品を積んで機体を重くして飛んだのに、ダグラス社の方は非常に軽機体で、しかも急上昇して騒音値が低く出るような飛び方をしたことや、同社の態度がやや官僚的であったのに比して、ロッキード社はコーチャン社長自らデモフライト機に搭乗して機内で説明するなど好評を博したことから、全日空の関係者の間で、L一〇一一型機の評価が非常に高くなったということが認められる。
そのうえ、右各証拠によればDC一〇型機は昭和四七年五月二日、同年六月一二日、同年七月二七日と相次いで事故を起こし、そのいずれもがエンジンあるいは機体の欠陥より生じたものと指摘され、同型機の評価が低下する一方で相対的にL一〇一一型機が有利な立場に立つに至ったこと、右各証拠に証人島田三敬の供述を総合すると昭和四七年七月ころには判示のとおりボーイング七四七型機はあまりにも大きすぎて全日空の有している路線には不適合と考えられ、事実上売込競争から脱落していたことがそれぞれ認められ、被告人大久保は公判廷において、同月末ころから同年八月初めにかけての全日空に対するL一〇一一型機売込をめぐる情勢は本部長に就任して以来一番いい状況にあったと供述しており、また大久保は同月一九日から四日間休暇をとって家族旅行に出かけていることが明らかである。
(三) 丸紅売込担当者の情勢判断
しかしながら、右のような情況の下で被告人大久保初め丸紅の担当者が売込成功間違いなしとの確信をもち楽観していたとは認め難い。
1 被告人大久保の一般的認識
被告人大久保は、公判廷において「航空機の商売は一ときも楽観できないのが本質であるので、楽観したということではない。本来不安定要素が非常に多いもので、いつ何時、どういう問題が起きるかわからない、本当の最後の契約がまとまるまではどんなに商売がつまっておってもこれで大丈夫だということがないのがこの商売の本質であると私は思っている。不安定要素の第一は機械構造上の問題で、墜落事故を起こすとほとんど駄目になってしまう。第二の要素は政治的なものである。」と供述している。しかし、同被告人は同じく公判廷において、昭和四七年八月当時に政治的要素のことは不安材料となっていなかったと述べているのであるが、捜査過程で検察官の面前においては「ダグラス社と組む三井物産が政財界の実力者に依頼して全日空にDC一〇売込を働きかけていることも予想された。」旨供述していたのであり(昭和五一年八月八日付調書〔甲再一76・乙24〕)、大久保が公判廷においてこの供述を変更した理由につき追及され、首肯するに足る合理性のある説明を何ら行っていないこと、前記のとおり全日空と三井物産の間ではDC一〇型機の仮押えといった問題があったが、このことを被告人大久保はよく知っていたと認められること等の諸点に同被告人の検察官面前供述につき前述したところをも考え合わせると、同被告人が昭和四七年八月当時右検察官面前供述のような不安定要素があるとの認識をもっていたものと認めるのが相当である。以上の点と被告人大久保の公判廷供述によると、前記のとおり同被告人が休暇をとって家族旅行に出かけたのは、全日空による機種決定が差し迫っていたとか、決定に関連した状況が緊迫してきているという感覚を有しなかったからであると認められ、同被告人が売込活動の結果を楽観していたからでないことは明らかである。
2 L一〇一一型機売込上の問題点
そのうえ、L一〇一一型機売込をめぐる情勢は前記のとおり、かなり好転していたと認められるとはいえ、これを全日空に売込むについては、つぎのような問題点が存したのである。その第一は世界の航空会社からの同機に対する総受注機数が他の競争機種に比べて少なかったことである。全日空調達施設部作成の「大型機受注状況」と題する書面(甲二116)によると、昭和四七年二月一五日現在の各機種の受注機数は、つぎのとおりであったと認められる。
L一〇一一       一五四機(確定注文 一〇八機 オプション 四六機)
DC一〇―一〇      九七機(確定注文  七六機 オプション 二一機)
DC一〇―二〇      二八機(確定注文  一四機 オプション 一四機)
DC一〇―三〇      八一機(確定注文  四一機 オプション 四〇機)
DC一〇―三〇F     一八機(確定注文   八機 オプション 一〇機)
DC一〇     合計 二二四機(確定注文 一三九機 オプション 八五機)
B七四七        一五〇機(確定注文 一五〇機          )
B七四七B        五五機(確定注文  五五機          )
B七四七F         二機(確定注文   二機          )
B七四七     合計 二〇七機(確定注文 二〇七機          )
L一〇一一の劣勢は明らかなところであり、これには開発の遅れもさることながら、旅客機製造業者としてのロッキード社の知名度の低さが大いに与っていたことは、証人川井力及び同坂篁一の各供述等関係証拠によって認められる。とくにロッキード社が全日空への売込につき競争相手としていたダグラス社については、証人川井力の供述によると、ダグラスの機体、ダグラスの設計思想が非常に保守的であり、使い易く、整備も非常に楽であり、安全の上からもよいという評価を得ていて、ダグラスの機体ならということで採用する会社も非常に多いことが認められるのであり、前記の連続事故があったにもかかわらず同社のDC一〇を依然として手ごわい難敵であると丸紅の担当者が考えたであろうことは容易に推認し得るところである。そして、ミングロン発コーチャンあて一九七二年三月一四日付テレックス(甲二144・甲再二69)及び被告人大久保の公判廷供述によると、若狭社長は同被告人に対してBEA(ブリティッシュ・ヨーロピアン・エアウェイズ)はL一〇一一型機を何故買わないのかと尋ねたことが認められるのであるが、このことは全日空でも、他の航空会社がどの機種を選定したかにつき、大きな関心を有していたことを示すものということができ、もとよりこの点は丸紅の売込担当者の十分に認識していたところと考えられる。
第二の問題点は、L一〇一一型機は中距離用の機材であって長距離用をもっていなかったことである。前記の受注状況にみるとおり、同型機は同じ中距離用のDC一〇―一〇型機よりは多くの注文を受けておりながら、DC一〇型機全体と比較すると総受注数では七〇機も下回っており、これはL一〇一一型機に長距離用がないことによることが明らかであるが、証人松岡博厚の証言及び被告人大久保の公判廷供述、新機種選定準備委員会総括部会作成の「大型機選定に関する検討結果報告」(昭和四七年三月二三日付、甲二66)、「46―6―28第一七回総括部会」と表題の付されたファイル(甲二95)中の企画室企画課作成「大型機に関する選定審議の総括」(昭和四六年四月二八日付)、新機種選定準備委員会事務局作成の「大型機選定に関する総括」(昭和四七年三月八日修正版)と題する書面、輸送機械部長作成の同年九月二一日付「L―一〇一一主要事項」と題する書面(甲二74・甲再二12)、輸送機械部長作成の同月二七日付「若狭社長―越後C・I社長会談」と題する書面(甲二74・甲再二9)を総合すると、若狭社長ら全日空の関係者は、同社の近距離国際線進出のことを考え、盛んにL一〇一一型機の長距離用機材開発の能否を問題としていたこと、ロッキード社では長距離用としてL一〇一一―二型の開発の構想を打出し、全日空関係者はその航続距離がどのくらいかを問題として丸紅の売込担当者に説明を求めるなどしていたこと等が認められるが、なお関係証拠によると右L一〇一一―二型機は右のとおり構想はされたがついに実現するに至らなかったもので、昭和四七年八月当時開発に目途が立っていたか、実現の可能性がどの程度あったかは極めて疑わしいといわざるを得ない。そして、右甲再二9の書面によると、同年九月二六日、若狭社長が伊藤忠商事株式会社の越後社長に対し、「東京―ホノルル間はL一〇一一―二型ならば問題はないというが理論的にそうであっても実際はどうか。」と述べた旨丸紅の売込担当者に伝えられたことが明らかであって、若狭社長がそこまで長距離用機材につき検討を行っているということを知っては、丸紅の売込担当者も、右の時点においてなお事態を楽観視し得なかったことは想像に難くないというべきである。
以上のことを裏付けるものとして、デモフライトの後間もなくのころ、丸紅機械第一本部航空機課長坂篁一が起草した昭和四七年八月七日付コーチャンあて書簡の草稿である「L―1011 Sale for JAPAN」という表題の書面(甲二74、甲再二7)がある。これには「L一〇一一の日本デモ飛行ガ成功裡ニ完了シマシタ事ハ誠ニ御同慶ノ至リデアリマス。」と書かれているものの、ロッキード社に対して勧告すべき点として、L一〇一一の長距離型の正式発表がないことはダグラスに比し弱く、L一〇一一に反対の者からこの点を衝かれると説得できないこと、日本の航空会社の幹部の考えでは総受注機数が決定的要因となること、とくに競争相手はL一〇一一の外国からの受注数が少ないことを指摘し盛んに吹き込んでいるので、BEA(ブリティッシュ・ヨーロピアン・エアウェイズ)から注文内示書(レター・オブ・インテント)のようなものでも、八月末以前にとりつけて大々的に発表すべきこと、「ロッキード社依然として財政危機」とのシアトル・ポスト紙の記事が日本語訳をつけて全日空幹部等にばらまかれているが、ロッキードもPRを上手にしてこのようなことがないようにすること、必要なら対抗措置をとることが望ましいことをあげ、以上の三点が放置し得ないL一〇一一の弱点であるとし、これらの適切な解決があればわれわれは勝利を確信すると結んでいる。これは坂課長が売込成功を確信し楽観していたのではなく、売込競争上大きな弱点の存することを認識し、その対策を講じていたことを明らかに示すものである。なお右書面への書込により、この書面は被告人大久保から不要として坂課長に返戻されていることが認められるが、同被告人の公判廷供述に関係証拠を総合すると、これは坂のあげる諸点がかねてから問題となっていた事項、あるいはコーチャンに言っても仕様のない事項であるとの理由によるものであって、被告人田中及び榎本の弁護人が主張するように被告人大久保が売込の成功を確信していたからでないことは明らかである。
3 昭和四七年ころの全日空の評価を聞いた丸紅担当者の反応
また当時丸紅機械第一本部輸送機械部長をしていた松岡博厚は、昭和四七年九月ころ、全日空では機種選定は社長に一任になっているとあちこちで言われ、同社関係者の方から「もうわしらの手を離れて全然わからん、あんた教えてくれ。」と言われるような情況であったが、そうした折り同社の江島航務本部長から「機種選定は企業の死活問題になることだし真剣に検討している。おおかた航務本部のパイロット連中は、やはりトライスターがはるかにいいと言っている。トライスターがいいというのは何もうちの本部だけじゃないよ、これは皆そうじゃないか。」というような話を聞いてえらくうれしかったことを覚えている旨証言している。そして輸送機械部長作成の同月一二日付「L―一〇一一江島専務トノ会談要旨」と題する書面(甲二74・甲再二10)には、同専務の話として「全日空航務本部ハ先週土曜日大型機問題ノ最終報告ヲ若狭社長ニ行ッタ。」としてその経過が書かれ、航務本部としては自動着陸装置、水平尾翼の構造、第二エンジン(尾翼の位置にあるもの)装着の形状(Sダクト)及び予備エンジンを翼に吊して運搬できる点等からL一〇一一がDC一〇に比してすぐれている旨報告したこと、若狭社長からの質問はほとんどL一〇一一に集中していたが、これに対して航務本部からいずれもロッキードに好意的な返答がなされたこと、運送、整備の各本部もL一〇一一を推すことになっていることが記載されているのであり、松岡博厚の検察官に対する昭和五一年四月一七日付供述調書(甲一34・甲再一34)には、同人が江島専務から右甲再二10の書面の内容の話を聞いた状況につき詳細な供述がなされていて、その内容が売込当時作成された資料である右書面と符合しており、右検察官面前供述の多くの部分を記憶がないとして否定する松岡の証言は極めて不自然であるのに比して、右供述調書は十分に信用し得るというべきであるが、これによると江島から右のような話を聞いた際の松岡の心境は、「しめた」と思い、足も地につかず、飛ぶようにして本社に戻り被告人大久保に報告したというものであったと認められる。同部長らがすでに勝利は間違いないとして楽観していたというのとは事情が異なるといわなければならない。
4 若狭社長の態度とこれについての被告人大久保の認識
被告人大久保は、前記のとおり昭和四七年七月末から同年八月初めにかけての状況を「一番いい状況」と考えていたのであるが、その根拠の一つとして全日空の若狭社長が終始L一〇一一型機に好意的態度を見せてきていたことをあげている。しかし、ミングロン発スミスらあて一九七一年一〇月一一日付テレックス(甲二139〈2〉・甲再二65〈2〉)及び被告人大久保の公判廷供述によると、同被告人とロッキード社のフレインとが若狭社長を訪問した昭和四六年一〇月一一日、同社長は「騒音が非常に問題である。DC一〇は騒音の点でL一〇一一と大差ない。」と述べたことが認められるのであって、前記のとおりL一〇一一が特色とし売物としてきた点をさほど評価していない口吻を洩らしているのである。またミングロン発コーチャンあて一九七二年二月二五日付テレックス(甲二143・甲再二68)に大久保の公判廷供述を総合すると、昭和四七年二月二五日、ロッキード社のミングロンと大久保とが若狭社長を訪問して、ロールス・ロイス社がエンジンの値上げをすることになったが、今注文内示書を出してくれれば、値上前の価格で提供すると申出たのに対して、同社長は大庭社長の関係で三井物産が押えたDC一〇のこともあるからと注文内示書提出をきっぱりと拒んだことが認められ、ミングロン発コーチャンあて一九七二年三月一四日付テレックス(甲二144・甲再二69)と同被告人の公判廷供述とを総合すると、同年三月一四日被告人大久保が同檜山と共に若狭社長に会ったところ、同社長は、機種選定の時期について尋ねたのに対して何の反応も示さず、前記のとおりBEAはL一〇一一を何故買わないのかを尋ねたほか、TWA(トランスワールド航空)とEAL(イースタン航空)における同型機の就航実績を出すよう求め、騒音が違わない点を再度問題にしたことが認められる。被告人檜山は、その検察官面前調書(昭和五一年八月一〇日付〔甲再一77・乙15〕)において、被告人大久保と共に若狭社長を訪ねロッキード社の飛行機を採用してくれるよう話したのに対し、同社長が「全日空では安全性、経済性、騒音量などを機種選定の基準としていろいろな角度から調査しておりますが、いろいろと難しい問題がありましてなかなか決まらないのですよ。」と言っただけで、とくにトライスターに関心を寄せているといった態度はみじんも見せてくれなかったので心配になった旨供述しているのであるが、後記のとおりこれは右三月一四日の訪問のときのことを述べているものと認められるところ、被告人檜山は公判廷において、「心配になった」との点を否定しているものの、そのとき若狭社長は機種選定には安全性、経済性、騒音値の低さという三条件が絶対に必要で、これを満たす飛行機が優先するのだとして、とくにL一〇一一がどうこういうことは言ってなかった旨、話の内容としては右検察官面前調書とほぼ符合する供述を行っており、右各供述により右訪問に際しても特段若狭社長がL一〇一一に好意をもっているような発言は行っていなかったことが認められる。なお、右の甲二144のテレックスには「檜山は若狭との会合につき、よかったという感触である」旨記載されているのであるが、後記のとおり被告人檜山は面談の際の若狭社長の言葉から同社長に感服して帰った旨公判廷で供述しており、これに右に認定したところを考え合わせると、右テレックスの記載は被告人檜山のL一〇一一採用の見通しについての感想ではなく、若狭社長についての感想が書かれたものとみるのが相当である。以上によれば、若狭社長がL一〇一一採用の意向を示すような好意的態度をとっていたとは認めることができないというべきである。もっともウィントリンガー発スティルマンあて一九七二年六月一四日付テレックス(甲二145・甲再二70)によると、昭和四七年六月一四日、被告人大久保の訪問を受けた若狭社長は同被告人に対して、「全日空が運航訓練をPSA(パシフィック・サウスウェスト航空)に依頼することができるよう、ロッキード社は全日空よりも先にPSAと契約する必要がある。全日空が買う前にBEAがL一〇一一購入契約にサインをすることが必要である。デモフライトは重要である。」などと述べたことが認められ、被告人大久保の弁護人はこれをすでにL一〇一一型機導入を前提とした発言であると主張しているのであるが、そのように解さなければならぬ理由は全くなく、却って前記昭和四六年から四七年にかけての若狭社長の発言に関係証拠を考え合わせると、右六月一四日の発言は、全日空がL一〇一一型機を選定するとすればとして、その前提として必要なことをあげたものとみるのが自然である。
証人石黒規一は、全日空による機種決定の一〇日か一週間前ころ、DC一〇の採用を求めて三井物産の植村取締役と共に若狭社長宅を訪ねたとき、同社長が「機種はまだ決めていない。一長一短があって決め難い。」と言い、かなり具体的に専門的な話をし、石黒が「望みがないわけではないのですね。」と念を押したのに対して、「そうですよ。」と応じてくれたので、元気づいて帰って来たと証言している。事柄の性質に則して考えてみても、若狭社長は採用し得ないことが客観的情勢に照らして明らかなボーイング七四七については別として(証人島田三敬の供述)、採用の可能性ある二機種については右のように最終決定に至るまで、丸紅及び三井物産の双方に対し採用につき希望をもたせる態度をとり続けてきたものと認めるのが相当であって、そのことは商取引を長く業としてきた被告人大久保の当然認識していたところというべきであり、同被告人自身「若狭さんはL一〇一一、DC一〇に限らず、すべてを白紙で見てくださるという感じを強く受けていた。」、そのことから「私どもとしては非常にL一〇一一に有利に展開されたという印象を強くしたわけである。」と公判廷において述べていることに徴しても、被告人大久保が一番いい状況と考えた根拠の一つとしての若狭社長の態度というのは、同社長がとらわれない立場で各機種の長所短所を検討して決定してくれるとの期待を抱き得たという以上に出るものではないというべきであり、同社長の言動から売込成就は間違いないとして楽観できた情況であったとは到底認めることができない。
(四) 被告人檜山の情勢判断
1 同被告人の検察官面前供述
全日空に対する売込に当ってもっとも強敵であったのは、航空機製造メーカーとしての歴史も古く、航空輸送の将来を展望したプランの中で多くの機種開発を着々と進めていたダグラス社のDC一〇であったが、ボーイング社の七四七SRもまたゆるがせにできない強敵であると見ていた。というのは、同社は旅客機製造の経験も豊富で、会社の財政状態にも格別の問題がなく将来性のある会社であったし、全日空に対して七二七を売込んでいるという実績があったからである。これにひきかえ、ロッキード社はもともと軍用機の専門メーカーで米ソのデタント政策への転換に伴う軍用機受注減からやむを得ず旅客機をも製造しなければならないという立場に追いやられた会社で、旅客機製造の経験も浅く、そのためかエアバス開発の出足が遅れていたうえ財政状態が悪く、ニクソン大統領のてこ入れで倒産は免れたものの、依然として今後の経営が楽観できない情勢下にあった。
トライスター売込のキャッチフレーズとなったのは、第二エンジンの地上整備がし易いとか、英国のロールスロイス社の画期的といわれた新型エンジンをもっていることなどだったが、大久保の説明によればその騒音もDC一〇との比較においてそれほど大差がないということだったし、またエンジンは、それぞれの社の好みや評価の違いもあるほか、未知数的要素もあって、必ずしも抜群であるとの評価は定着していなかったことから、他社との売込競争に優位を保つ材料としては不足の感があった。そのような条件下において、丸紅はライバル社の代理店である三井物産及び日商岩井を敵に回しながら苦しい売込競争を余儀なくされていた。(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔甲再一77・乙15〕二項)
昭和四七年春ころから強敵であったDC一〇の航空機事故が相次いで発生し、その安全性が取沙汰されるようになったことから、同年七月ころには、丸紅にとってやや有利な情勢に転じたのではないかと思い、全日空の機種選定態度に注目していた。ちょうどそのころ、大久保から「社長もぜひ全日空へ顔を出して、若狭社長にお願いしてくれないか。」と言われたので、大久保と二人で全日空に同社長を訪ねて面談し(注・この面談は七月ではなく同年三月一四日のことと認められること後記のとおり)型通りのあいさつのあと「ぜひロッキード社の飛行機をご採用になりますよう何分にもよろしくお願いします。」と言ったところ、同社長は「全日空では安全性、経済性、騒音量などを機種選定の基準としていろいろな角度から調査しておりますが、いろいろと難しい問題がありましてなかなか決らないのですよ。」と言っただけで、とくにトライスターに関心を寄せているといった態度はみじんも見せてくれなかった。私はその態度から、ひょっとしたら全日空は他の機種、とくにDC一〇に傾いているのではないかと思い、心配になった。(同調書三項)
右検察官面前供述について被告人檜山は、「ロッキード社がベトナム戦争の終焉を予測して旅客機に転換したというような記憶がいつの時点か分らないがあり、同社の財政状態が悪かったことは知っていたが、競争相手の会社も機種も全然知らなかった。トライスターの性能についても検察官面前供述のような認識はなく、DC一〇の事故は知ってはいたけれども、機種選定態度に注目していたということはない。若狭社長とは会ったが、それは表敬のためであったのであり、『この飛行機をよろしくお願いします。』といった次元の低いあいさつは私はしない性分である。若狭社長から一般的に選定基準についての話を聞き、立派な人だと感服して帰ってきたのであって、検察官面前供述のような心配をすることはあり得ない。」旨公判廷において供述している。同被告人の弁護人は右公判廷供述に副い、同被告人がL一〇一一型機の売込につき心配して内閣総理大臣に協力依頼をすることはあり得ないとし、その根拠として種々の主張をするので、以下これらの主張につき判断を加えつつ、前記検察官面前供述の信用性を吟味することとする。
2 丸紅にとってL一〇一一売込が有する意味
被告人檜山の弁護人は、同被告人がL一〇一一の売込に意欲を燃やしていたことはないのであり、そのような同被告人が同型機の全日空への売込につき被告人田中に協力方を要請し、その報酬として五億円の供与を申出るというようなことはあり得ないと主張し、その根拠として、先ず航空機に関する取引は丸紅の営業全体からみて微々たる意味しかもたないからと説いている。
公認会計士大村孝永作成の「丸紅株式会社のL一〇一一型航空機に付いての関係記録について」と題する書面(弁284)によると、昭和四八年度の丸紅の総売上高は四兆四、四一一億円で、うちロッキード社関係分は一八一億円、〇・四一パーセントを占めるにすぎないのであり、同じく昭和四九年度の丸紅総売上高は五兆五、四八四億円で、うちロッキード社関係分は三九七億円、〇・七二パーセントに止まっており、昭和五〇年度の右比率は〇・五九パーセントであること、丸紅の純益とロッキード社関係の損益金との関係をみると、昭和四三年度から昭和四七年度までロッキード社関係の損益はいずれもマイナス(赤字)でその合計額は七、二〇〇万円(年平均一、四四〇万円)に達しており、昭和四八年度には同社関係で四、四八二万円の利益を上げたが、これは丸紅全体の純益一〇〇億八、一五七万円の〇・四五パーセント、昭和四九年度の同比率は一・〇パーセント、昭和五〇年度のそれは〇・九一パーセントに止まることが認められる。このようなことから被告人檜山は公判廷において、「航空機が商社の目玉商品というようなことは全くなく、売上は全体の何百分の一であろう。全くネグリジブルの問題である。」と供述している。
しかしながら、「丸紅昭和四七年七月一〇日役員会資料」中「四六年下期六商社経営分析」と題する書面(甲二155・甲再二47)、「社報まるべに」昭和四七年七月号の「為替差損はねかえし増益に」と題する記事(甲二156・甲再二48)及び「機械第一本部―営業部門別経営会議資料―」と題する書面(甲二157・甲再二49)を総合すると、丸紅は三井物産、三菱商事、住友商事、伊藤忠商事、日商といった大商社との間で、売上高や輸入成約高といった業績につき激しい競争を演じていたことが認められ、昭和四六年下期における丸紅の輸入成約高は二、二二二億円、三井物産のそれが三、三四〇億円であったから、一機数十億円の大型航空機の売込の成否は右輸入成約高増減の大きな要素となり、したがって右商社間の競争に重大な影響を及ぼすものであることが明らかである。現に右甲二157の書面では、各商社の昭和四九年度九月期、昭和五〇年度三月期の機械部門における輸入高が掲げられてその分析が行われているが、その中に「輸入デハ三井ガユニバックノコンピュータ、GEの原発炉電力機、家電ノ輸入ヲ中心ニ強ク、ソノ他各社ノ差ハ、航空機ノ輸入ノ差異ニヨルトミラレル。特ニ日商ハボーイングノ売上ガ多イ(49/3期約五〇〇億円)。丸紅ノ50/3期ノロッキード輸入ハ約一六〇億円。」と書かれていることは注目を要する。航空機売込が会社の売上高を増大させ、他商社との競争に勝利を納める要素と考えられていたことは右の諸点から明らかである。被告人檜山も公判廷において右のような資料・数字を示されて、「航空機が売れたら売上高自体に影響することははっきりしている。」、「トライスターに限らず、何でも売込競争に勝つことは会社の業容の拡大につながるというメリットはある。」と述べているのである。
しかしながら、商社にとって航空機売込のもつ意味が右の点に止まらないことはつぎの諸点から明らかなところである。右に見たとおり、丸紅は長年にわたりロッキード社関係の取引においては赤字を重ねながらこれを止めることなく熱心に売込活動を行ってきたのであった。それのみならず、検察事務官作成の昭和五一年三月一二日付捜査報告書(甲一24)、丸紅とロッキード社間の代理店契約書一二通(甲二7ないし18)、丸紅とロッキード社間の一九七二年一一月一日付代理店契約書等一綴(甲二19)、証人八木芳彦、同豊田恭三及び被告人大久保の公判廷における各供述を総合すると、丸紅は昭和三三年以来ロッキード社(形式上はこれと別人格の法人たる子会社を含む)との間で代理店契約を結んで各種航空機の売込活動に従ってきたが、右契約は丸紅にとって極めて不利な内容のものであって、代理店たる丸紅の業務は単にメッセンジャー的な役務の提供が中心であり、口銭も安く、さらに丸紅はロッキード社の商品以外の航空機の取扱を禁じられ、ロッキード社に対し事務所と運転手付き乗用車を無償で提供する義務を負い、ロッキード社は丸紅の右代理店契約の業務担当職員に関する人事に介入し得るとの条項を含むものであった。かかる屈辱的ともいうべき契約が継続維持されてきた理由について、右豊田証人は、昭和三〇年の初頭から大きな総合商社は大抵飛行機を扱っており、これがなくなると困るからであったと証言している。また、コーチャンは、「昭和四三年か四四年ころ、檜山社長にロッキードは丸紅との関係を軍用機だけに限定し、商業用販売製品については別の商事会社を使うべきではないかとほのめかしたところ、同社長は真青になった。それほどもの凄い反応を私はかつて見たことがなかった。同社長は私に、同社のトップの人間の一人である大久保氏をL一〇一一販売のキャンペーンを率いるため私の方に配置しようと保証してくれた。これはわれわれが通常一つのキャンペーンでもつ場合よりも一レベルか二レベルほど上の者だった。」と証言している。これに対して被告人檜山はコーチャンの言うような事実はあろうはずがないと強い言葉で否定しているのであるが、前記のとおり極めて不利な契約を丸紅が甘受してきていた事実に加え、証人豊田恭三の証言によると、昭和四四年の三月ころ及びその以前から、クラッターは、再三にわたって丸紅飯田、とくに豊田本部長の情報収集活動に満足ではない、もう少ししっかりやらんと代理店契約を取消すかもしらんと婉曲に口にしていた事実が認められ、これらに照らして右コーチャン証言には信用性があるということができる。
そして「社報まるべに」昭和四四年三月号(甲二158〈1〉・甲再二50〈1〉)の表紙裏には「富士山上空を飛ぶエアバスL一〇一一(想像図)」の写真が掲載され、その二三頁以下には「“エアバス時代近し”―ロッキードL一〇一一機体に日本製品―」の記事が出ていて、その中に「当航空機課は今、ロッキードの総代理店として、全力をあげて日本航空、全日空にL一〇一一を売込み中である。」と書かれていること、同誌同年四月号(甲二158〈2〉・甲再二50〈2〉)表紙裏に、「去る一月カリフォルニアのロッキード工場でL一〇一一エアバス下請契約が、ロッキード・川崎航空機間で、当社豊田常務臨席のもとに行われた」との説明付きで、その場面の写真が載せられていること、同誌昭和四九年二月号(甲二159・甲再二51)二二頁以下に「エアバストライスターL一〇一一が日本にやってくる! ―ロッキード社から全日空へ引渡し―」の写真入り記事が三頁にわたって掲載されていること、英文の丸紅紹介誌「マルベニ・アニュアル・レポート」一九七三年版(甲二160・甲再二52)の機械関係売上商品の冒頭に写真入りでL一〇一一のことが書かれていること等の諸事実が存するのであり、L一〇一一が丸紅の取扱商品の目玉ないしは花形として扱われていたことは明らかである。
被告人檜山は「ざっくばらんにいって目先の採算性という点からはあまり歩のいい仕事ではないが、三井物産、日商岩井との売込競争は、商談の成立によって当面どれだけの利益を上げ得るかということだけでなく、しのぎを削り合った一流商社の面子に賭けてもその競争に勝つということ自体が極めて重要で、会社の実力、信用の評価にかかわる問題であった。もちろんこの競争に勝つことは社長としての手腕、力量の評価にも影響するところが大であり、またこの競争に勝ったということは、丸紅の大きな成果として後々にまで名の残ることであった。さらにこの競争に勝つことによる名目上のメリットも多々あった。それは会社の売上高に大きく影響するからである。商社間には売上高を競う傾向があり、三菱商事、三井物産、丸紅の順に売上高が多く、この三社がビッグスリーといわれ、あるいはスリーエムといわれていたが、丸紅についで伊藤忠商事、日商岩井、住友商事がおり、それぞれ上位進出を狙っていたから、丸紅としてはスリーエムの維持についても力を注いでいた。」旨検察官面前調書(昭和五一年八月一〇日付〔甲再一77・乙15〕)において供述し、被告人大久保も「売上高、採算性の上からメリットが薄いことは事実であるが、航空機売込の成功に伴う付加価値ないし名目メリットは大であって、エアバス商戦に勝利を納めることは金銭上の利益を度外視しても丸紅の歴史に一大金字塔を樹立し、後世にも残る実績として社史の一コマを飾る(ものである。)」旨検察官面前調書(昭和五一年七月二三日付〔甲再一75・乙23〕)において述べ、公判廷においても一般的にはそのように考えている旨供述しているのであるが、これらの供述はいずれも叙上の諸点と相応しており、十分に信用することができるというべきである。
証人若狭得治の供述によると、昭和四六年から四七年にかけて、三井物産の若杉社長と石黒副社長が連れ立って全日空若狭社長を訪問し、DC一〇型機を買ってほしいとの要請をしたことが五、六回ほどもあったと認められ、また前記のとおり、証人石黒規一の供述によると、三井物産の副社長であった同人は、DC一〇型機の全日空への売込に関し、被告人田中に会って同社に対し同型機を購入するよう行政指導をすることを求め、また担当役員を伴ってわざわざ若狭社長の自宅を訪問するなどしていたことが認められるのであるが、会社全体の売上高が昭和四六年下期において丸紅よりも八、〇〇〇億円ほども多かった三井物産にとっては(前記甲二155・甲再二47)、全日空に対するDC一〇型機の売込により期待される売上高及び利益が社全体の売上高及び純益中に占める比率は丸紅の場合よりももっと小さかったはずであるのに、同社の社長・副社長が右のような活動を行ったということは、右のとおり航空機売込成功が商社にとって採算上の数字をはるかに越える大きな意味を有することを裏付けるものであるとともに、航空機売込は商事会社にとって内閣総理大臣に働きかけてもこれを成功させようとはかるほどの重要な意味をもつものであったことを示すものといえる。以上の諸事実に加え、L一〇一一型機の売込は、これが丸紅のビッグ・プロジェクトの一つであった旨の証人副島勲の供述、輸送機械部長作成の昭和四七年九月一二日付「L―一〇一一現状市川会長ヘ報告ノ件」と題する書面(甲二74・甲再二18)中に「L―一〇一一プロジェクトハ全社的ナ性格ヲ持チ」と記載されているところから明らかなとおり、単に一部課の営業活動であったに止まらず、全社的に取組むべき事業と考えられていたものと認められる。
L一〇一一型機売込が丸紅全体から見て微々たる意味しかもたないとして、内閣総理大臣に対する請託はあり得ないとする前記主張の失当であることは明らかである。
3 被告人檜山の営業活動への関心とかかわり
被告人檜山の弁護人は、同被告人が被告人田中に対して本件協力要請をすることがあり得ないとの主張の根拠として、さらに総合商社の本部長制と同被告人の経営信条からいって、各本部の営業活動は本部長の所管に委ねられており、社長がその所管事項に直接干渉することはしない点をあげている。そして同被告人も公判廷において右の趣旨に副う供述を行っている。
なるほど「丸紅諸規程集」(甲二151)によると、同社の職務権限規程(昭和三八年九月二一日規程一〇三号)第五条には、「本部長ハ、社長ノ定メル業務運営方針ニモトヅキ、所管業務ニツイテ全社的ニ統括スルトトモニ、本部ノ執行方針ヲ定メ、本部内ノ業務全般ヲ総括スル。」と規定され、第二一条には本部長の職務権限として「(1)(企画・推進・調整)所管業務ニ関スル全般的執行方針ヲ樹立シ、業務ヲ企画・推進シ、必要ニ応ジテ各部店間ノ調整ヲ行ウ。」、「(3)(決裁・承認)部長カラノ申請事項ヲ決裁シ、関係禀議事項ヲ承認スル。」等の定めがある。これは日常の業務のすべてについて社長一人で具体的意思決定をすることは不適当であるから、日常の通常業務については、品目別、部門別に本部をつくり、その本部長に意思決定、執行をさせ、ただ会社全体としての一般的な方針、注意事項は社長が本部長に指示連絡をするとの制度を定めているものと解され(証人川崎立太の供述、被告人檜山の公判廷供述)、実際上も社長が通常の業務につきいちいち指示をするなどのこともなく、また各部門の業務内容のすべてについて社長が十分な認識をし、理解をする時間も能力もないことから、各本部長に委せて業務を遂行させているものと認められる(証人川崎立太、同大和薫の各供述)。
しかし他方、前記職務権限規程二一条(4)には、本部長は「禀議決裁ヲ得テ実施シタ事項、オヨビ本部長専決事項ノウチ、重要ナモノハ、コレヲ役員会ニ報告スル。」ことが定められており、同規程一七条には職務遂行上の原則として「各職位ニアルモノハ、事項ノ決定ニ当ッテハ、次ノ各号ニ従ワナケレバナラナイ (1)自己ニ決定権限ガアル場合ハ専決スル。但シ重要又ハ異例ノモノニツイテハ、専決範囲内デアッテモ上級職位ノ決裁ヲ得ル。」との規定がおかれている。すなわち重要又は異例の事項については、本部長がすべてその判断で処理できるわけではなく、役員会への報告、上級職位の決裁ということを通じて、これらが役員らの眼にとまり、その判断を得る途が開かれているわけであり、一本部の業務であっても、最終的には社長が決裁者として断を下すことのあり得る仕組みになっているということができる。本部制というのは、前記のとおり、社長がすべての業務につき意思決定することが適切でないという便宜上の理由から採られた制度であり、本来社長に属する権限を各本部長に行使せしめているにすぎないと考えられるから、右は当然のことというべきである。そして何が重要又は異例であるかは関係者の判断に委ねられている(川崎証言)ことを考え合わせれば、社長は各本部の業務事項中の重要と思われるものに容喙することができないような制度になっているわけではないことが明らかである。
実際に被告人檜山が、社長として各本部の業務とされている事項について自己の判断を示して干渉した例として証拠上次のものが認められる。
[1] フランス石油が中東の沖合にもっている鉱区を開発するにつき資金援助を求めてきたことがあったが、本部長、担当役員以上の取締役等で構成される朝会(甲二151中の「経営会議体規程第五編第二条」)で審議され、右要求に応じることは問題がありすぎるとの結論であったけれども、担当本部長が被告人檜山と直接交渉した結果、右要求に応じるとの社長判断が下された(証人川崎立太の供述)。
[2] 丸紅はかねてウラン精鉱を売るカナダのエルドラド原子力公社と代理店契約を結んでいたが、同社の供給力に限りがあるということから、担当の丸紅・電力原子力部では同社の代理店をやめ、リオチントジンク(R・T・Z)ミネラルサービス会社と代理店契約を結ぼうということにしたところ、右エルドラド社の者が被告人檜山に不平を言ったことから、同被告人は右電力原子力部副部長の大和薫に対して、代理する会社を変えるな、変えるならエルドラド社から文句を言われるようなやり方はするなと言い、同人とかなりの議論となった(結局檜山は右大和副部長の説得に応じた。)(証人大和薫の供述)。
また、干渉、介入とまでいえなくとも、被告人檜山はよく本部長に対し、メモをまわし、あるいは電話するなどして「あるプロジェクトが検討されている。大きなプロジェクトになりそうだけれども、お前の担当の商品にかかわりがある。これはお前のところでも十分フォローして追いかけているか、大丈夫か。」といった類の質問を行っていたことが認められる(証人川崎立太の供述)。被告人大久保の公判廷供述、甲二168〈1〉・甲再二58〈1〉の書面によれば、被告人檜山は昭和四八年九月一一日付日本工業新聞の「L一〇一一は圏外、日航のDC八の後継機」との記事の切抜を貼付した紙に「大久保常務殿 真疑の程度? ヒヤマ」と書いたメモを大久保に回したことがあると認められるのであるが、これも右のような質問の一例と考えられる。右川崎証人は「檜山社長のこのような質問のほとんどが業界紙や一般紙で読んだ情報や誰かと会って小耳にはさんだことであり、社長がこういう情報に接すると、これはどうか、大丈夫かときいてきたのは、やはり大きな仕事は洩れなく丸紅が噛んで仕事の量を増やし仕事の質も高めると、そういう希望が非常に強く、そういう形で部下を叱咤激励したのだと私は受取った。」旨証言しており、被告人檜山自身は公判廷において、右被告人大久保へのメモに関連して、「この記事に限らず、何かわが社の取扱とか、そういうものに関係しておるような記事が載っておった場合には、できればこういうことをちょっと書いて、その当該本部に渡すということによっても、ああ社長はそういうことまで注意をされておるのかという意味で大いに励みにもなるだろうというような考えも、私に一部ときどきあるので、軽い気持でちょいちょい回す、その一環である。」と述べている。
ところで、同被告人は常日頃営業各部門につき関心をもって諸情報に注意を向けているからこそ前記のような質問をなし得たものというほかはないのであり、このように各分野の営業活動に関心と理解を有するということは、会社の経営方針を打立て、各本部の業務事項中重要事項につき最終の決裁者として意思決定すべき社長としての当然の任務であるというべきである。被告人大久保も前記甲二168〈1〉の日本航空の機種選定をめぐる新聞記事についての被告人檜山の質問を、同被告人の航空機売込に対する大きな関心のあらわれと受止めていることがその公判廷供述により明らかであり、長年同被告人の下で仕事をしてきた本部長の受取り方として尊重する必要がある。
被告人檜山の弁護人は、証人坂篁一の供述に依拠しつつ、右新聞記事にかかる日本航空の機種選定の対象は長距離用機材であって、航続距離の短いL一〇一一がその圏外に置かれていたことは航空業界の常識であったから、右甲二168〈1〉の書面は檜山が航空機売込に関心を有していたことを示すものとはいえないばかりか、却って同被告人が航空業界の常識さえも知らないことを露呈している旨主張しているのであるが、右坂証人によればこのような日本航空の機種選定に関する情報については月に一度位は報告書を被告人大久保のところへ上げていたような記憶であるということであり、被告人大久保は仮にそのような報告書を読んでいなかったとしても、右檜山からの問合せに接してそれらの報告書に目を通すなり、航空機課の者たちに尋ねるなどしたはずであって、同被告人からの質問が非常識で的外れなものであったならばそのことは当然印象に残っていたところというべきであるのに、大久保は全く逆に前記のとおりこれを檜山の関心を示すものと受取ったと述べているのである。
また、いずれも輸送機械部航空機課坂作成の昭和四八年一一月二日付「日本航空機種選定情況ノ現状」(弁240・316)、同月一五日付「日本航空機種選定現状」(弁317)及び同月二九日付「日本航空売込ニ関シDC一〇ガ更ニ航続距離延長ヲ計画シテイル事」(弁241)と題する各書面を総合して認められる、当時丸紅航空機課が収集していた情報の内容、証人坂篁一の供述により認められるロッキード社の日本航空に対する売込活動の状況その他の関係諸情況に照らすと、被告人檜山が前記のようなメモを回して行った質問を非常識であるとか的外れなものと評することはできず、この趣旨の前記坂証言は信用し得ないというべきで、前記弁護人の主張は失当である。
以上の諸点に加え、「昭和四七年一〇月一七日第四七期幹部会社長方針示達」と題する書面(甲二161・甲再二53)によると、被告人檜山は右幹部会において、貿易面では輸入に力を注ぐことを求めたことが明らかであり、このように同被告人は社の輸出入の比率を、輸入の比重を増大する方向にもっていくことに非常に気を使っていたのであって(証人川崎立太の供述)、同被告人が、前記のとおり輸入額の増大に大きな関係をもち商社にとって名目上のメリットも甚だ大きい航空機売込に関心を有していなかったと考えることは困難であるといわなければならない。被告人檜山は、公判廷において、前記のとおり、L一〇一一型機の競争相手も会社も知らなかったと述べているほか、「L一〇一一の売込活動を認識したのがいつであるかも分らないし、エアバスが何ものか、ジャンボが何ものかも分らなかった。輸送機械部長からの『L一〇一一試験飛行の件』という文書なども、コピーが手許に来ていたと思うが、こんなことやるのかということで斜め読みして片付けたと思う。」と供述し、L一〇一一売込について関心がなかったことを強調しているが、以上の諸点に照らし到底信用することができない。
4 前記1の検察官面前供述の信用性
被告人大久保は捜査段階において検察官に対し、「檜山社長がダグラス社との空中戦に打勝ち、全日空にトライスター導入を実現させたいとする闘志と熱意は並々ならぬものがうかがえた。」と述べ(前記甲再一75・乙23の調書)、公判廷でも、檜山社長はL一〇一一型機売込にとくに関心を寄せていた旨供述しているが、これらの供述は以上2、3で認定したところに照らして十分に信用し得るというべきである。そして前認定(六(三)3)のとおり、被告人大久保は同檜山に対し売込状況について折り折りに報告していたのであり、前記のような売込をめぐる情勢はかなり被告人檜山に伝えられていたものと推認することができる。そして檜山も公判廷において、「とにかく飛行機の話というのは他の商取引と違って、取引条件が合い、非常に必要だということであってもすぐにまとまるというわけのものではない、あまり当てにならない仕事である。」旨供述しているのであって、L一〇一一型機売込の成否は予断を許さぬ性質のものであることを知悉していたと認められ、また、被告人大久保の供述によると、若狭社長が機種決定の時期について発言する都度これを被告人檜山に報告していたが、その言われた時期が来ると決定時期が先に延びるということが再三にわたって繰返されたところから、昭和四七年八月上旬ころ、檜山はこのことを懸念して大久保に対し、大久保が小言と受取るようなことを言ったことが認定できるのであって、前認定のような若狭社長の態度に接した檜山が、L一〇一一型機売込につき心配になった旨の前記の検察官面前供述は、以上に認定してきた諸情況に照らして自然というべきであり、十分信用し得るということができる。
もっとも右供述中の若狭社長訪問の時期に関する点の信用性には疑問がある。たしかに若狭得治は「檜山社長は大久保常務と一緒に一回か二回来た。最初は相当機種選定が進んだころで、昭和四七年の四月か五月ころじゃないかと思う。二回目はデモフライトが終ったあとじゃないかと思う。」旨証言しているのであるが、右の訪問の日については極めてあいまいな証言を繰返し、反対尋問の際弁護人が、檜山社長が大久保と一緒に来たのは一度だけで、もう一度は伊藤忠商事の越後社長と一緒であったことを前提とする質問をしたのに対して、その点を肯認する趣旨の証言をするに至っているのである。これに対し被告人大久保は公判廷において、被告人檜山と共に若狭社長を訪問したのは一回だけであるとはっきり供述しており、前記甲二144のテレックスによってその日は昭和四七年三月一四日であると述べている。檜山・大久保両被告人の若狭訪問であれば、必ずロッキード社にその事実及び会談内容がテレックス等で報告されたはずと考えられるところ、前記甲二144等の関係証拠の形状に鑑み、これらが押収されたロッキード・エアクラフト・アジア・リミテッド日本支社においては、これらの連絡・報告文書の控えはすべて保管されていたことがうかがわれるのに、二度目の右両被告人の訪問に関するそのような文書は見当らないのである。以上の諸点を考え合わせれば、昭和四七年七月ころ、被告人檜山が同大久保とともに若狭社長を訪問したと認定するのは困難というべきであり、1の検察官面前供述にいう若狭訪問は同年三月一四日のことであると認めるのが相当である。
そうすると、被告人檜山は同年三月の若狭訪問のころから、売込活動の結果につき懸念していたものと認められることとなる。ところで、後記第五章「内閣総理大臣の職務権限について」において認定するとおり、昭和四七年七月一日、運輸省は「航空企業の運営体制について」との方針を発表したが、その中で「国内幹線への大型ジェット機の投入は昭和四九年度以降これを認めるものとする。」としたのであり(決裁書類〔昭和四七年七月一日付空監五七三号〕。甲二29)、さらにそのころから同年八月にかけて大型航空機を含む民間航空機の緊急輸入の方針が打出され、同月末のハワイにおける田中・ニクソンの日米首脳会談の機会に右方針が両国政府により正式に発表されることとなり(証人原田昇左右、同尾松伸正の各供述、検察事務官作成の昭和五一年四月七日付報告書〔甲一44〕)、その間前記のとおりデモフライトが挙行されるというように、全日空等による機種選定を現実的、かつ、具体的な問題として意識させるようなニュースがつぎつぎと報道されるに至ったのである。被告人檜山は検察官面前調書(昭和五一年八月一〇日付〔甲再一77・乙15〕)において、右の諸情況の下で「全日空の選定はここ一、二か月がやま場であろうと判断し、最後の決戦の段階にきたと感じた。」と述べているが、右のような情勢の展開に照らしてまことに自然な判断というべきであり、そのような情況の下で同被告人がかねて抱いていた売込成否に関する懸念を募らせたことは優に認定し得るところといわなければならない。被告人檜山は同田中に金員を贈って、協力を要請しようと考えるのも無理からぬ心理状態にあったということができる。
九 全日空による機種決定後の丸紅関係者の動き
(一) 弁護人の主張
被告人田中及び同榎本の弁護人は、「全日空は昭和四七年一〇月三〇日にL一〇一一型機の購入を決定したのに、その後丸紅側からは田中に対し何のあいさつもなく、昭和四八年六月ころに、榎本からの催促があって初めて被告人大久保からロッキード社のコーチャンに支払の督促をして、漸く五億円供与の約束の実現に漕ぎつけたというのは、あれほど切羽詰って、コーチャンと被告人檜山らが共謀し、田中に請託し、固く成功報酬の約束をしたというにしては、あまりにも辻褄の合わない話である。しかも (イ) 昭和四七年一一月一六日、料亭木の下で一、〇〇〇万円を、本件請託に関する丸紅のお礼として被告人伊藤が榎本に渡したというのに、その際右両被告人間で五億円実行の話が全くされていないのは何故か、(ロ) 同年一〇月二九日、大久保は全日空の要請で、コーチャンといわゆる三〇ユニット、九〇ユニットの金員支出につき種々協議したというのに、右両者間で五億円実行の話が全く出ていないのは何故か、(ハ) 同月三〇日の全日空の機種決定の当時、檜山ら丸紅幹部は田中に対して何ら謝意を表明するような行動をしていないのは何故か、(ニ) 右機種決定直後にも約束の実行について、丸紅側とロッキード社側、田中の側で、何の相談も動きもないのは何故か、(ホ) 児玉誉士夫に対しては右決定直後に二回に分けて合計一〇億三、五〇〇万円が成功報酬として支払われているというのに、本件五億円の支払がなかったのは何故か、(ヘ) 同年一二月には田中内閣成立後初の総選挙が行われているのに、五億円についての話すらなかったのは何故か、(ト) 昭和四八年一月には、ロッキード社と全日空間のL一〇一一型機購入契約が正式に成立し、その際来日したコーチャンが檜山及び大久保とも会っているというのに、五億円支払について何らの話もされていないのは何故か、(チ) ロッキード社と檜山、大久保らとは、L一〇一一型機のほかにも同社製品の販売につき多くの会合や連絡をもっていたと認められるのに、五億円に関しては全く話合がなされていないのは何故か、(リ) 昭和四八年五月に榎本の弟の結婚式があり、伊藤が媒酌人をつとめ、田中及び檜山も来賓として出席しているし、また式の前後にも榎本と伊藤とは何回か右結婚に関して会っているのに、これらの機会に五億円の話がなく、この件につき思い浮かべたとの証拠もないのは何故か、との数多くの疑問があり、これらは本件請託が存在しなかったことを示すものである。」と主張している。
(二) 被告人田中に対する一、〇〇〇万円の供与
先ず、全日空による新機種決定の際の丸紅から被告人田中に対する謝意の表明の有無について検討を加える。
1 前提事実
コーチャンの証言、証人副島勲、被告人大久保及び同伊藤の各公判廷供述を総合するとつぎの事実を明らかに認定することができる。
被告人大久保は、昭和四七年一〇月二九日夜、丸紅・機械第一本部輸送機械部副部長松井直から、全日空若狭得治社長及び同社経営管理室長藤原亨一の要請として、全日空は翌三〇日L一〇一一型機を新機種に決定することとするが、それに先立ってつぎの諸事項、すなわち、三、〇〇〇万円及び購入するL一〇一一型機一機につき五万ドルで最初の六機分合計三〇万ドル、九、〇〇〇万円を翌三〇日午前一〇時までに用意すること、地上サポート要員としてロッキード社から技術要員二〇名を派遣すること、エンジンの性能保証、定時発着性(ディスパッチ・リライアビリティ)の保障をすること等をコーチャンに認めさせるよう交渉してほしいとの申出を受けた。なお、被告人大久保は同時に右三、〇〇〇万円を全日空が世話になったお礼として衆議院議員の二階堂進、橋本登美三郎にそれぞれ七〇〇万円ずつ、佐々木秀世、加藤六月、福永一臣、佐藤孝行にそれぞれ四〇〇万円ずつ、全日空の名前で届けてほしい旨を全日空からの要請として伝えられた。被告人大久保は同夜、コーチャンを宿泊先のホテルに訪ねるなどして種々協議した結果、コーチャンは右全日空からの要請を、九、〇〇〇万円を用意する時期を一週間程後にするほかはすべて応諾することとし、翌一〇月三〇日コーチャンの指示により、クラッターが三、〇〇〇万円を丸紅に持参した。右三、〇〇〇万円は被告人大久保から右衆議院議員六名への配付方を依頼された副島勲秘書課長に渡され、その上司の被告人伊藤が右松井直と話合ったうえ、右三、〇〇〇万円の中から、右二階堂及び橋本には各五〇〇万円、右佐々木及び福永には各三〇〇万円、右加藤及び佐藤に各二〇〇万円を交付することとし、同月三一日ころ、被告人伊藤及び副島の手で、右各金額が右各議員に届けられた。
なお、被告人伊藤及び右副島は、いずれも検察官の面前において、右の各議員に金員を届けるときは「全日空からのお礼である」旨を告げるよう求められており、大型ジェット機の導入につきお世話になった礼をするのだろうと考えたとの趣旨の供述をしている(両名それぞれの昭和五一年八月九日付検察官面前調書〔甲再一91・乙39、甲再一53〕)。伊藤も副島も、公判廷においてはいずれもこれを否定し、全日空から渡す金であるということしか知らず、各議員に渡すときもそのことしか告げなかったと供述しているのであるが、両名ともに他社の政治献金を、しかもその他社と議員との関係も知らずに、関係のない丸紅の秘書課で届けるなどということはとんでもないと最初は立腹したことが右両名の公判廷における供述により明らかなところであり、それなのにその後金員を届ける趣旨について何ら知らされることなしに、金員交付の行動に移ったというのは極めて不自然であるといわざるを得ない。ことに、丸紅という大商事会社の社長室長という責任ある地位にあった被告人伊藤が、いわゆる大物政治家である橋本登美三郎や二階堂進に、その全日空との関係や供与の趣旨も全く分らないまま金員を届けるような不可解な用務を引受けてこれを果すという無責任な行動に出たとは到底考えることができないというべきである。被告人大久保は公判廷及び検察官面前(乙28の供述調書)において、右認定のとおり、松井から「三、〇〇〇万円を全日空の名前において、同社がこの件で世話になった方々へのお礼として丸紅の手で渡してほしい。」と言われてコーチャンと交渉した旨供述しており、被告人伊藤及び副島の両名は、全日空がトライスター採用決定に先立って必要なこととして、要求してきたことであること及び同社がそのことで世話になった六名の議員へのお礼として渡すものであるとの説明を受け、やむを得ないとの判断のもとに金員を届けることにしたものと考えるのが自然というべきであって、この趣旨の伊藤及び副島の各検察官面前供述は十分に信用することができ、本件三、〇〇〇万円のうち二、〇〇〇万円の供与の趣旨は右各供述のとおりであったと認定することができる。
2 関係者の供述
(1) 被告人伊藤の供述
(検察官面前供述)昭和四七年一〇月中旬乃至下旬ころと記憶しているが、私は檜山社長に「トライスターの採用が決まったら丸紅としても田中総理に五億円の他に応分の礼をしなければならないのではないか。」と申上げ、話合った記憶がある。トライスターに採用が決定された場合、ロッキード社の金五億円がお礼として田中総理に差上げられることになっている話はあったが、それはあくまでロッキード社の金で丸紅は自分の腹を痛めるわけではないので、同社に全くおんぶしているだけのような感じを受けていた。私は榎本秘書からトライスターの全日空に対する売込に田中総理も大分お骨折り頂いていると聞いたので、これに対して丸紅としてもこの五億円とは別にお礼をするのが筋ではないかと考えたのである。そこで私は社長に前記のような提案をしたのだが、これに対して社長は迷っている感じで初めは消極的であったが、私が丸紅としてのお礼は腹を痛めていない五億円とは別に出した方が総理に対する礼をつくすことになるのではないかとの趣旨のことを言うと、社長は「それなら何か適当な機会にあげるようにしたらいいだろう。」と、そう積極的ではなかったが、私の提案を一応了承してくれたと私は思った。丸紅として田中総理にお礼をするとすれば、二〇〇万円、五〇〇万円といった程度では失礼になるし、他方大久保常務などからはトライスターの取引の口銭が薄いと聞いていたので、そう多額な金を出す余裕もないことなどを考えて、一、〇〇〇万円位が適当であろうと考えた。政治情勢から衆議院議員選挙も間近と言われていた時期だから、この一、〇〇〇万円を総理に対する正規の政治献金の名目で出しても自然であろうと私は考えていた。(昭和五一年八月九日付検察官面前調書〔甲再一91・乙39〕一項)
松井直と私とで三、〇〇〇万円の割りふりの話をしたわけだが、当初松井は全日空側の意向としてそれぞれの先生方に差上げる金額がはっきり確定しているわけではなく、丸紅の判断を加える余地のある幅をもった金額を言われているように話していたように思う。また田中総理についても丸紅の方で考えてお礼をする必要があると判断すれば、この三、〇〇〇万円の中から一部総理へのお礼に使ってもらってもかまわないというような全日空側の意向もあると聞いたように覚えている。いずれにしても私からあれこれ積極的な意見や案をこのとき松井に言った記憶はなく、橋本先生に五〇〇万円、二階堂先生に五〇〇万円と丁度納まりのいい金額に決めていき、それが大体二、〇〇〇万円に納まって残った一、〇〇〇万円が丁度田中総理に対するお礼としても適当な金額であったので、すんなり決ったように思う。(同調書二項) 全日空にトライスターを売込むことに成功してから間もなくのころ、私は榎本秘書をこの売込に成功したお礼の意味で再び「木の下」に招待した。(昭和五一年八月五日付検察官面前調書〔甲再一90・乙34〕五項) 私は副島にアポイントメントを取るよう、そして榎本秘書に「ロッキードに決まったことのお礼かたがたお会いしたいと言ってくれ。」と指示した記憶がある。(昭和五一年八月一一日付検察官面前調書〔一〇丁のもの、甲再一93・乙40〕一項) 昭和四七年一一月一六日、一、〇〇〇万円は私か副島のいずれかが「木の下」の座敷まで持込み、部屋の隅に目立たないように置いておいた。私は頃合を見計らって人払をした記憶がある。榎本秘書に礼を言って一、〇〇〇万円を渡す場に芸者が居てはまずいと思ったからである。芸者と副島も座敷を出ていったあと、私は「お陰さまで全日空はロッキードに決まりました。これは些少ですが、丸紅からのお礼として総理にお渡しください。総理によろしくお伝えください。」と言いながら、一、〇〇〇万円の入った包みを榎本秘書の方に差出した。その際「全日空の意向でもございます。」と付け加えたように思う。この金自体は丸紅の腹を痛めないロッキード社の金で、これを丸紅から田中総理に対する礼として使うことは全日空も了承していると聞いていたので、そういう同社の意向も一言付け加えておく必要があると考えたのである。榎本秘書は「それはえらいご丁寧に恐縮です。」と言って簡単にこの金の受領を了承してくれた。(同調書三、四項)
(公判廷供述)昭和四七年一〇月中旬ないし下旬ころだったかもしれないが、何かのついでのときに、田中総理への盆暮の政治献金を増額しなくてはならないという話をしたことがあったかと思うが、トライスターの採用が決まったら丸紅としても応分の礼をするというようなことを檜山社長と話合ったことは全くなく、一、〇〇〇万円程度の金がお礼として適当だなどということは全く思ってみたこともない。三、〇〇〇万円の割りふりは当初から決まっており、田中先生の分は一、〇〇〇万円であって、このように松井から全日空の意向として言われた配分案を私はそのまま受入れた。変更したことはない。副島課長に対して、「ロッキードに決まったことのお礼かたがたお会いしたい」と言えなどという指示はしていない。
「木の下」で榎本秘書に一、〇〇〇万円を渡したことは覚えているが、その際の具体的状況についてはよく覚えていなかった。同秘書に「全日空からお預りして参りましたが、お納めいただきたいと思います。」という趣旨のことを述べたと思う。全日空はロッキードに決まったなど、一、〇〇〇万円を田中総理に差上げる理由は何も説明していない。はっきりそういうことはないという記憶がある。一、〇〇〇万円は田中総理に贈る理由が分らないまま取次いだだけで、榎本秘書がどう言ったか、今、記憶に残っているような言葉はない。
(2) 副島勲の供述
(証言)クラッターが持参した三、〇〇〇万円のうち、二、〇〇〇万円は伊藤室長と私が六名の先生に届け、残った一、〇〇〇万円は昭和四七年一一月一六日に「木の下」で榎本秘書と伊藤室長が会食した席へ室長が持って行ったと記憶している。私は宴会の途中で席を外すように言われて、中座したことがあったが、その間にこの一、〇〇〇万円は榎本秘書に渡されたと思っている。
(検察官面前供述)昭和四七年一〇月三〇日、三、〇〇〇万円のうち二、〇〇〇万円を先生方に届ける話をした際、伊藤室長は私に「一、〇〇〇万円残ることになるが、これは田中総理に渡すことにする。総理に届けることについては別途考えることにする。」と言った。そこで私は総理に渡すことについては丸紅としてお礼をするのだなと思ったのである。八月二三日ころ私が取付けたアポイントメントに従って檜山社長が田中総理とお会いしていろいろお願いしたことや、八月二五日ころ料亭木の下で伊藤室長とともに榎本秘書と会い、ロッキード社のエアバス売込が大変だといった話や、檜山社長が田中総理にお伺いした件については榎本秘書からもよろしくお願いしたいなどと伊藤室長が言ったことから、田中総理に渡す一、〇〇〇万円は、全日空がロッキード社のエアバス購入を決定するについていろいろな障害があったのを、総理の権限でこれを取除いたり乗り越えたりしてロッキードのエアバスをスムーズに購入できるようにお願いし、総理が色々お骨折をしてくださった結果、ロッキード社のエアバスを買うことに決まったので、そのお礼として渡すことになったのだなと思った。
伊藤室長から「榎本さんとお礼かたがた会って宴会をやるから、アポイントメントを取りなさい。例の一、〇〇〇万円は、そのとき榎本さんに渡して榎本さんから総理に渡してもらう。」と言われ、榎本秘書に電話で「伊藤がお世話になったお礼かたがたお食事をと申しておりますが、いかがでございましょう。」と申入れ、衆議院の解散が迫っていて忙しく、一一月一六日の日程になってしまった。(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔甲再一54〕二、三項)
これに対して被告人榎本は公判廷において「昭和四七年一一月一六日に丸紅の伊藤社長室長と副島秘書課長と共に会食をしたが、それはロンドンに転勤することに決まった副島課長の送別会のつもりであった。その宴会の席上でロッキード社のことやトライスターの話など一切出なかった。伊藤社長室長から一、〇〇〇万円を受取ったことは全くない。同室長が宴会の途中で人払をしたこともなかった。」と供述している。
3 一、〇〇〇万円交付の事実
しかし被告人伊藤は捜査・公判の両段階を通じて、昭和四七年一一月一六日に料亭「木の下」で人払したうえ被告人榎本に対して一、〇〇〇万円を交付した旨一貫して供述しており、この供述はその点の副島証言と極めてよく符合している。しかも被告人伊藤は公判廷の同田中及び同榎本の面前において、右両被告人の弁護人から詳細な質問(事実上の反対尋問)を受けたがこれに耐えているばかりではなく、弁護人が、伊藤が検察官面前調書上で述べておりながら公判廷で否定している他の事項を引合いに出して、「同様にやはり一、〇〇〇万円もありもしないことを話したというんじゃありませんか。」ときいたのに対して、「これは違います。」と明確に答え、この件については取調中副島の供述内容を聞き自分でも「ああそうだったかな。」ということで思い出したと言い、「伊藤さん自身の記憶というのはやはりゼロに近いというふうにお聞きしてよろしいんですか。」との問いに対し、「思い出すまでは勿論のことそうでございますけれども、思い出すに至りましてからというものは、確かそういうこともあったんじゃないかなと、木の下という料亭も自分で思い出しましたし、そういうことがあったんじゃないかなと思っていますが。」と述べ、この一、〇〇〇万円の交付が自己の想起した確固たる事実である旨を強調しているのである。被告人伊藤は前記のとおり被告人榎本の弟の結婚に際して媒妁人をしたこともあるなど同被告人とは極めて親密な仲にあり、また被告人田中とも反目対立するような関係にあるわけではない。却って被告人伊藤は取調当時から被告人田中の名前を出すことは、それだけで、あるいはお金に関係があるということだけで疑惑に直結するものとして決めつけられてしまいそうで恐しいとの気持を抱いていたと公判廷において述べており、右田中及び榎本の両被告人にかかる事項については慎重な供述態度をとってきたと認められるのであって、右両被告人らにとって不利益な作り話を述べたとは考えられないのである。
被告人田中及び同榎本の弁護人は、三、〇〇〇万円は七・七・四・四・四・四の比率で配分されることが予定されていたのであり、この中に被告人田中に対する分はない、また被告人大久保も三、〇〇〇万円中の一、〇〇〇万円を被告人田中に献金するという話が出たことは全くないと証言しているから、どう考えても被告人伊藤が同田中に献金するため、一、〇〇〇万円を被告人榎本に交付したとは認められないと主張している。たしかに、被告人大久保及び同被告人を介してコーチャンに伝えられた三、〇〇〇万円の配分案は前記1で認定したとおり、橋本及び二階堂の両名に各七〇〇万円、その余の四名に各四〇〇万円であったのであるから、現実に配付されたところとは異なるのであるが、被告人伊藤は前記2(1)のとおり松井直と協議して変更した旨検察官の面前で供述している。そして同被告人は、配分額を最終的に決定するに当って丸紅の判断を加えてもよく、丸紅で一部を田中総理への謝礼に充ててもよいと松井から言われていたと供述していること前記のとおりであり、副島証人は、二、〇〇〇万円を六人の先生方に渡した残り一、〇〇〇万円の処分は丸紅に任されているというのが松井の話であったと、これとほぼ符合する証言を行っている。被告人伊藤は、公判廷においては松井から伝えられた配分案をそのまま受入れた旨述べていること前記のとおりであるが、そうすると松井が独断で配分比率を変更し、被告人田中の一、〇〇〇万円供与を考えたということになるわけであるけれども、松井の地位や業務内容からいってそのようなことは到底考えられないというべきである。そして被告人伊藤が右の公判廷供述と異なる検察官面前供述を行った理由につき追及され、「副島君がそういうような趣旨らしいことを言っているということであったので、私は当初に副島君の言うとおりで結構でございますといった手前もあってそのまま認めてしまった。」など首肯し難い不自然な供述を繰返していることを考え合わせると右公判廷供述は信用性に乏しいといわなければならない。被告人大久保の公判廷供述によると、全日空の若狭、藤原からの要請は、藤原が松井と面会して同人にこれを伝え、同人から大久保に伝えられたことが明らかであるが、ただ三、〇〇〇万円の配付先やそれぞれに対する金額について、丸紅で判断を加える余地もあることなど藤原の含みのある話に関して、松井が大久保には話さず、伊藤に話してその判断を求めたとしても、その点はことが大物政治家に関係するものであること、被告人伊藤が金員の配付を担当するようになったこと、同被告人は政界の事情に通じていること等を考え合わせるとむしろ自然な成行きと考えられるのであり、以上を総合すると、松井と協議して配付先及び金額を変更した旨の伊藤の右検察官面前供述には十分の信用性があるというべきであり、コーチャンや大久保が被告人田中に対する一、〇〇〇万円の供与の事実を知らなかったとしても異とするに足りないのである。
なお、被告人田中及び同榎本の弁護人は、前記のとおり、一、〇〇〇万円の被告人田中に対する供与が行われた点につき副島が被告人伊藤と符合する証言を行っていることに関して、検察官面前調書が存在する場合に偽証で追及される危険を冒してその全部を否定することは人情としてなかなかできないことであり、伊藤に対する遠慮もあって、趣旨は否定しながらも授受のみ認めたものと考えられる旨主張しているが、前記認定の昭和四七年八月二三日の被告人檜山と田中の会談のアポイントメント取得、同月二五日の伊藤と榎本の会合の状況に関し、認定事実に副う検察官面前供述のほとんどを公判廷において否定している副島が、本来虚構であるという伊藤に不利益な一、〇〇〇万円供与の事実を、偽証罪で追及されることをおそれ、同被告人に遠慮して、公判廷においてわざわざ述べるなどということがおよそ考えられないことは多言を要しないところである。また前記のとおり副島証人は被告人伊藤が否定している一、〇〇〇万円の処分を丸紅が任されていたことを証言しているのであって、同被告人に遠慮しつつ証言していたとも認め難い。
さらに被告人大久保の弁護人並びに被告人田中及び同榎本の弁護人は、一、〇〇〇万円の交付につき疑いを抱かせるものとして、つぎの諸点があると主張している。[1] この一、〇〇〇万円は一席設けるといった形を整えたうえ、他の六名の国会議員に対するよりも半月も遅く交付されたのは何故か。[2] 夜間、このような金を受取っても被告人榎本は始末に困るのではないか。[3] 被告人大久保は昭和四七年一一月一日ころ、本件三、〇〇〇万円の件について、副島から「あれは済ましておきました。」との報告を受けているが、何故同人はそのような報告をしたのか。[4] 料亭という人目につきやすいところで、わざわざ人払をした上で金を渡したのは何故か。副島が同席していたのは何故か。そこでこれらの主張についても検討を加えておくと、[1]については、次項で検討するとおり、この一、〇〇〇万円だけは丸紅からの謝礼の趣旨も込められていたとすれば、他の二、〇〇〇万円・六議員の場合と扱いが異なることは当然というべきであって、とくに一席を設け、そのため選挙前で多忙な被告人榎本の出席可能な日を選んだため、他より遅い日に渡すことになったとしても不思議はない。[2]の点については、副島の証言によるとこの一、〇〇〇万円は小さな鞄に入れられ、鞄ごと被告人榎本に渡されたものと認められるのであって、とくに運搬、保管上問題を生じるものではなかったから、同被告人が夜間に一、〇〇〇万円受領して始末に困るというようなことがあったとは考えられない。[3]については、この点に関する大久保の公判廷供述は、そのうち、副島の報告を受けて、コーチャンと一緒に若狭社長に会いに行ったときに同社長から尋ねられ済ませた旨報告したとの供述部分(甲一36の「外国人出入国記録調査書」によるとコーチャンは昭和四七年一一月三日に出国しているから、右報告はそれまでの間ということになる。)が、機種決定後間もなくのころその旨の報告を大久保から受けた旨の若狭得治の昭和四一年八月九日付検察官面前調書の供述記載と符合していることから信用性は高いと認められるのであるが、前記の事実関係の下では、前記六名の国会議員に対する金員の配付が終了すれば大久保が全日空から依頼を受けた事項は済んだということになるものと考えて副島がその旨同被告人に報告したとしても不思議はないというべきであるから、右報告の事実が本件三、〇〇〇万円の中から前記2(1)(2)の各供述のように一、〇〇〇万円が支払われたことを認定するにつき妨げとなるものではない。[4]の点についても、一、〇〇〇万円が前記[2]のような形状であることに加え[1]の点につき前述したところに鑑みれば、料亭での授受がおよそ考えられないこととはいい得ないのである。副島が同席したことは、次項で認定するとおり、一、〇〇〇万円を被告人田中に供与すること及びその趣旨を被告人伊藤が副島に説明しているのであるから、何ら異とすべきものではない。以上のとおり右弁護人らの主張はいずれも失当というべきである。
以上を総合し、被告人榎本を介して同田中に対し被告人伊藤から一、〇〇〇万円が交付された事実は疑いの余地なく明らかであるということができる。
4 一、〇〇〇万円供与の趣旨
被告人伊藤は公判廷において、前記2(1)のとおり、本件一、〇〇〇万円は、全日空からの依頼で理由も分らないまま取次いだだけであると供述しているのであるが、前認定のとおり被告人田中への一、〇〇〇万円の供与は全日空からの依頼事項中にはもともとなかったもので、被告人伊藤が松井直と協議のうえで決めたことであるから、右公判廷供述はすでにその前提において事実と相違し虚構を語っているものといわざるを得ない。そして右被告人田中への供与決定に至る経緯に鑑みると、本件一、〇〇〇万円は丸紅から同被告人に供与されたものであることが明らかであるところ、前記のように人払をして秘かに、しかも関係証拠に照らして明らかなとおり領収証も徴することなく交付されたものであって、情況上、いわくのある金員交付とみられることはいうをまたない。これに関し、本件一、〇〇〇万円はトライスターの全日空に対する売込につき被告人田中が骨を折ってくれたことに対する謝礼の趣旨で供与したものであることを被告人檜山との相談から始まる一連の事実に即して述べている前記2(1)の被告人伊藤の検察官面前供述は、右交付の際の情況に相応しているのみならず、副島勲の「お礼かたがた榎本秘書に会って一、〇〇〇万円を渡す。」旨被告人伊藤に言われたし、それまでの経緯から考えて全日空がロッキード社のエアバス購入決定につき総理が骨を折ってくれたのでそれに対する謝礼を渡すのだなと思った旨の検察官面前供述と相応している。副島は公判廷において右検察官面前供述を否定する趣旨の証言をしているが、かかる供述を行った理由については、「お礼かたがたというのはいささか創作的な感じがする。これは検事が『そうじゃなかったか。』ときいたのに対して、私はどう答えたか知らないが、敢えてそうではないと言わなかったのである。」、「総理の骨折りの結果ロッキードのエアバスを買うことに決ったのでそのお礼に一、〇〇〇万円渡すことになったという記載は、非常にクリエーションそのものである。私がそういう発言をするはずは全くない。それは記憶にないからである。ただ『こうではなかったか。』ということを言われて、肯いた程度であったかもしれないが、納得したわけではない。」、「エアバス購入を決定するについての障害を総理の権限で取除いたり乗り越えたりというくだりについては、背景を全然知らない。しかもそういう権限という言葉は私の言葉としては抵抗を感じる。障害といっても何が障害なのかも分らない。したがって私の言葉ではないのではないかと今にしては思うわけである。」などと、取調の具体的状況に即してではなく、供述内容から推して検察官に押付けられて否定せず調書に書かれたものであると思われる旨の、極めて説得力に欠ける説明を、右のようにあいまいな言葉で繰返すのみであり、副島の証言及び検察官面前供述につきこれまで述べてきた諸点を総合すると、前記検察官面前供述を否定する副島証言は信用性に乏しいというべきである。そして副島はロッキード社から本件三、〇〇〇万円を受領し、これを全日空から依頼された国会議員に対して交付するのに直接関与し、しかも前認定のとおり、その金員交付の趣旨も十分に承知していたばかりでなく、前認定(六(一))のとおり、昭和四七年八月二五日の被告人伊藤と同榎本の会合にも同席し、被告人檜山が全日空へのL一〇一一の売込につき被告人田中の許へ伺ってお願いした旨の話も聞いていたのであり、社の機密に属する事項の処理をその職務内容としている秘書課長であるから当然口が堅く信頼がおけるとの評価を得ていたものと認められるのであって、伊藤が副島に「お礼かたがた榎本秘書に会って一、〇〇〇万円を渡す。」旨を話すことは異とするに足りないというべきであり、右副島の検察官面前供述は十分に信用することができるといわなければならない。
被告人伊藤は、公判廷において、「確かその年の暮に総選挙があるというような感じのときであったので、何かの話のついでのときに、それまで盆暮に田中総理にしておった政治献金を増額して差上げなくちゃいけないなというようなお話を社長としたようなことがあったと思う。そのことを検事に言ったものだから、そのことと非常にミックスされて、ありもしないトライスターについての謝礼の話を押付けられてしまった。」旨供述しているのであるが、中居篤也作成の上申書(甲一48)によると、昭和四七年度下期(一一月二日)の丸紅から越山会に対する献金は同年度上期(六月二六日)の三〇〇万円から二〇〇万円増額されているのであり、本件一、〇〇〇万円は政治献金増額とは全く別のものであることが客観的にも明らかなのであるから、検事が両者を一緒くたにして押付けたというようなことはそもそも考え難いところである。しかも、被告人檜山との相談の状況など一連の諸事実についての被告人伊藤の検察官面前供述は極めて具体的かつ詳細であり、この点に関して檜山は全く供述していないのであるから取調検事がこれほどの事実を想像して押付け得たものとは到底考えることはできない。以上の点にこれまで被告人伊藤の供述につき縷々説明してきたところを考え合わせると、本件一、〇〇〇万円交付に至る経緯及びその供与の趣旨に関する前記2(1)の伊藤の検察官面前供述は十分に信用し得るというべきであり、そのとおりの事実を認定するのが相当である。
被告人田中及び同榎本の弁護人並びに被告人大久保の弁護人は、[1] 本件一、〇〇〇万円がトライスター採用決定のお礼であるとすると、同じ趣旨とされる五億円なら同じときに献金されなくてはならないし、それができない場合には少なくとも五億円の話がでていなくてはならないのに、この席で全く出ていないのは何故か(前記(一)(イ)と同じ疑問の主張)、[2] 本件一、〇〇〇万円がL一〇一一に決ったことについての丸紅のお礼の金であるとするならば、これを被告人伊藤一人で決め、被告人檜山と協議して了承をとったということがないのは何故かを問題とし、これらを右2(1)の検察官面前供述どおりの事実の認定を妨げるべき疑問として主張している。
右[1]の点については、本件一、〇〇〇万円と五億円とは趣旨は類似していても、前者は差当ってのあいさつ代りの金員として丸紅から一方的に届けたものであるのに対し、後者はかねて被告人田中に対し丸紅の社長である被告人檜山が約束していた金であって、別個の経緯を有するものであり、しかも、被告人伊藤は、昭和四七年一一月一六日当時、全日空による機種の決定があったから五億円供与を実行せよという指示を被告人檜山から受けてはいなかったものと認められるから、五億円供与の話が被告人田中との間を含めどのように進められているのか分らないと考えていたであろうし、ことが五億円という巨額の金員を賄賂とする極めて重大な犯罪行為に係るものであるとすれば、右一一月一六日の被告人榎本との会合において、伊藤が状況のよく分らないままにそのような話を自分の方から切出さなかったということも自然な成行きとして十分考えられるところである。一一月一六日の会合において五億円に関する話が出なかったということは、一、〇〇〇万円の供与の事実並びに五億円供与の約束及び請託の事実を認定するにつき妨げとなるものとはいえない。
[2]の点については、前記認定事実によると被告人伊藤は、「丸紅としても田中総理に応分の礼をしなければならないのではないか。」と被告人檜山に提案して話合い、同被告人から「それなら何か適当な機会にあげるようにしたらいいだろう。」との賛同を得たというのであり、本件一、〇〇〇万円の供与は伊藤が檜山との右話合の結果を実行に移すとの意図の下に行ったものと認められ、他方、檜山は、前記のとおり伊藤が丸紅の政治献金の取扱等を職務としているうえ、政界関係に明るいことから、右の賛同の言葉によって、被告人田中に対する謝礼の件は任せるから適宜処理するようにとの意向を示したものと解せられるのであって、本件一、〇〇〇万円の供与が被告人伊藤の独断でなされたものとしておよそ考えることのできない類のものであるとはいうことができない。
弁護人の前記[1][2]の主張はいずれも理由がない(したがって前記(一)(イ)の弁護人の主張も失当である。)
右に認定した本件一、〇〇〇万円の供与の趣旨に徴すれば、右供与は、全日空による機種決定直後に行われた丸紅からの被告人田中に対するお礼言上の意味をもつものということができるから、前記(一)において弁護人の請託、五億円の供与の約束に関する疑問として主張された(ハ)の点が失当であることを示すものである。被告人田中及び同榎本の弁護人は、右の請託や約束が被告人伊藤、同榎本を通じて行われたというなら別だが、頼むときは檜山、田中で五億円、お礼は伊藤、榎本で一、〇〇〇万円というのでは事柄の経過として不自然であると主張しているのであるが、丸紅からの差当っての礼金である一、〇〇〇万円につき、丸紅の常務取締役で社長室長であり、五億円授受について丸紅側の窓口になることを命ぜられた伊藤が、五億円の件で田中側の窓口になることになった秘書官榎本に対し交付して礼を申し述べるということに何ら不自然な点を見出すことはできないというべきである。
(三) 機種決定直前から催促に至る間の五億円約束に対する関係者の態度
前記(一)(ロ)・(ニ)・(ト)・(チ)の弁護人主張の疑問に示されているとおり、コーチャンは、全日空によるL一〇一一型機採用決定前夜の被告人大久保との一億二、〇〇〇万円支出等に関する交渉のときから、決定後半年余りを経て同被告人から五億円支払を督促する電話を受けるまでの間、被告人檜山、大久保らと会合をもつなど接触の機会が再三あったにも拘らず、右の被告人らとの間で五億円供与の実行に関する話合をした形跡は証拠上全く認めることができないのである。しかしながら前記二(三)で詳しく検討し認定したとおり、コーチャンが被告人大久保に対して本件五億円の支払時期はいつになるのかを尋ねたところ、同被告人がこれに触れたくない気持からあいまいな態度をとり、そのためコーチャンは次第にこの支払は急いでする必要がないのではないかと考えるに至り、そのような状態で昭和四七年一〇月三〇日の全日空による機種決定を迎え、時日の経過につれ、さらにその支払は真剣に必要と考えられているのではないかもしれないと考えるに至ったのである。そうするとコーチャンとしては、採用決定後はわざわざ自分の方から五億円の件の実行の話を持出して支払を求められるきっかけをつくるようなことをしなかったのは当然のことである。
他方、被告人大久保は前認定のとおり五億円の実行につきコーチャンに右金員を支払わせる役割を被告人檜山から指示されていたのではあるが、大久保公判廷供述によると、同被告人は被告人田中及び檜山間の話合の詳細が分らない以上は動きようがない、自分の知ったことではない(ナン・ノブ・マイ・ビジネス)として、檜山から、コーチャンにいつまでに支払わせろといった具体的な指示がなされない限り、本件につき何の行動もとるつもりはなかったことが明らかである。しかしながら右のような役割分担を命じられている以上、被告人大久保は、あるいは五億円の支払時期や、この件が現在いかなる状態にあるのかを自分から被告人檜山に尋ねてその指示を仰ぐなど積極的な動きに出てしかるべきであったとも思料されるのであるが、そのような行動すら大久保が全くとろうとしなかったのは、前記二(三)のとおり、同被告人に五億円の件に触れたくないとの気持があったためと認められる。とくに「私にしてみれば、この金の性格が賄賂であるだけに心情的にはできるだけ触れたくないという気持が一方にあった。」と同被告人が昭和五一年七月二三日付検察官面前調書(甲再一75・乙23)において述べているとおり、本件五億円が賄賂であるとすれば、その供与への積極的関与を避けようとするのは理解し得るところというべきであり、このような大久保と前記のような考えに至っていたコーチャンとの間で、弁護人主張の前記(一)(ロ)・(ニ)・(ト)・(チ)のように五億円支払のことが話題にのぼることがなかったとしても不思議ではないといわなければならない。
他方、被告人檜山も本件五億円支払の実行に関して、全日空による機種の決定後被告人田中側からの催促を受けるまで、被告人伊藤、同大久保に指示を与えるなど特段の行動に出てはいないものと認められる。もっとも被告人檜山の昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書(甲再一77・乙15)には、「一〇月三〇日全日空が正式に決定しましたが、その日私は太平洋経済委員会等の会議に出るためハワイに出発したので、その日どんなことがあったかは知りません。ただハワイから帰って間もないころ、伊藤君に五億円の献金の方がどうなっているかをきいた記憶がありますが、伊藤君からどんな返事があったかまでは思い出せません。」との供述記載があるが、右檜山検察官面前供述には被告人伊藤にきいたことのみ記憶にあって、肝腎の返事の内容について記憶がないという、首肯しかねる点もあり、してみると、ただ留守中のことをきいてみたという程度以上のものとは思われないので、とくに採り上げるには足りない。
そして被告人檜山が右のような特段の行動に出なかった理由としては、前認定のとおり同被告人が昭和四七年八月二三日の被告人田中との会談のすぐあとで、被告人伊藤及び同大久保の両名に対し、両名協力して五億円の実行をするようにとの指示を与えていたのであるから、檜山は適当な時期にその授受が実行されると考えていたと認められること、檜山の指示は比較的簡単な場合が多く、話し方が割とぶっきらぼうであることもあって詳しい説明を求めにくい感じであった(伊藤の公判廷供述)ことから、伊藤及び大久保の両名もその実行方について真摯に検討するまでの熱意を有せず、しかも前認定のような被告人ら相互に触れたくないとの心情から被告人檜山に問合わせ、あるいは改めて檜山から指示をすることもなく時を過ごしていたと認められること等の事情によるものと推認される。そして、五億円が賄賂であるとすれば、その件を無闇に口にするのを憚かる気持になるのはごく自然のことであって、この件に関する支払約束、実行に関するコーチャンとの交渉をすべて被告人大久保に任せていた被告人檜山が、コーチャンと会っても五億円実行につき話をしなかったとしてもとくに異とするに足りないというべきである。
以上述べたところに照らして(一)(ニ)・(ト)・(チ)・(リ)の弁護人主張の諸点も本件協力要請及び協力に対する成功報酬約束の事実を認定するにつき妨げとなる事由とはいえない。また、クラッター作成の「摘要」と題する書面(甲一196)によれば、同人の手許には昭和四七年九月末に一億一、一九〇万円の日本円があり、同年一〇月中には三億六、四〇〇万円が送られて来て、四億七、五〇〇万円が支払われ、同年一一月中には六億七、九〇〇万円が送られてきて、六億九、〇〇〇万円の支払がなされたことが認められる。全日空による機種決定の前後にこれほどの多額の金員支払がなされているのに、本件五億円が支払われなかったという事実関係は存するわけであるが、それは前認定のとおり本件五億円が、支払時期を丸紅側に尋ねても明らかにされない等の事情から不確定なものと考られるに至っていたことによるのであって、右事実が(一)(ホ)の主張の如く本件請託及び五億円支払約束の存在に疑いを抱かせるものということはできない。また成功報酬たる五億円の支払時期は、昭和四八年一月の全日空とロッキード社間のL一〇一一型機購入契約正式調印以後と考えられていたことをうかがうべき証拠(大久保の昭和五一年七月二三日付検察官面前調書では、「四八年一月には契約の調印も終え常識的にはそろそろ田中総理との右約束を果さなければと気にしていましたが」と、述べられている。)があり、そう考えられていたということにも合理性があるということができるから、昭和四七年一二月に田中内閣成立後初の総選挙があって、被告人田中としては多額の金員が必要であることが被告人伊藤らに推測できたとしても、だから五億円供与を急ごうとの話にならなかったといってとくに不思議な点はないといわざるを得ず、(一)(ヘ)の点の弁護人の主張も失当といわざるを得ない。
以上を要するに、本件五億円が昭和四七年一〇月三〇日の全日空によるL一〇一一採用決定の後八か月ほどを経て催促を受け支払われることになったについては首肯し得る事由が存するというべきであって、右支払の遅れを理由に本件五億円支払の約束及びL一〇一一売込についての協力要請の事実を認定するにつき合理的疑いを挿む余地があるということはできない。
一〇 被告人檜山の内閣総理大臣の職務権限についての認識
被告人檜山は昭和四七年八月二三日の被告人田中との会談において、「なんとか全日空がロッキード社の飛行機を導入するよう、総理の方から然るべき閣僚へ働きかけるなどして何分のご協力をお願いする。」旨要請したと検察官の面前において供述していること前記のとおりであるが、同被告人は公判廷において、内閣総理大臣の権限など考えたこともないと供述しており、そうとすれば同被告人が被告人田中に対して右検察官面前供述のようなことを話すことはあり得ないことになるばかりでなく、同被告人が内閣総理大臣の職務権限につき、いかなる認識を有していたかは、田中・檜山会談の内容の確定、さらには本件贈収賄の犯罪の成否に関係するので、以下被告人檜山の内閣総理大臣の職務権限に関する認識の点について検討を加えることとする。
同被告人は検察官に対する昭和五一年八月一〇日付供述調書(甲再一77・乙15)で「総理大臣は内閣の最高の責任者であり、各大臣を指揮監督する強大な権限をもっているので、航空機の導入についても、それに関する権限をもっている運輸大臣や関係当局の大臣らを指揮して全日空にトライスターを導入させることができると考えていた。運輸大臣は航空会社が新しい航空機を購入してそれを路線に就航させることや、運航回数、運航時刻等についても認許可権をもっており、航空会社に行政指導をなし得ることを十分承知していた。航空会社の場合でも国の認許可や行政指導の権限の行使に対して拒否し得ないことは、長年航空機の売込などの仕事をやってきた立場からよく知っていた。それで私は田中総理にお願いすれば運輸大臣やその他の関係大臣らを指揮して全日空にトライスターを購入するよう働きかけてくれるものと考えていたし、また総理自らも全日空に働きかけてくれるものと期待していた。またトライスターの導入が決定した場合には、その輸入問題があるので、関係の通産大臣等に対しても輸入がスムーズにいくように働きかけてくれるものと期待し、そのような趣旨を含めて五億円を差上げる気持になったし、この際巨額の金を差上げておけば、今後丸紅やロッキード社のために総理大臣としての強大な権限を駆使して何かと便宜を図ってくれるであろうことの期待もあった。」と供述している。被告人檜山は、公判廷においては右検察官面前供述のようなことは考えたこともないし、運輸大臣の権限に関する右供述記載の事項は全く知らなかった、行政指導についての右供述は誤っているし、過去に通産省からクレームがついて輸入がスムーズにいかなかったという経験もなく、そのようなことは考えてみたこともない、田中総理に右の供述のようなことを期待したというのは事実に反すると供述し、右検察官面前供述はすべて自分が述べないことを検事が勝手に書いた作文であり、質問ではなく大商社の社長たる者が総理の権限を知らないなんていうわけはないだろうというようなやりとりの中で調書記載のような文章を書いて行ったものであって、全く検事の自作自演のようなものであると述べている。
被告人檜山の弁護人は、職務権限の認識は実質的にみて意見であるから検察官の意見によって誘導され易いとし、本件では取調検察官も主任検察官から教示を受けて職務権限を勉強し、素人の被告人らに押付けて自白をとったものであり、そのことは丸紅三被告人の検察官面前供述が軌を一にし符節を合わせていることから明らかである旨主張し、被告人伊藤の弁護人、同田中及び同榎本の弁護人も同じ趣旨の主張をしている。
右職務権限についての認識に関する丸紅三被告人の検察官面前調書の供述記載は、いずれも右被告人檜山の検察官面前調書にみられるように内閣総理大臣が運輸大臣初め関係大臣に対する指揮監督権限を通じて大型航空機の導入等運輸行政全般につき強力な権限をもっていること、総理は運輸大臣等を指揮し、あるいは直接に全日空に、トライスターを採用するよう働きかけてくれるものと期待したこと、総理や運輸大臣からトライスターを採用すべく行政指導されれば、全日空もこれに従わざるを得ないことを述べており、論点及び結論ともに相互にかなりよく似た内容のものとなっていることはたしかである。しかしながら、このことは弁護人主張のような押付け、作文が行われたことを必ずしも意味するわけではない。この点について先ず第一に指摘すべきことは、右被告人らは内閣総理大臣の職務権限は何かという法律問題に関する見解及びかかる見解の理論的根拠の開陳を求められていたわけではないということである。被告人らに内閣総理大臣の職務権限に関する認識として要求されているものは、被告人らの供与した金員の趣旨が右職務権限に関するということができるための要件に当る具体的事実ないしは制度上の仕組の概要についての認識であり、しかもかかる認識は未必的なもので足りるのであるから、各要件すべてを確実なものとして認識する必要はなく、丸紅三被告人が取調を受け供述調書に録取されたのもそのようなものとして意味をもつに止まるのである。
また指摘すべき第二の点は、供述調書の性質と、その作成の方法である。すなわち、供述調書は、公判において証拠として使用されることを主たる目的として作成されるものであるから、供述者の述べることがすべてそのまま録取されなければならないものではなく、捜査官が犯罪の成否ないしは情状といった、公判において重要な意味をもつ点を中心に供述者の話を整理し、重要な点については詳細に深く掘り下げた質問をし詳しい供述を得てこれを録取し、関連性の乏しい事項に関する話は採り上げないなど、録取すべき事項の取捨選択、各事項の取扱い方につき捜査官の調整判断を加えて作成すべきものであることは改めていうまでもないところである。そして犯罪の成否に関する事実につき供述を録取する際、右のような事項の選択等に当っては、犯罪構成要件が何であるかの法律的判断(解釈)が要求される場合があるが、捜査官が自ら研究のうえ妥当と考えられる解釈を施し、その観点から必要と考える事項につき供述者に質問を行い、その述べるところを調書に録取することは当然に必要なことであって、何ら非難されるべき筋合のものではない。本件において、内閣総理大臣の職務権限に関する認識として被告人らがいかなる事項についての認識を要するかに関し取調検察官が視点を定めたうえ、取調及び供述録取の事項を調整して発問し供述調書を作成することも、右に説明したとおり一般に供述調書の作成過程において捜査官の調整判断が加わる場合と何ら異なるところはないというべきである。本件丸紅三被告人らが職務権限の認識として述べている内容は、検察官が右のようにして選択した事項につきその観点からの発問に答えたものであると考えられるのであり、三被告人の検察官面前供述が前記のとおりほぼ同じ事項を論点としていることは、弁護人主張のとおり各取調検察官が内閣総理大臣の職務権限について検討し、統一的見解をまとめ、これに基づいて前記認識対象事項を決めてそれぞれこれを供述録取の事項として発問取調をしたとすれば、当然のことなのであって、以上縷述したとおり、そのこと自体何ら違法あるいは不当の科ありとすべきものではない。また、被告人伊藤の弁護人は、職務権限に関する検察官の見解は、憲法・内閣法・航空法等の法令のほか、閣議決定やこれに基づく当時の諸施策についての知識を動員するといった難解な議論を経てようやく到達し得るもので、かような職務権限に関する被告人らの自白なるものは被告人らの自発的供述によるものではあり得ず所詮検察官の見解にすぎないと主張しているが、これは検察官面前調書の前記のような性質に照らして失当といわなければならない。
問題は以上のように検察官によって取上げられた事項についての被告人檜山らの供述内容が検察官による押付け、あるいはその作文であるか否かという点である。ここでは被告人檜山の供述について検討し、被告人伊藤及び同大久保の各供述については、それぞれ当該被告人と被告人檜山との共謀につき論述するところで触れることとする。前記被告人檜山の検察官面前供述により明らかなとおり、検察官が同被告人に発問した事項は、[1] 民間航空会社の航空機導入につき運輸大臣その他の行政当局が許認可の権限をもっている、あるいは行政指導をすることができると考えたか、[2] 内閣総理大臣は各大臣を指揮監督する権限をもっていると考えたか、[3] 国の許認可や行政指導は民間会社に対していかなる影響力を有しているか、[4] 内閣総理大臣たる被告人田中は運輸大臣らを指揮し、あるいは自ら直接全日空に働きかけて、同社がトライスターを購入してくれると考えたかという諸点であったと思料される。右のうち、[2]の点については被告人檜山は公判廷において知らなかったと供述する一方で「その程度きかれれば常識的にそうだろうというように分ります」と、ことが「常識」に属する事柄であることを認めている。また[3]に出てくる「行政指導」については、「これはよく私ども、仕事にも関連してきておりましたので知っておりました。」と供述しているのである。而して同被告人は行政指導というものは、おしきせとか強制的なものではないことを強調し、その民間企業に対する影響力が小さい旨供述しているのであるが、同被告人自身が「実業の世界」昭和四七年九月号に書いた「積極果敢な行動力に期待する―田中新総理に望む」との表題の記事(甲二166〈2〉)の中に「国際協調を基盤として秩序ある輸出に心がけなければならない。この点で政府による適切な行政指導も時には必要になるであろう。」との文章があり、同被告人は公判廷でその意味について説明を求められて「民間がある程度自主調整をやっていけばいいんだが、民間だけではやはり過当競争になる。そういう場合に官の行政指導というものが一本てことして入ってくれば、民間も国家的な見地からこういう方法で行こうじゃないかということになる。」と、行政指導が民間企業の自主的企業活動を規制する効果をもつことを承認しているのである。右のような効果をもつ行政指導がかなりよく行われていることは、法律による行政の見地から極めて大きな問題であるとして巷間種々論ぜられているところであって、行政指導の右のような影響力は周知の事実というべく、被告人檜山が前記検察官面前調書で行政指導について述べたところは、同被告人の認識を卒直に述べたものと優に認めることができる。また、被告人伊藤の検察官面前調書(昭和五一年八月一〇日付一七丁のもの〔甲再一92・乙33〕)によると、同被告人が昭和四七年八月上旬に被告人檜山に対して「機種は総理が決めるんですか。」ときいたところ、同被告人は「直接的には運輸大臣が決めることかもしれないが、いずれにしても総理は運輸大臣に指揮権をもっているのであろうから、この際総理に頼むことが最も強力な手段であろう。」という趣旨のことを言っていた事実が認められる(伊藤は公判廷において右事実を否定しているが、後に詳論するとおり、右検察官面前供述には十分の証明力を肯認するのが相当である。)。そうすると、前記[1][2][3]の点について被告人檜山は検察官面前供述のとおりに考えていたことが明らかであり、以上[1]ないし[3]につき同被告人が自己の当時の認識をそのまま取調検察官に対して供述したと認められることに、右被告人伊藤の供述により認定した事実その他関係証拠を総合すると、檜山の前記[4]の点に関する前記検察官面前供述もまた同被告人の認識をそのとおりに表現したものと認定するのが相当である。
したがって前記被告人檜山の内閣総理大臣の職務権限についての認識に関する検察官面前調書は、検察官が押付けないし作文したものではなく、同被告人の認識をそのまま述べたところを整理して録取したものと認められる。さらに、以上検討したところを援用して、被告人檜山が同田中に対し、「総理の方から然るべき閣僚に働きかけるなどの協力をお願いする。」との趣旨の要請をしたとの前記検察官面前供述には十分にその裏付があるということができる。
一一 五億円供与の申出と請託及びその承諾
(一) 認定事実
以上の諸点、とくに前記四の被告人田中側からの催促の存在の事実は、被告人田中に対し同檜山が五億円供与の約束を行ったことを明らかに示すものであり、前記二、三の被告人檜山の田中私邸訪問直後の言動、引続き同大久保及び同伊藤への指示並びに右訪問の前後に行われた大久保のコーチャンとの交渉、伊藤の榎本との接触の状況に徴すれば、右五億円支払の約束がロッキード社から田中への献金を取次いだというようなものでは到底あり得ず、ロッキード社の支出する五億円を檜山が責任をもって供与することを内容とするものであったことが十分に認められる。そして二のコーチャン・大久保会談の内容、三の被告人檜山の同伊藤への指示の文言、六の伊藤と榎本の接触とやりとり、被告人田中の檜山に対する「ロッキードの件はうまくいっているでしょう、心配はないから。」との言葉、七の田中による全日空への直接、間接の働きかけの事実は、昭和四七年八月二三日、檜山が田中に対して全日空へのL一〇一一型機売込につき協力を要請し、右売込成功の場合には五億円を供与することを申出たとの檜山の前記一(一)1の検察官面前供述と極めてよく整合しているということができ、前記五・八・九で認定した田中・檜山会談の場所・時間等の諸状況、L一〇一一型機売込をめぐる情勢、全日空による機種決定後の関係者の行動等の諸情況にも、右供述と矛盾ないし不整合の点はないばかりか、右のような客観的諸情況と右供述は全体としてよく相応しているといえる。右供述は十分に信用することができ、前記五(二)4・5において田中・檜山間で交わされた具体的な文言につき指摘したところをあわせ考えると、前記一(一)1檜山の検察官面前供述のような趣旨の話合が右両名の間でなされた事実を合理的疑いを容れる余地なく認定することができる。
(二) 被告人田中の協力行為の内容
前認定のとおり、本件要請に当って、被告人檜山は同田中に対して、その職務権限を行使し、航空会社の航空機導入につき許認可の権限をもつ運輸大臣その他の関係大臣に対して指揮監督権限を発動して、これらの大臣をして右許認可権限を行使させあるいは行政指導を行わせ、ないしは自ら直接全日空に対して働きかけて、同社にL一〇一一型機を導入せしめることを期待していたことが明らかである。すなわち右八月二三日の会談において被告人檜山が同田中に対して「なんとか全日空がロッキード社の飛行機を導入するよう、総理の方から然るべき閣僚へ働きかけるなどして何分のご協力をお願いします。」旨要請したという発言内容を吟味すると、それは「航空機導入に関して許認可の権限をもつ運輸大臣その他関係大臣を指揮して右権限の行使あるいは行政指導により全日空をしてL一〇一一型機を選定購入せしめてほしい。」旨を明示的に要請したものと解される他、黙示的に田中の全日空への直接の働きかけを要請したものと認めることができる。
前記(一)で認定したとおり、被告人田中は同檜山の要請を承諾したわけであるが、その際田中が右要請内容をどのようなものと理解していたかがつぎに問題となる。右認定の要請文言に加え、前記のとおり高度の信用性を肯認し得る証人石黒規一の証言によると、昭和四七年九月二一日、同人が総理官邸に田中を訪ね、三井物産の全日空に対するDC一〇型機の売込につき、「前に全日空に対してDC一〇を購入するようにお口添をお願いしたが、その件はまだそのままで延び延びになっているけれども、どうやらロッキードに内定したような噂話も飛んでいるくらいで、もうそろそろ本格的に注文が決まる時期になりつつあるので、前にお願いしたような趣旨で、お力添なり、お口添なりということがお願いできるかどうかお伺いした。」旨話したところ、同被告人が「航空機問題の担当大臣は運輸大臣と通産大臣であるから、もし必要があるなら、右両大臣のところで全日空に対して行政指導するように両大臣に通知をしておきましょう。」と話した事実が認められることに徴しても、田中が檜山の運輸大臣その他関係大臣を指揮すべきことを求めた前記明示的要請はそのとおり了知してこれを承諾したものと認められる。また前記の黙示的要請についても、前認定のとおり、被告人田中は、自由民主党幹事長のころではあるが、数度にわたり三井物産の石黒常務取締役から、全日空へDC一〇型機を購入すべく口添を求められ、そのころ同社の若狭社長に対して電話で「三井物産からDC一〇を買うように口添してくれと言って来ているから、検討してくれ。」と言ったことがあり、また、昭和四七年八月二三日の本件被告人檜山との会談後、小佐野賢治を通じて渡辺全日空副社長に対し、また若狭同社社長及び右渡辺副社長と面談した機会に、両名に対し、それぞれL一〇一一型機の選定購入を慫慂する話をして、自ら全日空に対する働きかけを行っていること、内閣総理大臣の全日空にL一〇一一型機を選定せしめるような協力行為としては、運輸大臣等に対する指揮監督権限の行使のほか考えられるのは右のような自身の全日空に対する働きかけしかないことに照らし、田中はその趣旨の要請も含まれていることを了知のうえ、これに承諾を与えたものと認めるのが相当である。
ところで、後に第五章「内閣総理大臣の職務権限について」において詳細に論述するとおり、右要請された行為のうち、運輸大臣らに対する指揮監督権限行使の行為は内閣総理大臣たる被告人田中の職務権限に属するものであり、全日空への自らの働きかけの行為は同被告人の職務と密接な関係を有する行為であって、いずれも刑法一九七条にいう「職務」に当るものということができる。してみると右のような特定された職務行為の依頼は同条の「請託」に当るというべきであり、これを承諾した被告人田中は同条の「請託ヲ受ケ」に該当する行為をなした者ということになる。
(三) 要請された行為の履行と五億円の関係
(一)で認定した事実によると、被告人檜山は同田中に対し、「実はアメリカのロッキード社が今全日空に対して飛行機の売込をかけているんですがなかなか思うようにいかないんです。実はロッキード社の方からそれができたら総理に五億円程度の献金をする用意があると言って来ているんです。」と言い、五億円をいわゆる成功報酬として供与することを申し出たのであるが、右五億円供与の条件としては成功、すなわちL一〇一一型機の全日空への売込の成就のみを提示したものというべく、したがって、敢えてこのあたりの趣旨を詮索すれば、被告人田中が現に右要請された行為をすると否とにかかわりなく、右売込成就の場合には五億円を支払う旨申し出、これを承諾した同被告人との間には右の趣旨の約束が成立したものと解すべきである。しかしながら、このことと右五億円の報酬がどのような行為の対価の趣旨で支払われるものかということとは別個に検討すべき問題である。検察官は本件五億円を請託の報酬であると主張し、しかもその点に関する弁護人の「右の報酬とは単に請託を被告人田中が承諾したという、それだけの意味で謝礼するという趣旨なのか。それとも全日空がトライスターを購入するについて、被告人田中の総理としての職務権限の行使による働きかけが寄与し効を奏したことの謝礼の趣旨という意味なのか。右以外に何らかの意味があるのか」との釈明要求に対しても「請託の報酬」との文言を繰返すのみで、五億円が要請された行為に対する報酬であるとは明らかに主張していない。しかしながら、五億円という金額はまことに巨額であり、内閣総理大臣の職務行為が期待できるからこそこれを供与する旨の約束が行われたものと考えざるを得ないのである。そして前記二(二)で詳説し認定したとおり、コーチャンも被告人大久保も本件五億円が被告人田中のL一〇一一型機売込実現のための協力に対する報酬なり謝礼であるとの認識を有していたのであり、被告人大久保の前記二(一)1の供述によると、そのことは明示的に話合われなかったけれどもお互いにそれまでの経過から分っていたはずだというのであって、以上のような情況の下では、長年商取引を業としてきた被告人檜山も同様の認識に立っていたことは容易に推認し得るところというべきである。そして被告人檜山が、時の総理大臣たる被告人田中に協力を要請しておきながら、その協力行為がなされない場合をも積極的に想定して本件のような約束をしたというような不合理なことは考えられないところであり、本件の約束が前記のような田中の現実の協力行為如何とかかわりのない趣旨に帰するものとなったのは、時の内閣総理大臣が協力を約した以上必ずや実行してくれるということを当然の前提とせざるを得ず、また事柄の性質上協力行為が現に行われたか否かを知ることは困難であることから、檜山の側としては、売込が成功すれば、現に協力行為がなされたか否かを詮索せず、これがなされたものとして、その報酬・対価としての趣旨で五億円を供与することとしたものと認めるほかはないのである。したがって、本件五億円は、前に説明した被告人田中の職務権限に属する行為ないしは職務と密接な関係を有する行為による協力に対する報酬・対価、すなわち賄賂であると認められる。そして以上の諸点を総合すると被告人田中はその点を十分に認識したうえで本件五億円供与の申出を受諾したものと優に認定することができる。
なお(一)で認定したところによると、被告人檜山は同田中に対して「ロッキード社の方から」それができたら五億円程度の献金をする用意があると言って来ている旨を述べ、さらに「先程お話ししたお礼の五億円はロッキード社から全額出していただくもので、丸紅から出すものではございませんので、その点お含みおきください。」と言っているのであるが、本件五億円が前記のとおり被告人檜山が丸紅社長としてその業務目的達成のため要請した協力に対する報酬・対価である以上、同被告人が右のような文言を用いたとて、自らその供与の主体となることを否定する(すなわち単なる取次の)趣旨のものではあり得ないのであり、右金員を支出するのがロッキード社であることを明らかにしたにすぎないものと解するのが相当である。
(四) 結論
本件訴因の「請託の報酬」の語は、これを被告人田中の協力行為に対する報酬の趣旨を含むものと合理的に解釈することができるから、以上縷々説明したところを総合すると、訴因の範囲内で、被告人檜山が同田中に対し請託のうえ、五億円の賄賂の供与を申し出、田中が右請託を受け承諾したうえ、右賄賂の供与を受ける約束を檜山との間で行った事実を認定することができる。
さらに付言するに、前記認定のとおり、丸紅側から被告人田中に対して本件五億円の供与が実行され終ったのであるが、その時点における右金員の授受は、以上に縷々述べたところからも明らかなとおり、まさに被告人田中の前記協力行為に対する対価・報酬の趣旨をもってなされたのであって、その際現実にそのような協力行為がなされたかどうかにはかかわりなく、協力行為がなされたものとして授受がなされたということができる。
のみならず前記七に認定したとおり、被告人田中は全日空関係者に対して、直接、間接に働きかけをなしていることがうかがわれ、被告人檜山ら丸紅側においても前記六(四)で認定した田中の言動等から、田中が請託に相応した何らかの協力行為をしてくれたとの認識を現実に有していたものと推認することもできるのである。
第四  本件請託及び賄賂供与の共謀
そこでつぎに、被告人檜山と同伊藤、同大久保、コーチャンの間における右請託及び賄賂供与に関する共謀の成立及びその内容について検討することとする。
一 被告人檜山及び同大久保間の共謀
(一) 両被告人の供述
1 被告人檜山の検察官面前供述
昭和四七年八月に至り、従来のような全日空に対する直接的な売込活動をしていただけでは他社に先を越され、トライスターの売込ができなくなるのではないかと強く考えるようになった。また他社は全日空に対して影響力の強い政財界の実力者など航空行政にかかわりのある閣僚や国会議員などに頼んでいろいろな角度から全日空に働きかけているだろうと思った。そこで私は田中総理のような閣僚に対し強力な指揮監督権をもっている方にお願いして側面から全日空に対し働きかけてもらうことが極めて効果的であると思った。とくに八月末から九月初めにかけてハワイにおける総理とニクソンの会談が予定されており、ロッキード社に異常な熱意をもっててこ入れしているニクソンと会談する田中総理にそのロッキード社のトライスターの導入方をお願いしておけば、会談でその話が出て導入機がいきおいトライスターに傾くなど万事好都合であると思われた。ところでお願いに当って相当額の金を差上げればトライスターの導入は決定的なものになるだろうと思ったが、そのようなことで総理大臣に金を差上げることはいわゆる賄賂を差上げることになり、それが発覚した場合には丸紅という会社が犯罪を行ったということになるので、当社から金まであげてお願いしようとは考えていなかった。多分八月中旬ごろではなかったかと思う。大久保から全日空の態度はいまだはっきりせず、ダグラス社らの売込活動が極めて活発であるので、丸紅としてもより強力な手を打つ必要があるとの話が出たので、右のことを話したところ大久保も賛同した。(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔甲再一77・乙15〕四項)
2 被告人大久保の検察官面前供述
昭和四七年八月に入って間もないころと思うが、会社で檜山社長から「金を使ってトライスターの件を早くまとめたいと思う。そのことで総理に話をしようと思っている。」と言われた。それはこの際田中総理に賄賂を贈ってでもトライスターの売込を有利にすすめ、この攻防戦に決着をつけてしまいたいという意思のあることを披瀝されたのである。いうまでもなく檜山社長は丸紅のワンマンとして君臨されており、同社長の主張、見解は絶対であり、私は拒否すべからざるものとして持出された問題であると受止め、その場で「ああそうでございますか。」と承知したのであった。(昭和五一年七月二三日付検察官面前調書〔甲再一75・乙23〕四項)
被告人檜山は公判廷において右1の検察官面前供述を否定して、「同年八月二一日にコーチャンと会うより前に、田中総理に会って全日空にトライスターを導入させるよう頼もうと考えたことはない。大久保から全日空の態度がはっきりしないとか、ダグラス社等の売込活動が活発なので強力な手を打つ必要があるとの話はなかった。」と供述している。被告人大久保は公判廷においては「昭和四七年八月上旬に檜山社長から『総理のような実力者にお願いする。』という話は伺ったことがある。総理のような実力者とはやはり『総理』という意味にとったと思う。検察官面前供述のようなことはその当時のことを私がいくら思い出そうとしても全く記憶がないから、そういうことはなかったと申上げているわけである。取調べの当時そういうことを述べたのは、おそらくその後に田中邸に行ったことなど合わせて、直結して私が想像で述べてしまったことではないかと思っている。」と供述している。そして被告人檜山の検察官面前供述について「状況が悪いから強力な手を打つ必要があると私が檜山社長に言ったことはない。」と述べている。他方被告人檜山は同大久保の公判廷供述につき、「同年八月上旬ころ、大久保に対して、総理のような実力者の方にお願いするとの趣旨のことを言ったことは全くない。」と公判廷において供述している。
(二) 被告人檜山の供述について
被告人檜山は、公判廷において前記(一)に示したとおり供述し、その根拠として「私は商売に全く介入しないというのが経営方針であり、大企業の社長のなすべきことはトライスターの売込ができなくなるといったことを心配することなどではない。」と述べているのであるが、檜山が個々の営業活動に関心をもち介入した例があること、L一〇一一型機の全日空への売込についてことに関心をもち、非常に心配していたことは前認定のとおりであり、同被告人が公判廷において否定している検察官面前供述の「全日空の態度はいまだはっきりせず」との点は、全日空が決定時期の見込を教えてくれながらそのころになるとその時期をさらに先に延ばすということが繰返されたことから同被告人が大久保に対して小言を言った旨の前記の大久保の供述と相応しているのである。この点に前記全日空の機種選定の経過を考え合わせれば、被告人檜山の右公判廷供述が事実に反することは明らかである。同被告人は前記(一)1の検察官面前供述は検事の作文であると供述しているけれども、右供述中、競争会社が政財界の実力者に頼んで全日空に働きかけていると思ったこと、ハワイにおける田中・ニクソン会談のことも考えたということは、いずれも前記第三・二(一)2、第三・二(二)で引用しているコーチャンの各証言と極めてよく相応し、また、被告人大久保の「檜山社長においてもおそらくは敵役のダグラス社と組む三井物産が政財界の実力者に依頼して全日空にDC一〇売込を働きかけていることも予想され、この空中戦に勝利を納めんが為には丸紅でも田中総理のような超実力者に金を差上げてでも全日空に側面から働きかけてもらう必要性を感じとられたのだと思う。」(昭和五一年八月八日付検察官面前調書〔甲再一76・乙24〕)、「この時期はハワイにおける日米首脳会談を間近に控えていた。檜山社長の脳裡にはその席上両巨頭の間で外貨減らしの目玉商品とされていたエアバス購入問題が協議されることは必至であるとの見通しをもっておられたのではないかと思うのである。ニクソン大統領とロッキード社の関係が浅からぬ縁で結ばれていることはなかば公知とされており、日米間で論議をよんでいたエアバス問題に話題が移れば、ニクソン大統領はおそらく田中総理に対してロッキード社のトライスター購入を要請するであろうことが予想され、そこで同総理が日本としてもトライスターを購入したいと考えているとか、同大統領の要請にこたえたいとの一声でも発すれば、この問題は盤石の重みを持ち、田中総理の右意図が関係閣僚なり随員等にも洩らされることによって日本側に強いオブリゲイションが作用することは当然であり、檜山社長はこの辺の事情を十分に計算し見抜かれていたのではないかと思う。」(昭和五一年七月二三日付検察官面前調書〔甲再一75・乙23〕)との供述と符合しているうえ、当時の諸情況とも整合していて十分に信用し得るというべきである。そして(一)1の供述中の「田中総理にお願いしようとの旨を被告人大久保に話した。」との点は、以上の被告人檜山の判断に照らしてごく自然であり、大久保が捜査公判を通じて一貫して供述しているところと符合するのであり、これまた高度の信用性を肯認することができる。以上により被告人檜山が(一)1の供述のとおり同大久保に話して了承を得た事実及びその動機として右供述のような判断をした事実は優に認められる。
(三) 被告人大久保の供述について
問題はさらに、(一)2の検察官面前供述のとおり、被告人檜山が右の話をした際に、被告人大久保に対して、「金を使ってトライスターの件を早くまとめたい。」と言ったか否かということになる。被告人大久保は前記のとおり公判廷においてその検察官面前調書の供述記載は全く自己の自発的供述をそのまま録取してあるものである旨述べており、その法廷における供述態度その他関係証拠に徴して、右(一)2の検察官面前供述には十分の任意性を肯認することができるというべきである。そして右供述中被告人檜山が「金を使ってトライスターの件を早くまとめたいと思う。」と言ったとの部分を被告人大久保が公判廷で否定する根拠は、具体的な記憶がないから、その後の事態と結び付けて想像で述べてしまったことであると思うというのであり、さらにそのような供述をしたのは、供述した当時賄賂の既成概念に強く支配されていたためと、昭和五一年七月二三日当時記憶喚起が十分できていなかったためであるともいうのである。
同被告人のいう賄賂の既成概念に支配されていたということがそれ自体不合理で首肯し得ないことは前記のとおりである。また、記憶喚起が十分ではなかったという点にしても、社長から内閣総理大臣に金を贈るという極めて重要で、犯罪に結びつくことが容易に考えられるような事項について初めて相談をもちかけられたというのであるから、そのときのことは深く脳裡に刻み込まれているのが通常というべきであるうえ、被告人大久保の弁護人が「同被告人の記憶の底に埋まっていた部分を掘起こして整理した」と主張し、同被告人もこれに副う供述をしている同年八月八日付供述調書においても、右事項については訂正がないばかりか、従前の供述に対する補足として「八月上旬から中旬にかけてのある時期に…私は檜山社長に田中総理へ働きかけトライスターの件を早くまとめあげる意図のあることを知るに至ったのでした。…この空中戦に勝利を納めんがためには丸紅でも田中総理のような超実力者に金を差上げてでも全日空に側面から働きかけてもらう必要性を感じ取られたのだと思います。」と述べ、前記(一)2の供述を維持していることが明らかであり、右供述は大久保の記憶に基づくものと考えざるを得ないのである。そして大久保が公判廷において述べているとおり、その後の事態との結びつきを考えると、すなわち、被告人檜山が昭和四七年八月二三日に被告人田中に前認定の請託と五億円供与の申出を行っている事実、前記のとおり檜山が全日空による機種選定も大詰に近づいたことを知り、かねてから抱いていた売込の成功に関する不安の念を募らせていた事実、さらにはハワイにおける日米首脳会議が同月末に予定されており、当時両国の貿易収支不均衡是正方策の一つとして大型航空機等の緊急輸入が問題となっていた事実等を考え合わせると、同月上旬ころから檜山が田中に対し金銭を贈ってでもL一〇一一型機の売込を成功させようと企図し、その旨被告人大久保に話したということは自然であるといわなければならない。
(四) 客観的諸事実との整合と認定事実
被告人田中及び同榎本の弁護人、被告人檜山の弁護人は、被告人大久保は全日空へのL一〇一一の売込につき楽観していたから、檜山との間で(一)2の供述にあるような共謀をするはずがないと主張している。被告人大久保が昭和四七年八月は本部長になって一番いい状態であったと供述しているとおり、DC一〇型機の連続事故やL一〇一一型機のデモフライトの成功などで情勢は好転しつつあったものの、不安材料は依然として存在し、DC一〇型機との熾烈なたたかいの結果には予断を許さないものがあったのであり、そもそも航空機の売込はいつ何時どんな問題が起こるかもしれない、これで大丈夫ということのないところに本質があると被告人大久保自身が考えていること前記のとおりであって、売込担当の最高責任者たる同被告人としては、社長から売込成功の可能性をより高める手段として(一)2の供述にあるような話を持出された場合、これを不必要といえるような情況にあったとは到底考えられないところである。
また被告人大久保の弁護人は、被告人伊藤の供述調書にも昭和四七年八月上旬ころ被告人檜山から金の話が出たという記載はなく、そのころ同被告人は単に「田中総理に頼むのはどうだろう。」と言った旨が書かれているだけであり、同じ八月上旬には同じ話が出てしかるべきところ、檜山が政治献金など金の面に明るい伊藤に対して「金を使って」と言っていないのに、政治や献金に暗い大久保に金のことを言ったとは到底考えられないと主張しているのであるが、大久保に檜山が田中総理に頼む旨の話をしたという時期は、昭和四七年八月上旬と確定し得るわけではなく、大久保自身、前記のとおり昭和五一年八月八日付検察官面前調書においては、「八月上旬から中旬にかけてのある時期」とも述べているのであり、檜山もこの時期を「八月中旬」ころと検察官面前調書において供述していること前記(一)1のとおりである。そうすると、被告人伊藤がその検察官面前調書において、被告人檜山との間で被告人田中に供与する金額をいくらにするか協議したと供述している八月中旬に右檜山・大久保の会談があったと認める余地もあるというべきである。また時の総理大臣に金銭を贈って航空機売込についての協力を要請することが贈賄の犯罪に当ることを被告人檜山が認識していたことは前記認定のとおりであり、これを企図した当初にはかなりの心理的緊張があったことは容易に推認し得るところであって、そのため伊藤に対する話し方が異なってしまったということも十分考え得るというべきであり、あるいは伊藤の検察官面前供述全体を通観すると、八月上旬の伊藤との話の際は金を贈ることを暗黙の前提として語り合われているようにも解され、いずれにしても右弁護人の主張は失当といわざるを得ない。
さらに被告人大久保の弁護人は、被告人伊藤の検察官面前調書では同被告人は被告人田中に贈る金の額について被告人檜山から相談を受けたとされているのに、大久保はそのような相談に与っておらず、田中邸訪問のアポイントメントを取るについても相談を受けていないことから、大久保は檜山からこの件で腹の底からの相談相手とはされていなかったといえるのであり、したがって「金を使って」というような話を八月上旬ころに檜山からされるはずがないと主張しているのであるが、先ず、田中に贈る金銭の額を決めるのに、政治家に関することや政治献金のことに明るい伊藤と相談し、右のような事柄に疎い大久保を右の相談に入れなかったことは異とするに足りないことというべく、その他の弁護人の挙げる事情があったからといって、同被告人が腹の底からの相談相手ではなかったということにはならないものというべきであるうえ、檜山がL一〇一一型機売込活動を担当している営業本部の総指揮者であり、最高責任者である大久保に対し、売込の成功を図る決定的手段ともいうべき「金を使う」話を早くから持出して相談したとしても、何らそこに不自然な点は存しない。なお、L一〇一一売込成功の場合丸紅がロッキード社から受取る口銭が低く押えられていたことは前認定のとおりであり、現に本件五億円をロッキード社から出させた事実及びその他の関係証拠に照らすと、檜山が「金を使って」と言ったとき、その金はロッキード社に出させることを意図していたものと認めるほかはないというべきである(したがって、八月上旬ころに檜山が大久保に「金を使う」話をしたというのは大久保の「ロッキード社にかわって、丸紅が五億円もの金を出すということは檜山社長のケチな性格から判断しても、また丸紅の経理操作上も不可能なこととして許されないことは明らかで」との供述〔昭和五一年七月二三日付検察官面前調書〕とも矛盾する旨の被告人檜山の弁護人の主張は当らない。)が、当然その交渉をコーチャンとすることになる大久保に早目にその心積りであることを知らせるため早くから「金を使って」との話を同被告人に対してしたとも考えられるのである。右の弁護人の主張は失当である。
右ロッキード社に金を出させるという点から、被告人田中及び同榎本の弁護人は「もし檜山がこのようなことを考えて『早くまとめたい。』と言うなら、早速、自らまたは大久保に指示して、ロッキード社に連絡をとる等の行動がなくてはならないのに、これに対する大久保の答は単に『ああ、そうでございますか。』というだけで、檜山の考えを行動に移すということが全くなされていないのは不自然極まりない。」と主張しているが、前記(一)1の被告人大久保の供述によれば、「金を使って」の話は、詳しい具体的な事柄に及ぶものではなかったと認められ、その後の経緯に照らしても、この時点では檜山は大久保に対してその意向を伝えはしたが、具体的な細目まで煮つめるのはなお将来のこととしていたものと考えられ、この段階で軽々しくロッキード社に連絡をとるなどの措置を講ずることもなかったというのは、事柄の性質上当然のことというべきであり、前記のとおり、本件五億円の実行に関し、檜山の指示を待つばかりで自ら積極的に動こうとすることのなかった大久保の性格、行動傾向からすれば、同被告人が単に「ああ、そうでございますか。」というのみで何らの行動に出なかったというのはむしろ自然なことであったといわざるを得ない。
以上の諸点を総合すれば、前記(一)2の「金を使ってトライスターの件を早くまとめたいと思う。そのことで総理に話をしようと思っている。」との話が被告人檜山からありこれを承知した旨の被告人大久保の検察官面前供述は十分に信用し得るというべきで、その事実を認定することができる。もっともその時期は前記の関係証拠を総合して「昭和四七年八月上旬ないし中旬ころ」と認定するのが相当である。
(五) 被告人大久保の内閣総理大臣の職務権限に関する認識
右認定にかかる被告人檜山の話について被告人大久保は、前記のとおり「この空中戦に勝利を納めんがためには、丸紅でも田中総理のような超実力者に金を差上げてでも全日空に側面から働きかけてもらう必要性を感じ取られたのだと思う。」と供述しており(昭和五一年八月八日付検察官面前調書〔甲再一76・乙24〕)、また同じ供述調書において、「そして田中総理に五億円を差上げたわけも、田中さんが総理大臣として運輸大臣をはじめ関係当局を指揮監督する権限を有し運輸行政全般について強力に支配できる権限をもたれているので、運輸大臣等の関係者に対して全日空のトライスター導入について何らかの指示、依頼をしてくれるものと考えられたし、総理自ら全日空にも手を差しのべてくれるとの期待もあり、かような期待の実現に五億円は有効な力を発揮してくれるのではないかとも思った。もちろん常識として運輸大臣が全日空など航空会社に対し、たとえ全日空が民間会社とはいえ航空機等使用機材、路線、便数など種々の事項に関し許認可権限を有し、これらの事項に関し行政指導を行う権限のあることを承知していた。これら航空会社は、例えば新しい航空機を購入したところでその使用に関する認可を受けられないようなことがあればたちまち困ることになるから、運輸当局に対して非常に弱い立場にあるので、このような強い権限を有する当局側からの働きかけに対してはまずよほどの事情がない限り頭を下げざるを得ないという立場に置かれていることは、われわれも同じ民間会社として一般に考えられることであった。」旨供述している。右供述について被告人大久保は公判廷において「勾留中検事に総理大臣の権限を尋ねられて、私が自分なりの常識で考えて、これが総理大臣の権限であると思えるものを軒並み挙げたが、事件当時職務権限ということは全く考えていなかった。」と供述し、航空会社が使用に関する認可を受けられないようなことがあればたちまち困ることになるとの点について、「それ自体非常におかしなことで、賄賂概念にむりやりにあてはまるように述べ、間違った供述をしている。」と述べている。しかし右公判廷供述によると右検察官面前供述の内容たる事項は同被告人なりの常識で考えられたことだというのである。そして同被告人は東北大学法文学部を卒業し、その後、銀行、商社に勤め、長く各種の営業活動に従事してきたのであり(同被告人の昭和五一年七月五日付検察官面前調書〔乙21〕)、その間関係官庁による行政指導に関して、種々の事実を見聞し、あるいは新聞雑誌等により十分の知識を得ていたことが容易に推認されるうえ、昭和四四年六月以来三年間余り、丸紅機械第一本部長として航空機売込活動に従事していたのであるから、航空機の導入をめぐる航空会社と運輸大臣の関係については、右供述内容程度のことは常日頃認識し、考えていたものと当然推認されるところであって、右検察官面前供述のとおりの認識を有していたものと認定するのが相当である。
(六) 共謀の成立
被告人檜山が当時、総理大臣の職務権限につき右大久保と同様の認識を有していて、被告人田中に対して運輸大臣等民間航空会社による航空機の導入につき権限を有する関係大臣に対する指揮監督権限の行使ないしは全日空に対する田中自らの働きかけを求めたことは前記認定のとおりであり、昭和四七年八月上旬ないし中旬ころ、檜山が大久保に「金を使ってトライスターの件を早くまとめたいと思う。そのことで総理に話をしようと思っている。」と話したとき、田中に右のような行為を期待しこれを要請するつもりであったことは容易に推認できるというべきところ、前記(一)2のとおり大久保は檜山の右の話の趣旨は要するに「同被告人がこの際田中総理に賄賂を贈ってでもトライスターの売込を有利に進め、この攻防戦に決着をつけてしまいたいという意思のあることを披瀝したのだ。」と検察官面前で供述していたのであり、前記(三)で説明した諸点及びこれまで大久保供述につき縷々述べてきたところに照らして右検察官面前供述は信用性が高く、檜山の話を聞いたときに受取ったところを卒直に述べていると認められるから、檜山が田中の職務行為等による協力を期待していたことを十分に察知していたものと認定することができる。そして内閣総理大臣の職務権限に関する被告人大久保の認識につき(五)で認定したところによると、同被告人としても被告人田中に要請し得る職務行為等としては、運輸大臣らに対する指揮ないしは全日空に対する直接の働きかけを考えていたのであるから、大久保は未必的にしろ被告人檜山が同じ行為を田中に要請しようとする意図であることを十分に認識し、さらに右檜山の言葉自体から、右期待された行為に対する報酬として金員を支払うとの趣旨を十分に知ったうえで、「ああ、そうでございますか。」とこれを承知し、以上のやりとりによって、暗黙裡に右のような協力行為の要請、すなわち請託と協力行為に対する支払をすることにつき互いに意思を通じ合ったものと認定するのが相当である。
ところで、被告人大久保は捜査段階においては、右被告人田中の協力行為たる働きにかなりの期待を抱いた旨供述していた(昭和五一年七月二三日付検察官面前調書〔甲再一75・乙23〕)のであるが、公判廷ではこの点に関し、「卒直な気持を申上げれば、航空機の商売というものは誰に頼んだからできるものだとは、私は思っていない。」と述べている。ところで、その理由は「いつ、どういう問題が起きるかわからないし、非常に不安定要素の多いものであるから。」というのであって、どんなに確実と思われるような手を打っても、事故など突発的な事情で売込ができなくなるといった宿命的な条件が航空機の取引にはあると言っているにすぎず、被告人大久保が右公判廷供述に引続き「若干の期待はあったかもしれない。」と述べ、あるいは別の公判期日に「そこばくとない期待感はあったでしょう。」と供述しているのは、右のような宿命的な条件の点を除けば田中の行為には期待がもてた趣旨を述べているものと解され、前記のとおり、大久保が内閣総理大臣の職務権限に関して供述しているところを考え合わせれば、同被告人の「被告人田中の働きにかなりの期待感を抱いた」旨の右検察官面前供述は十分に信用できるものというべきである。右の点に加え、被告人大久保がL一〇一一型機売込を担当する部門の総指揮者であり、売込活動の最高責任者であること、同被告人が前認定のとおり、その後コーチャンに五億円の支払を約束させ、後記のように本件五億円授受についてもロッキード社のクラッターと連絡をとるなど、本件の共謀、実行に深くかかわったことに徴すれば、同被告人は右のように被告人檜山の話を承知することによって、自らも主体的に檜山の企てを実行する者の立場でこれに加わる意思を暗黙に表明したものというべきである。以上を総合し、内閣総理大臣の職務権限につき後に第五章において論述するところを考え合わせれば、被告人檜山と同大久保は、昭和四七年八月上旬ないし中旬ころ、内閣総理大臣たる田中に対し、請託のうえその職務に関し賄賂を供与する旨の共謀を行ったとの事実を認定することができる。なお、被告人両名は、前記第三・二で詳細に検討、認定したとおり、同月二二日朝、被告人檜山が同大久保に電話で「いよいよ総理に会って頼むことに決定した。コーチャン社長と話して五億円見当で打診してほしい。」と指示し、コーチャンと交渉した結果同人に五億円の支払を約束させた大久保が檜山にその旨を報告したのであり、右一連のやりとりの過程で、右賄賂を現金五億円とする旨さらに共謀内容を確定したものと認められる。
二 被告人檜山及び同伊藤間の共謀
(一) 被告人伊藤の検察官面前供述
トライスターのデモフライト後間もなくの昭和四七年八月上旬ころと記憶している。丸紅の社長室で檜山社長は私に全日空に対するトライスターの売込がいよいよ攻防の最終段階に入り、ことにDC一〇と熾烈な競争になっているという趣旨の話をした後、私に「われわれとしてもここまで努力してきたのだからどうしても全日空にトライスターを押込みたい。最終的に決め手となるようなことをしなければならない段階にきている。田中総理に頼むのはどうだろうか。どう考えるか。」ときいてきた。私は民間航空会社の採用する飛行機の機種は総理が直接決めるものなのかわからなかったので、「機種は直接総理が決めるんですか。」と言ったところ、社長は直接的には運輸大臣が決めることかもしれないが、いずれにしても総理は運輸大臣に指揮権をもっているのであろうからこの際総理に頼むことが最も強力な手段であろうという趣旨のことを言っていた。私は社長室長として政治家に対する政治献金等の窓口になっており、社内では政界の事情にある程度通じている立場にあったから社長はこのとき私に意見を求めてきたものと思った。社長は心の中ではほとんどある決断をしておきながら私を呼んで意見を聞くことがよくあった。この時も社長は田中総理にお願いする腹を九分どおり既に固めており、その踏ん切りをつけるために私の意見を求めているといった感じであった。私としても全日空に対するトライスターの売込が丸紅の重大事項であり、どうしても成功させたいと思っていたので、この際田中総理にお願いすることはタイミングもよく強力な決め手になると考えた。またこれまでに大久保常務や松井などからトライスター売込の政界工作について丸紅は大して頼りにされていないと聞いていたので、私はこの際政界工作の最後の決め手を丸紅がお膳立てすることにより、この分野における丸紅の役割をロッキード社に印象づけることになるとも思ったから、私は「この際総理にお願いするのは、いい考えだと思います。」と賛成した。社長は「総理に頼むことにしよう」と言い、この時の決断を示していた。
こうした話があってからさらに一週間か一〇日位経ったころと記憶しているから八月中旬ころと思う。社長室で、社長は「田中総理に持っていく金の件だが、ロッキード社から一体いくら出させたらいいかな、君どう思うか。」と私に意見を求めてきた。トライスターの取引に関して丸紅の口銭は少ないので丸紅から総理に金を出す余裕はないと社長から説明があり、この金はすべてロッキード社から調達されることがこの時の話の前提となった。この時社長は全日空にトライスターを売込む商談が成立した場合の見込取引額などの数字をあげ、自分でもあれこれ考えていた。その際「トライスターを日本に売込めば近隣諸国へさらに売込む足掛りとなる。」といった趣旨のことも社長の話にでていた。社長の口から「一〇〇万ドル位か。」などと具体的な数字が出され、二人で「総理へは日本円で行くのだから一〇〇万ドルの三億円、二〇〇万ドルの六億円では納まりが悪いのではないか。一億円や二億円では少な過ぎ相手に馬鹿にされかねないし、一〇億円、二〇億円といった目茶目茶に多い金ではロッキード社が承知しないであろう。」などと議論した後、私は五億円位が丁度いい線ではないかと判断し、「五億円位が適当ではないでしょうか。」と私の結論的意見を言ったところ、社長はしばらく考えていたが、「よし、五億円でぶつけてみるか。」とあれこれの思いを振り切るような感じで言い、これがこの場の結論となった。せいぜい一五分ないし二〇分の話合ですんなり五億円に落着いたと思う。(昭和五一年八月一〇日付一七丁分の検察官面前調書〔甲再一92・乙33〕二項)
被告人伊藤は公判廷において、右検察官面前供述のような事実は全くなかったと述べており、被告人檜山は捜査段階においてこのような事実を全く供述していないばかりか、公判廷においても、前記のとおり「八月二一日にコーチャンに会うよりも前に、田中総理と会って全日空にトライスターを導入させようと考えたことは全くない。」と述べ、右伊藤検察官面前供述の内容たる事実を否定している。
(二) 伊藤検察官面前供述のなされるに至った経緯
被告人伊藤及びその弁護人は、「同被告人は昭和五一年七月二四、五日ころから、本件五億円について、昭和四七年八月二三日の被告人檜山の田中邸訪問以前から相談に乗っていたのではないかと追及された。ユニット(前記第三・九(二)の全日空要請の一億二、〇〇〇万円等の件)などについても尋ねられたが中心的課題は右の以前からの関与の点であって、この点を厳しく追及され、否認を続けていると、取調検事は、自分が取調べたという連合赤軍事件の女性未決囚の例を引いたうえ、『そんなに頑張っていると、いつまでも出てもらうわけにはいかない。冬になるとここはとても寒いところだ。あんたは昔胸の病気をしたから冬になったらとてももたないんじゃないか。』などと言い、昭和五一年七月三〇日には少し取調べただけで被告人伊藤を房に帰し、同月三一日には『いつまでも言わないんだったら、いつまでも入っていなさい。』と取調の打切りを宣告した。同被告人は八月一日、一日中事前共謀について何か思い出すことはないかと考えたが結局何も思い出すことはなかった。同月二日午前同被告人は呼び出されて外為法違反で起訴した旨告げられ、何か思い出したかと尋ねられたが、思い出さないと答えると再び帰房させられた。同被告人はこのような状態に耐えられず、検事に面会を申し出て夜検察官に会ったところ、検察官からついに犠牲者が出たと被告人田中の運転手をしていた笠原政則の自殺のニュースを告げられて衝撃のあまり、自暴自棄的な気持になって、『五億円の話は自分がしたのかもしれない。檜山と大久保と自分の三人で相談したことがあるかもしれない。』と虚偽の自白をしてしまい、爾後この虚偽の自白をもっともらしく見せるため、種々虚構の創作に積極的に加担した結果、(一)の供述調書が作成された。」旨主張している。
これに対し同被告人の取調に当った松尾邦弘検事は、「昭和五一年七月二四日から同被告人を三〇ユニット(三、〇〇〇万円)の件を中心に取調べた。五億円の件については、被告人檜山の田中私邸訪問後間もなく檜山から聞いたと伊藤が供述していたので、その関連で当然の質問といえるかと思うが、それ以前には話はなかったかという程度のことは尋ねたと思う。また五億円の供与が約束のときより約一年遅れた事情等について質問したが、いわゆる事前共謀の点について、相談したとか何とかいう材料は一切なかったから、そうしたことに自分の考えは全く及んでいなかった。同被告人はユニット三、〇〇〇万円の件につき、橋本登美三郎、二階堂進に各五〇〇万円を贈ったことを供述したが、その他の点については一切記憶がないと言うばかりで供述が進展しない状況であった。同月二七日、私は被告人田中私邸の捜索に加わって一日調べができなかったから、同月二六日の調べを終えるときに、この三、〇〇〇万円の件についてもっと記憶を整理してくれ、もう少し思い出してもらわなくては困るといって、これを中心として数項目を宿題ということで出した。その中に五億円関係のことが三点ほどあったが、その中に事前共謀に関することはない。その後も三、〇〇〇万円の件に関してほとんど供述がなかったため、同月三一日の取調を終えるとき、被告人伊藤に対し、記憶の問題ではなく、真実を言う気持があるか否かの問題と思うから、そういう点も含めて三、〇〇〇万円の件につきゆっくり記憶を整理しておくように言い、翌八月一日は取調をせず、同月二日午前中の取調のときも三、〇〇〇万円について思い出せないというので調べを打切ったが、同日夕刻に同被告人から『話したいことがあるから是非調べてくれ。』との申入があって、夕食後同被告人を取調室へ呼んだところ、『一日中房で考えたところ違うことを思い出した。』と言って、事前共謀に関する事実を進んで供述し始めた。同夜、同被告人に犠牲者が出たとの話をしたことはあるが、それは右共謀の話を聞き終ったあとのことである。」と証言している。
証人友野弘の供述(第四二回公判)によると、同人は副島勲の取調に当った検事であるが、昭和五一年七月一七日から同人を取調べたところ、同月一八日にいわゆる三〇ユニットの三、〇〇〇万円のうちから田中総理に榎本を介して金銭が渡っているとの供述を得たことが認められる。しかし友野証言によれば、右三、〇〇〇万円の件に関する副島供述はその後なかなか進展せず、同人は右の件につき全面的に供述するのを逡巡しているようであったと認められるのであり、そのうち被告人大久保のこの件に関する供述調書も同年七月二五日に作成され、同月二四日にはコーチャン証言調書の伝達を許す旨の決定がなされ、同月二八日正午現にこれが伝達されて、その証言内容が検察官の知るところとなったが、それによると各政治家に配付される予定であった金額及び合計金額が被告人伊藤の供述するところとは異なっていたことが明らかで、検察官としてはこの食違いの原因を究明し、さらには取調の進展しない副島に問い質す材料を得るためにも、同月二四日以降同年八月上旬のころは、伊藤を右三、〇〇〇万円の件につき取調べる必要が極めて大きいと考えられる情況にあったといえる。これに対して本件五億円に関する被告人伊藤と同檜山との間の事前共謀については、伊藤が政治献金に関する業務を担当し、政界の事情に通じていたこと、後に伊藤が檜山の指示で本件五億円の授受を実行したこと、檜山が同じくその指示で右授受の実行に関与した大久保に対し昭和四七年八月上旬ころ「金を使ってトライスターの件を早くまとめたい。そのことで総理に話をしようと思っている。」と話したことが検察官に知られていただけで、檜山、伊藤間で共謀があったことを直接推認させるような証拠ないし情報は全くなかったことが関係証拠によって明らかである。(被告人伊藤の弁護人〔以下この項においては単に「弁護人」という〕は、丸紅三被告人のその時点までの供述調書等の諸資料から事前共謀の点が当時伊藤の取調の焦点になっていたことが客観的に看取されると主張しているが、その各資料からの推論は臆測をまじえた独断にすぎず、採用できない。) いわゆるユニットの三、〇〇〇万円の件については、これに関する被告人伊藤の行為が贈賄罪を構成するとして、同被告人につき昭和五一年七月の捜査当時すでに時効が完成していたとはいえ、これが五億円の件といかなる関係に立つのかが明らかではなく、この件の捜査がいわゆるロッキード事件の事案全体の解明のために急がれていたことは関係証拠から優に推認し得るところというべきである。
以上の情況の下で、検察官が右のような証拠資料から被告人伊藤につき事前共謀の存在を想定し、これを中心として同被告人の主張するような厳しさで追及したと考えることは非常に困難であるといわなければならない。とくに当時取調対象の中心をなしていた事項について松尾検事が、「記憶の問題ではなく真実を言う気持があるか否かの問題である。」と言ったとの点については、前記松尾証言に符合する供述を被告人伊藤も公判廷において行っていることから真実と認められるのであるが、そのようなことまで言って追及したというのは、検察官の手許に関係する証拠資料ないし情報が集められ、かなり具体的詳細な点についてまで問い質し得る状態にあったことを示すものといい得るのであり、このことはユニットの件については考えられても、右のように資料に乏しく漠然とした追及しかなし得なかったはずの事前共謀の件に関して考えられるところではない。
そしてまた、昭和五一年八月二日夜の取調の状況について被告人伊藤は前記のとおり、「犠牲者が出たことなどを聞かされた結果、自分が全部背負ってしまおうという自暴的というか、自己犠牲的な気持になって事前共謀について供述を始めてしまった。」旨公判廷において述べているのであるが、検察官面前における供述は前記(一)のとおり、被告人檜山から田中総理への要請と金員供与の話を持ちかけられたというのであり、公判廷においてこの点と「自分が全部背負ってしまおう。」との点との矛盾を衝かれ、「背負って行こうとか、自己犠牲というが、それは檜山社長の責任も引受けて行こう、自分一人でやったことにするという趣旨まで含むのか。」と問われ、「そのような気持はたしかにあった。」と答えながら、それでは「積極的に伊藤被告人の方から持ちかけたという話にならなかったのは何故か」との問いに対して「それまで検事に追及されていたことも私が主体的にどうこうということではなかったことと、いくらなんでもちょっとそこまでは、今日から考えてみれば飛躍し過ぎているような感じがする。」とますます不合理な供述をするに至っているのである。
右の全部背負ってしまおうと思って供述したとの点について弁護人は、「果てしなく続くかもしれない拘束から解放されたい願望と虚構の自白をすることのおそれとの葛藤、検事のいう相談の相手(注・被告人檜山を指すものと思料される)も自分が認めることによって取調から解放されることになるのであろうという気持等、これらのものが犠牲者の話を告げられたことを契機に、一度に湧出去来した挙句、遂に己を棄てることになる虚構の自白をするに至ったものである。」と主張しているのであるが、「自分が全部背負ってしまおうという自己犠牲的な気持」を「己を棄てることになる虚構の自白をしようとの気持」と置き換えてみても前記の矛盾を彌縫することはできないといわざるを得ない。弁護人はなお「被告人伊藤が検察官面前供述のように檜山の相談に与ったとすることが同人の責任を軽減することになるのではないかと考えたことも、法律家に非ざる一般人が陥りやすい誤りであって、あり得ることというべく、敢えて不自然というべきものではない。」と主張しているが、検察官面前供述の意味するところは一般社会常識をもって容易に判断し得る事柄に属するというべきであり、丸紅の管理部門の中枢を担って敏腕をふるってきたことが関係証拠により明らかな被告人伊藤にその程度の判断がつかなかったとは、仮りに犠牲者の話を聞いて精神的動揺をきたしていたとしても、到底考えることはできないといわざるを得ない。同被告人の右主張及びこれに副う公判廷供述には、その核心ともいうべき部分に、信用性を全く肯認し得ないところがあるといわなければならない。
証人松尾邦弘は、昭和五一年八月二日夜の被告人伊藤の供述は二ないし三時間にわたり前記(一)の八月一〇日付供述調書の記載内容のほぼ全面にわたるものであったと供述しており、右証言は、被告人伊藤が勾留中拘置所の監房内で日記風に取調その他の出来事や感想を書き留めていたノート(弁551)(伊藤宏の検察官面前供述及び取調状況等に関する公判廷供述の信用性を立証事項とする自由な証明証拠として取調べたものであるから、以下その限度において吟味の資料とする。)の八月二日の項に「夜当方ヨリ面談申込ミ、8/24以前ニ三者会談、総理ヘノ依頼ノ相談受ケル(総理ニ民間機決定ノ権限如何ト聞イタ記憶アリ)」と記載されていて、相当程度詳細な供述が行われたことがうかがわれることに照らして信用し得るというべきである。弁護人は、被告人伊藤の昭和五一年八月五日付検察官面前調書に「檜山社長から田中総理との会見の結果として『トライスター売込に是非成功したい。五億円を用意しているので総理にお力添をお願いしたいと頼んだ。総理もこれを承知し、売込が成功したら五億円が総理に行くことになる。これを承知しておいてくれ。』と言われた。」とあり、同月九日付調書でも「トライスター採用が決定された場合ロッキード社の金五億円が田中総理に差上げられることになっていることは、私も社長から聞いて知っていた。」と記載されていることから、これらは被告人伊藤が同田中への金員供与の件を知ったのは被告人檜山の総理私邸訪問後に、同被告人から聞かされた趣旨であるとし、伊藤が同月二日に事前共謀に関する核心的自白をしていたとすれば右のような供述調書が作成されることはあり得ないと主張しているのであるが、同月五日付調書の右の記載は右総理私邸訪問後の伊藤と榎本両名の間の連絡、面談について供述する前提として、檜山・田中間の話合の結果につき聞いたところを述べたものであり、同月九日付調書の右記載はユニット三、〇〇〇万円の中から田中に一、〇〇〇万円が供与された件を供述する前提としてやはり右話合の結果に触れたものであって、五億円供与の事前共謀の存在を否定するものでもなければこれと矛盾するものでもない。また右ノートによれば同月四日、同月七日及び同月九日に事前共謀に関する取調が進展したことがうかがわれるが、同月二日にひととおりの話を聞いた検事がこれを改めて詳細に問い質しつつ取調を進めていったとして何の不思議もないというべきであり、弁護人はこれを八月二日の供述内容に関する松尾証言が信用し得ない根拠として主張するけれども、その失当であることは多言を要しない。そして伊藤が同月二日の夜右のような詳細な供述を行ったということは、その供述が虚構であるとすれば考え難いところといわざるを得ない。
また、ノート八月二日欄に右のとおり「(総理ニ民間機決定ノ権限如何ト聞イタ記憶アリ)」と前記(一)の検察官面前供述と照応する記載があることは、この点につき虚偽の事項を調書に記載されたとか、虚構を述べたとの主張を排斥するものであるといわなければならない。すなわち、右検察官面前供述について、被告人伊藤は公判廷において、「民間の航空会社の使う飛行機を総理が決めるのかと検事に尋ねたのに、それを檜山社長に尋ねたように供述調書に書かれてしまった。」と供述しているのであるが、右八月二日にその点の供述調書が作成され、それをノートに記載したという関係をうかがわせる証拠はなく、また、右供述のとおりであるとすれば「聞イタ記憶アリ」とノートに書き留めておくはずがないのである。右公判廷供述は全く信用し得ないことが明らかである。他方、弁護人は「同年七月三一日から八月二日に至る動揺、煩悶を繰返す過程において、記憶にない虚構を構築して釈放されたいと願う気持から、総理に民間機決定の権限があるのかと被告人檜山に反問したというような会話まで構想したことも十分にあり得る。」と主張しているが、被告人檜山との間の詳細なやりとりの個々の会話について追及を受けていたというのならともかく、事前に何か同被告人らと相談したのではないかと尋ねられている段階でそこまで具体的な会話を作り上げるなどということは、先ず考え難いところというほかはないのである。さらにこのノート記載につき弁護人は「ノートの八月二日欄の記載が同夜記載されたものでないことは明らかであるうえ、該部分は改行のうえさらに括弧で括られており、単に伊藤の構想の心覚えとしての記載ともみることができ、ただちに検事に述べた旨の記載と断ずることはできない。」とも主張するが、仮りに虚構を作り上げるような場合、右の点だけを心覚えに記載する必要は全く考えられず、いまだ取調検事に対して供述していない「自供」の一部を拘置所の検閲や検事の閲覧もあり得る右ノートに書き留めておくというようなことについてにわかに想到することはできない。(一)の検察官面前供述中における「機種は直接総理が決めるんですか。」との問いとこれに対する被告人檜山の答についての供述は、被告人伊藤が自らその記憶に基づいて検察官に対して述べたものと考えざるを得ない。
弁護人はさらに、右ノートの八月一日の項に「反省ノ日、何トカ思イ出セヌカ?ト努力スレド空シ何トカ思イ当ルコトハ何カト終日考エルモ空シ(何カ〈H〉〈O〉ト相談シタコトアル筈)」とあるのは被告人伊藤がこのころ事前共謀の件に関して厳しい追及を受けていたことの証左であると主張しているのであるが、検察官の主張するとおり、検察官が甲四105として提出したノートの写しは、右弁551のノートの昭和五一年七月二二日から八月九日分までが、右八月九日ころの検査時に写真複写されたものと認められるのであるが、これには八月一日の項の右「何カ〈H〉〈O〉ト相談シタコトアル筈」との記載が存在しないのであって、それが右検査後公判提出までのいずれかの時点で書き加えられたものであることは明らかである。弁護人は極めて詳細に諸種の点をあげて、右括弧書きが勾留中に書き加えられた旨主張しているが、仮りにこれが勾留中に書き加えられたものであるとしても、それは八月九日以後のこととなるわけで、このような事項について当該の日から約一〇日、ないしはそれ以上も日が経ったあとでわざわざ書込をすることは甚だしく不自然との感を免れないところであるから、この記載を根拠に当該日ころの取調対象事項を確定することは到底許されない。のみならず、右八月一日当時追及を受けていた事項が被告人伊藤の述べるとおり事前共謀の点であったとしても、また松尾証言のように三、〇〇〇万円の配分に関する点であったとしても、これらはいずれも時の内閣総理大臣への金員の供与に関係する重大な事項であるうえ、逮捕に至るまでの時点でこれらの点をめぐって世論が沸騰し、その中で伊藤らは関係する証憑資料の改ざん湮滅工作を行ったほか、捜査への対策に腐心していたことは繰返し述べてきたとおりであって、これら各事項は忘れようとしても忘れ得ない事柄であったはずである。もとより出来事の細かな部分については記憶から欠落し、あるいは記憶の薄れていた所は当然あったものと考えられるのであるが、前記の証拠関係に照らして右八月一日当時に伊藤が取調べられていた中心的な事項がそのような細部にわたるものでなかったことは明らかというべきである。そうすれば右ノートの「何トカ思イ出セヌカ?ト努力スレド空シ 何トカ思イ当ルコトハ何カト終日考エルモ空シ」との記載自体、同被告人の気持を正直に書いたものとは到底考えることができず、何らかの主張に備えた作為的なものであると認めざるを得ないのであって、右のようなノートの記載を根拠とする弁護人の主張の失当であることはいうをまたない。
さらにまた右ノートの七月二四日、同月二七日及び同月二九日の項にある「四七年頃ノ記憶」あるいは「四七年当時」の記載は、これと共に書かれた「(副島供述ノ頃?)」その他の記載を合わせて考えれば、弁護人の詳細な弁論にも拘らず、ユニット三、〇〇〇万円の件を指すものと解するのが合理的というべきである。そして以上の諸点を総合するならば、弁護人が(一)の検察官面前供述がなされるに至った経緯につき以上のほかに主張する種々の点を十分に考え合わせても、右の供述経緯に関する前記松尾証言の信用性に疑いを抱く余地があるとはいえず、右証言どおりの経緯を優に認定することができる。そして前記被告人伊藤の検察官面前供述につき一般的に論じたところ及び関係する諸情況を総合して考察すれば、前記(一)の検察官面前供述の任意性についてもこれに疑いを挿む余地はないというべきである。
(三) 検察官面前供述の信用性
前記(一)の検察官面前供述は、右(二)のような経緯でなされたものであるうえ、被告人檜山とのやりとりやその間の自身の認識や気持を具体的詳細に述べており、内閣総理大臣の職務権限について檜山に反問したことなど、体験した者でなければ語り得ない内容が盛られているのみならず、檜山が本件五億円の被告人田中への供与を発意したとの点で被告人大久保の捜査、公判における供述と相応しているのであって、高度の信用性あるものというべきである。
被告人伊藤の弁護人は、同被告人と被告人檜山との五億円に関する会話についての検察官面前供述の記載は、会話の時期、内容がつぎつぎと変化しており、このように転々として止まるところを知らない供述記載はそれ自体信用性に乏しく、かかる不自然な供述変更は検察官による誘導、強制による以外にあり得ないことは明らかであると主張し、被告人田中及び同榎本の弁護人もほぼ同旨の主張をしている。たしかに右の点につき、被告人伊藤の昭和五一年七月八日付調書(乙67)から前記(一)の供述が記載された同年八月一〇日付(一七丁分)調書まで供述内容は変化している。しかし前記(二)の供述経緯にみられるとおり、(一)の検察官面前供述は何らの誘導も強制もなく自発的になされたと認められ、しかも虚構とは到底考えられない態様で供述されたのであり、前述のとおりその供述内容たる事項は、その重要性、特殊性に鑑みればもともと忘れ難い類のものというべきである。当初の「五億円がコーチャンから言われて被告人檜山が取次いだもの」という供述(被告人伊藤の昭和五一年七月九日付検察官面前調書〔乙68〕)から「自ら提案したもの」という前記(一)の供述への変遷がみられるが、右両供述の内容は(弁護人も主張するとおり)全く異質のものであって、右変遷は伊藤が記憶を整理した結果とはいえないことが明らかであるから、前記(一)の供述はそれまで同被告人が記憶にありながら供述を渋っていた事項を述べるに至ったものということができるのであって、変遷を理由に信用性を欠くとの弁護人の主張は失当である。
また弁護人は、(一)の供述には客観的にあり得ないことが含まれているとして、「トライスターを日本へ売込めば近隣諸国へさらに売込む足掛りになる。」との話が出たというのは、ロッキード社と丸紅間の代理店契約の丸紅の代理店業務の地域範囲が日本国に限られていることから常識でもあり得ないと主張しているが、右の話はL一〇一一型機の全日空への売込がロッキード社にとってどのような利益になるかという関係で出て来ているのであり、丸紅が近隣諸外国に対して売込をするか否かということが問題となっているわけではない。日本の大航空企業が購入したとなると近隣諸国の航空会社もL一〇一一型機を注目するであろうし、日本国内及び近距離国際線のチャーター便の運航により同型機が近隣諸国の人々、とりわけ航空関係の人々の眼に入るなどのことにより、これらの国々にロッキード社がこれを売込む途が開かれるきっかけになることは十分考えられたところというべきであって、右弁護人の主張は的を射たものとはいい難い。
また同様にあり得ない点として弁護人は、丸紅はロッキード社のために事務所や運転手付の自動車を提供させられ、人事にまで介入されるなど、全く従属的立場におかれていたのに、このような立場にあった丸紅が総理に贈る金をロッキード社に出させることを前提とした話を構築しその金額までも決めるということはおよそ不自然であると主張しているが、この件で、両社は互いに争いあるいは両社間の取引につき交渉を行おうというのではなく、被告人檜山らはロッキード社のL一〇一一型機売込を確実にする方法として内閣総理大臣への五億円供与を同社に勧めようとしていたにすぎず、右勧告を同社が請けるか否かは、同社が右の方法による成功の確実性をどのように評価し、五億円支出につきどのような損得勘定をするかにかかっているのであって、さして同社と丸紅の力関係が入ってくる場面ではないから、右弁護人の主張もまた的を射たものではないといわざるを得ない。
同様にして弁護人は、前記(一)の検察官面前供述中、被告人伊藤が同檜山と相談して五億円の額を決めた根拠や経緯を述べる部分をあり得ないこととして論難するが、その理由とするところをみるに、檜山らが考えたという見込取引額についてこれを勝手に丸紅の取引額であると想定したり(右供述の文脈からして右取引額がロッキード社のそれを指すことは明らかである。前記のように本件売込に関心をもっていた檜山がL一〇一一型機一機の価額や全日空の購入予定機数を知らなかったとは考えられず〔第八一回公判の被告人檜山に対する質問中、速記録一一〇丁表裏のやりとりから、同被告人が右価額を知っていたことは十分にうかがわれる。〕、したがってロッキード社の取引高が考えられるはずがないというのは失当である。)、また、一定の職務行為を依頼し、その行為に対する対価としての五億円と、右五億円のほかに丸紅からの謝意を表するために取敢えず渡した前記ユニット三、〇〇〇万円からの一、〇〇〇万円という全く異なる二つの金員につきその金額決定過程を無条件に対比させて不合理と主張したり、前記のとおり政界の事情に通じており、政治献金に関する業務を長年担当してきた被告人伊藤の、本件のような場面での金銭感覚を、首肯するに足る根拠に基づくことなく過少評価するといった、それ自体合理性を欠く主張であって採用の限りではない。
なお、前記(一)の供述の記載された検察官面前調書には、右五億円をロッキード社から出させて総理に持っていくのは、熾烈な競争が行われ、予断を許さない情勢にあり、最後の大事な時期にさしかかったときによいタイミングであると考えられた旨の記載がされているのであるが、弁護人は、「それならばいつ来日するかわからないコーチャンを漫然待つことなく、該共謀ののちただちにロッキード社に要請して然るべきであるのに、そのような事実は全くないのみならず、右のような情勢判断のもとにロッキード社に金を出させようとするのであれば、コーチャンの来日は心待ちに待たれたはずであるのに、コーチャンが来日したときには被告人大久保は夏季休暇をとって旅行中であり、コーチャン来日の報に接してもことさら急いで帰京せず、同被告人に急いで出社するよう被告人檜山が要請した事実もなく、伊藤供述のような共謀があったとすることと甚だそぐわない。」旨主張するが、関係証拠に照らして昭和四七年八月上、中旬ころ、全日空に対するL一〇一一型機売込が大詰にさしかかっていたことはたしかであるとはいえ、前認定のとおり同月中には全日空の機種決定はないことが確実となり、被告人田中への依頼も一日を争うほどの緊急事項というわけのものでもなかったことが明らかであり、檜山らが大詰にさしかかったということで当然近い将来来日するであろうコーチャンを待ってから事を運ぼうと考えていたとして別に不思議ではない。そして被告人檜山は、コーチャンが来日するやその翌日に同人と面談して後記認定のとおり被告人田中に依頼する件について話をし、そのつぎの日の朝早くには一日予定を繰上げて帰宅し出社してきた被告人大久保にコーチャンと五億円を出させる交渉をするように指示し、その間アポイントメントを取らせて翌朝には被告人田中に会うという、極めて迅速、かつ、適切な手をつぎつぎと打っているのである。これは被告人伊藤と同檜山間の共謀があった事実にそぐわないなどというものではなく、檜山が大詰の情勢を十分に考慮に入れたうえで、すでに熟していた企てをつぎつぎと実行に移したことをうかがわせるものであって、伊藤が前記(一)のとおり供述する情勢判断及び事前共謀の存在と極めてよく相応するといわなければならない。右弁護人の主張はこれまた失当というほかはない。
その他被告人伊藤の弁護人は種々の点を挙げて、前記(一)の検察官面前供述が信用性に乏しい旨を主張するのであるが、いずれも右供述の記載された検察官面前調書中に存する細かな点(中にはたしかに表現の不適当な箇所や記憶違いと目される箇所がないではないが、いずれも些細な点であって、右供述全体の信用性にかかわるようなものではない。)を独自の判断により右供述全体の信用性欠如の証左とするか、あるいは本判決において当裁判所がすでに判断したところと反する点を根拠とするものであって、いちいち採り上げて検討するまでもなく、失当として排斥を免れないところである。
被告人田中及び同榎本の弁護人は、「被告人伊藤は本件当時常務取締役社長室長兼人事部長であり、トライスター売込に何の関係もなく、丸紅が大型の飛行機を日本の航空会社に売ろうとしていたことを知っていた程度で、競争機種や競争相手も知らなかったし、無担保転換社債の発行、新社員制度の導入等の自己の担当業務に忙殺されており、被告人檜山と五億円についての共謀などするはずがない。」旨主張している。次項で検討を加えるとおり、被告人伊藤が右主張のような自己の担当業務で忙殺されていたことはそのとおりであるが、L一〇一一型機売込につき関心がなく右の程度の知識しかなかったというのは後記のとおり事実に反するのであり、その点を措くとしても、被告人檜山の腹心の部下であり政界の事情に明るく政治献金に関する業務を担当していた被告人伊藤が、その供述するような相談を被告人檜山から持ちかけられたというのは極めて自然なことというべきであり、右供述のとおり売込の経過現状につき檜山が説明を加えながら二人で検討したうえ、五億円を供与して請託する旨の結論を出したということはよく本件の情況に合致しているというべきである。
以上を総合すると、前記(一)の検察官面前供述は十分に信用することができるといわなければならないから、右供述のとおりの事実を認定する。
(四) 被告人伊藤の航空機売込に対する関心と認識
被告人伊藤の弁護人は、同被告人が入社以来一貫して丸紅の管理部門を歩んで昭和四七年八月当時は取締役社長室長兼人事部長兼人事研修室長の地位にあったこと、丸紅では昭和四六年一〇月、同社の人事、資格、給与体系に関し従来の年功序列主義から能力主義体系への移行の検討に着手し、昭和四七年春実施に踏み切ったが、この新制度に対しては労働組合はもとより管理職層の理解を得ることも容易ではなく、同被告人はその周知徹底と定着のため、大阪及び東京で開催される会議、説明会に頻繁に出席してその説明等に当っていたこと、昭和四七年四月、丸紅は新潟証券取引所への株式上場、発行規模一一五億円の第三者割当による時価発行増資、わが国初の無担保転換社債の発行による資金調達の準備にとりかかり、同年七、八月ころ、被告人伊藤は右準備に精力的に取り組んでいたこと、その他にも同被告人は人事部長として夏季賞与の団体交渉、秋季人事異動、冬期賞与査定などに関する問合せ、相談などの日常業務に追われ、これらに忙殺されていたことを挙げて、そのため同被告人はL一〇一一型機の販売活動状況について関心を有していたとは認められないと主張している。弁護人の挙示する右各事実はいずれも関係証拠によって明らかに認められるのであるが、これらの事実が存するからといって、右主張の結論を採るべき必然性がないことは多言を要せず明らかなところである。
組織体において業務部門のほかに管理部門が存在するのは、業務部門の活動が組織体全体として効率よく適切に遂行されることを確保するためであることは自明のところである。したがって管理部門にある者は常に業務部門の活動状況の概況を把握していなければ、適切な人事配置等管理部門の任務そのものが果せなくなるわけであり、この点において丸紅が別異の状況にあったとの事情はないから、社長室長兼人事部長として丸紅管理部門の中枢に位置していた被告人伊藤としては、各営業部門の活動状況に十分の関心をもち注意を払ってその把握に努むべきことはその職務上の義務に属するものであったといわなければならない。そして前記のとおり航空機の売込は商社にとって象徴的意味をもつ重要な営業活動であり、L一〇一一型機は丸紅の取扱商品の目玉ないし花形と目され、その売込は同社のビッグ・プロジェクトの一つであったのである。したがって被告人伊藤としては前記のような立場上とくにこのような営業活動に関心をもちその概要を把握していなければならなかったものというべきである。
被告人伊藤の弁護人は、同被告人の出席する役員会では各営業本部の個別の業務が話題になったことはないとか、社長室総務課において禀議案件を受付けたときも、すべて機械的に台帳に記帳のうえ事前審議委員会に回付していたし、社長室長として右事前審議委員会を招集し司会をつとめるべき被告人伊藤が、司会を社長室次長らに委ねてあまり出席したことがなかったなどの点を挙げて、同被告人がL一〇一一型機の販売活動を知っていたはずはないと主張しているが、社長室長が各営業本部の業務遂行の情況、とくに前記のようなビッグ・プロジェクトの概要を知る機会は弁護人主張のような会合等に限られるはずはないのであるから、右主張が妥当性を欠くことはいうまでもないところであり、前記のように長年管理部門の中枢に位置し、専務取締役への昇進も早く、その職責を適切に果して来たものと認められる被告人伊藤が、右のような情況把握を怠っていたとは考えることができないのである。
却って右禀議案件の処理手続についていうならば、「丸紅諸規程集」(甲二151)及び被告人伊藤の公判廷供述によると、昭和五〇年五月の禀議規程の改正後は、社長室総務課が提出された禀議書を受理してその内容を審査し、経由関係部長と協議のうえ軽易な案件については関係部の意見を付してこれを直接決裁手続に回し、なお検討を要する案件については事前審議委員会に回付することとなった、すなわち、内容審査と重要性の判断を社長室総務課が担当することになったことが明らかであり、これは社長室が本来右のような審査、判断をなし得る程度に各部門の活動状況を把握すべき立場にあることを示す一例であるということができる。
以上の諸点を総合すると、証人松尾邦弘は、被告人伊藤が丸紅の全日空に売込んでいた航空機及び競争機種の名前、競争機種の代理店や昭和四七年七月下旬あるいは八月上旬の販売競争について、細かなことは知らないと言っていたけれども大まかな事項、状況は把握していた旨証言しているのであるが、右証言は信用することができ、右の諸事項につきほとんど認識がなかった旨の被告人伊藤の公判廷供述は不自然であって信用し得ないというべきである。そして「私としても全日空に対するトライスターの売込は丸紅の重大事項であり、どうしても成功させたいと思っていた。トライスターの売込は丸紅としても長期間とくに力を注ぎ込んできたし、逃がすことのできない大きな商談で、何としても勝たねばならなかった。五億円という巨額な金を使っても、この売込が成功すれば丸紅及びロッキード社の利益になると私は考えたし、檜山、大久保も同様に考えてこの五億円の件を推し進めたものと思う。」旨の被告人伊藤の検察官面前供述(前記(一)の供述と同じ供述調書に記載)は前記(二)、(三)で述べた諸点も考え合わせ、昭和四七年八月当時の被告人伊藤の考えを卒直に述べたものと認めるのが相当というべきである。被告人伊藤の弁護人は右供述は信用し得ないと主張しているのであるが、その根拠としては、その供述が記載された供述調書中の、ごく些細なやや不適切ともいうべき記載を矛盾であるとし、前の供述調書からの変遷をすりかえであると決めつけ、記載内容の趣旨を恣意的に断定して前提し、それを論難するなど到底首肯し得ない論議を展開し、あるいはすでに認定したところに反する事実に依拠しているのであって、右主張は到底採用し得ない。
(五) 被告人伊藤の内閣総理大臣の職務権限に関する認識
前認定のとおり、被告人伊藤は「機種は直接総理が決めるんですか。」と尋ねて被告人檜山から「直接的には運輸大臣が決めることかもしれないが、いずれにしても総理は運輸大臣に指揮権をもっているであろうから、この際総理に頼むことが最も強力な手段であろう。」という趣旨の回答を得たのである。被告人伊藤の弁護人は、民間航空会社の採用機種は当該会社が直接に決定すると考えるのが常識であって、これを運輸大臣が決定することであると被告人檜山が答えるとは到底考えられないと主張しているが、後記「第五章内閣総理大臣の職務権限について」において詳細に説明するとおり、民間航空会社が新機種を就航させるについて運輸大臣は事業計画変更認可の権限を有しているうえ、これを背景にした行政指導により、航空会社の機種選定に介入しその決定を左右し得る立場にあるのであって、被告人檜山のこれらの点に関する前記検察官面前供述に徴しても、同被告人の言葉は右の趣旨を述べたものということができ、同被告人がこのような言葉を発することがあり得ないとは到底いうことができない。被告人伊藤は、東京大学法学部を卒業し、大商事会社の管理部門の中枢にあって活躍してきたのであって、行政庁との接触の機会も当然少なくはなかったというべきで、民間会社と行政庁との関係、ことに行政指導の実態等右の点にかかる知識経験を豊富に有していたと考えられるから、被告人檜山の右の説明を被告人伊藤の知識をも加えて了解し、受止めたものと十分に考えることができ、伊藤が昭和五一年八月一〇日付一七丁の検察官面前調書(甲再一92・乙33)において「田中総理に五億円を贈ることにしたのは、田中先生が総理大臣として運輸大臣などの各行政機関を指揮監督する支配的立場にあり、大型ジェット機の導入についても運輸大臣を指揮して全日空にトライスターを導入させることができ、強力な権限をもっているものと考えた。トライスターは日本向きの優秀な機材であると自信はあったが、田中総理を通じて運輸大臣や関係者を動かすのがこの商談に必要な決め手であると考えた。総理が運輸大臣等を指揮して…全日空にトライスターを採用するよう強力に働きかけてくれるものと期待したのである。…運輸大臣からトライスターを導入するよう働きかけられた場合、広範な行政指導等に服さなければならない立場にある全日空としては、これを受入れざるを得ないと考えた。」と供述しているのは、前記のとおり檜山から聞いたことに自らの知識経験を交えて昭和四七年八月当時伊藤自身が考えたところを述べたものと認めるのが相当であり、さらに前記の同被告人の知識経験を考え合わせるならば、同被告人が右供述調書において、「総理が直接全日空にトライスターを採用するよう強力に働きかけてくれることも期待した。総理から右のように働きかけられた場合、全日空としてはこれを受入れざるを得ないと考えた。」と述べているところも、同様に高度の信用性を肯認し得るというべきである。
被告人伊藤の弁護人は右調書の信用性を争い、先ず内閣総理大臣の権限が民間航空会社の機種選択に及ぶのか否か分らず被告人檜山に尋ねた伊藤が右のような同大臣の権限に関する認識を有していた旨の供述記載は前後矛盾し、伊藤の真実の認識とは関係なく記載されたものであることを示すと主張しているのであるが、右供述調書を通読するならば、前述のとおり、伊藤が檜山の右の話を聞き、自らの知識経験にも照らして考察した結果有するに至った、檜山との五億円供与の相談の際の認識を述べたものであることは明らかというべきである。また同弁護人は、右調書は同日付のもう一通の被告人伊藤の検察官に対する供述調書(一六丁のもの・乙74)を主任検事の指示で書直したものであるとし、この点に被告人伊藤が公判廷で供述する諸種の点を総合して、前記甲再一92の検察官面前供述は単に検察庁の見解を押付けて記載したものであると主張しているのであるが、主任検事の指示により調書作成をやり直すということ自体何ら違法不当の点はないし、そのようにして調書に書かれたことが検事の押付けの証左となるものでないことはいうまでもないところである。そしてその他の論点はいずれも弁護人の独断をもとに臆測を重ねたものにすぎず、右主張の失当であることは改めて説明を加えるまでもなく明らかである。
また被告人伊藤は検察官の面前において、「この金は田中先生が総理というその地位を利用してトライスターを全日空に導入してくれたことに対するお礼として渡すもので、後ろめたい金であることは私も承知していた。」旨供述しており(昭和五一年八月一二日付検察官面前調書〔甲再一94・乙35〕)、この供述は本件五億円と協力行為との関係につき前に第三・一一(三)において認定したところに照らし、また被告人伊藤の検察官面前供述の信用性につき種々説明してきたところに鑑み、十分信用し得るということができるから、同被告人が本件五億円を被告人田中の協力行為に対する謝礼であるとの認識を有していたものと認定することができる。
(六) 共謀の成立
以上(三)で認定した事実に(四)・(五)のとおり認められる被告人伊藤の認識、前記第三・一〇、同一一(二)・(三)で認定した被告人檜山の認識を考え合わせ、さらには伊藤が前記のとおり、後に本件の協力要請及び五億円の授受に関して自分から進んで被告人榎本と連絡をとり、右要請についてのあいさつをするなどの積極的な行動に出たうえ、被告人檜山の指示で五億円の供与の実行々為を分担した事実を総合すると、伊藤は(三)で認定した檜山との二度の話合いを通じて、同被告人との間で、内閣総理大臣たる被告人田中に対し、L一〇一一型機の全日空への売込につき、運輸大臣を指揮してあるいは直接に、同社に働きかけて協力するよう要請し、その協力に対する報酬として五億円を供与することの意思を互いに通じ合い、ここに公務員たる被告人田中に対し請託のうえ、その職務に関し賄賂を供与する旨共謀したとの事実を認定することができる。
三 被告人檜山及びコーチャン間の話合
(一) 両名の各供述
1 被告人檜山の供述
(1) 検察官面前供述
昭和四七年八月二一日のこと、前もってコーチャンとその日に会う約束があったように思うが、同人が訪ねて来たので二人で社長室応接室で全日空に対するトライスターの売込方法について話合った。そのときコーチャンは、私同様全日空が果してトライスターを買ってくれるか非常に心配している模様で、同人から「大久保氏は有能な方で非常によくやってくれているが、全日空への売込は楽観を許さない情勢にあり、いまひとつ強力な売込工作が必要であると思う。なんとかならないものか。」といった話が出た。それで私はトライスターの売込は時期的に山場にきており、ことは極めて重大であると話したうえ、「おっしゃるように貴社にとっても今度のトライスターの問題は極めて重大であって、今や最終段階にきているから、田中総理のような実力者に頼んで側面から全日空に導入させるよう働きかけてもらったらどうだろう。ともかく早く決着をつけないと時期を逸してしまうから、すぐ手を打つことが必要だと思う。」旨話した。コーチャンは「総理に頼む方がもっとも強力であるので、ぜひそのようにしよう。しかし私が総理に頼みには行けないので是非あなたが行ってくれ。今度の件は、貴社にとっても重大な問題だし、タイミングを逸すると売込ができなくなるから、早急に総理に会って頼んでほしい。」と言った。私も同感であったので、それでは早速総理に会ってお願いしてくるからと約束した。そのときコーチャンから「明日、大久保氏と会ってさらに具体的な打合せをする。」旨の話があったようにも思う。(昭和五一年八月一〇日付検察官面前調書〔甲再一77・乙15〕四項)
(2) 公判廷供述
昭和四七年八月二一日正午ちょっと前、招待に応じてコーチャン夫妻が訪ねて来た。四、五分間応接間にいたあと、レセプション・ルームで一時間二〇分から三〇分くらい食事などをして過ごしたが、食事が済みデザートの段階の帰り際に、コーチャンが、「総理が代ったようだが、できれば総理に会ったときにロッキードの名前を覚えておいてもらうように話してもらいたい。」というようなことをちょこっと言ったような気がする。これに対して私は「アイル・トライ」とでも言ったか、できたら会いましょうという趣旨のことを言ったと思う。これ以外右検察官面前調書記載の事実は全くなかった。
2 コーチャンの証言
副証一二号に「8/21PMに会うよう檜山に依頼した」とある。私は日本に着いたとき、勿論八月末から九月初めにかけて開かれる予定のホノルルにおけるニクソン・田中会談を知っていた。私は新聞で、日本が合衆国側から航空機等の品物を買い入れることがホノルルにおいて何らか議論されるであろうことを知っていた。それで私は檜山に日本の総理大臣にL一〇一一の長所について話してもらいたいと頼んだ。というのはボーイングもダグラスも同じようなことをしており、同じような訪問をしていることを知っていたからである。彼はそうすることに同意してくれ、そしてそうした。(コーチャン証人尋問調書二巻)
(二) 各供述の信用性の検討
これまで認定して来た諸事実によると、被告人檜山は同大久保との間でL一〇一一型機の全日空への売込につき被告人田中に対し協力方を請託して同被告人の職務に関し賄賂を供与する旨共謀し、被告人伊藤との間でも同様の共謀をしたうえ、賄賂の額を五億円とし、これをロッキード社から出させることを決め、(一)1の各供述にみられるとおり、コーチャンと面談したあと、翌日被告人大久保にコーチャンから右五億円を出させる交渉をするように指示する一方で、そのころ被告人田中邸訪問のアポイントメントを取らせ、昭和四七年八月二三日、田中に対し右請託と五億円供与の申出をしたのである。この一連の事実と対比させて考えると、前記(一)1(1)の被告人檜山の検察官面前供述は右の事実の流れに極めてよく合致しているといわなければならない。そして右供述は(一)2のコーチャン証言及び前記第三・二(一)1の被告人大久保の「コーチャンは檜山が田中総理を訪問のうえ、トライスターを全日空に買わせるように働きかけてもらうことに強い期待を寄せていた。」旨の検察官面前供述とも相応して極めて信用性が高いというべきである。
被告人檜山の弁護人は、(一)1(1)の検察官面前供述では田中総理のような実力者に頼むことは檜山側から言い出したことになっているけれども、コーチャン証言では、コーチャンの方から檜山に総理に会うよう熱心に依頼、説得、奨励、要求したというのであって、両者は符合していないというのであるが、(一)1(1)の検察官面前供述は、檜山の方から被告人田中のような実力者に頼んではどうかと提案し、コーチャンがこれに乗り気になって、ぜひ同被告人に会いに行ってくれと言ったというのであり、コーチャン証言においては、田中に会いに行くことがどういうことから話題にのぼったかが述べられているわけでなく、コーチャンの記憶喚起のもとになっている副証一二号のメモもその点につき何ら触れておらず、同証言は(一)1(1)の供述のような檜山の提案があったことと必ずしも矛盾する内容のものでないうえ、結局コーチャンが檜山に対し田中に会ってくれと依頼したとの話合の結論の点では右(一)1(1)の供述と完全に合致しているのであるから、右弁護人の主張は失当といわなければならない。
被告人檜山の弁護人はさらに、[1] 檜山は、昭和五一年七月二二日の検察官面前調書において前記(一)1(1)とほぼ同旨の供述をし、同月三一日付検察官面前調書では本件請託を大筋で認めているのに、同年八月二日外為法違反罪で起訴された際の勾留質問に対しては右供述調書の趣旨を基本から否定するような、「私が関係したのは献金の用意があることの伝言です。」との趣旨を述べている、[2] (一)1(1)の検察官面前供述は、被告人大久保との事前共謀に引続いて「以上のような状況下において、私は総理に頼むなどして強力な側面攻勢をかけようと考えていた同年八月二一日のことです。」という書き出しで始められており、この供述では、右共謀が檜山・コーチャンの話合の前提条件となっているのであるが、そうすると、被告人檜山はコーチャンに田中総理のような実力者に働きかけを依頼するには五億円程度は必要だと言ってもよいはずなのに、五億円はおろか「金を使う」話をした事実もない、[3] 右(一)1(1)の検察官面前供述は、「コーチャンがロッキードの方から金を出すと言ってきた」旨の同じ検察官面前調書の供述記載と矛盾するとの点をあげて、(一)1(1)の供述に信用性がないと主張している。
[1]の点については、被告人檜山の公判廷供述によると、同被告人は右主張のとおり外為法違反罪で起訴された際の勾留質問に対して「公訴事実のうち、私が関係しているのは大久保から連絡を受けて田中角榮に対し、ロッキード社から同人に約五億円を献金する用意があることを伝えたことです。また事実記載の実際の支払には関与しておりません。」と答えたことが明らかであるところ、この供述は外為法違反の本件起訴事実についてなされたものであって、請託などの点に触れていないのはそのためである。また同被告人は前認定のとおり、被告人田中との会談の際、田中に対して「実はロッキード社の方から、それができたら総理に五億円程度の献金をする用意があると言ってきているんです。」と話したのであり、その趣旨は単なる献金の伝言を取次ぐというのではなく、自ら請託した協力行為に対する報酬・対価を供与する趣旨と解すべきことすでに論述したとおりであるが、勾留質問に対する檜山の答えも右と同じ文言(外為法違反罪の事実についてであるから、成功報酬の点は除かれている)でなされているのであり、したがって勾留質問時には右認定と基本的に異なる事実を同被告人が述べたのではなく、これと同旨の事実を供述したものとみるのが自然というべきである。
[2]の点について、被告人檜山とコーチャンの会談で五億円ないし「金を使う」話が出たとも認められないこと右主張のとおりであるが、前認定のとおり同被告人は翌朝早々に被告人大久保に命じてコーチャンに五億円を出させる交渉をさせているのであって、右会談で檜山が金銭のことに触れなかったということは、同被告人が金銭の話は自分がコーチャンにするよりも、同人との交渉に慣れており英語に堪能な被告人大久保に任せる方がよいと考えたことなどその合理性について種々考えられるのであって、前記(一)1(1)の検察官面前供述が不自然で信用し得ないということの根拠となるものではないというべきである。
なお、[3]の点については、前認定のとおり、被告人檜山が本件五億円を出すよう被告人大久保を通してコーチャンに働きかけたのであって、「コーチャン氏がロッキード社の方から金を出すと言ってきた。」との檜山の検察官面前供述が虚偽なのであるから、(一)1(1)の供述がこれと矛盾するとすればそれは当然のことである。前記弁護人の主張はいずれも理由がないといわなければならない。そして以上の諸点に被告人檜山の検察官面前供述、公判廷供述についてこれまで縷述してきたところを総合すると、前記(一)1(1)の供述のとおりの事実を認定することができる。
(三) コーチャンの内閣総理大臣の職務権限に関する認識
コーチャンは、つぎのような証言を行っている。
[1] 日本におけるL一〇一一の販売努力について、児玉誉士夫は、政府部内の環境を作り上げることのほか、情勢は時により日により変わるので、その情報を知らせてくれていた。
[2] 小佐野賢治と、日本の法人にL一〇一一の販売契約を獲得するについて、彼が助けをするということで議論をしたうちには、政府が機材の輸入を許可しようとしているかどうかについての政府の態度はどうなるかとか、政府のいろいろの要素といったものが含まれていた。それらの議論は通常財務当局と日本に何かを輸入するについて許可を与える通産省を含んでいた。(以上コーチャン証人尋問調書第二巻)
[3] われわれが障害に当ったとき、われわれのすべきことは小佐野らに「今の状況はこういうことです。すみませんが、できるだけ早い機会に、あの省か日本の航空局の誰か高官に会って『やあ、ロッキードの道を妨害しているのが何か調べてくれないかね。』ときいてくれませんか。」と頼むことであった。右の障害は、例えば輸入許可、政府による契約の承認があった。(同調書第六巻)
[4] ある金曜日の朝六時に私は福田氏から電話を受けた。ダグラスの航空機を全日空に供給する決定―政府の決定がなされ…短距離ボーイングは日航へ行き、ロッキードは日航に中距離航空機を売ることになるが、彼等は現在それを必要としないので、「その注文を後であなたが受ける。」と彼は言った。私は児玉に会いに行き「私の見解では三井物産とダグラスが日本政府内の誰かの眼を覆っているのだ。」と言った。(同調書第二巻)
[5] 昭和四七年の一〇月一二日か一四日ころ、私は何が行われているのか見極めることができなかった。それを追跡しているうちに、私が見付け出すことのできた最高のことは運輸大臣の佐々木氏が在京しておらず、その間中何も動くことができないということであった。私は全日空によりどのような(機種)決定がされようと運輸省により承認されることが必要であると思っていた。そして私は佐々木氏が在京しないのにそのような決定をしようとするとは思わなかった。(同調書第五巻)
以上によるとコーチャンは、全日空の機種決定について政府の意向が決定的な意味をもつものと理解していたことが明らかである。右の各証言にかかる事項のうち、[2]ないし[5]は昭和四七年八月二一日のコーチャン・檜山会談以後に生じた事態及びそれについてのコーチャンの認識について述べられたものであるが、コーチャンはL一〇一一型機売込のため「政府部内の環境を作り上げる」仕事は早くから児玉誉士夫に依頼していたのであり、また[2]のような情報を期待して右被告人檜山との会談の二〇日余り前から小佐野との接触を始めていたのである(コーチャン証人尋問調書第五巻)。また[4]・[5]のコーチャンの認識についても同人の証言を通観すると、右各事態に至って初めて同人が抱いたというようなものではなく、かねて有していたこれらの認識に基づき同人なりに事態を分析したところを述べたものであることがうかがわれ、被告人檜山との会談の際にコーチャンが前記のような理解をしていたものと認めることができる。
右の理解は、全日空による機種決定についても運輸省による承認が必要であり、同社は運輸大臣がいなければ決定もなし得ないほど同大臣の意向に従わざるを得ないうえ、同様の許可や承認は航空機の輸入等の種々の分野にわたって必要であり、各種行政機関が全日空に対して強い権限を有しているとの認識に基づくものであることが右証言の内容から明らかである。この点とコーチャンが前記のように、本件五億円の行先は被告人田中のオフィス、つまり合衆国におけるホワイトハウスと同様のもの、同被告人の下にある行政機関で内閣全体であり得るとも考えていたこと及び(二)で引用した前記第三・二(一)の被告人大久保の供述、(二)で認定したコーチャン・檜山会談におけるやりとりを総合し、かつ、前記第二・二(二)2で認定した諸事実、ことにコーチャンが、ハワイにおける日米首脳会談で購入される予定の機種の名をあげて緊急輸入の問題が話合われ、その結果を実現すべく内閣総理大臣が働きかけてくれると期待していた事実をあわせ考慮すると、被告人田中は内閣の長として内閣ないしその下にある行政機関を動かす権限があり、L一〇一一型機の全日空への売込につき田中に協力を要請すれば、田中の働きかけで関係行政機関が全日空に対して前記のような権限を行使してくれるものと期待したことは十分に認められる。のみならず、コーチャン証人尋問調書第四巻添付の副証24の図面(いわゆるコーチャン・チャート)には、田中から若狭へ矢印の付いた線が引かれており、コーチャン証言によると、この図面中の矢印の線はその方向への情報の伝達ないし連絡が行われることが示されていると認められるから、同人は被告人田中が若狭に直接連絡を行うことがあり得るものと考えていたことが明らかであり、この点を右の関係証拠に考え合わせると、コーチャンが、被告人田中自身が直接全日空の若狭社長にL一〇一一型機を採用するよう働きかける事態もあり得ると期待していたと認定するのが相当である。コーチャンは本件檜山との話合において、以上のような期待の下に同被告人に対して被告人田中に会うよう要請したものと認められ、以上の事実に、内閣総理大臣の職務権限に関する被告人檜山の前認定の認識その他関係証拠を総合すると、コーチャン・檜山の両名は、本件八月二一日の会合において、被告人田中に対し、全日空をしてL一〇一一型機を選定購入せしめるよう、運輸大臣その他の権限ある行政機関を介し、あるいは同被告人自ら直接に、同社に働きかけることを依頼しようとの意思を、互いに通じ合ったと認めるのが相当である。
四 被告人大久保及びコーチャン間の共謀
右コーチャン・檜山会談の翌日である昭和四七年八月二二日、被告人檜山は同大久保に対し、被告人田中に供与する金五億円をロッキード社から支払わせるようコーチャンと交渉すべく指示し、これに応じて大久保は同日コーチャンと交渉のうえ、檜山が田中を訪問しL一〇一一型機売込に関し権限ある行政機関を介し、あるいは田中自身全日空に対して働きかける等の協力を依頼するにつき、右依頼にかかる協力に対する報酬として、右売込が成功したときには田中に対して五億円を支払うことをコーチャンに承認させたことが以上に認定して来た諸事実に照らして明らかであり、大久保、コーチャンの内閣総理大臣の職務権限に関する認識、本件売込成功にかける両名の意欲等以上認定の諸事実を総合すると、ここにおいて右両者間で、被告人田中に対し、前記協力方を請託のうえ、その職務に関し現金五億円の賄賂を供与する旨の共謀を行ったことを優に認定することができる。
五 丸紅三被告人及びコーチャン間の共謀の成立
以上のとおり檜山・大久保間、檜山・伊藤間、大久保・コーチャン間にそれぞれ共謀が順次成立し、また檜山・コーチャン間に前記三(三)のような意思連絡ができていたことにより、結局右檜山、伊藤、大久保、コーチャン四名全員が本件請託及び五億円の賄賂供与を共謀したものとして、いずれも被告人檜山による請託及び賄賂供与約束の行為並びに後記被告人伊藤による五億円の賄賂供与の行為につき共同正犯としての罪責を負うこととなったわけである。
第三節  賄賂たる現金の授受
第一  認定事実
前掲各証拠を総合すると、本件の四回にわたる現金合計五億円授受の存在に関し、以下の各事実をその真実なることにつき高度の蓋然性をもって認定することができる。
一 支払の督促
前記のとおり、昭和四七年八月二三日、被告人檜山は、被告人田中と面談し、丸紅の全日空に対するL一〇一一型航空機売込についての協力を田中に要請(請託)するとともに、右売込に成功することを条件に、右協力の報酬として五億円程度を贈る旨申込み、田中の承諾を得てその旨約束し、同日、被告人大久保、同伊藤にもその旨を伝えて右金員を現実に交付する場合二人で協力して実行するように指示しておいた(なお、コーチャンに対しては、被告人大久保が右の旨を伝え、売込成功の場合ロッキード社は五億円の献金をしなければならないことになったと通告した)ところ、前記のとおり、全日空は、同年一〇月三〇日、L一〇一一型機の購入を正式発表し、同四八年一月一二日、ロッキード社との間で、L一〇一一型機六機の購入契約を締結し、右条件の成就をみるに至ったことから、檜山ら(檜山と被告人伊藤、同大久保、コーチャンが共謀関係にあることは前記のとおり)は、田中との前記約束上、五億円程度の金員を田中に交付すべき立場に立つこととなった。
他方、被告人榎本は、被告人田中と被告人檜山との前記面談後間もないころ、田中から、丸紅側と連絡をとって右五億円程度の金員を田中のために受取る使者の役割を果すよう指示され、またその事実は、田中・檜山会談の際、田中から檜山に伝えられていたのであるが、昭和四八年六月ころ、前認定のとおり、榎本は、被告人伊藤に電話して、婉曲に右金員交付約束の実行方を督促し、伊藤は、ただちに檜山にその旨報告し、檜山は、そのころ、被告人大久保に対し、急いで右金員交付約束の実行にとりかかるよう指示した。被告人大久保は、米国にいるコーチャンに電話して、昨年の約束を果してほしいと申入れ、前認定の経緯で、コーチャンは右の約束に従って五億円を支払うことに同意し、また、一度に金を送ることはできず、その送付には若干時間をかけざるを得ないので、クラッターを大久保との連絡役にあてる旨通知した。
被告人大久保は、そのころ被告人檜山及び同伊藤に、コーチャンとの右交渉結果を報告し、伊藤は、そのころ、被告人榎本に電話して、ロッキード社からの金がいずれ近いうちに数回に分けて届くことになった旨連絡した。また、そのころ被告人檜山は、被告人伊藤に対し、「丸紅がこの受渡に直接関与しないようなやり方でやってくれ。」と指示した。
二 ロッキード社による資金の調達
コーチャンは、前記一のとおり、ロッキード社が五億円の支出をすることに同意した後、クラッターを帰米させ、同人に対し五億円の交付をすることになった事情を説明して、その交付の実行を命じ、また、ロッキード社財務部副部長L・T・バロウに対しても、右の経緯を告げ、クラッターの指示によって資金を調達するように命じた。こうして、コーチャンの右指示に基づき、昭和四八年七月一六日から同四九年二月二〇日まで六回にわたり、ロッキード社の関連会社であるロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレーテッド(LAI)又はロッキード・エアクラフト・インターナショナル・インコーポレーテッド・AG(LAIAG)からロスアンジェルスディーク社に対する現金合計五億五、六〇〇万円のクラッターあて送金依頼がなされ、右現金は、香港ディーク社により東京に搬入されて、同四八年七月二三日から同四九年二月二八日まで一九回にわたりクラッターが受領し、そのうち五億円が前記金員交付約束に基づく本件の授受に充てられた。
三 第一回目の現金授受
(一) 昭和四八年八月九日ころ、被告人大久保は、クラッターから前記約束にかかる金員のうち一億円の現金の準備ができた旨連絡を受けるとともに、右金員については一〇〇ピーナツとの符牒を用いることにするので、これを丸紅側に引渡す際、その受取の事実の証憑として一〇〇ピーナツを領収した旨の領収証を交付するよう求められた。そこで、被告人大久保は、同月九日、丸紅東京本社で、被告人伊藤に対してその旨伝え、あわせて、伊藤が前記一億円をクラッターから受取ること、また、受取の際同人に前記一〇〇ピーナツの領収証を交付することを要請した。そこで、被告人伊藤は、同社社長室秘書課長中居篤也に指示して、一〇〇ピーナツを領収した旨の同日付領収証をタイプさせ、自らこれに署名したうえ(甲再一41・甲一63は、右一〇〇ピーナツ領収証及び後記四(一)、六(一)、七(一)の各領収証の写)、封筒に入れて秘書課員野見山國光に手渡し、同人に対し、ロッキード東京支社のクラッターに右封筒を渡して書類を受取ってくるよう指示した。そして、同被告人は、そのころ、被告人榎本に電話して、例の五億円のうち一億円の用意ができたので、これからロッキード社へ取りに行き、受取ってきたらまた連絡する旨伝えた。また、被告人大久保は、被告人伊藤から連絡を受け、野見山が取りに行くこと及びその予定時刻をクラッターに伝えた。
野見山は、丸紅総務課員松岡克浩の運転する被告人伊藤の専用自動車(以下、「松岡運転車」ともいう)で、同日午後四時三〇分ころ、東京都千代田区大手町一丁目六番一号大手町ビルディングに赴き、同ビル四四一号室に所在するロッキード社の関連会社であるロッキード・エアクラフト・(アジア)・リミテッド(LAAL)の日本における営業所(以下、「LAAL東京事務所」ともいう)でクラッターに会い、前記領収証の入った封筒を手交したが、クラッターは、その際には現金を引渡さず、翌日午前八時ころ再び来るように野見山に告げた。野見山は、丸紅東京本社に戻り、被告人伊藤にその旨報告したところ、伊藤は、翌朝前記松岡運転車を野見山の自宅へ迎えに行かせるから、同車に乗ってロッキード日本支社へ行き、受取った荷物は同車後部トランクに入れて保管しておくように指示し、その後松岡に対しても、翌朝野見山方へ迎えに行くよう指示した。また、同被告人は、被告人榎本に対しても、現金受領が翌日になったことを連絡した。
なお、そのころ、クラッターは、当時LAAL東京事務所で保管していた現金のうち一億円を段ボール箱に詰めて密封し、引渡の準備をした。
同月一〇日朝、野見山は、東京都中野区沼袋の自宅に迎えに来た松岡運転車に乗って、大手町ビルへ行き、午前八時ころ、LAAL東京事務所で、クラッターから、現金一億円の入った段ボール箱を受取り(もっとも、野見山は、段ボール箱の内容物が現金である旨の認識は有していなかった。)、同ビル前路上に駐車中の松岡運転車の後部トランクにこれを収納したうえ、同車に乗って丸紅東京本社に出社した。松岡は、その後、前記段ボール箱を後部トランクに入れたまま、被告人伊藤を迎えるため、右自動車を運転して同被告人方に赴いたが、伊藤は、その際、同車後部トランクに段ボール箱が収納されていることを確認し、また出社後、野見山から、指示どおり書類を受領してきた旨の報告を受けた。
(二) 同日、被告人伊藤は、野見山から前記報告を受けた後、被告人榎本に電話し、一億円を受取ってきたことを連絡するとともに、榎本に対する右現金引渡の場所、方法等について相談し、その結果、同日午後二時二〇分ころ、英国大使館の裏通りで、双方自動車で落ち合い、現金引渡をすることと取決めた。被告人榎本がその旨被告人田中に報告したところ、田中は、受取った現金を田中の私邸内居宅部分に搬入するよう指示した。
こうして、同日午後、被告人伊藤は前記松岡運転車で、被告人榎本は笠原政則が運転する被告人田中の私邸の自動車(以下、「笠原運転車」ともいう)で、それぞれ東京都千代田区一番町一番地駐日英国大使館裏路上に赴き、同日午後二時二〇分ころ、同所で落ち合うや、松岡が、伊藤の指示により、前記現金一億円の入った段ボール箱を松岡運転車後部トランクから笠原運転車後部トランクに移しかえた(ただし、松岡は、右段ボール箱の内容物が現金である旨の認識は有していなかった。)。
被告人榎本は、右現金一億円の入った段ボール箱を同都文京区目白台一丁目一九番一二号所在の被告人田中の私邸内居宅部分一階奥座敷に搬入し、そのころ、田中に対しその旨報告した。
被告人伊藤も、右現金引渡後間もないころ、前記約束にかかる金員のうち第一回分の一億円の引渡を了した旨、被告人檜山に報告した。
(三) 被告人田中は、その後間もないころ、同被告人の私邸を訪問した被告人檜山に対し、右現金を受領したことについて謝礼を述べた。
四 第二回目の現金授受
(一) 同年一〇月一二日ころ、クラッターは、被告人大久保に対し、前記約束にかかる金員のうち一億五、〇〇〇万円の現金の用意ができた旨、及び右現金については一五〇ピーシズとの符牒を用いることにする旨連絡した。そして、クラッターは、そのころ、当時LAAL東京事務所で保管していた現金のうち一億五、〇〇〇万円を段ボール箱に収納して、これを密封し、引渡の準備をした。
同月一二日、被告人大久保は、丸紅東京本社で、被告人伊藤に対し、クラッターからの前記連絡事項を伝えるとともに、右現金をクラッターから受取るよう要請した。そこで、被告人伊藤は、前記中居に指示して、一五〇ピーシズを領収した旨の同日付領収証をタイプさせて自ら署名したうえ、これを封筒に入れて前記野見山に手渡し、同人に対し前記三(一)同様の指示を与えた。また、同被告人は、そのころ、被告人榎本に電話して、例の金のうち一億五、〇〇〇万円の用意ができたので、これからロッキード社へ取りに行き、受取ってきたらまた連絡する旨伝えた。他方、被告人大久保は、被告人伊藤から連絡を受け、野見山が取りに行くこと及びその予定時刻をクラッターに伝えた。
野見山は、同日昼ころ、松岡運転車で大手町ビルに赴き、LAAL東京事務所で、クラッターに前記領収証の入った封筒を手渡すとともに、同人から、前記現金一億五、〇〇〇万円の入った段ボール箱を受取り(野見山は、右段ボール箱の内容物が現金である旨の認識を有していなかった。)、同ビル前道路に駐車中の松岡運転車の後部トランクに収納したうえ、同車に乗って丸紅東京本社に戻り、被告人伊藤にその旨報告した。
(二) 被告人伊藤は、野見山から右報告を受けた後、ただちに被告人榎本に電話して、前記現金一億五、〇〇〇万円を受領してきた旨報告するとともに、これを引渡す場所、方法等について相談した。被告人伊藤は、同日夕刻から行われる丸紅社員の結婚式に夫妻で出席することになっており、その前に一旦着がえのため自宅に帰る予定であったことから、その帰宅の際自宅付近路上で右現金の引渡をしようと考え、その旨提案したところ、被告人榎本の了承を得たので、さらに打合わせた結果、右引渡の時刻を同日午後二時三〇分ころ、場所を都立九段高等学校向い側の電話ボックス(東京都千代田区富士見一丁目一〇番日本私学振興財団わき)付近路上と決め、さらに右引渡の際には、伊藤自身は立会わず、伊藤の専用自動車の運転手(すなわち、前記松岡)をしてその任に当らせることと取決めた。
同日午後二時二五分ころ、被告人伊藤は、松岡運転車で、前記のとおり、着がえのため帰宅したが、その際、同被告人は、松岡に対し、前記電話ボックス付近路上で榎本と名乗る者に対し前記段ボール箱を引渡すよう指示し(その際被告人榎本の特徴等も教えた。)、松岡は、伊藤をおろした後、ただちに自動車を運転して、右電話ボックス付近路上に赴いた。被告人榎本は、同日、被告人田中に対し、前記約束にかかる金員のうち一億五、〇〇〇万円を受取ることになった旨報告したうえ、前記笠原運転車で同日午後二時二五分ころ、前記電話ボックス付近路上に赴いて、松岡と落ち合い、松岡から前記現金一億五、〇〇〇万円の入った段ボール箱を受取り(松岡は、右段ボール箱の内容物が現金である旨の認識は有していなかった。)、これを笠原運転車後部トランクに入れて、田中の私邸に搬入した。そして、被告人榎本は、前記三(二)同様、右現金の入った段ボール箱を私邸内居宅部分一階奥座敷に運び込み、その後被告人田中に対しその旨報告した。
松岡は、右引渡を終えた後、一旦丸紅東京本社に戻り、同日午後三時三〇分ころ、被告人伊藤夫妻を迎えるため同被告人方に赴いた際、右のとおり段ボール箱の引渡を終えた旨を報告し、伊藤は、その後間もなく、被告人檜山に対し、前記約束にかかる金員のうち第二回分一億五、〇〇〇万円の引渡を了した旨報告した。
(三) 被告人田中は、その後間もないころ、同被告人の私邸を訪問した被告人檜山に対し、右現金を受領したことについて謝礼を述べた。
五 被告人榎本の再度の督促
昭和四八年末か同四九年初めころ、被告人榎本は、被告人伊藤に対し、電話で、「例のもの、このつぎはいつになるのですか。」と言って、前記約束にかかる金員中の残金支払を督促した。被告人伊藤は、その旨を被告人檜山に報告し、檜山は被告人大久保に対し右残金の交付を促進するよう指示したため、大久保は、そのころクラッターに対し右の旨を要請した。
六 第三回目の現金授受
(一) 昭和四九年一月二一日ころ、クラッターは、被告人大久保に対し、前記約束にかかる金員のうち一億二、五〇〇万円の現金の用意ができた旨連絡し、また右現金については一二五ピーシズとの符牒を用いることにする旨伝えた。そして、クラッターは、そのころ、当時LAAL東京事務所で保管していた現金のうち一億二、五〇〇万円を段ボール箱に収納して、これを密封し、丸紅側に対する右現金引渡の準備をした。
同月二一日、被告人大久保は、丸紅東京本社で、被告人伊藤に対し、クラッターからの前記連絡事項を伝えると共に、右現金をクラッターから受取るよう要請した。そこで、被告人伊藤は、前記中居に指示して、一二五ピーシズを領収した旨の同日付領収証をタイプさせ、自らこれに署名して封筒に入れた。そして、クラッターから丸紅側に対する右現金引渡の方法としては、同日クラッターが丸紅東京本社に来た際、同社地下駐車場で、クラッターの専用自動車から被告人伊藤の専用自動車に右現金入り段ボール箱を移しかえる方法により行うことが取決められた。そこで、同被告人は、そのころ、松岡に対し、右地下駐車場でクラッターの専用自動車から松岡運転車に段ボール箱を移しかえるよう指示した。
同日午後一時ころ、クラッターは、福岡清治の運転する専用自動車(以下、「福岡運転車」ともいう)後部トランクに前記現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱を入れて、丸紅東京本社に赴き、同社応接室で、被告人伊藤から、前記の封筒に入った一二五ピーシズ領収証を受領した。また、そのころ、福岡は、あらかじめクラッターから与えられていた指示に基づき、同社地下駐車場で、前記現金の入った段ボール箱を松岡に引渡し、松岡はこれを受取って、松岡運転車の後部トランクの中に入れた(なお、松岡、福岡の両名は、右段ボール箱の内容物が現金である旨の認識を有していなかった。)。
(二) その後、被告人伊藤は、被告人榎本に電話し、前記の現金一億二、五〇〇万円をロッキード社から受取った旨伝えるとともに、ホテルオークラ駐車場でこれを引渡すことと決めた(引渡の時刻としては同日午後四時一五分ころから四時四五分ころまでの間の時刻を取決めた。)。被告人榎本は、そのころ、被告人田中に対し、前記約束にかかる金員のうち現金一億二、五〇〇万円を受取ることになった旨報告した。
こうして、同日夕刻、被告人伊藤は松岡運転車で、被告人榎本は笠原運転車で、それぞれ東京都港区赤坂葵町三番地(現住居表示は同区虎ノ門二丁目一〇番四号)ホテルオークラ駐車場に赴き、同日午後四時一五分ころから四時四五分ころまでの間の時刻に両車が同所で落ち合うや、松岡が、伊藤の指示に基づき、前記現金の入った段ボール箱を松岡運転車後部トランクから笠原運転車後部トランクに移しかえた。
被告人榎本は、その後、右段ボール箱に入った現金を被告人田中の私邸内居宅部分一階奥座敷に搬入し、その後、田中に対しその旨報告した。
被告人伊藤は、その後間もないころ、被告人檜山に対し、前記約束にかかる金員のうち第三回分一億二、五〇〇万円の引渡を了した旨報告した。
七 第四回目の現金授受
(一) 同年二月二八日ころ、クラッターは、被告人大久保に対し、前記約束にかかる金員の残金である現金一億二、五〇〇万円の用意ができた旨連絡し、また右金員については一二五ピーシズとの符牒を用いることにする旨伝えた。そして、クラッターは、そのころ、当時LAAL東京事務所で保管していた現金のうち一億二、五〇〇万円を段ボール箱に収納してこれを密封し、丸紅側に対する右現金引渡の準備をした。
同月二八日、被告人大久保は、丸紅東京本社で、被告人伊藤に対し、クラッターからの前記連絡事項を伝えるとともに、右現金をクラッターから受取るよう要請した。そこで、被告人伊藤は、前記中居に指示して、一二五ピーシズを領収した旨の同日付領収証をタイプさせて自ら署名し、これを封筒に入れて前記野見山に手渡し、同人に対し前記三(一)、四(一)同様の指示を与えた。そして、被告人伊藤は、そのころ、被告人榎本に、電話で、例の金のうち残りの一億二、五〇〇万円を受取ることになったので、これからロッキード社へ取りに行き、受取ってきてからまた連絡する旨伝えた。また、被告人大久保は、被告人伊藤から連絡を受け、野見山が取りに行くこと及びその予定時刻をクラッターに伝えた。
野見山は、同日午後六時三〇分ころ、松岡運転車で大手町ビルに赴き、LAAL東京事務所で、クラッターに前記領収証の入った封筒を渡すとともに、同人から前記現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱を受取り(野見山は右段ボール箱の内容物が現金である旨の認識を有しなかった。)、同ビル地下駐車場に駐車中の松岡運転車の後部トランクにこれを収納したうえ、同車に乗って丸紅東京本社に戻り、被告人伊藤にその旨報告した。
(二) 被告人伊藤は、そのころ、被告人榎本に電話して、翌同年三月一日午前八時過ぎごろ伊藤の自宅で右の現金一億二、五〇〇万円を渡すことと取決めた。被告人伊藤は、同年二月二八日午後七時三〇分ころ、松岡運転車で東京都千代田区富士見一丁目一一番二四号秀和富士見町レジデンスの自宅に戻ったが、伊藤は、その際、松岡に命じて松岡運転車後部トランクから前記の現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱を取出させ、これを自宅内に運び込ませた(松岡は、右段ボール箱の内容物が現金である旨の認識を有していなかった。)。
被告人榎本は、被告人田中に対し、前記約束にかかる金員の残金である現金一億二、五〇〇万円を受取ることになった旨報告したうえ、同年三月一日朝、笠原運転車で前記被告人伊藤の自宅に赴き、同日午前八時ころから八時三〇分ころまでの間の時刻に、同所で、被告人伊藤から前記段ボール箱入り現金一億二、五〇〇万円を受取り、笠原に指示してこれを秀和富士見町レジデンス前路上に駐車中の笠原運転車の中に運び込ませた後、田中の私邸に赴き、私邸内居宅部分一階奥座敷にこれを搬入した。被告人榎本は、その後、被告人田中に対しその旨報告した。
被告人伊藤は、その後間もないころ、被告人檜山に対し、前記約束にかかる金員全部の引渡を了した旨報告した。
第二  証拠説明――現金授受の直接関与者の供述について
本件合計五億円の現金の授受(すなわち、クラッターから被告人伊藤を経て、被告人榎本に至る合計五億円の現金の入った段ボール箱の四回にわたる交付)の状況については、右四回の授受のすべてに直接関与したとされる被告人伊藤が、捜査過程で検察官に対し、その連絡、準備、実行の状況等その全般にわたって詳細な供述をし(同被告人の昭和五一年八月一二日付検察官面前調書〔甲再一94・乙35〕等)、公判廷においても、個々の状況についてはあいまいなところがあり、記憶の程度にも濃淡の差があるとしながらも、本件授受の事実の概略を認める供述をしているのを初め、伊藤の専用自動車の運転手である前記松岡も、捜査過程で検察官に対し、右授受の際前記段ボール箱を右自動車で運搬し、ことにそのうち第一ないし第三回に該当する三回についてはこれを自ら被告人榎本の乗る自動車に運び込んだ旨、その際の状況をも交え、詳細な供述をしている(同人の同年七月二三日付、同年九月一七日付各検察官面前調書〔甲再一37、39〕)。また、クラッターから被告人伊藤に対する交付の部分については、クラッターが東京地方裁判所裁判官の嘱託に基づく証人尋問において右四回の交付の状況を供述し(同人に対する嘱託証人尋問調書第四巻〔甲再一25・甲一161〕等)、また前記野見山も、捜査過程で検察官に対し、三回にわたってクラッターから段ボール箱を引渡され、これを松岡運転車に運び込んだ旨詳細な供述をしている(甲再一40・甲一64)。さらに、被告人伊藤から被告人榎本に対する交付の部分については、被告人榎本が、捜査過程で検察官に対し、右四回合計五億円の現金入りの段ボール箱の受取を認める供述をし(同被告人の同年八月三日付、同月一〇日付各検察官面前調書〔甲再一80・乙8、甲再一84・乙9〕等)、右受取の際榎本の乗った自動車を運転していたとされる前記笠原も、捜査過程において検察官面前で、四回にわたる右段ボール箱受取の状況につき供述書を作成し、かつ、供述している(同人作成の供述書四通〔甲再一10ないし13・甲一65ないし68〕、証人坪内利彦の公判廷供述の内容となっている笠原の供述。なお、松岡、野見山、笠原の右各供述は、右段ボール箱の内容物が現金であることの認識については、あるいは触れず、あるいは認識なしとしている。)。
以上の各供述は、いずれも、本件現金授受のまさに直接証拠であって、その証拠能力が肯定され、また信用性も肯認されるならば、右授受を直接に証明する重要な積極証拠となることはいうまでもない。しかし、他方、公判廷においては、被告人榎本が右四回にわたる受取をすべて否定する供述をするのを初め、松岡、野見山も、検察官面前供述とは多くの点で異なる供述をし、なお被告人伊藤の公判廷供述も、その検察官面前供述に比し、相当程度あいまいな内容のものとなっている。また、笠原、クラッターの右各供述についても、弁護人から種々の問題点が指摘されている。以下右関係者の供述の信用性につき、さらに必要に応じ証拠能力の観点からも順次検討していくこととする。
一 被告人伊藤の供述
被告人伊藤は、捜査段階で、前記第一の各事実中同被告人の関与にかかる部分をほぼ全面的に認める供述をし、また、公判廷においても、第一の三、四、六、七記載の日ころ、各記載の場所、方法で、クラッターと被告人榎本の間に立って本件五億円の現金の授受を行ったこと等の概略を結論として認める趣旨の供述をしている。
とくに、被告人伊藤は、公判廷において、被告人田中、同榎本の弁護人から種々質問を受け追及されたのに対しても、第一の三、四、七の授受に関してはその状況等について相当詳細に供述し、反面、記憶の程度には濃淡の差があるとし、ことに六の第三回目の授受については、日時は昭和四九年一月二一日ころのことであるとしながら、「よく分らないが、丸紅の地下で私の運転手が段ボール箱を受取ったとしか考えようがないという気もする。」、「オークラで運転手同士が段ボール箱を渡したということじゃなかったかなと思っている。」旨供述するに止まっている等の部分はあるが、結論として右各現金授受等の事実があったことを肯定する趣旨を変えていないのであって、その供述内容が松岡作成の社有自動車行動表(甲再二41・甲二85)等の関係証拠の内容ともよく符合していること等に照らしても、この点に関する同被告人の捜査段階供述とこれに副う公判廷供述部分の信用性は高いと認められる。
さらに、同被告人の検察官面前調書の内容をみるに、同被告人が二回にわたり被告人榎本から本件金員の交付の督促を受けてこれを被告人檜山に報告したり、檜山が、自ら伊藤に対し本件金員の交付に当っては丸紅がこの受渡に直接関与しないようなやり方で行うように指示し、あるいは榎本に対する四回の現金交付の後いずれも伊藤からその旨の報告を受けていたことなど、丸紅関係者ことにその社長である檜山が本件金員の授受遂行の過程に深く関与していたことをうかがわせる趣旨の供述(なお、被告人伊藤は、公判廷で、本件現金の授受に自分が当ったことは檜山の意向に反し、丸紅の役員として関与すべからざるものに関与してしまった旨供述するが、この点に関する検察官面前供述の趣旨は、伊藤の右行為は檜山の意向に反するものではなく、元来伊藤が当然関与すべき事項であったということに帰着すると解される。)や、伊藤が本件金員の授受を秘匿すべきものと認識し、このような認識のもとに本件授受を遂行したとの趣旨の供述が録取されているのに対し、伊藤は、公判廷では、右各点の多くを否定し、また、本件授受の状況の詳細に関する検察官面前供述の相当部分についても記憶がないとするなど、授受の状況についても公判廷ではあいまいな供述に止まる傾向のあることが看取される。
しかし、被告人伊藤の検察官面前供述は任意性に欠けるところがなく特信性もあると認められることは前記第二節第二・五で示したとおりであるのみならず、右の各点に即してその信用性について検討してみても、そのうち、本件金員授受に関する被告人檜山を初めとする丸紅関係者の関与の程度や本件金員授受の秘密性に関する検察官面前供述を争う被告人伊藤の公判廷供述部分は、前記第二節第二・二及び四のとおり、元来本件金員交付はロッキード社がなした献金の約束に基づくものであるとし、その約束に関する丸紅関係者の主体性を一貫して否定する同被告人の公判廷供述部分と不可分一体の関係にあると解されるところ、そもそも本件金員交付約束の経緯、内容に関する右公判廷供述部分が信用し得ないものであることはすでに前記第二節第二・四で判断したとおりである。そうとすると、本件金員授受に関する丸紅関係者の関与の程度や本件金員授受の秘密性に関する検察官面前供述を争う同被告人の前記公判廷供述に対してもまた同様の評価を加えるべきこととなる。また、同被告人が、公判廷で、現金授受の事実自体は結論的に認めつつ、その状況等に関する検察官面前供述内容の相当部分につき記憶がないとするなど、あいまいな供述に向かう傾向を示す点についてみても、被告人伊藤は、検察官に対する供述を否定するにつき何ら首肯するに足りる説明をなし得ていないこと、公判廷供述は、本件金員受領の事実を全面的に否定する被告人田中、同榎本の面前における供述であること、さらにその供述態度等にも鑑みると、右公判廷供述部分は意識的に明確な供述を避けようとするもので、にわかに信用し難いというべきである。これに対し、以上の各点に関する被告人伊藤の検察官面前供述は、詳細、具体的であって伊藤自身の体験によってのみ知り得る事項が多く含まれ、内容も自然であり、記憶の有無、程度がよく区別され、他の証拠関係ともよく符合して、信用性が高いと認められる。
なお、被告人田中、同榎本、同大久保の弁護人は、被告人伊藤の本件五億円の金員の授受に関する捜査段階での供述の経過が不自然であるなどとして、同被告人の供述の信用性を争う主張をする。関係証拠によると、同被告人は、昭和五一年七月二日議院証言法違反罪により逮捕されて、引続き勾留され、その間本件金員の授受(すなわち、クラッターからの受取及び被告人田中側への引渡)についても取調べられていたが、伊藤は、取調の当初のころには受取、引渡とも各四回にわたる右授受の事実自体は認めつつ、その状況については概略的供述をするに止まり、とくに田中側に対する引渡の日時、場所等の詳細の点のうちかなりの部分に関しては記憶がないとの供述を続け、同月一八日ころ以降に至り右の詳細の点についても供述に大幅な進展をみせるに至った等の事実は認めることができる。弁護人は、大金の引渡場所のような点についてまで被告人伊藤に長く記憶が戻らなかったというのはいかにも不自然であり、ひいて同被告人の供述は信用できないと主張するのであるが、被告人伊藤は、取調のごく初期の段階で、すでに、本件金員の受取の際には、野見山が、松岡運転車でロッキード日本支社(LAAL東京事務所を指す)へ行き、同所でクラッターからこれを受取ってきたこと、これを被告人田中側に引渡す際には、自分と田中側の被告人榎本とがいずれも自動車(伊藤の方は、やはり松岡運転車を使ったと供述した。)で落ち合ってその受渡を行ったなど、当時いまだ他の関係者のだれもが供述せず、検察官も知らなかった重要な事実を自ら供述し、同月一八日ころ以降のその後の取調の過程でさらに右授受の詳細な状況について供述をするに至ったものであること、同月一八日ころ以降に伊藤が新たに供述した事項の中には、松岡ら本件の他の関係者がすでに供述していた事柄もあったが、榎本に対する本件金員の引渡を伊藤の自宅やホテルオークラで行ったことがあることなどのように、本件関係者中伊藤が最初に供述した事項もあること等の諸事実が認められるのであって、以上検討した諸点に、なお被告人伊藤の取調経過に関する前記第二節第二・三(二)に示したところをも総合すると、前記弁護人の指摘する事情を勘案しても、これが同被告人の供述の信用性を左右するに足りるものであるとは認められない。
二 松岡の供述
(一) 松岡の検察官面前調書には、前記第一の三、四、六、七で示した同人の行動に合致する内容の供述が録取されているところ(ただし、第一・六については、丸紅東京本社地下二階で前記福岡から段ボール箱を受取ったことと、ホテルオークラで被告人伊藤の指示により被告人榎本の乗る自動車内に段ボール箱を移しかえたことはあるが、その日時は明確でなく、右各段ボール箱が同一のものであるかどうかも明らかでない旨、他の授受よりは明確でない供述が録取されている。)、公判廷では、松岡は、右の検察官面前供述をほぼ全面的に否定する供述をし、弁護人も、松岡の右公判廷供述に依拠しつつ、種々の主張をして、右検察官面前供述の証拠能力、証明力を争うので、以下、この点について順次検討を加える。
(二) 弁護人は、松岡に対する逮捕、勾留及び取調の方法が違法であった旨主張し、ひいて同検察官面前調書の証拠能力を否定する。すなわち、
1(1) 被告人田中、同榎本の弁護人は、「松岡の逮捕状記載の被疑事実は、『被疑者は大阪市東区本町三丁目三番地丸紅株式会社総務部総務課の職員として、東京都千代田区大手町一丁目四番二号同社東京支店において、同社取締役伊藤宏専用の乗用車の運転者をしていたものであるが、捜査官憲が右伊藤を外国為替及び外国貿易管理法違反の被疑者として捜査中であることを知りながら、同人のため不利益な証拠を湮滅しようと企て、同社総務部総務課長毛利英和と共謀のうえ、昭和五一年三月上旬頃、右東京支店において、被疑者が作成していた右伊藤の自動車行動表(昭和四八年一月以降同五〇年三月まで)を改ざんし、もって他人の刑事事件の証憑を湮滅したものである。』というものであって、改ざんの内容方法等を一切特定しないばかりか、証憑湮滅の対象となる被疑事実も特定していない。」と主張する。
(2) しかしながら、右の程度の記載が逮捕状に要求される被疑事実の要旨の記載(刑訴規則一四二条一項二号)として欠けるところありとは解されないから、この点を理由として松岡の逮捕、勾留の違法を云々する弁護人の右主張はそれ自体失当である。
2(1) 被告人田中、同榎本の弁護人は、また、「伊藤宏は昭和五一年七月二日逮捕されたが、その逮捕状記載の被疑事実は衆議院予算委員会における偽証を内容とするもので、同人は外為法違反の事実で逮捕されたものではなく、このような事実は、松岡の逮捕状の被疑事実中に『捜査官憲が右伊藤宏を外為法違反の被疑者として捜査中であることを知りながら』とあるのと符合しない。」旨論ずる。
(2) しかしながら同年二月にコーチャンらの米国上院チャーチ委員会における公聴会における証言が行われ、また被告人伊藤の署名したいわゆるピーナツ、ピーシズ領収証(前記第一の三(一)、四(一)、六(一)、七(一)の各領収証)の写が公表されて以来、ロッキード社から多額の金員が秘密裡に日本国内に流入し同被告人を初めとする丸紅関係者がこれに関与していたのではないかとの疑惑が広く生じ、捜査官憲もこのような事情を背景として伊藤に対し外為法違反の嫌疑を抱き捜査の対象としていたことは本件各証拠に照らしても明らかなところであり(ちなみに、同月二四日には司法警察員警視庁警視坂上秋雄らにより丸紅東京本社の捜索がなされたが、右捜索は伊藤らの外為法違反の犯罪の捜査に関して行われたものであった。)、また、このような事実関係にも鑑み、かつ、松岡が現に行った後記のとおりの社有自動車行動表の改ざんの状況をあわせ勘案しても、松岡は伊藤が右ロッキード社の金員に関する問題について捜査の対象となっていたことを知っていたと十分推認し得るのであって、結局以上に照らすと、弁護人の(1)の主張もまた理由がないことが明らかというべきである。また、被告人伊藤の逮捕は、同被告人に対する議院証言法違反(衆議院予算委員会における偽証)の被疑事実を理由としてなされたものであることは弁護人指摘のとおりであるが、右議院証言法違反の被疑事実は、要するに、伊藤は、丸紅がロッキード社から五億円を受取ったことを証するためいわゆるピーナツ、ピーシズ領収証に署名したにもかかわらず、前記委員会では右領収証に伴う金品の授受については一切関知していない等虚偽の証言をしたというものであって、その内容上伊藤に対する外為法違反の嫌疑とうらはらをなして一連の関係にあることが明らかであり、右のような議院証言法違反の被疑事実により被告人伊藤が逮捕されたということと、捜査官憲が同被告人に対し外為法違反の嫌疑を抱いて捜査をしていたこととは何ら矛盾するものではない。
3(1) 被告人田中、同榎本の弁護人は、「松岡を証憑湮滅で逮捕しながら、検察官の真の目的は、松岡から段ボール箱の運搬、授受についてきき出すことにあったことは明瞭である。すなわち知情の証拠がないため、この運搬授受の関係では松岡は参考人であり、逮捕して取調をすることができないので、いわゆる別件で逮捕し、取調の主体を現金の運搬、授受においたものというべきものである。」と論じ、被告人檜山、同伊藤、同大久保の弁護人も、「逮捕の必要性の観点から最も重要な罪証湮滅のおそれはなかったというべく、他に住居不定、逃亡のおそれなど逮捕の必要性の具体的要件の明らかにされない松岡の逮捕、勾留はその必要性を欠き違法であるといわざるを得ない。このように、本来逮捕の必要性を欠く者を逮捕、勾留し、これを他の事実の取調目的のために利用することは違法であり、かかる違法な取調の結果得られた供述調書はそれ自体法廷に許容すべきものではない。」旨論ずる(昭和五三年一〇月一一日付意見書四丁以下)等、弁護人は、松岡に対する逮捕、勾留は、松岡にとっては犯罪を構成しない本件現金の入った段ボール箱運搬の事実について同人を取調べる目的で、取調の本来の対象でもなく、逮捕の必要性もなかった証憑湮滅の事実について敢えて行われた違法なものであった旨主張する。
(2) しかし、証拠に照らすと、本件逮捕の際、松岡が証憑湮滅の犯罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があったことは明らかであり、また、その際検察官の把握していた右証憑湮滅の犯罪の嫌疑の内容は、要するにロッキード社から被告人伊藤に四回にわたり合計五億円の現金が渡され、これがさらに被告人榎本に渡されたところ(なお右現金授受は外為法に違反する疑いがあった)、それに関する丸紅関係者の行動を糊塗するため、同社の運転手である松岡が、伊藤の指示により、社有自動車行動表の関係各部分を改ざんしたというものであって、その事実自体犯罪としても重要な内容であるのみならず、右のような犯罪の性質、背景にも照らし、松岡がその勤務する丸紅の関係者と通謀するなどして、罪証を湮滅すると疑うに足りる相当な理由も十分存したというべきであるから、結局、松岡の逮捕、勾留はその理由及び必要性を欠くものではなかったと認められるのである。
たしかに、右証憑湮滅罪による逮捕、勾留の期間中、検察官が、松岡に対し、単に自動車行動表の改ざん自体についての取調のみでなく、本件段ボール箱の授受等についての取調も行ったことは認められる。この点につき松岡は、公判廷で、逮捕の当日である同五一年七月一九日の午前一〇時三〇分ころ、取調のため初めて検察庁に出頭したところ、検察官からいきなり「君、段ボール積んだことがあるだろう。」と言われ、その後も、逮捕された午後四時四七分の二時間くらい前になって自動車行動表の改ざんについてきかれるまで、専ら、段ボール箱のことや秘書課員を自分の運転する自動車に乗せたこと等について取調べられた旨供述するが、右の供述は、同人の取調に当った坪内利彦検事の公判廷供述等に照らしても信用できず、同検事は、逮捕前、松岡に対し、身上等について尋ねた後、先ず自動車行動表の改ざんに関する取調を行ったと認められる。ところで、弁護人がここで非難する被疑事実以外の取調なるものは、要するに、自動車行動表中の改ざん前の記載の意味内容、すなわち元の真実の運行記載に相応する松岡運転車の運行の状況及びその運行時同車に乗車していた被告人伊藤、野見山らや松岡自身のその際における行動(本件段ボール箱の運搬等の事実を含む)についてのものであって、これら伊藤らの行動や段ボール箱運搬等の事実と前記証憑湮滅の事実との間にはもとより密接な関連があるから、後者の事実についての取調の際、取調が前者の事実に及ぶことは当然であって、その点に何ら違法と目されるべきものを見出すことはできない。
そうすると、弁護人の(1)の主張も理由のないことが明らかである。
4(1) 弁護人は、本件取調当時松岡は病気のため到底取調に耐えない状態にあった旨主張する。
(2) しかし、関係証拠によると、松岡は十二指腸かいよう、胃かいよう等の既往症を有し、逮捕前のころも食欲不振、胃痛を時々覚えることがあったこと、同人は昭和五一年七月一九日に逮捕されて以来、引続き勾留され、東京拘置所に拘禁されて同所で取調を受け、その間胃に変調をきたし、同年八月二日胃かいようと診断されて病舎に収容され、翌日釈放されて引続き国立大蔵病院に入院し、治療を受けたこと等は認められるが、なお本件で証拠として採用された三通の検察官面前調書のうち、同年七月二三日付及び同月二六、二七日付供述調書(他の一通である同年九月一七日付調書は、後記のとおり釈放後作成されたものである。)の作成の終了した同年七月二七日までの身体拘束期間中の身体状況につき詳細に検討すると、右の期間中も松岡は頻繁に医師の診察を受け、その了承のもとに取調が続けられたものと認められるところ、東京拘置所作成の診療録(甲四12〈2〉)によると、同人は逮捕翌日の同年七月二〇日食後胸やけをすることがある旨を、同月二二日には差入弁当を全部食べた時胃が痛む旨を、また同月二五日にはめまい、吐き気、全身けん怠感がある旨をそれぞれ訴えたことは認められるものの、その他、とくに松岡の病状がこの段階ですでに相当重く昂進していたことをうかがわせる事情はなく(右めまい、吐き気等も症状軽度と診断されている。)、また同月二八日には松岡が胃の調子はよい旨を述べていることが認められるなど、右の期間中すでに同人の体調に著変が生じ、同人が取調に耐えない身体的状況に陥っていたとは認め難い。そして松岡は、公判廷で、胃の痛みのため取調にまともに応ずることができなかったとの趣旨を繰返し供述する一方で、「取調中は質問されていることの意味が分らず、精神的に苦痛であった。」旨供述し、「胃が痛いから苦痛であったというのと精神的に苦痛であったというのとどちらが主であったのか。」との質問に対し、「どっちかと言われると、やっぱり精神的な苦痛が強いんじゃないでしょうか。」などと供述する等、胃の痛みの程度に関する松岡の公判廷供述自体、必ずしも一貫しないこと、坪内検事は、同月二五日午前中の取調の際、松岡から同日朝前記めまい等の症状があった旨聞き、ただちに取調を中断して医師の診察を受けさせ、同日午後、松岡からも右症状が止んだことを確かめ、取調を行い得ることを確認したうえ再開するなど、同人の体調について相応の注意は払いつつ取調に当ったと認められること、釈放後作成された同年九月一七日付調書は、同日、坪内検事が、前記国立大蔵病院に赴き、入院中の松岡を取調べたうえ作成したものであるところ、右取調は医師の了解を得て行われたもので、その際同人が取調に耐え得る体調にあったことは明らかであること等の諸点にもあわせ鑑みると、弁護人の右(1)の主張も、前提たる事実関係の把握評価において失当であることが明らかであり、採用し難いと認められる。
5(1) 弁護人は、松岡の検察官面前調書は、坪内検事の誘導的、強制的取調に対し松岡が迎合して供述したため作成されたものである旨主張する。
(2) ところで、弁護人は、坪内検事の誘導的強制的取調に対して松岡が抵抗せず迎合した主要な理由として、同人の病状を挙げるのであるが、同人の病状が取調に耐え得ないほどのものでなかったことは前記4で判断したとおりである。そして、さらに検討してみても、同検事の録取にかかる松岡の検察官面前調書は、内容が極めて詳細、具体的であって、同人の記憶の有無、程度がよく区別され、他の証拠関係ともよく符合しており、また、その内容中には、後記(三)に示したような取調当時坪内検事の知るところではなかった事項を多く包含し、これらについては松岡がその知るところを進んで述べた結果が録取されたことが推認され、なお丸紅地下二階とホテルオークラにおける段ボール箱の授受自体についてはこれを認めながら、その日時及び右各段ボール箱の同一性は分らないとの趣旨の供述が録取されているように、弁護人の主張するような誘導、強制、迎合の状況があったとすれば当然迎合的供述がなされているべき事柄についても、記憶の存在を否定する趣旨の供述が録取されている部分がある(なぜこのような供述が録取されるに至ったのか、松岡は公判廷で何ら首肯し得る説明をなし得ていない。)など、むしろ松岡が自己の記憶のままに検察官に供述した状況をうかがわせるものといえる。そして取調の経過に関する坪内検事の公判廷供述は右の状況を示しており、一般的に信用性が高いと認められる。なお、松岡は、公判廷で、坪内検事の誘導的、強制的取調方法を強調する等、弁護人の右主張に副う供述をするが、その内容は、例えば、ホテルオークラで他の自動車に紙袋を渡したことを、取調当時、同ホテルで段ボール箱を渡したことにすりかえて供述させられたかの如く供述しながら、取調のころ同ホテルで紙袋を渡したことについて記憶を喚起していたのかどうか、また紙袋を渡したことがある旨坪内検事に述べたのかどうかについてその供述の変転が甚だしい等(詳細については後記(四)で説明する。)、処々に矛盾を包含し、著しく不自然であって、右公判廷供述はにわかに信用し難い。結局、坪内検事が、松岡に対し弁護人の主張するような誘導的、強制的取調をし、松岡がこれに迎合したことをうかがわせる事情があるとは認められず、以上に照らすと、松岡は、取調中自然な過程を経て喚起された記憶をそのとおり再現、供述したものと認めるのが相当である。
なお、坪内検事の公判廷供述によると、本件取調中、松岡の記憶を喚起する過程で、同検事が、例えば、「伊藤さんの家の近くでやっていませんか(段ボール箱を渡していませんか、の意。)。」と尋ねたり、ホテルオークラで段ボール箱を渡したことについて松岡が供述した後の段階で、昭和四九年一月二一日付の社有自動車行動表を示して、それはこの時のことではないかと尋ねたりする等、場合によっては誘導にわたる質問のし方をしたことがあると認められるが、同検事が供述するような本件取調の具体的局面において、この程度の示唆的な質問のし方をすることは、取調検察官が、客観的証拠や他の関係者の供述との関係を確認しつつ取調対象者の記憶を喚起する方法として不当ではないと解され(坪内検事が全関係者の供述内容を把握する立場にあった主任検察官の吉永祐介検事から与えられた情報により、その指示に基づき、松岡供述の信頼性ないし、これと右情報内容との相違点を確認する等のために、このような作業をすることは十分考えられる。)、右検察官面前調書の内容自体に照らしても、また取調の方法、内容に関する坪内検事の供述に鑑みても、同検事の右のような質問が松岡の記憶の喚起や供述の過程に不当な影響を与えたとは認められないのであって、まして同人が右質問の内容に相応する記憶もないのにこれに迎合する供述をしたと疑わせる事情があるとは到底認められない。例えば、前記のような坪内検事の質問に対しても、松岡は、ホテルオークラでの授受が同日に行われたかどうかは分らないとの供述を変えなかったことが明らかである。
もっとも、証拠によると、被告人伊藤は、同五一年七月一九日の取調の際、自分が指示した自動車行動表の改ざんの件で松岡が逮捕される旨、同被告人の取調担当の松尾邦弘検事から聞き、松岡に対する自分の心境を松尾検事あて上申書(甲一175)の形式にしてしたため、松岡に対して自分の右心境を伝達することを松尾検事に依頼してこれを託し、坪内検事は、同日松尾検事から右上申書を手交され、松岡に対する同日の取調が終了したころこれを同人に示したことは認められる。
ところで、右上申書には、「松尾検事殿上申書」とのあて名、表題に続いて、「松岡克浩君ニ対スル私ノ率直ナル心境ヲ申上ゲマスノデヨロシクオ伝エ下サレタクオ願イシマス 記 私ハ入所以来、四回ニワケテ〈L〉社ノ金ヲ受取リ、ソレヲ渡シタコト等ニツイテスベテ真相ヲ申上ゲテ参リマシタガ、細カイ日時ナドヲ含メテ詳細ナ点ヲ想イ出スコトガ出来ズ、検査御当局ニ協力申上ゲルニモ私ノ記憶が明確デナイノデ困ッテオリマス。シカモ君ニハ申訳ナイコトニ自動車日報ヲ改ザンサセテシマイ、トンデモナク苦労ヲカケマシタ。君ノ記憶ニタヨルヨリ、今ハ致シ方ナイニモ拘ラズソレモ混乱サセテシマイマシタ。ヨク落着イテ当時ノ事情ヲ想イ起シ、少シデモ多ク、ソシテ少シデモ詳シク真相ヲ御担当ノ検事殿ニ誠心誠意御説明シ、出来ル限リノ御協力ヲシテ下サイ。心カラオ願イシマス 昭和51年7月19日 伊藤宏」との文言が記載されていたのであって、これによれば、右上申書の主たる内容は被告人伊藤の松岡に対する心境の表白であると認められ、また、その記載内容の中には、伊藤が四回にわたりロッキード社の金を受取り、それを渡した旨供述していること、しかしその日時等の詳細な点については思い出せずにいること等、伊藤の供述状況についても触れているところがあるが、関係証拠によれば、この点は伊藤の当時の供述状況に相応するものと認められるのであって、とくに虚偽の内容を含むものではなく、したがって被告人田中、同榎本の弁護人が最高裁判所昭和四五年一一月二五日決定・刑集二四巻一二号一六七〇頁を援用して検察官の本件上申書を示した措置を非難する(昭和五三年七月一九日付意見書一八頁)のは失当であると解されるのみならず、右上申書の記載内容が前記のとおり極めて概略的なものであること、前記のとおり信用性が高いと認められる坪内検事の供述等によっても、右上申書を示したことが松岡の取調に臨む姿勢に不当な影響を与えたと具体的にうかがわせる状況は認められないこと等に照らすと、結局、坪内検事が右上申書を示したことがあるからといって、松岡に対する坪内検事の取調方法に不当な誘導、強制等がなく、松岡は自然な過程を経て喚起された記憶を再現、供述した旨前記のように認定することの妨げとなるものではないと認められる。
なお、弁護人は、同五一年七月一九日当時被告人伊藤については接見禁止の処分がなされていたことをも理由として、検察官が右上申書を松岡に示したことを非難するが、検察官の右措置は刑訴法八一条所定の「書類の授受」には当らないし、前記のように、松岡供述の任意性、信用性に不当な影響を与える性質のものではないのであるから、右の主張も失当である。
以上に検討したとおり、松岡に対する逮捕、勾留ないし取調の過程にはこれを違法とすべき事由は見出し難いというべきであり、またこれらの点に鑑みても、同人の検察官面前供述の任意性は優にこれを肯定することができる。
(三) しかして、松岡の検察官面前調書中には、例えば、被告人榎本に対する本件段ボール箱の引渡の状況について、そのうちの一回が英国大使館裏路上で行われたとの点や、別の一回は、被告人伊藤が結婚式に出席すべく一旦帰宅した際、同被告人の自宅付近の前記電話ボックス付近路上で行われたとの点等を初めとして、関係者中松岡が最も先に供述し、本件捜査当時、松岡が供述しなければ検察官も知り得ない事項が多数含まれていることが明らかである。被告人田中、同榎本の弁護人は、「検察官としては、松岡日報(すなわち、松岡作成の社有自動車行動表)を調べて、昭和四八年八月一〇日にロッキード社から入金があったとすれば、日報上、午後の運行は『竹橋~一番町』の往復しかないので、一番町で授受があったに違いないと、これを松岡に押付けたのである。」と主張するが、仮りに右主張に即してみても、右授受の場所が一番町のうちの英国大使館裏路上であるとの点は、松岡の供述によらなければ検察官も知り得ない事柄であることはいうまでもない。松岡は、公判廷で、授受の場所が英国大使館裏路上である旨坪内検事に教えられたとも供述するが、その供述自体変転きわまりなく、かつ、坪内検事から右の点を教えられたという記憶があるのか、その旨教えられたかどうか今は記憶がなく単に教えられたと思うという松岡の想像を述べているにすぎないのか極めてあいまいであり、その内容もまことに不自然で信用できない。また、被告人田中、同榎本の弁護人は、前記電話ボックス付近路上での授受に関する供述部分についても、「昭和四八年一〇月一二日の午後の松岡日報の記載によれば、松岡が被告人伊藤を乗せてその自宅に赴いた時しか(右授受の時刻として)押付けようがないので、松岡が、別の機会にこの電話ボックス付近路上で丸紅社員と書類の授受があったようなぼんやりした記憶があり、ここで何か荷物のやりとりをした記憶があったと供述したものを、段ボール箱とすりかえて坪内検事が押付けたものである。」旨主張するが、右主張のいわゆるすりかえの事実についてこれに副う供述をする松岡の公判廷供述が全く信用し得ないことは後記(四)2のとおりであり、右のすりかえに関する主張はおよそ採用するに由ないと認められるのであって、本件段ボール箱授受の場所が前記電話ボックス付近路上であること、それは伊藤が結婚式に出席するため一旦帰宅した際の出来事であること等の諸点は、右行動表の記載を見ただけで分ることではなく、松岡の自発的供述によらなければ検察官も知り得ない事柄であったことも明らかである。
また、野見山が大手町ビルへ行って段ボール箱を受取ってきた状況に関しても、松岡は、例えば、そのうちの一回については、野見山の乗る被告人伊藤の専用自動車を大手町ビルの地下駐車場にとめて、そこで野見山の持ってきた段ボール箱を右自動車に積みこんだことがあるなどと、その供述当時野見山を初めとする本件関係者のだれもが供述せず、検察官も知るところではなかった事柄を、種々自発的に供述したこともまた明らかである。
以上の諸点は、松岡の検察官面前調書の信用性の高いことを示すものとして、注目すべきところである。
(四) 他方、松岡は、公判廷では、本件段ボール箱の授受をすべて否定する供述をするが、その公判廷供述は、ことに検察官面前供述と異なる点について、著しく不自然、不合理で、処々に矛盾する点を含み、変転も甚だしい内容のものであって、また、同人は、その記憶に反した内容の検察官面前調書が作成された理由として、坪内検事の取調方法が誘導的、強制的で、押付けにわたるものであったことや、自分の病状が取調に耐えないものであったこと等、すでに(二)4、5で検討したように信用し難いと認められる事由を挙げるに止まっていること、松岡は昭和三八年以来丸紅に運転手として勤務し、とくに同四七年から同五一年まで被告人伊藤の専用自動車の運転に当っていた者であり、公判廷において同被告人らの面前で同被告人らに不利益な事実を供述することの困難な立場にあると考えられること等をあわせ勘案すると、右公判廷供述は、前記検察官面前供述に比較し、たやすく信用し難いというほかはないのであるが、松岡の公判廷供述の信用性が乏しいことは、以下の各点においてことに顕著である。
1 松岡の昭和五一年七月二三日付、同年九月一七日付各検察官面前調書には、前記第一・六(二)のホテルオークラにおける段ボール箱の授受の事実に副う内容の供述が録取されている(ただし、その日時は不明であるとする。)が、松岡は、公判廷では、この点を否定し、かつて被告人伊藤に命ぜられて、ホテルオークラの玄関先で和光の紙袋を同被告人の専用自動車の運転席の脇から他の自動車(古い型の黒いベンツ)のトランクに移しかえたことはあるとしたうえ、取調の過程では、坪内検事から段ボール箱を渡したのだとさかんに押付けられ、そう言われればそういう気になってしまって、結局右紙袋の授受の事実をすりかえて、渡したのは段ボール箱である旨供述させられてしまったかの如き供述をする。
しかし、松岡がいつの日かホテルオークラで和光の紙袋を積みかえたことが真実あったとしても、松岡が公判廷で供述する右紙袋積みかえの状況と、同人が検察官に対して供述する段ボール箱積みかえの状況とは、客体の形状及び積みかえの態様がおよそ相違しているのであって、松岡がこの点を混同して供述したともたやすく信じ難い。のみならず、前記(二)5(2)のとおり、取調当時松岡は元来右紙袋積みかえについて記憶を喚起していたのかどうか、また、そのことを坪内検事に述べたのかどうかについて、松岡の公判廷の供述はまことに変転甚だしく、このような供述の内容、経過に徴し、同人の右公判廷供述の信用性は著しく低いと評価せざるを得ない。他方、坪内検事は、松岡が公判廷で供述する前記のような押付けにわたる取調をしたことを否定し、また取調中同人が紙袋を積みかえたことがあると述べたことはない旨供述するところ、前記のとおり、取調状況に関する同検事の供述の信用性は一般的に高いと認められるし、松岡の右のような公判廷供述の状況にも照らし、右の坪内供述部分も十分信用することができる。
以上により、松岡の公判廷における右供述部分は到底信用に値いしないことが明らかである。
2 松岡の昭和五一年七月二三日付、同年九月一七日付各検察官面前調書には、前記第一・四(二)の東京都千代田区富士見一丁目の電話ボックス付近路上における段ボール箱の授受の事実に副う内容の供述が録取されているが、松岡は、公判廷では、このような記憶の存在を否定し、右電話ボックス付近路上で物の授受をしたことはある(段ボール箱の授受をしたという記憶はない。)としたうえ、取調の際、そのことをすりかえられ、授受したのは段ボール箱である旨供述させられてしまったかの如き供述をする。
しかし、松岡のこの点に関する公判廷供述の内容をみると、同人は、当初、第二三回公判期日では、「伊藤を自宅に送った後、右電話ボックス付近路上で他の自動車を待ち、その自動車に乗っていた人に何か物を渡したことがある。その物が何であったか分らない。段ボール箱であったかどうかも分らない。渡した相手は男であったと思うが、人相や背格好の記憶はなく、どういう人であったか覚えていない。」旨供述しながら、その後、第一三一回公判期日では、「右電話ボックス付近路上で待っていた際、丸紅東京本社総務課か文書課の佐藤と思われる人に書類の入った茶封筒を渡すか渡されるかしたことがある。その際佐藤は、(自動車ではなく)歩いてきた。第二三回公判期日で供述した右電話ボックス付近路上での物の授受とは、この際のことである。同所で自動車と待合せしたことはなかったと思う。」旨供述を大きく変更し、しかもその供述変更について何ら首肯し得る理由を述べるところがない。そもそも、検察官面前調書記載の段ボール箱の授受の状況と、公判廷供述(ことに第一三一回公判期日における供述)中の物の授受の状況とは客体、態様が大きく相違しているのであって、松岡がこの点を混同して検察官に対し供述したともただちに考え難いことは1におけると同様である。このような松岡の公判廷供述内容自体の不自然さに加え、昭和四八年二月ころから同五一年四月ころまで丸紅東京本社社長室総務課に勤務していた佐藤来(松岡が第一三一回公判期日で供述する総務課か文書課の佐藤とは同人のことであると認められる。)が、「本件電話ボックス付近路上で松岡と書類のやりとりをした記憶はない。伊藤が自宅にいるのに本件電話ボックス付近で松岡に書類を渡すというのは非常に難しい想定になると思う。」などと証言していることをあわせ考慮すると、松岡が右電話ボックス付近路上で右佐藤に書類を渡すか渡されるかしたことがある旨の右公判廷供述部分は信用し難いというべきであり、まして、このことをすりかえて、記憶のない段ボール箱の授受についての供述をさせられてしまったかの如き供述部分は前記取調経過にも徴し信用するに値いしないと認められる。
3 松岡の昭和五一年七月二三日付検察官面前調書、同人作成の図面(甲四16、17、19)、同人の公判廷供述、坪内検事の供述を総合すると、松岡は、同月一九日から同月二一日までの取調において、坪内検事に対し、前記第一の三(二)、四(二)、六(二)、七(二)の段ボール箱授受の事実を供述し、三(二)、四(二)、六(二)の各授受に関し、段ボール箱を渡した相手は同一人物(前記検察官面前調書で「甲」と表示されている者)である旨供述するとともに、その具体的な人相、特徴等について供述し、これが前記調書に録取されたこと、また、松岡は、前記図面にもその人物の特徴等について自ら記載していること、なお、その後、同日の取調が終る寸前、松岡は、坪内検事から被告人榎本の写真を見せられて、右「甲」との同一性を確認したこと等が認められるところ、松岡は、公判廷においては、ホテルオークラで紙袋を渡した相手は同被告人と似ていたとするほかは、右各場所における段ボール箱の授受について一切記憶がないとし、したがってその相手方に関する右検察官面前調書の記載についてもこれをすべて否定する供述をする。
そして、取調中検察官に対してこのような人物像を述べた理由について、松岡が公判廷で種々供述する内容は、要するに、仮りにそのような段ボール箱の授受があったとした場合のことをいろいろ想像して述べたのであり、だれかをモデルにして述べたかも分らないというものである(松岡は、取調中、先に写真を見せられたのであれば、それをもとにして相手の人物像を供述したと思うとも公判廷で供述するが、松岡は、写真を示される前に、検察官に対し、相手方の人相、特徴等について具体的に供述していたと認められることは前記のとおりである。)。しかしながら、前記検察官面前調書記載の人物像がなかなかに具体的であること、すなわち、同調書には、「ここで年令四〇才過位の甲の男の人相、身体つき、特徴などについて詳しく説明します。身体つきは、背は余り高くない、小肥りで幅広くぶ厚い感じの体格をしている、のが特徴です。顔つきとしては、丸顔で頬がふっくらと張った感じ、頭髪を短かく刈り上げている、めがねはかけていない、というのが特徴です。」との供述が録取されていること、また、松岡は、公判廷で、「電話ボックス付近で段ボール箱を渡した相手は、英国大使館裏で段ボール箱を授受した際に会った人と同一人物であった。」旨の検察官面前供述部分について尋ねられ、「それもそのとき、検事さんがそういうことがあったとおっしゃるので、だんだん同一の人物というか、そういうふうになってしまった形になってくるんです。そうだと言われれば。」と供述しながら、「そうすると、あなたの方から積極的に言ったんでなくて検事の方からそうだったと言ったということですか。」と質問されると、「そういうことも私は言いきれないと思うんですけど。」と答えるに止まり、さらに、「今、供述書の中で、その英国大使館の裏の人と一緒だったというふうに供述をしているようですが、だから、そういうことを言われれば同じ人に見えてくるわけですよ。」と供述したり、「そうすると、細かい経過は分らないけれども、同じ人だったように見えてきて、それで今言ったように述べたということですか。」と質問されて、「ええ、そういうんだろうと思います、私。」と答える(第二四回公判期日)など、そもそも記憶にない(架空の)授受の相手方を想像したと言いながら、それが同一人物に見えてくる(記憶喚起を示すもののようでもあり、もし架空の事実の想像であるならば、このようなことは、あり得ない。)というその供述内容自体、まことに不自然というほかはないこと等をあわせ検討すると、この点に関する単なる想像であるとする公判廷供述部分は信用し得ないと認められる。
右1ないし3の各点において特徴的に示されているように、松岡の公判廷供述中、検察官面前供述と相反する点は、処々に不自然、不合理な内容に陥っている傾向が明らかに認められる。
結局、以上を総合して松岡の検察官面前供述は、公判廷供述に比し、特信性に疑いを容れる余地はなく、信用性も高いと認められる。
(五) 以上(一)ないし(四)において松岡の検察官面前供述の証拠能力、証明力を肯定すべき諸点につき述べてきたが、なお、そのほか、同供述は、内容が詳細具体的で、同人の記憶の有無、程度がよく区別され、被告人伊藤を初めとする他の関係者の供述や、社有自動車行動表等の証拠物など、他の証拠関係ともよく符合しているのであって、結局、松岡の検察官面前供述の信用性は極めて高いということができる。
三 野見山の供述
野見山の検察官面前調書(甲再一40・甲一64)には、同人が四回にわたって大手町ビルディングのロッキード日本支社(すなわち、LAAL東京事務所)へ行き、そのうちの三回については、同社でクラッターから段ボール箱を受取り、これを丸紅東京本社まで運搬したこと、段ボール箱を受取った三回の日時はそれぞれ昭和四八年八月ころ、同年一〇月ころ、同四九年一月ないし三月の間ころであり、同四八年八月ころ段ボール箱を受取った日の前日にもロッキード日本支社へ行ったが、段ボール箱は受取らなかったこと等、本件段ボール箱の授受運搬に関し、極めて詳細かつ具体的な状況説明が録取されており、また、その供述中、野見山の記憶の有無、程度、記憶のある事項とそれに基づいて推測した事項との別等が明確に峻別され、ことに四回にわたってLAAL東京事務所へ赴いたことについて、各回ごとにそれぞれ特有の体験、印象等の記憶が述べられ、各回の行動が明確に区別されているなど、右検察官面前供述は、その内容自体からみて、信用性が高いことをうかがうことができる。
ところが、他方、野見山は、公判廷においては、多くの点で右調書記載供述とは異なる供述をし、ことに、同人がロッキード日本支社へ行った状況、回数について、「同支社の奥のへやに段ボール箱が置かれていたこと、大手町ビルで段ボール箱を持ってエレベーターを待ったことがあることなどについては記憶があるが、段ボール箱を運んだことが何回あるかについて記憶があるわけではなく、少なくとも一回そういうことがあったというのが自分の記憶である。記憶のある事柄をつなぎ合わせて推測すると、自分が同支社へ行ったことは三回あり、そのうち二回についてはそこで段ボール箱を受取り、これを丸紅東京本社に持帰ったものと思うが、段ボール箱を持帰ったことがその他にもあるかどうかは不明であり、検察官面前調書に記載されている三回目の段ボール箱の運搬なるものは自分の全くの想像である。また、前記のロッキード日本支社へ行った時期に関する検察官面前供述は、自分がピーナツ、ピーシズ領収証の作成日付と結び付けて供述したものである(ただし、同四八年一〇月ころにロッキード日本支社へ行ったとの点については、そのころ同社で見た刊行物の内容との関係から、右の程度には時期を特定できる。)。」などと供述している。
しかし、野見山は、同人の記憶に反するという検察官面前供述部分についても、取調の際は右調書記載のように供述したのかもしれないとの趣旨を公判廷で供述するのであるが、なぜこのような自らの記憶に反する供述をするに至ったのか、結局何ら納得し得る説明をなし得ていない。同人は、あるいは、例えば、右三回目の段ボール箱の運搬についての検察官面前供述部分は、仮りに三回目の段ボール箱運搬があったとしたらこういう状況であろうと、自分が想像して述べたものであるが、検察官に対しては、そのような記憶があるかのように述べたのかもしれない旨供述する等、多くの点について自分の記憶にない事柄を想像してその記憶があるかのように述べたのかもしれないと主張するので検討する。先ず、同人の経歴をみるに、同人は、昭和四三年東京大学を卒業して丸紅飯田株式会社に入社して以降、財務部で勤務した後、同四六年から同五〇年まで社長室秘書課に所属し(その時の社長室長は被告人伊藤である。)、その後国際金融室を経て、本件捜査当時丸紅米国会社に勤務し、なお取調の際は、そのために一時帰国して参考人として取調に応じていた者である。そして、同人は、自分の取調が当時社会の注目を集めていたロッキード事件に関するものであることを知っていたし、また同事件のためかつての上司であった被告人伊藤ら丸紅関係者が逮捕、勾留されていたことも知っていたと認められるから、自らの供述が同人らの形責に影響するところ大であることは十分了知していたはずであり、たやすく安易、無責任な想像による供述をなしたとは考えられない。なお取調状況に関する野見山や、同人の取調に当った坪内利彦検事の各公判廷供述に徴すると、坪内検事の野見山に対する取調の方法に無理や不当な点があったため同人がこのような供述態度に陥ったことをうかがわせる事由があるとも認められない。なお、被告人田中、同榎本の弁護人は、野見山は時差ぼけの状態で取調を受けたものと推測される旨主張するが、同人が同五一年七月一五日に米国から帰国し、翌一六日から取調を受け始めたことは認められるものの、野見山は公判廷でも右時差ぼけの点について何ら供述していないし、とくに時差ぼけ等、心身の状態が野見山の供述に影響するところがあったことをうかがわせる事由は全く認められない。
また、野見山は、坪内検事が松岡らの供述を引用して誘導的質問をするのでこれに迎合して供述したこともあるとの趣旨を公判廷で供述する。しかし、例えば、野見山は、同四八年八月ころロッキード社日本支社に行って段ボール箱を受取ってきた日の朝、松岡が被告人伊藤の専用自動車を運転して沼袋の当時の野見山の自宅に迎えに来た旨の検察官面前供述部分について、取調の際、坪内検事から、「松岡が迎えに来たと言ってるよ。」と言われ、これに迎合したとの趣旨を供述するのであるが、坪内検事は、同五一年七月一六日の取調の際野見山がすでに右のような松岡運転車の迎えの事実を供述したこと、同月一七日、坪内検事は警視庁から松岡作成にかかる伊藤の専用自動車の行動表(甲再二41・甲二85)を借出し、調査したが、野見山の供述するような沼袋運行の記載が見当らなかったため不審に思い、その旨吉永検事に報告したこと、その結果、右行動表の改ざんの嫌疑が発生し、同月一九日以降右の容疑で松岡が取調べられるに至ったこと等を供述し、またその供述は、その内容自体明確、具体的であって、本件の捜査の経過ともよく符合し、十分信用し得ると認められるところ、野見山の右公判廷供述は本件捜査の右のような経過と矛盾することが明らかであって、信用することができない。このような点に鑑みても、松岡らの供述を引用しての坪内検事の誘導的質問に迎合したとの趣旨の野見山の公判廷供述部分もまた採用に値いしない。
他方、坪内検事は、本件検察官面前調書は、野見山が取調当初有していた記憶、取調中自然な経過をたどって喚起された記憶や、これら記憶のある事柄に基づく推測等を供述するのをそのとおり録取したものであり、また、取調の際、野見山は、記憶の有無等を慎重に吟味し、記憶のある事項、推測にわたる事項等を慎重に区別して供述していたのであって、自分が検察官面前調書に右供述を録取する際にも、その点を誤ることのないよう注意して録取した旨供述するところ、坪内検事の供述が一般的に信用性が高いと認められること前記のとおりであるが、本件検察官面前調書の記載内容自体を検討し、さらに取調の際の状況に関する野見山の公判廷供述が前記のとおり信用し難いものであることをも考え合わせると、坪内検事の右供述部分もまた十分信用し得ると認められる。
なお、弁護人は、取調中坪内検事が野見山に対して被告人伊藤作成の上申書(甲一176)を示したことを指摘し、このことが野見山の供述に不当な影響を及ぼした旨主張するので、以下この点について検討を加える。
たしかに、同月一七日の取調中、坪内検事が被告人伊藤作成の上申書を示したことは認められるが、この点については、前記二(二)5(2)で松岡の取調に関して説明したのと同様の趣旨が妥当する。すなわち、右上申書は、被告人伊藤が、同月一五日の取調の際、段ボール箱の運搬の件で野見山が取調べられることになった旨前記松尾検事から聞き、野見山に対する自分の心境を松尾検事あて上申書の形式にしてしたため、野見山に対して自分の右心境を伝達することを松尾検事に依頼して託し、同検事から坪内検事に交付されたものであると認められるところ、右上申書には、「松尾検事殿 上申書」とのあて名、表題に続いて、「野見山君に対する私の気持は下記の通りです。記 松尾検事殿には偽証したことを卒直に申上げておりますので、私が君に指示したこと、及びその命にもとづいて行ったことについて事実を開陳してくれることを願っています 昭和51年7月15日 伊藤宏」との文言が記載されているのであって、これによれば、本件上申書は被告人伊藤の心境の表白をその主たる内容とするものであると認められ、また、その記載内容の中には、前記のとおり、同被告人の供述状況等に触れているところもあるが、この点も、当時の伊藤の供述状況等に相応するものであって、とくに虚偽の内容を含むものではないと認められ、また、右内容自体、極めて抽象的、概略的であるうえ、前記のとおり信用性が高いと認められる坪内検事の供述等によっても、右上申書を示されたことが野見山の取調に臨む姿勢に不当な影響を与えたと具体的にうかがわせる状況は認められない。すなわち、野見山は、公判廷において、弁護人の反対尋問に答え、被告人伊藤に指示されて段ボール箱を受取りに行った旨の検察官面前供述部分について、前記上申書中の「私が指示したこと」との文言をみて、段ボール箱の受取を指示したのは同被告人であると結び付けて供述するに至ったのかもしれない旨を供述するが、野見山は、その前、検察官の主尋問に対しては、この点について縷々供述しながら、右上申書に何ら触れるところがなく、要するに、自分にそのような用を命ずる者としては、伊藤社長室長と中居秘書課長とが考えられるところ、中居から命ぜられた覚えはないから、伊藤に命ぜられたものと推測して検察官に供述した旨供述していたのに、反対尋問において初めて右上申書との関連について触れるに至ったもので、しかも、右反対尋問に対する供述も、「それ(右上申書)を見て、それで伊藤さん(から指示されたということ)とただちに結び付いちゃった。」という発問方法により尋ねられたのに対応した答えであるうえ、「結び付ける可能性が強かった。」と、可能性の問題として供述するに止まり、右のような結び付けをした記憶があるわけではない趣旨の供述をしているなど、その供述の経過、内容自体に徴し、伊藤の上申書との結び付けによって右検察官面前供述をした旨の野見山の公判廷供述部分の信用性は疑わしいと認められるうえ、坪内検事の供述によれば、野見山は、右上申書を示される前、すでに伊藤の前記指示について供述しており、よって野見山が右のような結び付けをする余地もなかったと認められるのである。なお、同月一五日ないし一七日当時、被告人伊藤について接見禁止の処分がなされていたことは認められるが、検察官が本件上申書を野見山に示したことは刑訴法八一条所定の「書類の授受」には当らないし、また、以上に照らし、検察官の右措置が野見山の検察官面前供述の任意性、信用性に不当な影響を与える性質のものでなかったことも明らかであるから、右接見禁止との関係で検察官の措置の違法性ないし不当性を云々する弁護人の主張には理由がない。
その他、野見山の公判廷供述は、全体として、不自然、不合理な点を処々に包含していると認められ、また、例えば、同人は、公判廷において、取調のころ、ピーナツ、ピーシズ領収証が合計四枚あり、それらに記載されている数字が同じでないことは知っていたが、具体的な数字については知らず、また(日付の古い順から数えた場合の)一回目と二回目の領収証の各記載数字のいずれが大きかったかについても知らなかったとの趣旨を供述しながら(第二九回公判期日)、後に、二回目に受取った段ボール箱は一回目の段ボール箱よりも高さの高いものであったと検察官面前調書に記載されている理由について被告人檜山、同伊藤、同大久保のいわゆる丸紅側被告人の弁護人から質問され、「やはりこれまた領収証に戻るんでございますけれども、それぞれの領収証の単位が違ったということが頭にあったことはたしかでございます。」と供述し、さらに「第一回目は一〇〇であり、第二回目は一五〇だから大きいだろうという推測を述べたということですね。」と尋ねられて「はい。」と答え(第三〇回公判期日)、また、ロッキード日本支社に行ったが段ボール箱を受取らずに帰ってきたのは木曜日(昭和四八年八月の木曜日)のことであったと検察官面前調書に記載されている理由について、被告人田中の弁護人から尋ねられ、「どうして木曜日になったか覚えておりません。」と供述し、「領収証(すなわち、一九七三年八月九日付の一〇〇ピーナツ領収証)の日付が要するに九日の木曜日になっていたためじゃありませんか。」と質問されても、「それ覚えておりません。」と、取調当時右のような推測に基づいて供述したという記憶はない旨答えていた(同公判期日)のに、その後、丸紅側被告人の弁護人からこの点を再度尋ねられ、「それ(すなわち、ロッキード日本支社に行き段ボール箱を受取らずに帰ったという日)を、木曜日と、あなたが供述記載がされているのは(あなたの供述調書に記載されているのは、の意)、ピーナツの領収証が八月の九日で、木曜日なわけです。それも根拠になってるかという質問です。」と質問されて、供述変更の理由を述べることもなく、今度は、「そうです。」と右質問の趣旨を肯定する供述をする(同公判期日)など、その公判廷供述には、反対尋問、ことに丸紅側被告人の弁護人の反対尋問に迎合したため前後矛盾するに至ったところも多く見受けられるのであって、これらの点よりしてもその信用性には多大の疑問を容れる余地がある。
結局、以上に説明してきたように、野見山の検察官面前供述は、任意性に疑いを容れる余地がなく、内容も詳細、具体的であって、自らの体験によって初めて知り得る事項を多く含み、他の証拠関係ともよく符合していると認められるのに反し、同人の公判廷供述は、不自然、不合理な点をかなり内包し、その内容自体につき多大の疑問を容れざるを得ないことに加え、同人は、前記のとおりの経歴で、ことに昭和四六年から同五〇年までの間被告人伊藤を上司として仰いだ者であるから、公判廷において同被告人らの面前で同被告人らにとって不利益な事実を供述することの困難な立場にあると考えられること等をも考慮すると、同人の検察官面前供述に特信性が認められ、またその信用性も公判廷供述に比して高いと認めることについて疑いを容れる余地はないというべきである。
四 被告人榎本の供述
(一) 被告人榎本の検察官面前調書には、「昭和四八年八月ころから同四九年三月ころまでの間、四回にわたり、伊藤から合計五億円の現金(いずれも、段ボール箱に入っていた。)を受取った。同人のマンション、右マンションの近くでしかも靖国神社近くの道路上、ダイヤモンドホテルと英国大使館の間の坂のある道路上でそれぞれ各一回右受取を行ったことの記憶はあるが、他の一回がどこであったかについては記憶がない。右の授受は、いずれも事前事後に田中に報告して行ったものであり、受取った現金は田中の私邸の住居の一階奥座敷に運び込んだ。」などの供述が録取されているが、被告人榎本は、公判廷では、これを全面的に否定し、また、内閣総理大臣秘書官在任中、丸紅から自分が政治献金を受取ったことはないし、そのころ丸紅から一億円単位とか千万円単位の金員を受取ることについて自分が関与したこともない旨供述し、被告人田中、同榎本の弁護人も、同被告人の右公判廷供述に依拠して、右検察官面前供述を否定する主張をするので、以下検討する。
(二)1(1) 弁護人は、昭和五一年八月九日付(甲再一83・乙56)、同月一〇日付(三通、甲再一84・乙9、甲再一85・乙57、甲再一86・乙55)、同月一二日付(甲再一87・乙53〔抄本〕)、同月一五日付(甲再一88・乙11)各検察官面前調書は、被告人榎本が起訴された後に作成されたものであるところ、起訴後の被告人を捜査官が取調べることは違法であり、このような取調の結果作成された右各検察官面前調書の証拠能力は否定されるべきである旨主張するので、先ずこの点について検討を加える。
(2) 証拠によると、被告人榎本は、昭和五一年七月二七日外為法違反罪により逮捕されて、同月二九日同罪により勾留され、右逮捕以来同年八月一七日保釈釈放されるまで東京拘置所に拘禁されていたこと、同被告人は同月九日右の罪により起訴されたこと、同被告人は前記拘禁期間中右外為法違反罪について村田恒検事の取調を受けたが、同検事は前記起訴後も右の罪(すなわち起訴の対象たる事実)に関して取調を行い、前記(1)の検察官面前調書はこのような起訴後の取調の結果作成されたと認められる。
(3) ところで、弁護人は、起訴後の取調はおよそ違法である旨主張するが、刑訴法一九七条は捜査についてはその目的を達するため必要な取調をすることができる旨を規定しており、同条は捜査官の任意捜査について何ら制限をしておらず、同法一九八条が「被疑者」という文言を掲げていることも、被告人の取調を許さないとの趣旨を含むとまでは解されないから、起訴後に、捜査官が、公訴を維持するため、当該公訴事実に関し被告人に対して必要な取調を行うことをただちに違法と評することはできない(最高裁判所昭和三六年一一月二一日決定・刑集一五巻一〇号一七四六頁)。もとよりここで許されるのは任意捜査としての取調に限るのであるが、勾留中の取調であるの故をもってただちにその供述が強制されたものということはできないのであって(前記最高裁判所昭和三六年一一月二一日決定)、要は、(逮捕、勾留中の被疑者に対する取調の性質についてどのような見解をとろうとも)起訴後の被告人を当該公訴事実について取調べる場合は、右被告人に出頭義務や取調受忍義務があるとの前提で対処することは許されない(すなわち、取調を受ける意思のない被告人に対し、その意思に反して取調を行うなどのことは許されない。)というに帰するというべく、他方、このような事情がなく、諸般の事情からみて、右被告人に対する取調がその意思に反するものではなかったと認められるときには、これをもって任意捜査としての取調と評価してよいと解される。その際、たとえ当該被告人が起訴後の取調の右のような性質を知っていなかったとしても、そのことがただちに右取調の任意捜査としての性質を否定するものではない。
右のような前提に立って本件の起訴後の取調の状況をみると(村田検事の取調方法の詳細は後述する。)、被告人榎本及び村田検事の各公判廷供述によっても、右取調の際、被告人榎本が取調室への出頭や取調を拒否する意思をもっていたとか、まして村田検事が右拒否の意思を無視して取調を行ったとかの状況は一切認められず、むしろ同被告人は任意に取調に応じていたと認められるのであって、結局、同被告人に対する本件起訴後の取調は任意捜査として許容される範囲を超えてはいなかったと認めるのが相当であり、弁護人の(1)の主張は採用しない。
2(1) 被告人榎本の検察官面前調書には前記(一)で要約、摘記した事項を初めとする供述が録取されているところ、同被告人は、公判廷では、右各事項をことごとく否定し、右各事項に関する検察官面前調書は、あるいは、自分が、村田検事が関係者の供述を引用するなどして行う誘導的質問に迎合してこれを肯定したり、記憶のない事項を想像して供述したりし、あるいは、同検事が自分の供述しない事柄を勝手に調書に録取したうえこれを自分に押付けようとしたのに対して、自分が抵抗せず迎合したことによって作出されたものであるとの趣旨の供述をする。
(2)(イ) そして、被告人榎本は、そのような迎合的心理状態に陥った理由として、第一一七回公判期日で、「私は、昭和五一年七月二七日に逮捕されて以来、村田検事の質問に対し返答しない態度をとっていたが、同月三〇日の取調の際、同検事は、私の前に立ち、私の経歴関係の新聞記事を見ている風を装いながら、新聞の下の方に手をあて、丁度第一面上部が私の目に入るような姿勢で、新聞を手に持った。その際、その一面上部に『田中五億円受領を認める』旨の大見出が掲載されているのが目に入った。私は、これを見て、あるいは、自民党に対してされた献金に関して、例えば、正式の届出をしていなかったというように、それが明らかになれば党の名誉を傷つけることになる事情があったため、田中が、その金を個人で受取ったことにしてかぶったのではないかと思った。そして、田中がかぶった以上、自分も秘書としての立場上これに合わせなければならないと考えられたし、また、田中はその金の受取に自分が関与している旨供述しているのではないかとも想像されたから、村田検事の誘導にのったり、自ら架空の授受を想像するなどしながら、五億円を自分が直接受取った旨供述した。なお保釈後調査したところ、このとき自分が見た新聞は同月二八日付のサンケイ新聞朝刊であることが分った。」旨供述したが、同公判期日後に検察官から同月二八日付検察官面前調書(乙52)を開示され、その後の第一一八回公判期日では、「新聞を見せられたのは同月二八日のことであった。前回公判期日でこれを同月三〇日の出来事であると供述したのは思い違いであった。」旨供述を変更している。
他方、村田検事は、公判廷で、「同月三〇日午前中の取調を始めようとしたところ、榎本がきょろきょろしているので、ふと見たら、脇の袖机上の資料の上に、『田中五億円受領を認める』といった一面トップ記事を掲載した新聞が置かれているのに気付いた。この新聞は、同月二八日付のサンケイ新聞か東京新聞であって、資料用に持込まれたものか、休憩室代りにこの取調室を利用していた検察事務官等が休憩時間に持込んでそのまま置いておいたものであったと思うが、いずれにしても、私が榎本の目に触れさせるため意図的にそこに置いておいたのではない。私は、そのままこのことを無視したり隠したりするのは却ってよくないと思い、その新聞を手に持って榎本に示し、『こんな記事、君、信用しないだろう。マスコミは大騒ぎしていろいろ書いてるけれども、田中さんは、前にも潔白声明を出されてるわけだし、そう簡単には認めんよ。認めるわけはないよ。』というふうなことを言った。榎本はややうなずいたようであったが、とくに反応はなかった。榎本はすでに同月二八日において、本件五億円の受取を認め、これに関する具体的供述を始めており、同人がこの新聞を見たために初めて供述したとか、そのために取調に対する態度を変えたということはない。」旨供述している。
(ロ) そこで検討するに、被告人榎本の右公判廷供述中、取調中に同被告人がその供述するような新聞記事の見出を目にしたことがあること自体は信用することができるが、その他の点、ことに同被告人がその記事見出を見た時期、状況や、そのことが後の虚偽供述の動機となったこと等を述べる部分は、その内容自体、著しく不自然、不合理であって、到底信用に値いしないと認められる。以下、その理由のうち、主要なものを挙げる。
[1] 被告人榎本は、同三六年に被告人田中の経営する日本電建株式会社に入社して以来、同社の役職員や同被告人の秘書(同被告人の内閣総理大臣就任に伴い、本件事件当時は内閣総理大臣秘書官であった。なお、同被告人が大蔵大臣、通商産業大臣であったころ、大蔵大臣秘書官事務取扱、通商産業大臣秘書官であったこともある。)として、終始田中の下で過ごし、田中の政治的地位ないし立場について強い関心を払ってきた者であると認められるところ、このような立場にある被告人榎本が、田中にとって極めて不利益な事実である前記各事項を、敢えてその言うような虚構の事実を作出してまで、供述せざるを得ない心理状態にまで追い込まれた理由としては、右(イ)の被告人榎本の供述の内容は、甚だ薄弱であり、また不自然であるといわなければならない。
ことに、同被告人の公判廷供述によってさえ、村田検事は「田中さんもいろいろ言っているようだ。」などと言ったに止まり、その供述の内容について触れることはなく、また被告人榎本自身、被告人田中が具体的にどのような供述をしているのか尋ねなかったし分らなかったとするのであるが、それにもかかわらず、単に前記のような新聞を見せられたことによって、田中が「かぶった」ものと想像し(田中の地位及び当時おかれていた状況から、そのような理由で「かぶった」と考えること自体首肯し難い。)、自分もこれに合わせなければならないとの重大な決意をするに至ったとの右供述は、何としても不自然であって、措信し難い。また、被告人榎本は、そのように主張する一方、他方では、自分が供述調書にとられたことが被告人田中にとって不利であるとか不利でないとかということは考えたことはないなどの供述をもしているのであるが、これは本件検察官面前調書の内容自体に照らし、また、被告人榎本の前記のような立場、同被告人と田中との関係等に鑑みても、到底信用することができない。
[2] 被告人榎本は、同月二八日の取調の際(そして同被告人の第一三一回公判期日における供述によれば、前記新聞を見せられた後で、ということになる)「逮捕状記載のように(注・なお、同被告人に対する逮捕状記載の被疑事実は、〔金員の趣旨の点はしばらく措き、〕同被告人が昭和四八年八月九日ころから同四九年二月二八日ころまでの間、四回にわたり、檜山らから現金合計五億円を受取った、というものである。)丸紅の伊藤から五億円を受取った。これは自民党の政治活動のために用立ててもらった献金であると認識していた。その一部は自民党の総務局長に渡した。」旨供述したと認められる(同被告人の同日付検察官面前調書、村田検事の公判廷供述等。なお、同被告人は、全部の金を総務局長に渡したと村田検事に述べた旨公判廷で供述するが、この点はしばらく措く。)のであるが、これは、被告人田中が党の名誉のため党に対する献金を自ら受取ったということにしてかぶったと思い、自分もこれに合わせようと考えた旨の(イ)の公判廷供述にかかる虚偽自白動機と矛盾することが明らかである。被告人榎本も、公判廷で、この点を指摘されて右矛盾を認め、「いろいろ私がああいう環境の中に置かれて想像していることだから、冷静さにおいては欠けるところがあるので、いろいろ理屈を今言われても困る。」などと言うのであるが、この点は同被告人が公判廷で供述する虚偽自白の動機のまさに根本にかかわる事柄であって、同被告人の右弁解では説明にならない。なお、同被告人は、弁護人に対する同五七年七月八日付質問回答書(弁664)で、「第一一八回公判では、七月二八日付調書に問題の金を党の総務局長に一部渡した旨書いてあることについて、『この記載は田中先生が党のためにかぶるということと話が違うじゃないか(矛盾するじゃないか)。』と質問されて『ああいう環境の中におかれて想像していることなので冷静さを欠いており理屈を今言われても困る』と証言しているが、補充することはあるか。」との質問に答え、「私は矛盾するとは思わなかった。私は、田中が金をいったん受取ってそれを党のために使ったと言っているのだと思った。それで私が受取った金を党の総務局長に届けたと述べたのである。」旨供述するが、前記同五一年七月二八日付検察官面前調書等によると、同調書を録取した段階では、被告人榎本は、党の政治活動資金として受取った五億円(の一部)を党の総務局長に渡した旨供述しながら、被告人田中に関しては、右献金の話及びその受領を同被告人にも報告したはずだと思う旨供述するに止まっていたことが認められるのであり、その検察官面前供述の趣旨は、右五億円を丸紅から受取った主体があくまで自民党であるという点にあることが明らかである。そうとすると、右検察官面前供述と被告人榎本の前記公判廷供述で示した自白動機との間に矛盾があることはやはり否定し得ない。
しかも、同被告人は、その後の取調において、本件五億円の直接の渡し先は被告人田中である旨、その供述を変更した後になっても、この金員は党に対する献金であり、党の総裁としての田中が受領したものであって、党の用途のために使用されたと思う旨の供述を一貫していたと認められるのであり、この点も被告人榎本の公判廷で主張する虚偽自白の動機を前提とする限りやはりこれと整合しないというほかはなく、ひるがえって右の動機に関する公判廷供述の信用性を強く疑わせるものというべきである。
[3] 被告人榎本は、公判廷において、前記(イ)のように、同日に被告人田中に合わせる決意をした後は、架空の事実を想像したり、村田検事に迎合したりして、金員の受取の事実を認めた旨供述しながら、他方、右決意した後の段階の取調で右受取の詳細について村田検事に尋ねられた際にも、このような受取の事実自体を否定したとも供述している。例えば、五億円の授受に関して利用した自動車のことについて取調検察官から尋ねられなかったかとの質問に対し、「向うさんが、なんか、お前さんが車で来たよと言ってるよという話は出ました。私は事実ないことでございますから(供述の脈絡に照らすと、授受の事実自体がないことであるから、の意であることが明らかである。)、ございませんと言ってるわけでございます。」旨供述し(第一一七回公判期日)、専用自動車を利用しなかったかどうか尋ねられなかったかとの質問に対し、「事実ないことでございますから(その趣旨については前に同じ)、そういうことはないと申上げました。」旨供述し(第一一七回公判期日)、また、「授受の回数は四回であるがその日時についてはよく思い起こせない旨調書に録取されているのは同被告人自身がそのように供述したからではないか。」との質問に対し、「そんなことはありません。私はないことはないんだということで言ってましたから。」旨供述している(第一一八回公判期日)等であるが、これはまさに矛盾したことを公判廷で述べているのであって、このような供述の仕方からも、右公判廷供述には信を措きかねるものがあるといわなければならない。
[4] また、後記(三)1のとおり、被告人榎本の検察官面前調書には、現金授受の日時、場所等のように被告人伊藤等の他の関係者の供述に比し明確さを欠く内容に止まっている事項や、他の関係者の供述にはみられない全く独自の事項(その中には、他の関係者の供述と相反する内容のものも多い。)が随所に録取されていることが認められるのであって、被告人榎本が供述するような誘導、迎合の状況のもとでこのような調書が作成されたとはにわかに信じがたい(詳細は後述)ところ、ひるがえって、このような事情は、同被告人が右迎合等の心理状態に陥った縁由として主張する前記公判廷供述の信用性を疑わせるものであることはいうまでもない。
[5] しかも、同被告人の同年八月一〇日付検察官面前調書(九丁のもの)には、「私の感じでは田中先生は取調の検事に対して五億円の授受はもちろんこの件に関しては一切否認すると思う。」旨の供述が録取されているのであって(なお、この供述記載部分について、被告人榎本は、公判廷では、「田中先生が否認するとかしないとかということは自分の言ったことではない。」旨供述するものの、このような内容の調書に署名指印した理由としては、「この部分も口授される内容の中には入っていたと思うが、私はそのときには気がつかなかった。」、「(取調期間の)後の方の調書になると、私は早く出たい気持があって、割合書かれるものをそうですかというふうな形で聞き過ごしたというような状況であった。」旨供述するに止まるのであるが、かかる録取内容の重要性にも照らし、この点の公判廷供述もただちに信用し難い。そもそも、被告人榎本は、公判廷で、調書の内容を村田検事が検察事務官に口授するのは聞いていたが、録取された内容を同検事又は検察事務官から読み聞かされたことはないと供述するのであるが、各調書とも必ず検察官自ら読み聞かせて同被告人に内容を確認させたうえでこれに署名指印させた旨明確に供述する村田検事の公判廷供述に照らして、右供述部分もまた措信し得ない。)、この点が同被告人の前記公判廷供述と矛盾することは明らかである。
[6] 前記のとおり、被告人榎本は、当初、第一一七回公判期日では、前記新聞を見せられたのは七月三〇日である旨供述しながら、後の第一一八回公判期日では七月二八日である旨供述を変更し、以後その旨の供述を維持している。
しかしながら、同被告人は、第一一七回公判期日においては、新聞を見せられたのは七月二九日の勾留質問より後であるとか(同被告人は同日の勾留質問についての記憶をかなり明確に保持していると認められる。)、またそれまでの取調について、「何十時間という間、そうなんだと言われているから私としては洗脳されているわけである。」と述べ、新聞を見せられるまでの間に相当長時間の取調があったとの趣旨を供述する等、右の日付を特定する根拠となる事情をも合わせて供述しているのであって、このような点に鑑みても、後の公判における供述変更にはかなりの疑問があるというべきである。被告人榎本は、右供述変更について、「第一一七回公判期日で七月三〇日に新聞を見せられた旨供述したのは私の思い違いによるもので、実際に新聞を見せられたのは七月二八日であった。同日の昼食後の取調の際のことであったと思う。ところが、私は七月二七日、二八日の両日の時間の経過を非常に長く感じ、また二九日の取調がなかったということから、三〇日に新聞を見せられたと思い込んでいた。しかし、第一一七回公判期日後に七月二八日付調書を開示され、それが私の思い違いであることに気付いた。新聞を見せられるまでの取調は十数時間くらいあったと思う。第一一七回公判期日でそれまでに何十時間も取調べられた旨供述したのは、新聞を見せられる前に非常に長い時間取調を受けたという私の印象をそのように表現したものである。」旨供述する。しかし、右の供述は、前記のとおり勾留質問との前後関係等についても触れている前記第一一七回公判期日供述を否定するにはいかにも理由として薄弱であるというほかなく、また村田検事の供述によれば、同月二八日昼食後の取調より前にはせいぜい五時間くらいの間取調がされたにすぎないと認められ、この点に関する同被告人の供述をいかに勘案してみても、このような比較的短時間の取調の後の出来事を同被告人が供述するような洗脳されてしまうほどの長時間の取調の後のことと思い違いしたというのはまことに不自然であるというべきである。
そして、村田検事は、前記のとおり、被告人榎本が新聞を見たのは七月三〇日のことである旨供述しているのであって、以上のような同被告人の供述変更の不自然さに照らしても、同検事の右供述は十分信用に値いすると認められる。
以上の次第で、同被告人が右新聞を見たのは同月三〇日のことであると認めるのが相当で、同被告人は、それより前の同月二八日には、すでに被告人伊藤から五億円を受取ったことを認めていたことが認められる(被告人榎本の同日付検察官面前調書、村田検事の公判廷供述等)のであるから、被告人榎本の前記(イ)の供述はこのような取調経過の事実関係と相違することが明らかである。
(ハ) そして、村田検事は、以上の点に関し、前記(イ)のように供述しているのであるが、同検事の右供述の内容中とくに不合理とすべき点はなく、これと対立する被告人榎本の公判廷供述が前記のとおりまことに不自然きわまりないものであることに対比して、村田検事の右供述はこれを十分信用することができる。
以上検討したところによれば、本件取調の過程で弁護人の主張するような偽計が行われたことはなく、また、同被告人がその供述するような新聞記事の見出を取調中目にしたことが同被告人の後の供述に影響することはなかったと優に認めることができる。
(三) このように被告人榎本が取調検察官に対する前記迎合的心理状態に陥った原因として主張するような偽計的手段が講ぜられた事実は存在せず、したがって同被告人がそのような心理状態にあったものではないと考えられるから、同被告人の検察官面前供述は、村田検事の誘導、押付けに迎合し、あるいは架空の授受を想像してなされたものではなかったと認められる。
のみならず、以下の各点に照らしても、取調の際同被告人が自己の記憶に従って本件授受の事実を供述したものと認められ、前記(一)記載の同被告人の検察官面前供述はそれと相反する同被告人の公判廷供述に対比してより信用し得るものであることを認めることができる。
1 被告人榎本の検察官面前調書には、例えば合計五億円を四回にわたって受取ったこと及びそのうちの三回の授受の場所は被告人伊藤のマンション、同マンションの近くでしかも靖国神社近くの道路上、ダイヤモンドホテルと英国大使館の間の坂のある道路上であることは認めながら、他の一回についてはどこで受取ったか記憶がないとし、金額も、合計が五億円で、第一回目に一億円を受取ったことについては記憶があるが、その他の三回については各回につきいくらを受取ったか記憶がないなどの供述が録取されており、被告人榎本の記憶の程度に応じた内容がそのまま録取されていることをうかがうことができ、なお同被告人の取調当時すでに被告人伊藤等の関係者は右の点も含め授受の状況について詳細な供述をしていたことが明らかであり、したがって仮りに村田検事において誘導ないし押付けをするつもりがあったとすれば、これらの者の供述内容を引用するなどして詳細な点についてまで誘導をすることも事実問題としては可能であったと認められ、また被告人榎本の公判廷供述によれば、このような誘導をされれば同被告人は当然これに迎合するであろう筋合であるにもかかわらず、同被告人の検察官面前供述が右のような内容に止まっていることに照らしても、その供述するような誘導、押付けの取調によって調書が作成されたとは到底考えられない。ことに、公判廷で、同被告人は、「取調では、四回の受渡の場所について、いずれも村田検事の誘導に応じ、被告人伊藤のマンション、同マンション近くの道路上、ダイヤモンドホテルと英国大使館の間の道路上及びホテルオークラの駐車場で受渡をしたことを同じように認めたのに、村田検事はホテルオークラについてのみは自分の記憶があいまいである旨の調書をとった。」などとの不自然で首肯し難い供述をし、また、金額についても「自分は村田検事の誘導するとおりに認めたものであって、同検事が二回目が一億五、〇〇〇万だとか一億二、五〇〇万だとかということを言っていたので、自分はそのとおり認めた。」などと、検察官面前調書の記載と符合しない供述をしている。また、被告人田中、同榎本の弁護人は、「三回目の授受とされるホテルオークラでの受渡については、他の関係者の供述があいまいであったり、食違ったりしていたので、榎本調書では、取敢えず認めるような認めないような記載の仕方をしたことに疑いない。」旨主張するが、取調のありようの説明として説得力がない。
2 同被告人の検察官面前調書には、例えば、同四八年初めころ(同五一年七月二八日付調書)あるいは同四八年六月ころ(同五一年八月三日付調書〔甲再一80・乙8〕)に、被告人伊藤から五億円の献金の申出があったとしたり、また、同四八年一一月一六日に榎本が伊藤から一、〇〇〇万円を受取ったことを否定するなど、他の関係者の捜査過程供述と明らかに矛盾し、あるいはこれを否定する供述が録取されていることが認められるところ、これらの点からも榎本が取調の際単に村田検事の誘導等に迎合していたものでないことをうかがわせるに十分である。
3 被告人榎本の検察官面前供述中には、本件五億円の金員の引渡を受けた当時、そのことについて、被告人田中の指示を受けたり、田中に報告したりした状況、右金員を田中の私邸内居宅部分に搬入した状況、同五一年二月以降いわゆるロッキード事件が報道されるようになり、これが社会の大きな関心を集める中、本件金員の返還等、右事件対策について田中と相談した状況などのように、供述当時、被告人榎本以外の本件関係者はだれも供述せず、同被告人が供述しないかぎり村田検事の知り得ない事項が多数含まれており、この点も同被告人が同検事に対し自発的に供述したことをうかがわせるものといえる。
4 そして、村田検事は、弁護人が主張するような不当な誘導、押付けにわたる取調をしたことを否定し、被告人榎本が自己の記憶に基づき自発的に供述した事項を検察官面前調書に録取した旨供述するところ、その供述内容は詳細、具体的であるうえ、これと対立する被告人榎本の公判廷供述が右のとおりまことに信用性の乏しいものであることにも照らし、十分信用し得ると認められる。
以上検討したところによると、被告人榎本の検察官面前供述は、任意性、特信性に欠けるところがなく、公判廷供述に比し信用性も高いと優に認めることができる。
(四) 前記のとおり、被告人榎本は、公判廷においては、本件金員を受取ったことを全面的に否定し、また、「田中が内閣総理大臣に在任していたころ、自分が丸紅からの政治献金を受取ったことはない。」、「そのころ、正規の政治献金以外に、丸紅から一億円単位とか千万円単位の献金を受けることについて自分が関与したこともない。」などと供述している。
しかして右の公判供述は、いうまでもなく、本件五億円の現金の受取を認める前記検察官面前供述と全く相反するものであるところ、右検察官面前供述の信用性が高いことは以上に示してきたとおりであり、また、被告人榎本は、右検察官面前供述を否定する理由として、公判廷では、前記(二)(三)で縷述してきたようなまことに不合理でおよそ信用に値いしない理由を述べるに止まっているのであって、以上に照らし、本件現金受取を否定する右公判廷供述部分は到底信用し得ないというほかはない。
なお、被告人榎本は、「内閣総理大臣在任中被告人田中は同時に自由民主党の総裁であったところ、党総裁は党の制度上も金を取扱わないことになっている。」旨公判廷で供述し、被告人田中も公判廷で同旨を供述するが、これら供述は、自由民主党の資金の取扱状況についてのものであることがその内容自体から明らかで、本件金員のように、党の正規の資金としてではなく、田中個人に対して供与された金員に関するものではないと認められるから、田中ないし榎本は本件金員の受取に関与するはずがなかったとの推定の根拠になり得るものではない。
五 笠原の供述
笠原作成の供述書(甲再一10ないし13・甲一65ないし68)及び証人坪内利彦の公判廷供述の内容中の笠原の供述によると、笠原は、本件捜査段階において、同人の取調に当った坪内利彦検事に対し、被告人田中の内閣総理大臣在任期間中(かつ、昭和四九年五月以前で、同年春ころの自分の転居より前)、四回にわたって自分の運転する田中の私邸の自動車に被告人榎本を乗せて外出し、外出先で榎本が段ボール箱を受取ってこれを右自動車に積み込んだことがあること、その場所は、富士見町の青い屋根瓦のマンション(同人は二回目の取調のため出頭する前に現場へ行き、それが秀和富士見ハイツという名であることを確認したとも供述した。)、英国大使館裏で銭高ビル前の道路上、ホテルオークラの駐車場、九段高校向い側の電話ボックス付近道路上であること等を供述し、また右四回の受取の状況を図面と文章による前記供述書の形式に記載し、これを同検事に提出したことが明らかである(なお笠原が昭和五一年八月一日夜死亡したことも、関係証拠に照らし明らかである。)。
弁護人は、笠原作成の前記各供述書に記載されている同人の供述は、任意性、特信性を欠き、信用性もない旨主張し、また坪内検事の公判廷供述の内容中の笠原の供述についても同様の主張をするようである。
しかしながら、右各供述書の作成の経緯等に照らし、同書面記載の笠原の供述について、任意性に疑いを容れる余地がなく、また特信性、不可欠性もあると認められることは、当裁判所が同五六年三月三日付の書面によってした右各供述書に関する証拠採用決定で説示したとおりであって、右決定書記載の理由をここに引用する。すなわち右各供述書は刑訴法三二一条一項三号書面として証拠能力を有する。また、坪内検事の公判廷供述中の笠原の供述は、同検事が、同五一年七月三一日及び同年八月一日の両日の取調(笠原は、右両日の取調で喚起された記憶を八月一日の取調の際に前記供述書として要約、記載したものと認められる。)における笠原の供述内容を公判廷で供述したものであって、その内容は前記各供述書記載の笠原の供述とも合致し、前記決定で示したところと同様の理由により、これまた任意性、特信性、不可欠性に欠けるところはないと認められる。すなわち右坪内供述中の笠原供述は刑訴法三二四条二項、三二一条一項三号により証拠能力を有する。
また、右各供述書及び坪内供述中の笠原供述の信用性についてみても、笠原は、前記のとおり、ごく短期間の取調のうちに、四回にわたる本件段ボール箱の授受に関し記憶を喚起して自発的に供述し、また自らその記憶する内容を図面と文章による供述書の形式に記載したものであり、右記憶喚起の過程にも無理がなく、その供述中には同人の自然な記憶の再現が表現されていると認められることは前記証拠採用決定で示したとおりであるうえ、同人の供述は、前記のようなごく短期間の取調の際にされたにもかかわらず、本件四回の授受の状況についていずれも内容が具体的であり、また、同人自身の固有の体験として、同人の供述によらなければ坪内検事の知り得ない事柄をも包含していることが認められるのであって、このような内容自体にも照らし、同人の真摯な記憶再現の結果なされたものであるというべく、また、その内容は、前記のとおり信用性が高いと認められる被告人伊藤の供述、松岡、被告人榎本の各検察官面前供述と、多くの重要な点で符合していることが明らかであって、以上の各点に照らし、笠原の供述の信用性が一般的に高いことを肯認することができる。
なお、笠原は、取調中、英国大使館の裏で段ボール箱を授受した後引続いて被告人榎本を右自動車に乗せて三和銀行へ行った旨供述し、その旨前記各供述書と同様の形式の供述書(弁13)に記載して坪内検事に提出したと認められるところ、この点の供述は、関係証拠に照らすと、少なくとも、三和銀行へ行ったのが英国大使館の裏で授受を行ったのに引続く後のことであるとの両者の結び付きに関する限り、信用し難いと認められるのではあるが、坪内検事の供述によれば、この点の笠原の供述は記憶喚起の十分でない状態におけるそれ自体不確かな内容のものであり、笠原自身、右結び付きの点についてはちょっと自信がない旨の供述をしていたとも認められるのであって、この点が笠原供述全体の信用性を左右するものとは認められない。
六 クラッターの供述
東京地方裁判所裁判官の嘱託にもとづき米国カリフォルニア州中央地区連邦地方裁判所で行われた嘱託証人尋問で、クラッターは、本件交付にかかる現金合計五億円を準備したうえ、ピーナツ、ピーシズ領収証と引換えに、四回にわたり、前記第一の三(一)、四(一)、六(一)、七(一)の日時に、これを丸紅関係者に渡した(同人は四回とも野見山に渡したと思う旨供述している。)旨供述している。
右証人尋問の手続に違法な点はなく、また、右尋問におけるクラッターの供述について信用性が情況的に保障され、また不可欠性もあると認められることは、当裁判所が昭和五三年一二月二〇日付の書面による証拠採用決定の理由中で詳細に示したとおりであるので、これを引用することとするが、その他、右供述の内容に即してその信用性につきさらに検討してみても、同人は、その供述内容自体や速記録により看取し得る応答態度等に鑑み、記憶の有無を慎重に吟味して供述していることが明らかであるうえ、その供述内容は、前記被告人伊藤、野見山ら本邦内の関係者の供述(捜査段階供述と公判廷供述とが相反する場合、概して前者の方が信用し得ることは前記のとおり。)と大筋において合致し(速記録によれば、副執行官として尋問に当ったクラーク米国連邦検事は、クラッターの供述が本邦内関係者の供述と相違する点について確認的な質問をすることはあったが、当初から本邦内関係者の供述内容を用いてクラッターを誘導しようとするなどのことはせず、先ず端的に同人の記憶をただす質問をしたことが明らかである。なお、前記のとおり、クラッターは四回とも野見山に段ボール箱を渡したと思う旨供述する等、その供述内容には本邦内関係者の供述と相違する点もあるが、同人は、右四回の授受のうちには、自分が段ボール箱を丸紅に持っていった可能性もある旨供述するなど、右供述部分も伊藤らの供述とおよそ相反するものとまではいえないことが認められるのであって、いずれにしても、この点も右授受等に関するクラッターの供述の全体としての信用性を否定するに足りるものではない。)、またクラッター作成の摘要(甲一196〔写〕、その信用性については後記第四・二(七)のとおり)等の証拠物の内容によっても裏付けられているのであって、これらの点に鑑みても、クラッターの前記供述は全体として十分信用することができると認められる。
第三  証拠説明――物的証拠等
前記第二で説明したように、本件五億円授受に関するその直接関与者ともいうべき被告人伊藤、野見山の各公判廷供述及び検察官面前供述(いずれも、公判廷供述と検察官面前供述とが相反する点については、検察官面前供述の方が信用し得ると認められる。)、松岡、被告人榎本の各検察官面前供述、笠原、クラッターの各供述は、いずれも信用性が高いと認められるのであるが、とくに本件では、右の者らの供述と符合し、本件授受の裏付けとなることが明らかな、以下一ないし三のような証拠物が存するのであって、これらは、本件事実認定に際し極めて重要な積極証拠であることが明らかである。
一 いわゆるピーナツ、ピーシズ領収証写(甲再一41・甲一63)
被告人伊藤、中居、クラッターの各供述等によると、前記第一の三(一)、四(一)、六(一)、七(一)で説明した経緯により、それぞれ、一九七三年八月九日付一〇〇ピーナツ領収証、同年一〇月一二日付一五〇ピーシズ領収証、一九七四年一月二一日付一二五ピーシズ領収証、同年二月二八日付一二五ピーシズ領収証が作成され、右甲一63はその正確な写である(なお、右写には前記のような作成日付及び符牒の記載がある。)ことが明らかである。
そして右のような本件各領収証の作成の経緯にも鑑みると、その作成日付及び符牒の記載は、クラッターから丸紅関係者に対する金員交付の日及びその各回ごとの交付金額を特定するについて重要な根拠となるものというべく、また、本件金員授受関係者(ことに、被告人伊藤、同大久保、中居、野見山、クラッターら)のロッキード社、丸紅間における本件現金交付等に関する供述は、右ピーナツ、ピーシズ領収証の記載内容とよく符合しているのであって、これらの領収証が右関係者らの供述を裏付けるものであることもまた明らかである。
二 クラッター作成の摘要(甲一196〔写〕)中の特別勘定(写)
クラッターの供述等によると、右特別勘定は、同人がLAAL東京事務所で保管していたL一〇一一型機売込関係資金の収支の正確な記録であり、甲一196中に編綴されているものはその正確な写であると認められる(なお、被告人田中、同榎本の弁護人は、種々の主張をして、右特別勘定の正確性を否定するが、右主張については、後記第四・二(七)でまとめて判断を加える。)。
右特別勘定には、一九七三年八月一〇日に一億円、同年一〇月一二日に一億五、〇〇〇万円、一九七四年一月二一日、同年二月二八日に各一億二、五〇〇万円が前記資金中から支払われた旨の記載があり、なお、一九七三年一〇月一二日、一九七四年二月二八日の各支払の記載については、それぞれ、「最初の1/2MBC(MBCとは丸紅の略号であることが明らかである)交付完了」、「MBC(最終)(IDC)」(なお、「(IDC)」とは、ID社のシグ・カタヤマ作成の領収証が経理処理上この支出に対応するとの意〔後記第四・二(六)3〕)という注記が付されているのであって、クラッターの前記供述(第二・六)ともあいまち、右四回合計五億円の支出の記載は、丸紅に対する各該当金額の現金の交付をあらわすものであることが明らかである。よって、この記載内容は、ロッキード社、丸紅間の本件四回の現金交付の事実を直接裏付けるばかりでなく、右記載と合致する内容のクラッター、被告人伊藤、同大久保等の関係者の右現金授受に関する供述の信用性をも担保するものであるといわなければならない。
また、右特別勘定には、一九七三年七月二三日から一九七四年二月二八日まで、一九回にわたり、合計五億五、六〇〇万円の入金があった旨の記載があるところ、クラッターの供述、外国送金受領証写(甲再一4ないし甲再一9・甲一54ないし59。その正確性については後記第四・二(七)参照)等をもあわせ考慮すると、これらの記載は、本件授受に充てられるべき現金が、前記第一・二の経緯で、ロッキード社からクラッターのもとに送金されたことを裏付けるものと認められる。
三 松岡作成の社有自動車行動表(甲再二41・甲二85)
前掲関係証拠によると、松岡は、自分の運転する役員専用自動車の運行に関し、毎日各日分の社有自動車行動表(以下「自動車行動表」又は単に「行動表」ともいう)を作成、記帳し、同表に、一日ごとの運転時間・待時間・走行距離の各合計、始業時・終業時各メーター指数等のほか、各運行ごとの出発時刻・到着時刻・運転時間・待時間・行先・走行距離・使用者氏名等を記載していたこと、その記載内容は、(後記の改ざん部分を除き)その記載の形式、作成状況等にも鑑み、真実の運行に合致するものとして、十分信用し得るものと認められること、甲再二41・甲二85は松岡の作成した昭和四八年一月から同五〇年三月まで(なお、松岡は、この期間、被告人伊藤の専用自動車を運転していた。)の自動車行動表の綴であること、その中には、後記第四・二(二)のとおり、松岡らにより改ざんされたものもあること等が明らかである。
(一) ところで、昭和四八年八月一〇日の行動表には、出発時刻欄に「一四時一〇分」、到着時刻欄に「一四時二〇分」、行先欄に「竹橋~一番町」(なお「竹橋」は丸紅東京本社をあらわす。)とある運行記載と、それに引続く出発時刻「一四時二〇分」、到着時刻「一四時三〇分」、行先「一番町~竹橋」との運行記載がある。後記第四・二(二)のとおり、同日の自動車行動表は改ざんされたものであるが、右両運行の出発・到着の各時刻、行先等の記載部分は改変されておらず、甲再二41・甲二85上の右各記載は改ざん前の行動表上の記載がそのまま別の用紙にひき移されたものであると認められる。したがって、松岡運転車が、現実に、前記第一・三(二)のとおり、同日午後二時二〇分ころ、東京都千代田区一番町に赴く運行をしたことが、右記載自体から明らかである。そして、被告人伊藤及び松岡(検察官面前供述)は、伊藤が、松岡運転車の右運行の際、これに乗車して、一番町の英国大使館裏路上で被告人榎本に対し前記段ボール箱を引渡した旨供述し、榎本(検察官面前供述)、笠原も、日時は必ずしも明確でない(その特定の程度については前記第二の四、五参照)が、英国大使館裏路上で、伊藤の乗る自動車(笠原供述書には、単に緑色のセドリックとある〔なお、伊藤の専用自動車は当時緑色がかったセドリックであった。〕。)から段ボール箱を受取った旨供述しているのであって、自動車行動表の右記載は、右の日時に松岡運転車が一番町に赴いていたことをあらわす点で各関係者らの供述ともよく符合し、右各供述の信用性を裏付けるとともに、前記第一・三(二)の本件現金一億円の入った段ボール箱の授受が同日午後二時二〇分ころ一番町の英国大使館裏路上で行われた旨認定するについて直接の根拠となるものである(被告人田中、同榎本の弁護人は、右の運行の際段ボール箱の授受を行ったとする被告人伊藤、松岡の右各供述は、行動表の記載内容と符合せず、信用性がない旨主張するが、右主張の失当であることは後記第四・二(二)3(1)で説明するとおりである。)。
(二) さらに、昭和四八年一〇月一二日の行動表には、出発時刻「一四時一〇分」、到着時刻「一四時二五分」、行先「竹橋~富士見町」(なお、「富士見町」は被告人伊藤の自宅をあらわす。)、使用者氏名「伊藤常務」などとある運行記載と、それに引続く出発時刻「一四時二五分」、到着時刻「一四時四〇分」、行先「富士見町~竹橋」との運行記載(使用者氏名欄は空欄)がある。後記第四・二に認定したとおり、同日の自動車行動表は改ざんされたものであるが、右両運行の出発・到着の各時刻、行先、使用者氏名等の記載は改変されておらず、甲再二41・甲二85上の右各記載は、改ざん前の行動表の記載がそのまま別の用紙にひき移されたものであると認められる。したがって、右記載は、松岡運転車が同日午後二時一〇分ころ、被告人伊藤を乗せて丸紅東京本社を出発し、同日午後二時二五分ころ被告人伊藤の自宅で同被告人をおろして、その後同所から空車で丸紅東京本社に戻ったという行動をしたこと、すなわち前記第一・四(二)の松岡運転車の運行内容の直接の根拠となるものである。そして、被告人伊藤、松岡(いずれも検察官面前供述)は、右のような運行を行ったこと、その際、松岡が、伊藤とその自宅で別れた後、付近の路上で被告人榎本に対し、前記段ボール箱を引渡した旨供述し、榎本(検察官面前供述)、笠原も、日時は明確でない(特定の程度については前記(一)参照)が、右路上で伊藤の専用自動車(笠原供述書では単にセドリックとある。)から段ボール箱を受取った旨供述しているのであって、行動表の右記載は、伊藤が右日時に松岡運転車で帰宅し、その後松岡が一旦空車で帰社する運行についたことをあらわす点でこれら関係者の供述ともよく符合し(なお、行動表には松岡運転車がその後また被告人伊藤方へ迎えに行き、同被告人ほか一名を乗せて紀尾井町へ行った旨の記載があり、伊藤、松岡〔検察官面前供述〕は、伊藤が、同日、一旦帰宅後、再び迎えに来た松岡運転車に乗って、夫妻でホテルニューオータニ〔その行動表上の表示は「紀尾井町」〕へ行った旨供述しているところ、右行動表の記載と両名の右供述とがよく符合することも明らかである。)、右各供述の信用性を裏付け、前記第一・四(二)の本件現金一億五、〇〇〇万円の入った段ボール箱の授受が同日午後二時二五分ころ伊藤の自宅付近の路上で行われた旨認定するについて極めて重要な根拠となるものである(被告人田中、同榎本の弁護人は、被告人伊藤、松岡の右各供述は、自動車行動表の記載内容と符合せず、信用性がない旨主張するが、右主張が失当であることは後記第四・二(二)3(2)で説明するとおりである。)。
(三) 昭和四九年一月二一日の自動車行動表には、出発時刻「一六時」、到着時刻「一六時一五分」、行先「竹橋~葵町」、使用者氏名「伊藤常務」とある運行記載と、それに引続く出発時刻「一六時四五分」、到着時刻「一七時」、行先「葵町~竹橋」、使用者氏名「伊藤常務」との運行記載があるところ、前掲関係証拠によると、同日の自動車行動表は改ざんされておらず、したがって、右各記載も改変されてはいないと認められる。したがって同各記載は、松岡運転車が、同日午後四時ころ、被告人伊藤を乗せて丸紅東京本社を出発し、同日午後四時一五分ころ葵町に到着し、午後四時四五分ころ、また同被告人を乗せて丸紅東京本社に戻ったという行動をとったこと、すなわち前記第一・六(二)の松岡運転車の運行内容の直接の根拠となるものである(ホテルオークラの行動表上の表示は「葵町」である。)。そして、被告人伊藤は、右運行の際、葵町のホテルオークラで、松岡運転車から被告人榎本の乗る自動車内に現金の入った段ボール箱を引渡した旨供述し、松岡(検察官面前供述)、笠原も、日時は明確でない(特定の程度については、後記第四・一(二)参照)が、同所で、伊藤の専用自動車(笠原供述書には単に緑色セドリックとある。)から榎本の自動車に段ボール箱を移しかえたことがある旨を供述しているのであって、行動表の右記載は、右の日時に伊藤が松岡運転車で葵町に赴いていたことをあらわす点で、これらの関係者の供述ともよく符合し、右各供述の信用性を裏付け、前記第一・六(二)の本件現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱の授受が、同日午後四時一五分ころから四時四五分ころまでの時間帯中にホテルオークラで行われた旨認定するについて極めて重要な根拠となるものである。
(四) 昭和四九年二月二八日の自動車行動表には、出発時刻「一九時一五分」、到着時刻「一九時三〇分」、行先「赤坂~富士見町」、使用者氏名「伊藤常務」とある運行記載と、それに引続く出発時刻「一九時三〇分」、到着時刻「一九時三五分」、行先「富士見町~車庫」との運行記載(使用者氏名欄は空欄。なお、この運行記載は、同日の勤務を終えて松岡が空車で帰宅したことをあらわすことが明らかである。)がある。後記第四・二(二)に認定したとおり、同日の自動車行動表は改ざんされたものであるが、右両運行の出発・到着の各時刻、行先、使用者氏名等の記載は改変されておらず、甲再二41・甲二85上の右各記載は改ざん前の行動表上の記載がそのまま別の用紙にひき移されたものであると認められる。したがって、同記載は、被告人伊藤が、同日午後七時三〇分ころ、松岡運転車で帰宅し、松岡は、同被告人を自宅に送ってから、空車で帰宅という行動をしたこと、すなわち、前記第一・七(二)の松岡運転車の運行内容の直接の根拠となるものである。そして、被告人伊藤、松岡(検察官面前供述)は、右運行の際、前記段ボール箱を松岡運転車から伊藤の自宅に搬入した旨供述しているのであって、行動表上の右記載は、伊藤が右の日時に松岡運転車で帰宅したことをあらわす点でこれらの関係者の供述ともよく符合し、右各供述の信用性を裏付け、前記第一・七(二)の現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱の伊藤方への搬入が同日午後七時三〇分ころ行われた旨認定するについて、極めて重要な根拠となるものである(被告人田中、同榎本の弁護人は、被告人伊藤、松岡の右各供述は、自動車行動表の記載内容と符合せず、信用性がない旨主張するが、右主張が失当であることは後記第四・二(二)3(3)で説明するとおりである。)。
なお、被告人伊藤は、翌同年三月一日朝の午前八時過ぎで、午前八時三〇分ころ松岡運転車が自宅に迎えに来る前、自宅で右段ボール箱を被告人榎本に引渡した旨供述するところ、同日の自動車行動表(これは改ざんされていない。)には、松岡運転車が同日午前八時三〇分に伊藤を迎えるべくその自宅に来た旨の運行記載があり、これが伊藤の右供述と符合することも明らかである。
四 被告人大久保の供述
なお、本件現金授受に関する被告人大久保の供述について、ここで一言しておく。
同被告人は、本件現金授受に直接関与した者ではないが、公判廷において、被告人檜山の指示を受けてロッキード社側に本件五億円の現金の交付を促すなどしたこと、本件四回にわたるクラッターからの現金受取の際には、その都度、クラッターから各回の引渡金額とそれに関する符牒について連絡を受け、その旨被告人伊藤に伝え、同被告人から受取の日時等を聞いてそれをまたクラッターに伝えたこと、クラッターの右連絡があった日及びその内容の概略については、後で檜山に尋ねられた場合に備え、これを備忘のためメモしておいたこと等の各事実を供述しているところ、被告人大久保の右供述は、内容も自然で、詳細、具体的であり、関係証拠ともよく符合し、その信用性につきとくに疑いを容れるべき事由があるとも認められず、なお同被告人の供述態度等にも照らし、(後記のとおりごく一部について信用できないところはあるものの)概ね信用性は高いと認められるのであって、前記第一の各事実、ことにロッキード社側から丸紅側に対する本件現金交付の事実を認定するにつき極めて重要な根拠となるものと認められる。
第四  事実認定上の補足説明等
以上、第二及び第三で説明したとおり、本件金員の授受に関する被告人伊藤の公判廷及び捜査段階における供述、松岡・野見山・被告人榎本・笠原の捜査段階における各供述、クラッターの嘱託証人尋問における供述、さらには被告人大久保の公判廷供述はいずれも全体として信用性が高いと認められ、これらに松岡作成の社有自動車行動表、クラッター作成の摘要、ピーナツ、ピーシズ領収証等の物的証拠その他の前掲各証拠を合わせて判断すると、第一の各事実を優に認定することができると認められる。
ところで、弁護人は、とくに第一・六のいわゆる第三回目の現金授受の事実に関する証拠は薄弱である旨主張するので、以下一においてこの点について補足的に説明を加える。また、弁護人のその他の種々の主張の点については二において順次検討を加えることとする。
一 昭和四九年一月二一日におけるいわゆる第三回目の現金授受(前記第一・六)に関する事実認定について
(一) 同日のクラッター、被告人伊藤間における現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱の授受(前記第一・六(一))について
右の授受に関する主要な証拠の内容を要約すると、以下のとおりである。
1 被告人伊藤は、公判廷及び捜査段階を通じて、「ピーナツ、ピーシズの四通の領収証記載日付の日ころ、大久保から、ロッキード社の方で現金の用意ができた旨の連絡を受け、その受取の証憑として、右の日付の各日に、中居に命じて、右各領収証をタイプさせ、自ら署名した。」旨供述し、また、第一回目、第二回目、第四回目の現金受取の状況について詳細に供述するとともに、なお、本件の第三回目の現金受取に関しては、捜査過程において検察官に対し、「ピーナツ、ピーシズ領収証の日付の日に関する自動車行動表のうち、三日分には野見山が大手町へ赴いた旨の運行の記載(これは、現金受取のためピーナツ、ピーシズ領収証を持って同人がロッキード日本支社へ赴いたことをあらわすという。)があったので、これを改ざんさせたが、他の一日分には大手町運行の記載がなかったので、これを改ざんさせなかった。右領収証の日付の自動車行動表のうち、昭和四八年八月九日、同年一〇月一二日、同四九年二月二八日の各自動車行動表は改ざんさせた記憶があるので、残る同年一月二一日の自動車行動表が改ざんさせていない分になることは間違いない。また会社の一五階の応接室でピーシズの領収証をクラッターに渡したことが私の記憶に残っている。この時も私が指示して一二五ピーシズの領収証をタイプさせたことは間違いない。四九年一月二一日の自動車行動表には大手町へ行った記載がなく、私はこの五億円の件で松岡の車以外を使った記憶は全くないから今言ったピーシズの領収証を私が直接クラッターに渡した記憶と考え合わせると、この第三回についてはクラッターが金を直接丸紅まで運んでくれたのではなかったかと思う。そういえば松岡に対してだったと思うが、この件の金の入った段ボール箱を地下二階の駐車場に入っているクラッターの車から私の専用車に積みかえるよう指示した記憶がうっすらとある。それがこの第三回目だったのではないかと私は考えている。つまり、この第三回目については一二五ピーシズの連絡を大久保から前二回同様私が受けた記憶ははっきりしているのだが、その時に大久保からこの日はクラッターがこの金を会社まで持って来てくれることになっていると言われたかあるいは私の方に取りにいけない事情があって大久保か秘書課の者を通じて私がその金を当社まで運んできてくれとクラッターに頼んだかのいずれかだったと思う。この回は前回同様ピーシズの符牒をロッキードが使っており一二五ピーシズ、つまり一億二、五〇〇万円引渡されることになると私は大久保から聞いている。」旨、前記第一・六(一)で判示した事実に副う趣旨の供述をしている(同五一年八月一二日付検察官面前調書〔甲再一94・乙35)ところ、右供述の内容は、他の三回のクラッターからの現金受取の状況に比し、右第三回目の受取について記憶の程度が比較的薄いことをうかがわせるもののあることを否定し得ないが、その記憶の程度に相応した自然な内容の供述であって、その限りでは十分信用し得ると認められる。なお、被告人伊藤は、公判廷では、右検察官面前供述内容の多くについて、そのような状況の記憶はない旨あいまいな供述をするに至っているのであるが、結論的に、同四九年一月二一日丸紅地下二階駐車場で松岡に現金一億二、五〇〇万円を受取らせたことは肯定しているのであり、また、同被告人は概して公判廷では現金の授受の詳細についてことさら明確な表現を避ける傾向があるところ、このような点で検察官面前供述と異なる公判廷供述部分の信用性には疑問があることは前記第二・一で示したとおりである。また、各領収証の作成日付が、一九七三年八月九日(一〇〇ピーナツ領収証)、同年一〇月一二日(一五〇ピーシズ領収証)、一九七四年一月二一日(一二五ピーシズ領収証)、同年二月二八日(一二五ピーシズ領収証)であり、関係証拠によると、これらの日付に対応する各自動車行動表の日付のうち、昭和四八年八月九日、同年一〇月一二日、同四九年二月二八日の自動車行動表は改ざんされ、同年一月二一日の自動車行動表は改ざんされていないことが明らかであって、これは被告人伊藤の右検察官面前供述の信用性を裏付けるものである。
2 被告人大久保は、公判廷で、「四回にわたり、クラッターから、現金引渡の準備ができた旨の連絡を受け、その都度伊藤に、その旨とその際使われる符牒(ピーナツ又はピーシズ及びその数)等とを伝え、伊藤から受取の日時等を聞いてまたクラッターにその旨連絡した。クラッターから右連絡を受けたのは大体ピーナツ、ピーシズ領収証記載の日の前日くらいのことと思う。一回だけ、丸紅東京本社の応接室に行ったところ、クラッターと丸紅秘書課員らしい者がおり、そこに伊藤がやって来て、クラッターに領収証らしいものを渡すのを見たことがある。それは三回目の授受の際のことであると思う。したがってその日は第三回目の領収証記載の日である同四九年一月二一日のことと思う。右第三回目の受取の金額は一億二、五〇〇万円に間違いないと思う。」旨供述するところ、他の関係証拠に照らしても、右供述に疑問をさしはさむ余地はなく、また被告人大久保は、四回にわたってクラッターから連絡を受けた都度、備忘のため、その日時と引渡される現金の額(一〇〇万円単位)をメモに記載していた(なお、そのメモは後記第五・一(五)の経緯で破棄したと供述する。)が、ことに右三回目の連絡については、前記のとおり、伊藤がクラッターに領収証らしいものを渡しているのを見たことから、右連絡を受けた日付に引続いて、「一二五、イトーサイン?」と記帳しておいたとも供述するのであり、このように極めて具体的で自らの体験によってのみ知り得る事項に基づく供述内容であるから、被告人大久保の右供述の信用性は高いというべきである。
3 松岡は、捜査段階で、野見山が大手町ビルへ行き、自分の運転する自動車内に段ボール箱を積み込んできたことが三回あり、その日は同四八年八月一〇日、同年一〇月一二日、同四九年二月二八日である(また、同四八年八月九日にも野見山を乗せて大手町ビルへ行った。)旨を供述したうえ、「日時は正確に特定できないが、同四八年一一月以降の時期、丸紅ビル(すなわち、丸紅東京本社)地下二階駐車場にいると、福岡清治の運転するクラッター専用自動車が入って来、福岡から『松ちゃん、伊藤さんの車にこの荷物を積んでおいてくれと言われたから。』と言われて、私が福岡車の方へ行き、同車後部トランクに積んであった段ボール箱を伊藤専用車の後部トランクに積みかえたことがある。」旨を供述しているところ(同五一年九月一七日付検察官面前調書)、右供述は、1の被告人伊藤の供述とも照応し、信用性が高いと認められる(松岡は公判廷では右授受を否定する供述をするが、前記第二・一で示したところにも照らし、右供述は信用し得ない。)。
4 前記福岡作成の自動車行動表(甲二88)によると、福岡は同四九年一月二一日、クラッターを同人の前記専用自動車に乗せて丸紅東京本社に赴き、午後一時ころから午後二時ころまでの間、同社に滞留していたことが認められる。
他方、松岡作成の前記自動車行動表によると(なお、同日の自動車行動表は改ざんされていない)、同日午前八時一〇分ころから午後四時ころまでの間松岡運転車は丸紅東京本社にあったと認められ、また、その間、被告人伊藤が松岡運転車を使わないで丸紅東京本社を離れていたことをうかがわせる事情は何ら存在しないのであるから、同日午後一時ころから二時ころまでの間にクラッターが丸紅東京本社で伊藤から一二五ピーシズ領収証を受領し、またその際同社地下二階駐車場で松岡が現金の入った段ボール箱をクラッターの専用自動車から伊藤の専用自動車内に移しかえることは可能であったと認められる。
ところで、被告人田中、同榎本の弁護人は、松岡作成の同五一年七月二一日付図面(説明文つき。甲四20)に、福岡から荷物を受取ったのは「午前中デ私ノ手ガアイテイタ時ダッタ」との記載がある点をとらえ、また、福岡作成の右自動車行動表によると、同四九年一月二一日午前中に右のような段ボール箱の授受が行われたことはないと認められる(右自動車行動表には福岡運転車が同日午前中丸紅東京本社に来た旨の運行の記載はない。)ことを指摘したうえ、結局この点に関する松岡の記憶は本件授受が同日に行われたとするのとはむしろ相反するものであることが知られる旨主張する。しかし、坪内検事の供述によると、右の点に関する松岡の供述は、要するに、午前中は比較的自分の手がすいていることが多いところ、右の段ボール箱の授受をしたのは自分の手がすいている時であったので、午前中のことではないかと思うとの趣旨に止まり、それ以上の確たる根拠を伴うものではなかったと認められるのであるから、この点に重点を置いて右松岡供述の信用性を疑うべきではなく、弁護人の指摘する点も本件の事実認定を左右するに足りるものとは認められない。この点に関しては、前記のとおり、同日午後一時ころから午後二時ころまでの間松岡運転車と福岡運転車の双方が丸紅東京本社にあったことをこそ重視すべきである。
また福岡は、検察官に対し、同日、丸紅東京本社で松岡に対し、段ボール箱を渡した記憶はない旨供述しているが、これは、単に記憶がないとの趣旨のものであり、前記の松岡や被告人伊藤の供述内容を否定するに足りるものではない。
なお被告人田中、同榎本の弁護人は、福岡に生前(同人は昭和五五年死亡したことが認められる。)丸紅における段ボール箱の授受について尋ねたことがある旨の松岡の第一三一回公判期日における供述を引用して、「松岡証言からも、福岡運転手が当時の記憶として、段ボール箱の積みかえを思い出せないのではなく、そのような事実がなかったことを知ることができる。」旨主張するが、松岡が弁護人の主張するような趣旨の供述をしているとはただちに認め難い。すなわち、松岡は「福岡は、自分もそんな記憶(すなわち本件段ボール箱授受の記憶)は全くないと言っていた。」旨供述した後、引続いて、尋問者(弁護人)に「その際の福岡運転手の返事というのは、そんなことは思い出せないというような感じだったんですか。それともはっきりしないというような感じだったんですか。」と尋ねられて、「印象ですか。」と反問し、「印象としましては、ないということです。」と供述するに止まっているのであって、その問答内容自体に徴し、これをもって、福岡の松岡に対する言動が、右授受について記憶がないとする域を超えて授受の不存在をうかがわせる程のものであったと認めるには足りないのである。
5 クラッター作成の摘要中の特別勘定には、同日クラッターが領収証を徴して一億二、五〇〇万円を支出した旨の記載があり、またクラッターは、前記嘱託尋問において、同日、段ボール箱に入れた一億二、五〇〇万円の現金を丸紅側に引渡した旨供述している。
右特別勘定の記載の信用性が高いことは後記二(七)のとおりであるが、右各証拠は基本的な点で他の証拠関係とも符合し、その範囲内で十分信用することができる。もっとも、クラッターは、前記第二(六)のとおり、同日の現金引渡の際も、他の三回におけると同様、野見山に現金を引渡したと思う旨、被告人伊藤や松岡らの前記供述とは異なる供述をしている部分があるが、他方、自分が段ボール箱を丸紅に持っていった可能性もある旨供述する等、クラッターのこのあたりの記憶にはあいまいな点があると認められるのであって、右の部分に関しては、クラッターの供述よりも被告人伊藤や松岡の前記供述を信用すべきである。
なお、被告人田中、同榎本の弁護人は、クラッター作成の手帳(甲四41、42〔いずれも抄本〕)に本件金員交付の記載がない旨指摘したうえ、このような点からも、同日における本件金員の交付はなかったことが知られる旨主張するが如くである。たしかに右手帳には本件一億二、五〇〇万円の交付の記載はないが、元来右手帳は、その性質上、クラッターがその取扱う金員の収支を網羅的に記載していたものであるとは認められないのであって、同人は、右手帳に本件金員の支出の記載がないことを知悉したうえで、本件金員を同日丸紅に引渡した旨供述していること、クラッターがLAAL東京事務所で管理するL一〇一一型機販売関係資金の網羅的な記録であると認められる前記特別勘定の方には本件金員の支出の記載があること等にも照らすと、弁護人が指摘する右の点も本件の事実認定を左右するに足りるものではない。
以上の証拠関係を総合すると、前記第一・六(一)のとおり、昭和四九年一月二一日、丸紅東京本社地下二階駐車場で、被告人伊藤の指示を受けた松岡が、クラッターの指示を受けた福岡から、現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱を受取った旨認定するについて疑いを容れる余地のないことが明らかである。
(二) 昭和四九年一月二一日の被告人伊藤、同榎本間における現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱の授受(前記第一・六(二))について
1 この点に関する主要な証拠の内容を要約すると以下のとおりである。
(1) 被告人伊藤は、公判廷でも、前記(一)1のとおり昭和四九年一月二一日丸紅東京本社地下二階駐車場で受取った段ボール箱入りの現金一億二、五〇〇万円を同日ホテルオークラで被告人榎本に渡したことは認めているのであり、また、捜査段階においては、「(丸紅東京本社で右現金を受取った後、)私は榎本に電話を入れた。この時の引渡し場所はホテルオークラとした。ここに決めた理由だが、この日私かあるいは榎本のいずれかがホテルオークラに用事があるという話が場所の打合せの時に出て、私はホテルの駐車場や入口であれば人目は多いにしても荷物の出し入れを頻繁にする所だから私の車から榎本の車に段ボール箱を積みかえても怪しまれることはないと考えた記憶が残っている。私が『ホテルサイドパーキング』と言った記憶もあるので、この時の待合せ場所は、ホテルオークラのホテルサイドパーキングか、その間近のホテルサイド入口付近だったのではないかと思う。同日の自動車行動表を見ると、同日午後四時一五分から四五分まで私の専用自動車が葵町(ホテルオークラは葵町にある)にあり、その間の待ち時間が三〇分である旨の記載がある。この日、榎本と多少雑談をしたような感じもあるので待ち時間はこの雑談の時間を示しているのではないかと思う。同ホテルで私は松岡に『トランクの中の段ボールをあの車に積みかえてくれ』と指示した。松岡は私の指示どおり段ボール箱を抱えて榎本の車に移しかえた。相手の車のトランクにやはり入れたように思う。この時も段ボール箱の特徴等は覚えていないが、少なくとも第一回目の段ボール箱より大き目であったような感じがしている。」(同五一年八月一二日付検察官面前調書)旨の供述をしているところ、右の供述は、その内容の具体性にも徴し、十分信用できると認められる(なお、同被告人は、公判廷では、右供述内容の多くについてそのような状況の記憶はない旨、あいまいな供述をするのであるが、このような公判廷供述部分の信用性は低いと認められることは第二・一、第四・一(一)1で示したところと同様である。)。
(2) 前記第三・三(三)のとおり、松岡作成の前記自動車行動表中同四九年一月二一日付のものの運行記載は、同日松岡が被告人伊藤の専用自動車に同被告人を乗せてホテルオークラへ赴き、午後四時一五分ころから午後四時四五分ころまでの間同ホテルにいたことを示し、被告人伊藤の前記(1)の供述によく符合する。
なお、被告人伊藤の公判廷における供述、案内状(弁106〔写〕)、「前尾繁三郎君を励ます会御出席の御予定者芳名」と題する書面(弁107〔写〕)によると、同被告人は同日午後四時から六時までホテルオークラ平安の間で開かれた「前尾繁三郎君を励ます会」に出席するため同ホテルに赴く予定があったものと認められ、この点も同被告人の右(1)の供述を裏付けるものである。
(3) 松岡の同五一年七月二三日付検察官面前調書には、「日時ははっきりしないが、ホテルオークラのフロントで段ボール箱を積みかえた記憶がある。ホテルオークラのホテルサイド駐車場で待っていると伊藤が呼ぶので伊藤専用車をホテルのフロントにつけた。その時伊藤専用車の前には先にフロントに入った黒色の大きな車が停っていた。その車種は古い型のベンツではなかったかと思う。そこで伊藤が『松岡君積んである荷物をこちらに積んでください』と言ってその黒色大型車を指差したので私はその時伊藤専用車の後部トランクに積んであった段ボール箱を取出し、黒色大型車のトランクの所に持って行った。その時小肥りの男の人がその大型車に乗り込んだのでその人を見ると、英国大使館裏や伊藤宅付近電話ボックス前道路上で段ボール箱を渡した際に会った人(同調書上便宜『甲』と呼称されている人)と同じ人だった。私が段ボール箱をその車のトランクに積み込みその車の運転手がバターンと後部トランクを閉めたかと思うと、すぐに運転席に乗りその車は走り去って行った。なお、『甲』は年令四〇歳過位で、身体つきは、背は余り高くない、小肥りで幅広くぶ厚い感じの体格をしているのが特徴である。顔つきとしては、丸顔で頬がふっくらと張った感じ、頭髪を短かく刈り上げている、めがねはかけていないというのが特徴である。私はこの人に三回会っており写真でも見ればこの男かどうか見分けられると思う。」旨の供述が録取され、なお「甲」に関する右供述をした後松岡が同調書添付写真(そこには被告人榎本が写されていることが明らかである。)を示されて、右写真に写っている男が「甲」に間違いないと思う旨の確認の供述をしたことが右調書上明らかである(その経緯等については、前記第二・二(四)3参照)。また、同年九月一七日付検察官面前調書には、「この『甲』については釈放後新聞に載っていた写真を見て榎本敏夫に間違いないことが分った。なお、ホテルオークラの駐車場で段ボール箱を積みかえたことがあったような気もするが、細かな具体的な記憶はどうしても出て来ない。私はホテルオークラの地上駐車場を利用する時はほとんどいつもホテルのフロントに向かって左寄りの、中央からフロント寄りの、フロントの見え易い場所に駐車していた。もし誰かが『ホテルオークラの駐車場で伊藤専用車から段ボール箱を積み込んだ』と言い、その時の伊藤専用車の駐車位置がこの付近の位置になっていれば、その記憶は正しいはずであり、その人の言う通りに間違いないと思う。」旨の供述が録取されている。
松岡の右供述は、前記のとおり、段ボール箱を授受したのがホテルオークラの五階駐車場であるのか五階フロント寄り入口であるのか必ずしも明らかでないとし、またその日時の点や右授受にかかる段ボール箱をどこで松岡運転車に積み込んだかの点も不明であるとするうえ、相手の自動車はベンツではなかったかと思うとの供述部分は正確ではないと認められる等、内容上多少あいまいな点のあることは否定し得ないが、ホテルオークラで被告人伊藤の専用自動車から被告人榎本に間違いないと思われる人の自動車に段ボール箱を渡したことがあるとの基本部分では一貫しており、授受の状況に関する供述内容も具体的であり、また、関係各証拠、ことに被告人伊藤の前記(1)の供述ともよく符合し、右供述の基本部分については十分信用し得ると認められる(松岡は、公判廷では右授受の事実を否定する供述をするが、前記第二・二で説明したところにも照らし、右公判廷供述は信用し得ない。)。
(4) 笠原は、坪内検事に対し、「田中の内閣総理大臣在任中(すなわち同四七年七月から同四九年一二月まで)で、同年五月に自分の運転する自動車の車種が変るより前のころ(しかも、同年春ころ自分が転居するより前のころ)、四回にわたり、自分の運転する田中の私邸の自動車に榎本を乗せて外出したうえ外出先で榎本が段ボール箱を受取ってこれを右自動車に積み込んだことがある。そのうちの一回の受取はホテルオークラの駐車場で行われた。緑色セドリックを捜しながら、ホテルオークラの屋外駐車場をゆっくりまわっていたところ、アーケード入口付近にそれが停っているのが見えたので、その前に停った。セドリックの客もおりてきた。私もおりて、セドリックに積まれていた段ボール箱を私の運転する自動車の後部トランクに入れた。荷物を積みかえた後、私の車の方が先に出た。」旨供述をし、なお、その受取の状況についてホテルオークラ駐車場の図面をも交えて記載した供述書を作成し、これを坪内検事に提出したことが明らかである。笠原の供述は全体として信用性が高いと認められることは前記第二・五で示したとおりであるが、右の供述部分も、内容自体具体的であり、関係各証拠とも基本的な点でよく符合し(なお、松岡運転車は同四八年三月から同五一年二月まで緑色がかったセドリックであったと認められる。)、十分信用し得ると認められる。
ところで、当裁判所の検証調書等にも鑑み、仔細に検討すると、松岡の検察官面前調書記載の段ボール箱授受の場所はホテルオークラ五階フロント寄り入口又はその付近駐車場を指し、被告人伊藤の検察官面前調書記載の授受の場所も結局同所を指すと解される(なお、同被告人の公判廷供述はこの点あいまいである。)ところ、笠原の供述書記載の授受の場所は同ホテル一階宴会場入口付近駐車場を指すと解されるから、この点右各供述は合致していないと認められる。しかし、右三者の供述はホテルオークラの屋外駐車場付近で右授受を行ったとの基本的部分では共通していること、同ホテルのフロント寄り入口や両駐車場は、自動車から荷物を出し入れする場所として、ことに印象に残るような特異な場所というわけではないし、伊藤らは、自らも供述するとおり、同ホテルをしばしば利用し、もとより、五階の屋外駐車場、同所のフロント寄り入口やその付近、一階の宴会場入口やその付近駐車場のいずれをも数多く利用したことがあると認められるから、本件授受の場所が右のいずれであったか記憶が混同しても無理はないと思われること等に鑑みると、この点の供述の差違がただちに右各供述の信用性を疑わせるに足りるものであるとは認められない。なお、授受の状況に関する笠原の供述は、相手のセドリックを捜して一階屋外駐車場をまわった状況等も含め、極めて詳細、具体的であること、これに比較して、授受の状況に関する松岡や被告人伊藤の供述は必ずしも明確ではなく、あいまいな点を伴っていること、前記(1)(2)によると伊藤は同日同ホテル平安の間で開催された「前尾繁三郎君を励ます会」に出席する用があったと認められるところ、右平安の間に赴くには一階宴会場入口から入る方が便利であるから、伊藤としては宴会場入口付近を榎本との待合せ及び現金授受の場所と指定したと考えるのが自然であること等に鑑みると、本件授受の場所は、笠原の供述に基づき、同ホテル一階宴会場入口付近駐車場であると認めるのが相当である。
(5) 被告人榎本の同五一年八月三日付検察官面前調書(一九丁のもの)には、「同四八年八月初旬ころから翌四九年二月ころにかけて前後四回にわたり伊藤から総計五億円を受領した。毎回私が直接受領した。そしていつもその前日か当日に伊藤から目白台の田中の事務所なり砂防会館にいる私のもとに電話で『榎本さんご都合はいかがですか。内々の話でお目にかかりたいのですが。』とか『例のものをお渡ししたいのですが。』といった連絡があり、そこで私と伊藤との間で具体的な時間と場所についてどこがよいかとお互いに相談し合って打合わせ、概ね伊藤に指定してもらった時間、場所に私の方から出向いていた。毎回目白台の田中私邸の運転手をしている笠原政則の運転する黒塗りの国産自家用車を使って出かけていた。伊藤との間で金を授受した具体的な日時、場所については私も車であちこち出歩いているものだからあれこれの場所と混同し一回ごとには記憶していないありさまである。ただおぼろげな記憶も交えて話せることは確かに一回九段の伊藤のマンションを訪ねたことがあり、一回は伊藤のマンションの近くでしかも靖国神社近くの道路上、一回はダイヤモンドホテルと英国大使館の間の坂のある道路上までは思い出せるがあと一回はどうしても記憶をたどれない。ホテルオークラの駐車場で受渡したことはなかったかと言われれば、あったかも知れないが、ホテルオークラには数知れず出かけているばかりに確とした印象が残っていない。時間についても例えばまだ夜があけて間もない早朝とか日も暮れてからといった時間帯でなく午前か午後か逐一覚えていないがいわゆる日中の時間帯という記憶である。伊藤のマンションを訪ねた時を除いては伊藤はベージュがかったグリーンの外車を運転手に運転させてきていた。そしていつもガムテープなどで密閉された段ボール箱一個を受渡しその大きさはいろいろだったが、一番小さいものでも40×35×30センチメートル程度の大きさのものだった。それを私が自ら運んだり笠原に手伝ってもらったりして伊藤宅から私が持ち出した以外は伊藤の車から私の乗ってきた車のトランクなり後部座席に積みかえたのである。私は伊藤からその都度金額は聞いているのだが現在第一回目が一億円であったという記憶は残っているもののあとの三回について具体的にそれが一億何千万円であったか覚えていない。いずれにしても四回合わせて五億円になったことは確たる事実である。」旨の供述が録取されている。右の供述は、四回の授受の日時も特定されておらず、またここで問題にしている前記第一・六(二)の事実については、ホテルオークラで授受したかどうかも明らかでないとするなど、相当漠然とした内容を含むものであり、また、被告人伊藤の乗っていた自動車は外車であったとの明らかに誤った事実も含んでいると認められるなどの点はあるのであるが、伊藤からの受取金額の総計、受取の回数、おおよその時期や状況、とくに、そのうちの三回の受取が行われた場所は前記第一の三(二)、四(二)、七(二)の各場所であった(他の一回の受取の場所についてはどうしても記憶を喚起できないとする)ことなど、その供述の主要な内容は、本項(1)ないし(4)で縷述してきたような他の証拠関係ともよく符合し、十分信用し得ると認められ、また、前記の証拠関係に照らすと、右の場所の記憶はないとするが授受自体は認めているものがまさに本件ホテルオークラにおける授受に相応するから、被告人榎本の右供述も、四回の授受のうちの一回である昭和四九年一月二一日の授受の存在を認めるための重要な根拠たり得るものであると考える(同被告人は、公判廷では、右検察官面前調書記載の供述内容を全面的に否定するが、前記第二・四で説示したところにも照らし、右公判廷供述は到底信用できない。)。
以上の証拠関係に照らすと、前記第一・六(二)のとおり、昭和四九年一月二一日午後四時一五分ころから午後四時四五分ころまでの間の時刻に、ホテルオークラの駐車場で、被告人伊藤の指示を受けた松岡が、現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱を同被告人の専用自動車から被告人榎本の乗る笠原運転車に積みかえた旨認定するについて疑いを容れる余地はないと認められる。
なお、検察官は、右授受の時間帯をさらに限定し、「伊藤が授受の場所をホテルオークラとしたのは、当日午後四時から同ホテルで開催されている前尾繁三郎のパーティに出席するためであり、(自動車行動表上の午後四時一五分から四時四五分までの)右『待ち時間三〇分』は主として右パーティに出席したためと推認され、かつ、かようなパーティの席では知人に会うなどしてその席から予定した時刻どおりに退出し難いことがあり得るところから、本件のように人と待合わせて金員の梱包された段ボール箱を授受するような所用がある場合には、パーテイの席に入る前にそれを済ませるのが通常のことと思料され、したがって、榎本への引渡は、同ホテルに到着した午後四時一五分ころから間もなくのころと認定するのが相当である。」と論じたうえ、本件授受が行われたのは午後四時一五分ころから四時三〇分ころまでの間である旨主張するが、このように授受の時間帯を限定する理由として首肯するに足りるものとは認め難く、前掲各証拠を総合し、とくに松岡作成の社有自動車行動表に基づき(前記第三・三(三))、本件授受の時間帯は午後四時一五分ころから四時四五分ころの間と認めるのが相当である。なお、検察官が、右のように授受の時間帯を一層限定したのは、論告の段階においてであり、それまでは、検察官は、冒頭陳述(ただし、第一四九回公判期日で訂正されたもの)中で、松岡作成の自動車行動表の前記記載をもとに、授受の時刻は午後四時三〇分ころであると主張していたにすぎないのであり、起訴状では、単に、本件の交付が昭和四九年一月二一日ころ行われたとされていたに止まる。そして本件審理の経過においても、要するに、午後四時一五分ころから四時四五分ころまでの前記待時間中に本件授受が行われたことがあるか否かという点をめぐって攻防が尽されたことが明らかであるから(アリバイに関しては後述)、ここで当裁判所が検察官の論告における主張よりも授受の時間帯を若干広く前記のとおり認定するために、訴因の変更を要するものとは考えられず、その他本件審理の全経過に鑑みてこの点をめぐり訴因の特定、被告人の防御等の観点から問題を生ずる余地はないと考える。
2 なお、被告人田中、同榎本の弁護人は
(1) ホテルオークラのフロントの前にはドアマンが常時おり、自動車が停まれば近づいてきて、ドアを開けたり、荷物を持つ等のサービスをするし、かつ、同所は人車の出入りの激しいところであるから、かかる場所で待合せをして一億二、五〇〇万円もの現金の入った段ボール箱の授受をしたとは考えられない、
(2) 昭和四九年一月二一日は地上観測日原簿に「大雪一時雷後晴」と記載されているような異常天気であったのに、このような日に戸外で授受を行ったとは考えられず、また、授受の事実があったとすれば、当事者にその(天候の)記憶があるはずであるが、だれにもその記憶がないというのは不自然である
旨主張する。
しかし、右(1)の主張は、ホテルオークラの(五階)フロント前で授受を行ったとした場合に関するものであることがその主張自体から明らかであるが、当裁判所は、前記1(4)のとおり、授受の場所は同ホテル宴会場入口付近駐車場であったと認定するものであり、右宴会場入口付近にはドアマンはいないのであるから、右ドアマンの存在を云々する右主張は前提においてすでに失当である。なお、宴会場入口付近も人車の出入りが相当程度あったことは認められるが、この点について、被告人伊藤は、前記のとおり、捜査段階で、「ここ(ホテルオークラ)に決めた理由だが、この日私かあるいは榎本のいずれかがホテルオークラに用事があるという話が場所の打合せの時に出て、私はホテルの駐車場や入口であれば人目は多いにしても荷物の出し入れを頻繁にする所だから私の車から榎本の車に段ボールを積みかえても怪しまれることはないと考えた記憶が残っている。」旨供述している(同五一年八月一二日付検察官面前調書)ところ、右供述は、本件の状況にも照らすと、引渡場所を決めた際の被告人伊藤の自然な心境の表明として、十分信用し得るものであると認められる。以上の諸点よりして弁護人の右(1)の主張は理由がないことが明らかである。
また、右(2)の主張にも鑑み、地上観測日原簿(甲一178)の記載内容を検討すると、同原簿上「大雪一時雷後晴」との記載がされているのは同四九年一月二一日の一八時から翌同月二二日六時までについてであって、同月二一日六時から一八時までについては「曇後雪」との記載がされているのみであって、本件授受の時間帯はこの中に含まれているのである。なお、松岡作成の図面(甲四19)には、ホテルオークラにおける段ボール箱授受の際のこととして、「天気ハヨクナカッタ」、「天気ガワルククライカンジダッタ」との記載がされており、これによると、松岡は取調当時右の程度の天候に関する記憶は有していたと認められ、その内容は当日の天候と照応する。
なお、被告人大久保の弁護人も、「この日は天気が悪く、甲一178によれば、一二時二五分には雪が降り始め、一五時四〇分にはみぞれとなり、一六時一〇分まで降り続き、一六時五五分には再び雨、そしてみぞれとなっている。このような天候の日、屋外駐車場で受渡をしなければならない理由はない。」旨論ずるところ、甲一178に弁護人の指摘する天候の記録があることはたしかであるが、このような天候の際であるからといって、屋外駐車場で授受を行うことが弁護人の主張するほど不自然な出来事であるとは解されず(ちなみに、本件現金授受の時間帯の間には降雨、降雪等もなかったと認められる。)弁護人指摘の右の点も、本件の事実認定を左右するには足りないと認められる。
二 その他の事実認定上の争点について
(一) 被告人大久保及びその弁護人は、同被告人がクラッターからピーナツ、ピーシズ領収証の作成を依頼され、その旨被告人伊藤に伝えたという事実はない旨主張する。
しかし、被告人伊藤は、捜査段階及び公判廷を通じて、昭和四八年八月九日に、被告人大久保から、ロッキード社の方で本件約束にかかる五億円のうち一億円の用意ができたこと、右一億円につきロッキード社は一〇〇ピーナツという符牒を用いることについて連絡を受け、また、右一億円をクラッターから受取ってきてほしい旨要請されるとともに、「どんなものでもいいから受取ったというエビデンスをクラッターがくれと強く言っているので金を取りに行く時持たせてやってくれないか。」と依頼され、そのため、本件一〇〇ピーナツ領収証を中居にタイプさせて自らこれに署名するに至った旨の供述を一貫している(同五一年八月一二日付検察官面前調書等)。なお、同供述によっても他の三通のピーシズ領収証の作成についてその都度被告人大久保から依頼されたのかどうか明らかでないが、少なくとも右のように本件約束に関する最初の現金受取に際し大久保から領収証の作成を依頼されたことが、その後の三回の受取についても被告人伊藤が領収証を作成するに至った機縁となったとの趣旨に帰することは、その供述により認められる。右の供述部分は、本件の経緯、情況ともよく符合する自然なものと認められる。そして、この点に関するクラッターの供述をみるに、先ず同人は、本件五億円の現金の四回にわたる交付の際には、各回の交付のそれぞれにつき、丸紅に対し、引渡準備ができたから自分に領収証を渡してくれれば金を持っていけると伝えたこと、コーチャンからは、この五億円の支払の打合せのため、被告人大久保を丸紅側の交渉相手とするよう言われていたと思うこと、この支払について、同被告人の代りに、被告人伊藤と何か話合ったという記憶はないこと、大久保は自分に伊藤が右領収証に署名することになったと言ったように思うこと等を供述し、さらに、とくに第二回目の現金交付である前記第一・四(一)の一億五、〇〇〇万円の交付について、「現金を引渡す前大久保に領収証を用意するよう頼んだのか。」と尋ねられ、「はい、私は大久保氏に領収証を用意するよう頼みました。」と答えており、右供述を通観すると、その趣旨中には、本件に関する最初の現金交付である前記第一・三(一)の一億円の交付の際にも、クラッターがあらかじめ、大久保に対して領収証を渡すよう要求し、大久保は、右要求を承諾するとともに、この領収証には伊藤が署名する旨答えた、ということを含む筋合になると解されるところ、これは前記伊藤供述とも符合し、その信用性を補強するものである。
なお、被告人伊藤は、公判廷では、さらに、被告人大久保から領収証の作成を依頼された際の状況として、「そのときの大久保の説明によると、クラッターが何か上の方からあまり信用されていないようなことで、上の人に見せる、そういう社内だけのために使うから丸紅に決して迷惑をかけるものではないと非常に強く(クラッターが)申してるということであった。」、「なぜ私がサインしなくちゃいけないのかと申したときに、(大久保は)確か、自分は直接の窓口になっているから、そうじゃない方がいいんじゃないかというようなことを言っていたと思う。」などと供述している。そこで案ずるに、本件ピーナツ、ピーシズ領収証は、その形式、体裁及び関係各供述によると正規の会計処理上の用途に供され得るものではなく、単にクラッターが間違いなく本件現金を丸紅側に交付したことの事実上の証憑として、クラッターと上司等ロッキード社内の特定の者との間で意味があるにすぎないもので、まさに同社内だけのために使うものであったことがうかがわれ、そうすると、平素ロッキード社に関する営業を担当し、クラッター等との関係も深く、ロッキード社との直接の窓口であった大久保よりも、このような関係のとくにない伊藤が右領収証に署名する方が、その前記証憑としての客観的信憑性をより高くするとも考えられるところに照らし、大久保から前記のように説明され領収証の作成を依頼されたとの被告人伊藤の前記供述は、その内容が(クラッターが信用されていない等の事実の真偽はさて措き)当時の情況にも合致し自然なものとして信用することができる。
ところで、被告人大久保の弁護人は、種々の理由を挙げ、被告人伊藤やクラッターの供述の信用性を争うので、以下、その主要な点につき順次検討を加えておく。
被告人大久保の弁護人は、先ず、大久保から右領収証の作成を依頼されたとの被告人伊藤の供述は、いわゆるうそ路線(すなわち、後記第五・一(四)の筋書)に副った内容のものであり、昭和五一年二月五日にピーナツ領収証の存在が公になった当初のころ、伊藤は、記者会見等で松井から右領収証の作成を依頼されたなどと言っていたが、右領収証作成当時松井はすでに丸紅を退職していたことが判明するに及んで、今度は大久保から依頼を受けた旨の説明をするに至ったこと等の経緯に照らし信用できず、また、大久保から依頼を受けた理由に関する伊藤の供述は、時々刻々変化し、何が虚で何が真なのかその判別に苦しむものである旨主張する。
なるほど、後記第五・一(四)のとおり、被告人伊藤らは、昭和五一年二月五日にピーナツ領収証の存在が公になった直後ころ、ピーナツ、ピーシズ領収証は金品の授受とは無関係であり、また、クラッターから右領収証の作成を依頼された被告人大久保から被告人伊藤に対して同領収証作成の要請があったため、伊藤がこれに署名して大久保に手渡し、大久保がさらにこれをクラッターに手交したものであるなどの筋書(所論のいわゆるうそ路線)を定め、以後対外的説明はこれによって行うこととし、現に記者会見や国会証言の場などでも右筋書に副った弁解を繰返したこと、右の筋書のうち、本件領収証が金品の授受とは無関係であるという点、本件領収証が大久保を介してクラッターに手交されたとの点などは、内容が虚偽のものであること等の事実は認められる。しかし、右の筋書に含まれている事項であるからすべて虚偽のものであるとまでいえないことは当然であり、ことに、右の筋書は本件領収証と金品の授受との関係を否定することにその主眼があると認められるところ、被告人伊藤は、検察官の取調の初期の段階以後、右の関係を認める供述に転じ、したがってもはや右の筋書に固執する意味もなくなり、現に本件領収証が大久保を介してクラッターに手交されたとの点もくつがえす供述に転じた後になっても、依然本件領収証の作成を自分に依頼したのは大久保である旨の供述を一貫しているのであって、伊藤の前記供述は十分信用することができる。なお、被告人大久保の弁護人は、佐藤文生作成の「ロッキード問題の調査報告―アメリカでの調査を終えて―」と題する書面(弁679〔写〕)中の一部を引用し、同月七日に、被告人伊藤は、佐藤に対し、本件領収証に署名するよう自分が直接ロッキード社から頼まれたと解される趣旨の発言をしていることが知られる旨指摘するが、その発言についてみても、とくに他の者を介することなく、直接自分にロッキード社から領収証作成の依頼があったとの趣旨を述べているものとは認められない。また、大久保から領収証作成の依頼を受けた理由に関する被告人伊藤の供述が時々刻々変化しているとの主張に鑑み、同被告人の供述を検討してみても、右の理由に関してそれ程の変遷があるとは認められない。
結局、被告人伊藤の右供述の信用性を争う弁護人の主張はすべて採用し得ないと認められる。
被告人大久保の弁護人は、クラッターの供述について「クラッターは、ピーナツ、ピーシズ領収証に関し、ピーナツ、ピーシズの符牒は同人以外に言い出した者はいないことが明らかであるのにこれを否定するなど、その証言には疑問があり、領収証の作成に関しても、それは『丸紅』に要求したのだとし、大久保が『伊藤が領収証に署名することになる。』と言ったかどうか覚えているか、という誘導尋問に対し、確かではないが言ったように思うと不正確な証言をし、なお、大久保がそのように言ったと思うという根拠も不明確であり、また、第二回の授受についても、尋問者は、『大久保に領収証を用意するよう頼んだのか。』という質問をして、それと同一の証言を得ているが、これまた誘導尋問であって、本来許されないものである。なお、クラッターの供述の信用性には全体として疑問があり、その信用性がないことは、右の点のほかにも、ユニット領収証作成の経緯や、昭和四七年一一月八日における被告人大久保との電話等の諸点においてことに顕著である。」旨主張する。
なるほど、本件領収証の作成に関しクラッターに対してなされた尋問中に誘導的尋問があったことは認められるが、この関係のクラッターの供述全体の脈絡にも照らすと、弁護人指摘の誘導部分が、その尋問に対する供述の信用性に格別影響を与えるほどのものであったとは認められない。また、クラッターは、ピーナツ、ピーシズという符牒の領収証を作成するよう丸紅側に言わなかった旨の供述をしているところ、たしかにその供述部分は信用できないと認められるが、クラッターの供述の信用性が全体として高いことは前記第二・六のとおりであって、右のように信用できない部分があることをもってその供述の他の部分の信用性を否定することはできない。なお、伊藤が領収証に署名することになったと被告人大久保が言ったと思う旨のクラッターの供述部分が不正確である旨の主張については、その供述全体から本件現金授受に関するクラッターと大久保との連絡状況に関するクラッターの記憶はかなり正確であると認められることにも照らし、右供述部分もそれなりに採用に値いすると認められる。
つぎにクラッターの供述の信用性に関し、ユニット領収証の作成経緯に関するクラッターの供述を論難する点について。主張の要点は、「クラッターのこの点に関する証言は不正確であいまいであって、しかも、クラッターが(被告人大久保に対し)強引にユニット領収証へのサインを求めた状況とか、あとで(クラッターが)領収文言を書き加えたこととか、両ユニット関係資金の受渡に松井が関与していることなどについて、クラッターがこれを否定したり、あいまいな証言をするのは不自然である。」というものであるが、クラッターは単に大久保に対してユニット領収証への署名を求めた旨供述しているだけであって、これを強引に求めたかどうかなどということは、尋問の際問題にされておらず、クラッターはそもそもその点については全く触れていないのであり、この点はクラッターの供述の信用性に影響を及ぼすものではない。また、クラッターが後に領収文言等を書き加えたかどうか、松井がこの関係の金員の受渡に関与しているかどうかについては、クラッターは、結局のところ記憶がないとの趣旨の供述をしているにすぎず、なお、当裁判所も被告人大久保の供述等により、同被告人が署名した際、右各ユニット領収証には、それぞれ単に30 Units, 90 Unitsとのみ記載されており、他の領収文言等は、同被告人の署名後、クラッターが書き加えたと認定するものであるが、同被告人の供述によっても、大久保が各三、〇〇〇万円、九、〇〇〇万円をクラッターから受取ったことを証する趣旨で右各領収証に署名したことは明らかであるから、クラッターが後で領収文言等の付加をしたことはそれ程重要な論点ではない。また、その他にも、クラッターが右ユニット領収証関係の資金の授受等に関し記憶がないと供述している点がかなりあることは認められるが、クラッターの供述の全体の趣旨、同人の慎重な供述態度(なお、前記第二・六参照)等に照らしても、とくにそれが不自然であるとして信用性に影響する程のものとは認められない。
なお、一九七二年一一月八日に被告人大久保から電話があった旨のクラッターの供述部分を争う点について。その主張は、クラッターの方が被告人大久保に対して電話したか、あるいはクラッターが第三者との電話の際九〇ユニット領収証関係資金に関する同被告人の態度を話題にしたことを、被告人大久保の方から電話があった旨クラッターが誤って取違え供述したということになるのであろうが、仮りにこれを前提としたとしても、極めて多岐にわたる供述事項のうちの一つにつき右の程度の取違えがあったとしても、供述全体の信用性には影響しないというべきである。
結局、クラッターの前記供述の信用性を争う弁護人の主張も採用することができない。
ところで、被告人大久保は、捜査段階及び公判廷を通じて、被告人伊藤に対しピーナツ、ピーシズ領収証の作成を依頼したことはない旨の供述を一貫している。被告人大久保の右供述は、一面、自身が、クラッターと被告人伊藤との間に立って、クラッター側の現金引渡準備の状況及び引渡される各回ごとの現金の金額とそれに関するクラッター側の符牒の内容等を被告人伊藤に連絡したり、同被告人側の受取の都合(日時など)をクラッターに伝えたりしたことは認めながら、反面、右領収証作成の点については自分は関知していなかったとし、さらになぜ伊藤が同領収証を作成したのか、その事情は自分には不明であるとしつつ、その作成について、クラッターらロッキード社側と伊藤ら丸紅社長室との間で直接の連絡がなされたということも考えられる旨の供述をしている。しかしながら本件現金交付におけるロッキード社との連絡に丸紅側の直接の責任者として当った被告人大久保の立場にも鑑み、また、同被告人自身も認め、証拠上も明らかな、本件現金授受の際に同被告人が現に果したクラッター、丸紅間の連絡の役割状況等にも照らすと、本件現金交付の連絡交渉のうち、同領収証の作成についてのみは全く関与しなかったとの趣旨に帰する同被告人の供述内容は他の関係証拠に対比してやはり不自然であるというほかはない。同被告人は、公判廷で、ユニット領収証にサインすることについて自分が抵抗したので、クラッターとしても、本件ピーナツ、ピーシズ領収証にまた自分のサインを求めることは難しいと思って、この話を自分にはしなかったのではないかと思う旨の供述をするが、ユニット領収証への署名に大久保が抵抗したことがあったとしても、クラッターが本件領収証の話を大久保に全くしなかったはずであるとまで到底いえないことは明らかである。
被告人大久保の弁護人は、また、クラッターからの現金引渡の連絡の都度、その日付等をメモしておいたところ、昭和四九年一月二一日ころ、被告人伊藤が丸紅東京本社でクラッターに対し紙片を渡すのを見て、右メモの第三回目の引渡の連絡の箇所に、「イトーサイン?」と記入しておいた旨の被告人大久保の供述を引用し、「被告人大久保が被告人伊藤に領収証を依頼したものなら、伊藤がクラッターに領収証を渡すのは当然のことで、わざわざ『イトーサイン?』と記入するはずはない。」と主張するが、大久保が、あらかじめ、伊藤が領収証を作成すること自体は知っていたとしても、伊藤がクラッターに右領収証らしい紙片を渡しているのを現に見て、その記録の意味で、前記メモに右のような記載をしたとしても、とくに異とすべき事柄ではないと解される。
被告人大久保の弁護人は、また、「もし被告人伊藤が、大久保の依頼で領収証を作成したものなら、昭和五一年二月五日にピーナツ領収証の存在が公になった際、間違いなく被告人檜山に大久保の依頼であることを説明するはずである。そして被告人大久保も檜山から事情を説明させられ厳しく叱責されたはずであるが、当日も、それ以後も、大久保は、だれからも説明を求められず、また非難されてもいない。」などと主張する。
しかし、被告人大久保が、だれからも説明を求められず、非難もされていないとの主張については、被告人伊藤の公判廷供述等により、伊藤から大久保に対し、領収証が公表されたことに関し詰問した事実が認められるし、前記の事実認定を左右するに足りるものではない。なお、被告人伊藤の昭和五一年八月一四日付検察官面前調書(甲再一95・乙38)には、「同年二月五日朝、檜山に対して、『今日、米議会でロッキード社に関し、ヒロシイトウのサインが問題になったと聞きましたが、私がサインしたことは事実です。私は、報告しませんでしたが例の件の時、クラッターがどうしてもレシートをよこせ、そうでないと金を引渡せないと言うので私がサインしたレシートを出してしまいました。甚だ申訳ありませんでした。』と言って謝った。」旨の供述記載があり、また、被告人檜山の同年八月一三日付検察官面前調書〔甲再一78・乙18〕にも「同年二月五日朝、伊藤が『その領収証は例の件のあれです。クラッター氏に頼まれ、何通かにサインしました。すみません。』と言って謝った。」旨の供述記載があるが、その中の被告人伊藤の発言内容も、伊藤の全供述を通観して、クラッターから他人を介さず伊藤に対し直接本件領収証作成の依頼があったとの趣旨を含むとまでは解されないから、前記事実認定の妨げとなるものではない。
そうすると、この点に関しては、被告人大久保の供述は信用し得ず、前記認定に副う被告人伊藤の供述等の方がより信用し得ると認められる。
(二) 社有自動車行動表(甲再二41・甲二85)に関する主張について
右自動車行動表の一般的作成状況等は前記第三・三で説明したとおりであるが、さらに、前掲関係証拠によると、昭和五一年三月、被告人伊藤は、同四八年一月から同五〇年三月までの期間に関する右行動表を検討して、これを改ざんしようと企て、丸紅東京本社の毛利総務課長と松岡に対しその旨種々指示したが、とくに同四八年八月九日、同月一〇日、同年一〇月一二日、同四九年二月二八日の各行動表には松岡運転車が野見山を乗せて大手町へ行った旨の運行の記載がされ、これらは前記第一の三(一)、四(一)、七(一)のとおり野見山が同被告人の指示に基づいてLAAL東京事務所に赴いたことをあらわすものであったところから、同被告人は、本件現金受取の事実を捜査官に対して秘匿しようとの後記第五・一(四)のとおりの意図から、野見山の右行動も秘匿しようと企て、前記各日付の行動表を改ざんして右各大手町運行の記載自体を抹消するよう指示したこと、そこで松岡らは、同被告人の右指示に従い、行動表の改ざん作業に着手したが、行動表には、前記第三・三のとおり、各運行ごとの走行距離のほか、一日の走行距離の合計も記載されていたため、単にある運行の記載を抹消するだけの改ざんを行ったのでは、改ざん後の行動表の各運行ごとの走行距離の記載がその一日の走行距離合計欄の記載と整合しないこととなってしまう(なお、その一日の走行距離合計欄の記載は、毎日の始業時終業時各メーター指数の記載と対応するものであったから、同欄の記載を改変することは困難であったと認められる。)ことから、松岡らとしては、右野見山の大手町運行の記載を抹消するほかに、その日の行動表について、他に架空の運行を捏造して記載し、あるいは、他の既存の運行記載に関する走行距離の記載を改変するなどの操作をして、結局、改ざん後の各運行の走行距離の記載の合計が右一日の走行距離合計欄の記載と合致するようにする必要があったこと(松岡はその供述中でこの作業を距離合せと呼んでいる。)、そして(イ)同四八年八月九日の行動表中には、前記のとおり、行先欄に「竹橋~大手町」、走行距離欄に「 」、課名欄に「社長室」、使用者氏名欄に「野見山」(以下の運行記載については「竹橋~大手町、一キロメートル、社長室野見山」のように略記する。なお、「大手町」は大手町ビルディングをあらわすと認められる。)などとある運行記載とそれに引続く「大手町~竹橋、二キロメートル、社長室野見山」との運行記載があり、また「竹橋~本郷、四キロメートル、伊藤常務」、「本郷~竹橋、四キロメートル、伊藤常務」との運行記載もあったところ、松岡らは、同日の行動表を改ざんするに当り、右四か所の運行記載のほかの同日の運行記載は別の行動表用紙にそのまま移記したが、右野見山の竹橋~大手町往復の運行の記載は右用紙に記入せず、代りに「竹橋~新富町、三キロメートル、秘書使イ」、「新富町~竹橋、三キロメートル、秘書使イ」との架空の運行を記載し、また、(そのままでは各運行ごとの走行距離の記載の合計が一日あたりの走行距離合計の記載より多くなってしまうため、)さらに右竹橋~本郷往復の運行記載につき、走行距離を改変して、「竹橋~本郷、三キロメートル、伊藤常務」、「本郷~竹橋、二キロメートル、伊藤常務」と右用紙に記入し、このように距離合せをしながら同日の行動表の改ざんを遂げたこと、(ロ)同月一〇日の行動表中には、「車庫~沼袋、一一キロメートル、社長室野見山迎」、「沼袋~大手町、一五キロメートル、社長室野見山」、「大手町~竹橋、二キロメートル、社長室野見山」、「竹橋~富士見町、三キロメートル、伊藤常務迎」、「富士見町~竹橋、四キロメートル、伊藤常務」との運行記載があったところ、松岡らは、同日の行動表を改ざんするに当り、右五か所の運行記載のほかの同日の運行記載は別の行動表用紙にそのままひき移して記入した(ただし竹橋~一番町往復の運行記載について問題があることは後記3(1)のとおり)が、右五か所の運行記載はそのまま移記せず、代りに、「車庫~富士見町、一キロメートル、伊藤常務迎」、「富士見町~竹橋、三キロメートル、伊藤常務」、「竹橋~駒沢、一六キロメートル、総ム使イ」、「駒沢~竹橋、一五キロメートル、総ム使イ」と右用紙に記入し(右竹橋~駒沢往復の運行記載は全く架空の運行に関するものである)、このように距離合せをしながら同日の行動表の改ざんを遂げたこと、(ハ)同年一〇月一二日の行動表中には、「竹橋~大手町、一キロメートル、社長室野見山」、「大手町~竹橋、一キロメートル、社長室野見山」、「紀尾井町~竹橋、四キロメートル」、「竹橋~紀尾井町、四キロメートル、迎」との運行記載があったところ、松岡らは、同日の行動表を改ざんするに当り、右四か所の運行記載のほかの同日の運行記載は別の行動表用紙にそのまま移記したが、右野見山の竹橋~大手町往復の運行記載は右用紙に記入せず、代りに、右紀尾井町~竹橋往復の運行の走行距離を改変して、「紀尾井町~竹橋、五キロメートル」、「竹橋~紀尾井町、五キロメートル、迎」と記入し、このように距離合せをしながら、同日の行動表の改ざんを遂げたこと、(二)同四九年二月二八日の行動表中には、「富士見町~河田町、四キロメートル、伊藤常務」、「河田町~竹橋、五キロメートル、伊藤常務」、「竹橋~大手町、一キロメートル、社長室野見山」、「大手町~竹橋、二キロメートル、社長室野見山」との運行記載があったところ、松岡らは、同日の行動表を改ざんするに当り、右四か所の運行記載のほかの同日の運行記載は別の行動表用紙にそのまま移記したが、右野見山の竹橋~大手町往復の運行記載は右用紙には記入せず、代りに、「竹橋~飯田町、三キロメートル、伊藤常務」、「飯田町~竹橋、三キロメートル、伊藤常務」との架空の運行を記載し、また、(そのままでは各運行ごとの走行距離の記載の合計が一日あたりの走行距離合計の記載より多くなってしまうため、)右二か所の河田町運行の記載につき走行距離を改変して、「富士見町~河田町、三キロメートル、伊藤常務」、「河田町~竹橋、三キロメートル、伊藤常務」と記入し、このように距離合せをしながら、同日の行動表の改ざんを遂げたことの各事実を認めることができる。
右のような改ざんの指示やその作業内容等の各事実は、社有自動車行動表(甲再二41・甲二85)の記載とあいまっていうまでもなく、前記第一の三(一)、四(一)、七(一)の野見山、松岡の行動を裏付け、その認定の根拠となるものであり、また、右行動表中もとの記載が改変されていない部分は、(被告人伊藤や松岡の供述ともあいまち、)前記第一の三(二)、四(二)、六(二)、七(二)の伊藤、松岡の行動を認定するについて重要な根拠となるものであることは前記第三・三で示したとおりである。
ところで、弁護人は、種々の理由を挙げて、右行動表の改ざんの内容を争い、また、前記第一の認定事実は行動表の客観的記載内容と符合しないとするなど、同表をめぐって様々の主張を展開しているので、以下これらの点について順次判断を加えていく。
1 被告人田中、同榎本及び同大久保の各弁護人は、被告人伊藤が真実五億円の現金を被告人榎本に渡したというのなら、伊藤としては、松岡運転車で榎本に渡しに行った運行に関する行動表上の記載をこそ抹消することを先ず考えるはずであるのに、伊藤がその措置に出ず、野見山がクラッターのもとへ現金を取りに行った運行の記載の方のみを抹消させたというのは不自然であり、ロッキード社からの受取に関する記載についてのみ抹消の指示をし、榎本への引渡に関する記載は改変させなかった旨を述べる被告人伊藤の供述は信用できない旨論じ、このような事情は、仮りに同被告人がロッキード社から現金を受取った事実があるとしても、これを榎本に渡した事実はないことをうかがわせる旨主張するかのようである。
しかし、被告人伊藤は、この点に関し、検察官に対して、「私は、自動車行動表を書き直させる際、大手町に野見山が行った記載を消すことが先ず頭にあり、これに気をとられていたことと榎本とドッキングをした場所は仮にその地名が自動車行動表に載っていたとしてもその都度適当に決めただけだからその記載からすぐに怪しまれるということもないだろうと考え、その行先の地名については書き直させなかった記憶がある。」旨供述し(昭和五一年八月一二日付検察官面前調書)、また公判廷において、被告人田中、同榎本の弁護人から種々質問追及されても、右と同旨を供述し、この点一貫している。そして、同五一年三月ころ、被告人伊藤が行動表を見た際、野見山がピーナツ、ピーシズ領収証の日付の日或いはその翌日にLAAL東京事務所へ行ったことに関する行動表上の各記載が、その使用者氏名(「野見山」)や「大手町」という行先の記載に照らし、まず同被告人の注意をひいたことは極めて自然な成行であったと思われること、これに対して、伊藤が榎本に現金を引渡したとされるのは、前記第一の三(二)、四(二)、六(二)、七(二)のとおり、英国大使館裏路上(行動表上の表示は「一番町」)、伊藤の自宅近くの電話ボックス付近路上(伊藤方の行動表上の表示は「富士見町」)、ホテルオークラ(同ホテルの行動表上の表示は「葵町」)、伊藤の自宅という、それ自体、ロッキード社ないし田中、榎本ととくに関係のない場所であり、またその引渡の際、松岡運転車の本来の使用者である伊藤以外の者が同車を使用していたということもなく、要するに、榎本に対する引渡に関する運行の記載は、行動表上さしたる特徴のないものであったこと(ちなみに行動表上「一番町」、「富士見町」、「葵町」との行先が記載されている例は極めて多数ある。)等に鑑みると、被告人伊藤の右供述は自然で了解し得る内容のものとして十分信用できるというべきであり、各弁護人の前記主張は理由がないと認められる。
被告人田中、同榎本の弁護人は、また、松岡は甲再二41・甲二85の総枚数七一〇枚中八二枚もの多数を改ざんしているのであって、このような点に鑑みても、松岡が取調当時改ざん前の記載を記憶していたとは信じられず、改ざん前の行動表の記載内容について述べる同人の検察官面前供述は信用できない旨主張するが、松岡の右改ざん作業の大半は、単に行動表記載運行中の使用者の氏名を抹消して、「秘書使イ」と書きかえるなど、運行自体の改変を伴わないものであったのに対し、松岡が運行自体の改変を伴う改ざんを行ったのは、前記昭和四八年八月九日、同月一〇日、同年一〇月一二日、同四九年二月二八日の四日分の行動表及び同四八年四月二七日の行動表の合計五日分だけであり、また、松岡が、検察官に対し、改ざん前の行動表の記載を個別具体的に供述しているのも、この五日分についてであると認められるところ、このような運行自体の改変は、単なる使用者氏名の改変のみにとどまる場合に比して、前記のような距離合せを行う必要も生ずるなど、格段に複雑な操作をする必要があり、松岡にとっても印象の深いものであったことが容易にうかがえるのであって、その運行の際の情況の記憶ともあいまち、同人が右五日分の行動表の改ざん前の記載内容について相当程度の記憶を保持していたとしても、異とするには足りないのである。
2 昭和四八年八月九日、同月一〇日、同年一〇月一二日、同四九年二月二八日の各行動表の改ざんの前記のとおりの具体的内容については、松岡の同五一年七月二六、二七日付検察官面前調書(甲再一38)にその旨の詳細な供述が録取されているが、弁護人は、以下のとおり、松岡の右検察官面前供述の信用性を種々論難する。
(1) 昭和四八年八月九日の行動表の改ざんについて
(イ) 弁護人の主張の要点はつぎの各点である。
[1] 単に野見山の竹橋~大手町往復の運行記載を抹消し、かつ、走行距離に矛盾がないようにするだけなら、松岡が供述する前記のような面倒な操作をしないでも、竹橋~大手町往復の運行記載の代りに竹橋~丸の内往復の運行を記載しておけば足りたはずである。
[2] そもそも新富町往復六キロメートルと記載した根拠もおかしく、同四八年八月一三日の行動表(改ざんなし)では九キロメートル、同年五月四日(改ざんあり)の行動表では四キロメートルと記載されており、いずれの距離が真実か分らないだけでなく、同一場所の往復で距離が大幅に違った記載のなされていることが少なくない。したがって、松岡が「キロ合せ(距離合せ)だけで(改ざんした行動表の)もとの記載がどうであったかということは分りますか。」ときかれて、「距離だけですか。はっきりはちよっと分りかねますね。」と証言し、この八月九日の行動表の「もとの記載がどういう記載であったか分りませんか。」ときかれ、「それは分りません。」と証言しているとおりである。
(ロ) しかしながら、
[1] 先ず右(イ)[1]の主張について検討すると、松岡は、同四九年二月二八日の行動表の改ざん作業内容に関してではあるが、検察官に対し、「(野見山の大手町往復の運行を抹消する代りに)片道一・五キロ程度の行先をでっち上げれば苦労は少なかった訳だが、そのように近いものといえば丸ノ内位しかなく、伊藤は丸ノ内にはほとんど行かないので、(やむを得ず代りに距離の長い運行を入れた。)」旨の供述をしていることが認められ(前記検察官面前調書)、また、右供述は、他の証拠関係とも十分符合し、松岡が改ざん作業の際に考慮した内容として十分首肯し得ると認められるところ、右と同旨のことは本件の改ざん作業についても妥当すると考えられる。
[2] (イ)[2]の主張について。松岡は、取調の際、架空の新富町往復の運行を記入し、距離合せをしたことがあるという記憶のみによって同四八年八月九日の行動表を改ざんしたことについての記憶を喚起するに至ったものではなく、坪内検事の供述等によると、松岡は、取調中、架空の駒沢運行を捏造して行動表を改ざんしたという記憶があったことから、同月一〇日の行動表に右運行の記載があるのを見て、これは自分が改ざんしたものであると確認し、また、右駒沢運行の記載を使って改ざんした行動表の前日分の行動表にも野見山の大手町運行の記載が本来あったはずのところ、同月九日の行動表にはこれがないから、同日の行動表も自分が改ざんしたものである旨、記憶を喚起して確認するに至ったものであると認めることができる。したがって右(イ)[2]の主張は採用できない。ちなみに、行動表全体を検討すると、竹橋~新富町往復の走行距離は六キロメートルと記載されるのが通例であることが認められるのであって、改ざん作業の際右(架空)運行の走行距離を六キロメートルと記載した旨の松岡の検察官面前供述はその点で自然なものと評することができる。
(2) 同月一〇日の行動表の改ざんについて
(イ) 被告人田中、同榎本の弁護人は、「同日の行動表の一日あたりの待時間合計欄には四時間四五分と記載され、また各運行ごとの待時間欄には、竹橋~駒沢の運行について一〇分、竹橋~向島の運行について四時間三五分と記載されている。このうち、竹橋~駒沢の運行は架空のものであるが、一日あたりの待時間合計(四時間四五分)、竹橋~向島運行の待時間(四時間三五分)の各記載は改変されていないと考えられ、結局、改ざんの際抹消された各運行にかかる待時間の合計は両者の差である一〇分だけということになる。さらに、松岡の前記検察官面前調書によると、松岡は改ざん前の行動表の車庫~沼袋運行について五分の待時間を記載していたというのであるから、結局大手町へ行っていた際に関する待時間の記載はせいぜい五分であったということになる。ところが、松岡の検察官面前調書には、『野見山は三〇分くらい大手町ビルエレベーターホール前付近でぶらぶらしていた。』旨の供述記載があり、この供述部分が右行動表の記載と整合しないことは明らかであって、この点に関する証拠関係にはそごがある。」旨論じ、改ざんの状況や同日の野見山の行動に関する松岡の検察官面前供述は信用し得ない旨主張する。
(ロ) ところで、同日の行動表に、弁護人が指摘するような待時間の記載があることはたしかである。しかし、弁護人の右主張は、前記その一日の待時間合計(四時間四五分)の記載が改ざん作業の際も改変されていないものであることを前提とすることはいうまでもないところ、前掲関係証拠に照らすと、弁護人の右主張の前提は支持し得ず、行動表の右待時間合計欄の記載はむしろ改変された結果のものであると認めるのが相当である。
なるほど、松岡の検察官面前調書を検討しても、同人が右待時間合計欄の記載を改変した旨の積極的な供述をしているとは認められない。しかし、同人は、取調中、改ざん前の同日の行動表の記載内容に関する復元表を作成して検察官に提出し、同表は同五一年七月二六、二七日付検察官面前調書に添付されているところ、松岡は、同表に沼袋~大手町運行を記載するとともにその待時間欄には「?」と記入し、また同表の待時間合計欄についてはこれを空欄のままにしておいたことが認められる(なお、車庫~沼袋〔前記のとおり、これは改ざんの際抹消された運行である。〕、竹橋~向島各運行の待時間については、それぞれ五分、四時間三五分と復元表に記入した。)。このような点に鑑みると、同人は取調当時改ざん後の行動表の待時間合計欄の記載を真実のものとは考えていなかったことが明らかに認められるのであり、改ざん後の待時間合計欄の記載は松岡らの改ざん作業により改変された結果のものであると推認することができる。ことに、右沼袋~大手町運行の記載は改ざんの際抹消されたものなのであるから、松岡が、改ざん作業の際、右運行に関する待時間の記載がかなり長時間あるのを見て、これをそのまま他の運行の分にひき移さず、そこで全体としての待時間に変更を加えることとしたと十分合理的に考えることができるのである。
松岡の前記検察官面前調書には、「同日(すなわち、同四八年八月一〇日)の自動車行動表の内、その後一番町へ行った以降の分については行先も時刻も本来のものをそのまま書き写しており、改ざんはしていない。」との供述記載があるが、右供述は、待時間合計欄の改変については何ら触れるものではない。また、松岡は、公判廷で、この点を指摘され、改ざん前の行動表の記載についての記憶が明らかでないとの趣旨を供述するが、待時間合計欄の記載を改変したことを否定する趣旨の供述はしていない。弁護人は、「松岡は、復元表を作成した際、改ざん作業で改変された記載部分はこれを赤枠で囲って指示しているところ、待時間の記載は赤枠で囲まれていないから、待時間の記載(待時間合計欄の記載も含む)は改ざんの際も改変されなかったと認めるべきである。」旨主張するかのようであるが、松岡が復元表の記載中改ざんの際に改変されたすべての部分を赤枠で囲ったものでないことは、右復元表の記載自体や坪内検事の供述によって明らかである。
なお、被告人田中、同榎本の弁護人は、同日の行動表や前記復元表中の各運行ごとの走行距離の記載の合計と一日あたりの走行距離合計の記載との間には不突合があるところ、このような点について松岡の検察官面前調書に何の説明もされていないのは不自然であるとの趣旨を主張するが、たしかに、同日の行動表及び復元表における各運行ごとの走行距離の記載の合計はいずれも六五キロメートル(弁護人は、復元表の各走行距離の記載の合計は七〇キロメートルとも解されるとも主張するが、妥当でない。)、その一日の走行距離合計欄の記載はいずれも六七キロメートルであって、整合しないこと、この点について松岡の検察官面前供述中にとくに触れているところはないこと等は明らかであるものの、そうであるからといって、改ざんに関する松岡の検察官面前供述の信用性に疑問を容れる余地が生ずるとはいえず、松岡の一般的改ざん状況の内容等にも鑑みると、右の不整合は改ざん前の行動表にすでに存在していたと推認するのが相当であるから、弁護人の右指摘も改ざんに関する前記事実認定を左右するに足りるものとは認められない。
(3) 同年一〇月一二日の行動表の改ざんについて
(イ) 被告人田中、同榎本の弁護人の主張の要点はつぎのとおりである。
[1] 行動表上竹橋~紀尾井町運行の走行距離は必ずしも四キロメートルと記載されていたわけではない(松岡の前記検察官面前調書添付の同四八年一〇月一二日行動表復元表に、松岡は「竹橋~紀尾井町はいつも4kmと書いていた。」と記載しているが、右記載は事実に反する。)。
[2] 行動表上、竹橋~大手町運行の走行距離の記載はまちまちであって、往復とも各一キロメートルと記載されている例はむしろ少ない。
このように、距離合せにも確固不動の基準があったものではないことが知られるのであって、本件改ざんに関する松岡の検察官面前供述は、検察官が何の合理性もなく、ピーシズ領収証の日付と合わせて、行動表に記載のない大手町往復を作出して松岡に押付けたものであるにすぎない。
(ロ) しかし、松岡は紀尾井町~竹橋運行の走行距離の記載などの距離合せの点のみを根拠にして同日の行動表の改ざん内容の記憶を喚起したのではなく、坪内検事の供述等によると、取調当時、松岡は、被告人伊藤を自宅まで送り届け、その際段ボール箱を他の自動車に引渡したことがあったこと、それからさらにホテルニューオータニ(行動表の表示は「紀尾井町」)へ行ったこと等について記憶を喚起し、その後坪内検事に行動表の綴りを示され、同日分の行動表の記載を見て、右のようなことがあったのはこの日のことであったことを確認し、さらに、この日、伊藤が自宅に帰る前、野見山が松岡運転車で大手町ビルディングへ行って段ボール箱を受取ってきたこと(松岡は、野見山の右行動自体については、行動表を示される前、すでに記憶を喚起していた。)、そしてこの点に関する運行記載を抹消して同日の行動表を改ざんしたことについて記憶を喚起するに至ったと認められるのであって、弁護人の右(イ)の主張は採用し得ない。
また、行動表全体を仔細に検討すると、たしかに竹橋~紀尾井町運行の走行距離の記載は必ずしも四キロメートルで統一されていたわけでないことは認められるが、同表中にあらわれている竹橋~紀尾井町運行の記載の大半につきその走行距離が四キロメートルと記載されていることが明らかに認められるのであって、同日の行動表の走行距離の記載が通常の例と異なっていることは認めることができ、この点が同日付行動表の改ざん内容に関する松岡の記憶喚起の一因となったとしても、何ら異とするには足りないと認められる(なお、松岡が右復元表中に「竹橋~紀尾井町はいつも4kmと書いていた。」旨記載していることは認められるが、松岡がこのような説明を記載した趣旨も、右の運行については例外なく走行距離四キロメートルと行動表に記載していたとの意味までも含むものではなく、要するに通常はそのように書いていたとの趣旨であったことは、松岡及び坪内検事の公判廷における各供述によって明らかである。)。また、弁護人の指摘する右(イ)[2]の点についてみると、たしかに、行動表全体を通覧すると、竹橋~大手町運行について往復とも走行距離各一キロメートルと記載されている例が比較的少ないことは認められるが、松岡は、この点について、検察官に対し、「私の記憶では、この大手町往復は行きも帰りも走行距離一キロと記載してあったように思う。大手町ビルに行く際はいつも外堀通りを通って同ビルの南側出入口に行くというルートを通っており、距離は一キロと書いている。帰りについては、大手町ビルの北側の通りを通って外堀通りに出て戻る時は一キロと書くが、この通りは混んでいたり、左折しにくいことが多く、そのような場合は鎌倉橋交差点まで行って左折して戻ることにしている。このルートの場合は帰りが二キロになる。」(昭和五一年七月二六、二七日付検察官面前調書)旨具体的根拠を交えて供述しているところ、右供述は、その内容も明確であって十分信用し得ると認められるから、右弁護人指摘の点も松岡の改ざん内容に関する検察官面前供述の信用性を疑わせるに足りるものではないことが明らかである。
(4) 同四九年二月二八日の行動表の改ざんについて
(イ) 被告人田中、同榎本の弁護人の主張の要点はつぎのとおりである。
[1] 行動表上、富士見町~河田町運行の走行距離は必ずしも四キロメートルと記載されていたのではなく、また河田町~竹橋運行の走行距離も必ずしも五キロメートルと記載されていたのではない(松岡の前記検察官面前調書添付の同四九年二月二八日付行動表の復元表に、松岡は、「富士見町~河田町はいつも4kmと書いている。」、「河田町~竹橋はいつも5kmと書いている。」と記載しているが、右各記載は事実に反する。)から、同日の行動表の富士見町~河田町、河田町~竹橋の各運行の走行距離の記載(いずれも三キロメートルとある)が改変されたものであるかどうかはこの行動表を見ても分らないはずであり、松岡が正常な記憶喚起の過程を経て前記のような改ざんの内容に関する供述をするに至ったとは考え難い。
[2] 行動表上、竹橋~飯田町運行の走行距離は必ずしも三キロメートルと記載されていたのではなく、それよりも短い記載例もあるのであるから、これを当然のように三キロメートルと記載したとする松岡の検察官面前供述には根拠がない。
(ロ)[1] しかし、行動表全体を仔細に検討すると、同表中にあらわされている富士見町~河田町運行の記載の大半につきその走行距離が四キロメートルと記載されていること、河田町~竹橋運行の記載についてもこの同四九年二月二八日のもの以外はすべて走行距離として五キロメートル以上の数字が記載され(五キロメートルとする例が多い。)、三キロメートルと記載してある例は同日分以外には見出されず、同日の行動表の記載はこの点で極めて異例であることが明らかである。そして、松岡は、取調の際、同日の行動表を示される前、すでに行動表中の野見山の竹橋~大手町運行の記載を抹消して、代りに架空の竹橋~飯田町往復の運行を記入して行動表を改ざんしたことがあることについて記憶を喚起していたと認められる(坪内供述)こと、取調の際、松岡は、同日の行動表を見て、これが改ざんされたものであることをその用紙の印刷状況等から先ず確認したと認められる(坪内供述)こと、同日の行動表には前記のとおり竹橋~飯田町往復の運行が記載されていることの諸点に加え、同日の行動表中の富士見町~河田町、河田町~竹橋の各運行の走行距離の記載が前記のとおり極めて異例なものであることをも合わせて考慮すると、松岡が取調中、同日の行動表を見て、前記のとおりの右行動表の改ざんに関する記憶を喚起したと認めるについて何ら不自然な点はないというべきであって、弁護人の(イ)[1]の主張は失当である。
[2] また、行動表全体を仔細に検討すると、竹橋~飯田町運行の走行距離は三キロメートルと記載されている例が圧倒的に多いと認められるのであって、松岡がこれを原則として三キロメートルと記載すべきものと認識していたことが推認できるから、弁護人の(イ)[2]の指摘にも賛同し難い。
3 また、被告人田中、同榎本の弁護人は、現金授受に関する関係者の供述が自動車行動表の非改変部分の客観的記載と符合しないなどとして、その供述の信用性を争う主張をするので、以下にはこれらの点について検討を加える。
(1)(イ) 昭和四八年八月一〇日の自動車行動表には、出発時刻「一四時一〇分」、到着時刻「一四時二〇分」、行先「竹橋~一番町」との運行と、それに引続いて、出発時刻「一四時二〇分」、到着時刻「一四時三〇分」、行先「一番町~竹橋」との運行が記載されているところ、松岡(ただし検察官面前供述のみ)及び被告人伊藤は、右各記載は、前記第一・三(二)のとおり、同被告人が松岡運転車で英国大使館裏に赴いた運行に関するものであり、その際、同所で、現金一億円の入った段ボール箱(ただし、松岡は段ボール箱の内容物について認識を有しなかった。)を被告人榎本に引渡した旨供述していることは前記第三・三(一)で示したとおりである。
これに対し、被告人田中、同榎本の弁護人は、「同日の自動車行動表中、前記竹橋~一番町、一番町~竹橋各運行の記載部分は改ざんの際にも改変されなかったと認められる。そして、行動表上、竹橋~一番町、一番町~竹橋運行の課名、使用者氏名欄はいずれも空欄であり、また、往復欄を見ると、竹橋~一番町運行に関しては『復』の欄に『1』(数字は運転者以外の乗車人員の数を示す)と記載され、一番町~竹橋運行に関しては『往』、『復』とも空欄となっているが、前述したところに照らすと、右の各記載はいずれも改ざん前の記載がそのままひき移されたものであると認められるところ、真実被告人伊藤がこの日時に丸紅東京本社と一番町との間を往復したとするなら、行動表上このような記載がされるはずはなく(右両運行とも、使用者氏名欄には『伊藤常務』と記載されるはずであり、また、往復欄については、竹橋~一番町運行の『往』欄に『1』と、一番町~竹橋運行の『復』欄に『1』と記載されるはずである。)、ひいて前記の趣旨の松岡検察官面前供述や被告人伊藤の供述には信用性がない。」旨主張する。
(ロ) しかしながら、弁護人の主張は、行動表の竹橋~一番町、一番町~竹橋の各運行の使用者氏名欄や往復欄の記載が改ざん前の記載内容のまま正確であることを前提とするところ、元来同日の行動表は改ざん作業の対象となったものであって、被告人伊藤から改変するよう指示されなかった運行部分も、松岡によってもとの行動表から別の用紙に移記されたのであるから、細かな点についてまで逐一もとの記載どおりに移記されたかどうかについては疑問を容れる余地ある筋合であること、同日の行動表には、前記のとおり、本来往路にあたる竹橋~一番町運行について「復」欄に「1」と記載され、他方復路にあたる一番町~竹橋運行の往復欄は空欄とされており、必ずしも移記が正確に行われていないことを示していること、前記2(2)(ロ)のとおり、松岡は取調中同日の行動表の復元表を作成したが、その際、同人は、竹橋~一番町、一番町~竹橋の両運行の各使用者氏名欄に「伊藤常務」、竹橋~一番町運行の「往」欄に「1」、一番町~竹橋運行の「復」欄に「1」と、それぞれ記入しているのであって、松岡自身行動表中の改ざん後の右使用者氏名、往復の記載を正確なものとは考えていなかったと認められること(復元表中、右使用者氏名、往復の記載が赤枠で囲まれていない点は、前記2(2)(ロ)で説明したのと同じ理由により、とくに異とすべきではない。)等の諸点に照らすと、弁護人の(イ)の主張にはその前提において採用し難いものがあると認められる。結局、同日の本来の行動表については、松岡が復元表に記載したとおりの記載があった(松岡が記憶がないとして、復元し得なかった部分を除く)が、同人が、行動表の改ざん作業の際、前記竹橋~一番町、一番町~竹橋各運行の使用者氏名の記載を書き落した(往復欄については書き誤った)ものと認めるのが相当である。
(ハ) 被告人田中、同榎本の弁護人は、右(イ)の主張を前提として、同日の行動表の竹橋~一番町、一番町~竹橋の各運行の記載は、被告人伊藤以外の丸紅の者が松岡運転車で一番町に行ったことのみ或いは一番町から帰ったことのみをあらわす旨主張する。
しかし、右の主張は、前記(イ)のとおり、同日の行動表の右各運行の使用者氏名欄に「伊藤常務」の記載がなく、空欄のままになっていること、右一番町往復の運行については片道にだけ乗車人員一名の記載があり、他方には乗車人員の記載がないことを根拠とし、右各記載が正確であること(改ざん前の行動表にも同じ記載がされていたこと)を前提とするものであるところ、右各記載の部分についてはその正確性が認め難いことは前記(ロ)で説明したとおりである。
のみならず、松岡は、公判廷で、行動表上「一番町」との表示をした行先として考えられるのは、村上開新堂、クラブ関東、千代田区役所の出張所、ダイヤモンドホテルであると供述するのであるが、
[1] 村上寿美子の公判廷における供述、一九七三年版予定表(甲二173)によると、昭和四八年八月六日から同月二〇日までの間、村上開新堂は夏期休暇のため閉店していたことが明らかであり、右期間中の同月一〇日に同店を丸紅の者が訪れることはなかったと認められる。
[2] 林龍男・牧田澄雄・遠藤信夫・小松信通・森久弥の公判廷における各供述、会員別使用台帳一枚(丸紅分〔甲二175〕)、会員別使用台帳四綴(甲二176)、ダイアリー(甲二177)によると、クラブ関東は、法人を会員とする親睦団体であって、東京都千代田区一番町に会館を置き、会員の関係者の会合の使用に供しているところ、同会館の使用には予約制がとられ、予約にかかる会合の関係者以外の者がいわゆる飛込で立寄ることはほとんどないこと、同日右会館で丸紅関係者が出席した会合はなかったことが認められ、右に照らすと、同日丸紅の者がクラブ関東に赴いた(又は同クラブから帰った〔なお、松岡は、被告人伊藤以外の者をクラブ関東へ迎えに行ったことはない旨供述している。〕)可能性はほとんどないといえる。
[3] 次に松岡運転車が、同日千代田区役所の出張所に行った可能性があるかどうかをみるに、同所へ赴いた際の状況として、松岡は、同所へ女子社員を乗せて行き、そのまま乗せて帰った旨供述しているのであって、これが弁護人の主張する前記の運行状況と異なることは明らかである。
[4] また、ダイヤモンドホテルについては、松岡の公判廷供述によると、被告人伊藤を乗せて運転していた途中たまたま同ホテルに立寄ったことが一回あるというのにすぎないのであるから、これまた弁護人の主張する状況とは異なることが明らかである。
[5] 弁護人は、松岡自身が忘れている行動がないとは限らないし、松岡が一番町のその他の場所へ行ったことも考えられる旨主張するが、松岡が、被告人伊藤を乗せず、右四か所以外の一番町所在の場所へ赴いたことがあることをうかがわせる事情は何ら認められず、このような主張はさしたる根拠のない臆測というほかない。
以上の諸点を総合すると、弁護人の右主張も採用し難いというほかはない。
(2)(イ) 同年一〇月一二日の自動車行動表には、出発時刻「一四時一〇分」、到着時刻「一四時二五分」、行先「竹橋~富士見町」、使用者氏名「伊藤常務」、往「1」との運行と、それに引続いて、出発時刻「一四時二五分」、到着時刻「一四時四〇分」、行先「富士見町~竹橋」(使用者氏名、往復の各欄は空白)との運行が記載されている(右各記載は改変されていないと認められる。)ところ、松岡及び被告人伊藤は、捜査段階において、右の記載は、前記第一・四(二)、第三・三(二)のとおり、同被告人が結婚式に出席する準備をするため松岡運転車で自宅に帰り、その後松岡が空車で丸紅東京本社に戻った運行に関するものであり、その際伊藤方近くの電話ボックス付近路上で現金一億五、〇〇〇万円の入った段ボール箱を松岡が被告人榎本に対して引渡した(もっとも、伊藤は右授受の現場には立会わず、また松岡は右段ボール箱の内容物についての認識を有しなかった。)旨供述している。
これに対し、被告人田中、同榎本の弁護人は、「松岡の検察官面前調書には、松岡が電話ボックスの横に自動車を停め、自動車をおりて待っていると、相手の自動車が来て段ボール箱の授受が行われ、その後相手の自動車が早稲田通りに出、交差点を曲って走っていった状況まで記載されており、これからして何分か何十分かの間松岡がその場にいたことが明らかである。それにもかかわらず、同日の行動表上松岡運転車が富士見町で待っていた旨の待時間の記載がないのは不合理であり、右行動表の記載は松岡、被告人伊藤の前記各供述に整合しないことが明らかであって、右供述には信用性がない。」旨主張する(昭和五三年七月一九日付意見書等)。
(ロ) しかしながら、松岡が何分か何十分かの間電話ボックス付近にいたことになる旨の弁護人の右主張には特段の根拠がない。被告人伊藤の検察官面前及び公判廷各供述と榎本の検察官面前供述がいずれも示すように、両者は引渡の時刻を打合わせていたと認められるのであるから、両者とも右打合せ時刻に丁度授受を行えるように行動したと推認することは十分可能である。したがって、松岡が右引渡場所に着いてから被告人榎本と落ち合うまでさして時間はかからなかったと考えても無理はないのであり、また、段ボール箱の引渡自体は極めて短時間で可能である。
(3)(イ) 同四九年二月二八日の自動車行動表には、同日の最終運行(空車で車庫に帰る運行は除外した場合の最終の運行の意。以下(3)の項において同じ。)として、出発時刻「一九時三〇分」、行先「赤坂~富士見町」、使用者氏名「伊藤常務」、復「1」との運行の記載があるところ、右運行記載は改ざんの際にも改変されていないと認められ、なお、同表上富士見町における待時間の記載はない。そして、被告人伊藤及び松岡(ただし、同人については検察官面前供述のみ)は、右記載は、前記第一・七(二)のとおり、同被告人が松岡運転車で帰宅した運行に関するものであり、その際松岡が右自動車から現金一億二、五〇〇万円の入った段ボール箱を伊藤の自宅に運び込んだ(もっとも松岡は右段ボール箱の内容物についての認識を有しなかった。)旨供述している(前記第三・三(四)参照)。これに対し、被告人田中、同榎本の弁護人は、「同日午後七時三〇分ころに松岡が現金の入った段ボール箱を真実被告人伊藤の自宅に運び込んだとするなら、五分程度の待時間が行動表に記載されていなければならないはずであるが、同日の行動表にはその記載がない。このことは右のような運び込みの事実がなかったことをうかがわせるものであり、右運び込みの事実について供述する松岡検察官面前供述及び被告人伊藤の供述には信用性がない。」旨主張する。
(ロ) しかしながら、本件で段ボール箱の運び込みに五分間程度は要したはずである旨の右主張もさしたる根拠がないのみならず、本件のように、松岡運転車が一日の最終運行の際に被告人伊藤を自宅に送り込むとき、荷物をも同被告人方に運び込んだため、仮りに同所で若干の時間を要したとしても、それは通例行動表に待時間として記載されるものとは性格を異にすると解される。すなわち、行動表全体を点検しても、松岡運転車が一日の最終に被告人伊藤方へ赴いた際の運行について待時間が記載されている例は同五〇年三月一五日のほかは皆無であり、また右の日付の行動表記載の当該の運行は、松岡が空車で同被告人方に赴いた際のもので、伊藤が乗車していない特殊の運行に関するものであることが認められる。松岡は、段ボール箱を含め、いろいろな荷物を運んでいたと認められ(松岡の公判廷供述)一日の最終の運行で伊藤方に赴いた際にもそのようないろいろの荷物の運び込みをしたと推認されるのに、このような運行について待時間が記載されている例が特殊の例である前記の一例を除いて皆無であることに鑑みると、かかる荷物の運び込みに若干の時間を要したとしても、行動表には待時間として記載しないのが通例であったことがうかがわれる。結局弁護人の右(イ)の主張も採用することはできない。
(三) 被告人田中、同榎本の弁護人は、昭和四八年八月九日及び同月一〇日、クラッターはLAAL東京事務所に出勤していなかった旨主張するところ、クラッターの専用自動車の運転手である福岡清治作成の自動車行動表によると、同月九日から同月一六日まで、福岡運転車は運行の用に供されていなかったと認められるのであって、この間福岡は休暇をとっていたのではないかとうかがうことができる。弁護人は、この点を根拠とし、福岡はクラッターの休暇に合わせて休暇をとったはずであるから、この期間中クラッターは出勤していなかったと推認できるとして、右のように主張するのであるが、書面の性質、記載形式等から正確性を十分肯認することができるロッキード社の出勤簿(甲再二73・甲二214)によると、クラッターは同月九日、一〇日の両日LAAL東京事務所に出勤していたことが明らかであって、弁護人の右主張は理由がない。
(四) 被告人田中、同榎本の弁護人は、クラッター作成の手帳(甲四40〔抄本〕)に、前記第一・四(一)の昭和四八年一〇月一二日における一億五、〇〇〇万円の交付の記載がない点を取上げ、本件の事実認定を争うが、前記一(一)5で説明したのと同じ理由により、右の主張も採用しない。
(五) 被告人伊藤の昭和五一年八月一二日付検察官面前調書には、同被告人が、被告人榎本に対する本件四回の現金の引渡後、いずれも被告人檜山に対し、その旨報告した旨の供述が録取されているが、弁護人は、右供述部分を争い、この点をひいて被告人伊藤の検察官面前供述の信用性を争う一理由として主張している。
たしかに、右検察官面前調書には、同四八年八月一〇日に第一回目の一億円の現金の引渡を了した後、この日か翌日ころには被告人伊藤が社長室で被告人檜山に対しその旨報告したとの供述が録取されているところ、丸紅秘書日誌(弁216)によると、檜山は同月九日から同月一三日まで熱海で静養中であったと認められるから、右検察官面前供述中前記の日時に前記の場所で報告したとの点はそのままには信用し得ないと認められる。また、右検察官面前調書中には、同年一〇月一二日に第二回目の一億五、〇〇〇万円の現金の引渡を了した後のこととして、「一〇月一二日は金曜日でこの日私は結婚式後自宅へ帰り、社へ出ていないから、檜山に対する報告は週末明けの月曜(同月一五日)か火曜(同月一六日)にしているはずである。前回同様社長室で報告した。」旨の供述が録取されているが、このころ丸紅はいまだ週休二日制を採用していなかった(被告人伊藤公判廷供述)から同月一三日(土曜)に報告しなかったことを当然の前提とする右供述部分には疑問を容れる余地もあるうえ、丸紅秘書日誌(弁217)によると、檜山は同月一四日から同月一七日まで韓国に出張していたことが認められるから、右検察官面前供述中前記の日時に前記の場所で報告したとの点もそのままには信用することはできないと認められる。
このように、報告の日時、場所等の詳細な点については被告人伊藤の検察官面前供述にそのまま信用し得ないところもあることはたしかであるが、この点はいまだ報告の事実自体に関する同被告人の供述の信用性をも左右するには足りないと認められる。ことに、右報告に関する同被告人の供述内容はその供述にかかる報告の経緯、状況において極めて自然なものと認められること、被告人檜山も、検察官に対し、「伊藤からの報告では何回かに分けて支払っているようで、最初の報告では一億円渡したと言われたか、一部を渡したと言われたかははっきり覚えていないが、第一回目の分としてこれこれを渡したと言われたことだけは耳底に残っている。」、「大久保や伊藤から、いつ何回にわたって田中に金を渡したことについて報告を受けたかたしかな記憶はないが、ともかく何回かその報告を受けたことだけは間違いない。ともかく、伊藤らから田中に金を届けたことを聞いたのは昭和四八年八月ごろだが、それから半年位経った昭和四九年三月ごろには五億円全額片付いたなと思った記憶が残っているので、それまでに報告を受けていたことは間違いない。」(同五一年八月一〇日付検察官面前調書〔甲再一77・乙15〕)旨、被告人伊藤の右供述と符合する供述をしている(なお、被告人檜山は、公判廷においても、極めてあいまいな表現でではあるが、本件金員の交付がされていた時期に、右のような報告を受けたことがあること自体は肯定する趣旨の供述をしている。)ことをもあわせ考えると、各回の現金引渡後間もないころに伊藤が檜山に対しその旨報告したとの内容に関しては、被告人伊藤の検察官面前供述を十分信用することができると認められる(同被告人は、公判廷では、檜山に対して報告した記憶はない旨供述するが、前記第二・一で説明したところに照らし、右供述はたやすく信用し得ない。)。
(六) 被告人田中、同榎本の弁護人は、本件四通のピーナツ、ピーシズ領収証のほかにも、被告人伊藤の署名した領収証があることがうかがわれるから、右四通の領収証の日付は本件現金授受の日の特定の根拠とはならない旨主張する。
1 弁護人は、右主張の根拠として、先ず、佐藤文生作成の「ロッキード問題に関する米国における調査報告」と題する書面(弁44)にレビンソン米国上院外交委員会多国籍企業小委員会法律顧問が、「(未発表の領収証は)何枚ぐらいあるのか。」との矢田部理議員の質問に対し、親指と人差指の間に約三センチメートルのすきまをつくって、「これだけはある。」と答えた旨の記載があることを指摘する。
しかし、右の問答自体及びそれのなされた脈絡を検討するに、同書面には、右の問答に引続き、佐藤文生議員が「伊藤のレシートは前に発表した以外のものも入っているのか。」ときき、レビンソン顧問が「調べてみないと分らない。」と答えている問答が記載されており、弁護人指摘の問答が伊藤作成の領収証の問題に限定してなされているものではないことをうかがわせるものがあるから、この問答は全く弁護人の主張の根拠とはなり得ない。
2 弁護人は、被告人大久保が、いわゆるロッキード事件に関する米国の事情を調査するため渡米中の昭和五一年二月七日、東京にいる被告人伊藤と電話で話した際、当時すでに四通とも公表されるに至っていたピーナツ、ピーシズ領収証のことについて話が及んだところ、その時伊藤は、自分でも何枚領収証を出したか記憶がなかったのではないかと思うが、私のあれはこれでおしまいでしょうな、そのほかにもうないだろうか、というようなことを言っていた旨公判廷で供述していること(なお後記第五・一(五)参照)を指摘し、このような被告人伊藤の言動は同被告人が本件四通の領収証のほかにも同様の領収証を発行していたことをうかがわせるものである旨主張する。
たしかに、被告人大久保の供述によると被告人伊藤が右のような発言をしたことは認められるが、被告人大久保は、伊藤から右のように尋ねられて、前記一(一)2のとおり本件授受当時大久保が備忘のためクラッターから本件授受の連絡を受けた日付等を記載していたメモのことを話し、そのメモを見ながら、「(右メモによれば)四枚しかないから、これでおしまいですよ。」と答えたというのであって、また、この点に関する話はそれで終った(つぎに、そのメモを破棄すべきであるという話に移った。)ことがその供述からもうかがわれるのである。この経緯と、なお、当時はピーナツ、ピーシズ領収証四通全部が米国上院チャーチ委員会から公表された直後のころであって(公表の経緯についても、後記第五・一(一)ないし(五)参照)、伊藤としても自分が発行した領収証が正確に四通だけであるのかどうか当時十分記憶を喚起し得ていなかったとしてもとくに異とするには当らないと認められることにも鑑み、右の点も弁護人の前記主張を裏付けるに足りるものとは認め難い。
3 弁護人は、また、「甲再一45ないし49・甲一74ないし78及び甲再一21・甲一157副証33のシグ・カタヤマ作成の領収証の作成日付と金額は、一九七三年五月二五日・六、〇〇〇万円、同年七月一六日・一億円、同年八月七日・五、〇〇〇万円、同月一四日・一億円、一九七四年一月二五日・一億二、五〇〇万円、同年二月一八日・一億二、五〇〇万円となっており、本件ピーナツ、ピーシズ領収証とは、日付も金額も明らかに異なっている。しかも、カタヤマの供述によると、同人の作成した領収証は右のほかにもあるというのであり、結局、その領収証と対比した場合、いつ、いくらがロッキード社から支払われたのか、全く分らない、というのが実情である。これらの領収証は、シグ・カタヤマの証言によると、ロッキード社とID社との間でロッキード社の会計処理上必要なものとして作成されたといわれる。すなわち、ロッキード社としては、伊藤領収証のような暗号領収証では、同社と丸紅との簿外の金銭授受に関する会計処理ができないため、シグ・カタヤマの領収証を入手したといわれる。そうなれば、シグ・カタヤマの領収証の方が、右金銭授受の日付及び金額において、事実をあらわしているのではないかとも考えられる。したがって、なぜ伊藤領収証がシグ・カタヤマ領収証と異なっているのか、他にもあるのではないかとの疑問が払拭されない。」旨主張する。
ところで、ロッキード社のアルバート・H・エリオットは、昭和四九年及び同五〇年にシグ・カタヤマとともにカタヤマの経営するID社とロッキード社とのコンサルタント契約書を作成し、同四九年に同コンサルタント契約に基づく報酬の支払に関するものとして、カタヤマ名義の領収証を徴したと認められる(なお、この領収証が甲再一45ないし49・甲一74ないし78、甲再一21・甲一157副証33の各原本のほかにも存在すると認められることは弁護人主張のとおり)のであるが、関係証拠によると、右契約書及び領収証はいずれも実体のないものであって、エリオットがそのような措置に出たのは、ロッキード社の会計処理上、同社の種々の支出中正規の証憑書類の裏付のないもの(本件五億円の支出や前記第一章第二節第二・一(二)の三〇ユニット、九〇ユニット領収証にかかる合計一億二、〇〇〇万円の支出もこれに当るが、右六億二、〇〇〇万円に限られると認める根拠のないことは後記のとおり。)につき、ID社に対する報酬として支払ったかのような形式を整えて、要するに辻つまを合わせようとしたにすぎず、ID社とロッキード社との間に右コンサルタント契約書記載のような契約が実際に締結されたことはなく、同契約に基づく報酬が実際に支払われたこともなかった(ただし、ロッキード社からカタヤマに対し、右虚偽の契約書、領収証の作成に対する報酬として、七万二、一五二ドル五一セントが支払われた。)のであって、同人作成の領収証も右架空の報酬支払に対応するものであるから、その作成日付もいわば適当に記載されたにすぎず、もとの支出が真実なされた日(例えば、本件五億円支出の日)と合致せしめる必要などは全く存しなかったことが認められる。また、カタヤマ作成領収証は、本件五億円の支出のみならず、前記ユニット領収証関係の支出等のその他の支出にも対応し(現にクラッター作成の前記特別勘定中には、その他の支出についても、ID社の領収証〔カタヤマ作成領収証〕が対応することを意味する「IDC」との記載がされている箇所がある。また、コーチャンは、ID社の領収証はコーチャンに対する嘱託証人尋問調書四巻〔弁687〕副証25に記載されているような支出に対応するものと理解している旨供述するところ、右副証25には、本件五億円のほか、前記ユニット領収証関係一億二、〇〇〇万円その他の支出の記載もあることが明らかである。)、決して被告人伊藤作成の領収証関係の支出とのみ対応関係にあるものではないことも明らかである。
すなわち、カタヤマ作成領収証の作成日付、金額が本件ピーナツ、ピーシズ領収証のそれと符合しないからといって、そのことが、被告人伊藤作成の右同様の領収証が他にも存在することを推認させる根拠となるものでは全くないことは明らかというべく、弁護人の右主張は採用しない。
4 弁護人は、「米国コロンビア特別区連邦地方裁判所に係属した米国対ロッキード・コーポレーションの刑事訴訟において、司法省検事モリス・シルバースタインが署名して提出した証明申出書(Offer of Proof、弁護人の訳によると『証拠提示書』)には、『ヒロシ・イトーの署名があるタイプで打った次の領収証がある。』とある。それによると、その各領収証の作成日付、符牒は、(1)一九七三年八月八日、一〇〇ピーナツ、(2)同年一〇月一三日、一五〇ピーシズ、(3)一九七四年一月三一日、一二五ピーシズ、(4)同年二月二八日、一二五ピーシズとなっているから、右(4)を除き、右(1)ないし(3)の領収証は明らかに本件ピーナツ、ピーシズ領収証と異なっている。検察官は、右(1)ないし(3)の領収証の日付は誤記である旨主張するが、司法省検事が訴訟において正式に提出した文書に、四つのうち三つも誤記があるとは考えられない。」とも主張する。
右弁護人主張の事項に関する証拠はいずれもコーチャン・クラッターの証言の信用性に関する立証事項に限定して自由な証明証拠として採用されたものであるが、右証明申出書(弁699)に弁護人が主張するような前記のとおりの記載がある反面、右文書の作成者である前記シルバースタイン自身、東京地方検察庁検事正検事江幡修三に対する書簡(弁701)中において、「われわれは貴殿に証明申出書に記載された四枚の領収証の日付に関する情報は不正確であることを通知する。領収証自身に示されている領収証の正しい日付は、一九七三年八月九日(一〇〇ピーナツ)、一九七三年一〇月一二日(一五〇ピーシズ)、一九七四年一月二一日(一二五ピーシズ)、一九七四年二月二八日(一二五ピーシズ)である。われわれは、ロッキード社が伊藤に支払った金についての日付が、伊藤の領収証に示された日以外の日であることを示すような証拠は持っていない。」旨述べているのであるから、証明申出書の右記載は正確でないことが認められ、弁護人指摘の点も、本件ピーナツ、ピーシズ領収証同様の被告人伊藤作成の領収証が他にもあることを疑わせるに足りるものではないといわなければならない。
5 その他、本件各証拠を吟味しても、被告人伊藤の署名した本件ピーナツ、ピーシズ領収証同様の領収証がほかにもあることをうかがわせる事情があるとは認めることができない。被告人伊藤は、公判廷においても、自分の署名した暗号領収証は四枚だけである旨供述しているところ、右供述は、以上の諸点にも照らし、信用することができる。結局、弁護人の前記主張は採用することができない。
(七) クラッター作成の摘要(甲一196〔写〕)中の特別勘定は、クラッターの供述によると、同人がLAAL(又は同社設立前のロッキード・エアクラフト、インターナショナル・リミテッド〔LAIL〕)東京事務所で保管していたL一〇一一型機売込関係資金の収支を記載したものであると認められ、また、その記載内容は、ロッキード社による本件授受資金の準備及び交付の事実を直接裏付けるものと認められることは前記第三・二で示したとおりである。
これに対し、被告人田中、同榎本の弁護人は、右特別勘定の信用性を争い、クラッターは元来金銭的に信用がなかったふしがあるうえ、特別勘定の正確性についても担保がなく、また、その記載内容も不自然であって、信用できない旨主張する。
しかしながら、クラッターは、右特別勘定について、「これは、私が受取った金について、いつ私がそれを交付したのかという個人的な記録にしようとしたものである。」、「これは私がロッキードのために保管していた資金の収支であって、私の個人の資金が混入していることはない。私は能うかぎり金員受領の実際の日付及び交付の実際の日付を記入しようとした。一日かそこらは遅れているかもしれないが、私の意図はそういうことだった。私が特別勘定で使うために現金を受取りながら、この勘定に受領として記載しなかったことは、私が記憶する限りない。」などと、右勘定の正確性を保障する供述をしているうえ、右特別勘定の記載は、例えば、ディーク社送金受領証写(甲再一4ないし9・甲一54ないし59。これは、当裁判所が昭和五三年一二月二〇日付の書面による決定中で示したとおり、外国為替送金業者であるロスアンジェルス・ディーク社が、その業務の通常の過程で、外国送金依頼者に対して発行した領収証の正確な写で、送金の相手方、送金の日・方法等、送金伝票同様の取引内容を記載した書面であり、他にその正確性を疑わしめる事由はない。)やクラッターに対する嘱託証人尋問調書第六巻(甲再一27・甲一163)添付副証18中のクラッター作成の領収証写のような客観的証拠ともよく符合していること、右特別勘定の収支の記載はそれ自体よく整っており、記入の継続性等にも鑑み、記載内容に不自然な点は認められないこと、クラッターは、ディーク社からの金員受領の際には自らメモ領収証を発行し(これは後に米国のロッキード社に渡ったと認められる。)、また支払の相手方から徴した領収証はこれを米国のロッキード社の財務担当者に送付していたものであって、クラッターの経理処理に不正確な点があれば、これらの領収証との不整合等により判明することが予想され得たから、クラッターは、その保管する前記資金の管理やその勘定の記載には正確を期さなければならない立場にあったと認められること等の諸点を総合して、右勘定の正確性はこれを十分肯認することができる。
なお、被告人田中、同榎本の弁護人の主張する諸点について簡単に補足説明を加えておく。
1 弁護人は、右特別勘定の記載中には、クラッターが日本にいない際の出納に関する記載がある旨主張し、その例として、特別勘定中の一九七一年一月一四日、同月三一日、同年二月一日、一九七三年一一月二日の各出納の記載を指摘する。
法務省入国管理局登録課作成の外国人出入国記録調査書(甲一52)等によると、特別勘定中の右各日欄記載の金員収支が行われた際、クラッターが本邦にいなかったことは認めることができる。しかし、そのような例は弁護人の指摘するごく少数のものにすぎず、また、本件特別勘定記載収支は、クラッター自身が本邦内において行ったものに限られると解すべき根拠は認められないから、そのような事由があるからといって、右特別勘定の正確性を否定することはできず、クラッター自身、自分が本邦にいない際に本邦内で他のロッキード社関係者によって行われた出納を、後日自分が特別勘定に記入したこともあったかもしれず、また、右一九七三年一一月二日の支出は自分が米国内で行ったものである旨供述していることに鑑みても、弁護人の右主張は理由がない。
2 弁護人は、特別勘定中には、日付が前後する等の記載があり、クラッターが金員出納の都度これを記載したとは思われない旨主張する。
なるほど、特別勘定には、一九七一年六月二九日と同年七月一日のいずれに関する出納か区別できない記載がされ(受領四〇〇万円、交付三、〇〇〇万円のうち、いずれかが六月二九日のもので、他方が七月一日のものであると思われるが、右勘定上その特定はできない。)、また、一九七二年一一月六日の収支の記載のつぎに同月三日の収支が記載され、その後また同月六日の記載があるのであって、これによると、一九七一年六月二九日、一九七二年一一月三日に関する出納がそれぞれその当日に記入されたものでないことはうかがうことができる。しかし、このように日付が前後する等の記載例は、約六年にわたる右勘定の期間のうち、わずかに右の例があるだけであり、しかも、日付の前後等といっても右の程度にすぎないのであって、これが右勘定の正確性を疑わせるに足りるものとは認められない。
3 弁護人は、シャッテンバーグ作成のクラッターあて書簡(クラッターに対する嘱託証人尋問調書四巻〔甲再一25・甲一161〕副証2〔写〕)の記載を根拠として、特別勘定の正確性を争う主張をする。
すなわち、前記書簡添付の一覧表は概ね対応期間の特別勘定記載に相応すると考えられるのであるが、前記書簡本文中、シャッテンバーグは、支払資金を捻出するため一覧表の取得金額の記載を増額、調整しておいたと記載しており(一覧表一九六九年一月六日欄に資金源不詳として二、〇〇〇万円取得の記載がある。そして、この取得の記載は、クラッターの特別勘定の一九六九年一月六日における二、〇〇〇万円受領の記載に対応すると考えられる。)、弁護人は、これを根拠に、右二、〇〇〇万円受領の記載は、記録上原資不足となることを糊塗するための架空の入金記載であるとの趣旨と解される主張をするのであるが、シャッテンバーグは、右二、〇〇〇万円の取得に対応するディーク社の送金受領証が存在しない旨述べているにすぎず、右資金の受入がおよそ架空のものであるとまで述べているのではない。そして、この点について、クラッターも、シャッテンバーグに対する返書(甲再一25・甲一161副証3〔写〕)の中で、この取得は一九六九年一月六日にした一回の取引に関するものである旨回答し、右二、〇〇〇万円の取得は真実なされたものであるとの趣旨を述べていることに照らしても、弁護人の右主張は、さしたる根拠なく、結局理由がないことが明らかである。
4 弁護人は、特別勘定の資金受入の記載の一部には、その原資に関する形式的裏付資料さえも存在しないものがある旨主張する。
しかしながら弁護人が右裏付を欠くと指摘するものは、ごく少数の記載部分にすぎず、右特別勘定の受領記載の圧倒的大部分については、原資関係の裏付資料が存在することがうかがわれ、長期にわたる多数の資金受領のごく一部について原資関係資料の存在が認められないとしても(もっとも、その意味は、該資料がクラッターに対する嘱託証人尋問の際等に顕出されていないということであって、このような資料がおよそ存在しないと断定できるわけではない。)、そのような事情は、右勘定の信用性を否定するには足りない。弁護人は、形式的な裏付資料のない特別勘定の記載は、クラッターが適宜記入していた(真実と反する記入をしていたという意義であろう。)ものと認めざるを得ないとも主張するが、前記に照らし、短絡にすぎるというべきである。
5 弁護人は、児玉誉士夫に支払われたとされる特別勘定中の交付の記載部分と児玉名義領収証の記載とは符合しない旨主張する。この事項に関する児玉領収証等も、コーチャン、クラッターの証言の信用性に立証事項を限定して自由な証明証拠として採用されたものであるところ、児玉名義領収証と特別勘定の記載については、日付に若干の相違があったり、特別勘定上一回の交付とされている交付について複数の領収証があったり、逆に、特別勘定上複数の交付とされているものに関して一通の領収証のみが作成されているなど、両者の間に若干のそごがあることは認められる。しかし、クラッター証人尋問の際顕出された児玉名義領収証は、(右日付、枚数等の些細な相違は除き)すべて特別勘定の記載に対応することが認められ、個々の児玉名義領収証の具体的作成状況等は本件証拠によっては不明のままであって(そもそも、弁護人は、かかる児玉名義領収証と特別勘定との不整合等の主張を最終弁論期日になって初めて行い、同期日において初めて児玉名義領収証等を自由な証明証拠として証拠調請求を行うに至ったものである。)、この点が不明確である以上、特別勘定の記載が(まして前記のような些細な点で)右領収証と整合しないからといって、この点が右勘定の信用性を左右するに足りるものでないことは当然である。
6 弁護人は、特別勘定に記載されている児玉に対する支払の状況がロッキード社と児玉とのコンサルタント契約(修正契約を含む)上のコンサルタント報酬等の規定に相応しない旨主張するが、そうであるとしても、ロッキード社、児玉間には長期にわたる複雑な関係のあることがうかがわれるのであって、両者間の金員支払状況は必ずしもクラッターに対する嘱託証人尋問の際顕出された契約書所定のものに限られてはいなかったこともうかがわれるのであるから、弁護人指摘の右の点が特別勘定の信用性を左右するものでないことは明らかである。
7 弁護人は、特別勘定中の一九七三年八月一一日の五、〇〇〇万円の交付の記載について、児玉に対する報酬の支払なら、約定では分割払されるはずであるのに、一年分まとまって支払われたというのは不自然であり、また、一九七三年中のLAIとの円の取引状況に関するクラッターのシャッテンバーグあて書簡(クラッターに対する嘱託証人尋問調書七巻〔弁697〕副証7〔写〕)中でクラッターがこの支払に触れていないのも不自然であって、結局この五、〇〇〇万円の交付は、特別勘定の備考欄には児玉に対する報酬である旨注記されているものの、全く支払の趣旨が明暸でないから、クラッターとシャッテンバーグが話合い、児玉に対する架空の報酬としての辻つまを合わせたものであるとも考えられる旨主張する。
しかし、コンサルタント契約の約定では一年に二回分割払されることになっている一九七三年分報酬が、同年八月一一日にまとめて支払われたとしても、しかく不自然であるとはいえないし(クラッターもこの支払は児玉に対する一年分の報酬である旨供述しているし、この支払に対する児玉名義領収証の存在することも明らかである。なお、前記6でも説明したように、ロッキード社から児玉に対する金員の支払は必ずしもコンサルタント契約の約定どおり行われていたものでないこともうかがわれ、支払の時期についても、前払等、右約定とは異なる支払われ方もされていたことがうかがわれる。)、また前記クラッターの書簡は、一九七三年中のLAIからの入金でこれに記載されていないものもあるなど、同年中のLAIとの取引にかかる円の受領、交付のすべてを記載しているものではないことがうかがわれ、同書簡に右五、〇〇〇万円の交付の記載がないからといって、これが架空の支払であるなどと結論することはできないと認められるのであって、結局弁護人の右主張もまた飛躍にすぎるといわなければならない。
8 弁護人は、「特別勘定では、一九七三年七月二三日には残高一億八〇〇万円であり、八月八日までにはこれが二億八〇〇万円に増加しているのに、検察官の主張によれば、クラッターは、八月九日には領収証を入手しながら(金員を)交付せず、八月一〇日には一億円を交付したのみであり、特別勘定では一〇月三日の残高は二億四、八〇〇万円であるのに、一〇月一二日一億五、〇〇〇万円の支払に止まり、一二月一二日には一億一、六〇〇万円の残高があるのに、そのまま越年し、一九七四年一月一九日残高二億四、一〇〇万円になったところで、一月二一日に一億二、五〇〇万円を交付している等、常識では考えられない記載というべきである。」とも主張する。
そして、特別勘定中に弁護人指摘のとおりの収支があることはたしかであるが、当時クラッターがLAAL東京事務所で保管していたL一〇一一型機売込関係資金は丸紅に対する交付のためのみに準備されたものでないことが明らかであるから、現金が集まり次第それを丸紅に引渡さなかったのは不自然であるとの趣旨に帰すると解される弁護人の右主張は失当である。
(八) 被告人田中、同榎本の弁護人は、「被告人田中が内閣総理大臣に在任していたころ、同被告人の私邸については公邸と同程度の厳重な警備態勢が敷かれていたから、仮りに被告人榎本が本件段ボール箱を搬入しようとすれば、表門において警察官から規制、検査されたであろうし、またこれが私邸内居宅部分に運び込まれれば、同所で警備する警察官の規制、検査の対象とされたであろうことは当然であって、このような規制等を受けずに段ボール箱を私邸ないし同邸内の居宅部分に運び込んだというのはあり得べからざることである。したがって、このような規制等の事実に触れない被告人榎本の検察官面前供述は信用し得ない。」旨主張する。
なるほど関係証拠によると、被告人田中の内閣総理大臣在任中、同被告人の私邸表門付近には警察官が常駐し、来客等があるとその旨事務所に連絡して確認のうえ通すなどしていたこと、私邸内居宅部分にも警察官が泊り込んでいたこと等の事実は認めることができる。しかし、他方、被告人榎本は、当時内閣総理大臣秘書官であって、そのころもほとんど毎朝私邸に通っており、私邸を出て、内閣総理大臣官邸等に着いた後また私邸に立寄ることも多かったこと、笠原は、私邸を勤務場所とし、表門付近の警察官詰所で待機して、そこで警備の警察官らと共に過ごすことが多かったこと等の事実が明らかであって、これらの事情からすると、榎本が笠原の運転する私邸の自動車で同邸に入ろうとするのを見ても、表門での警備を担当する警察官が人物の確認以上にこれを規制したり、まして所持品や荷物を検査したりしたであろうとは考えられず、また居宅部分で警備する警察官としても、榎本に対し、敢えて右規制、所持品検査等の措置に出たとは考え難いところである。私邸内で勤務する被告人田中の秘書の山田泰司も、公判廷で、「私邸内の事務所で勤務している者が出勤する場合、表門にいる警察官が顔見知りであるときは、あいさつをして通り過ぎていた。私が警察官からどなた様ですかときかれることもあったが、そのときは田中事務所の秘書の山田でございますと言って通り過ぎていた。勤務中私が笠原の運転する自動車で外出して同車で帰って来ることもあったが、笠原の顔や名前は警察官もよく知っており、そういう場合に警察官からどなた様ですかときかれるようなことはなかった。私が携帯品や私の乗っている自動車内の荷物等を検査されたようなことはない。」旨供述しているところ、山田の右供述内容は被告人榎本が私邸に入る場合についても同様に妥当すると考えられる。
以上に照らし、弁護人の右主張は採用できない。
(九) ところで、被告人榎本の検察官面前供述によると、同被告人は、本件段ボール箱を受領した後、四回ともこれを被告人田中の私邸内本宅(居宅部分)に搬入したうえ、居合わせた書生にこれを預からせたとしているのに、本件現金授受の該当期間中私邸に書生として住込んでいた矢代吉栄、片岡憲男、韮沢賢一、大谷文憲、大谷俊男はいずれも公判廷で右預かりの事実を否定する供述をしている。
被告人田中、同榎本の弁護人は、右の点を指摘して、このような点からしても被告人榎本の検察官面前供述には信用性がない旨主張するのであるが、右五名の供述に関しては、同人らの前記のとおりの被告人田中との関係にも照らし、その信用性につき慎重な吟味を必要とするというべきところ、検察事務官作成の捜査報告書(甲一209)等によると、田中の私邸内には極めて多数の段ボール箱が存在し、なお、その中には、内容物の表示もなく、一見してその内容物が何であるかを知ることができないものもあることが明らかであって、また、これらの段ボール箱の私邸内運搬等に右書生らが当ることも書生の日常の事務取扱上ごく通常の出来事であったと認められる(なお、矢代らは、中身が何であるか分らない段ボール箱を運んだことはないと思うとの趣旨の供述をもしているが、その趣旨は、田中あてに送付されてきた贈答品は事務所で内容物を確認してから居宅部分に運び込んでいるから、その運搬の際には中身が何であるか分っていたというに止まると解され、また、もし、右供述の趣旨が右以外の段ボール箱の運搬等についてまですべてその内容物が分っていたとの意味であるならば、右供述は、さしたる根拠なしというべく、前記のような田中の私邸内における段ボール箱の取扱状況等に鑑み不自然であって信用できないと認められる。)から、このような点に照らしても、元来被告人榎本が検察官に対して供述するような本件段ボール箱の預かりは、書生にとっては過去における日常の雑事の一環であったと認められ、書生らに具体的な記憶がないとしても異とするには足りないのであって、なお、右矢代らが単に記憶がないとするに止まらず、積極的に右預かりの事実を否定する供述をする点は、田中の私邸内における右段ボール箱取扱状況等に鑑みても、却って不自然さを免れず、右供述部分は信用し得ないというべきである。弁護人は、「仮りに被告人榎本が、本宅に内容物の分らない中古の段ボール箱を抱えて入って来て、奥座敷にこれを置き、書生に預かるように指示したとすれば、これは日常的な事柄ではなく、特殊な事柄なので、記憶に残って当然のことなのである。」と主張するが、関係証拠により明らかな被告人田中の私邸内における前記段ボール箱の取扱状況、榎本と書生らとの平素の接触状況等に照らすと、右のような事柄がそのように特殊の出来事であったとはいえない。
結局、矢代らの公判廷供述も、被告人榎本の前記検察官面前供述の信用性を左右するには足りない。
第五  昭和五一年二月以降における本件被告人らの言動等
一 本件に関しては、昭和五一年二月以降、コーチャン等のロッキード社側関係者の米国上院における公開証言を契機として、ロッキード社から丸紅を経て日本政府高官に金が渡されたのではないかとの疑惑が広く生じ、報道機関が連日のようにこの問題を取上げるようになったことが明らかであるところ、この時期における本件被告人らの言動の中には、被告人榎本が被告人伊藤に対して金員返還の申入を含む働きかけを行ったり、被告人田中から丸紅側被告人に対して激励をするなど、被告人田中が丸紅側被告人から本件五億円の金員を受領したことを裏付ける情況事実ともいうべきものがあり、これは前記第一の事実認定を補強するものであると評することができる。以下に、前掲各証拠によって認められる事実関係を要約する。
(一) 昭和五一年二月四日(現地時間)、ロッキード社の会計検査を担当するアーサー・ヤング会計検査事務所のウィリアム・G・フィンドレイは、米国上院チャーチ委員会でロッキード社の外国における支払等について証言したが、その際、被告人伊藤作成の前記一〇〇ピーナツ領収証写が右委員会により公表された。そして、同月五日以降、わが国の報道機関は、フィンドレイは右一〇〇ピーナツ領収証が一億円の支払に対応するものであると証言した旨報道した(当初はこれが一〇万ドルをあらわす旨の報道もされていた。)。
(二) 被告人伊藤は、同月五日午前五時ころ、自宅で、中居からの電話により、「アメリカのロッキード問題の公聴会でID社のヒロシ・イトウという名前が出た。」旨知らされ(なお、これは、フィンドレイ証言中の前記ID社に関する件と一〇〇ピーナツ領収証に関する件とを混同した不正確な情報であった。)、被告人田中に対する本件五億円の交付の件があるいは問題になっているのではないかと思い、そのころ、被告人榎本の自宅に電話して、同被告人に対し、ロッキード問題の公聴会で五億円の献金の件があるいは問題になっているかもしれない旨を告げ、同被告人は早速被告人田中に報告する旨答えた。
被告人檜山は、同日早朝、自宅で、中居からの電話連絡等により右同様の情報を入手し、被告人大久保も、そのころ、自宅で、航空機課員からの電話により右同様の報告を受けた。
同日午前八時ころ、被告人伊藤は、丸紅東京本社で被告人檜山に会い、本件五億円の交付の際クラッターの要請によりピーナツ、ピーシズという符牒の領収証に署名したことがあり、現在問題になっているのはその際の領収証のことではないかと思われるとの趣旨を報告した。被告人檜山は、前記第一・一のとおり、本件の受渡については丸紅が直接関与しないようなやり方で行うようにとの指示をしていたのにかかわらず、被告人伊藤が自ら右のような領収証を作成していたことを初めて知り、驚くと共に激怒し、同被告人を強く叱責したが、伊藤はこれに対し謝るばかりであった。
(三) 被告人榎本は、被告人田中による本件五億円の受領の事実を隠しとおさなければならず、そのためにはいっそ右金員を返還してしまえばよいのではないかとの考えから、同日午前中、被告人田中に対し、五億円を返還すればどうであろうかと提案し、同被告人の賛同を得たので、そのころ、丸紅東京本社にいた被告人伊藤に電話し、「この件についてはうちの先生は金をもらわなかったことにしてくれないか。」などと言ったうえ、五億円を返還したいとの趣旨を申入れた。被告人伊藤は、その旨被告人檜山に報告したが、返還の事実が発覚することを危惧した同被告人に、右申入を断わるよう指示され、電話で、被告人榎本に対し、右返還の件は拒絶するとの趣旨を返答した。そこで、被告人榎本は、これをあきらめ、さらに、「こちらの方に迷惑が及ばないように丸紅側で頑張ってくれ。」などと言って、本件五億円の金員が被告人田中に渡ったことはあくまで秘匿してほしいとの趣旨を申入れ、被告人伊藤も、右の趣旨を了解してこれに同意し、そのころ、被告人檜山に対しても、榎本の右申入について報告した。
(四) 被告人伊藤は、同日昼ころ、前記のとおり当時公表されたばかりのピーナツ領収証の写真を入手し、それが前記第一・三(一)のとおり自分が作成した領収証であることを確認したが、右領収証及び当時いまだ公表されていなかったピーシズ領収証にかかる金員を被告人田中に贈ったことが発覚すれば、丸紅や田中が甚大な打撃を蒙ることをおそれ、被告人檜山らとも相談のうえ(ただし、被告人大久保は、本件に関する米国の事情を調査するため、急遽同日中に渡米することになり、右相談には加わらなかった。)、右ピーナツ領収証に伊藤が署名したことは認めるものの、右領収証は金品の授受を伴わないいわゆる空の領収証で、ロッキード社の会計処理上丸紅役員の署名した領収証が必要であるから署名してほしい旨クラッターから大久保を通じて依頼されたため、その意味も分らないまま伊藤が署名し、その後また大久保を通じてクラッターに手渡したにすぎないものであって、丸紅は正規の報酬以外の金の流れには関与していないという真実に反する筋書を決め、以後対外的説明はすべて右の筋書に従って行うとの方針を固めた。
そして、被告人伊藤は、同日、記者会見で、右の方針に従った弁明を行った。
(五) 同月六日(現地時間)米国上院チャーチ委員会でコーチャンが証言し、またそのころ前記ピーシズ、ユニット各領収証写も相次いで公表されるに至ったが、被告人檜山は、コーチャンが右証言の際「ピーナツ領収証にかかる一億円の金は伊藤を介して日本政府当局者に渡ったものであり、このような政府当局者への支払をすることを自分に勧めたのは檜山か大久保である。丸紅を通じて日本政府当局者(高官)に手渡されたのは約二〇〇万ドルである。」などと述べたとの報道に接し、コーチャンがこのような事実までも暴露したことに驚愕するとともに事態の成行きを深刻に憂慮し、当時ニューヨークに滞在していた被告人大久保に対し、電話で、即刻コーチャンに会って証言を取消してもらえと指示し、同被告人が今日証言した問題を取消せと言っても無理だとの趣旨を述べて渋ると、「とにかくコーチャンに会え。」、「ロッキード社のだれでもいいから会え。」と強く指示した。被告人大久保は、同月七日夜(現地時間)、ロスアンジェルスでコーチャン、クラッターらと会い、ロッキード社側が本来社内の用だけに使い外部には出さない約束であった領収証が公表されるような事態に至らせたことは約束に反するなどと、両人を非難して、コーチャンに対し被告人檜山あてにわび状を書くよう求め、コーチャンは、これに応じて、同被告人あてに、遺憾の意を表する趣旨の文面の書簡(甲二149)を書いて大久保に手渡したが、自己の証言内容を取消し、訂正することはなかった。
また、同月七日、被告人檜山、同伊藤は、丸紅社長松尾泰一郎らと共に、記者会見に臨んだが、右被告人らは、前記(四)の方針に副った弁明を繰返すに止まった。なお、同日、被告人伊藤は、ロスアンジェルスにいた被告人大久保と電話で話した際、同被告人が本件五億円の支払に関する連絡を受けた日付等を記載したメモを持っている旨大久保から聞いて、そのようなメモは破棄すべきである旨勧告し、大久保はそのころこれを破棄した。
(六) 同月一〇日ころ、被告人榎本が丸紅東京本社にいた被告人伊藤に電話していた際、被告人田中が、途中で榎本と電話を代り、伊藤に対し、「いろいろご苦労をかけているな。しっかり頑張ってくれよ。檜山君にもよろしく。」などと声をかけ、被告人檜山、同伊藤ら丸紅側関係者が従来どおり田中に対する現金交付の事実を否定する態度を貫くよう、暗にうながした。被告人伊藤は、右の趣旨を了解して承知し、その後すぐ被告人檜山に対しその旨報告した。
(七) 同月一〇日ころ、衆議院予算委員会は、本件のいわゆるロッキード問題の調査のため、被告人檜山、同大久保、同伊藤らを証人として喚問することを決めたが、被告人檜山、同伊藤らは、右証言の際にも前記(四)の筋書に副った証言をすることとし、同月一一日に被告人大久保が帰国すると、同被告人に対しても、右の筋書に副って証言するように求め、大久保も、虚偽の証言をすることに一旦は躊躇したものの、結局これを了承した。
また、そのころ前記のとおり、被告人檜山は、被告人大久保に対し、「大久保君、あれはなかったことだよ。本当になかったんだよ。」などと言って、昭和四七年八月二三日に大久保が檜山に同行して被告人田中の私邸を訪問したことを秘匿するよう指示した。(こうして、被告人檜山、同伊藤、同大久保は、同五一年二月一七日、右委員会において、判示罪となるべき事実第二・三の(一)、(二)1、(三)1のとおり、内容虚偽の証言をした。)
(八) また、右国会証言の前後ころ、被告人田中は、激励と現金授受を否認する方針の確認のため、被告人檜山と面談しようと考え、被告人榎本に対しその連絡方を指示した。そこで、そのころ、被告人榎本は、被告人伊藤に電話して、右面談希望を伝えた。被告人伊藤はすぐにその旨被告人檜山に報告したが、これに対し、同被告人は、もし面談の事実が発覚すれば一層社会の疑惑を深めることになると危惧し、ていねいに断わっておくようにと指示し、被告人伊藤はそのころ電話で被告人榎本に対し婉曲に右申入を拒絶した。
(九) 被告人伊藤、同大久保は、再度衆議院予算委員会に証人として喚問され、同年三月一日、証言したが、前記(四)の筋書に従った虚偽の弁明を繰返すに止まった(判示罪となるべき事実第二・三の(二)2、(三)2)。
(一〇) 同年二月以降同年七月に被告人伊藤が逮捕されるまでの間、伊藤と被告人榎本とは、電話で頻繁に話したり、直接面談したりして、しきりに連絡をとり合い、本件の捜査の状況等について情報を交換するなどしたが、その際、榎本は、伊藤に対し、「うちの先生の意向は充分檜山さんに伝えてもらってありますね。」、「既定方針どおり頑張ってもらえるんですね。」と念を押したり、「あなた方が頑張っている限り大丈夫ですよ。」と述べるなどして、あくまで丸紅側関係者が従来どおり被告人田中に対する本件五億円の現金交付の事実を秘匿する方針を貫くよう求めるとともに、「証拠になるような書類等はお宅に残っておらんでしょうな。」などと何度か念押しし、伊藤はその都度従来の方針に変りがない旨返答した。被告人榎本が被告人伊藤と面談したことや、右のようなその際の話の内容については、被告人田中も、榎本からそのころ報告を受けて、これを了知した。
(一一) 同年二月ころ、被告人伊藤は、前記中居に対し、秘書課で保管している役員行動予定表及び被告人檜山の行動予定を記載したノートのそれぞれ古いものを廃棄するように指示し、中居は、同年三月末ころ、昭和四七年四月から同四九年三月までの役員行動予定表を社長室次長勝野泰審に依頼して廃棄させると共に、同五〇年ころから遡って七年分くらいの檜山の行動予定ノートを自ら廃棄した。また、中居は、そのころ、いずれも被告人伊藤の指示に基づき、秘書課経費台帳について、交際や贈答の相手方の名を抹消する改ざんを加え、その他、請求書を改ざんしたり、書簡類を廃棄するなどの工作を行った。
同五一年三月、被告人伊藤は、前記清水、松岡から、前記松岡作成の社有自動車行動表を見せられ、前記第四・二(二)のとおり、同表に野見山が大手町へ行ったことをあらわす記載などがあるのを知って、これを改ざんしようと企て、清水、松岡に対しその改ざんを指示した。清水、松岡は、右指示に従い、そのころ、右自動車行動表を改ざんした(前記第四・二(二)で示したのはその改ざん工作の一部である。)。
(一二) 被告人伊藤、同大久保は、将来検察官の取調を受けた際にも前記筋書に従った供述態度を貫くべく、同年四月ころから、他の丸紅関係者をも交え、一人が検察官役となり、いま一人が被疑者役となって行う、「検事ごっこ」と称する取調に対応する練習を繰返し、将来の取調に備えた。被告人檜山も右「検事ごっこ」に一回同席した。
以下、右各事実を認定するについて証拠上問題となる点を検討する。
二(一) 被告人檜山、同伊藤の検察官面前調書には、前記一で右被告人らの言動として認定したところに副う内容の供述が録取されているところ、右各供述は、内容が詳細、具体的であり、自らの体験によって初めて知り得る事項を多く含み、他の関係者の供述等や本件の情況ともよく符合し、本件の経緯等に照らしても自然な内容のものと評することができ、十分信用することができる。
ところで、右検察官面前供述中、被告人檜山の昭和五一年八月一三日付検察官面前調書(甲再一78・乙18)には、「去る二月五日の早朝、ロッキード社のコーチャンが、米国上院チャーチ委員会の公聴会において、ロッキード社のL一〇一一トライスターの売込に絡んで、輸入特約代理店の丸紅などを通じて多額の献金をした旨証言しているが、それに関連してピーナツ一〇〇個を受領したという領収証があって、それには丸紅のヒロシ・イトウという受領者のサインがなされているという情報が入った。」との供述記載があるが、弁護人は、右の供述記載は客観的事実関係と符合しないものであって、この点からしても、同被告人の検察官面前供述には信用性がない旨主張する。たしかに、前記一(一)のとおり、同月四日(現地時間)に証言したのはフィンドレイであってコーチャンはそのころまだ証言していなかったから、右検察官面前供述にこの点で誤りのあることは否定し得ない。しかし、フィンドレイ証言に関する報道内容は前記一(一)のとおりであって、右証言は、その際被告人伊藤作成の一〇〇ピーナツ領収証が公表されたこととあいまち、被告人檜山を含む丸紅関係者に深刻な衝撃を与えたと認められること、中居の公判廷供述等に照らすと、檜山は同月五日早朝右フィンドレイ証言に関する第一報に接したと認められること、檜山が右検察官面前調書中で供述する二月五日早朝入手したコーチャン証言に関する情報内容とは、当時わが国で報道されていた右フィンドレイ証言の内容にほぼ相応するものであったと認められること、檜山の右検察官面前調書には、コーチャンが右証言の後さらに公聴会で証言することになっていた旨の供述記載があり(その後の方の証言とは、前記一(五)のコーチャン証言を指すものと認められる。なお、被告人檜山の弁護人は、コーチャンが二、三日後に証言することは、被告人大久保の渡米前には分らなかったことである旨主張するが、仮りにそうとしても、この点の誤りは供述の信用性に影響を及ぼすものではない。)、他方、フィンドレイの証言に関する供述記載はないこと等に鑑み、なお、檜山の取調検察官であった安保憲治検事の公判廷供述内容をもあわせ考慮すると、被告人檜山の右検察官面前供述部分は、同被告人が右フィンドレイの証言をそのままコーチャンが証言したものと取違えて供述したにすぎないと認めるのが相当であって、この点に関し同被告人に記憶の混同があったというに止まり、その供述の他の部分の信用性に影響を及ぼすような性格のものではないと認めるのが相当である。
ところで、被告人檜山、同伊藤は、公判廷でも、前記一の各事実に関係する多くの点につき、それぞれその検察官面前調書と同旨の供述をするが、反面、被告人檜山は、公判廷では、「同月五日ころ伊藤からピーナツ、ピーシズ領収証は金品の授受を伴わないものである旨の報告を受け、それを信用していたため、右領収証が金品に関係あるものとは思っておらず、まして本件五億円の交付と関係があるとは知らなかった。したがってコーチャンが証言したと報道されていた約二〇〇万ドルの政府当局者(高官)への献金に田中に対する本件五億円の交付が含まれているとは思っていなかった。」旨供述し、被告人伊藤も、公判廷では、領収証の作成等は本件現金の授受にタッチするなとの檜山の指示に反して行ったことでもあり、到底そのままの事実を報告する気にはなれなかったため、同月五日、檜山に対しては、「ID社のイトウヒロシという名前が出たようでございますが、私はロッキードに関係したといえば、実はピーナツとかピーシズといういわゆるレシートといいますか、そういうメモに頼まれてサインをさせられたことがあるんです。ID社から金が流れているというような報道があるようですが、私はそういうことには関係ございません。」と報告しただけで、ピーナツ、ピーシズ領収証が本件五億円の現金に関して作成されたものであることは報告しなかった旨、被告人檜山の右供述と符節を合わせた供述をする。
これに対し、右被告人両名の検察官面前調書には、昭和五一年二月五日朝、被告人伊藤が、被告人檜山に対し、右領収証は田中に対する本件五億円の交付に関して自分が作成したものである旨報告したとの供述記載があり、とくに檜山の昭和五一年八月一四日付検察官面前調書(甲再一79・乙16)には、「伊藤から詳しく説明を聞くまでもなく、当時の新聞にも出たように、ピーナツ、ピーシズは一個一〇〇万円の単位を示していると思われ、その数字が丁度五億円になることや、その領収証の日付が田中総理に金を渡した旨の一部の報告を受けた時期とほぼ同じであることのほか、私が田中総理に話した五億円のほかには、そのような多額の受渡があったということが考えられないことなどの諸事情から、そのピーナツ、ピーシズの領収証は田中総理に対する五億円のデリバリーに関して作成されたものであることが分った。」との供述も録取されている。そもそも、二月五日当時、社会の重大な関心を集めるに至っていたピーナツ領収証(その後間もなくピーシズ領収証も公表されたことは前記一(五)のとおり)の意味、性格がどのようなものであるかは、被告人檜山にとっても最大の関心事であったと推認され、また、この点は、檜山を初めとする丸紅関係者が今後の対策を決するに当っても是非知っておかなければならない事柄であり、もとよりこのような事情は被告人伊藤としても十分承知していたと認められるのであるから、同被告人が、公判廷で供述する程度の報告に止めていたとはにわかに信じがたい。のみならず、被告人檜山は、当初、第八二回公判期日では、「コーチャンが言ってる政府高官に対する献金の中には供述された五億円相当の分(すなわち、被告人田中に対する本件五億円の交付)を指してる可能性があるということを考えませんでしたか。」と尋ねられて、明確に、「それも含んでいるのかもしれんというふうに考えました。」と答え、さらに、「それは当時の考えですね。」との質問に対し、「そうです。」とこれを肯定する供述をしていたのに、後の第八四回公判期日では、コーチャンが証言したと伝えられていた約二〇〇万ドルの政府高官に対する献金の中に本件五億円の交付が含まれている可能性があるとは全く考えていなかった旨供述を変更するに至っているところ、同被告人は右供述変更の理由について何ら首肯し得る理由を述べ得ていない(同被告人は、第八四回公判期日において、第八二回公判供述は質問の趣旨を正確に理解しないまま誤まって答えてしまったものであるかの如く供述しているが、右第八二回公判供述の内容自体及びその脈絡を検討しても、同被告人が質問の趣旨を十分理解して供述していたことは明らかである。)。さらに、被告人檜山の第八四回公判期日供述は、当時被告人田中の秘書が本件の五億円を返したいと言ってきたことは認めながら、なぜ返そうというのか分らなかったし、コーチャンの証言や領収証の問題とこのこととの間に関係があるのか分らなかったとし、また、やはりこのころ田中の方から自分と会いたいと言ってきたことは認めながら、田中の方からそのような申入があったのはそれが初めてのことだったが、どうして会いたいと言ってきたのか分らないなどとするものであって、田中からの五億円返還や面談の申入が被告人檜山にとって極めて特異で重要な関心を持つべき出来事であることは明らかで何らかの判断をなしたことは当然であるのに、ことさら不分明な供述に止まるなど、たやすく信用することはできない。
これに反し、右被告人両名の検察官面前供述は一般的にその信用性が高いこと前記のとおりであり、また前記各検察官面前供述部分も、その内容が詳細、具体的であり、本件の情況に照らしても極めて自然なものであると認められるのであって、十分信用することができる。
したがって、被告人檜山は、本件ピーナツ、ピーシズ領収証は本件五億円の現金交付に関し被告人伊藤が作成したものである旨の報告を昭和五一年二月五日朝同被告人から受けてその旨了知したものと認めるべく、また、檜山は、コーチャンが証言する約二〇〇万ドルの政府当局者(高官)への献金中には本件五億円の現金の件も含まれていることをも、右コーチャン証言の情報を入手した際了解するに至ったものと認めることができる。
なお、被告人檜山、同伊藤の公判廷供述には、一の各事実に関し、そのほかにも検察官面前供述に比してあいまいで不明確な内容に止まっているところのあることが認められるが、供述内容の自然さや詳細具体性、他の証拠関係との整合性等の点よりして、いずれも検察官面前供述の方を信用することができると認められる。
(二) 被告人大久保は、公判廷において、前記一で同被告人の言動として認定した事実に副う供述をするが、右供述は、詳細、具体的で、他の証拠関係ともよく符合し、自らの体験によって初めて知り得る事項を多く含み、他に右供述について疑いをさしはさむべき事由があるとも認めることはできず、十分信用することができる。
(三) 被告人榎本の検察官面前調書には、前記一で同被告人の言動として認定したところにほぼ副う内容の供述が録取されているところ、右供述は、内容が詳細、具体的であり、他の関係者の供述等、本件の情況ともよく符合し、また同被告人が自ら供述しなければ取調検察官も知り得ないはずの多くの事柄を包含し、とくに、いわゆるロッキード事件の発覚が社会の耳目を集める当時の情況の中で、被告人田中の立場を憂慮し、真相の陰蔽のため同被告人と話合ったり、被告人伊藤に対しあれこれ働きかけたことなど、榎本の本件における立場に鑑み、首肯し得る内容のものと評することができるのであって、十分信用に値いする。
これに反し、同被告人は、公判廷では、右検察官面前供述の内容をほぼ全面的に否定するのであるが、右公判廷供述部分は、本件金員の授受を全面的に否定する同被告人の公判廷供述と一体をなすものであると認められるところ、右授受の点を否定する同被告人の公判廷供述に信用性がないことはすでに前記第二・四において明らかにしたところであり、また、同被告人が検察官面前調書に右のような供述が録取されるに至った理由として公判廷で供述する点は前記第二・四で認定した取調状況を前提とするときいずれもたやすく信用し得ず、結局、同被告人の右公判廷供述部分は採用することができない。
(四) 被告人田中は、公判廷でも、捜査段階においても、前記一の事実を全面的に否定するのであるが、被告人榎本の検察官面前供述、同伊藤の検察官面前及び公判廷各供述等と対比して、採用し難い。
第六  第二ないし第五の検討に基づく結論
以上第二ないし第五において詳細に示したとおり、前記第一の各事実は、前掲証拠の標目欄に摘示の各証拠、なかんずく現金授受の直接関与者を含む多数の関係者の供述、これに相応する内容の各種の証拠物等によりその真実なることにつき高度の蓋然性の程度まで立証されるに至っていると認められ、右各事実を認定するについて、本件証拠上(後記第七で検討のアリバイ関係証拠を除く)合理的疑いを容れる余地のないことが明らかである。
第七  被告人榎本のアリバイ
一 被告人田中、同榎本の弁護人は、前記第一の三(二)、四(二)、六(二)、七(二)の現金授受に関する各事実につき、「被告人伊藤と被告人榎本との現金一億円の授受があったとされる昭和四八年八月一〇日午後二時二〇分ころ(前記第一・三(二))、被告人榎本は国会内で用務を果していたものであって、前記英国大使館裏にはいなかった。現金一億五、〇〇〇万円の授受があったとされる同年一〇月一二日午後二時二五分過ぎころ(前記第一・四(二))、被告人榎本は、内閣総理大臣官邸(以下、単に官邸という)で執務しており前記私学振興財団わき電話ボックス付近にはいなかった。現金一億二、五〇〇万円の授受があったとされる同四九年一月二一日午後四時一五分ころから四時三〇分ころまでの間(前記第一・六(二)関係、検察官主張の時間帯)、被告人榎本は、東京都千代田区平河町所在の砂防会館内田中事務所で執務しており、前記ホテルオークラ駐車場にはいなかった。現金一億二、五〇〇万円の授受があったとされる同年三月一日午前八時過ぎころから八時三〇分ころまでの間(前記第一・七(二))、被告人榎本は、自宅から被告人田中の私邸内事務所に出勤する途中であり、右事務所に着いてからは同所で執務していたものであって、被告人伊藤の自宅にはいなかった。」旨主張する(なお、昭和四九年一月二一日の現金授受の時間帯については、前記第一・六(二)、第四・一(二)のとおり、当裁判所は、検察官の主張とはやや異なり、授受の時刻は同日午後四時一五分ころから四時四五分ころまでの間であると認定しようとするのであるが、これを前提としても、弁護人の右主張は基本的には異ならず、ただ、被告人榎本は、右時間帯の後半部分〔四時四五分に近いころ〕では、砂防会館を出て官邸に戻り、そこで執務していたという主張になる〔被告人田中、同榎本の弁護人の冒頭陳述書二二頁〕。したがってこの程度の相異は、弁護人の防御に不利益をもたらすものでなく訴因の変更を要しないこと前記のとおりである。)。
弁護人の右主張が正当であれば、本件については、四回にわたる被告人伊藤、同榎本間の現金授受があったとされる時刻に被告人榎本がそれぞれ右授受があったとされる場所とは異なる場所に所在し、場所的離隔の点よりして同被告人がその場所で授受を行うことは物理的に不可能であったことを示すいわゆるアリバイ事実が存在することになり、結局右授受については、合理的疑いを容れ、その証明がないことに帰することはいうまでもない。そして、犯罪事実に関する立証責任は原則としてすべて検察官が負うから、アリバイ事実に関しても被告人側においてその存在についての立証責任を負うものでないことはいうまでもないところであるが、前記第二ないし第六で詳細に示したとおり、犯罪を構成する現金授受の事実が、関係者多数の供述、それに符合する内容の証拠物等によりその真実なることにつき高度の蓋然性の程度にまで立証されている本件のような場合、被告人側として、この立証をくつがえすためには、アリバイの事実が存在するのではないかとの合理的疑いを生ぜしめる程度まで、アリバイ成立に関する証拠を提出する必要があるといわなければならない。そこで、本項では、弁護人の主張する前記アリバイ事実存在の合理的疑いを生ぜしめるに足りる証拠が存在するかどうかの観点から、以下に考察を加えることとする。
二 ところで、弁護人のアリバイ主張の根幹をなす事実主張は、被告人榎本が内閣総理大臣秘書官在任中総理府技官清水孝士の運転する専用自動車(以下「清水運転車」ともいう)を常時使用していたため清水が当時右自動車の運行先、官邸出入時刻等を記帳していた大学ノート(弁85。以下、「清水ノート」又は単に「ノート」ともいう)に記載されている清水運転車の運行が被告人榎本の行動と合致するとし、右清水ノートによれば、被告人榎本が本件四回の授受があったとされる時刻に授受の場所とされているのとは別の場所にいたことが示され、また被告人榎本の供述やその他の関係証拠によっても、同被告人が清水ノート記載の清水運転車の運行に合致する行動をとっていたことが示されるというものである。
このような弁護人の主張に即して考えると、本件では、清水ノートの正確性、ことに右ノートの運行記載が清水運転車の現実の動きを正確に記録したものであるかどうか、また、そうであるとしても、同ノート記載の清水運転車の運行は常に被告人榎本の行動と合致するかどうか(すなわち、右ノート記載の清水運転車の運行における空車での走行や、榎本以外の者のみを乗せた運行のように、榎本の行動と合致しないものの存否の各点)を検討する必要が先ず生ずる。もしそのいずれかが否定されるならば、本件アリバイ事実存在の判断における清水ノートの証拠価値が相当低いものにならざるを得ない。そこで、以下では、右の順序に従い、三で、清水ノートの記載が清水運転車の運行を正確に表現したものと認められるか否かの点を、四で、右ノート上の運行の記載が被告人榎本の行動と合致するか否かの点を、六ないし九で、各回の授受ごとのアリバイの成否の点を、順次検討していくこととする。
三 清水ノートは、清水が、その運転する内閣総理大臣秘書官専用自動車の運行の記録として、毎日、各運行ごとに、官邸を出発した時刻(同ノート上の時刻の表示はすべて五分単位でなされている。)、その後の行先(時刻の表示なし)、官邸帰着の時刻等を記載したものである(なお、一日の最終の時刻としては、勤務終了の時刻を記載するが、規定の勤務開始時刻より早く勤務を開始した、いわゆる早出の場合で、勤務終了時刻も規定より遅くなった場合、早出分の時間だけ遅らせた時刻を勤務終了時刻としてノートの最終に記載するのが例であったと認められる。)ところ、右のような記載の体裁に加え、右ノート上の運行記載は自分の運転する秘書官専用自動車の運行の正確な記録である旨清水も公判廷で一貫して供述していること、右の運行記載は清水が毎日総理府に提出していた運転日誌(甲二170、171。ただし、同運転日誌には、時刻については、一日の最初の出邸時刻と最後の勤務終了時刻の記載しかないから、ノート上のその他の時刻の記載の正確性を運転日誌によって確認することはできない。また、当時の一連の運転日誌のうち、本件四回の問題の日すべてを含む昭和四八年六月から同四九年三月までの期間に関する部分が総理府において保存期間経過による処分済みとの理由で提出されていないため、遺憾ながらこれを本件授受当日自体に関する判断資料とすることができない。)や、その他の関係資料とも相応する部分が多く、これが後に至って作出ないし改変されたこと等をうかがわせるに足りる事情は本件証拠上認められないこと等に照らすと、清水ノートの運行記載については清水運転車の運行の記録としてこれに一応の信用性を肯定せざるを得ない。もっとも、関係証拠によると、清水が私用で右自動車を運転したような場合、そのような運行はノートに記載されないことがあると認められること、現に、例えばノート昭和四八年六月一一日欄のように、走行距離に関する記載から清水運転車が当日走行したことは明らかであるのに、出邸帰邸時刻、行先の記載がされていない例もあること、また、ノート同年四月一二日欄のように、行先の書落しのような誤記があることもうかがわれること等に鑑みると、清水運転車の運行がすべて清水ノート上に正確に表示されているかどうかについては、疑いを容れる余地がある。しかし、同ノート上に現に存在する運行記載が清水運転車の運行の正確な記録であると認められるかの点に限るならば、これを否定すべき特段の証拠はないので一応積極に解して検討を進めることとする。
四 そこで、つぎに、清水ノート記載の清水運転車の運行が被告人榎本の行動と合致するかどうか、すなわち、右ノート記載の清水運転車の運行の中に、同車が空車で走行したり、被告人榎本以外の者のみを乗せて運行した場合のような、同被告人の乗車していない運行がないかどうかの点を検討する(もっとも、ノートの運行記載中、一日の最初の官邸からのいわゆる迎えの運行は、事柄の性質上空車での運行であったと認められ、また、一日の最終の運行中の最後の行先から官邸に帰るまでの運行部分も空車であることが多いこと当然であるから、これらはとくに採り上げない。)。
ところで、この点に関する証拠調の経緯を振返ってみるに、被告人田中、同榎本の弁護人は、昭和五六年四月八日の第一二六回公判期日で行った冒頭陳述で、初めて被告人榎本の前記アリバイの主張を行い(ただし、同被告人には前記のとおりのアリバイがあるとの結論を主張するのみで、証拠方法について触れるものではなかった。)、ついで、同月一三日、「一、榎本敏夫が内閣総理大臣秘書官に在職中の行動、とくに昭和四八年八月一〇日、同年一〇月一二日、同四九年一月二一日、同年三月一日における行動 二、榎本秘書官が段ボール箱授受に関係したことがないこと 三、田中邸の来客状況と笠原政則の勤務状況 四、右に関連した事項」との立証趣旨を掲げて、前記清水の証人尋問を請求し、同五六年四月一五日、同月二二日の第一二七回、第一二八回両公判期日で同証人の尋問が行われ、また、その際、初めて清水ノートの存在が明らかにされたのであるが(清水ノートは、第一二八回公判期日に、弁護人から証拠申請され、第一三〇回公判期日に証拠として採用された。)、清水は、右証人尋問において、榎本を乗せた運行すべてをノートに記載した旨供述するとともに、榎本が乗っていない運行もノートに記載されていることはないかとの趣旨の様々の角度からの質問に対し、「榎本が外出先で専用自動車を手離し、自身は外出しているのに自動車だけ官邸へ帰すということはまずなかった。とくに砂防会館とか国会のような、駐車場のある外出先の場合には、駐車場でそのまま待っていたから、榎本を乗せずに自動車だけ帰邸するということはなかったと思う。駐車場がなくてなかなか駐車できないような外出先の場合には、自動車だけ帰邸し、電話で呼出を受けてまた迎えに行くということもあった。その場合は、ノート上、榎本の乗車していない官邸と右外出先との往復の運行が記載されることになる。榎本が官邸に来ていないとき、秘書官室からの依頼で、同室の者を榎本の専用自動車に乗せたことはある。榎本が官邸に来ているときでも、秘書官室(注・この関係の問答中「秘書課」とあるのは秘書官室の趣旨であることが明らかである。)からの依頼で、榎本以外の人を乗せたことがある。その場合、ノート上右の者を乗せた運行の記載については必ず「客」等と表示したと思う(注・なお、清水が被告人榎本の専用自動車を運転していた期間中のノートの記載をみると、同四七年一〇月二六日、同四八年一一月一九日、同年一二月一九日、同四九年六月三日、同年八月六日の五日分についてのみ、「客」又は被告人榎本以外の使用者の名の表示がされていることが明らかである。)。榎本に言われて他人を乗せたことはなかったと思う。回数は多くはないが、榎本に用を命ぜられて、私が一人で自動車を運転して使いに行ったこともあった。ノート同四九年三月一日欄記載の羽田~砂防会館運行もその一例である。」などと供述し、結局、極めて例外的で稀な場合のことであるとはしつつも、ノート上に榎本の乗っていない運行も記載されていること自体は認める供述をした。ついで、同五六年五月六日、同月一三日の第一二九回、第一三〇回両公判期日で、主として弁護人による被告人榎本に対する被告人質問が行われ、その際、同被告人は、内閣総理大臣秘書官当時清水運転車を離さずに使っていた旨、弁護人の右主張に合致する供述を行い、その後弁護人側申請証人の取調等を経て、弁護人のアリバイ関係立証を一応終了した。しかし、右清水供述により、同人が、右ノートのほかにも、各日の迎えの時刻及び最後に被告人榎本と別れた場所を記載した手帳(弁307。以下、「清水手帳」ともいう)を作成していたことが判明したことから、同年八月一八日、検察官から右手帳に関する提出命令が申立てられ、同月二二日付の書面による決定で当裁判所が右手帳の提出を命ずる等の経緯を経て、同年九月三〇日の第一四二回公判期日において右手帳が弁護人からの証拠申請により採用され、また、第一四二回、第一四三回(同年一〇月七日)両公判期日、清水が再び弁護人側証人として供述し、その後、同年一一月一八日ないし同年一二月一六日の第一四八回ないし第一五二回公判期日、被告人榎本がさらにアリバイに関する供述を行ったのであるが、このような証拠調の結果、例えば右清水手帳と清水ノートとを対照する等の方法により検討してみると、そこで判明する限りでも、清水ノート上の運行記載中の相当数は、被告人榎本が使用していない運行をあらわすものであることが明らかになったのであって、清水が同被告人を乗せずにその専用自動車を運転することは清水が前記第一二七回、第一二八回両公判期日で供述したほどの稀な事柄であったのではなく、また、清水は、榎本以外の者のみを乗せた場合であっても、必ずしもノート上「客」等の表示をして榎本を乗せた運行と区別していたものではないことが容易に認められるに至った。そして、清水も、右第一四二回、第一四三回両公判期日における供述では、前記第一二七回、第一二八回両公判期日での供述を相当変更するに至っている。また、被告人榎本も、第一四八回ないし第一五二回公判期日における供述では、清水ノート記載の運行中には、相当数自身が乗っていないものがあることは認める供述に転じたのである。
以上のような証拠調の経緯であるから、以下現在取調済みの証拠により判明している範囲内で、清水が被告人榎本の専用自動車を運転していた同四七年七月七日から同四九年一二月九日までの期間に関する清水ノートの記載中被告人榎本の乗車していない運行に関すると認められるもの(同被告人以外の者が使用していたことがノート上明示されている前記五日分を除く)について個別に検討を加えることとする。なお、清水手帳(弁307)に記載の内容は、清水の供述により、各日における、主として官邸から榎本を迎えに行く時刻の予定と最後に同人と別れた場所のほか榎本の行動に関する略記等であると認められる。
(一) 清水手帳との対照により被告人榎本の乗車していないことが判明する事例
1 昭和四七年八月二五日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「砂防会館~ホテルオータニ~溜池~上中里」との記載がされ、なお右運行記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄には、「木ノ下(上中里)ニモツ」とあるので、同日、清水は、料亭木の下(清水ノート上の表示は「溜池」)で被告人榎本と別れ、荷物を運ぶため榎本の自宅(ノート上の表示は「上中里」)に前記自動車で赴いたものと認められる(清水の第一四二回公判期日における供述も同旨。)。したがって、前記最終運行中、溜池~上中里運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
2 昭和四七年九月九日
清水ノート同日欄には、七時一五分官邸発、行先「上中里~総理私邸~東京駅」、九時五五分官邸着、三時一〇分官邸発、行先「上中里」、官邸着四時三〇分勤務終了との運行が記載され、なお右記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「上中里(ニモツ)」との記載等とも対照すると、同日、清水は、東京駅で被告人榎本と別れ、空車で一旦官邸に帰り、その後、同被告人は乗せずに、荷物を届けるため、前記自動車を運転して、榎本の自宅に赴いたと認められる(清水の第一四二回公判期日における供述も同旨。)。したがって、前記ノート記載の運行中、東京駅以降の部分については、同被告人は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
3 昭和四七年九月二七日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「砂防会館~上中里」との記載がされ、なお右運行記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「砂防会館 上中里(ニモツ)」との記載に照らすと、同日、清水は、砂防会館で被告人榎本と別れ、その後、荷物を届けるため、同被告人は乗せずに、前記自動車を運転して、榎本の自宅に赴いたと認められる(清水の第一四二回公判期日における供述も同旨。)。したがって、前記最終運行中、砂防会館~上中里運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
4 昭和四七年一一月二一日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「内幸町~砂防会館~東京駅~上中里」との記載がされ、なお右運行記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「東京駅送り ニモツ上中里」との記載に照らすと、同日、清水は、東京駅で被告人榎本と別れ、その後、荷物を届けるため、同被告人は乗せずに、前記自動車を運転して、同被告人の自宅に赴いたと認められる(清水の第一四二回公判期日における供述も同旨。)。したがって、前記最終運行中、東京駅~上中里運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
5 昭和四八年一月二〇日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「上中里~小金井~千登世橋」との記載がされ、なお右運行記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「小金井カントリー」との記載(小金井カントリークラブの清水ノート上の表示は「小金井」であると認められる。)に加え、清水(第一四二回、第一四三回各公判期日)、被告人榎本(第一四八回、第一五〇回各公判期日)の各公判廷供述、来場者メモ(甲二211)、中西正光作成の質問回答書(弁374)、ゴルフカード(弁375)、キャディ票(弁376)にも照らすと、同日、清水は、小金井カントリークラブで被告人榎本と別れ、その後同被告人の指示により、右中西を前記自動車に乗せて(同被告人は乗せず)、東京都豊島区雑司が谷三丁目の中西の自宅(その清水ノート上の表示が「千登世橋」であると認められる。)まで送り届け、そのまま官邸に帰ったと認められる。したがって、前記最終運行中、小金井~千登世橋運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
なお、清水は、第一四二回公判期日で、被告人榎本以外の者のみを乗せていても、ノート上「客」等の表示がされていない例のあることを指摘された後、第一四三回公判期日では、「最終の運行に榎本を乗せていて、途中で同人をおろし、その後だれか他の人を別の場所に運んだというようなときには、ノート上『客』等の表示はしなかったと思う。」旨供述するが、清水は、その前の第一四二回公判期日では、やはり最終運行の途中まで被告人榎本を乗せていて、その後他の者のみを別の場所に運んだ場合である後記6の事例について、なぜ「客」等の表示をしなかったのかと尋ねられ、「書落しか、ちょっと分りません。」と答えるのみであったのであって、同人が第一四三回公判期日で供述するような方針のもとに「客」等の表示をしていたとはにわかに信ずることができず、むしろ、これらの記載例は、要するに、清水は、榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、必ずしもノート上「客」等の表示をしていたものではないことをうかがわせるものというべきである。
6 昭和四八年二月二二日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「ホテルオータニ~溜池~銀座」との記載がされ、なお右運行記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「木ノ下 客銀座」との記載に照らすと、同日、清水は、木の下で被告人榎本と別れ、その後、同被告人以外の者のみを前記自動車に乗せて銀座に行ったと認められる(清水の第一四二回公判期日における供述も同旨。)。したがって、前記最終運行中、溜池~銀座運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。なお、「客」等の表示がないことについては、前記5で説示したところがそのまま当てはまる。
7 昭和四八年二月二三日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「麻布~溜池」との記載がされ、なお右運行記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「麻布」との記載や、「私が麻布でおりて車をだれかに提供したことがあったような気がするから、それがこの日のことではないかと思う。」旨の被告人榎本の第一五〇回公判期日供述等にも照らすと、同日、清水は、麻布で同被告人と別れ、その後、同被告人以外の者のみを前記自動車に乗せて溜池に行ったと認められる。したがって、前記最終運行中、麻布~溜池運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。なお、「客」等の表示がないことについては、前記5で説示したところがそのまま当てはまる。
8 昭和四八年七月三一日
清水ノート同日欄には一一時三五分官邸発、行先「砂防会館~日本橋~目白」、一時一〇分官邸着との運行が記載され、なお右記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「迎へなし 秘書官G」との記載等に照らすと、同日、被告人榎本はゴルフに行っていて清水運転車を使用せず、前記運行の際には同被告人以外の者のみが同車を使用していたと認められる。なお、清水は、第一四二回公判期日で、「この日はだれかほかの人を乗せたということも考えられる。ノート上その旨の表示をしなかったのは、書落しか(もしれないし)、ちょっとはっきりしない。」旨供述するのみであって、この点もやはり、清水は、被告人榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、ノート上必ずしも「客」等の表示をしていたものではないことをうかがわせるものであるということができる。なお、清水は、第一四三回公判期日では、右の運行について、「他の人を乗せたのかもしれないし、自分が一人で動いたのかもしれない。」旨供述するが、前記のような行先にも照らすと、清水が空車で右のような運行をしたとは考え難い。
9 昭和四八年一〇月二五日
清水ノート同日欄には、七時官邸発、行先「上中里~総理私邸~羽田」、九時四〇分官邸着、一時三〇分官邸発、行先「青山」、二時官邸着との運行が記載され、なお右記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「羽田」との記載、清水(第一四二回、第一四三回各公判期日)、被告人榎本(第一四八回公判期日)の各公判廷供述、田中角栄前内閣総理大臣行動日程(実績)一覧表写(甲一45。以下総理日程という)、田中総裁来神日程(甲二210)によると、同日、榎本は、羽田で清水と別れ、被告人田中に同行して東京国際空港から空路神戸に赴き、他方、清水は、羽田から官邸に戻り、その後榎本以外の者のみを前記自動車に乗せて、青山に赴いたと認められる。したがって、前記運行中、羽田以降の運行部分については、榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。また、清水は、第一四二回公判期日で、右青山運行についてなぜ「客」等の表示をしなかったのかと尋ねられ、「これも書落しか何かだと思いますが。」と答えるのみであって、この点もやはり、清水は、被告人榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、必ずしもノートに「客」等の表示をしていたものではないことをうかがわせるものということができる。
10 昭和四八年一二月二一日
清水ノート同日欄には、一一時三〇分官邸発、行先「砂防会館~八重洲口~砂防会館」、一時二〇分官邸着、一時五〇分官邸発、行先「砂防会館~竹橋~砂防会館」、三時三五分官邸着との運行が記載され、なお右記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「秘書官休」との記載や、清水の第一四二回、第一四三回各公判期日における供述に照らすと、被告人榎本は、同日は勤務を休んでいて、清水運転車を使用せず、右各運行の際には同被告人以外の者のみが同車を使用していたと認められる。清水は、第一四二回公判期日で、右各運行についてなぜ「客」等の表示をしなかったのかと尋ねられ、「書落しか何かじゃないかと思うんですが。」と答えるのみであって、この点もやはり、清水は、被告人榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、必ずしもノートに「客」等の表示をしていたものではないことをうかがわせるものというべきである。
11 昭和四八年一二月二五日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「溜池~銀座」との記載がされ、なお右運行記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「木ノ下」との記載や、清水(第一四二回、第一四三回各公判期日)、被告人榎本(第一五〇回公判期日)の各公判廷供述に照らすと、同日、清水は、木の下で同被告人と別れ、その後、同被告人以外の者のみを前記自動車に乗せて、銀座に行ったと認められる。したがって、前記溜池~銀座の運行部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。なお、「客」等の表示がないことについては、前記5で説示したところがそのまま当てはまる。
12 昭和四九年一月一一日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「砂防会館~日本橋~第一議員会館~蔵前~上中里」との記載がされ、なお右運行記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「蔵前送 上中里」との記載や、清水(第一四二回、第一四三回各公判期日)、被告人榎本(第一五〇回公判期日)の各公判廷供述に照らすと、同日、清水は、蔵前で被告人榎本と別れ、その後、同被告人は乗せずに、前記自動車を運転して、同被告人の自宅に赴いたものと認められる。したがって前記最終運行中、蔵前~上中里運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
13 昭和四九年一月一七日
清水ノートには、同日の最終運行として、官邸と上中里との間を往復した旨の記載がされ、なお右記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「上中里(ニモツ)」との記載に照らすと、右運行の際、清水は、荷物を官邸から被告人榎本の自宅に送り届けてそのまま官邸に帰ったのみであって、同被告人を乗せて前記自動車を運転していたものではないと認められる(清水の第一四二回公判期日における供述も同旨。)。
14 昭和四九年三月一日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「羽田~砂防会館」との記載がされ、なお右運行記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「羽田」との記載や、清水(第一二七回、第一四二回各公判期日)、被告人榎本(第一二九回公判期日)の各公判廷供述等に照らすと、同日、清水は、羽田で被告人榎本と別れ、その後、同被告人は乗せずに、前記自動車を運転して、砂防会館に赴いたと認められる。したがって、右羽田~砂防会館の運行部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
15 昭和四九年三月二七日
清水ノート同日欄中には、三時二五分官邸発、行先「東京駅」、三時五五分官邸着との運行の記載と、それに引続く四時一五分官邸発、行先「砂防会館~上野毛~砂防会館」、官邸着八時三〇分勤務終了との運行(これが同日の最終運行である。)の記載があり、なお右各記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「東京駅」との記載や、清水の第一四二回、第一四三回各公判期日における供述等に照らすと、同日、清水は、東京駅で被告人榎本と別れ、その後同被告人は乗せずに官邸に戻り、さらに同被告人以外の者のみを前記自動車に乗せて、砂防会館、上野毛また砂防会館へと運行したものと認められる。したがって、右両運行中、東京駅以降の運行部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったものと認められる。また、清水は、第一四二回公判期日で、右の行先「砂防会館~上野毛~砂防会館」の運行について、なぜ「客」等の表示をしなかったのかと尋ねられ、「ちょっと分らないですが、書落しだろうと思いますが。」と答えるのみであって、この点もやはり、清水は、被告人榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、必ずしもノートに「客」等の表示をしていたものではないことをうかがわせるものというべきである。
16 昭和四九年六月七日
清水ノートには、同日の最終運行の行先として、「砂防会館~東京駅~上中里」との記載がされ、なお右記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「東京駅送り ニモツ上中里」との記載に照らすと、同日、清水は、東京駅で被告人榎本と別れ、その後、荷物を運ぶため、同被告人は乗せずに、前記自動車で同被告人の自宅に赴いたものと認められる(清水の第一四二回公判期日における供述も同旨。)。したがって、前記最終運行中、東京駅~上中里運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
17 昭和四九年六月一八日
清水ノート同日欄中には、一〇時四五分官邸発、行先「羽田」、一二時官邸着との運行の記載と、それに引続く一時官邸発、行先「上中里」、二時三〇分官邸着との運行(これが同日の最終運行である。)の記載があり、なお右各記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「羽田」との記載や、清水の第一四二回、第一四三回各公判期日における供述等に照らすと、同日、清水は、羽田で被告人榎本と別れ、その後同被告人を乗せずに前記自動車で官邸に戻り、さらにやはり榎本を乗せずに同車で榎本の自宅へ赴いたものと認められる。したがって、右両運行中、羽田以降の運行部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
18 昭和四九年六月二一日
清水ノート同日欄には、七時一五分官邸発、行先「上中里~総理私邸~芝愛宕町~上中里~上十条~銀座」、一一時四〇分官邸着との運行記載があり(これが同日の唯一の運行の記載である。)、なお右記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「総理私邸送リ夫人上十条~銀座送リ」との記載や、清水の第一四二回、第一四三回各公判期日における供述に照らすと、同日、清水は、被告人田中の私邸で被告人榎本と別れ、その後、同被告人は乗せずに前記自動車を運転し、芝愛宕町を経て、榎本の自宅に赴き、そこで榎本の妻を同車に乗せ、(やはり榎本は乗せずに)上十条、銀座へ行ったと認められる。したがって、右運行中、総理私邸~芝愛宕町~上十条~銀座運行の部分については、被告人榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。そして、ここでも、上中里~上十条~銀座の運行部分について被告人榎本以外の者のみが乗っていたことをあらわす特別の表示がされていないこと(なお、清水は、この点についても、右特別の表示をしなかったのは「つけ落しと思う。」旨供述している。)は、やはり、清水は、被告人榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、必ずしもノート上に「客」等の表示をしていたものではないことをうかがわせるものということができる。
19 昭和四九年六月二六日
清水ノート同日欄中には、同日の最初の運行として、一〇時二五分官邸発、行先「砂防会館~東京駅」、一〇時五五分官邸着との運行の記載と、それに引続く運行として、一一時一〇分官邸発、行先「羽田~院内」、一時官邸着との運行の記載がされ、なお右各記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「一二時五分羽田迎へ」との記載や、清水の第一四二回、第一四三回各公判期日における供述等に照らすと、右一一時一〇分官邸発羽田行きの運行は、被告人榎本が出張の帰り東京国際空港に到着したのを清水が前記自動車で同空港まで迎えに行った運行をあらわすものと認められ、したがって、右両運行中、羽田以前の運行部分については、同被告人は清水運転車に乗っていなかったと認められる。ことに、右のうち、前記の行先「砂防会館~東京駅」の運行については、同被告人以外の者のみが同車を使用していたと認めることができるところ、清水は、ノート上この運行について「客」等の表示をしなかったのはやはりつけ落しである旨供述する(右各公判期日)のみであって、この点も、清水は、榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、必ずしもノート上に「客」等の表示をしてはいなかったことをうかがわせるものであるということができる。
20 昭和四九年一一月二八日
清水ノートには、同日の最終運行として、官邸と上中里との間を往復した旨の記載がされ、なお右記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水手帳同日欄の「上中里(ニモツ)」との記載に照らすと、右運行の際、清水は前記自動車で荷物を官邸から被告人榎本の自宅に送り届けてそのまま官邸に帰ったのみであって、同被告人を乗せて同車を運転していたものではないと認められる(清水の第一四二回公判期日における供述も同旨。)。
(二) 砂防会館等から清水運転車が被告人榎本を乗せずに官邸に帰り、あるいは同車が同被告人を乗せずに砂防会館等と官邸との間を往復した事例等
前記のとおり、清水は、第一二七回公判期日で、「榎本が外出先で専用自動車を手離し、自身は外出しているのに自動車だけ官邸へ帰すということはまずなかった。とくに砂防会館とか国会のような、駐車場のある外出先の場合には、駐車場でそのまま待っていたから、榎本を乗せずに自動車だけ帰邸するということはなかったと思う。」旨供述するが、関係証拠によれば、清水が、駐車場のある外出先に行った場合であっても、そこで被告人榎本をおろして、同被告人を乗せずに空車で帰邸し、その後また右外出先へ同被告人を迎えに赴いたこともあったことが認められ、清水も第一四二回、第一四三回公判期日で右の事実を認める趣旨の供述をしているのであって、同人の右第一二七回公判期日における供述をたやすく信用することはできない。そして、清水が、外出先で被告人榎本をおろし、同被告人は乗せずに一旦空車で官邸に戻り、その後また榎本を迎えるため右外出先に赴いた場合、ノート上には、当然、右外出先と官邸との往復の運行の記載がされることになる(なお、このような記載部分に関してはとくに他と異なる特別の表示はされないことが認められる。)が、右運行部分については、榎本は清水運転車に乗っていなかったのであるから、右運行記載は榎本の行動とは合致しないことが明らかである。
ところで、被告人榎本は、前記のとおり、第一二九回公判期日では、単に、外出の際公用車(すなわち、清水運転車)を離さずに使っていた旨供述するのみであったが、第一五〇回公判期日では、「出先で、駐車場がない場合や、駐車場があっても、有料である場合、官邸に近いから帰ってもらった方が早い場合などには、公用車をその場に待たせておかず、官邸に帰したことがある。また、公用車を置いておくのが都合が悪い場所である場合や、食事時である場合等にも、公用車を帰したことがある。そのようにして公用車を帰らせた外出先の例としては、赤坂の東急ホテル、有楽町の床屋、渋谷の真向法修練場、小料理屋、東雲ゴルフ場、ホテルグランドパレス等がある。しかし、砂防会館で公用車を離したことはない。」旨供述し、結局、外出先から清水運転車だけを官邸に帰し、その後また同車を迎えに来させたことがかなり数多くあることを認める供述に転じているのである。そして、同被告人は、右第一五〇回公判期日供述でも、砂防会館では清水運転車を離さなかった旨供述するのであるが、例えば、清水ノート昭和四七年七月八日欄をみるに、右ノート欄には、同日の最終運行として、二時三〇分官邸発、行先「第一議員会館~砂防会館」、三時官邸着との運行の記載があり、さらに引続いて「待キ」と記載され、勤務終了の時刻(その正確性については前記三参照)が六時三〇分と記載されているところ、このような記載内容や、清水がこの記載について、「これは、榎本を砂防会館へ送り込んでから、同人を乗せずに官邸に帰り、そこで待機していたところ、そのまま待機流れになったことを意味するのではないかと思う。」旨第一四二回公判期日で供述していることに照らすと、被告人榎本は、砂防会館へ行った場合でも、必ずしもそこで清水運転車を待たせず、これを官邸に帰して同所で待機させていたこともあったことが認められるのであり、これと反する内容の同被告人の右供述は信用し難いというほかない。のみならず、同被告人自身、第一五二回公判期日では、右同様清水運転車が砂防会館運行後官邸で待機していた旨の記載のある清水ノート同四八年七月二三日欄を示され、右の趣旨を認める供述をするに至っているのである。さらに、清水ノート上、右同様清水運転車が砂防会館運行後官邸で待機していた旨の記載は、右両日欄のほか、同年五月一九日、同年六月一八日、同年一一月九日、同年一二月一〇日、同四九年二月二三日、同年四月一八日、同年八月一五日、同年一二月五日の各欄にも見出されるのであって、これらについても、先に同四七年七月八日欄について説明したところと同様のことが当てはまる。すなわち、この場合、清水ノート上、他と異なる特別の表示をされることなく記載されている砂防会館、官邸の運行部分については、同被告人は清水運転車に乗っていなかったことになるのである。
もっとも、被告人田中、同榎本の弁護人は、右各例のような場合、必ずしも清水が被告人榎本を乗せずに官邸に戻ったとは断定できず、却って、同四八年七月二三日、同年一二月一〇日、同四九年四月一八日のように、同被告人もまた官邸に戻っていることがうかがわれる場合もあるし、仮りに右各例の中に、被告人榎本を砂防会館に送り込んでから、清水が、同被告人を乗せずに、官邸に戻り、そこで待機していた運行に関するものがあったとしても、これは、その日の最終の運行であって、本件授受があったとされる際のような日中の活動時間帯での運行とは明らかに異なっているから、これをもっていわゆるアリバイ崩しの例とするのは失当であるとも主張する。しかし、弁護人の右主張の前段は、同四八年七月二三日夜には官邸で被告人田中と自由民主党役員等との会合が、また、同四九年四月一八日夕方にはやはり官邸で政府与党連絡会がそれぞれ行われた(右各会合の事実は総理日程から明らかである。)ところ(なお、弁護人は、同四八年一二月一〇日にも同様のことが妥当する旨主張するが、同日の総理日程等をみても、同日に右主張の根拠となり得る事由があったとは認められない。)、被告人榎本は、政務担当内閣総理大臣秘書官としての立場上、このような会合には当然出席したはずであるという前提に立脚し、そのうえで右各会合の際に同被告人は官邸にいたはずであるということを理由とするのであるが、このような前提自体たやすく採用し難いものであることは後記七(三)2のとおりであり、また、前記のとおり、清水も、砂防会館運行後官邸で待機していた旨の記載のあるノート同四七年七月八日欄に関し、「榎本が官邸から別の自動車で帰ることはちょいちょいはなかったので(すなわち、通例、榎本が官邸にいるのなら、自分の運転する自動車で送り届けたはずであるという趣旨に解される。)、この記載は、榎本を砂防会館へ送り込んで、自分だけが官邸に帰り、そこで待機していたことを意味する可能性の方が強い。」旨供述していることに照らしても、右同年七月二三日等記載に関する主張前段部分はたやすく採用し難い。なお、官邸における政治関係の会合のように、弁護人主張のような砂防会館運行後の被告人榎本在邸事由を示すとされ得るものは、前記一〇日分の事例のうちの弁護人指摘分中の右二日及び同四八年一一月九日のわずか三日だけであり、大半についてはこのような事由は存在しないことにも留意すべきである。なお、右主張の後段についてみても、前記の一〇日分に関する砂防会館運行は、大半、まさに日中の活動時間帯での運行ということができるものであるから、その主張は失当である。
ところで、右のようにして、清水運転車が、砂防会館で被告人榎本をおろして官邸に戻り、そこで待機している場合、待機流れとならずに、砂防会館にいる榎本からの呼出に応じて、また同会館へ迎えに行けば、ノート上「待キ」の記載はされず、代りに、前記砂防会館から官邸への運行に引続いて、さらに官邸から砂防会館への運行が記載されることになることが明らかである。すなわち、このような場合には、被告人榎本の使用していない砂防会館、官邸の往復の運行が、ノート上、他の運行記載と異なる特別の表示をされることもなく、記載されることになる。そして、ことに清水の第一四二回公判期日供述等に照らすと、待機流れとなった場合より、清水運転車が再び砂防会館へ迎えに行った場合(すなわち、ノート上右のような砂防会館、官邸往復の記載がされることになる場合)の方が数が多かったと認められるのである。現に、清水ノート全体を通覧すると、清水運転車が砂防会館と官邸の間を往復した旨の記載を極めて多数見出すことができるのであるが、以上検討したところに照らすと、そのうちの相当数は、右のようにして、同車が被告人榎本を乗せずに走行した運行に当ると推認することができる。
(三) 官邸職員による清水運転車の使用例
本件当時秘書官室の職員であった桜川博三は、第一四五回公判期日において、「田中内閣当時、私は翌日の総理大臣の日程を毎日砂防会館に届けていた。その時間帯は、月曜ないし金曜が四時ないし六時ころ、土曜が一時ないし二時ころであった。その際は常に秘書官専用車を使用し、往復とも同じ自動車を使用した。榎本の専用自動車も昭和四八年一〇月ころから同四九年三月末ころまでの間に四、五回使ったことがある。それ以前にも同車を使ったことはあったと思う。」旨供述する(なお、被告人田中、同榎本の弁護人は、桜川がここで供述しているのは、同人が被告人榎本と同乗して砂防会館に行った場合のことである旨主張するが、右供述の全体の趣旨に鑑みると、桜川の右供述内容は、同人が単独で砂防会館に赴いた場合のことを指していることが明らかである。)ところ、右の供述は、その内容自体明確、具体的であって、十分信用し得ると認められるのであるが、田中内閣当時の期間に関する清水ノートをみるに、同ノート中桜川が清水運転車を使用したことをあらわす「桜川」との表示が付されている例はわずか一例見出されるだけである(同ノート昭和四八年一一月一九日欄)。また、被告人榎本以外の者が使用したことをあらわす表示がある前記の五日分全体の清水ノートの記載中にも、右同四八年一一月一九日欄の他に(工藤を乗せたと認められるものを除き)行先が砂防会館以外であることからして桜川が清水運転車を使用したことをうかがわせるものがあるとは認めることができない。そうすると、清水ノート中には、被告人榎本が乗らずに桜川が使用して官邸と砂防会館との間を往復した数回の運行が、「桜川」、「客」等の特別の表示をされることもなく記載されていることが明らかである。
もっとも、この点について、被告人榎本は、第一五〇回公判期日で、「私が平常勤務についている際、官邸職員に自分の専用自動車を使わせたことはない。桜川にも同車を一人で使わせたことはない。夕方ころ桜川を砂防会館まで同乗させたことはあるが、数は数えるくらいである。その場合にも桜川を専用自動車で送りかえしてやったことはない。」旨供述するが、右供述も桜川の前記供述の信用性を左右するには足りないと認められる。
なお、その他、本件当時官邸車庫長であった金田治平が、月に一回くらいの割合で、榎本の使用しない際に、清水運転車に乗せてもらい、総理府や国会などに行っていた旨供述し(第一四五回公判期日)、秘書官室職員であった松平悌二郎も、自動車があいているときはいつでも使ってくれと清水に言われていた旨供述している(第一三二回公判期日)こと等にも照らすと、桜川のほかの官邸職員も相当程度清水運転車を使用していたことがうかがわれる。
(四) その他の事例
1 清水ノート昭和四八年一月一六日欄には、同日の最初の運行の行先として、「上中里~御茶ノ水~上中里」と記載され、なお右運行記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水(第一二七回公判期日)、被告人榎本(第一二九回、第一五〇回各公判期日)の各公判廷供述、東京都北区長作成の戸籍謄本(弁115)によると、同日、被告人榎本の三男が医科歯科大学付属病院で出生し、同被告人は同病院へ行っていたため、清水は一旦榎本の自宅へ迎えに行ってから、空車で同病院(清水ノート上の表示は「御茶ノ水」)へ向かったものであって、したがって、前記運行中、上中里~御茶ノ水運行の部分については、榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
2 清水ノート昭和四八年一月一七日欄には、同日清水運転車が官邸と鮫洲の間を往復した旨の運行の記載があり、なお右記載について他と異なる特別の表示はされていないが、清水(第一四二回、第一四三回各公判期日)、被告人榎本(第一四八回、第一五〇回各公判期日)の各公判廷供述、警視庁運転免許本部長鎌田登作成の捜査関係事項照会回答書(甲一231)によると、右運行の際には榎本は清水運転車に乗っていなかったと認められる。
3 清水ノート昭和四九年六月一一日欄には、同日清水運転車が官邸と麹町四丁目の間を往復した旨の運行の記載があり、なお右記載について「客」等の特別の表示はされていないが、清水の第一四二回、第一四三回各公判期日における供述等に照らすと、右運行の際には、被告人榎本は清水運転車に乗っておらず、同被告人以外の者のみが同車を使用していたと認められる。この事例もまた、清水は、被告人榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、必ずしもノート上に「客」等の表示をしてはいなかったことをうかがわせるものというべきである。
4 清水の第一四二回、第一四三回公判期日における供述によると、清水が走行中速度制限違反により検挙された際、被告人榎本は、清水運転車に乗っておらず、藤ノ木の運転する被告人田中の私邸の自動車に乗っていたということがあったことが認められる。右の事例は、たまたま検挙された際のことであるから、そのことの記憶とともに、清水も鮮明に記憶していたものであることがうかがわれるのであるが、このように榎本と清水とが別の自動車で行動していたこともあったことを推認させる一つの徴憑たり得ることはいうまでもない。
以上(一)ないし(四)において検討したところによって明らかなように、取調済みの証拠により判明する限りにおいても、清水ノート上特別な表示をされることもなく記載されている相当多数の運行について、被告人榎本が清水運転車を使用していなかったことが認められるのであって、同ノート上記載されている運行であるからといって、それが同被告人の行動と合致する旨結論することは許されないといわなければならない。ことに、清水が被告人榎本の専用自動車を運転していた前記二年余の期間中の清水ノートには、清水が同被告人以外の者のみを乗せて運転していたことをあらわす「客」等の表示が付されている例はわずか前記の五日分についてのみ見出されるだけであるのに、以上検討したところに照らすと、右期間中の運行で、清水ノート上「客」等の表示は付されていないが、榎本以外の者のみが同車を使用していたと認められる事例は、前記のその旨明示されている事例よりはるかに数が多かったことが認められるのであって、そもそも清水にはノート上右使用者の別を記録しておく必要がなかったと認められること(清水は運転日誌に記載する準備の意味で右ノートに記帳していたと認められるが、日誌に右使用者の別を表示することは実際上必ずしも要求されていなかったことがうかがわれる。)にも鑑みると、清水は、榎本以外の者のみを乗せて前記自動車を運転しても、ノート上その旨をとくに表示しないことの方がむしろ通例であったとうかがい得るのである。なお、被告人田中、同榎本の弁護人は、「清水は、榎本以外の人を乗せた場合、ノート又は手帳(すなわち、清水手帳。以下同じ)に「客」、「(右使用者の)名前」等を書くようにしていたし、ノート又は手帳のいずれかに記載すれば記録したと思っていた。」旨主張したうえ、前記(一)1ないし4、6、12ないし14、16ないし18、20の一二例については、いずれも手帳上被告人榎本の使用していないことが分る記載がされているから、この意味で、その旨の記録がされているといえる旨論ずる。たしかに、清水は、第一四三回公判期日で、手帳に「客」等と記載しておけば、ノートに記載したのと同様に記録したと思っていた旨供述しているが、これは弁護人の全くの誘導尋問に対してなされた答であって、それ自体信用性が低いのみならず、前記のとおり、ノートであれ、手帳であれ、清水が右の記録をしておく必要があったとは認められないのであり、また、清水は、ノートに「客」等の記載をすれば、その旨日誌にも記載することがあったが、手帳の記載についてはこのような関係は認められず、ノートと手帳とは、この意味でも、記録としての性格を異にすることがうかがわれる(手帳は、要するに、その日ごとの心覚えのためのもの以上のものではないことがうかがわれる。)のであって、なお本件立証の前記経緯にも照らすと、弁護人の右主張は、前記のとおりそのアリバイ関係立証を一応終了した後に訴訟上内容が明らかとなった清水手帳によると、清水ノート記載の運行(「客」等の表示のないもの)の相当数について被告人榎本が清水運転車を使用していないことが判明するに至ったため、この点の辻つまを合わせるためなされるに至ったものであると考えざるを得ないのであり、到底採用し得ない。
以上検討してきたところを総合すると、本件現金授受の当日とされる昭和四八年八月一〇日、同年一〇月一二日、同四九年一月二一日、同年三月一日の各日についても、清水ノート上運行の記載があるという事実のみによって、被告人榎本が清水運転車に乗りその記載どおりの行動をしていたものと推定することは到底できないことが明らかである。清水は、第一二七回公判期日等で、右各日も、清水ノート記載どおり(ただし、右ノート同四九年三月一日欄の、羽田以降の運行記載部分を除く〔前記(一)14〕)、同被告人を乗せて運行した旨供述するが、清水は右各日の運行状況についてとくに具体的に記憶を有しているのではなく、単に、被告人榎本の専用自動車を運転した際には必ず同被告人を乗せていたとの前提に基づく判断を述べているにすぎないことが明らかであるところ、右のような前提の存在が誤っていることはすでに説明したとおりであるから、右供述は全く採るに足りない。したがって、右各日に榎本が清水ノートの記載どおりの行動をしていたとするためには、右清水ノートの他にこれを裏付ける適切な証拠を挙げる必要がある。
そこで、以下この観点から六ないし九の各項において、右各日のアリバイの成否につき、個別に検討を加えていくこととする。
五 ところで、被告人田中、同榎本の弁護人は、被告人榎本の使用自動車につき、右のように内閣総理大臣秘書官在任当時は常に清水運転車を使用していた旨主張するとともに、当時、同被告人が笠原運転車を使用したことはない旨主張するので、以下この点について付随的に検討を加えておく。
しかして、この点については、笠原が、捜査段階で、坪内検事に対し、(前記第二・五のとおり)被告人田中が内閣総理大臣に在任していたころ、被告人榎本を自分の運転する被告人田中の私邸の自動車に乗せて、運行したことがあるとしてその運行先をあれこれ挙示し、さらに銭高ビル前路上(英国大使館裏)、九段高校向い側の電話ボックス付近路上、ホテルオークラ駐車場、富士見町のマンションに赴いた旨供述して、被告人榎本が内閣総理大臣秘書官に在任していたころであっても、同被告人を自分の運転する右私邸の自動車に乗せて運行したことがある旨供述しているところ、笠原の供述の信用性が高いことは前記第二・五で説明したとおりであって、右の供述部分についても同様である。
被告人榎本もまた、捜査段階で、検察官に対し、本件現金の受領の際、笠原の運転する私邸の自動車で引渡場所に赴いた旨供述し、また、清水運転車を使わず笠原運転車を使用した理由として、「敢えて清水を使わなかったのは、公私にけじめをつけ、この丸紅からの献金は自民党が来たるべき参議院選挙を有利に戦うため党の総裁としての田中が献金を受けるものだという認識に立っていたことから、役所関係の仕事ではないし一方で私にとっても重大な任務であるという潜在意識から、清水を避けさせた方がよいと判断したからだった。」(昭和五一年八月三日付検察官面前調書〔本文一九丁のもの〕)と供述しているところ、右供述内容、ことに本件現金受領に敢えて公用車を使わず、笠原運転車を利用した理由を述べる供述部分は、被告人榎本の認識する自らの立場(本件金員が参議院議員選挙のための政治献金として贈られたものであるとの供述部分の真偽はさて措き)に即した自然な心境の表明ということができ、信用性は高いと認められる。
なお、被告人榎本は、公判廷においても、第一一七回公判期日では、「内閣総理大臣秘書官当時も笠原の運転する自動車に乗ったことがゼロであったとはいえない。」旨供述していたが、第一五一回公判期日では、「秘書官当時笠原運転車(前記のとおり、笠原の運転する被告人田中の私邸の自動車)に乗ったことはない。休みの日に釣りに行くとき、笠原に自動車を運転してもらったことがあるが、その場合も私邸の自動車は使わなかった。」旨供述し、また、弁護人に対する同五七年六月三〇日付質問回答書(弁655)でも、右第一一七回公判期日供述は釣りに行ったときに笠原の運転する自動車に乗ったことがあることを指したにすぎない旨供述し、要するに、内閣総理大臣秘書官当時は笠原の運転する私邸の自動車を使用したことはないとの趣旨の供述をするに至っている。しかし、被告人榎本は、捜査段階において右のような供述をした理由について、公判廷では、被告人田中の私邸に勤務する者の役割等を前記村田検事に説明したところ、本件の授受に使用したのは笠原運転車であると村田検事が勝手に絞っていき、それを自分が認めさせられた旨、まことに不自然で首肯し難い内容の供述をするに止まっているのであって、このことと前記第二・四のとおり、本件授受に関する被告人榎本の公判廷供述は検察官面前供述に比して一般的に信用性が低いと認められることにも照らし、右第一五一回公判廷供述及び質問回答書による供述は到底信用し得ない。
なお、前記山田は、公判廷において、「笠原は私の承諾がなければ他の人を自動車(すなわち笠原の運転する私邸の自動車)に乗せられないことになっていた。田中が内閣総理大臣に在任していたころ、榎本のために右自動車を運転することを笠原に対して許したことはない。榎本が右笠原運転車を勝手に使えば分るし、そのようなことはなかったと思う。」旨供述するが、右供述は、前記のとおり内容が明確、具体的で、信用性が高いと認められる笠原の供述、被告人榎本の検察官面前供述等の内容に比し、信用性が低く、たやすく信用することはできないと認められる。
また、清水、松平、片岡らは、公判廷で、笠原の一般的勤務状況につき種々供述するが、いずれもその内容自体において、同被告人が笠原運転車を使用することがおよそあり得なかったとの趣旨までをも含むものとは解されない。
結局、被告人榎本は内閣総理大臣秘書官在任当時笠原運転車を使用したことがない旨の弁護人の右主張は採用し難い。
六 本項においては、清水ノートに対する前記の評価を前提とし、前記第一・三(二)の現金授受について、これを裏付ける証拠の存否の観点から被告人榎本のアリバイが成立する合理的な疑いが存在するかどうかに関し検討を加える。
(一) 清水ノート昭和四八年八月一〇日欄には以下のような運行の記載がある。
七時官邸発~上中里~総理私邸~九段~総理私邸~砂防会館~一〇時一〇分官邸着、一二時五分官邸発~砂防会館~院内~ホテルオータニ~院内~二時四〇分官邸着、四時三〇分官邸発~九段~砂防会館~東邦大学病院~六本木~向島~官邸着、一一時四五分勤務終了(この勤務終了時刻は、前記三のとおり、早出分を加算したものであって、正確な勤務終了時刻は一〇時であると認められる。)
そして、被告人榎本は、公判廷で、右ノート記載の上中里から向島までの運行についてはすべて自分が清水運転車に乗車しており、また、同日中、右ノート記載の場所以外の所へ行ったことはない旨供述し、その行動内容についても逐一供述している。
ところで、本件におけるアリバイの成否の判断のうえで問題となるのは、いうまでもなく、被告人榎本が、前掲証拠の標目欄記載の証拠によって認められる(前記第一・三(二)関係事実)、同日午後二時二〇分ころ、笠原運転車により東京都千代田区一番町一番地英国大使館裏路上に赴いて同所で本件現金授受を行うこと、さらに、受取った現金を同車によって被告人田中の私邸に運び込むこと等の行動と物理的に矛盾することとなる事実が存在するかという点であるから、このような観点から、右清水ノートの記載のうち、そのとおりに被告人榎本が行動していたとすると右現金授受等の事実と矛盾することになるのはどの範囲であるかを先ず考えてみる必要がある。そうすると、被告人榎本としては、同日のうち午後二時一六分ころ以降午後三時五分に若干の分単位の時間を加えた時刻ころまで以外は右清水ノートの運行記載どおりの行動をしていても、右の現金授受、運搬を行うことは可能であったと認められる。すなわち、午後二時一六分ころの同被告人の所在をその公判廷供述及び清水ノート記載により院内と想定すると、国会、英国大使館裏路上間の自動車での所要時間(以下の所要時間はすべて自動車の運行によるもの)は約四分、英国大使館裏、被告人田中の私邸間の所要時間は約一九分、私邸、官邸間の所要時間は約二六分であると認められる(検察事務官作成の昭和五六年一〇月一日付実況見分調書〔甲一247〕等)から、被告人榎本は、午後二時一六分ころ、笠原運転車で国会を出て、午後二時二〇分ころ英国大使館裏路上に至り、同所で現金を受取り、田中の私邸を経て、午後三時五分に若干の分単位を加えた時刻ころ官邸に着くことが可能であった。右若干の分単位の時間は現金の積みかえ及び現金の私邸内運び込みに要する時間である(短い時間を想定すればよいと考える。)。なお、この場合、清水ノート同日欄記載の前記院内~官邸の運行部分については、清水運転車が被告人榎本を乗せずに走行していたことになるが、これを想定し得ることについては前記第一・四で示したとおりである。そして、同日のうち、右以外の時点については、仮りに被告人榎本が清水ノート記載のとおりの行動をしていたことが認められたとしても、このような事実は前示本件の授受、運搬と事実問題として両立可能であるから、とくに考察の対象とする必要がなく、結局、右の時間帯について被告人榎本が清水ノート記載に副う行動をしていたことがうかがわれるか否かが、本件アリバイの成否にとって本質的な問題となる。そこで、以下においては、右の問題の時間帯に関する、前記清水ノート同日欄の引用中の傍線を付した部分について、同被告人がそのとおりの行動(院内で行動、院内発二時四〇分官邸着、以後官邸で行動)をしていたことがうかがわれるかどうかを検討することとする。
(二) この点に関し、被告人榎本は、公判廷で、「午後一時五〇分ころ国会に到着し、当時紛糾していた国会情勢の収拾のため前尾衆議院議長が同日午後二時ころ収拾案を提示することになっていたので、院内自民党幹事長室で、居合わせた先生方や新聞記者と話をして、情報収集をした。その際毛利松平と話をした記憶がある。それから、午後二時二〇分ころ院内内閣官房長官室に移り、官邸記者会の記者らから情報を収集した。各党とも前尾収拾案を受ける意向であるというふうに聞いたから、適当にみはからって国会を出た。院内で山下元利内閣官房副長官にも会ったような気がする。山下に対し、報告というか情報交換というか、うまくいきそうですねとか、大体いけるんじゃないですかとか、そういうような話はしたんじゃないかと思う。午後二時三五分ころ清水運転車で国会を出て、午後二時四〇分ころ官邸に戻り、日常の執務をしたが、官邸に帰って間がないころ、後藤田正晴内閣官房副長官に対し、国会情勢について、こういうことになりそうですよ、というような話をしたと思う。」旨供述する。右の供述はまさに本件のアリバイに直接かかわる内容を包含するものであるが、同被告人の右供述部分は、本件現金授受を全面的に否定する同被告人の公判廷供述部分と、密接、一体の関係をなすものであるところ、右現金授受否定供述の信用性が著しく低いものであることは前記第二・四で詳細に説明したとおりである。そして同被告人がなしたという情報収集活動なるものの内容及びその必要性も著しくあいまいかつ無内容であるなど、前記供述内容及び供述態度には迫真性を欠くものがあり、さらに、同被告人の右アリバイ供述の中心をなす、院内で山下と会った旨の供述をするに至った経緯をみるに、第一二九回、第一三〇回公判期日で昭和四八年八月一〇日等の行動の概要を供述した際には、山下と会ったことについて述べず、その後山下が第一三六回公判期日で右の点について供述した後に第一四八回公判期日でこれに副う内容の供述をなすに至ったことをも考え合わせると、同被告人が真実にその記憶に基づいて山下との会見を供述しているものとは認められない。
なお、ここで、右問題の時間帯に直接関係する事項ではないが、訴訟中における当事者双方の立証の経緯にも鑑み、昭和四八年八月一〇日のアリバイについての被告人榎本の公判廷供述に信用性がないことを示すもう一つの例として、同日のホテルニューオータニにおける行動に関する同被告人の公判廷供述について一言しておく。
すなわち、前記のとおり清水ノート同日欄には清水運転車がホテルニューオータニへ赴いた旨の運行記載があるが、そのことについて、被告人榎本は、公判廷で、「一二時四〇分か四五分ころ院内を出、清水運転車でホテルニューオータニへ向かい、六、七分後に着いた。そこで、同ホテルの斎藤清志に会い、八月一四日に同ホテルで行われることになっていた総理と名古屋財界との懇談会の打合せをした。部屋を見たり、控室をどうするかとか、控室のときに酒を出すかどうかとか、どんな料理かとか、中でもなまものは避けた方がいいのではないかとか、随員等の食事のこととか、テーブルの配置をどうしたらいいとか、警備のこととか、細かいことまで打合せをした。打合せには四〇ないし五〇分くらいかかった。(その後、清水運転車で国会へ行き、前記のとおりの情報収集をした。)」旨、同ホテルにおける自己の行動について、詳細な具体的状況の記憶があるとの趣旨の供述をしている。
ところで、右総理と名古屋財界との懇談会(後に名友会と称された)は、第一回会合が昭和四八年四月一三日に料亭千代新で、第二回、第三回(ここで問題となっているもの)各会合がそれぞれ同年六月二九日、同年八月一四日にいずれもホテルニューオータニで、第四回会合が同年一〇月二六日にホテルオークラでそれぞれ開催されたことが認められ、なお、被告人榎本は、第二回ないし第四回の各会合については、自身、事前にホテル側と(第二、第三回各会合については斎藤と)打合せをした旨公判廷で供述している。
そして、右斎藤清志(本件当時ホテルニューオータニ料飲セールス課)は、公判廷で、昭和四八年八月一〇日の被告人榎本の供述している右時間帯に、約四〇ないし五〇分間にわたり、榎本と前記懇談会に関して打合せを行った旨、同被告人の右公判廷供述に副う内容の供述をしている。しかしながら、斎藤は、同日における自己の行動として、同日は榎本との打合せ以外はデスクワークをしたと思う旨供述していた(第一三二回公判期日)が、右の供述部分は、社内領収証(日当分。甲二187)、同(交通費分。甲二188)、面会証(昭和四八年八月一〇日付。甲二189)等によると、斎藤が同日山崎拓事務所、鳩山威一郎事務所等に赴いていることが認められることに照らし、誤りであると認められ(斎藤自身、第一四七回公判期日で証人として再度供述した際には、この点を認めている。)、このような点からしても、同日の出来事に関する斎藤の記憶の確かさには極めて疑わしいものがあると認められること、斎藤は、公判廷で、「榎本さんは、総理(すなわち、内閣総理大臣在任中の被告人田中)が財界人と会うとか、あるいはほかの関係者と懇談、宴会をする場合に、ホテルニューオータニにはいつも警護関係の打合せに来ておったんですか。」と尋ねられ(質問の趣旨は本件以外の会合の打合せについて尋ねる点にあることが明らかである。)、「ご自分が、例えば私どもに紹介したご宴席、そういったもの、それから直接総理が出席されて自分が私どもに紹介した宴席については、ほとんど私は事前にお目にかかっております。」と供述している(第一三二回公判期日)が、被告人榎本自身、公判廷で、田中が内閣総理大臣在任中出席し、かつ、ホテルニューオータニで開催された多数の会合中榎本自身がホテル側と事前の打合せないし確認をしたものはどのくらいあるかと尋ねられ、昭和四八年六月二九日、同年八月一四日の二回の総理と名古屋財界との懇談会のほかには事前の打合せ等をしなかったと思う、田中内閣総理大臣が出席して同ホテルで行われた会合(右名古屋財界との懇談会を除く)の中には、自分が同ホテルに紹介したものもあるかもしれないが、そのようなものについても事前の打合せ等はしていないと思う旨供述している(総理と名古屋財界との懇談会について事前の打合せをしたとの点はさて措き、その他の会合について打合せ等をしなかったと思う旨の供述部分は信用し得ると認められる。)こと等に鑑み、斎藤の右供述部分も信用し得ないと認められること、後記被告人榎本供述の内容に関する検討箇所で指摘するように、本件懇談会についてそれほど長時間をかけて詳細な打合せを行うことを必要としたとは考えられないのであり、この点からしても斎藤の供述は不自然であるというほかはないこと等の諸点を勘案するに、斎藤の供述全体の信用性には多大の疑いを容れる余地があるというべく、これをたやすく措信することはできない。したがって、斎藤の供述に被告人榎本の供述が多くの点で合致しているからといって、後者の信用性がそのために裏付けられるというものではない。
つぎに、被告人榎本の右公判廷供述の内容自体について検討するに、
1 右供述にかかる打合せの内容なるもの自体が、概ね弁92(八月一四日の前記懇談会の宴会ファイル〔マイクロコピーとして保存されている〕を斎藤がホテルニューオータニ職員に書き写させて被告人榎本側に提供したもの)等の記録に記載されている事項であって、同被告人自身の記憶の存在をうかがわせるに足りるものを右供述中に一切見出すことができないこと、
2 前記のとおり、八月一四日の(第三回)懇談会は、六月二九日の(第二回)懇談会に引続き同ホテルで行われたものであって、また六月二九日と八月一四日の各懇談会は、出席者にわずかに違いがあり、また、宴会室や控室が異なる(もっとも、両宴会室は隣り同士の関係にあり、大きさも同様であって、また各宴会室と各控室との距離関係等も同様である。)等の相違点があるほかは、ほとんど同様の形式で行われたことが認められ、このように同じような懇談会をまた行うについて、同被告人が供述するような長時間にわたる詳細な打合せをする必要があったとはにわかに信じ難いこと、
3 ことに、本件懇談会の主催者の立場にある名古屋商工会議所の職員で、ホテルとの連絡に当った古橋利治は、「第二回懇談会の申込のため、六月一一日ころ、ホテルニューオータニへ行き、斎藤と会ったが、斎藤と会って懇談会の事前打合せをしたのはその時だけである。その際、料理の内容等について、ふさわしい料理をお願いすると言ったら、斎藤は、よくお使いいただいているのでおまかせ下さいとか、総理はエビがお嫌いだというようなことを言っていたので、こちらから一々言うまでもないと思い、その点、それ以上の話はしなかった。八月一四日の懇談会については、前回の経験があるので、前回どおりということで、とくに打合せはせず、メニューについてもホテル側に任せておいた。」旨公判廷で供述し、また、右供述は、とくに疑いを容れるべき点もなく、十分信用できると認められる(なお、斎藤は、任されたといってもすべて何も相手に示すことなくすべてを私共だけでやるということはないはずであるなどと供述するが、古橋の供述によると、メニュー決定後ホテル側は古橋の方へこれを送付していたものであって、古橋の側でもこれを了知したうえさらに注文をつけるなどすることも可能であったと認められるから、斎藤の右供述に照らしても、古橋の供述内容が不自然なものであるとはいえない。)ところ、このように、本件懇談会の主催者側の者さえ、とくに八月一四日の懇談会については、ホテル側と打合せを行わなかったというのに、榎本がその供述するような詳細な打合せを斎藤との間で行ったというのはいかにも不自然であること、
4 前記のとおり、榎本は、本件打合せの状況について記憶がある旨強調し、ことに、斎藤との間でなまものを避けるとの話をしたことについてはとくに印象があるかのように繰返し供述しているのであるが、この点、斎藤は、なまものを避けるという話を榎本との間で打合せした記憶はない旨供述し、両者の供述にも相違があるうえ、六月二九日の(第二回)懇談会の宴会ファイル(甲二183)には、「海老、生物を避ける」との記載があり、総理と名古屋財界との懇談会についてその点はすでにホテル側も了知していたと認められる(斎藤自身、公判廷でも、田中がなまものを好まないことを知っていたことは認める趣旨の供述をしている。)のであって、八月一〇日の段階で、榎本が供述する「なまものは避けた方がいいのではないか。」というような打合せが行われたとは、(榎本の供述するところによれば、右懇談会の打合せを斎藤と行うのは八月一〇日がすでに二回目であるというのであるから、ますます)にわかに信じ難いこと等にも照らすと、榎本が同日に斎藤との間でそのような話をしたことはなかったと認められ、榎本の右供述は、前記弁92に、「海老、サーモン、生物避けること」との記載があるのを見て、あたかもそのような話を斎藤とした記憶があるかのように述べているものにすぎないと認められること
等の諸点が明らかであって、これらに鑑みると、被告人榎本のホテルニューオータニにおける行動に関する右供述は、総じて、不自然で、同被告人の記憶に基づくものではないと認められ、到底信用に値いしないというほかないのであって、本件のアリバイにとって本質的な時間帯中の行動と一連の関係に立つ行動に関するものとしてされた榎本の供述中にこのように信用性の著しく欠けるところがあることは、ひいて、同被告人の本件アリバイの時間帯に関する前記アリバイ供述の信用性が低いことをうかがわせる一つの重要な徴憑たるを失わないというべきである。
結局、以上検討したところに照らすと、被告人榎本の前記アリバイに関する供述のみでは、ただちにこれを採ってアリバイの証拠とすることはできない。
そこで、なお、同被告人の供述に符合する証拠の存否及び信用性について検討する。
(三)1 衆議院議員で昭和四八年八月一〇日当時自由民主党副幹事長であった毛利松平は、公判廷において、同日、前尾収拾案が出された前後ころ、院内自由民主党幹事長室で被告人榎本と会った旨、同被告人の前記供述と符合する供述をしている。しかし、国会情勢との関係で被告人榎本との間でどういう話をしたのかという点も含め、当日の状況に関する毛利の記憶は極めて薄いものであることが、その供述内容自体からも明らかであること、毛利は榎本と会ったのは前尾収拾案の出た日のことであるということで覚えている旨供述する反面、当時の国会の紛糾、収拾の状況について、公判廷供述当時甚だ漠とした記憶を有していたにすぎないことがうかがわれるのであって、前尾収拾案との関係で日時を特定した旨の右供述については首肯し難い点があること、毛利は本件のほかにも榎本と相当回数会ったことがあると認められるのに、その日時、状況、話の内容等についていずれも記憶していないことがうかがわれること、毛利は、「そのころ、はり師の岡部のところで榎本と会ったことがあったので、この日院内で榎本と会った際、まだ岡部のところに通っているのかと聞いたところ、榎本はまだ通っていると言っていた。榎本は昭和四八年の秋か冬ころまで岡部のところに通っていた。」旨供述するが、被告人榎本が岡部のもとに通ったのは、同四七年末ころまでで、その後はやめていたと認められ、したがって、毛利は、別の機会に同被告人との間でした岡部に関する話を、この時のこととして供述しているものと認められるのであって、この点からも毛利の記憶には混同のあることがうかがえること等に鑑みると毛利の前記供述中、被告人榎本と院内で会ったのが昭和四八年八月一〇日のことであるとする部分は信用することができない。なお、被告人榎本は、前記はり治療の点に関し弁護人に対する同五七年一二月七日付質問回答書〔弁673〕に至って、同四八年及び同四九年にも岡部のもとに通っていた旨供述するが、同被告人は、第一三五回公判期日では、指圧師の野口正明と岡部の治療を受けていた期間は重複しておらず、野口の治療を受けるようになってから岡部の方が遠のいた旨供述するところ、同被告人作成の血圧グラフ(弁117)等によると、榎本は同四七年一二月ころから野口の治療を受けるようになり、以後ほとんど毎週二回その治療を受けていたと認められること、また、榎本は、岡部のもとにも清水運転車で通っていた旨、なお岡部方の清水ノート上の表示は「池袋」である旨供述するところ、清水ノートを点検するに、同四七年分には相当頻繁な池袋運行の記載が見出されるのに、同四八年、同四九年分については二年間でわずか三回の池袋運行の記載があるにすぎないこと(同四八年一月から同年八月までについては、池袋運行の記載は皆無である。なお、同被告人自身、岡部のもとへ行くのとは別の用件で池袋に行ったことがあることは認めている。)、同被告人の前記質問回答書記載供述は、右第一三五回公判期日供述を変更するものであるが、同被告人は、右回答書等でも、右供述変更の理由について何ら首肯し得る理由を述べていないこと等の諸点を総合すると、同被告人の右回答書記載供述は信用することができない。
2 被告人榎本が山下元利と会ったとの点については、同被告人の供述自体において、それが毛利の場合ほど鮮明な記憶でないとし、会った時間帯や、会ったのが院内のどの場所であったかについても明らかにしないなど、漠然とした内容に止まっているのであるが、山下は、第一三六回公判期日で、「昭和四八年八月一〇日、院内の秘書官室か自由民主党国会対策委員会室前廊下で榎本と会った。榎本と会った時間帯は前尾収拾案提示のころかその直後ころであり、また、当時の新聞を見ると、同日午後三時三〇分に砂防会館で自分たちが田中に対し前尾収拾案について説明していることが分るところ、榎本と会ったのはそれよりも前のことである。」旨供述しているのであって、関係証拠によると、前尾収拾案が各党国会対策委員長により各党に伝えられたのが同日午後二時二五分ころと認められるところ、そのころ同被告人が院内にいたということになると、それは同被告人の本件アリバイを支持するものであるから、山下の右供述を信用し得るか否かは、本件の判断に当って重要な意味を有すると考えられる。
そこで、山下の供述につき検討するに、山下は、同日の自分の行動に関し、単に被告人榎本と会ったことについて記憶があるとするほかには、他にどういう行動をとり、他にどのような人に会ったのか、(客観的な記録により推測するほかには)およそ記憶していないことがうかがわれるのであり、同被告人と会ったという、それ自体ではとくに記憶に残るような特異さを帯有しない出来事についてのみ記憶しているのはいささか不自然であること(山下はこの日榎本と会った際どのような話をしたか記憶していないというのであり、当時山下が榎本と顔を合わせる機会は日常的に極めて多数あったと認められるところ、この時の面談がその中でことに特異なものであったことをうかがわせる事情は何ら認められない。)、さらに、同日に前尾衆議院議長が収拾案を提示するまでの間、国会の収拾に向けて、議長や各党の間で種々の折衝が進められ、例えば、同月八日には、前尾が事態収拾のための見解を示している(議長収拾案が示される前のこのような段階の方が、事態は流動的であり、情報収集の意味も大きかったことがうかがわれる。)ところ、山下は、この間における自分の行動についても、ましてその時榎本と会ったか否かについても、記憶していないと認められるのであって、その反面、その後のある時点でのみ榎本と会ったことだけは記憶があるというのも首肯し難いこと等、山下の供述については、不自然、不合理な点が処々に見出されるのであって結局これを信用することはできない。なお、山下は、被告人榎本のアリバイに関する公判廷供述(前記第一二九回、第一三〇回公判期日供述を指す)を報道で知り、それですぐ同月一〇日に院内で同被告人と会ったことを思い出した旨供述するが、山下の本件当時に関する前記記憶の程度に鑑みると、この点の供述も採用し難い。
3 被告人榎本が官邸で前記後藤田に対し国会情勢に関して報告したとの点については、後藤田が昭和四八年八月一〇日官邸内の内閣官房副長官室で同被告人と会った旨公判廷で供述している。しかし、ここで重要なのは、前記のとおり、同日午後三時五分に若干の分単位の時間を加えた時刻よりも前に被告人榎本が官邸にいたことをうかがわせる事由があるかどうかであることはいうまでもないところ、後藤田は、「同日午後四時ころ仕事が一段落した。榎本と会ったのがそのころかどうかはっきりしないが、午後の早い時刻ではなかった。」旨供述するに止まっているのであって、右のような観点からは、同人の供述にはさしたる意味もないことが明らかである。
4 その他には被告人榎本の本件アリバイ事実を支持するに足りる証拠があるとは認められない。
(四) 以上に検討してきたとおり、昭和四八年八月一〇日、問題の時間帯にかかわるアリバイ事実の存在につき清水ノートの記載自体ではこれを推測するには足りず、榎本の供述の信用性はまことに低く、他に右供述に符合して当該アリバイの根拠となり得る信用すべき証拠もないと認められるので、前記第一・三(二)の現金授受の事実について、同被告人にアリバイが成立するとの合理的疑いが残る余地は全くないと認められる。
七 つぎに、前記第一・四(二)の現金授受について、前同様の観点から検討する。
(一) 清水ノート昭和四八年一〇月一二日欄には以下のような運行の記載がある。
七時一五分官邸発~上中里~総理私邸~九時官邸着、一〇時一〇分官邸発~総理私邸~一一時官邸着、二時一〇分官邸発~砂防会館~二時二五分官邸着、三時三五分官邸発~砂防会館~三時五〇分官邸着、五時五分官邸発~砂防会館~ホテルオークラ~官邸着、八時四五分勤務終了(早出加算分を除いた正確な勤務終了時刻は七時一五分)
そして、被告人榎本は、公判廷で、右ノート記載の上中里からホテルオークラまでの運行についてはすべて自分が清水運転車に乗車しており、また、同日中、右ノート記載の場所以外の所へ行ったことはない旨供述し、その行動内容についても供述している。
そこで、前記六(一)で考察した場合と同じく、右清水ノート中の運行記載のうち、そのとおりに被告人榎本が行動していたとすると、本件現金授受の事実、すなわち前掲証拠の標目欄記載の証拠によって認められる(前記第一・四(二)関係事実)被告人榎本が同日午後二時二五分ころ、笠原運転車で東京都千代田区富士見一丁目一〇番先路上に赴き、同所で本件現金の授受を行うこと、さらに受取った現金を同車により被告人田中私邸に搬入すること等の事実と物理的に矛盾することになるのはどの範囲であるかを先ず考察すると、被告人榎本としては、同日のうち、午後二時一六分ころ以降午後三時一一分に若干の分単位を加えた時刻ころまで以外は右清水ノートの運行記載のとおりの行動をしていても、右の現金授受を行うことは可能であったと認められる。すなわち、砂防会館、富士見一丁目間の所要時間は約九分、富士見一丁目、被告人田中の私邸間の所要時間は約二〇分、私邸、官邸間の所要時間は約二六分であると認められる(前記実況見分調書等)から、榎本は、午後二時一六分ころ笠原運転車で砂防会館を出て、午後二時二五分ころ富士見一丁目の路上に至り、電話ボックス付近に赴き、同所で現金を受取って、これを田中の私邸に運び込み、午後三時一一分に若干の分単位(現金の積みかえ及び現金の私邸内運び込みに要する時間)を加えた時刻ころ官邸に着くことが可能であった。なお、この場合、清水運転車は被告人榎本を乗せずに砂防会館から官邸まで走行したということになるが、それが可能であることについては前記四で検討したとおりである。結局、右の時間帯についても被告人榎本が清水ノート記載のとおりの行動をしていたことがうかがわれるか否かが本件アリバイの成否にとって本質的な問題となる。そこで、以下においては、右の問題の時間帯に関する、前記清水ノート同日欄の引用中の傍線を付した部分について、同被告人がそのとおりの行動(砂防会館より二時二五分官邸着、以後前記時間帯の間官邸内で行動)をしていたことがうかがわれるかどうかを検討することとする。
(二) この点に関し、被告人榎本は、公判廷で、「昭和四八年一〇月一二日午後二時一〇分ころ、清水運転車で官邸を出、日本海新幹線建設促進を田中に陳情するため同日官邸に来ることになっていた竹内俊吉青森県知事、小畑勇二郎秋田県知事の来訪に備えて、日本海新幹線関係の資料を用意しておく目的で、砂防会館に向かった。砂防会館で右の資料を手に入れ、その後また清水運転車で官邸に戻った。官邸に着いたのは午後二時二五分ころであって、そのころ丁度植村経済団体連合会会長が田中と面談中であったと思う。植村が面談を終えて出邸する際私が見送った。その後、竹内知事、岸信介元内閣総理大臣、小畑知事が来訪したので、私がいずれもその送迎にあたった。同日鈴木九平を送迎した記憶はないが、田中とそりが合わない鈴木万平が来るのかと思っていたら、鈴木九平が来たので、おやっと思ったことがある。」旨供述している。
ところで、被告人榎本の右供述部分は、本件現金授受を全面的に否定する公判廷供述部分と密接、一体の関係をなすものであって、右現金授受否定供述が著しく信用性の低いものであることは前記のとおりであり、供述中の官邸来訪者の氏名は総理日程等で知り得ることであり、さらに、政務担当秘書官としての立場上、日本海新幹線建設問題にとくに関与することもなく、また、その公判廷供述自体に照らし、この問題についてほとんど知るところのなかったことがうかがわれる同被告人が、敢えてこの時にのみ資料を用意したというのは不自然であり(同被告人自身、被告人田中と来訪者との面会に備えこのような政策問題について資料を用意したことは、本件のほかには記憶がない旨供述していることに徴しても、榎本が供述する本件資料準備は、その平素の執務状況に比し、極めて異例なものであることが明らかである。)、現に榎本はその資料なるものの内容等についてまことに漠とした供述しかなし得ないのである。なお、被告人榎本は、前日の同月一一日に、小畑知事の息子の伸一に強く要請され、同月一二日の同知事の訪問を被告人田中の日程中に強引に組込まされた旨強調し、このことが榎本が前記資料を取りに行った理由であるかのような供述をするが、仮りに右のような日程組込の事実があったとしても、そのことと、榎本による前記資料準備との間に何ら必然的な関連はないのであって、右の供述も首肯し得るものではない。このようにして被告人榎本の供述の信用性には疑問を抱かざるを得ない。なお、以下同被告人の供述に符合する証拠の存否及び信用性について検討を加える。
(三)1 被告人榎本の前記供述中、同被告人が砂防会館へ日本海新幹線関係の資料を取りに行ったとの点については、同被告人の供述以外に、これと符合する証拠は存在しない。
2 総理日程等によると、昭和四八年一〇月一二日午後二時二〇分ころないし四〇分ころ前記植村が、午後二時四五分ころ前記竹内が、午後二時五〇分ころないし三時ころ前記岸が、午後三時ころないし三時一五分ころ前記鈴木九平が、午後三時一五分ころ前記小畑が、午後三時二〇分ころ福永健司(なお、被告人榎本は、福永を送迎した記憶はない旨供述している。)が、それぞれ官邸で被告人田中と面会したことが認められる。
問題は、いうまでもなく、この際被告人榎本が官邸に居合わせたかどうかの点であるところ、松平悌二郎(本件当時官邸秘書官室職員)は、この点について、第一三二回公判期日において、「来客が総理大臣に面会するため官邸にやって来る際には、担当の秘書官は必ず官邸にいることになっていた。同日の訪問者中、竹内、岸、小畑、福永の担当は政務担当秘書官たる榎本であるから、右竹内らの来訪の際榎本が官邸にいなかったとは考えられない。」旨供述し、また、本件当時内閣総理大臣秘書官(事務取扱を含む)であった杉原正、木内昭胤、吉本宏、小長啓一も被告人榎本に対する質問回答書(弁165ないし168)で、いずれも同旨を供述している。
しかし、総理日程と清水ノートとを対照する等の方法により、関係証拠を検討すると、当然政務担当秘書官である被告人榎本が担当することになるはずの政治家の官邸来訪の際にも、同被告人が官邸に居合わせなかったことはむしろ多数あったことがうかがわれるのであって、右松平、杉原、木内、吉本、小長の推測供述はただちに採用し難い。ことに、松平は、第一四五回公判期日においては、「前記第一三二回公判期日での私の供述は、いやしくも総理大臣に面会するため客が官邸に来た際に、担当の秘書官が留守であっては失礼であるという考えから、一般論を強調したものであって例外もあった。昭和四八年一〇月一二日の竹内らの来訪の際榎本が官邸にいなかったはずはないというのも、右のような一般論を述べたにすぎない。なお、同日の状況について、具体的な記憶はない。」旨述べて、結局前記の断定的推測供述を変更し、なお、第一三二回公判期日で前記のような断定のし方をしてしまった事情につきつぎのように説明する。すなわち、松平は、後記3のとおり、鎌田光男から揮毫の申入を受け、これを被告人榎本に伝えたのが、同日の出来事であったかどうか記憶があいまいであったのに、第一三二回公判期日ではその点を断定する供述をしたというのであるが、その理由として、第一四五回公判期日において、「私は田中内閣当時、直接総理及び秘書官に仕え、かつ大変お世話になっている方々でございますので、あいまいの証言をしてはいけないと思って、具体的記憶があるような証言になったかと思います。」、「私はやはり総理あるいは秘書官に仕えたものとして、子供の使いのような証言をしてはいけないと思って、あいまいを具体的な証言のごとく申上げたわけでございます。」と供述している。これと同様な理由で前記の点についても敢えて断定的な推測供述をしたというのである。
以上を総合すると、前記松平の、第一三二回公判期日供述、杉原、木内、吉本、小長の各推測供述は採用できず、被告人榎本の担当する客が官邸に来ていたからといって、同被告人がその際官邸にいたものと推認することは到底できないことが明らかである。
なお、被告人田中は、第一八三回公判期日において、「私と来客との面会のうち、榎本が原則的に立会わなければならないものがあった。それは、政党の幹事長が訪問した場合、公認証書を交付するような場合、それから、知事、とくに自民党系の知事の官邸訪問の場合で、党籍のある知事の場合は必ずといってよいほど立会っていた。昭和四八年一〇月一二日の竹内、小畑の来訪の際、榎本が立会ったという記憶はないが、立会ったものと思う。」旨供述するが、以上に検討したところに照らし、右供述も、前記の結論を左右するに足りる程のものではないと認められる。
3 前記松平は、第一三二回公判期日において、「昭和四八年一〇月一二日、小畑知事には秋田県の部長の地位にあった佐々木満と、同県東京事務所の者約二名が同行していた。その際田中の揮毫の申入があったので、多分福永が帰った後に、榎本にその旨伝えた記憶がある。」旨、同日の小畑知事の来訪の際のことについて具体的な記憶があり、またこのころ被告人榎本は官邸にいたとの趣旨の供述をしていたが、第一四五回公判期日では供述を変更し、「揮毫の申入をしたのは同県東京事務所の鎌田光男であるが、その申入を受けたのは同年八月以前と思われ、したがって同年一〇月一二日ではない。第一三二回公判期日で供述した際にも、揮毫の申入を受けたのが同日のことであるという具体的な記憶はなかったのであるが、前記2のような気持から、敢えてそのような断定的供述をしてしまった。同日の小畑知事の来訪の際の状況について、具体的な記憶はない。」旨の供述をするに至っている。ところで、「内閣総理大臣揮毫依頼 秘書官室分(5月~8月)」と題する書面(甲二182、なお書面上年度の表示はない)に、秋田県東京事務所総務課長鎌田光男の揮毫依頼の記載があること、メモ(甲二179)に四名の色紙(揮毫)依頼者の氏名等と「7/10(火)色紙松平氏扱い」との記載がされているので、昭和四八年七月一〇日(日付と曜日との対応関係等から、この「7/10」とは昭和四八年の七月一〇日を意味すると認められる。)に右四名から揮毫の依頼があったと認められること、前記「内閣総理大臣揮毫依頼 秘書官室分(5月~8月)」には右四名の氏名等も記載されており、結局、同書面には昭和四八年の五月ないし八月に揮毫依頼をした者の氏名等が記載されていると認められること等に照らすと、鎌田から揮毫の申入があったのはやはり昭和四八年五月から同年八月までの期間のことであると認められるのであって、松平の第一四五回公判期日供述の方に信用性があり、これと反する第一三二回公判期日供述を信用することはできないことが明らかである。
4 なお、被告人榎本は、当日における小畑勇二郎知事の来訪について、前日の昭和四八年一〇月一一日に同知事の息子の小畑伸一から強く要請されて、被告人田中の日程に強引に組込まされたものである旨供述し、前記小畑伸一も公判廷においてこれと同旨の供述をしている。しかし、仮りに、被告人榎本が右のようにして前日に同知事の面会を取次いだ事実があったとしても、ただちに面会の際同被告人が現に同知事を送迎等したはずであると推定することは(前記2にも照らし)できないし、なお、小畑伸一は、公判廷で、「面会の翌々日の一〇月一四日ころ、榎本にお礼の電話をしたところ、榎本は、『ええ、大丈夫、お引合わせいたしましたから。』などと言っていた。」旨供述し、このような点を根拠として、小畑知事の面会の際榎本は官邸にいたと思うとの趣旨の推測を述べているが、仮りに榎本が小畑伸一に対し右のようなことを述べた事実があったとしても、その言動から、小畑知事の来訪の際榎本が官邸にいたとの推認をするには、根拠が薄弱であるというほかない(なお、小畑伸一の供述においても、同人は昭和五六年になって、小畑勇二郎に対し右訪問の際榎本と会ったかどうかについて話したが、その際、勇二郎もこの点について記憶が明確でなかったことが認められる。)。
5 前記竹内は、被告人榎本に対する質問回答書(弁163)で、「昭和四八年一〇月一二日官邸を訪問し、その際官邸勤務者の案内を受けたが、それがだれであるかは分らない。」旨を、また前記岸は、同被告人に対する質問回答書(弁162)で、「同日官邸を訪問したが、榎本と会った記憶はない。」旨をそれぞれ供述しているにすぎず、右各供述は榎本が右竹内、岸の来訪の際官邸にいたことの裏付となるものではない。
また、その他にも、被告人榎本が前記問題の時間帯に官邸にいたことをうかがわせる証拠はない。
(四) 以上に検討したとおり、被告人榎本の昭和四八年一〇月一二日のうち問題の時間帯にかかわるアリバイ事実の存在につき、清水ノートの記載自体でこれを推測するには足りず、被告人榎本の供述の信用性はまことに低く、右供述に符合して当該アリバイの根拠となり得る信用すべき証拠もないと認められるので、前記第一・四(二)の現金授受の事実について同被告人にアリバイが成立するとの合理的疑いが残る余地は全くないと認められる。
さらに付言すると、前記アリバイ判断にとって本質的に重要な午後三時一一分ころに若干の分単位を加えた時刻以前の時間帯に止まらず、清水ノート上清水運転車が官邸に留まっていたと認められる午後二時二五分ころから午後三時三五分ころまでの全時間帯にわたって、同被告人が官邸にいたことをうかがわせる証拠は前述の信用しなかった各証拠の他にはないこと、右官邸滞留の時間帯の前と後には、清水運転車はいずれも官邸と砂防会館との間を往復したと認められるが、その運行時間はいずれもわずか約一五分前後であり、同車は、砂防会館に着いた後、すみやかにまた官邸に引返してきたと認められること等に加え、さらに前記四(二)で検討したところ等をも勘案すると、同日、被告人榎本は、午後二時一〇分ころ清水運転車で官邸を出て、砂防会館に着き、そこで同車を空車で官邸に帰して(同車は午後二時二五分ころ官邸帰着)同所で待機させ、自らはあらかじめ呼び寄せておいた笠原運転車に乗って前記富士見一丁目路上に至り、午後二時二五分ころ同所で現金の入った段ボール箱を受取った後、被告人田中の私邸に赴いて右段ボール箱を運び込み、その後また砂防会館に戻ってから、官邸にいる清水を迎えに来させ、清水は、右呼出に応じ、午後三時三五分ころ前記自動車を運転して官邸を出、砂防会館に赴き、そこで榎本を乗せて、午後三時五〇分ころ官邸に戻ったとの行動をとった可能性も大きいと解される。なお、被告人田中、同榎本の弁護人は、「仮りに被告人榎本が、二時一〇分官邸を出て砂防会館に行き、すぐ清水運転車を官邸に帰したとすると、この砂防会館往復は清水ノート上の時刻の四捨五入を考慮しても、一〇分程度でなくてはならないのに、ノート上は一五分を要している。また、仮りに、被告人榎本が授受後清水運転車を砂防会館に呼んで、それに乗って官邸に帰ったとすれば、この往復は三時三五分から一五分間を要しているから、同様に時間が余りすぎる。」旨主張する。しかし、元来清水ノート上の時刻、時間の表示は五分単位でなされているから、切上、切捨の操作如何によっては、ノート上一五分と記載されている運行時間も実際は一〇分程度にすぎないことも十分あり得るのみならず、被告人榎本を官邸から砂防会館に送り届け、あるいは同所へ迎えに行く運行に往復約一五分を要したとしても、決して不自然に長すぎるとはいえず、むしろ、この程度の短時間で清水運転車が往復していることは、同車が砂防会館にほとんど留まっていなかったことをあらわすともいえるのであって、結局、弁護人の右主張は、採用し得ない。
八 つぎに、前記第一・六(二)の現金授受の事実について、前同様の観点から検討する。
清水ノート昭和四九年一月二一日欄には以下のような運行の記載がある。
七時官邸発~上中里~総理私邸~一〇時三五分官邸着、一一時四五分官邸発~日本橋~院内~砂防会館~二時一五分官邸着、二時三五分官邸発~参議員会館(参議院議員会館の意)~二時四五分官邸着、四時五分官邸発~砂防会館~四時四〇分官邸着、四時四五分官邸発~参議員会館~六時一〇分官邸着~溜池~官邸着、九時勤務終了(早出加算分を除いた正確な勤務終了時刻は七時一五分)
(一) 本件現金の授受は、前掲証拠の標目欄記載の証拠によると(前記第一・六(二)関係事実)、同日午後四時一五分ころないし四時四五分ころの時間帯にホテルオークラ駐車場で行われたこととなる点に関連して先ず検討する。
ところで、砂防会館、ホテルオークラ間の所要時間は約七分である(前記実況見分調書)から、結局、被告人榎本は、同日、午後四時八分ころないし四時三八分ころの時間帯のうちに笠原運転車で砂防会館を出れば、午後四時一五分ころないし四時四五分ころの時間帯にホテルオークラ駐車場で現金を受取ることは可能であったと認められる(官邸、砂防会館間は約二ないし四分で走行可能である〔被告人榎本〔第一五〇回公判期日〕、清水〔第一二七回公判期日〕の各公判廷供述、弁護人木村喜助作成の昭和五五年七月二六日付報告書〔弁432〕参照〕から、清水ノート上の記載との関係を検討すると、右四時八分ころないし三八分ころの時間帯には清水運転車は一旦砂防会館にあってそこからホテルオークラへ向かったと考えることができる。)。
被告人榎本は、公判廷で、右ノート記載の上中里から溜池までの運行についてはすべて自分が清水運転車に乗車しており、また、同日、右ノート記載の場所以外の所へ行ったことはない旨供述したうえ、右問題の午後四時八分ころないし四時三八分ころから本件授受の時刻とされる時間帯にかけての行動について、公判廷で、「同日午後四時五分ころ、清水運転車で官邸を出、砂防会館へ行って、翌日の田中の参議院議員香川地方区補欠選挙応援遊説に役立てるため、そこで、自由民主党本部の兼田喜夫選挙部長から、前回の香川地方区の選挙の敗因についてレクチャーを受けた。それからまた清水運転車で官邸に戻るまで(午後四時四〇分ころ官邸に帰着した。)砂防会館にいた。」旨供述するが、右供述も、本件現金授受を全面的に否定する公判廷供述部分と密接、一体の関係をなすものであって、右現金授受否定供述の信用性は著しく低いこと前述のとおりである。のみならず、右兼田から受けたレクチャーなるものの内容についても極めて漠然としているなど、その供述自体甚だ具体性に欠け、信用性は低いといわなければならない。そして、他に、被告人榎本の右供述と符合する証拠は存在しない(被告人田中、同榎本の弁護人は、小安英峯の公判廷供述が被告人榎本の右供述と符合する旨主張するが如くであるが、小安の供述は、要するに、榎本や兼田の通例の事務打合せの状況等を一般的に述べるにすぎないものであって、具体的に同日に右レクチャーが行われた旨述べるものではないから、この関係では、さしたる価値がない。)のであって、結局、以上に照らすと、前記授受の時間帯以前の事実に関する証拠でアリバイ事実の存在につき合理的疑いを生ぜしむるに足りるものがあるとは認められないのである。
(二) つぎに現金授受の後、現金の被告人田中私邸搬入等の被告人榎本の行動に矛盾する証拠の有無につき検討する。
新谷寅三郎日程表(弁105)同日欄の「5:10〈来〉総理秘書官榎本」との記載等に徴すると、被告人榎本は、同日午後五時一〇分ころ参議院議員会館で参議院議員新谷寅三郎と会う予定があり、そのころ同所で同人と会った(面会時間は短時間であった。)事実を一応うかがえないでもないが、同被告人が、本件現金受取後、これを被告人田中私邸に搬入する前にホテルオークラから一旦参議院議員会館に赴いて新谷と会うことは十分可能であったと認められる(右の場合、ホテルオークラから参議院議員会館に赴くについてはいろいろの経路が想定可能である。例えば、榎本は、ホテルオークラから笠原運転車で一旦砂防会館に戻り、そこで清水運転車に乗り換えて、清水ノート記載のとおり午後四時四〇分ころ官邸に戻り、午後四時四五分ころ再び同車で官邸を出、参議院議員会館に至ったとも考えられる。他方、榎本が、ホテルオークラからそのまま笠原運転車で参議院議員会館に赴く〔清水運転車は、榎本を乗せずに砂防会館から一旦官邸に帰り、その後さらに参議院議員会館に赴いたことになる。〕等の行動をとることももとより可能であった。)。現金受取後ただちにこれを搬入すべく被告人田中の私邸に赴かなかった点は、右のような新谷との面会約束の存在を考えれば異とするに足りない。そして、被告人榎本が、右面会後、(笠原運転車が同被告人を乗せて参議院議員会館に来ていたか、あるいは砂防会館等に待機していたかはともかく、)笠原運転車で被告人田中の私邸に赴いて、前記現金を搬入し、また参議院議員会館に戻った後、清水ノート記載のように、清水運転車で午後六時一〇分ころ官邸に戻ることも十分可能であったことが明らかである。被告人榎本は右午後六時一〇分ころまでの間引続いて参議院議員会館に滞在していた旨供述するが、前記新谷寅三郎日程表によれば、同日午後五時一〇分ころ榎本が参議院議員会館にいたことが一応うかがわれるに止まり、その後引続いて榎本が同会館にいたとの点について裏付となり得る証拠は存在しない。
(三) 結局、以上に検討したとおり、被告人榎本の同日のアリバイ事実の存在につき清水ノートの記載自体でこれを推測するには足りず、被告人榎本の供述の信用性はまことに低く、また他に右供述に符合してアリバイの根拠となり得る信用すべき証拠もないと認められるので、前記第一・六(二)の現金授受の事実について同被告人にアリバイが成立するとの合理的疑いが残る余地は全くないと認められる。
九 最後に、前記第一・七(二)の現金授受の事実について、前同様の観点から検討を加える。
(一) 清水ノート昭和四九年三月一日欄の記載は以下のとおりである。
七時一五分官邸発~上中里~総理私邸~九時四五分官邸着、一〇時一五分官邸発~九段~総理私邸~一一時一〇分官邸着、一二時官邸発~院内~砂防会館~一二時四五分官邸着、一時二五分官邸発~参議員会館~一時三五分官邸着、二時五分官邸発~砂防会館~院内~二時四〇分官邸着、二時五〇分官邸発~羽田~砂防会館~官邸着、七時勤務終了(早出加算分を除いた正確な勤務終了時刻は五時三〇分)
(二) 被告人榎本は、公判廷で、右ノート記載の上中里から羽田までの運行についてはすべて自分が清水運転車に乗車しており(なお、四(一)14参照)、またその間右ノート記載の場所以外の所へ行ったことはない旨供述し、その行動内容についても供述している。とくに、本件アリバイの成否にとって重要な昭和四九年三月一日朝の状況について、同被告人は、「同日午前七時三五分から四〇分ころ清水運転車が自宅に来た。私が同車で自宅を出たのは、七時五五分とか八時ちょっと前とか、そういった見当である。それからまっすぐ田中の私邸に向かった。そこに着いたのは八時一五分見当である。その時私邸の事務所には竹中修一衆議院議員や山崎竜男参議院議員らが田中との面会のため来ていた。竹中や山崎はまだ田中に会っていないということだった。着いてから分ったところによると、田中は住居(すなわち、私邸内居宅部分)の方で渡辺正毅医師による顔面神経炎の低周波療法の治療を受けているということで、まだ竹中らには会っていなかった。竹中は、私に、青森県の市長選挙で自民党の候補が負けたおわびに来たと言っていた。山崎は私に市長選挙の件のほか、下北汽船の関係の陳情のために来たと言っていた。そういう話をしている時に、田中が、『いや待たしたな。』と、大きな声で入って来た。田中は、その方々と一〇分かそこら話した後、じき国会へ向けて出邸した。その後、私は山崎と二〇分くらい話をし、八時五〇分ころ山崎も帰った。それから新潟の来客と少し話をし、九時五分すぎか一〇分すぎころ清水運転車で私邸を出、官邸に向かった。」旨供述するところ、もしその供述が信用し得れば、証拠の標目欄記載の証拠によって認められる(前記第一・七(二)関係事実)同日午前八時ころから八時三〇分ころまでの間に本件現金の授受が行われたという事実に対し、既に同じ時間帯において被告人榎本が被告人伊藤方には所在しなかったということがうかがわれることとなり、アリバイ事実存在の合理的疑いを生ずるに至るわけである。
ところで、被告人榎本の右供述部分も、本件現金授受を全面的に否定する公判廷供述部分と密接、一体の関係をなすものであって、現金授受否定供述の信用性が著しく低いこと前叙のとおりである。また、同被告人の時刻、時間に関する供述、ことに同日午前七時五五分ないし八時ころ自宅を出、八時一五分ころ私邸に着いたとの点などは、同被告人の具体的な記憶によるのではなく、清水運転車が自宅に迎えに来ても「大体いつも二〇分ぐらい待たして(中略)いた」(同被告人公判廷供述)との前提に基づく推測の結果にすぎないことが明らかであり、なお、清水の供述等によれば、清水が迎えに到着した後すぐに榎本が出発することもあったと認められ、また、同日朝被告人伊藤の自宅に赴く予定があったとすれば、榎本としては、同日は急いで自宅を出発したと推定することも十分可能であり、そうすると、榎本は、午前八時前ころには私邸に到着することが可能であって、単に平素の通例の行動からの推測として二〇分程度清水を待たせたはずであるとするにすぎない被告人榎本の前記供述部分はただちに首肯し得ない。
そこで以下同被告人の供述に符合する証拠の存否及び信用性について検討を加える。
(三)1 関係証拠によると、昭和四九年三月一日午前七時四〇分ころ、山崎竜男参議院議員、千葉元江下北汽船株式会社社長らが被告人田中の私邸内事務所を訪問したこと(昭和四九年三月二日付日本経済新聞首相官邸欄〔弁110〕、第一三三回公判山崎供述)、同日午前八時九分ころから八時一五分ころまでの間、東京逓信病院医師渡辺正毅が田中に対し私邸内居宅部分で顔面神経炎の治療を行ったこと(渡辺医師作成の治療記録〔甲二181〕)、田中は同日午前八時三二分ころ私邸を出て国会に向かったこと(総理日程)等の事実は明らかである。これらの事実を踏まえたうえで、そのころ被告人榎本が私邸内で竹中、山崎らに会ったことがあるのかどうか、また、会ったことがあるとして、その時刻はどうかの点を検討する。
2 前記山崎は、「昭和四九年三月一日午前七時三〇分に千葉とともに田中の私邸を訪問する予定であったが、国鉄のストライキのため道路が混んでいて、実際に自分たち二人が到着したのは七時四〇分ころと思う。訪問の目的は、青森市長選挙の結果報告と、下北汽船の立直しに田中のお知恵を拝借することとであった。事務所内で随分待たされた。自分たちがそうして待っていると、八時前後ころ榎本がやって来て、『どうしたんですか。今日先生が来るのをおやじさん知っておりますか。』と言うので、『実はきのうお約束申上げました。』と答えた。それから、榎本は事務室の方へ行った。その後竹中が来て、すぐ事務室に入り、秘書と何か話していた。私と千葉はずっと玄関そばの部屋におり、事務室には行かなかった。竹中は、自分たちより先に田中と会い、二、三分面会していた。私と千葉が田中に面会したのは八時半ちょっと前ころであり、面談時間は一〇分間くらいである。面談終了後、田中が事務所を出るのを見送り、さらにその後、もといた部屋に戻ったところ、榎本が出て来たので、千葉を榎本に紹介し、また、榎本との間で、同日の面談の状況や私の父親(山崎岩男元衆議院議員)の話などをした。私邸を出たのは八時四五分か五〇分ころではなかったかと思う。」旨供述する。また、竹中修一、千葉元江も概ね経過事実としては山崎の右供述と符合する供述をするが、竹中、千葉両名はいずれもアリバイの成否にとって本質的に重要な時刻、時間の点については記憶がないとして触れていない。
ところで、山崎の供述は、右のように、午前八時ころと八時三〇分過ぎころ以降に被告人榎本と会ったというものであるが、その間の時間帯における同被告人の行動については何ら触れていないのであり、榎本と会った時刻に関する右供述はそれが真実であったとしても、本件現金授受の事実と物理的に矛盾するものではない。すなわち、被告人田中私邸と被告人伊藤方間の所要時間は約一五分と認められる(前記実況見分調書)から、被告人榎本としては、山崎らと会ったのが午前八時ころとしても、ただちに笠原運転車で伊藤方に向かえば、八時一五分ころ同所で現金授受を行うことが可能であり、またその後すぐ同車で私邸に戻れば、八時三〇分に若干の分単位(現金受取、積込み及び私邸内搬入に要する時間)を加えた時刻ころ私邸で再び山崎らと会うことも可能であったはずだからである。
被告人田中、同榎本の弁護人は、このような考え方に対し、自動車の走行時間だけ取上げその他の被告人榎本の行動を計算に入れていない点で誤っている旨主張する(なお、被告人榎本の私邸内での歩行、段ボール箱受取等の行動には最低一五分を要すると考えられるとも主張する。)。しかしながら同被告人の右行動に最低一五分を要するはずであるという主張はとくに根拠がなく、弁護人指摘の榎本の右行動なるものも、迅速に行えばいずれも極めて短時間で可能な事柄であると考えられる。なお、被告人田中、同榎本の弁護人は、清水が、朝被告人田中の私邸に行ってすぐ被告人榎本が笠原運転車に乗ってどこかへ行ったことはない旨供述していることを指摘し、このような点からしても、榎本が同日朝笠原運転車で田中の私邸を出たことはないことが知られる旨主張する。しかし、清水が右のような供述をしていることは弁護人指摘のとおりではあるが、清水が、被告人田中の私邸で待機している際、常に被告人榎本の動静を注視していたわけでないことは、清水自身も供述するとおりであって、清水の供述の趣旨も、要するに、自分が榎本の動静に注意していなくても、榎本が出てくればだれかが注意してくれるだろうから分るはずであるという程度の内容にすぎないのであって、この点を根拠として榎本が清水の気付かぬうちに私邸を出ることはおよそあり得なかったとの結論を導くには足りず、結局、右所論も失当である。
3 のみならず、山崎の右供述の信用性には重大な疑問があり、むしろ山崎らが被告人田中に面会したのは前記渡辺医師の治療より前(すなわち、午前八時九分ころより前)であり、したがって、仮りに、被告人榎本が山崎らと田中との右面会の前後山崎と若干時間話をした事実があったとしても、それは山崎の供述するような時刻においてではなかったと認めるのが相当である。
すなわち、
(1) 時間や時刻に関する山崎供述の内容は、例えば時計を見たなどの具体的な記憶に基づくものではなく、(面会予定時刻が午前七時三〇分であったことについては参議院手帳〔弁132〕にその旨の記載があるが、その他の昭和四九年三月一日当日の時間や時刻に関する供述については、)いずれも、例えば私邸で大分待たされた(その真偽はしばらく措く)等の感じに基づく供述であるにすぎないことが明らかであって、根拠薄弱なものであると認められる。
(2) 山崎は、同日における自身の行動について、供述当時概して極めて漠然たる記憶を有しているにすぎないことがうかがわれるのに、私邸における行動についてのみ右のようにかなり詳細な状況を記憶しているというのは、いかにも不自然であるというほかない。ちなみに同人は、同年一月二三日に千葉と共に被告人田中の私邸を訪問した際のことについて(右訪問の事実自体は山崎の手帳によっても明らかである。)、千葉の他に同行者がいたことを失念し、またその訪問の重要目的は青函フェリーの運航を前記下北汽船株式会社が行うことの申請に関する件であったと認められるのに、このことについて触れないなど、他の機会における私邸訪問の状況については甚だしく記憶があいまいであることが認められる。そして、なぜ同年三月一日の私邸訪問の状況についてのみ詳細な記憶を有しているのかについて山崎は、結局首肯し得る説明をなし得ないのであり、また、そもそも右のように私邸で長時間待たされ、その際被告人榎本と会ったというのがこの日のことであるとの記憶の根拠、ないしこのような記憶を喚起するに至った過程に関する山崎の供述には、何とも首肯するに足りるものが認められない。
(3) 被告人田中の第一回公判期日における供述によれば、同被告人は、内閣総理大臣在任中、通例午前七時三〇分ころから私邸内事務所で来客と面談していたと認められること(同被告人の第一八三回公判期日における供述によっても、この点の供述部分は変更されていないと認められる。)、他方、渡辺医師作成の治療記録(甲二181)によれば、同医師の治療は毎回ほとんど午前八時以降に行われたと認められること、同年三月一日も、午前七時四〇分ころには山崎らが私邸を訪問し、他方、渡辺医師の治療はその約三〇分も後の午前八時九分ころに開始されたのであり(前記1)、なお、その間田中が来客に会えない特段の事情があったともうかがわれないこと等に照らすと、田中としては、渡辺医師の治療開始より前に来客と面談するのが通例であり、また同日もそうしていたと認めるのが自然である。
この点、被告人榎本は、第一二九回公判期日では、前記のとおり、「(私邸に)着いてから分ったところによると、田中は、住居の方で渡辺医師による顔面神経炎の低周波療法の治療を受けているということで、(山崎らに)まだ会っていないということだった。」旨供述するが、だれからどのようにしてそのようなことを聞いたのかという点も不明で、内容自体不明確であるし、被告人榎本は、第一五一回公判期日では、(一般的に)田中が治療の前後いずれに来客と面談していたのか、自分には分らないとも供述しているのであって、結局、右第一二九回公判期日における供述を信用することはできない。なお、被告人田中は、第一八三回公判期日において、来客と面談するよりも先に治療を受けていた旨供述するが、右に示したところからも、たやすく信用し得ない(なお、同被告人自身、治療の前に来客と面談することもあったことは認めている。)。
(4) 被告人田中は、第一回公判期日において、前記のとおり、内閣総理大臣在任中の習慣として、午前七時三〇分ころから私邸内事務所で来客と面談していた旨供述するとともに、「国会等へ出勤の前に朝食をとることが例になっていたので、出勤の三〇分前位までには面談は終ることになる。」旨供述しているが、右供述は、昭和四九年三月一日朝における被告人榎本のアリバイに関する争点が生ずる前、これを全く意識せず、来客との面会の多忙さに力点を置いて当時の習慣を説明したものであるからむしろ信用に値いすると認められ、そうすると、同日に田中が国会へ行くため出邸する間際まで山崎らと面談していたとはにわかに考えられないところである。
被告人田中は、第一八三回公判期日では、「第一回公判期日で述べたのは総理大臣に就任して間がない昭和四七年の七月、八月当時のことであって、その後は、とくに閣議のある日には、原則として来客と面談する前に朝食をとっていた。」旨供述する(ちなみに、同四九年三月一日には閣議が開かれていることが明らかである。)が、同被告人は、第一回公判期日では、このような限定を付さず、内閣総理大臣在任中の同被告人の通例の生活習慣として、右面談と朝食との前後関係に触れていることが明らかであり、本件の審理経過にも鑑みると、右供述変更は本件アリバイ主張に関する争点を意識しこれに符節を合わせてなされた疑いが濃厚というべく、前記変更後の供述をたやすく信用することはできない。
前記山田泰司は、第一三四回公判期日では、被告人田中は内閣総理大臣在任中いつも来客との面談前に朝食をとっていたと思う旨供述するが、右供述は確実な根拠に基づくものでないことがその供述内容自体から明らかであるのみならず、山田は、本件アリバイの争点が顕在化する前の捜査段階においては、検察官に対し、田中は来客との面談後に朝食をとるのが習慣であったとの相反する趣旨を供述していたことが明らかである(山田検察官面前調書抄本〔甲四116〕)こと等にも照らし、山田の右公判廷供述は信用し難いと認められる。
なお、昭和四八年三月から同五二年三月までの間被告人田中の私邸に書生として住込んでいた前記片岡憲男は、第一七八回公判期日で、内閣総理大臣在任中同被告人は来客との面談前に朝食をとることの方が多かった旨供述するが、前記の諸点に照らし、なお同人の田中との右のような関係にも鑑み、右供述もたやすく信用し得ない。
以上(1)ないし(4)で検討したところを総合すると、同日、山崎、竹中らが被告人田中と面談したのは、同被告人が顔面神経炎の治療を受けるより前(すなわち、午前八時九分ころよりもかなり前)であって、田中は、山崎、千葉との面談後、ただちに私邸を出発したのではなく、右治療を受けまた朝食をとるため、私邸内事務所から居宅部分へ移動したと認められる。そして、この点は、山崎自身が、面談後被告人田中を事務所から見送った際の状況として、同被告人は母家の方へ行くようであった旨供述していることとも符合するところである。
そうすると、山崎らは同日被告人田中の私邸で被告人田中が午前八時九分ころから居宅部分で治療を受けられるだけの時間的余裕をおいて被告人田中と面談したことになるからその面談の前後、被告人榎本と会ったことがあるとしても、それは山崎が供述するような時間帯(午前八時ころ及び八時三〇分ころ)のことではなく、午前八時過ぎから若干時間後までのことと考えられ、その後において、同被告人が、笠原運転車で被告人伊藤の自宅に赴き、午前八時三〇分よりも前にそこで現金を受取ることは十分可能であったと認められる(被告人榎本としては、そのまま私邸に帰って現金を搬入すれば、その後は清水ノート記載のとおりの行動をすることも可能であった。)。
結局、山崎の供述は、いずれの意味においても、本件アリバイの根拠となり得るものではないことが明らかである。
(四) 以上に検討したとおり、被告人榎本の昭和四九年三月一日のアリバイ事実の存在につき、清水ノートの記載自体ではこれを推測するには足りず、被告人榎本の供述の信用性はまことに低く、また他に右供述に符合してアリバイの根拠となり得る信用すべき証拠もないと認められるので前記第一・七(二)の現金授受の事実について同被告人にアリバイが成立するとの合理的疑いが残る余地は全くないといわざるを得ない。
第五章  内閣総理大臣の職務権限について
第一  職務権限総説
一  叙上認定の五億円授受に関連する事実のうち、内閣総理大臣たる被告人田中が運輸大臣(等)を指揮して全日空にL一〇一一型航空機を選定購入するよう働きかけさせるべきこと、ないし同被告人が直接全日空にその旨働きかけるべきことの依頼を受け、その協力の対価の趣旨で金員を受領した事実について、刑法一九七条一項の「其ノ職務ニ関シ賄賂ヲ収受」することに当るのか否かを以下に検討するが、なお右の点の検討を通して同被告人が同条同項の「請託ヲ受ケタ」、すなわち一定の職務行為をなすことの依頼を受けこれを承諾したといえるか否かの点も合わせて解明することとする。
二  刑法一九七条一項にいう「職務」とは、公務員がその地位に伴い公務として取扱うべき一切の執務をいうのであり(最高裁判所昭和二八年一〇月二七日判決・刑集七巻一〇号一九七一頁参照)、その範囲は、法令上、当該公務員の職務権限に属するとされているところによって画されるものと解する。ところで、各弁護人の主張を通観すると、運輸大臣あるいは内閣総理大臣は検察官主張の如き行為をすることは法律上許されないとし、公務員は違法不当な行為をなす権限を有しないからかかる行為は当該公務員の職務権限に属さないというに帰する論点を見受けるのであるが、賄賂罪が職務執行の公正とこれに対する社会の信頼を保護法益とする犯罪であること、なお刑法一九七条ノ三の規定が存在すること等に鑑みると、公務員が違法な行為をなし、あるいは将来なすことに対する報酬を得た場合、それが当該公務員の権限を有すると考えられる事項に属する限り、右違法行為をも職務行為であると評価し、これにつき賄賂罪の成立を認めるのが法の当然に予定しているところであるといわなければならない。したがって、賄賂罪の成否を論ずる場合には、公務員がその地位に基づいて公務としてなす特定の行為が、法令上その公務員の一般的職務権限に含まれる事項を取扱うものであれば、これをその職務権限に属する行為であるというべきであって、当該具体的行為が法律上許されないこと、それが裁量権の濫用であること、裁量権の範囲を逸脱していること、またはその手続ないし行為方法が法令に反することなどの理由で(不当の程度に止まる場合は勿論)違法というべき場合であっても、これが職務権限内の行為であることを否定されるものではないと解するのが相当である。
第二  運輸大臣に対する指揮
そこで先ず、運輸大臣に対して、全日空にL一〇一一型航空機を選定購入するよう働きかけるべく指揮する行為が、被告人田中の職務権限に属する事項であるか否かについて検討する。
一  内閣総理大臣の指揮監督権限
(一) 行政権は内閣に属する(憲法六五条)のであるが、行政事務は内閣が直接すべてこれを行うのではなく、主任の大臣が分担管理し(内閣法三条一項、国家行政組織法五条一項)、内閣総理大臣が「行政各部を指揮監督する」(憲法七二条)。すなわち、内閣は、行政各部の主任の大臣が分担実施する行政事務を「統轄」(それぞれの部に対する調整又は各部間の調整の趣旨と解する。)するのである(国家行政組織法二条一項)が、合議体としての内閣が調整を必要とする都度、必ず閣議を開き適切な措置を講ずることは困難であるから、内閣総理大臣に「内閣を代表して」(憲法七二条)行政各部を指揮監督して調整を行う権限を付与したものと解せられる。
(二) 右に述べたところによると、内閣総理大臣は内閣の意思を離れてこれと無関係に右指揮監督の権限を行使することはできないというべきである。内閣法は、「内閣総理大臣は閣議にかけて決定した方針に基づいて行政各部を指揮監督する。」と定めている(同法六条)が、これは右の趣旨に出たものと解せられる。また、右のように主任大臣の分担管理する行政事務について調整を遂げるという目的に照らすと、内閣総理大臣の指揮監督の権限が及ぶのは、その相手方たる大臣の所管事務及び権限に属する事項に限られると解するのが相当というべきである。すなわち、内閣総理大臣が右権限を行使し得るためには、(1)閣議にかけて決定した方針に基づくこと、及び(2)指揮内容が主任大臣の権限内の事項についてのものであることの二要件を充たすことが必要なのである。本件では、右各要件が充足されているか否か、すなわち全日空に対してL一〇一一型航空機を選定購入するよう働きかける行為が運輸大臣の職務権限内の行為であるかどうか、右のような働きかけをなさしめるべき指揮監督行為の根拠となる閣議にかけて決定した方針が存在したかどうかが検討の対象となるので、以下これらの点につき、先ず(2)の要件に関しては二で、(1)の要件に関しては三でそれぞれ詳説することとする。
二  全日空の機種選定に関する運輸大臣の権限
(一) 定期航空運送事業を経営しようとする者は路線ごとに運輸大臣の免許を受けなければならない(航空法一〇〇条一項)。右免許の申請に当っては申請書に事業計画(航空機の運航及びこれを行うために必要な整備に関する計画)その他所定の事項を記載して提出し、運輸大臣の審査を受けるのであるが(同法一〇〇条二項、一〇一条)、免許された定期航空運送事業者は右事業計画に定めるところに従って業務を行わなければならず(同法一〇八条一項)、事業計画を変更する場合には運輸大臣の認可を受けなければならない(同法一〇九条一項)。
事業計画は、(1)路線の起点、寄航地及び終点並びに当該路線の使用飛行場及びそれら相互間の距離、(2)使用航空機の総数並びに各航空機の型式及び登録記号、(3)運航回数及び発着日時、(4)整備の施設及び運航管理の施設の概要を内容としている(同法施行規則二一〇条一項)から、定期航空運送事業者が新機種を選定しこれを就航させるには、当然に右(2)の各航空機の型式及び登録記号に変更を生じ、また通常(2)の使用航空機の総数や(3)、(4)の各事項についても変更をきたすこととなると考えられ、事業計画の変更が必要となるわけである。
運輸大臣は、右事業計画変更の申請がなされた場合、(1)変更後の事業の開始が公衆の利用に適応するものであること、(2)変更後の事業の開始によって当該路線における航空輸送力が航空輸送需要に対し、著しく供給過剰にならないこと、(3)変更後の事業計画が経営上及び航空保安上適切なものであること、(4)申請者が変更後の事業を適確に遂行するに足る能力を有することという審査基準に適合するか否かを審査して認可するか否かを決する権限を有する(同法一〇九条二項、一〇一条一項)。したがって不認可となれば当該航空機の就航は不可能となるので、結局、運輸大臣は、右認可権限の行使を通じて、新機種の路線への就航の可否を決定する権限を有しているのである。
(二)1 弁護人は、「事業計画変更認可申請に対して運輸大臣が、航空機の型式に立入って判断する余地はない。航空機の安全性については別に耐空証明、型式証明の制度があり、また騒音についても本件当時証明制度はなかったものの、航空機は国際条約で定められた騒音基準に適合するように製造されていたから、航空機の型式を事業計画に記載するように航空法施行規則で定めたのは、航空機の安全性等につき右のように既にチェックがなされているので、型式を記載させることにより耐空証明の有無についての確認を容易にするためにすぎないというべきで、事業計画変更認可とは無関係である。そして新機種の選定は人的物的に多大の投資を必要とするもので航空企業の命運をかけた決断を要するのであり、各企業とも緻密な情報収集と極めて慎重な検討のうえこれを行っていて、機種選定に際して航空会社が判断する事項と事業計画変更認可の基準とは観点が全く異なり、しかも航空会社は新しい型式の航空機を購入すれば必ず事業計画変更申請をするとは限らないし、機種選定から当該機種が特定の路線に就航するまでに二年ないし四年の長期間を要することからしても機種選定と事業計画変更認可との間には関係がない。そのうえ運輸大臣は事業計画変更の申請に対して右審査基準に適合する以上は認可しなければならないから、同大臣に裁量の余地がないのであって、結局、新機種選定については、運輸当局が介入する余地はないし、実際上もそのような介入の例は過去になかったのであり、運輸大臣には何らの権限もない。」と主張している。
そしてたしかに航空機の安全性に関しては、運輸大臣が個々の航空機の強度、構造、性能につき検査をし、これらが安全性を確保するための技術上の基準に適合するときにこれを証明する耐空証明の制度(航空法一〇条四項。この証明を受けている航空機でなければ航空の用に供してはならない〔同法一一条一項〕。)があり、また量産される航空機の型式の設計について、その強度、構造、性能が前記同様の基準に適合すると認めるときに運輸大臣が型式証明をする制度も存する(同法一二条一、二項。この証明を受けた航空機及び輸入した航空機であってその耐空性について国際民間航空条約の締約国たる外国が証明その他の行為をしたものの場合には、耐空証明をするに当って設計又は生産過程につき検査の一部を行わないことができる〔同法一〇条四項但書、同法施行令二条一号〕。)。したがって、新たに選定した型式の航空機就航に伴う事業計画変更申請につき判断する場合、右両証明を具備していればその航空機は右のような安全性の基準には適合しているものとして扱われ、改めて同様の観点からの審査が行われるわけではない(証人長澤修の供述)。また航空機の騒音について、昭和四七年当時には現行の騒音基準適合証明の制度はなかったけれども、その時期に就航した航空機について現行制度の下で適用されているのと同一の基準が当時すでに国際民間航空条約(昭和二八年一〇月八日条約二一号)第一六附属書に採択されていて、米国では連邦航空規則第三六部に右に相応する基準を定めて騒音規制を行っており、当時同国で製造されわが国に輸入される航空機は右基準に適合していたものと認められ(右長澤証言、証人川井力の供述)、この点に関係法規定及び証人長澤修の供述等の関係証拠を総合すると、事業計画変更認可の際、就航する航空機の騒音量そのものを取上げ、これが右のような一般的基準に適合するかどうかを審査するものとはされていなかったと認められる。以上の限りでは概ね弁護人の主張するとおりである。
ところで、弁護人は、なお進んで新機種の選定と運輸大臣の事業計画変更認可(権限)とは無関係であると論ずるのであるが、その理由とするところをみるに、航空会社が新しい型式の航空機を購入してもこれを就航させないというような全くの例外的な事態を想定したり、機種選定と当該航空機の就航との間に相当期間を要する等を挙げるもので、航空会社が新機種を選定して現実に就航させるという本件のような通常の事態を前提とし、かつ、機種選定の時点で将来の就航時の条件を見通して適否を論じ得ることを考慮すると、右主張は、新機種の選定と運輸大臣の事業計画変更認可(権限)とが密接不可分の関係にあることを否定するに足りない。
つぎに、弁護人は、運輸大臣には、事業計画変更認可について裁量の余地がなく、民間航空企業の新機種選定について事実上容喙の余地がないと主張しているのでこの点を検討する。前記のとおり賄賂罪は、職務の公正に対する社会の信頼をもその保護法益とするものであって、仮りに公務員が裁量を働かせたり、手心を加える余地のない行為であっても、同罪における職務行為となり得るものと解するのが当然であり(大審院昭和一一年五月一四日判決・集一五巻六二六頁参照)、また仮りに、一般的職務権限に属する事項のうち法律上ないし事実上裁量の余地のないものにつき裁量権があるかのように振舞ってなした行為が、法律上許されず、或いは著しく不当、権限濫用として違法となることがあるとしても、かかる行為もまた同罪の観点からは職務権限に属するものと解すべきことは前記第一・二で述べたとおりである。
したがって、いずれにせよ、運輸大臣が民間航空企業の新機種選定に関して事業計画変更認可の権限を行使することが、同大臣の職務行為に当ることは疑いのないところである。ただ、右の弁護人の主張に関連して、同大臣の職務権限内容を明確にするため、その裁量権の有無に関し、なお、検討を加えることとする。
2 先ず、事業計画変更認可につき、運輸大臣に裁量の余地があるか否かについて検討する。
右認可の審査基準は、前記(一)末段において示した(1)ないし(4)であって、「公衆の利用に適応する」、「著しく供給過剰にならない」、「経営上及び航空保安上適切な」、「事業を適確に遂行する」というようにかなり抽象的な広い範囲の事項を含むものが多いばかりでなく、価値関係的判断を要する概念により構成されている。すなわち、審査基準の内容が一義的に定まっているわけでなく、一定の幅を持ち、運輸大臣は右基準の内容を自ら確定しながら申請内容につき基準との適合性を判断することとなるわけである。
ところで、審査基準(3)(経営上、航空保安上の観点)について運輸省航空局では、[1]就航計画に係る事業の収支見積の適否、就航計画に係る旅客・貨物取扱体制の適否、[2]就航計画と空港及び航空保安施設等の整備状況との整合性、[3]就航計画に基づく運航の安全面からする妥当性(航空路等の選定、航空機の性能及び装備、運航時刻等の設定、運航体制及び航空機整備体制の適否)、[4]就航計画に基づく環境対策との整合性という細目基準をさらに設けており(前記長澤証言)、その審査事項はやや具体化され細かくはなっているものの、やはり、「適否」、「整合性」、「妥当性」というように価値関係的判断を避けることのできない概念が用いられている。
たしかに証人長澤修が供述するように、右のような幅のある基準を適用するに当って行政庁はその幅の枠内であれば全く自由に判断をしてもよいというものではなく、さらに客観的な経験則に基づいて運用しなければならないとの制約が存すると解するのが相当であるが、経験則を如何に活用しても本件のような審査基準がすべて客観的かつ一義的に確定されることは事柄の性質上極めて困難であるというほかはなく、行政庁の裁量に委ねざるを得ない部分がかなり存することは明らかである。昭和四七、八年当時運輸省航空局監理部監督課長の職にあった証人山本長は、昭和四七年三月三一日に日本航空から、東京・沖縄間にボーイング七四七型LR機を投入することを内容とする事業計画変更申請がなされたのに対して、これを認可すべきか否かについて、当時同省政務次官であった佐藤孝行と航空局の間に意見の食違いのあった事実を指摘し、この意見の違いは審査基準(3)の「経営上及び航空保安上適切」との要件の適用についての見解の差に由来する旨供述したが、この実例は認可審査基準の個々の要件の適用については、審査に当る人によって判断に個人差のあること、すなわち、この点につき裁量の幅があることを示唆するものであって、同証人も同趣旨の見解を示しているのである。
3 ところで、現在同局技術部長である長澤修は、技術の分野についてではあるが、経験則によって常に客観的な判断基準が与えられるから、認可要件の適用について裁量を働かせる余地はない旨、弁護人の主張に副う供述をしているけれども、この見解を採用し難いことは以上に述べたところよりしても明らかである。
なお特定型式の航空機に関する技術的事項についてここで付随的に検討しておく。
耐空証明、型式証明、騒音に関する条約等については前記のとおりであるが、事業計画は路線ごとに定められる運航及び整備に関する計画であるから、この変更申請に関する前記審査基準への適合性の判断に際して、その路線の施設・旅客需要等の具体的諸事情、計画されている運航・整備の具体的内容との関係では、就航予定航空機の経済性・安全性・騒音量等の特性が判断対象となることは避けられないといわなければならない。すなわち、前記審査基準(2)の「航空輸送力」は当該航空機の座席数等その収容積載能力に基づいて算定されることは明らかであるし、同基準の(3)について運輸省航空局は前記のとおり[1]ないし[5]の基準をさらに設けて審査を行っているのであるが、右[1][2]の点を判断するに当っては、就航予定の航空機の座席数、速度、飛行場に到着後折り返し出発するまでに必要な時間(地上滞留時間)などに照らし経済性に関してその適否が問題とされることは明らかであり、右[3]の基準についても、当該路線における飛行場の滑走路、エプロン、気象関係装置その他空港施設の状況、整備状況が、就航予定の航空機の各種特性と整合するかといった点も検討の対象となり、[4]では就航予定の航空機の性能、装備が当該路線の具体的な地理的条件や気象条件等の諸事情の下で安全保持のために十分であるかというような点が判断されるのであり、[5]については特定の空港の周辺地域で当該航空機の騒音量が許容できるかといった事項が問題とされるのである(前記長澤証言)。そして、以上の諸事項の判断につき裁量を伴うことは右事項内容に徴して明らかであり、以上のようにして、新機種の就航に伴う事業計画変更の認可に際しては、運輸大臣が航空機の特定型式に関する技術的事項にまで立入って裁量を伴う審査を行うものであることはこれを肯認すべく、この点につき運輸大臣に判断の余地なしとし、また、航空機の特定の型式を事業計画に記載させることと事業計書変更認可とは無関係であるとする弁護人の主張は失当である。
さらに、いわゆる競願に関し、証人山本長の供述によれば、昭和四七年に全日空、東亜国内航空の両会社から、大阪・新潟間にYS一一型航空機を一日一往復運航する旨の事業計画変更申請がなされたことがあったところ、両社の申請をどちらも認めると供給過多になるため、両社ともその他の事項については審査基準の適合性に欠ける点はなかったけれども、運輸大臣は、後発企業たる東亜国内航空を育成しようという観点から同社に対して認可を行い、その結果供給過剰になるとの理由で全日空の申請を却下した事実が認められ、同大臣が事業計画変更認可権限の行使に際し、そのような形で裁量を働かせる局面も存することが明らかである。
4 また、弁護人主張のとおり、航空企業においては新機種の選定はその将来にかかわる重大事項であるから、通常、綿密な調査と慎重な検討を重ねてこれを行っていることは関係証拠に照らして明らかなところである。しかし、事業計画変更認可申請に対する審査に当る運輸省当局においても、運輸行政全体を把握し、その広い視野に立って、十分な資料と陣容をもち、かつ、経済官庁等関係行政機関と連絡を保ちつつ、航空行政全般を掌理する見地から、独自の見識に基づく調査をなすことは当然であって、例えば航空機輸送に対する将来の需要見通しについても個々の航空企業とは異なる独自の見通しを立て、その立場で、審査をすべきものといわなければならない。証人尾松伸正の供述によれば、昭和四七年七、八月、後記のとおり日米間の貿易不均衡が大きな問題となってわが国が米国から物資を特別に買付けることとなり(この買付を以下、前記のとおり、「緊急輸入」という)、運輸省航空局で民間航空企業が新たに購入する予定の航空機の数額を輸入予定額として取りまとめたことがあったが、同局ではその際各企業から提出された航空機の購入予定機数について、これを同局独自の需要予測に照らしてその妥当性を検討したうえ、各企業の予定どおりでは供給過剰になるとの判断からかなりの数額を減じて修正し、その修正された数字が最終的に日本の民間航空会社が購入計画中の航空機の金額として米国側に示されたことが認められる。右の修正を受けたものの中には、昭和四七年度中に全日空及び日本航空が購入する予定の大型機合計九機を各社につき一機ずつ減らして七機とした例が含まれているのであるが、右九機の購入計画は契約を間近に控えたものであったと認められ、前記機種選定の経緯に関する関係証拠にも照らして、両社ともに十分な調査検討を重ねた結果策定されていたと考えられるのに対し、当時運輸省大臣官房審議官の職にあって、緊急輸入に関し他の関係省庁との連絡、米国に提示する案の策定にあたった証人原田昇左右の供述によると、右購入予定額はことさら政策的に控え目の数額にする必要もなかったことがうかがわれるし、また、同証人が航空局の係官に対して控え目の数字をまとめるよう指示したこともなかったことが認められる。この例は、各企業が命運をかけて策定した機種選定・購入の計画についても、その経済性等の点で運輸省当局が企業と異なった独自の見識による判断に立ち、その考えをもとに行政を進めて行く可能性のあることを示しているということができる。この論点に関し、証人繁森實は、需要見通しについて航空企業の方が正確な判断をなし得る旨供述し、その理由として、「航空局は全体的な需要予測はするだろうし、個々の路線についても旅客数を実績として把握しているだろうが、それが将来どうなるかの分析となると、われわれ(全日空)のもっている路線について、われわれの考えに基づく微調整といったものがどうしても必要であるから」と述べているが、これが需要見通しにつき、運輸省が企業と異なる独自の判断に基づいて行政を行うことを否定する趣旨のものとすれば、以上に述べたところに照らして肯認し難いところといわざるを得ない。
5 以上みてきたところにより、航空企業の新機種導入に伴う事業計画変更の申請に対して、運輸大臣が、その機種の適否について、その裁量権を行使して(覊束裁量行為)判断を加える余地は事実上も十分に存するといわなければならない(なお後に(三)において述べる運輸省の航空企業に対する多くの行政指導実例もまた、右裁量権行使の可能性を示唆するものである。)。
弁護人は全日空が機種選定の対象としていたL一〇一一型機とDC一〇型機とは同じ範疇に属するエアバスであって、事業計画変更認可の審査基準に照らしてほとんど差異が認められないから、いずれを採用すべきであるとの判断はなし得ないと主張しているが、L一〇一一型機の方が騒音値が低いとされ、騒音につき厳しい問題をかかえる大阪空港への乗入れには適していると考えられていたのを初め、エンジンその他の機器や機材そのものの性能等両機種に審査基準たる事項にかかわるような差異があったことは全日空の機種選定の経過及び売込の成否に対する丸紅担当者の見通し等に関し前に説明したところから明らかである。もっとも右の差異はさほど大きなものではなく、総合的には優劣をつけ難かったと認められること前に認定したとおりであるから、事業計画変更認可申請に対して、右二機種のうちの一方の就航は審査基準等に照らして不適当で認可しない(他方を選定すべきである)というような判断をすることが、運輸大臣の裁量の範囲を逸脱し、あるいは裁量権を濫用したものとして、不当ないし違法と考えられる場合があり得るとしても、そのような違法不当な権限行使の行為も、前記第一・二で述べた理由により、賄賂罪の観点からは運輸大臣の職務権限に属することを否定されるわけではないのである。以上のとおりで、運輸大臣の認可権限行使に当っての裁量権の有無に関する論点を検討したうえからも、弁護人の主張を採用することはできない。
なお、被告人田中の弁護人は、陸運・海運等他の運輸事業における定期運送事業者の事業計画変更認可申請の手続をみると、運輸大臣が特定の種類の船舶、あるいは特定の自動車会社の特定の種類の自動車の選定に関する判断をなし得ないことが明らかであるところ、航空法における事業計画変更認可の申請手続は右の陸運・海運等におけるそれと同様の類型的手続であって、航空運送事業であるとの理由に基づく特段の定めを設けていないから、航空機に関しても同様に運輸大臣はその選定に関し判断をなし得ないと主張している。しかし海上運送にかかる諸規定をみると、一般旅客定期航路事業者は使用船舶を変更する場合には常に運輸大臣の事業計画変更認可を受けなければならず、運輸大臣は右認可の可否を決するに当って変更される具体的な使用船舶の航路との適合性の有無等を審査すべきこととされているのである。また他方、道路運送の場合には、使用自動車の個性、特性が安全性、経済性、公衆利便等の観点からはさほど重要な要素とならないことが事柄の性質上明らかなところであって、そもそも航空や海上の運送の場合とは同日に論じ難いのであるが、それでも関係法規に照らすと、路線を定めて定期に運行する自動車による乗合旅客や積合貨物を運送する事業を営む者が使用自動車を従前のものより大きさ、あるいは重量の増加したものに変更するときには、運輸大臣による事業計画変更の認可を受けなければならず、同大臣は当該路線と変更にかかる具体的な大きさ、重量の自動車との適合性をその際審査すべきこととされているのである。運輸大臣は右のような審査を通じて船舶や自動車の選定に関してその判断を加える余地があることは十分に認められる。弁護人の右主張は前提を欠き失当といわなければならない。
6 以上のとおり、航空会社が新機種を選定してこれを就航させるには運輸大臣の事業計画変更認可を経なければならず、したがって同大臣は右認可権限に基づき新機種の路線への就航の可否という観点から、その機種選定の結果を容認しあるいは排斥する権限を有しているといい得るのである。
(三) つぎに、以上のような認可権限を有する運輸大臣が、右の権限を行使する前に、あらかじめ全日空に対してL一〇一一型機を選定購入するよう働きかけるような行為が、その職務権限内の行為であるか否かについて検討する。
右のような働きかけについては、直接その根拠となる法令の条項は存しないが、このように、行政機関がその権限内の行政目的を達するため、国民に対してその任意の意思で一定の行為をなし、あるいはしないように勧告、助言、指導等の働きかけをすることが、行政指導としてわが国の諸行政機関によって広く行われていることは周知の事実である。本件において取調べた各証拠によっても、運輸大臣(運輸省航空局)による、日本航空及び全日空に対する国内線への大型航空機導入時期を延期するようにとの指導(昭和四六年二月に同局の住田監理部長は、日本航空に対し、当時同社が進めていた、昭和四七年度から国内線にボーイング七四七型機を投入する旨の計画は需給関係からみて過大であるとして、この実施を昭和四九年度まで延期するよう行政指導を行い、同社は数回にわたって文書を提出して反論したものの結局右指導に従った。全日空に対しても大型化の延期の指導がなされ、同社は異議なくこれに従った。証人稲益繁、同渡辺尚次、同山元伊佐久の各供述)、日本航空と全日空の航空機用交換部品の共同使用等両社の協調関係促進の指導(証人渡辺尚次、同若狭得治の各供述)、航空各社に対する、国内幹線への大型機投入を昭和四九年度以降認める旨の示達(運輸省航空局の「航空企業の運営体制について」と題する決裁文書〔甲二29〕)、わが国の航空会社に対し航空機購入資金の借入先を米国の銀行からわが国の輸出入銀行へ切換えるようにとの指導(証人渡辺尚次、同戸村正澄の各供述)、東亜国内航空に対するジェット化推進につきあらかじめ運輸省の承認を得るようにとの指導(証人山本長、同窪田俊彦の各供述)等数多くの行政指導がなされてきた事実が明らかである。
そして許認可、命令、取消等権力的措置をとる権限を付与されている行政機関が、直接この権限を行使する前に、右権限を背景として、すなわち相手方が従わない場合にはその者の不利益になるように右権限を行使することを背景として含んだ勧告・助言等を行うことも行政指導の一態様であり、本件証拠により認められる前記各種行政指導の中にも、大型航空機導入時期の延期指導等その例を認めることができる(「全日空機種選定準備委員会第七回本委員会資料」〔甲二100〕によると、前記大型機導入時期延期の指導に対し、全日空では導入時期について検討を行い、右の指導方針に反して導入しようとしても、輸入許可や大阪空港乗入れの点で関係省庁の協力が得られないことを理由の一部にあげて、次年度の大型機導入はできないとの結論を出したことがうかがわれる。)。このように、行政機関が権限を有する事項について行う行政指導は、その機関がその任務としている行政目的達成の一手段としてとられる措置であるから、もとより当該機関を構成する公務員の職務権限の範囲内に属すると解すべきものといわなければならない。
してみると、前記のとおり運輸大臣は、民間航空企業の新機種選定について、事業計画変更申請を認可するかどうかを決するに際し、その選定の適否に関する判断権限を有しているのであるから、これを背景として、全日空に対してL一〇一一型航空機を選定購入するよう働きかけるような行政指導をすることは職務権限の範囲内であるということができる。
弁護人は「基本的人権の尊重を基本原理とする憲法の下において、行政における『法の支配』の見地から、運輸大臣は、組織法上及び行政指導自体に関する作用法上の根拠に基づかない限り行政指導を行う権限を有しない。」と主張している。行政指導に必要とされる法令の規定の根拠に関しては種々の論議が行われているところであるが、少くとも本件の場合は、権力的措置によって一定の行政目的を達する権限を付与されている行政機関が、これを背景にして、非権力的・任意的手段によって同一の目的を達しようとする場合であるから、右権力的措置をとる権限を付与する法令の規定以外には特段の規定がなくとも行政指導をすることができるものと解せられる。すなわち、本件において運輸大臣は事業計画変更認可の権限を定めた航空法の規定以外に何らの法令の根拠なくして行政指導をなし得るのである(もっとも、仮りに行政指導それ自体について常に特段の法令の規定の根拠が必要であると解し、これを欠くために行政指導が違法であるとする立場に立っても、かかる行政指導はこれを行う公務員の権限の範囲内の事項につきなされるものである限り、これを行う公務員の任務遂行の一手段であって、公務として行われるものであることは否定し得ず、ただその権限に属する事項の処理方法を違法ならしめるに止まるものであるから、前記第一・二で述べたとおり、賄賂罪の観点からは結局その公務員の職務権限に属する行為であるというべきことに留意を要する。)。
なお、証人繁森實は、「事業計画変更認可についての判断は就航の直前になされるのに対し、新機種の選定は、それよりも数年以前になされることであって、運輸当局がその時点でそのような長期の見通しを立てて会社を指導することはできず、会社の経営責任としてなされるべきことである。」旨供述しているが、前記二(二)4において述べた緊急輸入に際しての購入計画航空機数に関する実例に照らして肯認し難い。また証人山本長、同若狭得治及び同窪田俊彦は、「運輸省内や航空業界では選定した航空機が適切なものでない場合、そのリスクを負うのは企業であるから、運輸当局としてこれに干渉すべきではないとされている。」旨証言しているが、選定についての責任を考慮して通常そのような運用がなされているといい得るとしても、航空行政の観点から不適切であることが運輸当局に明らかになっている機種を企業が選定しようとしているとき、これに干渉するのは航空行政の衝に当っている運輸当局の当然の責務というべきである。橋本運輸大臣が昭和四五年四月一三日の衆議院決算委員会においてエアバス導入にかかる機種決定について「最終的に決定する場合には運輸省が中心になり、関係会社とも十分相談したうえで決めたい。」と発言し(同委員会議録〔甲再一100・甲一305〕)、内村航空局長が昭和四六年二月二〇日の衆議院予算委員会第五分科会において、機種決定等は「元来政府が主導権をとって決めるべきものではなく基本的には企業の問題であるが、政府はその場合でも安全の面その他についてある程度のチェックというものはしなければならぬと考えている。」旨証言している(同委員会議録〔甲再一101・甲一306〕)のは右の趣旨を明らかにしたものということができる(本件発覚後、本件そのものを主題にとり上げた国会における質疑応答中、「どのような機種を選ぶかということについて運輸省はあずかり知らぬことである。」といった発言〔例えば昭和五一年三月三日衆議院運輸委員会における中村航空局長答弁〕が運輸省関係者からなされているが、これらは事件の処理や本件の政治的影響等を念頭においた意図的な発言であると考えざるを得ず、かかる配慮の必要のない時期における前記橋本運輸大臣らの発言の方が、同省の権限や立場についての当局者の見解を卒直に表明したものというべきである。)。
また、国会において、YS11型機を製造していた日本航空機製造株式会社の株数変更のための航空機工業振興法の一部改正案の議決に際し「政府は、本法施行に当り、国内航空路線にはYS11を優先的に採用させるとともに、航空機の国際的売込競争の実情を勘案して、YS11を購入する国内航空会社に対する前払金の低利融資その他販売条件に関して格段の指導を行うことなどにつき十分配慮すべきである。」との付帯決議がなされたことがある(昭和四〇年三月二日衆議院商工委員会決議〔同会議録、甲再一110・甲一323〕)のであって、運輸省等政府の関係部局が航空企業に対し機種選定に関して行政指導をなし得る立場にあるとの認識を国会も有していることが明らかであるうえ、運輸省航空局はYS11と競合する機種の航空機を輸入しようとする航空会社に対してYS11を採用しない理由をとくに聴取し(証人山元伊佐久の供述)、さらにもと同局監理部監督課長をつとめたことがある前記証人山本長自身が、右付帯決議について、「運輸省としては、こういう決議があったということを考慮してほしい旨航空企業に流したと思う。」旨供述していることを考えると、運輸省当局者も機種選定に関して航空企業に対し行政指導し得る立場にあるとの認識を有しているものと認めるほかはない。
さらに昭和五三年一月三〇日参議院予算委員会において、運輸大臣福永健司はECとの貿易収支の関係で「とくに欧州製のエアバスを買えとECが言っているが、これはどうなのか。」との問いに対して「いろいろ手はずを整えて、差支がなければそういう方向へ行くべきではないかという気はしているが、なお若干問題があるようなので遺憾なきを期していきたいと考えている。」と答え、「東亜国内航空がエアバス八機を買うという報道があるが、これはどうなのか。」との質問に「そういう意向があるように聞いている。まだ私に対して正式の申入というところまではいっていないが、いまわが国がいかにすべきかという見地から解決していきたい。」と答弁しているのであって、同大臣が東亜国内航空に対して欧州製エアバス(関係証拠によりA三〇〇型機を指すことは明らかである。)の選定を勧奨する行政指導もあり得ると考えていたことを推認することができる。
これらの例に徴すれば、機種選定について運輸省はこれに干渉すべきではないとされている旨の前記証言は、それが如何なる場合でも常にという趣旨であるならば(通常の運用に関する以上のものとしては)採用することができない。
なお、弁護人は「行政指導は法令の根拠に基づかないでなされる事実行為であるから、これを刑法一九七条の適用に当って、公務員の『職務』行為に当るとすることは、罪刑法定主義の原則に照らして許されないか、あるいは著しく不適当かつ不適切である。」と主張しているが、前記のとおり刑法一九七条一項にいう「職務」とは公務員がその地位に伴い公務として取扱うべき一切の執務をいい、その範囲は法令上その公務員の職務権限に属するとされているところによって画されるものであるところ、行政指導は前記のとおり、行政機関がその一般的職務権限に属する範囲内の事項につき、それを処理するための一手段としてとる措置というべきものであって、その事項が法令上その一般的職務権限に属すべきものとして限定されているから、行政指導の概念を刑法一九七条の適用に当って採用しても、そのためその「職務」の概念があいまいとなり、不当に拡張されるなど罪刑法定主義に悖る事態を招来するおそれはないというべきである。右主張には理由がない。
さらに被告人大久保の弁護人は、行政指導は「一定の行政目的達成のためなされるものであるところ、本件においてはどの型式の航空機を選ぶべきであるという、特段の客観的事態や情勢はなく、『一定の行政目的』自体が全く見当らないから、行政指導の概念を持出すのは誤りである。」と主張しているが、本件で想定される行政指導は、対米緊急輸入政策の重要な一品目の輸入の実施に当っての具体的機種の選択という要請を踏まえ、結局は、事業計画変更認可権限を背景としてなされるものである以上、右認可の場合と同じく、全日空の路線に、技術的、経済的に、そして公衆の利便の観点からも適合する機種の航空機による運航の確保を行政目的として具備した勧告、助言、指導ということになろうし、具体的には大阪空港における騒音問題等L一〇一一型機にすぐれた適合性を認むべき客観的情勢がなかったわけではないこと前記のとおりである。もっとも本件で想定される行政指導には判示のとおりロッキード社及び丸紅の利益を図る目的が含まれていたわけであるが、行政指導は右のように一定の行政目的に奉仕すべき建前のものとしてなされる以上、これを行う行政機関を構成する公務員が具体的にいかなる真意を有していたか否かは、該行政指導の適法性ないし相当性にかかる問題にすぎず、そのことによりその「職務」行為性が左右されるものでないことは前記第一・二のとおりである。右弁護人の主張は採用し得ない。
被告人大久保の弁護人はまた就航よりも遙か以前に行われ、かつ、就航と異なり必ずしも特定路線と結びつかない新機種選定の段階において、特定型式の機種を選ぶよう勧奨する等の権限が運輸大臣に付与されているとは解し難いと主張しているのであるが、運輸大臣が将来就航が考えられる路線の諸条件と特定機種の性能を対比して、選定の時点でその適否を論じることは十分になし得るところと考えられ、時期及び路線との結び付きの点から本件のような勧奨の権限を否定することはできない。弁護人の右主張は失当といわざるを得ない。
(四) 以上により、運輸大臣が全日空に対してL一〇一一型航空機を選定購入するよう働きかけるような行政指導をする行為はその職務権限に属する行為であったということができる。してみると、被告人田中の職務権限に関する前記第二・一(二)に示した二要件のうち(2)の要件がすでに充足されたということができるから、つぎに前記第二・一(二)(1)の要件の存否の検討に移ることとする。
三  閣議にかけて決定した方針の存在
(一)1 内閣官房参事官室首席内閣参事官藤森昭一作成の昭和五一年八月七日付照会回答書(甲一26)によると、昭和四五年一一月二〇日「航空企業の運営体制について」と題する閣議了解(これは「閣議決定」と並ぶ、閣議の意思決定方法とされている。証人加藤陸美の供述)がなされ、それには「航空の大量高速輸送の進展に即応しつつ、利用者の利便の増進と安全性の確保を期する観点から、航空企業の運営体制については下記の方針により、施策を推進するものとする。」として「1国内航空 (1)航空企業内容の充実強化を図り、航空の安全性の基礎のうえに、航空機のジェット化・大型化を推進する。」と書かれていることが認められる。
2 弁護人は右閣議了解の意味するところについて、「これは各航空会社の就航路線を定め、これに付加して航空会社が導入を検討している航空機のジェット化・大型化にはその前提として、航空会社では企業内容の充実を図ること、国においては空港整備、保安体制の整備を推進すべきことを明らかにしたものであって、航空機のジェット化・大型化を推進することが政府の方針として決定されたのではない。」旨主張し、証人山元伊佐久及び同窪田俊彦は、「右閣議了解は、すでにジェット化・大型化を進めていた航空企業に対して、そのためには事業内容の充実強化を図って、安全性を確保すべきことを求めたもので、政府がジェット化・大型化を推進するということをいっているわけではない。」旨供述している。
右山元証言に運輸経済年次報告二冊(昭和四四年版及び四五年版)(弁532、533)、運輸省の「航空輸送の運営体制に関する基本方針について」と題する決裁文書(甲二28)を総合すると、昭和四三年から同四五年にかけてわが国の航空輸送は国内線・国際線ともに年平均旅客が約二四パーセント、貨物が約二九パーセントという驚異的な需要の伸びを示し、その中で昭和四四年一〇月に全日空が一二〇人乗りのボーイング七二七―一〇〇型機を一七〇人程度が乗れる同七二七―二〇〇型機に切換え、日本航空も一二〇ないし一三〇人乗りのDC八―五五型機から二三五人ほどが乗ることのできる同八―六一型機に切換えるなど航空機は大型化の方向に進んでいたことが認められ、右閣議了解が右のようなすう勢を前にしてなされたものであることはたしかである。
3 しかし他方、前掲各証拠に証人手塚良成の供述を総合すると、右のような需要の急増に対するに、東京国際空港などの発着便数能力に制約があり、乗員の不足という要因もあって航空機の大型化が強く求められる情勢にあり、運輸省は昭和四四年ころから将来大型ジェット機導入の必要を考え、同年三月一八日衆議院運輸委員会において原田運輸大臣が「エアバスを導入したい。」旨の発言を行い、昭和四五年三月一二日手塚航空局長が衆議院大蔵委員会において、「昭和四七・八年ころにエアバスを導入するのが望ましい。」旨発言するなど、閣議了解前にすでに航空行政の観点からも大型航空機導入が望ましいとの方向を打出していたことが明らかである。
また、昭和五一年三月三日衆議院運輸委員会において中村航空局長が「大型機導入ということにつき運輸省は重大な関心をもっていたのであり、四五年の閣議了解等で明確にこの方針を打出していた。」旨発言し(同会議録〔甲再一105・甲一310〕、同年五月四日参議院予算委員会で木村運輸大臣が「あの閣議了解の段階では、さらに今後航空需要が増えるので、また、世界的な傾向でもあったので、ジェット化・大型化の方針を打出した。」と述べ(同会議録〔甲再一104・甲一309〕)、同月一二日衆議院本会議で内村運輸政務次官が「エアバスの導入を政策として決めたのは四五年一一月二〇日の閣議了解である。」旨発言しているのである(同会議録〔甲再一103・甲一308〕)。
以上のような航空機大型化の必要性、運輸省当局者の発言等に、航空の発達を図るべき行政責任を負い、大型機等新型機種の導入について、前記のとおり、耐空証明、事業計画変更認可等の権限を行使し、航空企業を指導するなどしてこれに関与すべき国の立場を考え合わせると、右閣議了解は、国が航空機のジェット化・大型化のすう勢を是認したというに止まらず、安全性に配慮を加えつつこれを推進することを国の施策とする趣旨を明らかにしたものと認められる。
4 証人山元伊佐久も右の点は肯認するのがその証言の趣旨と解されるのであるが、同証人はなお、「右の閣議了解は、そこで取上げた政策のうち、政府が行うべきことと、航空企業が行うべきことを書き分けており、ジェット化・大型化は航空企業の行うべきこととされているのである。このことは右閣議了解のもとになった昭和四五年一〇月二一日の運輸政策審議会の『今後の航空輸送の進展に即応した航空政策の基本方針について』との運輸大臣諮問に対する答申書作成の経緯を合わせて検討すれば分る。ジェット化・大型化について政府のなすべきことはあるが、それは昭和四六年二月五日の第二次空港整備五か年計画を定めた閣議了解によって示されており、昭和四五年一一月二〇日の閣議了解のジェット化・大型化の項には政府のなすべきことは何ら含まれていない。」旨供述している。たしかに、航空機を実際に購入し運行させるのは航空企業であるから、その意味では、ジェット化・大型化をするのは政府ではない。しかしながら、右運輸政策審議会の答申書(運輸省の件名「航空輸送の運営体制に関する基本方針について」の決裁文書〔甲二28〕)及び山元証人自身の証言によって認められる答申に至る経緯をあわせ検討しても、結局、閣議了解の趣旨を右山元証言のように解さなければならない必然性は認めることができない。空港整備については同証人の言うとおり別途閣議了解がなされていることが認められるけれども、その証言によっても、これは従来空港整備五か年計画として、その計画の初年度の予算編成が終ったところで閣議了解を得、その後一年くらい経って細目を閣議決定するといった方法をとってきた特別の事項について、右のような方法で従来の計画を改訂したものであることもうかがわれるのであり、ジェット化・大型化につき政府のなすべきその他の事項、例えば乗員の養成の基礎的部分、航空保安施設の建設といった事柄について特段の閣議の決定を得ていないことを考え合わせると、空港整備についての閣議了解が別になされたからといって、昭和四五年一一月の閣議了解にはジェット化・大型化について政府のなすべきことが含まれていないということにはならないというべきである。さらに右閣議了解後間もなく昭和四五年一二月三日の参議院運輸委員会において、橋本運輸大臣が「閣議了解は、運輸政策審議会の答申中の一部の事項について行ったが、閣議了解を求める際に答申全体を添付書類として提出し、全体についての了解を求めてあるので、答申にはあるが閣議了解の文言にはない、空港の整備、安全体制あるいは乗員養成といった問題も含めて実質上の閣議了解はなされている。」旨発言している事実も存する(同会議録〔甲再一102・甲一307〕)。以上の諸点を考慮に入れ、かつ、これが閣議了解という形をとって決定された趣旨を勘案しつつ、本件昭和四五年一一月の閣議了解の前記文言を読むならば、空港整備、乗員養成、航空保安施設の建設等ジェット化・大型化につき政府の行うべき事項も含めて、航空行政上の施策を推進すべきことがその趣旨として示されていると解するのが相当であるといわなければならない。
被告人田中の弁護人は、[1]昭和四六年五月一五日の日本国内航空及び東亜航空の合併前日、運輸省が右両社に対して本件閣議了解中両社に関係する部分を改めて周知徹底させるために送付した「合併後の事業運営の方針について」との文書(弁563、564)には、本件閣議了解1(1)項に関して、「上記閣議了解の方針にのっとり航空運送事業の使命である安全性の確保について万全を期する必要がある。」とのみ書かれていて「ジェット化・大型化」を推進すべきであるといってはいないのであり、このことはジェット化・大型化が閣議了解の方針ではなかったことを示す、[2]本件閣議了解1(1)の趣旨が航空機のジェット化・大型化の推進を政府の方針であるとすると、昭和四七年七月一日付運輸大臣通達により「国内幹線への大型ジェット機投入は昭和四九年度以降、これを認めるものとする。」とされたことと矛盾する、[3]内閣官房内閣参事官室首席内閣参事官加藤陸美作成の昭和五七年六月一四日付照会回答書(弁535の2)によると、本件閣議了解の行われた昭和四五年一一月二〇日の閣議における運輸大臣発言は、本件閣議了解が昭和四一年五月二〇日の閣議了解の変更を目的とし、合わせて国と航空企業とにおいて安全確保を一層強化する旨強調するものであり、さらに同閣議の席上配布された「運輸政策審議会答申書『今後の航空輸送の進展に即応した航空政策の基本方針』概要」には閣議了解を求めた「航空企業の運営体制」の項の中に「ジェット化・大型化の推進」は記載されていないのであって、これらのことから本件閣議了解の目的が航空企業の運営体制にあり、航空機のジェット化・大型化の推進が政策の目的とはなっていなかったといえると主張しているので、以下これらの点につき順次検討を加える。
[1]の点について。右文書の対象となる会社は合併により新たに発足することとなったもので、何よりも「安全体制の確立」と「企業基盤の充実強化」が求められ、それまでは「当面、ローカル路線を運営するもの」とされていた(本件閣議了解1(2))のであるから、当該会社に対してジェット化・大型化の推進を求めなかったとしても何ら異とするには足りないのであり、[1]の主張掲記の文書の記載を根拠としてジェット化・大型化の推進が閣議で決定された方針でなかったとはいうことができない。また、[2]の点についてみると、長期的展望に立った基本方針を策定する閣議了解において、ジェット化・大型化の推進を打出したが、諸般の情勢に鑑みその具体的実施が幾何か後に持越されたとしても、そこに何ら不思議な点はない。[3]の点については、運輸大臣の発言内容がただちに弁護人主張の結論を導く根拠となり得ないことは明らかであり、運輸政策審議会答申書の「概要」についても、ジェット化・大型化の推進ということは「2空港整備」の項に出てくることから「1航空企業の運営体制」の項においては省略されたとも考えられるのであって、いずれにしても、ジェット化・大型化推進の点が右運輸政策審議会の答申書の記載のとおり本件閣議了解に記載されていることに徴しても、右「概要」中のこの点の記載の有無にさほどの意味はないものといわざるを得ない。被告人田中の弁護人による前記主張はいずれも失当というべきである。
5 以上、右閣議了解の趣旨及び3に記載した各証拠を総合すると、政府がその航空行政上の施策の推進方法として、必要な場合、航空企業に対し、ジェット化・大型化を進めるよう行政指導を行うことも右閣議了解の趣旨に含まれると解するのが相当である。
(二) 関係証拠を総合すると、わが国では昭和四五年秋以降国際収支の黒字が著しく増加し、このことが国際的に大きな問題となったため、昭和四六年六月四日、対外経済政策推進関係閣僚懇談会(内閣官房長官・経済企画庁長官・外務大臣・大蔵大臣・農林大臣・通商産業大臣で構成)で、輸入自由化の促進、資本自由化の促進等八項目にわたる総合的対外経済政策の推進を決定し、その実施を図ってきたが、国際収支が依然としてかなりの黒字を続けたことから、昭和四七年五月二〇日の対外経済政策推進関係閣僚懇談会で、輸入促進、外貨の活用等七項目の対外経済緊急対策を推進することを決定した(法務省刑事局長伊藤榮樹作成の昭和五三年一二月七日付照会回答書添付の経済企画庁調整局長宮崎勇作成の照会回答書写〔甲再一58・甲一201〕)。そして、内閣は、昭和四六年一二月一九日の閣議において「円の為替レートの切り上げにあたって」と題する政府声明を決定したが、その中で前記八項目の政策を今後もさらに積極的に推進する意思を表明し、昭和四七年七月一八日には、右八項目及び七項目の両対策を機動的かつ強力に推進し、輸入促進等の施策を進めることを閣議決定した(法務省刑事局長伊藤榮樹作成の昭和五三年一二月二八日付照会回答書添付の内閣官房内閣参事官室首席内閣参事官藤森昭一作成の照会回答書〔甲一199〕)。この間貿易収支、とくに対米国のそれの不均衡が著しくなり、昭和四七年七月二五日から同月二八日まで箱根で開催された日米通商会議等を通じて、米国側から、わが国の米国からの輸入を増大するための具体策を強く求められたこともあって、そのころ関係省庁の担当係官らの間で検討されていた、同国から数種の品目を緊急輸入するとの案が採り上げられることとなり、同年八月一五日、通商産業大臣・大蔵大臣・防衛庁長官・農林大臣・運輸大臣・経済企画庁長官が集まって経済関係閣僚懇談会を開催し、緊急輸入の品目、数額の取りまとめを急ぐこととした(法務省刑事局長伊藤榮樹作成の昭和五三年一二月二〇日付照会回答書添付の外務省情報文化局長作成の照会回答書〔甲再一56・甲一205〕、被告人田中の検察官に対する昭和五一年八月八日付供述調書〔乙3〕、証人若杉和夫の供述)。その間、運輸省では航空各企業から外国航空機の購入計画、支払予定額を提出させ、前記(二(二)4)のとおりこれを同省の需要見通しに照らして修正するなどしたうえ、昭和四七年及び同四八年度中にわが国の民間航空企業が米国から購入予定の航空機の金額を約三億二、〇〇〇万ドルであるとした(証人尾松伸正の供述)。そしてこの数額が他の輸入予定品目の分と合わせて昭和四七年八月二五日及び同月二八日の両日、鶴見外務審議官とインガソル駐日米国大使との間で行われた会談において米国側に示され、同年九月一日、ハワイにおいて右会談の結果として、農水産物、ウラン濃縮役務等総額一〇億ドルを超える物資を日本が米国から緊急輸入することが発表されたが、その発表文中に「日本の民間航空会社は、米国から約三億二、〇〇〇万ドル相当の大型機を含む民間航空機の購入を計画中である。これらの発注は四七及び四八会計年度になされることとなろう。日本政府は、購入契約が締結され次第、これら航空機の購入を容易ならしめる意向である。」との記載がある(証人原田昇左右、同宇川秀幸の各供述、法務省刑事局長伊藤榮樹作成の昭和五二年六月七日付照会回答書添付の外務省アメリカ局長作成の照会回答書〔別添資料を含む。甲一44〕)。
検察官は、右航空機を含む数品目の緊急輸入が前記七項目及び八項目の対策の推進を決めた閣議決定を具体的に実行に移した施策の一つであると主張し、弁護人は両者の間に何の関係もないとしてこれを争っているので、この点につき検討を加える。証人宇川秀幸及び同増田實は、前記八項目及び七項目の両対策はいずれも緊急輸入とは無関係であると述べ、右各対策はいずれも輸入自由化等制度面を改善して貿易不均衡を是正しようとする長期的展望に立った総合的な施策であって、世界中のいずれの国との関係についても妥当することを目的としたものであるのに対し、緊急輸入は、米国との関係のみを対象とし、同国から物資を購入することにより一時的に貿易収支の差を縮小しようとするものにすぎない(宇川証言)、八項目、七項目の両対策は、わが国に対して円の切上げを迫る世界情勢の下で、これに対処するために立てられたものであって、特定品目の輸入のことを書いているのではない(増田証言)と供述している。そして、これらの対策に基づいて採られた措置として政府が取りまとめ発表した事項中には、緊急輸入が入れられていないことが認められる(大蔵省大臣官房調査課編「昭和四六年以降経済対策関係資料集」〔弁489〕)。しかしながら、八項目、七項目の両対策は輸入を促進増大することによってわが国の貿易不均衡を是正しようとするものであり、七項目対策には、「引続き輸入の増大に努めることとし」と書かれ、「とくに輸入割当枠の拡大、割当方法の改善、輸入流通機構の合理化等をはかる」と付記されているけれども、輸入増大の方法をこれら制度面の改善に限定しているわけではないと認められる。また、これらの対策の実施が貿易量や輸入品目からみて、とくに米国との間の貿易収支の改善に有効適切であったことは明らかで、現に、昭和四七年初めの牛場・エバリー会談と呼ばれた日米通商協議において、わが国は、両国間の貿易不均衡改善のために実施した通商拡大策として、八項目政策に基づいて実施した具体的諸措置を米国側に通報している事実を指摘することができる(宇川証言。宇川秀幸著「『日米通商協議』と『新国際ラウンド』」経済と外交〔一九七二年〕五九九号所収〔弁482〕)。また昭和四七年六月九日の衆議院商工委員会議録(甲再一113・甲一335)によると、当時通商産業大臣であった被告人田中は、近々来日するキッシンジャーに対し大臣として何を話すのかとの質問に対して、「日米間の貿易バランスをとり、正常な貿易を維持するため努力しているという七項目の問題等を話したい。」と答弁している事実も認められる。すなわち、両対策は米国との貿易収支改善をその主要な目的の一つとしていたというべきであり、米国だけからの輸入を一時的に増大させる措置もこれと目的を等しくするものということができる。被告人田中の弁護人は、対米緊急輸入促進のみを政府の方針として決定すれば、EC諸国及び東南アジアからの反発が予想されたところであるから、このような施策を円対策に含めなかったと解するのが当然であると主張するが、そのような反発を考慮して、方針としては対米国のみの措置をとくに打出すことはなかったとしても、右円対策に基づいて米国を対象にした施策を講じることができなかったとまで考えるべき理由は全く見出すことができない。さらに、前記の経緯と前記増田証言から明らかなとおり、そもそも七項目、八項目の両対策は、日本の国際収支黒字幅増大が国際的に問題となり、わが国に円切上げを迫る動きが強まったことからこれに対処するために打出されたものであるが、米国から一〇億ドル相当の物資を輸入すると表明することは、そのことだけでも同国の対日赤字をそれだけ減少せしめる見込であることを同国の政府国民に知らせる効果をもつものであったことは明らかであり(前記宇川、増田各証言)、このことによってわが国との貿易につき最も大きな利害関係を有し、国際的にも発言力の大きい米国のわが国に対する批判をかわし、右の日本への円切上げを迫る動きを弱める役割を期待され得たのであり、その意味でも緊急輸入は右両対策の目的達成に資するものであったということができる。
以上を総合すると、たしかに八項目、七項目両対策の策定に当っては、緊急輸入のような措置が念頭におかれ直接企図されていたとはいい難いけれども、緊急輸入は両対策に基づきこれを推進するためその枠内で具体化された措置であると解するのが相当であり、したがって両対策の推進を決めた閣議決定の枠内でこれを実施に移した方策の一つであるということができる。
なお、前記航空機の数額取りまとめの経緯に照らして明らかなとおり、緊急輸入の対象とされた航空機はもともと航空企業が購入を予定していたものであって、特別に買入れ、あるいは買増しをしようとするものではなかったとの事情があるが、そのような購入計画であっても、航空機代金三億二、〇〇〇万ドル分対日貿易赤字が減少する見込であることを知らしめる点で前記のとおり両対策の目的に副う効果があったのである。そして前記のとおり緊急輸入の目的及びこれに至る経緯を考え合わせると、右数額の航空機が購入されないときはわが国政府が国際信義上の責任を問われる関係にあったことは明らかであるといわなければならず、政府としては航空会社が計画どおり購入するか否かを見守り、航空企業がこれを実行しない場合には、企業に対して行政指導をすることにより予定どおりの数額の購入を確保する措置を講ずる可能性を含んだ関係にあったということができる。この点につき緊急輸入の案の策定ないし前記鶴見・インガソル会談についての発表文の作成に関与した証人宇川秀幸、同増田實、同原田昇左右及び同若杉和夫は、右発表文中の前記航空機の緊急輸入にかかる部分の文言は、購入の主体が民間航空会社であって、わが国政府に責任が及ぶような約束ではないことを明らかにするよう意図して書かれたものであると供述している。しかしながら他方、前記ハワイ会談の共同発表文中には、「総理大臣は日本政府も米国からの輸入を促進するよう努力する意向であり、また日本政府は合理的な期間内に不均衡をより妥当な規模に是正する意図であることを指摘した。」との部分があるところ、この点につき増田証人は、日本政府の意向表明であって右航空機の購入に関する場合と同様約束ではないと証言したけれども、同人自身が昭和四七年一一月八日衆議院商工委員会において、右の部分は「国際的公約」であると発言している事実が明らかである(同会議録〔甲一304〕)うえ、航空機購入について、原田証人が「あまり著しく計画が狂っていい加減なことを言ったということでは、やはり日米間の信義の問題になりかねないと思う。」と供述しているのであり、若杉証人も「もし購入されないときわれわれ(通商産業省の者)は民間航空会社に対して直接行政指導できないから、運輸省の方にこれを依頼することは当然推定される。」と述べているのであって、結局鶴見・インガソル会談発表文の文言解釈の如何にかかわらず、緊急輸入、ひいて前記航空機輸入の達成につき政府が国際信義上の責任を問われるべき立場にあったことは否定し得ない。
なお、これらの点に、右鶴見・インガソル会談の発表文中に前記のとおり「日本政府は購入契約が締結され次第これら航空機の購入を容易ならしめる意向である。」と記載されていて、政府の「購入を容易ならしめる」措置によって、予定額の航空機の輸入が確実となり、かつ、促進されることがいっそう期待し得たということができることを考え合わせると、航空機の緊急輸入が貿易収支改善に資するものであり、前記八項目、七項目の対策の枠内でこれを実施に移したものであるとの判断は、これが前記のいわゆる買増しではないとの事情によって左右されるものではないといい得る。
(三) 以上に検討してきたところを総合したうえ、本件のL一〇一一型機を全日空が選定購入するよう、同社に対して行政指導をせよと運輸大臣に対して指揮するような行為が右(一)・(二)の閣議において決定した方針に基づくものといえるか否かについて考える。先ず(一)の「航空の安全性の基礎のうえに、航空機のジェット化・大型化を推進する。」との閣議方針についてみると、前記のとおり、これが政府の行うべき事項も含んでおり、その中で航空企業に対してジェット化・大型化を進めるよう行政指導をすることにも右方針の趣旨が及んでいると解されるのであるから、航空企業に対して、大型機の一種であるL一〇一一型機の購入を勧めるように行政指導すべく、総理大臣が運輸大臣に指揮するような行為は、右方針の枠内にあってこれを具体的に実施に移す措置として、右方針に基づくものということができる。
つぎに前記(二)の「前記八項目及び七項目の両対策を推進する」との閣議方針については、緊急輸入が右方針の枠内にあり、これを具体的に実施に移す方策の一つであったと認められること前記のとおりであるから、緊急輸入の施策を実行するための措置もまた右の方針に基づくものといい得ることになる。してみると、前記大型機を主たる内容とする予定額の航空機を購入するように航空企業に対し行政指導するような行為、ひいて、候補機種の一つであった米国製のL一〇一一型機を購入するよう全日空に対して行政指導するような行為も、その枠内にあり、したがって、総理大臣が運輸大臣に対し右の行政指導をするように指揮することも右の方針に基づくものということができる。
(四)1 以上の点に関して弁護人は、「(一)の閣議了解、(二)のうちの昭和四六年一二月一九日の閣議決定は、いずれも被告人田中が内閣総理大臣になる以前の佐藤内閣によってなされたものであり、田中内閣の下ではすでにその効力を失っていた。」と主張しているので、この点について考察を加えておく。
行政機関は、これを構成する具体的個人が誰かということとは無関係な存在であって、その個人が交代してもそのことだけで従前のその行政機関の意思決定ないし意思表示が効力を失うことはないというのが行政組織に関する基本原理であり、このことは内閣についても妥当するものというべきである。内閣は最高の行政機関で、議決は全員一致によることとされている特殊な合議体であり、国民の意向を反映すべく国会で指名される内閣総理大臣とその選任する国務大臣によって構成されるものであって、前内閣とは政治的信条、立場、行政上の判断を全く異にする者たちがそのあとを占めることも制度上十分に予想されているというべき機関であるが、だからといって内閣の交代とともに、そのことだけで個々の修正ないし廃止の意思表示なしに従前の内閣の表示していた意思がその効力を否定されるとするならば、極めて大きな混乱を招来し、内閣及びこれを頂点とする行政機構の全体が機能し得ない事態に至ることは必至というべきであり、内閣につき右行政組織の基本原理を排斥するのがわが法制のとるところとは到底解することができないからである。また、被告人檜山から同田中に本件依頼のあった時点で、(一)の閣議了解はこれがなされてから一年九か月、(二)の佐藤内閣による閣議決定も八か月を経ているわけであるが、右の程度の時の経過により閣議における議決の効力が失われると解すべき理由は見出し難いところであり、また、関係証拠に照らし、右の間に各議決の効力を失わしめるような特段の事情がなかったことも明らかである。被告人田中も右(一)の閣議了解で示された原則は、同被告人の内閣になってから修正されたり改訂されたりしたこともないので、生きているものと思われる旨供述している(同被告人の検察官に対する昭和五一年八月九日付供述調書〔乙46〕)。
結局、前記(一)・(二)の閣議了解及び閣議決定は、いずれも本件依頼のあった昭和四七年八月二三日当時及びそれ以降本件金員授受の各日時を含む時期において、閣議で決定された方針として、その効力を有していたというべきである。
2 また弁護人は、全日空に対してL一〇一一型航空機を選定購入するように行政指導をなすべく運輸大臣を指揮するためには、そのような具体的な内容をもった閣議にかけて決定した方針が必要であって、前記(一)・(二)の方針は右のような指揮の根拠となり得るものではないと主張しているので、この点につきつぎに検討を加える。
前記一(一)において説明したとおり、内閣総理大臣に指揮監督権限が付与されているのは、合議体である内閣が、必要な都度常に閣議を開催して統轄調整の措置を講ずることが困難であるとの趣旨によるのである。したがって、個々の具体的指揮監督権限の行使について、そのそれぞれに具体的個別的内容の「閣議にかけて決定した方針」が必要であるとするならば右の趣旨は没却されてしまうことになる。そしてまた、内閣総理大臣は国務大臣の任命権を有する(憲法六八条一項)のみならず、任意にこれを罷免することができ(同条二項)、また行政各部の処分又は命令を中止せしめ、内閣の処置を待つことができる(内閣法八条)など極めて強い権限を有しているのであるが、それは行政の統轄のため内閣総理大臣がその意思を強く国政に反映させるべき立場にあるからであるといい得るのであって、そのことを考え合わせると、内閣総理大臣は、統轄のための手段といい得る国務大臣に対する指揮監督権限を内閣の意思を離れてこれと無関係に発動することはできないけれども、閣議において一般的、基本的な大枠による方針決定さえなされていれば、右方針の範囲を逸脱するものでない限り、その細部の個別的具体的な事項については、そのそれぞれについて改めて内閣による方針決定を要せず、指揮監督権限の発動をなし得るものと解するのが相当である。
実務における運用についてみるに、昭和四七年一一月八日の衆議院予算委員会議録(甲再一116・甲一338)によると、被告人田中は内閣総理大臣として議員の質問に答え、「日米間の貿易収支の不均衡を是正するということは日本としては大変なことであるから、緊急輸入できるものはすべてやりたいということで、私から各省に連絡をして、できるだけ緊急輸入できるものはそろえてくれと要請した。」旨答弁したことが明らかである。(被告人田中が実際に各省に連絡をして右のような要請をしたとまで右証拠によって認定することは他の被告人との関係では伝聞法則によって許されないところであるが、)同被告人が国会において右のような発言をした以上、同被告人はかかる要請―指揮をすることが内閣総理大臣の権限の範囲内にあると認識していたことを優に認めることができる。緊急輸入そのものを内閣の方針としてとくに取上げた閣議決定はなく、以上に説明してきたところから明らかなとおり、これに関して指揮監督権限を発動するための根拠としては、八項目及び七項目の両対策を推進する旨の閣議決定による方針しか考えられないのであるから、被告人田中の見解では右方針に基づき緊急輸入に関して関係大臣を指揮することができるということになる。
なお法務省刑事局長伊藤榮樹作成の昭和五三年一二月二〇日付照会回答書(甲再一56・甲一205)によると、佐藤榮作内閣総理大臣は前記八項目の政策に関して、
[1] 昭和四六年六月四日、大蔵大臣から、右政策が決定された旨の報告を受けた際、同大臣に対し、「いずれも結構な政策であるが、抽象的なものはできるだけ早く具体化するよう」指示したこと
[2] 同月一八日、関係閣僚に対し「九月末の残存輸入制限品目をかなり減らすように。」との強い意向表明を行ったこと
[3] 同年七月七日、外務大臣及び通商産業大臣に対し、「相協力して八項目の施策を完全に実施するように」指示したこと
[4] 同月二八日、前記関係閣僚懇談会の席上で、「大変だろうが、もう少しやってほしい。」と輸入自由化の促進方を督励したこと
がそれぞれ認められる。ところが前記のとおり、八項目の政策は前記関係閣僚懇談会で決定されたものであって、閣議で決定されたものとはいうことができない(証人加藤陸美の供述)し、「閣議及び事務官等会議付議事項件名等目録」(甲再一111・甲一324)その他関係証拠を総合すると、昭和四六年一二月一九日の閣議に至るまで八項目政策の推進そのものが具体的に閣議決定されたことはなく、右[1]ないし[4]の各指示等の内容となっている個別的具体的事項についての閣議決定はなかったことが明らかである。
また、証人木村睦男の供述によると、昭和四九年一二月二四日、当時の内閣総理大臣三木武夫は大蔵大臣に対し昭和五〇年度の予算編成に関してたばこ以外の公共料金をすべて凍結するよう要請した事実が認められる。甲一324の前記目録と右木村証人の供述を総合すると、昭和五〇年度の公共料金については、昭和四九年三月一九日の「石油価格の改訂と物価対策の強化について」との閣議了解において「公共料金については引続き極力抑制する。」との方針が打出されていたのみで、個々の項目につき料金をどうするかといった具体的な点については何らの方針も決定されていなかったものと認められる。
ところで、証人木村睦男は、三木武夫内閣の運輸大臣をつとめた経験に照らして、「内閣総理大臣の指揮監督権限は、閣議で決定した事項を、実施せず、あるいは決定に反したことをする大臣に対してのみ発動されるもので、ごく稀にしか行われるものではない。内閣総理大臣から閣議決定を経ていない具体的事項について話のあることがあるが、それは単なる意見表明、ないしは相談というべきものであって、右権限の発動ではない。」とし、当時三木総理大臣による国務大臣に対する指示として報道されたいくつかの例について、いずれも指示ではなく意見表明に止まるものである旨供述している。そしてなお木村証人は、同総理大臣が昭和四九年一二月二四日に公共料金凍結を大蔵大臣に要請した前記の例がこれに含まれるとしており、この例の場合、内閣総理大臣の要請に対し大蔵大臣は、郵便料金、電報電話料金の値上げを強く主張して反対した事実をあげて、このことから三木総理大臣による大蔵大臣への要請は、指揮監督権限の発動たる指示ではあり得ないと供述しているのである。しかしながら、同証言によれば、右公共料金凍結の問題については、その四日後の同月二八日までの間に協議が繰返されたうえ、同日、大蔵大臣が不満を残しながらも、総理大臣の要請にかなりの妥協をし、郵便料金は値上げするが、電報・電話料金については凍結をすることとし、その内容を含んだ予算案を編成するに至ったことが認められるのであって、三木内閣総理大臣は凍結に消極的な国務大臣をして結局自己の求める線に近い事務処理をさせているのである。しかも前記甲一324の「閣議及び事務次官等会議付議事項の件名目録」によると、右同二八日に、閣議において「昭和五〇年度の経済見通しと経済運営の基本的態度について」との閣議了解の中で「公共料金等は、これを厳に抑制するものとする。」との方針が決定され、また同日の「昭和五〇年度予算編成方針について」の閣議決定において「公共料金については、経済情勢等に鑑み、物価の安定に資するため、極力これを抑制する。」とも決定されているのである。以上の諸点を考え合わせると、右大蔵大臣に対する要請は単なる意見表明に止まるものとは到底考えることができず、内閣総理大臣の指揮監督権限の発動行為と認めるのが相当である。
前記佐藤総理大臣による[1]ないし[4]の指示等についても、甲一205の証拠によれば、八項目政策の輸入自由化の促進等一般的方針は関係大臣が合意して決定したものの、特定品目の自由化等個別具体的な事項になると、関係省庁がそれぞれ種々困難な問題を抱えており、早期に右政策の完全な実施を図るにはかなりの障害の存したことがうかがわれるうえ、前記のとおり八項目対策は国際的に問題となった貿易不均衡を是正するため急ぎその実施を図るべき重要事項であったのであって、前記[1]ないし[4]の各文言に照らしても、これらの指示等は行政各部の事務を統轄調整する指揮権発動の行為であったと認めざるを得ないものである。前記田中総理大臣の緊急輸入に関する要請についても、「要請」という言葉を使っている点、内閣総理大臣から関係各省に連絡をとったと言っている点を考え合わせると、単なる助言、意見とは到底考えることができないものというべく、木村証言によって被告人田中の認識に関する前記認定を左右することはできない。
そして前記のとおり、これらの指揮については、その内容をなす具体的事項に関する閣議決定はなく、前記佐藤総理大臣の指揮も、三木総理大臣の指揮も、被告人田中の見解と同じく、それぞれその根拠は、ごく一般的抽象的事項に関する閣議決定に求められていると認めるほかはない。第一五九回公判における証人加藤陸美に対する尋問からも、内閣総理大臣の国務大臣に対する非常に具体的内容をもった指揮が、閣議決定された極めて一般的抽象的な方針にしか根拠を求め得ない場合がかなり存することがうかがわれるのであり、かかる実務の運用は、本項冒頭で述べた内閣総理大臣に指揮監督権限が付与されている趣旨及び同大臣が自己の意思を国政に反映させるべき立場にあることに照らし合理的なものとして是認すべきであるといわなければならない。してみると、前記(三)のとおり、前記(一)・(二)の各方針は、本件で問題の運輸大臣に対する指揮の根拠となり得るものであるといえることになる。
なお、閣議にかけて決定した方針とこれを具体化する指揮との関係を右のように解するならば、当該方針の範囲内である限り右具体化の際、関係法令等による諸要請、すなわち本件においては前記のとおり路線に適合した航空機の運航の確保という航空法の事業計画変更認可の制度の趣旨をも加味して、これを行政目的とする行政指導を行うように指揮内容を定めることは当然に許されるところというべきである。被告人大久保の弁護人は、本件各閣議において決定された各方針の内容は、これをどのように解したところで、L一〇一一型機の勧奨という行為の行政目的となり得るようなものではないから、本件において右のような勧奨は行政指導として成立ち得ないと主張しているのであるが、右に述べたところに照らして失当といわなければならない。
3 弁護人は、「憲法が内閣総理大臣に行政各部に対する指揮監督権限を付与したのは、行政の統一と調和をはかるためであるから、その必要のある事項について行政各部の統轄調整の目的に出るのでない限り、右権限は行使し得ない。また末端の行政事務については、これが内閣の基本方針に関係をもち、あるいはこれに影響を及ぼすような性質のものでない限り、これに内閣総理大臣の指揮監督の権限が及ぶものではない。」とし、全日空の機種選定に関する運輸大臣の行政指導は内閣総理大臣の指揮監督権限行使の対象とはなり得ないと主張しているので、この点について検討する。
前記(一)・(二)の各方針は前記のとおりの内容のものであって、いずれも航空行政、国の経済政策の基本にかかわる重大な方向を定めるものであったというべきであり、また(ことに(二)は)複数の大臣の所管にも関係するのであって、これらの方針を具体的に実行に移すための措置は、たとえ末端の行政事務にかかるものであっても、右基本的な方針と関係をもつ重要な事項であったということができる。内閣総理大臣が行政各部に対する指揮監督権限を付与されているのは統轄調整のためであること前記のとおりであるが、右のように国の基本的政策にかかる事項や複数の大臣の所管に関する事項は、高度の政治問題と並んで内閣による統轄調整が最も必要となる事項であるといわなければならない。そしてこれらの事項について、いかなる措置が閣議決定された方針の具体化に資するものであるか、右方針の実行のためいかなる点について行政の統轄、調整をはかる必要が存するかは、時どきの国政全般の状況、行政各部全体の動向等を大局的に把握したうえで判断されるべき事柄であって、これを客観的、一義的に確定することは困難であり、最もよく右のような情勢把握をなし得る立場にあり、また前項(二)で述べたとおり行政の統轄のため強い権限を与えられその意思を強く国政に反映させることが期待されている内閣総理大臣の主観的判断に委ねられているというほかはない。すなわち、閣議で決定された方針に基づき右のような重要事項について、具体的にいかなる場合にどのような事項について指揮監督権限を行使するかは、内閣総理大臣の自由裁量に属するものと解するのが相当である。もっとも本件の場合、具体的にL一〇一一型機を選定購入するよう全日空に対して行政指導することに関する指揮監督権限の行使が行政の統轄のために必要であったかどうかは疑問であり、これに藉口したと評価される場合を含め、このような指揮監督権限の行使は、内閣総理大臣の裁量権の濫用として違法と解される余地は十分に存するのであるが、前記第一・二で述べたとおり、賄賂罪においてはそのような違法行為も同大臣の職務権限に属するものと解されるのである。結局弁護人の右主張は失当であるといわなければならない。
(五) 以上のとおり、前記(一)・(二)を閣議にかけて決定した方針として、総理大臣たる被告人田中は、運輸大臣に対して全日空がL一〇一一型航空機を選定購入すべく行政指導するようにとの指揮をする権限を有していたということができるから、前記一、二の諸点とも総合して、右の指揮が、同被告人の内閣総理大臣としての職務権限に属する行為であったことを十分に肯認することができる。
第三  全日空に対する内閣総理大臣自身の働きかけ
つぎに、被告人檜山の同田中に対する依頼事項のうち、被告人田中自身が全日空に対しL一〇一一型航空機を選定購入するよう働きかけるというような行為が、同被告人の内閣総理大臣としての職務権限に属するか否かについて検討することとする。
一  内閣の行政事務処理の権限
(一) 内閣総理大臣は、前記(第二)の行政各部に対する指揮監督権限に加え、内閣の代表者として内閣の所掌行政事務を実施する権限及び総理府の長としてその所掌行政事務を処理する権限を有するのであるが、右内閣及び総理府の所掌事務について定める法令中には、同大臣が特定機種の選定購入に関し直接民間航空企業に働きかけるというような行為がその職務権限に属すると解するにつき、ただちに根拠となる規定は存在しない。
(二) 検察官は、右のように全日空に対して働きかけることは被告人田中の職務権限に属する行為であったと主張しているのであるが、その前提としてつぎのような主張を行っている。「各大臣が行政事務を分担管理する権限は、本来内閣に帰属するものであって、各大臣は国の行政事務の能率的遂行を図るため内閣に属する権限を分担しているにすぎないのであるから、許認可事務のように各大臣に専属的に分掌せしめられている行政事務は別として、その余の行政事務については、内閣は必要に応じ自ら直接これらに関する行政上の権限を行使できる。したがって、内閣が閣議により一定の行政施策を行うべきことを決定した場合においては、内閣の代表者としてこれを実施する責務と権限を有する内閣総理大臣は、閣議において決定された基本方針に基づき、行政各部を指揮監督できるのは勿論、行政各部に専属的に分掌せしめられていない行政事務を自ら行うこともできる。」と主張している。
なお、検察官は右の前提主張の根拠を、憲法七三条が「内閣は他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。」と規定し、同条一号ないし七号において例示的に列挙している比較的重要な事務を含む一般行政事務につきこれを行う主体を内閣としていることに求め、結局、特定機種の選定に関して行政指導をする権限は(運輸大臣に専属的に分掌せしめられている範囲外であるとし)内閣が必要に応じ自ら直接に行使し得る権限でもあるとして、その代表者である内閣総理大臣は右のような行政指導をなし得るというものと解せられる。
そこで、検討するに、憲法七三条が内閣の行うべき一般行政事務について定めていることはたしかであるが、同条の規定から、ただちに、法律により行政各部(各大臣)に所管させた事務と同一の事項につき内閣が直接、重畳的に権限を行使することができると解するのは飛躍に過ぎると思われる。同条一号の規定が行政各部に事務を分担させたうえで内閣がこれを統轄、指揮監督するという権限、組織の構造を示していると解されることからも、同条の解釈としてこの点を積極に解することは困難である。
しかして、国家行政組織法は「国家行政組織は内閣の統轄の下に明確な範囲の所掌事務と権限を有する行政機関の全体によって系統的に構成されなければならない。」(同法二条一項)と規定しており、そこでは、内閣は統轄の任務を担っていること、及び所掌事務と権限が明確に限界づけられるべきことが示されている。右の明確性の要請は、行政機関の権限の範囲を明らかにして無用の争いや混乱を避けると共に、特定の事項に関する事務につきこれを担当する機関を明示し、権限と責任の所在を明瞭ならしめて国民の便宜、権利保護に資する基本原則というべきものである。さらに、検察官の主張する「各大臣に専属的に分掌せしめられていない行政事務」とはいかなるものを指すのか、これを明確に示すような法令の規定もなく、その範囲は分明ではない。してみると、内閣が統轄―指揮監督権限に止まらず同一の事項につきこれを所管する行政各部(各大臣)と重畳的に権限を有し直接にこれを行使することを認める考え方には、両者の権限相互の関係につき疑義を生み、権限と責任の所在、範囲を不明確ならしめるなど、右基本原則に反する疑いが濃厚である。検察官の前記の前提主張には疑問があってただちに採用することはできない。
二  内閣総理大臣の指揮監督権限を背景とした働きかけ
(一) そこでつぎに右前提主張を離れて、内閣総理大臣が、前記のとおり民間航空会社の機種選定に関して行政指導をなす権限を有する運輸大臣に対する指揮監督権限を背景として、自ら直接航空会社に対して同様の行政指導的働きかけをなすことがその職務権限に属するか否かについて検討する。先ず、内閣総理大臣の指揮監督権限は各大臣に対してのみ行使されるものであって、それ以外の第三者に対してこの権限が直接行使されることは全く予定されていないのである。そして内閣総理大臣に右のような権限を認めるならば、結局は新機種の航空機が就航することに伴う事業計画変更認可権限を運輸大臣と並んで内閣総理大臣にも重畳的に認めるに等しい結果となり、権限ないし責任の所在、範囲を不明確ならしめるのではないかとの前同様の疑問を依然として払拭し得ないこととなる。そのような権限を法が内閣総理大臣に付与しているとは考え難く、右のような行政指導的働きかけを自ら航空企業に対して行うことが同大臣の職務権限に属するとすることは極めて困難である。
(二) しかし、他方、内閣総理大臣が機種選定に関して航空企業に自ら働きかけるならば、そのことが同大臣が運輸大臣に対して有する指揮監督権限を背景として極めて強い影響力をもつことになることは明らかである。すなわち、内閣総理大臣は前記(第二・三(四)2)のとおり、国務大臣の任免権、行政各部による処分等の中止権をもつなど非常に強い権限を有するから、前記の国務大臣に対する指揮監督権限は、指揮に従わない国務大臣を罷免し、指揮に反する処分を中止せしめ、反対の意見の国務大臣を更迭して自らの意図に副う閣議決定を形成するに至らしめるなどの強権発動もしようと思えばできるという権限の仕組とあいまって、指揮内容どおりの処分がこれを受けた国務大臣によって行われることが、制度上保障されているということができる程に強力なものである。
したがって、本件において、内閣総理大臣たる被告人田中が、全日空に対してL一〇一一型機を選定購入するよう働きかけた場合、同社としてはこれに応じなくとも、前記二・三のとおり、閣議にかけて決定した方針が存するのであるから、いずれ同被告人から運輸大臣に対して右と同じ内容の行政指導を同社に対してなすよう指揮監督権限が発動され、同大臣から事業計画変更認可権限を背景とした行政指導を受けることが確実という情況が想定されるのであって、結局、内閣総理大臣からの働きかけに対して、運輸大臣の行政指導の場合と同じ対応を迫られることになるのである。すなわち、被告人田中は、全日空に直接働きかけることによって、運輸大臣を指揮して行政指導をなさしめる場合と同じ事実上の強制力を発揮することができる地位にいたということができる。
(三) 右のような働きかけが、法令により内閣総理大臣の職務権限事項とされていないことは前記一及び二(一)のとおりである。しかしながら、働きかけによって右のような強制力を発揮し得るのは、前記のような強力な権限をもつ内閣総理大臣が、その国務大臣に対する指揮監督権限を背景としてなすからであって、右働きかけは内閣総理大臣の職務権限と全く切り離して論ずることはできないといわなければならない。(なお、弁護人は「被告人田中が航空会社に働きかけるとしても、実力者として『私的な立場』でするものである。」旨主張しているが、内閣総理大臣の地位にある者の右のような働きかけには、その地位に基く右の強制的効果が必然的に伴うものというべきであって、かかる地位に伴う効果を取去り、私的な立場における行為であるということはできないといわなければならないし、前記事実認定につき縷々説明したところから明らかなとおり、内閣総理大臣の地位に伴う右強制的効果を被告人檜山らが期待し、被告人田中がその点を了承して本件依頼を受けたものと認められるのであって、右主張は失当である。)。すなわち右のような働きかけは、被告人田中の内閣総理大臣としての職務行為たる運輸大臣に対する指揮監督権限の行使と密接な関係を有するものであり、かつ、運輸大臣に対する罷免等の強力な権限を背後に控え、同大臣を指揮して行政指導をなさしめた場合と同じ効果をもたらし得る点よりして、右指揮監督権行使に準ずる公務的性格の行為であるということができる。判例(最高裁判所昭和三一年七月一二日決定・刑集一〇巻七号一〇五八頁、同裁判所昭和三八年五月二一日決定・刑集一七巻四号三四五頁参照)は刑法一九七条の「職務二関シ」とは、賄賂が当該公務員の職務行為に対する場合に限らず、これと密接な関係を有する行為、すなわち準職務行為又は事実上(或いは慣習上)所管する職務行為に対する場合を包含すると解しているが、右のような内閣総理大臣の全日空に対する働きかけは、以上の諸点に鑑み内閣総理大臣の準職務行為に当ると解するのが相当である。
(四) 弁護人は、「右のいわゆる密接関連行為を包含するとの解釈は、罪刑法定主義に反し許されない。」と主張しているが、右解釈は刑法一九七条の予想する犯罪定型をとらえたものとして合理的であるというべきであり、また「準職務行為又は事実上(或いは慣習上)所管する職務行為」との文言によって、構成要件の範囲、その限界は明確になっているということができるから、右解釈が罪刑法定主義に反するとの非難の余地はないといわなければならない。
なお、弁護人は判例を引用分析して、本件は密接関連行為に当らないと主張しているが、引用された判例はいずれも本件に適切なものとはいえず、判例理論の分析も当を得たものとはいい難い。
第四  結論
以上のとおり、全日空に対しL一〇一一型機を選定購入せしめるべく行政指導をせよと運輸大臣を指揮するような行為は、内閣総理大臣たる被告人田中の職務権限に属する行為であり、内閣総理大臣たる同被告人自らが全日空に対し右行政指導と同じ内容の働きかけをするような行為は、右の職務と密接な関係を有する準職務行為であるというべく、結局、本件五億円は被告人田中の右両様の趣旨における職務に関し供与された賄賂であって、被告人田中は、右のような同被告人の職務権限に属する行為ないしはこれと密接に関係する行為をなすべきことの依頼を受諾し、すなわち「請託」を受け、その賄賂の右趣旨を認識したうえでこれを収受したものであるということができる。
第六章  外為法違反について
(外為法は、昭和五四年法律第六五号「外国為替及び外国貿易管理法の一部を改正する法律」により全面的に改正され、これに伴い、関係法令についても大幅な新設改廃がなされるに至っているが、各被告人に適用されるのは、右改正以前の、本件事件当時における外為法所定の罰則である〔右改正法律附則八条〕から、本章で挙示する外為法及び関係法令の規定も、とくに断わらないかぎり、本件事件当時のものである。)
一  以上認定の事実関係によると、本件四回にわたる五億円の現金の交付は、外為法違反の観点からは、ロッキード社の社長であるコーチャンが、同社の事業遂行活動の一環として行った同社と被告人田中との金員贈与約束と解することもできるとともにこれに基づき、同社の負担のもとに実行されたものであるといえること、ロッキード社は外為法上の非居住者であること、本件交付に交付者側として関与したクラッター、被告人檜山、同伊藤、同大久保及び受領者側の被告人田中、同榎本はいずれも同法上の居住者であること、右現金の交付は外為法の規定する支払の概念に当るものであること(被告人伊藤の弁護人は、本件が「支払」に当らないとも主張するが、その実質は、同被告人に支払の主体としての当事者性がない旨を主張するにすぎない。)、そしてクラッターが右支払に関し支払の当事者としての地位にあることはいずれも明らかである。被告人伊藤の弁護人は、「検察官の主張によれば、檜山、大久保、伊藤らは、非居住者たるロッキード社のためにする支払として五億円を居住者である田中に支払ったというのであるが、該五億円は、ロッキード社が、ロスアンジェルス・ディーク社に依頼して海外で日本円を調達したうえ、これを日本に搬入してクラッターに引渡し、同人はロッキード社の指示どおりに処理したというのであるから、その支払の主体はロッキード社そのものであると解される。クラッターの立場はロッキード社の指令のままに動いている同社の使用人と変りがなく、クラッターをロッキード社と別個の独立した支払主体とみることは到底できない。」旨主張する。しかし、クラッターの立場はロッキード社の単なる使者ないし履行補助者等に止るものでなく、前掲関係証拠によって認められるロッキード社の子会社であるLAALの日本における代表者たる地位、活動情況、資金取扱状況等からしてロッキード社とは別個の外為法上の居住者としての地位を有することは明らかであるから、その主張は理由がない。弁護人主張のとおりとすれば、ロッキード社が、その業務に関し、クラッターに対してなす送金等は外為法上の支払規制の対象とならないこととなり不当である。
以上によると、本件の支払が、外為法二七条一項三号所定の「非居住者のためにする居住者に対する支払」に当ることについても異論の余地がない。そして、かかる支払又はその受領(なお、外国為替管理令〔以下外為令という〕二六条二項)については、外為法二七条一項の規定を受けた外為令一一条一項本文、二八条(なお、外為法六九条一項)、貿易外取引の管理に関する省令六条一項別表第一六第二号ロ、別表第一七第一号ロにより、日本銀行の許可を受けることを要するところ、前掲関係証拠により日本銀行が右許可をしていないことが明らかであり、したがって、右の支払及びその受領は外為法七〇条七号、二七条一項三号所定の犯罪を構成することとなる。
二  そして、クラッターが、本件支払の右のような性格(すなわち、これが非居住者のためにする支払に当ること)を認識していたことは前掲関係証拠により明らかなところであり、また右支払が所定の外国為替管理上の手続を経ることなく行われるものであることの認識を有していたことについても、本件の情況上十分これを推認することができる。
また、被告人檜山、同伊藤、同大久保の外為法違反の認識についてみると、さきに詳細説明した本件の事実関係によると、本件支払は、前記のとおり米国の法人であるロッキード社の被告人田中に対する金員贈与約束という性格をも有し、これに基づき、同社の負担のもとに実行されるものであること、その支払は、本邦内でクラッターから被告人伊藤が現金を受取った後すみやかに被告人田中側に交付する方法により行われるものであること等の事実は、もとより被告人檜山、同伊藤、同大久保のいずれもがよく了知している事柄であったと認められるのであり、なお、本件支払金員の前記のような賄賂としての性格にも照らし、右被告人三名はいずれも、本件支払につき丸紅側でもロッキード社側でも法定の許可を求めておらず、被告人田中側でも受領につき法定の許可を求めてはいないことについてもこれを了知していたと認められるから、結局右被告人三名が外為法違反の認識を有していたことは優にこれを肯認することができる。そして、昭和四七年八月二三日における被告人田中との本件支払約束の成立に至るまでの間、ロッキード社の金員を被告人田中に支払わせる旨の被告人檜山、同伊藤、同大久保三名の謀議の状況、右支払約束後における被告人檜山の被告人伊藤、同大久保に対する、ロッキード社の五億円を被告人田中に引渡すようにとの指示の状況、これを受けた被告人大久保のクラッターに対する連絡の状況、右クラッターとの連絡についての同被告人の被告人檜山、同伊藤に対する報告・連絡の状況、本件各支払の際におけるクラッター、被告人大久保、同伊藤、同檜山の連絡の状況(なお、被告人伊藤は現に支払の実行行為となる行為を自ら行ってもいる。)等にも照らすと、クラッターと右被告人三名の間及び右被告人三名相互の間に右外為法違反の点の共謀があったことも優にこれを肯認することができる。
(一)  被告人檜山の弁護人は、「檜山としては本件起訴状における日時・金額、何回に分割して支払ったかなどは全く知るところではなかった。さらに檜山としては五億円がいかなる支払手段で支払われるかなどということも全く知らなかったのである。」と論じ、結局同被告人には外為法違反の故意がなかった旨主張する。
しかし、前掲関係証拠によれば、被告人檜山は、本件支払当時、少なくとも、右支払のおおよその状況は認識していたと認められる。すなわち、同被告人は、第一回目の支払のしばらく前に、間もなくロッキード社の本件五億円の金員が何回かに分けて引渡される旨被告人大久保から報告を受け、また、本件支払がなされていたころには、各回の支払の終了のたびごとに被告人伊藤からその旨の報告を受けるなどして、すでに履行済みの支払の部分となおなされるべき支払の内容等を了知していたと認められる。また、同被告人が、支払の日時、場所、具体的な支払手段の如何(現金か、小切手か等)などについてまで詳細な認識を有していることは、外為法違反罪の故意の内容として不必要である。したがって前記主張は失当である。
(二)  被告人大久保の弁護人は、「外為法は新旧を通じ極めて行政的技術的な法規であり、その違反はいわゆる法定犯に属するものであって、故意が成立するためには違法の認識を要するものと解するのが相当である。」と論ずる。しかし、いわゆる法定犯が成立するためには行為者に違法の認識があることを要する旨の主張にはたやすく賛成し難いのみならず(最高裁判所昭和二四年一一月二八日判決・刑集四巻一二号二四六三頁等)、被告人檜山、同伊藤、同大久保の経歴等に照らしても、右各被告人らが本件の如き支払をするについては外国為替管理上の規制を受ける旨の認識を有していたと十分推認することができるから、右各被告人らにつき違法の認識に欠けるところがあったとは認められない。
(三)  被告人檜山、同伊藤、同大久保の弁護人は、右丸紅三被告人らはクラッターの使者ないし履行補助者として本件支払に関与したにすぎず、本件支払につき支払の当事者としての立場にあったものではないとの趣旨に帰すると解される主張をする。
しかし、本件で問題なのは、いうまでもなく、右被告人三名のクラッターとの共犯としての刑責の存否であるから、前記のとおり、右被告人三名とクラッターとの間の共謀の成立がすでに認められる以上、その主張するような右被告人らが支払の当事者であるかどうかという点は、本件犯罪の成否を左右するに足りる問題ではないことが明らかである。もっとも、主張に鑑み、一言すると、本件支払の計画、実行は、そもそも丸紅三被告人による内閣総理大臣田中に対する贈賄の共謀に基づくものであること、同被告人三名はその計画、実行につき現に積極的な役割を果していること、本件支払が丸紅の固有の経済的利益と密接に関連するものであったこと等の事実に照らすと、本件支払についての右被告人三名の立場は、到底クラッターの使者ないし履行補助者としてのそれに止まるものではなく、右被告人三名は、本件支払につき、支払の当事者としての地位を有していたと認めるのが相当である。
三  前記の証拠関係に照らすと、被告人田中、同榎本が判示のとおりに本件支払を受領したことについては疑いを容れる余地がない。また、本件支払は米国の法人であり非居住者であるロッキード社のためにする支払を構成するものであることを右被告人両名が認識していたことも、前掲関係証拠上優にこれを肯認することができる。
すなわち、被告人田中が右の認識を有していたことは、昭和四七年八月二三日における被告人檜山の前記五億円の金員提供申入の内容自体からも十分推認できるところである。被告人榎本は、捜査段階において、本件五億円の現金の支払を受けた事実自体は認めつつ、右現金は丸紅の被告人田中に対する政治献金として受取ったものであるとし、これがロッキード社の支払ったものである旨の認識を否定する供述をしている(同被告人が公判廷において右支払を受けた事実自体を否定していることは前記のとおり)。しかし、とくに被告人伊藤の検察官面前供述によれば、同被告人は、昭和四七年八月二三日ころ、ロッキード社の五億円が被告人田中に対して支払われることになったので被告人大久保と共にその実行に当るよう被告人檜山から指示され、そのころ、被告人榎本に対し、電話で、「私はうちの檜山社長からロッキードの五億円の話を聞きました。私が田中先生に対する窓口となり、大久保常務がロッキード側の窓口になることになりました。今後、この件ではあなたに連絡するように言われたのですが、ご存知ですか。」旨尋ねたところ、榎本は「総理から聞いて承知しています。」旨答えたこと、その後も榎本はこの五億円の支払の件を伊藤に対する催促等の場面で話題にすることがあったが、その際榎本は、この五億円について、「例のロッキードのもの」とか「ロッキードの件」等の呼称で呼んでいたこと等の事実が明らかであり、なお、本件支払の経緯、性格に関する榎本の捜査段階供述(要するに、本件五億円は丸紅から田中に対する政治献金として支払われたという内容)は本件の証拠関係に照らして全く信用できないと認められることをもあわせ勘案すると、榎本がその支払はロッキード社のためにする支払を構成するものである旨の認識を有していたことについて疑いを容れる余地はない。
そして、本件の諸情況に照らすと、本件支払につき外国為替管理上の許可手続がとられていないことについても被告人田中、同榎本は認識していたものと十分推認することができ、結局右被告人両名に外為法違反の故意があったことは明らかというべく、また右被告人両名間にその旨の共謀が成立していたことも、本件支払の受領について認められる右被告人両名間の連絡・報告・指示の状況、内容等に照らし、これを十分認定することができる。
なお、榎本の右外為法違反の故意の点と当裁判所が贈収賄罪の関係では榎本を賄賂の趣旨について情を知らない使者と認定した点との関係について付言する。
先ず、前記のとおり榎本は本件金員がロッキード社の支出にかかり、ロッキード社のためにする支払を構成するものであることを知悉していたとは認められるが、他方、関係証拠を吟味しても、榎本が昭和四七年八月二三日における被告人檜山の田中に対する前記請託の内容を知っていたとは認められず、その他榎本が本件金員につき、ロッキード社の飛行機を全日空に購入させるべく協力することの報酬としての性質を示す明確な事情を知っていたとまで認めるに足る的確な証拠はなく、精々その知情ありとの疑いをさしはさむ程度の情況が存するにすぎず、関係証拠及びその地位、立場等にも鑑みると、榎本は田中から命ぜられるまま、本件金員の趣旨については政治献金程度の認識以上に詮索することなく、その支払方の督促や受取に当ったものと認定するほかはない。結局、榎本は贈収賄罪の関係では、本件金員の前記趣旨について情を知らない使者としての立場で本件犯行に関与したと認めるのが相当である。
つぎに、右被告人両名の違法の認識に関しては、前記二(二)で被告人檜山、同伊藤、同大久保について示したところと同様のことが妥当する。すなわち、本罪の成立に違法の認識を必要とする見解にはそもそも賛成し難いのみならず、右被告人両名の地位にも鑑みると、本件のような支払を受領するには外国為替管理上の許可等を受ける必要がある旨の認識を右被告人両名は有していたと十分推認することができる(なお、被告人榎本は、捜査段階で、検察官に対し、前記のとおり、支払を受けた際は丸紅の政治献金を受けるものと思っていたとの前提に立つものではあるが、「なるほど現在騒がれているようにロッキード社から丸紅経由でストレートに受領した献金であれば外為法違反にはなるであろうがまさかロッキード社から支払われた金であるとは知らなかった」旨、ロッキード社からの金の支払を受ければ外為法に違反する旨の認識を表明している。)。
四  被告人檜山の弁護人は、「外為法二七条一項三号の『非居住者のためにする』とは本邦の外為法上の保護法益に反する受益が非居住者の側に生ずる場合をいうのであって、本邦から資金ないし債権が無許可のまま、流出・消滅することを想定しており、本件献金のごとく一方的に資金が流入する場合を対象としたものではない。すなわち本件献金は外為法の保護法益を損なわない。」と主張する。
しかしながら、外為法二七条一項三号の立法理由ないし同条号の所期する規制の必要が本邦から資金ないし債権が無許可で流出、消滅することを防止することのみにあるかのようにいうその主張にはただちに賛成し難い。のみならず、仮りにその主張する右立法理由を前提としたとしても、「非居住者のためにする居住者に対する支払又は当該支払の受領」をすべて許可等にかからしめ、これを一般的に禁止して、主務大臣等による審査を経、許可等により個別にその禁止を解除する方法(外為法二七条一項三号、外為令一一条一項)をとることが規制対象の複雑多様性にも鑑み立法政策として必ずしも不合理でないことは多言を要しない。そうすると、弁護人の右指摘は、そのいわゆる一方的な資金流入の場合には、規制の必要がないから、主務大臣等(本件の場合は、前記のとおり、日本銀行)は許可しなければならず、許可しなければ違法である旨の主張の根拠にはなり得ても、ただちに、かかる場合およそ許可等を申請しないで右支払等を行うことが違法でないという結論に結び付くとはいえず、短絡にすぎるというべきである。
被告人檜山の弁護人は、また、「貿易外取引の管理に関する省令は、許可を要しない支払のうちに、本件のような外国からの贈与の履行としての現金の内国支払手段による支払も掲示すべきであったのであり、これを遺脱した限りにおいて外為法二七条一項三号は刑罰の均衡を著しく欠きまた刑罰の明確性をも欠いて憲法上の罪刑法定主義に違反する」旨主張する。
しかしながら、外為法二七条一項三号等の概括的禁止(許可制)の規定を受け、部分的にその禁止を解除する規定である貿易外取引の管理に関する省令別表第一六第三号等の規定の定め方如何によって外為法の前記規定自体が憲法に違反することになるとするに帰する右主張には左袒することができない。主張は、結局は、外為法二七条一項三号の規定自体が広範に失する規制を定めるものである旨非難する趣旨かとも解されるが、この点については、先にも説明したとおり、規制対象の複雑多様性等にも鑑みると、外為法等が、非居住者のためにする居住者に対する支払及び当該支払の受領の禁止という程度の一般的、概括的な禁止をし、許可等(前記省令による許可不要の場合の指定も含まれる。)によりその禁止を解除する旨の立法態度をとったことを不合理と非難することはできないと解される。
第七章  被告人檜山、同伊藤、同大久保の議院証言法違反の点について
一  被告人檜山、同伊藤、同大久保が、いずれも証人として、宣誓のうえ、第一章第二節第二・三判示罪となるべき事実挙示の各陳述を衆議院予算委員会でしたことは右被告人らに対する告発状(甲一82、86、87)添付の同委員会議録等により明らかであり、また右証言部分がいずれも故意になされた内容虚偽の陳述であることについてもすでに当裁判所が認定した本件の諸事実関係に照らし疑いを容れる余地はないと認められるが、弁護人らは種々の点で証言内容の虚偽性や被告人らの犯意を争う主張をするので、以下、これらの点について補足説明を加えておく。
二(一)  被告人檜山の弁護人は、同被告人がコーチャンに対して政府高官に金を持っていくよう勧めたことはないし、同被告人は被告人大久保がコーチャンに対してそのようなことを勧めたとも思ってはいなかったから、被告人檜山の「私や大久保がコーチャンに対し、日本において航空機の売込を成功させるためには政府高官に金を持って行かねばならないと勧めたことは絶対にない。」旨の証言部分は虚偽の陳述に当らない旨主張する。
しかし、被告人檜山が、被告人大久保に対し、昭和四七年八月上旬、「実は金を使ってトライスターの件を早くまとめたいと思う。そのことで総理に話をしようと思っている。」旨話したうえ、同月二二日、電話で、「昨日コーチャンに会って、田中総理に会って頼むことに決まった。ついては手ぶらで頼むわけにもいくまいから、五億円でコーチャンに打診しろ。このお金は丸紅の手を一切通じずに全部ロッキードでアレンジせよ。」旨指示し、要するに、L一〇一一型機の売込に成功するため当時内閣総理大臣であった被告人田中に五億円を交付することをコーチャンに勧めるよう大久保に指示したこと、大久保は、同月二二日の電話による右指示を受け、同日早速コーチャンと面談して、田中に対し五億円供与の準備をするよう求め、コーチャンは、前日の同月二一日檜山からL一〇一一型機を全日空に購入させるよう働きかけてもらうことを田中に依頼する旨の意向を打明けられこれに賛同していたこともあり、右五億円の支払に同意したこと(ただし、販売に成功することを条件とした。)、大久保はコーチャンとの右交渉結果をただちに檜山に報告したこと等の事実を優に認めることができ、なお右認定に反する檜山の供述等が信用し得ないことは、すでに詳細説明したとおりである。そして、右事実によれば、被告人檜山の前記証言が客観的に内容虚偽のものであることは明らかである。
そして、右のような事柄の性質自体に照らしても、同被告人の右証言部分が同被告人の証言当時の記憶、認識に反するものであったことは明らかというべく、なお、そのことは、前記第四章第四節第五・一(一)ないし(七)で認定した本件証言に至るまでの丸紅社内における種々の事実隠蔽工作の内容等に照らしても、十分これを認めることができる。もっとも、同被告人は、捜査段階でも、自己の他の証言部分については虚偽の陳述であることを認めながら、この証言部分についてはその虚偽性を否定する供述を一貫していることは認められるが、右の否定供述も、本件証拠上明らかな前記の客観的事実関係と相反する事実関係の存在を前提とするものであって、信用し得ない。
(二)  被告人檜山の弁護人は、また、同被告人の「私あるいは丸紅の者が二〇〇万ドルを政府高官に支払ったことはない。」(この証言部分は、衆議院予算委員長荒舩清十郎が、丸紅を通じ約二〇〇万ドルの献金を日本政府高官に対して行った旨のコーチャンの米国上院チャーチ委員会における証言を引用して、檜山に対しその真偽をただす質問を行ったのに対する同被告人の応答に当る。)、「大久保及び伊藤の両名からピーナツ、ピーシズの領収証に関して金品の授受は一切関知していないとの報告を受けたのでそれを確信している。」、「ピーナツ一〇〇個が一億円をあらわすということは全然知らない。」、「右一億円が政府高官に渡されたことはないと思う。」との各証言部分につき、檜山は、昭和五一年二月五日ころ、被告人伊藤から、ピーナツ、ピーシズ領収証はロッキード社の経理処理の都合上必要だから署名してくれと依頼されて署名したもので金品の授受を伴うものではない旨の説明を受け、それを信頼していたので、右各領収証が被告人田中に対する本件五億円の交付に関係があるものとは思っていなかったし、コーチャンがチャーチ委員会で証言したと伝えられた日本政府高官に対する約二〇〇万ドルの献金なるものも本件五億円の交付とは無関係であると思っていたのであるから、これらの証言部分はいずれも虚偽の陳述ではない旨主張する。
しかしながら、被告人檜山は、昭和五一年二月五日朝、被告人伊藤から、被告人田中に対する本件五億円の交付の際伊藤がピーナツ、ピーシズという符牒の領収証に署名したことがあり、現在(報道等で)問題になっているのはその際の領収証のことではないかと思われる旨の報告を受け、このような報告等により、ピーナツ、ピーシズ領収証が右の五億円に関して作成されたものであることを知り、その後同月六日(現地時間)に米国で行われたコーチャンの証言の報に接して、同人が証言したと伝えられた約二〇〇万ドルの政府高官に対する献金の中には右五億円の件も含まれていることを了知するに至ったものと優に認めることができ、右認定に反する檜山、伊藤の各公判廷供述は信用し得ないことはすでに詳細に示したとおりであり、右の事実関係によれば、檜山の右各証言部分が客観的にも内容虚偽であり、また証言当時の同被告人の記憶、認識にも反するものであったことは明らかである。なお、同被告人自身、捜査段階で、検察官に対しては、自己の右証言部分が虚偽の陳述に当ることを、偽証の際の心境をも交えつつ、自認する供述をしており、その供述の信用性は高いと認められる(例えば、同被告人の昭和五一年八月七日付検察官面前調書〔乙19〕には、「私は昭和四七年八月二三日、田中前総理の私邸を訪問し、同人に対し、トライスターの売込に関するご助力をお願いしたうえ、その成功報酬としてロッキード社から五億円程度を差上げる旨申入れ、私の指示を受けた当社の大久保利春、伊藤宏がロッキード社側及び田中総理側と連絡をとって、翌四八年八月ごろから同四九年三月ごろにかけて何回かにわたり、田中総理に対して合計五億円を差上げていたので、コーチャンの証言している二〇〇万ドルというのは、その五億円を指していることは分っていた。また、ピーナツ、ピーシズの領収証の作成については私は一切関与していなかったが、それが右五億円のデリバリーの実行に当った伊藤が作成のうえ、ロッキード社側に渡していたものであることも承知しており、ピーナツ、ピーシズは新聞等に書かれているように一〇〇万円の単位をあらわすものであることも分っていた。しかしながら、私や伊藤、大久保がその事実を認めると、丸紅が再起不能になりかねない致命的な打撃を受けるのみならず、一国の総理までした田中先生の政治生命をも失わしめるうえ、私自身もまたその責任を問われることになるので、〔衆議院予算委員会での〕証言に当っては、田中総理に五億円を差上げたことが発覚するようなことはもちろん、そのような事実の存在を疑わしめるようなことは絶対に言わず、聞かれてもコーチャンの言うような事実は全くないと証言しようと考えていたし、また、ピーナツ、ピーシズの領収証については、自分は全く関知しないものであって、金銭の授受の伴わないものであると主張し、それで押し通そうと決意していた。実際に証言台に立って、その二〇〇万ドル及びピーナツ、ピーシズの領収証の件について種々質問を受けたが、そのときの会議録を見ればわかるように、私は事実と違う数々の偽証をした。」などの供述が録取されている。)。
弁護人の主張は、前記のとおり信用できないと認められる被告人檜山、同伊藤の公判廷供述に依拠して前記の事実認定を争うに帰し、採用できない。
(三)  以上(一)、(二)に照らすと、本件証言当時、被告人檜山が自己の判示各証言内容が自身の記憶、認識に反する旨の表象、認容を有していたこともまた明らかであるといわなけれならず、結局同被告人の偽証の故意にも欠けるところはなかったと認められる。
三(一)  被告人伊藤の衆議院予算委員会における証言中、「ピーナツ、ピーシズの四通の領収証に署名したときピーナツ、ピーシズの意味を全然知らなかった。」、「右四通の領収証に伴う金品の授受については全く関知していない。」、「ワン・ハンドレッド・ピーナツが一億円を意味することは全く知らない。」、「右四通の領収証のピーナツ、ピーシズが金銭の符号であるなどその意味するところは全く知っていない。」、「右領収証にサインしたが金銭の授受については全く承知していない。」、「政界に流れたといわれている二〇〇万ドル、六億円余の金については全く関知していない。ピーナツ、ピーシズの領収証はサインして大久保に手渡した。」との証言部分が伊藤の記憶、認識に反する虚偽の陳述であることについては、同被告人自身公判廷でこれを認めているところであって、先に詳細に示した本件の事実関係にも照らし、疑いを容れる余地がない(そして、右の事実関係に鑑みると、同被告人が故意に右虚偽の陳述をしたこともまた極めて明らかなところである。)。
(二)  被告人伊藤及びその弁護人は、同被告人の「この金(ピーナツ領収証に対応するといわれている一億円)が日本の政府高官にロッキードの飛行機売込の賄賂として使われたことは全く知らない。コーチャンが米国上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、二〇〇万ドルが丸紅の役員を通じて政府当局者に飛行機売込の賄賂として使われたと証言しているが、私はさようなことに全く関知していない。」との証言部分は虚偽の陳述に当らない旨主張する。
しかし、本件の五億円は、被告人檜山、同伊藤、同大久保及びコーチャンが共謀のうえ、被告人田中に対し、L一〇一一型機を全日空に購入させるよう協力してほしい旨要請するとともにその際右協力の報酬として支払うことを約し、その後右の趣旨で現に支払ったまさに賄賂であることは、先に詳細説明したとおりであり、また、伊藤が本件五億円の右のような性格を了知していたことも、本件請託の前後における檜山との相談や同被告人の指示の内容等の本件共謀の状況に照らし、これまた極めて明らかであることも先に示したとおりである。弁護人の主張は、ひっきょう、右の事実認定に反して信用性がないと認められる被告人伊藤の公判廷供述等に依拠して、右の事実認定を争うに帰し、採用できない。
そうすると、被告人伊藤の右証言部分もまた客観的に内容虚偽の陳述であることが明らかであり、また右証言内容の性質自体に照らし、これが同被告人の証言当時における記憶、認識に反するものであったことも明らかというべく、なおそのことは前記第四章第四節第五・一(一)ないし(九)で認定した本件証言に至るまでの丸紅社内における同被告人らの種々の事実隠蔽工作の内容等に照らしても十分うかがいとることができる(同被告人自身、捜査段階では、右の証言部分が自己の記憶、認識に反するものであったことを認める供述をしているのであって、右供述の信用性は高いと認められる。)。そして、以上に照らすと、同被告人の偽証の故意にも欠けるところがなかったと認められるのである。
四(一)  被告人大久保の判示証言中、「クラッターから三〇ユニット、九〇ユニットと記載された領収証にサインを求められたとき、その内容を知らないでサインした。」、「ユニットが金を意味していることは知らなかった。」、「ユニット、ピーナツ、ピーシズの各領収証の内容が分らないので何度もロッキード側に尋ねたが教えてくれなかった。」、「右の各領収証について金品の授受は一切ない。」、「コーチャンに対し航空機の売込に成功するためには政府高官に対し金を渡さなければならないからその金を提供するようにと申したことは一切ない。」、「コーチャンが米国上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で証言している二〇〇万ドル、六億円の授受は一切していないし、その金がどこへ流れたか一切知らない。」、「ユニット、ピーナツ、ピーシズの各領収証の内容についてクラッターに尋ねたが教えてもらえなかった。」、「右の各領収証に関連して一切何も受取っていないし、金の流れは一切知らない。」、「ピーナツ、ピーシズの領収証は自分が伊藤らから受取ってクラッターに手渡した。」との陳述が被告人大久保の記憶、認識に反する虚偽のものであったことについては、同被告人自身公判廷でこれを認め、本件の証拠関係に照らしても、疑いを容れる余地がない(そして、右証言部分につき、同被告人が故意に虚偽の陳述をしたこともまた極めて明らかなところである。)。
(二)1  しかし、被告人大久保及びその弁護人は、「ユニット領収証が航空機売込に対する運動資金というか賄賂というか、そういうものと結び付きがあると思わない。」旨の証言部分は虚偽の陳述に当らないと主張するので、以下、この点について若干補足説明を加える。
2  この関係で問題となるのは、三〇ユニット、九〇ユニットの二通の領収証のうち、三〇ユニットの方であるが、前掲関係証拠によると、右三〇ユニット領収証作成の経緯及び右領収証に対応する金員の流れ及びその性格として、以下の事実が認められる。
(1) 昭和四七年一〇月二八日、全日空では、幹部役員会が開催され、その席上L一〇一一型機の採用が内定したが、若狭同社社長は、かねて、橋本登美三郎前運輸大臣(当時自由民主党幹事長〔衆議院議員〕)らに対し、機種選定の過程で世話になったとして、礼をしたいと思っており、また今後も全日空のため好意ある取りはからいをしてほしいとの期待もあったことから、この機会に右橋本ら関係の政治家に謝礼の金員を贈ろうと考え、右幹部役員会終了後、藤原亨一同社経営管理室長を社長室に呼び、右橋本、二階堂進(内閣官房長官)、佐々木秀世(運輸大臣)、福永一臣(自由民主党航空対策特別委員長)、加藤六月(運輸政務次官)、佐藤孝行(自由民主党交通部会長〔前運輸政務次官〕)の六名の政治家(いずれも衆議院議員)に全日空の名でお礼の金を届けることとしたいのでその旨丸紅と折衝するよう指示し、なお、その金は丸紅ないしロッキード社のいずれが負担するものであってもよいこと、各人に交付する金額は、幹事長と官房長官に対しては五〇〇万円、大臣に対しては三〇〇万円、交通部会長、航空対策特別委員長、政務次官に対しては二〇〇万円というようなところだろうが、この点は丸紅ともよく相談して決めること、一〇月三〇日(同日午前に、全日空では取締役会が開催され、そこでL一〇一一型機の採用が正式に決定される予定であった。)午前一〇時ころまでに諾否の返事を得ること等を指示した。藤原は、本件金員の前記のような性格等、若狭の指示の趣旨を了知して、これを承諾した。
若狭は、同月二九日午前ころ、神奈川県逗子市所在の被告人大久保の自宅に電話し、全日空がL一〇一一型機を採用する方針であることを伝えるとともに、契約の最終的な詰めを藤原との間で行ってほしい旨連絡した。
(2) 同日夜、藤原は明治神宮西参道付近の旅館で、松井直丸紅輸送機械部副部長に対し、若狭の意向として、全日空がL一〇一一型機の採用を決めたときには、丸紅なりロッキード社の方から、全日空のお礼として、前記橋本、二階堂、佐々木、加藤、福永、佐藤の六名に金を贈ってほしいこと、一〇月三〇日の午前一〇時までに諾否の返事をしてほしいこと等を申入れ、なお、各人に供与すべき金額は、松井の意見も聞いたうえ、橋本、二階堂に対しては各七〇〇万円、佐々木に対しては五〇〇万円、福永に対しては五〇〇万円か三〇〇万円、加藤、佐藤に対しては各三〇〇万円とすることを一応の案として決めた。
松井は、ただちに、被告人大久保の自宅に電話して、同被告人に対し、藤原から三、〇〇〇万円を全日空の名前で全日空のお世話になった方々へのお礼として丸紅の手で渡してほしい旨の申入があったなどと、藤原の前記申入内容を具体的に報告したが、なお、その際、松井は、各人に渡すべき金額は、橋本、二階堂に対するものが各七〇〇万円、佐々木、福永、加藤、佐藤に対するものが各四〇〇万円である旨伝え、また、コーチャンと交渉してロッキード社に右金員を負担させるよう進言した。
(3) 被告人大久保は、全日空によるL一〇一一型機の採用の円滑な実現をみるためには右の申入に応ずべきであると考え、ただちにホテルオークラに滞在しているコーチャンに電話し、次いで、自ら同ホテルに赴き直接コーチャンと会って、松井の右報告内容を伝え、L一〇一一型機の売込成功を確実にするために全日空の右申入に応ずべきであるとコーチャンを説得し、また、右三、〇〇〇万円はロッキード社が調達するよう折衝した。コーチャンは、結局これを了承し、一〇月三〇日早朝、クラッターに対し、三、〇〇〇万円を同日午前一〇時までに大久保に手渡すよう指示した。
(4) 被告人大久保は、一〇月三〇日朝、丸紅東京本社で、副島に対し、前記の経緯を説明して、右金員の政治家に対する配布を秘書課で手伝ってほしい旨要請したうえ、そのころ、同社で、クラッターから現金三、〇〇〇万円を、松井、副島同席のうえで受領し、右現金は副島が秘書課金庫内に保管した。
被告人大久保は、右金員受領後、同社六階の機械第一本部長室で、クラッターから、右受取の証憑として、30 Unitsと書かれた紙に署名するよう求められ、これに署名した(後でこれにクラッターがReceived等の文言を付加したものが甲再一50・甲一84のいわゆる三〇ユニット領収証写の原本である。)。
被告人伊藤は、そのころ、副島から、右の経緯について報告を受けるとともに、被告人大久保から、「面倒なことをお願いしてすまないが、三、〇〇〇万円の件は松井君に任せてあるので話を聞いてよろしくお願いしたい。」、「橋本幹事長などに金を届ける際には全日空からのお礼であるときちっと言って下さい。」などと依頼され、社長室が右の現金を政治家に届けることを引受けることとした。さらに、被告人伊藤は、松井からも、「今度トライスターに決まったことで世話になった先生方に全日空からお礼をすることになりました。全日空の依頼で先生方に金を届ける役を丸紅でやることになりました。」などの説明を受け、なお、右三、〇〇〇万円の配分についても松井と共に協議したが、その結果、全日空から依頼された六名の政治家については、橋本、二階堂に各五〇〇万円、佐々木、福永に各三〇〇万円、加藤、佐藤に各二〇〇万円を供与することとし、残りの一、〇〇〇万円はL一〇一一型機売込への助力に対する丸紅からの謝礼として被告人田中に供与することとした。そして、被告人伊藤は、被告人田中、橋本、二階堂に対しては自ら届け、残りの佐々木、福永、加藤、佐藤に対しては副島に届けさせることにし、副島に対し、右四名の名とそれぞれに渡すべき各金額とを告げて、至急これを届けるよう命じ、なお金を届けるときは直接本人に会い、全日空からのお礼だと言って手渡すよう指示した。
(5) 被告人伊藤及び副島は、同月三一日から同年一一月一六日までの間に、右七名の政治家に対し、前記(4)の配分額の現金を供与した。
3  以上の事実及び被告人大久保が捜査過程において右金員供与の趣旨について自認するところ(昭和五一年七月二五日付検察官面前調書乙28)に照らすと、同被告人は、少なくとも、全日空による本件三、〇〇〇万円の供与には、同社が新機種の採用を決めるまでの過程で、種々世話になった政治家への謝礼の趣旨等が帯有されている旨の認識を有していたことは明らかであり、この点はコーチャンが一〇月二九日深夜における被告人大久保との話合の内容として、「私はもう少し彼(被告人大久保)から事情を聞いて最終的に分ったことは、航空会社か丸紅かのいずれかあるいは両方が、若干の政府機関の加護を受けるためには、私が公的な通知を何か受ける前に、一〇万ドルと同額のものつまり三、〇〇〇万円が六人の人達の間で分けられるようにすることだった。」と供述している(嘱託証人尋問調書第二巻)ところとも基本的に符合しているということができる。
そして、なお、前記2の事実を通観すると、本件三、〇〇〇万円の金員につき被告人大久保が全日空の支払要求に応ずるようコーチャンを説得し、コーチャンがこれを応諾したのも、また大久保がその政治家に対する配布方を丸紅で行うこととしたのも、結局は、本件金員の右のような性格にも照らし、全日空の右要求に応ずれば、L一〇一一型機の売込成功の実現をより円滑ならしめることになるであろうとの期待によるものであり、同被告人らが右金員の供与にその趣旨をこめて認識していたことも十分に認められるところといわなければならない。
被告人大久保の弁護人は、その主張にかかる陳述部分に対応する荒舩清十郎衆議院予算委員長の質問の趣旨は被告人大久保がユニット関係資金は航空機売込に対する賄賂であるという認識をもっていたかどうかというものであって、同被告人はそのような認識をもってはいなかったから、右の証言部分は虚偽の陳述には当らない旨主張する。しかし、荒舩委員長と被告人大久保との当該問答をその前後を含めてみてみるに、荒舩委員長「なお、コーチャンという人は、航空機の売込について政府当局あるいは政府高官に金を使わなければだめなんだ、金を使えば売込ができるんだというような発言を何回もしている。これとユニットとの関係についてどういうふうに、そのユニットというのが金の受取であって、その金がどこか政府あるいは政治家に渡っておるかどうかというような疑問を国民はだれしも持っておるのですが、そういう想像をしておりますが、あなたはこれに対してどういう答弁をなさいますか。」、被告人大久保「私は、そのような考えは一切もっておりません。」、荒舩委員長「もう一遍。そのユニットと、いわゆる航空機売込に対する運動資金というのですか、あるいは賄賂というのですか、そういうこととは結び付きがあると思いますか、ないと思いますか。」、被告人大久保「ないと存じます。」、荒舩委員長「ないと思いますか。」、被告人大久保「そのとおりでございます。」、荒舩委員長「それでは、ユニットというものは何ですか。何のことですか。」、被告人大久保「先ほど申上げましたように、先方にこれを尋ねましたが、先方はこの内容を教えてくれませんので、私は分りません。」というのである。してみると、荒舩委員長の質問の趣旨は、ユニット領収証に関する金員がL一〇一一型機の売込に関連して運動資金等として政治家等に支払われたのではないかとの点にあり、売込に対する賄賂等に限定する趣旨のものということはできないから、前記のとおりの認識を有していた被告人大久保のこれを否定する証言が虚偽の陳述に当ることに疑いを容れる余地はない。なお、検察官は、本件虚偽証言部分として、被告人大久保が「ユニット領収証が航空機売込に対する賄賂と結び付きがあると思わない。」旨陳述したと訴因中に要約、摘記しているが、前記のような荒舩委員長と被告人大久保との問答の内容に照らすと、右の要約は必ずしも適切でなく、その虚偽証言部分としては、前記認定のとおりに(第一章第二節第二・三(三)1のうち「ユニット領収証関係金員が航空機売込に関する運動資金等と結び付きがあるとは思わない」と)要約すべきである。
五  被告人大久保の弁護人は、また、「憲法三八条一項の根本精神に照らし、証人喚問で志向されている調査の対象が犯罪を構成する事実でありかつ当該証人が刑事訴追を受けるおそれがあるという特殊の場合に限り、本人が虚偽の否認供述をしても、例外的に議院証言法の偽証に関する罰則規定(六条一項)の適用から除外されると解釈すべきである。」と主張する。
しかし、これは、法律の規定上何ら根拠がない主張であるのみならず、議院証言法は、刑事上の訴追等を受けるおそれのある証人に対しては、証言等拒絶権を与えることによってその自己負罪拒否特権の保障を全からしめようとし、その反面、右拒絶権を敢えて行使しないで積極的に虚偽の証言をした者については、偽証罪の制裁を科そうとする立場に立脚していることがその規定全体の趣旨より明らかであり、なお、憲法三八条一項は、証人が、たとえ刑事訴追のおそれのある事項についてであっても、右のような証言等拒絶権を保障されているのに、敢えてこれを行使しないで、積極的に虚偽の証言をすることまでを許容するものであるとは到底解されないから、右主張には賛同することができない。
なお、同弁護人は、議院証言法における証言等拒絶権の確保が、法制面からみても実際運用の面からみても極めて不十分であるとも主張するのであるが、まず、法制面からみても、議院証言法の証言等拒絶権等に関する規定が、主張のような特異な解釈を施さなければ憲法三八条一項の趣旨に反することになるほどに不備なものであるとは到底解されず、また、実際の運用上右拒絶権の確保が極めて不十分であった旨の主張に鑑み、本件証人尋問の際の情況について検討してみても、本件被告人らが、右証人尋問の際、証言等拒絶権を行使することが事実上不可能であったとか、著しく困難であった等の事情があったことをうかがわせる事由があるとも認めることができない。却って、本件被告人らは、宣誓、証言の前、予算委員長から詳細な証言等拒絶権の告知を受けるなど、右権利の存在について十分知悉したうえで宣誓、証言に及んだのであって、また、右権利を行使する機会は本件証人尋問手続中十分あったと認められるのである。なお、弁護人は、質問者の質問方法とか証人尋問の際の雰囲気等を種々論難するが、そもそも、本件被告人らは、主張のように不当な質問や雰囲気に気おされて心ならずも証言等拒絶権の行使の機会を失したり虚偽の供述をしてしまったものではなく、前記第四章第四節第五・一(一)ないし(九)のとおり、証言前十分対策を練り、判示事項につき虚偽の陳述をするとの確定的な方針のもとに本件証人尋問に臨み、右方針のとおりの証言をしたというのにすぎないのであり、また、たしかに、本件被告人らに対する質問には、質問方法として相当性の疑われるものもあったことはうかがわれるが、さらに進んで証人たる本件被告人らに対する威迫、威嚇等著しく不当であって被告人らに不当な心理的圧迫を加える程度のものがあったとまでは認められず、却って、右証人尋問の速記録によれば、本件被告人らは、いずれも、その証言内容を不自然として追及する質問者らに何ら迎合することなく、自分たちがあらかじめ決めておいた前記方針を終始貫いて譲ることのない証言態度を一貫したことが明らかであって、以上に照らし、弁護人の右指摘にも賛同することはできない。
第八章  その他の弁護人の主張に対する判断
一  公訴棄却の主張について
被告人榎本、同檜山、同伊藤及び同大久保の弁護人は、本件外為法違反及び贈賄の事実については、その捜査が起訴便宜主義に基く訴追裁量権を濫用し、共犯者であるコーチャン、クラッターらに事前に不起訴の確約を与えて証言を求めるなど、憲法三一条の保障する法の適正手続に著しく違反し、起訴手続も、主犯ともいうべき共犯者コーチャン、クラッターらを不起訴とし、被告人らを起訴した点で差別的であって憲法一四条に違反し、あるいは同条の根本精神に背き、違法であるので刑訴法三三八条四号により本件公訴は棄却されるべきであると主張しているが、コーチャン、クラッターに対し、いわゆる刑事免責の付与(起訴猶予に関する意思表示)をしたうえで証言を求めた手続に関連する捜査手続に違法の簾はなく、被告人らを起訴した措置に差別すべからざるものをことさら差別したという意味での非難を加える余地のないことは、すでに昭和五三年一二月二〇日の当裁判所決定において詳論したとおりであって弁護人の右主張は理由がない。
二  期待可能性を欠くとの主張について
被告人大久保の弁護人は、(一)議院証言法違反の事実については、被告人大久保は議院における証言の直前、刑に処せられることを覚悟して、真実が述べられないなら証言を拒否したい旨申出たけれども、関係者から拒否され、会社という組織を考え、また当時の厳しい世論の中でやむなく偽証するに至った、(二)外為法違反及び贈賄の事実についても、同被告人は上司から命ぜられ、いやもおうもなくこれを実行せざるを得なかった、当時の檜山社長の指示は絶対であり、これに反抗すれば一生うだつの上らない破目に陥ることは明らかで、命令を守り、その指示に従って行動せざるを得なかったのであるとして、右各事実につき被告人大久保には期待可能性がなかった旨主張している。
なるほど、(一)の事実については、同被告人が虚偽の証言をすることに躊躇を覚え、証言前に社内の関係者に証言を拒否したい旨申出たけれども、判示事項につき虚偽の陳述をするという前記の方針に副った証言を要請されて、結局判示の偽証をするに至ったとの事情は認められる。しかし、右のような事情を十分に勘案しても、被告人大久保が偽証以外の適法な行為に出ることを期待できなかったとは到底いい得ず、また(二)については、同被告人に他の適法な行為に出ることが期待できない程の事情は存在しなかったと認められる。したがって、右弁護人の主張は採用し得ない。
第九章  量刑の理由
各被告人に対する刑を量定するに当り、検討の対象は贈収賄罪のほか外為法違反、議院証言法違反等の犯罪事実ないし一般情状に及ぶけれども、本件の実質に注目すると、検討の核心をなすのは内閣総理大臣田中角榮に関する受託収賄・贈賄の罪をめぐる諸情状についてであり、なかんずくその行為責任を中心とする犯情の評価である。
先ず、わが国において、内閣総理大臣は、さきに第五章で説明したところによっても明らかなとおり、公務員として最高の地位を占め、最も広汎かつ最も強力な権限を有しているのであるから、その職務執行に対し要求される公正さの程度は最も高く、したがって、その地位及び権限に関し本件贈収賄罪が敢行されたことによって国民の公務の公正さに対する信頼は甚だしく失われ、その社会に及ぼした病理的影響の大きさにははかりしれないものがある。
さらに、本件において約束され授受された賄賂は五億円という、例をみない多額の現金であり、この額は、それが昭和四七年ないし四九年当時の約束授受にかかるものであることをも考慮に入れると、贈収賄事件において想定される最高値の範囲に属するというべきであろう。
しかして、その請託・賄賂の趣旨について検討すると、当時対外経済政策の実施面での重要な一環をなしていた高金額の大型航空機輸入の事態を利用し、これより生ずる内外私企業の利益を原資とし、前記のとおり航空行政の適正な運営を担保すべき運輸大臣の認可権限の行使を直接間接に利権化することを意味し、わが国対外経済政策ないし航空行政の公正な運営、さらにこれが内閣総理大臣の行為にかかるものであることから国政全般に対する国民の信頼に背くこと極めて大なるものがある。
以上の諸点に鑑み、本件においてこれに関与した者の行為責任を中心とする犯情の観点からするならば、その刑責は、他に特段の事情がない限り受託収賄・贈賄罪の定める最高の段階に属するものであるというべきである。
このことを量刑判断の中心に据えたうえ、各被告人の有する諸般の量刑要因について総合的に検討し、個別的な刑責を明らかにしていくこととする。
以下、各被告人別に検討する。
一  被告人田中角榮について
被告人田中は昭和四七年七月以降同四九年一二月まで内閣総理大臣の地位にあり、その間に本件受託収賄罪を犯したものであって、前述のとおり、その公務員としての最高の地位、権限に対して要求される職務執行の公正さの程度が極めて高く、したがって国民の信頼を甚だしく失墜し、社会に及ぼした病理的影響の大きさにはかり知れないものがあること、授受にかかる金額が贈収賄事件において想定される最高値の範囲に属すること、請託、賄賂の趣旨が対外経済政策関連の大型航空機輸入やわが国航空行政を直接、間接に利権化することを意味し、国民の公務の公正さに対する信頼に背くことにおいて極めて重大なものがあること等の諸点に関する最高の非難をまさに直接にこうむらなければならない。
しかして、授受にかかる現金は外国航空機製造会社の支出にかかるものであって、本件は外為法違反の面を帯有すること、本件の発端はともかくとして、賄賂の授受が現実に実行されるに至ったのは被告人田中側からする丸紅側に対する催促に発するもので、被告人田中は積極的に賄賂収受の実行を図っていること等の犯情をも付加して検討するならば、同被告人の刑責は、他に特段の酌むべき情状がなければ受託収賄罪の最高刑に処せられるべきものである。
ところで、他方、本件収賄事犯は、もともと被告人田中の要求に基づいて発生したものではなく、被告人檜山ら丸紅側からの申出によって端を発し、約束が成立したものであること、五億円という金額も丸紅側から進んで提示したまま定まったものであること、前記のとおり請託・賄賂の趣旨は行政の利権化を意味するものであったが、全日空がロッキード社のL一〇一一型機を選定することにより他の型式航空機を選択するよりもわが国航空事業に危険ないし実害がもたらされるという情況は存在せず、そのような危険を犯して本件を敢行したものではなかったこと、また現に実害は発生していないこと、被告人田中は、昭和二二年に衆議院議員となって以来、引続き国政に参与し、郵政・大蔵・通商産業の各大臣を歴任した後、内閣総理大臣となり、その間、国益を進めるべく力を尽し、数々の業績を挙げたこと等の事実は、同被告人にとって有利に斟酌すべき情状であることを否定できない。
なお、本件収賄にかかる金員の使途については、被告人榎本が捜査過程で検察官面前において昭和四九年の参議院議員選挙に使われたのであろうとの推測供述をしている他には立証がないから確定し難く、ただちに使途の点につき情状の資料として採り上げ被告人に不利益に考慮すべき事情は見当らない。
以上、諸般の情状を考慮し、とくに右後段の諸情状を酌んだうえ、被告人田中に対しては主文の刑が相当であると判断した。
二  被告人榎本敏夫について
被告人榎本は、昭和四〇年ころ以降、被告人田中の秘書となり、長年その側近にあって政務を担当し、とくに同四七年七月から同四九年一二月までは内閣総理大臣秘書官の地位にあって、その間に本件現金の授受に関与した。すなわち、田中の指示を受け、前記五億円の受取を担当したのであり、金員の賄賂性の認識が認められないため、田中との共謀による外為法違反の責任を問われるに止まったものである。
そして、その取扱った金額は五億円という極めて多額に上ること、外為法違反、かつ、政治献金程度の範囲に止まる認識のもとにではあるが、田中の指示を受け、金員受領につき丸紅側に対する催促から実際の授受に至るまでを担当してその遂行に積極的に協力していること、授受の態様は、丸紅側窓口たる社長室長伊藤と密接に連絡し打合わせて、段ボール箱詰め現金を四回にわたり、自動車を利用して主として街頭で受取り田中私邸へ搬入するという綿密な計画のもと直接的な手段を採ったこと等、その犯情には軽視できないものがある。
さらに事件発覚後、丸紅側とくに被告人伊藤に働きかけて罪跡の消滅をはかるなどの行為に出たことも看過し得ない。
しかしながら、その行為が犯罪を構成するのは外為法違反の枠内に止まり、かつ、概ね被告人田中の指示に従い従属的な立場で行動したという事情を勘案すると、余りに重くその刑責を問うことはできないこと、その他、被告人の健康状態等諸般の情状を斟酌すると、これをただちに実刑に処するのは酷に失するので、主文の刑に処したうえ、その執行を猶予するのが相当である。
三  被告人檜山廣について
被告人檜山は、昭和三九年五月以降同五〇年五月まで、丸紅の社長の地位にあり、その間に本件贈賄事件に関与したものであって、先ず、内閣総理大臣に対する本件請託による贈賄を自ら発意し、部下の社長室長被告人伊藤、機械第一本部長同大久保と共謀し、大久保に指示してコーチャンを説得させたうえ、同人らとも五億円の(請託)贈賄の共謀を遂げるや、自ら総理大臣田中と面談、判示の請託をして承諾させ、賄賂の約束を成立させるという、本件の贈賄側において最も主要な役割を直接実行し、さらに伊藤、大久保に命じて五億円授受の実行に当らせ、要所でこれを督励して本件贈賄を完遂したものである。
かくして、前記のとおり、その金額、内閣総理大臣の職務権限、請託・賄賂の趣旨等において極めて重大な犯罪である本件贈収賄罪において、被告人檜山は贈賄側での主導的役割を果したものであって、右行為が一面、外為法に違反し、事件発覚後には、伊藤にはかつて、丸紅側としての国会における偽証の方針を立て準備のうえ、議院証言法違反による国会の国政調査権の侵害を招来するに至ったことをも考え合わせるならば、その刑責は極めて重いといわなければならない。
他方、被告人檜山が本件贈収賄を企図した動機についてみるに、丸紅の社長として他の商社及び外国企業との激しい航空機売込競争に勝利を得て丸紅の業績に対する評価と信用を高めようと希求する余り、かつ、他社が政治的に動いているとの認識のもとに焦慮した余り、違法の領域に踏み出すべく決意したものであること、ロッキードL一〇一一型機が全日空に採用されたことにより、他の型式航空機が採用された場合よりもわが国航空事業に実害ないし危険がもたらされるという情況は存在せず、そのような危険を犯して売込を成功させるために本件を敢行したというようなものではなく、また現に実害が発生した事実は認められないこと、議院証言法違反については、当時置かれた立場に鑑みればその心情に幾何かの酌むべきものがあること等の同被告人に有利な情状が存在する。
以上の他、被告人檜山の健康状態等諸般の情状を総合考慮しても、被告人檜山に対してはとくにその重い行為責任の観点から実刑を免れず、右後段の諸情状を斟酌したうえ主文の刑が相当であると判断した。
四  被告人伊藤宏について
被告人伊藤は、昭和四四年六月以降同五一年二月まで丸紅社長室長(本件当時は取締役ないし常務取締役)として、被告人檜山に最も近い職務上の地位にあり、本件贈賄の共謀にあたっては、進んで賛成して賄賂金額の決定に参画し、現金の授受実行については、田中側に対する丸紅側の窓口となり、積極的に榎本との密接な接触、連絡をはかったうえ、自ら運搬授受の実行に当るという重要な役割を果し、授受に当っては、前記のとおり綿密な計画のもとに直接的な手段を採って遺漏なく完結するなど、本件犯罪の遂行に大きく貢献した。
かくして、前記のとおり極めて重大な犯罪である本件贈収賄罪において、被告人伊藤は、贈賄側での檜山に準ずる中枢的役割を果し、この行為が一面、外為法に違反し、事件発覚後には、檜山とはかり、丸紅側としての国会における偽証の方針を立て準備のうえ、議院証言法違反による国政調査権の侵害をも招来するに至ったものであるが、さらに、その部下松岡らに命じて社有自動車行動表の改ざん等の罪証湮滅を行い、また被告人榎本と連絡したり、他の丸紅役員らに働きかけたりして罪跡の消滅をはかろうとしたのであって、以上の犯情、情状を考え合わせるとその刑責はまことに重いといわなければならない。
他方、被告人伊藤は、本件贈賄に積極的に関与し、これを推進したとはいえ、概ね上司檜山からの相談に応じて意見を述べ、かつ、その指示に基づいて忠実に実行行為を担当して協力したという面もあり、その動機は、丸紅幹部として檜山の意を体し会社の業績に対する評価と信用を高めたいと希求した余りに出たものと認められること、前記のとおりロッキードL一〇一一型機の全日空への売込が成功したことにより、わが国の航空事業に実害ないし危険が発生した事実は認められないこと、議院証言法違反については、当時置かれた立場に鑑みれば、その心情に幾何かの酌むべきものがあること等の同被告人に有利な情状が存在する。
以上に述べたところその他、諸般の情状を総合考慮しても、被告人伊藤に対しては、その被告人檜山に準じて重い行為責任の観点から実刑を免れず、右後段の諸情状を斟酌したうえ、主文の刑が相当であると判断した。
五  被告人大久保利春について
被告人大久保は、昭和四四年六月以降、同五一年二月まで機械第一本部長(航空機を含む機械輸入販売担当。本件当時は常務取締役)の地位にあり、L一〇一一型機売込の実行責任者であり、英語に堪能であって、ロッキード社との接触が深いところから、檜山の意をうけて、本件賄賂現金の供与を共謀、金額を五億円とする檜山の指示に基づきコーチャンと折衝し、成功報酬として五億円を支出することを承諾させ、授受の実行に当っては、檜山の指示のもとに、コーチャンに催促して実行方を承諾させ、ロッキード社に対する丸紅側の窓口となって授受の都度、クラッターと伊藤との間の連絡を担当してその完遂に支障なからしめた。
かくして、前記のとおり極めて重大な犯罪である本件贈収賄罪において贈賄側の犯罪の遂行、完成に重要な部分を担当し、この行為が一面、外為法違反となり、事件発覚後は、議院証言法違反による国会の国政調査権の侵害をも招来するに至ったもので、以上、その刑責はまことに重いといわなければならない。
しかしながら、被告人大久保は、本件贈賄の各局面において的確にその役割を果しているものの、そのいずれについても上司檜山の強力な指示に従い、受動的に行動していたふしがうかがわれ、被告人伊藤に比し、かなり本件の遂行について従属的な傾向が現われていること、その動機は檜山の命に従い、丸紅幹部として自らの職務上の責任を果し、会社の業績に対する評価と信用を高めようと希求する余りに出たものと認められること、前記のとおり、ロッキードL一〇一一型機の全日空への売込が成功したことにより、わが国航空事業に実害ないし危険が発生した事実は認められないこと、議院証言法違反については、同被告人は、丸紅内部において、確定された方針に従わざるを得ない立場に置かれ、不本意ながら、偽証に至った事情がうかがわれ、かなりに酌むべきものがあること等の諸事情があるうえ、本件公判廷においては、そのなした行為について卒直に反省を加え、いくつか責を免れんがための弁解はなしているものの、総じて、他の被告人に比較すれば、際立って真実に近い事柄を述べようとする態度を貫いていたものと認められ、その改悛の情にはみるべきものがある。
以上のとおり、その刑責は、行為責任において被告人伊藤に比してやや軽いものがあるというべきこと、その他、諸般の情状を総合考慮すると、とくに前記後段の情状に酌むべきものがあり、同被告人に対しては、主文の刑を科し、その執行を猶予するのが相当であると判断した。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 岡田光了 永山忠彦 木口信之)

 

(別紙) 現金授受事実一覧表

番号 日時 金額 場所
1 昭和四八年八月一〇日午後二時二〇分ころ 一億円 東京都千代田区一番町一番地英国大使館裏路上
2 同年一〇月一二日午後二時二五分ころ 一億五、〇〇〇万円 同区富士見一丁目一〇番付近路上
3 昭和四九年一月二一日午後四時一五分ころから午後四時四五分ころまでの間 一億二、五〇〇万円 同都港区赤坂葵町三番地ホテルオークラ駐車場
4 同年三月一日午前八時ころから午前八時三〇分ころまでの間 一億二、五〇〇万円 同都千代田区富士見一丁目一一番二四号秀和富士見町レジデンス六〇一号伊藤宏方

 

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