【営業代行から学ぶ判例】crps 裁判例 lgbt 裁判例 nda 裁判例 nhk 裁判例 nhk 受信料 裁判例 pl法 裁判例 pta 裁判例 ptsd 裁判例 アメリカ 裁判例 検索 オーバーローン 財産分与 裁判例 クレーマー 裁判例 クレプトマニア 裁判例 サブリース 裁判例 ストーカー 裁判例 セクシャルハラスメント 裁判例 せクハラ 裁判例 タイムカード 裁判例 タイムスタンプ 裁判例 ドライブレコーダー 裁判例 ノンオペレーションチャージ 裁判例 ハーグ条約 裁判例 バイトテロ 裁判例 パタハラ 裁判例 パブリシティ権 裁判例 ハラスメント 裁判例 パワーハラスメント 裁判例 パワハラ 裁判例 ファクタリング 裁判例 プライバシー 裁判例 プライバシーの侵害 裁判例 プライバシー権 裁判例 ブラックバイト 裁判例 ベネッセ 裁判例 ベルシステム24 裁判例 マタニティハラスメント 裁判例 マタハラ 裁判例 マンション 騒音 裁判例 メンタルヘルス 裁判例 モラハラ 裁判例 モラルハラスメント 裁判例 リストラ 裁判例 リツイート 名誉毀損 裁判例 リフォーム 裁判例 遺言 解釈 裁判例 遺言 裁判例 遺言書 裁判例 遺言能力 裁判例 引き抜き 裁判例 営業秘密 裁判例 応召義務 裁判例 応用美術 裁判例 横浜地裁 裁判例 過失割合 裁判例 過労死 裁判例 介護事故 裁判例 会社法 裁判例 解雇 裁判例 外国人労働者 裁判例 学校 裁判例 学校教育法施行規則第48条 裁判例 学校事故 裁判例 環境権 裁判例 管理監督者 裁判例 器物損壊 裁判例 基本的人権 裁判例 寄与分 裁判例 偽装請負 裁判例 逆パワハラ 裁判例 休業損害 裁判例 休憩時間 裁判例 競業避止義務 裁判例 教育を受ける権利 裁判例 脅迫 裁判例 業務上横領 裁判例 近隣トラブル 裁判例 契約締結上の過失 裁判例 原状回復 裁判例 固定残業代 裁判例 雇い止め 裁判例 雇止め 裁判例 交通事故 過失割合 裁判例 交通事故 裁判例 交通事故 裁判例 検索 公共の福祉 裁判例 公序良俗違反 裁判例 公図 裁判例 厚生労働省 パワハラ 裁判例 行政訴訟 裁判例 行政法 裁判例 降格 裁判例 合併 裁判例 婚約破棄 裁判例 裁判員制度 裁判例 裁判所 知的財産 裁判例 裁判例 データ 裁判例 データベース 裁判例 データベース 無料 裁判例 とは 裁判例 とは 判例 裁判例 ニュース 裁判例 レポート 裁判例 安全配慮義務 裁判例 意味 裁判例 引用 裁判例 引用の仕方 裁判例 引用方法 裁判例 英語 裁判例 英語で 裁判例 英訳 裁判例 閲覧 裁判例 学説にみる交通事故物的損害 2-1 全損編 裁判例 共有物分割 裁判例 刑事事件 裁判例 刑法 裁判例 憲法 裁判例 検査 裁判例 検索 裁判例 検索方法 裁判例 公開 裁判例 公知の事実 裁判例 広島 裁判例 国際私法 裁判例 最高裁 裁判例 最高裁判所 裁判例 最新 裁判例 裁判所 裁判例 雑誌 裁判例 事件番号 裁判例 射程 裁判例 書き方 裁判例 書籍 裁判例 商標 裁判例 消費税 裁判例 証拠説明書 裁判例 証拠提出 裁判例 情報 裁判例 全文 裁判例 速報 裁判例 探し方 裁判例 知財 裁判例 調べ方 裁判例 調査 裁判例 定義 裁判例 東京地裁 裁判例 同一労働同一賃金 裁判例 特許 裁判例 読み方 裁判例 入手方法 裁判例 判決 違い 裁判例 判決文 裁判例 判例 裁判例 判例 違い 裁判例 百選 裁判例 表記 裁判例 別紙 裁判例 本 裁判例 面白い 裁判例 労働 裁判例・学説にみる交通事故物的損害 2-1 全損編 裁判例・審判例からみた 特別受益・寄与分 裁判例からみる消費税法 裁判例とは 裁量労働制 裁判例 財産分与 裁判例 産業医 裁判例 残業代未払い 裁判例 試用期間 解雇 裁判例 持ち帰り残業 裁判例 自己決定権 裁判例 自転車事故 裁判例 自由権 裁判例 手待ち時間 裁判例 受動喫煙 裁判例 重過失 裁判例 商法512条 裁判例 証拠説明書 記載例 裁判例 証拠説明書 裁判例 引用 情報公開 裁判例 職員会議 裁判例 振り込め詐欺 裁判例 身元保証 裁判例 人権侵害 裁判例 人種差別撤廃条約 裁判例 整理解雇 裁判例 生活保護 裁判例 生存権 裁判例 生命保険 裁判例 盛岡地裁 裁判例 製造物責任 裁判例 製造物責任法 裁判例 請負 裁判例 税務大学校 裁判例 接見交通権 裁判例 先使用権 裁判例 租税 裁判例 租税法 裁判例 相続 裁判例 相続税 裁判例 相続放棄 裁判例 騒音 裁判例 尊厳死 裁判例 損害賠償請求 裁判例 体罰 裁判例 退職勧奨 違法 裁判例 退職勧奨 裁判例 退職強要 裁判例 退職金 裁判例 大阪高裁 裁判例 大阪地裁 裁判例 大阪地方裁判所 裁判例 大麻 裁判例 第一法規 裁判例 男女差別 裁判例 男女差别 裁判例 知財高裁 裁判例 知的財産 裁判例 知的財産権 裁判例 中絶 慰謝料 裁判例 著作権 裁判例 長時間労働 裁判例 追突 裁判例 通勤災害 裁判例 通信の秘密 裁判例 貞操権 慰謝料 裁判例 転勤 裁判例 転籍 裁判例 電子契約 裁判例 電子署名 裁判例 同性婚 裁判例 独占禁止法 裁判例 内縁 裁判例 内定取り消し 裁判例 内定取消 裁判例 内部統制システム 裁判例 二次創作 裁判例 日本郵便 裁判例 熱中症 裁判例 能力不足 解雇 裁判例 脳死 裁判例 脳脊髄液減少症 裁判例 派遣 裁判例 判決 裁判例 違い 判決 判例 裁判例 判例 と 裁判例 判例 裁判例 とは 判例 裁判例 違い 秘密保持契約 裁判例 秘密録音 裁判例 非接触事故 裁判例 美容整形 裁判例 表現の自由 裁判例 表明保証 裁判例 評価損 裁判例 不正競争防止法 営業秘密 裁判例 不正競争防止法 裁判例 不貞 慰謝料 裁判例 不貞行為 慰謝料 裁判例 不貞行為 裁判例 不当解雇 裁判例 不動産 裁判例 浮気 慰謝料 裁判例 副業 裁判例 副業禁止 裁判例 分掌変更 裁判例 文書提出命令 裁判例 平和的生存権 裁判例 別居期間 裁判例 変形労働時間制 裁判例 弁護士会照会 裁判例 法の下の平等 裁判例 法人格否認の法理 裁判例 法務省 裁判例 忘れられる権利 裁判例 枕営業 裁判例 未払い残業代 裁判例 民事事件 裁判例 民事信託 裁判例 民事訴訟 裁判例 民泊 裁判例 民法 裁判例 無期転換 裁判例 無断欠勤 解雇 裁判例 名ばかり管理職 裁判例 名義株 裁判例 名古屋高裁 裁判例 名誉棄損 裁判例 名誉毀損 裁判例 免責不許可 裁判例 面会交流 裁判例 約款 裁判例 有給休暇 裁判例 有責配偶者 裁判例 予防接種 裁判例 離婚 裁判例 立ち退き料 裁判例 立退料 裁判例 類推解釈 裁判例 類推解釈の禁止 裁判例 礼金 裁判例 労災 裁判例 労災事故 裁判例 労働基準法 裁判例 労働基準法違反 裁判例 労働契約法20条 裁判例 労働裁判 裁判例 労働時間 裁判例 労働者性 裁判例 労働法 裁判例 和解 裁判例

判例リスト「営業代行会社 完全成功報酬|完全成果報酬」(442)平成元年 5月 9日 東京高裁 昭53(ネ)2455号 損害賠償請求控訴事件 〔雫石全日空機・自衛隊機衝突事件民事・控訴審〕

判例リスト「営業代行会社 完全成功報酬|完全成果報酬」(442)平成元年 5月 9日 東京高裁 昭53(ネ)2455号 損害賠償請求控訴事件 〔雫石全日空機・自衛隊機衝突事件民事・控訴審

裁判年月日  平成元年 5月 9日  裁判所名  東京高裁  裁判区分  判決
事件番号  昭53(ネ)2455号・昭53(ネ)2470号
事件名  損害賠償請求控訴事件 〔雫石全日空機・自衛隊機衝突事件民事・控訴審〕
裁判結果  一部認容  文献番号  1989WLJPCA05090001

要旨
◆運輸大臣及び防衛庁長官がジェットルートと訓練空域とを完全に分離しなかつた等のことをもつて航空交通の安全を確保すべき注意義務に違反した過失があるとはいえないとされた事例
◆ジェットルート及びその保護空域は「公の営造物」に当たるか(消極)
◆自衛隊機と民間航空機の空中接触により多数の死者が生じた航空機事故について、航空会社の信用き損による逸失利益として旅客減少による損害が認められた事例
◆航空会社の旅客運送約款中、昭和四六年当時、航空機事故による損害賠償の限度額を乗客一人につき人身損害六〇〇万円、手荷物等物的損害一五万円と定めた部分が公序良俗に反し無効とされた事例

新判例体系
民事法編 > 民法 > 民法〔明治二九年法律… > 第三編 債権 > 第五章 不法行為 > 第七〇九条 > ○不法行為の一般的な… > (一)要件 > B 故意過失 > (4)各種の場合にお… > (イ)交通事故に関す… > (xii)航空機操縦者の過失
◆編隊飛行訓練中の自衛隊訓練生機と全日空旅客機とが判示の如き事実関係の下に空中接触事故を起した場合には、自衛隊側と全日空側双方の過失による損害賠償責任が認められるが、その過失割合は、自衛隊側二、全日空側一とするのが相当である。

 

裁判経過
第一審 昭和53年 9月20日 東京地裁 判決 昭48(ワ)1251号・昭48(ワ)1255号・昭52(ワ)6119号 損害賠償請求、同反訴事件 〔雫石全日空機・自衛隊機衝突事件民事・第一審〕

出典
訟月 36巻3号351頁
判時 1308号28頁

評釈
杉浦徳宏・判例Check 契約の無効・取消 329頁(加藤新太郎編,新日本法規,平成16年)

参照条文
航空法106条
航空法107条
航空法71条の2
航空法82条(昭50法58改正前)
航空法85条
航空法91条(昭50法58改正前)
航空法92条(昭50法58改正前)
航空法93条(昭50法58改正前)
航空法94条の2(昭50法58改正前)
航空法97条
航空法99条
国家賠償法1条
国家賠償法2条
自衛隊法107条(昭50法58改正前)
商法590条
民法422条
民法442条
民法650条
民法702条
民法709条
民法715条
民法719条
民法722条
民法90条

裁判年月日  平成元年 5月 9日  裁判所名  東京高裁  裁判区分  判決
事件番号  昭53(ネ)2455号・昭53(ネ)2470号
事件名  損害賠償請求控訴事件 〔雫石全日空機・自衛隊機衝突事件民事・控訴審〕
裁判結果  一部認容  文献番号  1989WLJPCA05090001

目  次

事件番号、事件名及び当事者の表示〈略〉
主文
事実〈略〉
理由
第一 事故の事実関係
一 事故の発生
二 飛行経路
1 事故前の自衛隊機の飛行経路
2 事故前の全日空機の飛行経路
三 空中接触地点
1 落下物の弾道計算
2 目撃証言
3 落下傘の軌跡
4 結論
四 視認可能性、接触の予見・回避可能性
1 接触前の相対飛行経路
2 視認可能性の判断要素
3 自衛隊機側からの視認可能性
4 自衛隊機側における接触の予見及び回避可能性
5 全日空機操縦者らの視認の有無・視認可能性
6 全日空機操縦者らにおける接触の予見及び回避可能性
第二 第一審被告の責任
一 ジェットルートと訓練空域
1 ジェットルートの性格とその設定の経過
2 空管第二六八号以後の経過
二 ジェットルート及び訓練空域の設置及び管理に関する過失―国賠法一条に基づく責任(その一)
三 営造物の設置・管理の瑕疵―国賠法二条に基づく責任
四 本件訓練に関する自衛隊員らの過失―国賠法一条に基づく責任(その二)
1 訓練空域の指定に関する松島派遣隊幹部らの過失
2 隈、市川の過失
第三 第一審原告全日空の責任
一 回避義務
1 追越機の回避義務
2 進路権と回避義務
二 見張り義務
三 過失
四 責任
第四 過失割合
第五 第一審原告らの損害
一 第一審原告全日空の損害
二 第一審原告保険会社一〇社の損害
第六 第一審被告の損害
第七 結論
別表(一)、(二)、三の二、同九ないし同一七〈略〉
別紙図面三の三、同一三ないし同一八〈略〉

 

 

第二四五五号事件控訴人・第二四七〇号事件被控訴人(一審被告・反訴原告) 国
代理人 小見山道有 市川正巳 古門由久 ほか八名
第二四五五号事件被控訴人・第二四七〇号事件控訴人(一審原告・反訴被告) 全日本空輸株式会社 ほか一〇名

 

主  文

一  第一審原告らの控訴及び第一審被告の控訴による請求拡張に基づき原判決を次のとおり変更する。
1  第一審被告は第一審原告全日本空輸株式会社に対し金七億一〇四五万三一二〇円及びその内別表一六「認容金額」欄記載の金員に対する同「起算日」欄記載の日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2  第一審被告は第一審原告東京海上火災保険株式会社に対し金五億九六二七万三三八八円及び内金五億七六六七万三三八八円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
3  第一審被告は第一審原告同和火災海上保険株式会社に対し金二億七五三二万〇一一〇円及び内金二億六六二七万〇一一〇円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
4  第一審被告は第一審原告住友海上火災保険株式会社に対し金一億九六二二万二六二〇円及び内金一億八九七七万二六二〇円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
5  第一審被告は第一審原告大正海上火災保険株式会社に対し金一億八一〇一万一五六四円及び内金一億七五〇六万一五六四円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
6  第一審被告は第一審原告千代田火災海上保険株式会社に対し金一億三五三七万八三九六円及び内金一億三〇九二万八三九六円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
7  第一審被告は第一審原告日動火災海上保険株式会社に対し金六二三六万五三二八円及び内金六〇三一万五三二八円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
8  第一審被告は第一審原告安田火災海上保険株式会社に対し金四五六三万三一六七円及び内金四四一三万三一六七円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
9  第一審被告は第一審原告日産火災海上保険株式会社に対し金二一二九万五四七八円及び内金二〇五九万五四七八円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
10  第一審被告は第一審原告富士火災海上保険株式会社に対し金六〇八万四四二二円及び内金五八八万四四二二円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
11  第一審被告は第一審原告第一火災海上保険相互会社に対し金一五二万一一〇五円及び内金一四七万一一〇五円に対する昭和四八年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
12  第一審原告全日本空輸株式会社は第一審被告に対し金六億四五四四万六一〇九円及びその内別表一七「認容金額」欄記載の金員に対する同「起算日」欄記載の日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
13  第一審原告らのその余の請求及び第一審被告のその余の請求をいずれも棄却する。
二  訴訟費用は第一、二審を通じてこれを二分し、その一を第一審原告らの負担とし、その余を第一審被告の負担とする。
三  この判決の一項1ないし12は仮に執行することができる。

事  実〈省略〉

 

理  由

第一  事故の事実関係
一  事故の発生
松島派遣隊所属の隈操縦にかかる教官機及び市川操縦にかかる訓練生機の二機編隊が、昭和四六年七月三〇日午後一時二八分頃、航空自衛隊松島基地を離陸し、北上して、同派遣隊の定めた訓練空域付近において機動隊形の飛行訓練をしていたこと、全日空機は、同日午後一時三三分頃、千歳飛行場を離陸し、函館NDB上空を通過したこと、訓練生機の右主翼付根付近と全日空機の水平尾翼安定板左先端付近前縁とが接触し、全日空機が墜落、毀滅し、その乗客、乗員合計一六二名全員が死亡したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。右接触事故発生の時刻及び場所については争いがあるが、争いの範囲は、時刻については同日午後二時二分三一秒頃から同三九秒頃までの間、場所については、岩手県雫石町上空で、別紙図面二の長円形(長山長円)付近から同「E」区域付近までの間である。
二  飛行経路
1  事故前の自衛隊機の飛行経路
(一) 教官機及び訓練生機の松島基地離陸後川尻付近までの飛行経路が別紙図面一のとおりであること、両機が川尻付近から機動隊形の飛行訓練を開始し、その後北上しながら機動隊形による左右の旋回をくり返していたこと、二機編隊による機動隊形訓練の標準的飛行要領は、別紙図面四に示す編隊長機(教官機)と三番機(訓練生機)との関係位置から開始し、編隊長機は、直進及び一定のバンク角による左右の旋回を等速・等高度(高度を変化させる場合もある)で行い、三番機は、前後の修正を高度と速度の変換によつて行い、横間隔の修正を機軸の変化によつて行うものであつて、内側旋回の場合には、旋回に入ると、編隊長機の真横後方一〇度の線まで近づき、速度を高度に換えて(上昇して)機速を減少させながら、この一〇度の線に沿つて編隊長機の直上付近を通過して外側に移行し、外側旋回の場合には、旋回に入ると、横の間隔を維持して編隊長機の真横後方三五度の線まで近づき、高度を速度に換えて(下降して)機速を増して編隊長機の内側に移行して、所定の関係位置につくというものであり、その旋回半径は約四ないし五マイルであること、本件事故直前に教官機から訓練生機に対し異常事態の通信がなされたこと、市川はその直後に、自機の右側、時計の四時か五時位の方向やや下方至近距離に全日空機を発見し、とつさに左上方へ回避操作をとつたが間に合わず、衝突に至つたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
(二) 松島派遣隊が別紙図面三の一記載のとおり横手、月山、米沢、気仙沼、相馬の五つの訓練空域(局地飛行訓練空域)を定め、また、ジェットルートJ11Lの両側各五海マイル内の高度二万五〇〇〇フイートから三万一〇〇〇フイートまでの空域を飛行制限空域と定めていたこと、本件事故当日、隈、市川の二機に割り当てられた訓練空域は、右の五つの訓練空域ではなく、当日臨時に設定された空域であつたこと、以上の事実は当事者に争いがない。
〈証拠略〉によれば、松島派遣隊は、浜松基地を本拠とする第一航空団の一部が、昭和四六年七月一日、飛行訓練のために、松島基地に派遣され、同基地を本拠とする第四航空団と同一空域で訓練を行うようになつたものであること、航空自衛隊の各航空団は、それぞれが基地を中心とする一定範囲の局地飛行空域を有し、訓練飛行等を行う場所としており、松島派遣隊及び第四航空団は、いずれも別紙図面三の二表示の直線で囲つた範囲を局地飛行空域と定めていたが、更に、第四航空団は、第四航空団飛行訓練規則によつて、右局地飛行空域内に別紙図面三の三のとおりの飛行制限空域を設け、特定の例外を除いて同空域における有視界飛行訓練等を禁じ、また、別紙図面三の一表示の細分化された五つの局地飛行訓練空域と同一の五つの空域を対戦闘機戦闘訓練空域と定め、対戦闘機戦闘訓練及び曲技飛行は右の訓練空域内で行うものと定めていたこと、松島派遣隊は、松島基地における訓練の開始に際し、第四航空団にならつて第一航空団松島派遣隊飛行訓練準則を定め、右において、(1)前記局地飛行空域を「松島局地飛行空域」とし、これと右に細分化された五つの局地飛行訓練空域とをいずれも「訓練空域」とし、(2)飛行訓練は、原則として右の訓練空域で実施することとし、(3)「飛行制限空域」を前記第四航空団のそれと同一の空域とし、かつ、ここにおいては、航法、SFO、計器出発、進入を除く飛行訓練は、やむを得ない場合以外は実施しないものとし、(4)日々の訓練飛行の計画、実施に当たつては第四航空団と協議調整するものとしていたこと、本件事故当日朝、松島派遣隊において各訓練飛行班に具体的な訓練空域を割り当てるに際し、第四航空団が行う訓練との調整上、松島派遣隊の使用し得る訓練空域が不足したため、右割当ての事務に携つていた飛行班長補佐土橋国宏三佐は、臨時の訓練空域を設定することとし、戦闘機操縦課程の主任教官である小野寺康充一尉に対し、ブリーフイングルームの壁に貼つてある縮尺一〇〇万分の一の航空図上で、手を半開きにして五指の先を置く形を示して、「ここ」と言つたが、その五指を置いた範囲は、概ね横手訓練空域の北東方であつて、盛岡市を中心として、北は岩手山の北側、東は早池峰山付近、西は奥羽山脈にわたる漠然とした広い地域であつたこと、次いで、土橋は、飛行班長である松井滋明三佐に、右松井は飛行隊長である田中益夫に、順次、同様に航空図上を指で示す形で右の付近を訓練空域とする旨を説明し、最終的に右田中の了承を得たこと(飛行訓練計画の承認の権限は右準則上は飛行隊長にあり、派遣隊長に対する関係では報告事項にすぎないと解せられるが、仮に派遣隊長にあるとしても飛行隊長はその権限を包括的に委任されていたものとみられる。ちなみに、派遣隊長である寺崎弘は当日は不在であつた)。同室のスケジユールボードの訓練計画の表に同空域を「盛岡」と表示し(以下、この空域を「本件訓練空域」という)、同日午後の訓練については隈、市川の組にこれを割り当てたこと、土橋は、当時、航空路に関して飛行制限空域が存在することは知つていたが、本件訓練空域の設定の際には飛行制限空域のことが念頭になく、ジェットルートJ11Lの存在についてはこれを知らず、したがつて、客観的には、飛行制限空域を含む形で訓練空域を設定したものであること、以上の事実が認められる。なお、〈証拠略〉(政府事故調査委員会作成の事故調査報告書)には、本件訓練空域該当部分として、別紙図面一の「拡張した空域」のとおり、横手空域の北側に、概ね飛行制限空域の西側の線を東限として、三角形で表示された部分と、横手空域の北部に推定2分線と示された線の以北の同空域の一部分とを合した空域がそれとされているが、〈証拠略〉に照らすと、当時右のように明確に限定された空域が指示承認されたものではないことが認められ、結局、臨時に設定された「盛岡」空域なる本件訓練空域は、横手空域の北側から東側の盛岡市周辺にかけての漠然とした範囲であつて、範囲が明確に特定されたものではなかつたことが認められる。
この認定を左右するに足る証拠はない。
(三) 〈証拠略〉、前記(一)の事実によれば、隈、市川は、前記スケジユールボードを見て当日の訓練空域の割当てを知り、「盛岡」空域の範囲について誰からも具体的には説明を受けなかつたが、隈は、横手空域の東北側で盛岡の西側と漠然と理解し、ジエットルートJ11Lについては、盛岡辺りを通つていると思い、岩手山上空を通つているとは考えていなかつたこと、市川は、この空域について全く分らなかつたものの、教官機に追随すべき立場から、敢てその場所を知ろうともしなかつたこと、両名は、前記川尻付近で教官機の高度が二万四〇〇〇フイートに達した頃から機動隊形による飛行訓練に入り、初めは横手空域内で、それから北方へ移動しつつ、三回位旋回をくり返し、教官機が、高度二万五五〇〇フイート、真対気速度四四五ノツト(マツハ〇・七二)で北進して、岩手山付近で約二分間に一八〇度の右旋回を行い、それが終わつて一〇秒ないし二〇秒水平直線飛行をし、次いで左旋回を開始したこと、その際、訓練生機は、教官機の右後方にあり、左旋回開始により前記飛行要領に従い教官機の後方を高度を速度に換えて旋回の内側に移動して、教官機から見て七時ないし七時半(二一〇度ないし二二五度)の方向、約五〇〇〇ないし六〇〇〇フイートの所に達した時、隈は、訓練生機のすぐ後方に全日空機を発見し、直ちに市川に警告を発し、その直後、市川も自機の右後方四時か五時(一二〇度か一五〇度)位の方向のやや下方至近距離に全日空機が接近して来るのを認め、バンク角を深めて左上方へ回避しようとしたが、間に合わず両機は接触(その箇所は前示のとおり)するに至つたこと、以上の事実が認められる。〈証拠略〉の各供述記載中、割当てられた訓練空域の範囲について右と異なる趣旨を述べる部分は、前掲各証拠に対比して採用しがたく、他に右認定を左右する証拠はない。
(四) 〈証拠略〉によれば、政府事故調査委員会は、前記岩手山付近の右旋回を開始してから本件事故に至るまでの二分四四秒の間の教官機及び訓練生機の航跡を別紙図面五の一・二(報告書第一一図の一・二)のとおり作図したが、これは、隈、市川の口述に、F―86F戦闘機の性能、機動隊形の飛行要領を加味して作成したものであり、なお、接触直前の左旋回開始の航跡については、前記認定の接触直前の隈、市川の視認の状況と、後記認定の機体の損傷状況から推定される訓練生機と全日空機との交差角を基礎としたものであることが認められる。
また、〈証拠略〉によれば、隈は、右旋回中及び左旋回開始後までの自機と訓練生機との関係位置については、方向、高度差、水平距離等を具体的な数値をあげて供述したうえ、別紙図面五の一に近い航跡図を自ら描いて示していることが認められるが、〈証拠略〉によれば、隈自身も、〈証拠略〉記載の供述及び航跡図の作成に当たつては、機動隊形の標準的飛行要領を念頭に置いていたものであることが認められる。しかるに、〈証拠略〉によれば、市川は、当日午前に初めて機動隊形による編隊飛行訓練を行つた訓練生であつて、本件飛行においても教官機に追随することが精一杯であつたものであり、かかる訓練生が標準的飛行要領のとおりに正確に飛行することは期待し得ないものであることが認められ、したがつて、隈の前記供述中数値に関する部分はただちに採用することができず、別紙図面五の一・二も正確なものとは断定し得ないところである。しかし、〈証拠略〉によれば、隈は、ジエツト戦闘機(F―86F)の約七三〇時間の飛行経験を有し、右ジエツト戦闘機操縦教官課程を修了し、機動隊形訓練の経験も豊富なものであつたこと、隈は、本件飛行訓練に際しては、教官として、訓練生機が飛行要領を遵守し飛行しているか否かを絶えず監視し指導すべき立場にあり、実際に監視を続けていたこと、そして、前記一八〇度の右旋回に際し、訓練生機が標準的飛行要領から著しく逸脱した事実はなかつたとしていることが認められるので、隈が自機と訓練生機との位置関係の大略について述べるところは信頼に値いするということができる。そして、〈証拠略〉によれば、事故調査委員会の委員らは、前記航跡図の作成に当たり、松島基地に赴き、隈、市川と話合つて、両名からほぼそのとおり間違いない旨の確認を得たこと、防衛庁防衛局運用課長も、当時自衛隊機操縦者の口述等に基づいて作成したとする航跡図を事故調査委員会に提出し、更に後日同一の航跡図を法務省刑事局刑事課長宛提出したが、これに描かれた航跡の状況は、事故調査委員会作成の別紙図面一(報告書第一〇図)の航跡と概ね同一であり、したがつて、別紙図面五の一・二とも概ね合致するものであつたことが認められる。これによれば、別紙図面五の一・二の航跡は、最後の左旋回開始後、とくに接触前約一〇秒から接触時まで(したがつて接触地点を含めて)についてはなお全日空機の航跡との関係で後に検討することとするが、それ以前については、おおよその傾向を示すものとしては、採用に値いするものというべきである。
(五) 次に、右自衛隊機の航跡の地図上の当てはめについては、〈証拠略〉によれば、政府事故調査委員会は、別紙図面一のとおり、最後の右旋回は、岩手山を中心にして、その西側から北側、東側と廻つて南方へ旋回したものとしていることが認められる。他方、隈は、盛岡市街を三時の方向、岩手山を一二時ないし一二時半の方向(一時という供述もある)に見て右旋回を開始し、岩手山の南側を廻つた旨供述しているが(〈証拠略〉)、右供述中にも、必ずしもはつきりしないごとく言い、あるいは、岩手山は旋回開始時にちらつと見た程度であり、盛岡市街は旋回中に見たと述べる部分もあつて(〈証拠略〉)、あいまいな感を免れないが、岩手山の北を廻つてはいないという点では、確信があるごとく窺われる。これに対し、第一審原告らは、教官機の高度と、F―86F型機の下方視界の限界とを考えると、右旋回開始時までの水平飛行中に盛岡市街を三時、岩手山を一二時ないし一時の方向に同時に見ることのできる位置は存在しない旨主張し、これに対して第一審被告の直接の反論はなく、他方で、第一審被告は、原判決認定の接触地点を前提とし、かつ、隈の一貫して供述するごとく岩手山の北側に出ないという条件で、別紙図面五の一の旋回形態で一八〇度旋回したものとすると、旋回直径は五・二キロメートルで、バンク角は六四度でなければならないこととなるが、隈はバンク角三〇度で旋回したと供述(〈証拠略〉)しており、バンク角の認識にそれほど大きな誤差が生ずるとは考えられない(したがつて、接触地点はもつと西寄りである筈である)旨主張する。これらの主張の当否について判断するのに十分な資料はないが、〈証拠略〉によれば、事故調査委員会の委員らは、別紙図面一のとおりの図面を隈、市川に示して、ほぼそのとおり誤りがない旨の確認を得たものと認められること、〈証拠略〉によれば、前記防衛庁防衛局運用課長の提出した航跡図における第四回目の右旋回の地図上の位置は、別紙図面一よりは幾分南西寄りであるが、岩手山を旋回の径内に含んでいると認められることを考えると、別紙図面一の旋回地点は幾らか南西へ寄る可能性はあるにしても、岩手山の北を廻つたとすることが誤りであるとまでは断定しがたいところであつて、要は岩手山付近を旋回したとすれば足りよう。
(六) 第一審被告主張の自衛隊機の飛行径路について検討する。
(1) 〈証拠略〉によれば、航空自衛隊のバツジシステムは、各基地のレーダーの情報を利用して、空中の目標を発見、識別し、要撃管制等を行うための自動警戒管制組織であり、各基地のレーダー情報をコンピユーターで処理して得られた各航空機の位置、高度、速度、進行方向をブラウン管に投影し、これを特殊カメラにより一分間隔で密着撮影したものがカラー・データ・フイルムであること、海法泰治は、刑事事件で行つた鑑定において、本件事故直前の三沢基地におけるカラー・データ・フイルムの内航跡解析に有用なものを二八コマ選定して、これを二五〇万分の一に、更に一〇〇万分の一にと順次拡大したうえ、時間を追つて各コマの航空機の表示を連結させることにより、乙第一九号証第一図を得、更にこれを一〇〇万分の一の地図に当てはめて同第二図を得たこと(別紙図面七は右第二図を縮小したものである)、その結果得られた全日空機の航跡は別紙図面七の「NH五八」と表示したもの、同じく教官機及び訓練生機の航跡は同図面の「LILAC―C」と表示したものであること、そして、全日空機のF・D・Rの記録及び関係各機の位置通報時刻を基にすると、各航跡の番号27の表示が本件事故約三分前の午後一時五九分〇九秒頃とみられるとしていること、しかし、右表示以後本件事故発生時刻までのフイルムはカメラの故障のため得られなかつたとして、その解析は行わなかつたこと、以上の事実が認められる。
(2) しかし、〈証拠略〉によれば、政府事故調査委員会の委員らは、本件事故直後、三沢基地を訪れ、バツジシステムについての説明を聞き、カラー・データ・フイルムの投影を見たが、その際、自衛隊担当者から、バツジシステムは約一二〇〇海マイル四方もの広大な地域を写し出すものであり、しかも当日は一時五七分から二時二〇分まで映像が中断しているので、これをもつて本件関係機の航跡を明らかにすることはできない旨の説明を受け、また投影されたフイルムの画面も極めて不鮮明なものであつたため、結局同委員会においては、カラー・データ・フイルムを事故調査の資料とすることを断念したことが認められる。そして、バツジシステムにおけるコンピユーター処理及びカラー・データ・フイルムの撮影の過程に機械的な誤差を生ずることはないにしても、右の説明のように一度に広大な範囲について得られたレーダー情報が各機の相互の位置関係を示すのにどの程度の精度を有するものかは必ずしも明確でないし、〈証拠略〉によつても、フイルムを二度にわたり拡大しかつ地図上に当てはめる過程においては、多分に人為的操作を必要とするものと認められ、その間に誤差が生じないとは限らないと考えられるところ、〈証拠略〉によれば、別紙図面七表示の航跡と位置通報時刻とに、第一審原告らの主張事実欄第二、一1(一)(3)(ロ)において指摘するような一、二分のずれがある可能性を否定しがたいものと認められ、本件事故時に至るまでの関係機の位置を解明するにつき、一、二分の誤差は無視し得ないことが明らかである。
(3) 更に、別紙図面七(海法鑑定書第二図)中の「LILAC―C」の航跡が本件教官機及び訓練生機のものであることについては、〈証拠略〉によれば、右航跡中の四コマ位に編隊の表示が出、接触可能の範囲に編隊機の表示のあるものはこれのみであつたというのであり、(〈証拠略〉によれば、編隊の場合でも、機動隊形の標準的飛行要領程度の間隔では単機としてしか映らないものであることが認められる)、また、表示番号27のあとの航跡については前記のとおりフイルムが欠けているため直接の資料はないが、〈証拠略〉は、全日空機との接触状況と、F―86F型機の機体の性能上飛行し得る限界とを考慮した結果、別紙図面八(鑑定書第四図)の斜線の範囲内にあると推定していることが認められる。しかし、別紙図面七の「LILAC―C」の航跡は、右図面によれば、表示番号17から24の間に、雫石町南方で、ジエツトルートJ11Lの東側にはみ出しておおよそ直径二五キロメートル、二七〇度の旋回をし(したがつて、17より前には雫石町の北側にいたことになる)、次いで同25、田沢湖付近から再び二七〇度の左旋回をした(27以後はかなりの急旋回になる)こととなるが、これは、前記(三)掲記の各証拠における隈、市川の供述とも明らかに異なる状況であり、また、前記機動隊形の標準的飛行要領に基づく半径四ないし五マイルの旋回を前提とする限り、別紙図面八の斜線内で旋回するためには、駒ヶ岳の焼砂の真上かそこからせいぜい一キロメートル弱東の上空を通過しなければならないが、後述する焼砂からの目撃状況とも相容れないこととなる。そして、前記(二)の認定事実によれば、当時横手空域を使用する他の編隊があつたことが推認されるから、右「LILAC―C」の航跡には他の編隊の航跡が混同されている可能性も考えられないではない。
したがつて、少なくとも自衛隊機の航跡については、海法鑑定は採用するに足りず、これに基づく第一審被告主張の飛行径路を認定することはできないというべきである。
2  事故前の全日空機の飛行径路
(一) 全日空機が、昭和四六年七月三〇日午後一時三三分頃、札幌発東京行五八便として千歳飛行場を離陸し、ジエツトルートJ10Lに沿つて飛行し、函館NDB付近上空を通過し、その後水平定常飛行に移り、同日午後二時二分頃、雫石町付近上空に達したこと、その時の同機の高度は管制承認された二万八〇〇〇フイートであり、真対気速度は約四八七ノツトであつたことは、当事者間に争いがない。
〈証拠略〉によれば、全日空機の管制承認された飛行計画においては、飛行径路は、千歳飛行場から、ジエツトルートJ10L、函館NDB、ジエツトルートJ11L、松島NDB、ジエツトルートJ30L、大子NDB、ジエツトルートJ25L、佐倉NDB、木更津NDBを経由し、東京国際空港(羽田)に至るものであり、時刻表による出発時刻は一二時四〇分、到着時刻は一四時であつたが、同機は、NH五七便として東京から札幌へ飛行した機の折返し便であり、札幌到着時刻が一二時四四分と遅れたため、離陸前に千歳飛行場の管制官に提出された飛行計画では離陸予定時刻は一三時一五分とされていたが、それが現実には更に遅れて、一三時三三分頃(争いのない事実。ただし、全日空機から出発管制官への通報による離陸時刻は三三分一〇秒、運航係業務日誌では三二分)に千歳を離陸し、一三時四一分三二秒に高度一万七〇〇〇フイートの通報をし、同四六分、函館上空を同時刻に高度二万二〇〇〇フイートで通過し、松島予定時刻は一四時一一分である旨を札幌管制区管制所に通報し、更に一三時五〇分一一秒に、高度二万八〇〇〇フイートの通報をしたことが認められる。
(二) F・D・R記録の解析による航跡の推定
〈証拠略〉によれば、政府事故調査委員会は、F・D・Rの記録に基づき、全日空機の飛行経路を別紙図面一(事故調査報告書第一〇図)のとおり推定していることが認められ、この推定は、以下による修正を免れないが、概ね正当と考えられる。
(1) 〈証拠略〉によれば、F・D・Rは、指示高度、指示対気速度、機首磁方位を操縦席の計器との連動により、また、垂直加速度を機体の重心近くのセンサーによりそれぞれ測定して記録しておくものであり、その記録から航跡を導くためには、当該機器固有の誤差をメーカー作成の補正表によつて補正し、かつ、温度、気圧、風向、風速等の気象条件により修正することが必要であり、とくに風向、風速の影響による修正(偏流修正)が重要であること、事故調査委員会による全日空機のF・D・Rの解析によれば、本件接触事故発生時刻は、千歳離陸から一八〇〇秒(三〇分。ただし、より正確には一八〇〇・〇五秒)の時点と推定され、本件事故後のF・D・Rの記録には後述のような問題点はあるが、少なくとも一八〇〇秒まではF・D・Rは正常に作動し、記録されていたこと、その解析、数値は別表一二のとおりであること、事故調査委員会の解析に当たつては、千歳、雫石等三、四か所の測候所から得た気象データを用いたが、当日は日本上空が太平洋高気圧に覆われた安定した天候であつたことから、全日空機の全飛行経路にわたつて、気象条件は雫石町付近上空のそれと概ね同一なものと仮定し、とくに高度二万八〇〇〇フイートに達した後は雫石町付近上空と同一に全て風向二八〇度、風速四〇ノツトとして解析したことが認められる。〈証拠略〉には、事故発生後の垂直加速度の記録状況に異常が見受けられることから、事故前にもF・D・Rが正常に作動していたかどうか疑わしいとする部分があるが、〈証拠略〉に対比して採用し得ない。
(2) 右気象条件については、安定した夏型の天候であるからといつて、全日空機の全飛行経路にわたつて雫石町付近上空の高度別による風向、風速と全く同様であつたと推定できるものではなく、したがつて、雫石町付近上空の気象データに基づく高度別の風向、風速を当てはめることによつて正確な航跡を求め得るとは解されないところ、〈証拠略〉によれば、偏流修正を何度にすべきかは、航空機の機首の方位と速度、風向、風速のベクトルによつて求めることができ、速度が遅いほど偏流修正角は大きくなること、本件事故当日の札幌上空三五〇ミリバール(標準大気圧で高度約二万六五〇〇フイート)における九時と一五時の風向は二八六度、二八二度、風速はいずれも五六ノツトであり、三沢、秋田では各上空の九時の風速がそれぞれ五二ノツト、三五ノツトであつて、南に行くにつれて減少していることが窺われるが、風向は九時にいずれも二七七度であつて札幌上空と大差がないこと、しかして、全日空機の高度が二万八〇〇〇フイートに達した下北半島上空時(離陸後一一二〇秒)の指示対気速度は二五四ノツト、機首磁方位は一八八度であり、右速度、方位において風向二八〇度、風速五〇ノツトと仮定して求められる偏流修正角は七度であり、一方、同高度の雫石町付近上空時(離陸後一八〇〇秒)の機首磁方位一九〇度、指示対気速度三一〇ノツトで、風向二八〇度、風速四〇ノツトにおける偏流修正角は四・六度となること、以上の事実が認められる。これによると、別紙図面一の下北半島上空以南の航跡が、雫石町付近上空の気象データのみを基礎として求められたものであるとすれば、同付近上空の航跡を前提とする限り、北方において、偏流修正角を必要な数値より少な目に見積り、したがつて、実際の航跡よりも西に偏つて作成されたという可能性があるということができる。しかし、逆に別表一二で知られるように、機首磁方位をほとんど変えないで全日空機が南下中、前記のごとく風速が次第に減り、機の速度も次第に速くなるとすると、機は右すなわち西へ流れて行く道理であり(まして、機首磁方位が一八七度、一八八度から一九〇度に移つて行けば尚更である)、したがつて、実際の航跡は、少なくとも下北半島上空付近から南へ行くにつれて西へふくらむ可能性があることも、肯認されなければならない。
(3) 別表一二によれば、F・D・Rの機首磁方位の記録は離陸後一五〇秒から八一〇秒までの間は概ね二二四度から二三五度の間(初期の約五〇〇秒間を除いては概ね二二五度から二三〇度の間)を示し、その後急速に数値を減じ八七〇秒に一九五度、八八〇秒に一九一度となり、八九〇秒から一一五〇秒までは一八七度から一九〇度の間で飛行した後一一六〇秒から一八〇〇秒までは一八九ないし一九〇度の方位を保つて飛行し続けたことが明らかである。そして、〈証拠略〉によれば、千歳NDBから函館NDBへのジエツトルートJ10Lの磁方位は二二四度(航空路A3も同じ)、函館NDBから松島NDBへの同J11Lの磁方位は一八三度であると認められるから、前記機首磁方位の変化の状況は、そこに偏流修正が加味されているであろうことをもあわせ考えれば、全日空機が、函館NDB局上空付近において、離陸度八一〇秒過ぎから旋回を始め、八八〇秒頃に旋回を終えたことを示すものと推論するに難くない。
ところで、前記のとおり函館上空の位置通報時刻は一三時四六分であるが、前記の管制官への通報によつて離陸時刻を一三時三三分一〇秒とすると、同四六分は離陸後七七〇秒となり、前記旋回は函館上空通過後に開始されたことになる。しかし、別表一二によれば、F・D・Rの記録からすると、全日空機が高度一万七〇〇〇フイートに達したのは五六〇秒後、同二万八〇〇〇フイートに達したのは一一二〇秒後であり、前記(一)認定の右各高度の通報時刻一三時四一分三二秒、同五〇分一一秒がそれぞれその高度に達した時刻として、これから逆算すると、離陸時刻はそれぞれ同三二分一二秒、同三一分三一秒となり、また本件事故発生時刻を当事者間の争いの範囲である一四時二分三一秒から同二分三九秒までの間として前記F・D・Rが正常に作動していた最後の時までの一八〇〇秒を遡らせると、離陸時刻は一三時三二分三一秒から三九秒までの間となる。他方、運航係業務日誌には離陸時刻一三時三二分の記録があるところ、〈証拠略〉によれば、離陸時刻は厳密には航空機の車輪が滑走路を離れた瞬間であるが、パイロツトが出発管制官に離陸の通報をするのは、通常離陸操作を終えて機の姿勢が安定した時であること、運航係業務日誌の記載時刻も、パイロツトから運航管理者への通報に基づくものであり、前後各三〇秒の幅を含むものであること、他方、高度の通報も、厳密に当該高度を高度計が示した瞬間ではなく、二〇フイート程度の相違はあつても、おおよそその高度に達したものとしてなされるものであること、以上の事実が認められる。これらの点を考えると、離陸時刻は一三時三二分台(恐らくは四〇秒より前)と推測され、そうとすれば、函館における旋回の開始が函館NDB局上空通過後になされたとは必ずしもいえないというべきである。
ところで、函館NDB局上空で旋回する方法については争いがあるが、〈証拠略〉によれば、NDB局相互間を結ぶジエツトルートを飛行するに当たつては、NDBの電波の周波数にADF(自動方向探知機)を合わせ、その電波の方向をRMI(無線磁気指示器)の指針に示して、飛行するのであるが、NDB局が近づくとRMIの指針がゆれ始めるので、接近したことが分かり、局の直上を通過すると針が一八〇度回転するので、通過を確認できること、NDBの電波の性能上、真上には電波の届かない空白区域が生じ、高々度ではその範囲は直径三、四マイルに及び、また、NDBの電波は中波であるため雷雲等の気象状態によつても影響を受けることがあり、したがつて、局の真上を通過したことの確認は必ずしも容易ではない場合もあること、そのため、NDB局上が旋回点である場合には、局の真上を通過したことを確認した後に旋回を始めたのでは、必然的に行き過ぎ(オーバーシユート)になるので、行き過ぎを少なくするためには、旋回地点に達する前のこれに近づいた段階で徐々に旋回を開始する方法(アーリーターン)があり、アメリカ連邦航空局のエアマンズ・インフオメーシヨン・マニユアル及びこれに倣つた社団法人日本航空機操縦士協会編集のエアマンズ・インフオメーシヨン・マニユアル・ジヤパン(昭和五九年)も、アーリーターンが好ましい旋回方法であるとしていること、わが国の民間航空機がNDB局上で旋回するに際しても、多くの場合、RMIの指針のゆれのほか、DMEを利用しての距離(函館の場合、現在では千歳VORから、本件事故当時は千歳タカンからの距離)の測定、気象レーダーを利用しての地形の判読、地形の目視等を総合して、旋回点まで三、四マイルに近づいたと判断される時点で徐々に旋回に入るアーリーターンを行つていること、また、NDB局が位置通報地点と定められている場合にも、正確に局の真上を通過した時ではなく、その直近を通過したと推定される時刻を通報するものであり、その際、分未満の端数は切上げ又は切捨てること、以上の事実が認められる。第一審被告は、必ず局上通過を確認してから旋回を開始すべきであり、正規の方法で飛行すれば必ずオーバーシユートするものである旨主張し、〈証拠略〉中にはこれに沿う部分があるが、右認定に照らしてたやすく採用し得ない。なお、第一審被告は、航空自衛隊教育訓練資料ないし技術教範(〈証拠略〉)、運輸省航空局編集の民間航空機パイロツト向け飛行機操縦教本(〈証拠略〉)には、オーバーシユートを正しいとする記載があるごとく主張するが、右乙号各証の記載は、RMIの指針が真横を向き又は一八〇度回転した時をもつて局上通過を確認する時点としているのみで、〈証拠略〉に対比すると、位置通報地点である無線施設局上が旋回点である場合の旋回方法についてとくに言及してはいないものと解されるので、前記認定を左右するものではなく、他にこれに反する証拠はない。
そして、本件において、右認定事実に、F・D・Rの記録に徴しても、函館の旋回後の機首磁方位は最低が一八七度であつて、顕著な軌道修正の形跡は認められないことと、前記位置通報時刻と離陸時刻との関係等を総合すると、全日空機は、函館NDB局上空到着の三、四マイル前に旋回を徐々に開始したか又は遅くとも同NDB局上空至近距離に至つた頃から旋回に入つたものとみるのが相当であり、オーバーシユートによりジエツトルートJ11Lの西側に出た幅は、問題となるほど大きなものではなかつたとみるべきである。
(三) 八ミリカラーフイルムの解析による航跡の推定
(1) 〈証拠略〉によれば、全日空機乗客の遺品中に機中から窓外の進行方向右側(西側)の風景を撮影したものとみられる八ミリカメラに収蔵されたカラーフイルムがあり、これを現像し焼付けた写真に基づいて、第一審原告らの依頼を受けた国際航業株式会社(以下単に「国際航業」という)が全日空機の航跡を推定したところ、別紙図面一三表示の赤線のとおりとなつたことが認められ、これによれば、全日空機は、函館以南においてジエツトルートJ11Lより東側を飛行していたことになる。しかしながら、右証言によれば、国際航業は、解析図化器等の精密な機器を導入する前に、三点両角法という手法を用いて解析をしたものであり、三点両角法による写真解析は、飛行機の航跡の如き、三次元の測定においては高い精度を期待し得ず、概略の値を得るにとどまり、後記の単写真測定法に劣るものであることが認められ、さきに(二)(1)(2)において説示したごとく、F・D・Rの記録の解析結果に照らしても、全日空機がジエツトルートJ11Lの東側に出た可能性は乏しいと考えられるので、右航跡の推定は採用するに足りない。
(2) 他方、〈証拠略〉によれば、アジア航測株式会社(以下単に「アジア航測」という)が右同様の八ミリカラーフイルムを解析した結果、千歳から十和田湖の西湖南岸の発荷峠西部付近に達するまでの全日空機の航跡を別紙図面一三の青線表示のとおり求めたこと、右解析は、解析図化器等を用いる単写真測定法によつたもので、その手法自体においては航空写真測量一般に通用する合理的なものであること、更に、アジア航測は、発荷峠以南の航跡については、右八ミリカラーフイルム中に不鮮明ながら田沢湖が写つていると思われるフイルムがあるとし、コンピユーターグラフイツクによる数値地形モデルと実際の田沢湖付近を三五ミリカメラによつて写した航空写真(斜め写真)とを対比してシミユレーシヨン八ミリ画像を作成し、これと本件八ミリフイルム中の右写真とを対照した結果、それが田沢湖を写したものであると判断し、かつ、前記十和田湖以北の航跡をそのまま南方へ延長した線上若しくはそれに近い飛行コースで撮影されたものと推定して右の線を航跡としたこと、以上の事実が認められる。
(3) 〈証拠略〉によれば、通常航空測量に使用するフイルムは三五ミリ以上の大きなもの(とくに二四〇ミリのもの)で、真上から撮影したいわゆる鉛直写真であり、本件のように八ミリフイルムの斜め写真を計測に用いることは通常行わないこと及びこれによつて撮影点(空中の飛行機における撮影カメラレンズの中心位置)を測定するには特別の考慮を要することが認められる。
(イ) すなわち、まず、右各証言によれば、写真による撮影点の解析の精度は、写真に写された対象のある地点が、解析のための基準点として特定され得るに足る特徴及び鮮明度を有することにかかるものであること、基準点として、市街地等は比較的特定が容易であるが、山頂、海岸線、岬、河川の屈曲部等の自然の地形は、見る角度によつてかなり異なつて見えることがあり、その精密な特定は困難な場合が多いことが認められ、また、撮影点と被写体との距離が隔たるほど、地物の特定が困難となることも経験則上明らかである。しかるに、〈証拠略〉によれば、アジア航測の十和田湖までの解析に使用した写真は、八ミリフイルムを三五ミリカメラで接写し、その三五ミリフイルムを二〇倍に拡大したものであること、しかし、このように八ミリカラーフイルムを拡大した結果は概ね不鮮明で地物の輪廓も明瞭さを欠くものしか写つておらず、函館以南においてその内で比較的細かく地上の事物を特定し得るのは、油川及び青森市街を撮影した写真(〈証拠略〉であり、次いで函館湾西岸地区を撮影した写真(〈証拠略〉)であつて、当然のことながら、右解析においても、これらの写真における撮影点について最も推定誤差(標準偏差)が小さく(青森市街のものの東西方向の推定誤差が一八〇ないし一九〇メートル、函館付近のもので同じく二四〇ないし四三〇メートル)、その余の写真、とくに弘前以南のもの(〈証拠略〉)は、写つている地物がかなり不鮮明で、その特定は大まかな推測によらざるを得ず、右解析においても撮影点の東西方向の推定誤差は一〇〇〇メートル以上、最大二八三〇メートルとされていること、なお実際の撮影点が右の推定誤差(標準偏差)の中に存する統計上の確率は六八パーセントであり、推定誤差の二倍の範囲内なら九五パーセントの確率となるとされていることが認められる。しかし、〈証拠略〉の内、最も細かな識別の可能な青森市街地の基準点であつても、おおよその所在を指摘できるのみであるから、右のように標準偏差の二倍以上という精度をもつてその撮影点を確定し得たか否かについて疑問の存するところである。
(ロ) また、〈証拠略〉によれば、カメラレンズには歪曲収差があつて、それが像の再現性の欠陥となつて現われるものであり、写真測量用のカメラはその収差が僅少であるのに対し、八ミリカメラでは相当程度の歪曲収差があると考えられ、正確な測定にはそれをも考慮する必要があるが、カメラの機種ごとの収差を確認する資料はなく、本件八ミリカラーフイルムの解析に当たつても、また、後記(ハ)及び(ニ)の各実験に基づく国際航業及びアジア航測の各解析においても、歪曲収差は考慮されていないこと、更に、写真測量用カメラは、フイルムが完全な平面になるように、これを真空力で圧定板に吸着させるようになつているものが多いが、八ミリカメラには、フイルムを平板に押しつける機構が十分でなく、フイルムにたわみが生ずる可能性があること、アジア航測は、八ミリフイルムの単写真測定法による解析の結果と地上の実測とを比較するために、地上で八ミリカメラによる撮影をする実験を行つたが、その際にはほぼ同一角度から撮影された八ミリカメラの写真と三五ミリカメラによる写真とを比較してみると、道路上の直線であるべき白線が前者では明らかに湾曲して写つており、これは、八ミリカメラのレンズの歪曲収差によるものか又はフイルムのたわみによるものと推測されること、以上の事実が認められる。
(ハ) 〈証拠略〉によれば、国際航業が、名古屋市付近上空において、八ミリカメラにより航空機の両側を同時に斜めに撮影する実験を行い、その写真を解析した結果、左右の線が一致せず、それぞれ推定された真実の撮影点すなわち航跡よりも被写地点に近い航跡が得られ、たとい高度補正をしても、八ミリカメラの場合は真実の航跡を求めることはできないとしたこと、そして、右実験結果をふまえて、国際航業の古跡純一は、右側をフジカ・シングルP―100、左側を同P―300のカメラで撮影した場合の実際の誤差(推定された真実の航跡までの解析結果を撮影点からの距離)は、右の解析によつて得られた誤差(東西方向と南北方向との双方を考慮した標準偏差)の平均八・五三倍であり、右は気圧高度(航空機の高度計の指示値)の下においてであるが、これを実高度に補正しても、平均六・〇三倍であつたと分析していること、以上の事実が認められる。
そして〈証拠略〉によれば、航空機の気圧高度計は標準大気(平均海面上の気圧一〇一三・二ミリバール)のもとにおける気圧に対応する高度を示すもので、気圧高度二万八〇〇〇フイート(八五三五メートル)は標準大気における気圧三二九・三二ミリバールに対応するが、実際の高度は、気圧高度計の指示する数値をそのときの気温、気圧に応じて補正して求める必要があること、本件事故の日の昭和四六年七月三〇日の午後二時少し前頃における青森付近上空の気温、気圧を認めるべき直接の資料はないが、秋田地方気象台及び三沢基地における同日九時及び二一時の観測において次表に掲げる数値が得られており、当日の安定した天候のもとにおける高層気象は、秋田、青森、三沢程度の場所の隔りと五ないし七時間の時間の差では大きな変化はないと考えられるところから、古跡は、右秋田、三沢の観測値に基づく比例計算をした結果、前記時刻頃の青森付近において、気圧三二九・三二ミリバールの高度は約九〇五一メートルと求められたこと(その計算方式は、〈証拠略〉において、アジア航測が行つているものと同一である)、次いで、古跡は、本件八ミリカラーフイルムの写真について、アジア航測のした解析に対して右実高度による補正をして計算した結果、実際の撮影点は、アジア航測の解析したそれよりも、油川上空の写真において東へ一二〇〇メートル、青森上空の写真において東へ八〇〇メートル(平均一〇〇〇メートル)移動すべきものとしていること、以上の事実が認められる。

観測時間(日本時間) 〇九:〇〇 二一:〇〇
秋田 三五〇mb 八六二一m 八六一七m
三〇〇mb 九七四九m 九七四三m
三沢 三五〇mb 八五九六m 八六〇五m
三〇〇mb 九七三一m 九七二八m
標準大気 三五〇mb 八一一七m
三〇〇mb 九一六四m

(ニ) 他方、〈証拠略〉によれば、アジア航測は、前記(ロ)の地上実験の結果によつて、地上の実測と八ミリフイルムの解析の結果とを比較検討して、単写真測定法による撮影点の位置決定の精度の誤差は撮影点からの距離の〇・五パーセントないし一パーセントの範囲にすぎなかつたとし、更に、関東平野北部において高度二万八〇〇〇フイートで飛行するC―1輸送機から八ミリカメラによつて斜め写真を撮影して、同時に右C―1機の位置をその真上を飛行する他の航空機から鉛直写真によつて確認するという方法をとつて比較検討したところ、右斜め写真の解析によつて得られた撮影点の精度の誤差は、実高度補正をしない数値で、撮影対象距離の一パーセントから三・四パーセントまでの範囲、平均で一・七パーセント(撮影対象が二五キロメートルとすると誤差は四三〇メートル)であつたとし、実高度補正(気圧高度との差は二三一メートルとする)をしても、八ミリカメラによつて得られた撮影点の位置は、鉛直写真から求めたC―1機の航跡にほぼ一致するとしていること、そして、アジア航測は、前記(ハ)の国際航業が名古屋市上空で行つた実験の結果を検討したところでは、国際航業の解析においては、画角サイズを推定される画角のサイズより約二〇〇ミクロン小さく設定し、かつ、機械座標系から写真座標系への変換方法として、ヘルマート変換によらず、アフイン変換を用いたために前記相違が生じたものと考えられるとしていること(もつとも、当審証人古跡純一は、国際航業の解析においてもヘルマート変換を用いた旨証言する)、以上の事実が認められる。
これに対し、第一審原告らは、〈証拠略〉をもって、前記C―1輸送機からの撮影については、フイルムのコマ数と飛行距離との関係にそごがあることを理由に、アジア航測のした位置決定の正確性を批判する。
(ホ) 以上の国際航業及びアジア航測の行つた各実験の方法及びその解析並びにこれに対する相互の批判等については、いずれを正しいとするかは、直ちに断定しがたい部分があるが、総じてはアジア航測側により精密な跡がみうけられる。しかし、少なくとも、全日空機の航跡を推定するについては、本件八ミリフイルムの解析において、実高度と気圧高度計の指示高度との間に、約五〇〇メートルにも及ぶ顕著な差があつて、この差は無視し得ないもので、補正を要するというべきであり、古跡のした推算は、〈証拠略〉においてアジア航測のした高度補正方法と同一の方式に基づくもので、概算の方法としては合理性が認められ、したがつて、右推算は、実高度補正に関する限り、正当なものと考えられるので、これを採用すべきである。第一審被告は、仮に高度にプラス・マイナス一〇〇メートル程度の誤差があつたとしても、これが前記アジア航測のした全日空機の航跡の推定に及ぼす影響は僅少であり、青森付近の写真撮影の水平距離に右の誤差が与える影響についてみれば、プラスマイナス一七六メートル、撮影方向を考慮するとプラスマイナス一五一メートルで、推定誤差の範囲内にとどまる旨主張するが、実高度と気圧高度との差が約一〇〇メートルであるとする根拠は明らかでなく、〈証拠略〉に対比して、右主張は採用し得ない。
(ヘ) 以上にみたところによれば、アジア航測による本件八ミリフイルムの解析にかかる航跡の内で、最も対象物の特定の精度の高いと認められる油川と青森市街の写真から推定された撮影点は、少なくとも実高度補正によりそれぞれ約一二〇〇メートルと約八〇〇メートル東方へ移動させるべく、なお、函館西方を撮影した写真についても、同様にして相当程度の実高度補正の誤差を見込むべきである。また、その中間の津軽海峡上の撮影点については、解析結果が別紙図面一三のとおりとすると、〈証拠略〉の地図によれば、全日空機がそこから東へかなりの軌道修正をして、右解析にかかる油川の撮影点の東方約一キロメートルの地点へ至るためには、真方位約一七〇度であるから、磁方位との差八度、偏流修正を七度加えるとしても、機首磁方位は平均して約一八五度を持続すべきこととなるものと認められるが、前記認定のF・D・Rの記録に明らかなようにそのような形跡がないことからいつても、右解析にかかる位置より相当東へ移取させなければならない。更に、青森より南方については、青森付近の撮影位置を一キロメートル前後東寄りに移動させて考えると、そこから十和田湖の西湖南岸発荷峠付近に至るとすることは、真方位一八一度であるから、それと磁方位との差七・五度、偏流修正角を最小の四・五度としても、機首磁方位は一九三度でなければならないが、前記認定のF・D・Rの記録上そのような形跡がないことからも疑問であるし、右解析自体が青森より南については推定誤差の大きいものとしており、被写体の極めて不鮮明な茫漠とした写真から基準点を特定することは困難なものとみられるから、右解析結果もこれをそのまま採用するに由ないというべきである。
(4) 次に、十和田湖以南についてであるが、アジア航測の作成した前記シミユレーシヨン画像が正確なものであるとしても、問題は、これと本件八ミリカラーフイルムの写真との対比である。そもそも、当審証人那須充の証言によれば、アジア航測は、この八ミリカメラ撮影者が、従前地上の著名な地物を写していることから、この場合も何か地上の地物を写したのであろうということ、雲間にぽつかり穴があいているような部分があり、雲のある日では湖の上ではこのようなことがあるとよく言われていること、従前解析した航跡を延長してみたあたりに田沢湖があつたこと、田沢湖の右北西部の湾入部分を右八ミリカメラによつて写された〈証拠略〉の各写真と対比してその相似性を認めたこと等から、これらの写真は田沢湖を写したものと一応推定したことが認められる。しかしながら、〈証拠略〉の地図上明らかなとおり、田沢湖の形状は、南東部に若干の凹凸があり、また、北西部にある程度の湾入があるものの、概ね円形であり、湖岸線も、右の部分を除いて変化の乏しいなだらかな曲線を描いているが、そのため、見る角度を変えることによつて湖岸線の形状の特徴を提えることが難しく、したがつて、逆に、見た方向の判定は容易ではない。この点からすれば、〈証拠略〉によれば、アジア航測が、右にみたごとく右北西部の湾入部分を地形の特徴として把えたようであるが、〈証拠略〉の各写真からそのように確と看取されるかは若干疑問であるうえに、右写真中やや白く見える部分が、右証言で指摘されるとおり田沢湖であるとしても、一部分以外は湖岸線と雲の底部との識別が容易ではなく、湖の全貌が写つているのか、一部だけなのか(例えば、〈証拠略〉の写真中一八〇一コマ、一八〇二コマでは、画面左側にも湖岸線が見えるようでもあり、そうだとすると、湖のほとんど全貌が小さく写つていることとなる)も判断しがたいところである。
そうすると、右写真は、田沢湖の範囲、形状を特定するに足るものとはたやすく認められず、したがつて、これをシミユレーシヨン画像と比較することによつて確度の高い解析がなされるものとは考えられないが、全日空機の青森以南本件接触地点までの航跡を探究するにつき、この解析結果は一つの有力な参考資料たるを失わない。そこで観るに、〈証拠略〉によれば、アジア航測は、このシミユレーシヨン手法による解析の結果、(1)全日空機は前記のとおり発荷峠西部付近を通過してさらに南下を続け、シミユレーシヨンで仮定したルート1(十和田湖までの航跡を延長したもの)、またはそれに近い飛行コースをとつたものと推定したこと、(2)八ミリ画像上の田沢湖の大きさ及び形、推定撮影方位角及び撮影高度角から推定して、これらの写真の撮影が、シミユレーシヨンで仮定したルート3(ジエツトルートJ11L、すなわち函館NDBと松島NDBを結ぶルート)でなされたものとはほとんど考えられないとしたことが認められる。右(1)の点は、さきに認定したとおり、全日空機が発荷峠西部付近を飛行したとの航跡が否定された以上、これをそのまま採ることは得ないが、右(2)の点は、その解析過程に徴して、これを慮外におくことは困難といわなければならない。ちなみに、〈証拠略〉によれば、右ルート3のジエツトルートJ11Lからルート1までの距離は約一一キロメートルで、中間のルート2までは約五・五キロメートルであるが、前認定のところから、アジア航測の解析した別紙図面一三の全日空機の航跡中、青森付近の撮影点を東へ一キロメートル移動させてみると、その地点を通り事故調査委員会の解析した航跡どおりに引いた線は、雫石町矢筈橋西方約一キロメートル余、長山長円の中心から約二キロメートル西を通ることになり、同時にこれはアジア航測の右シミユレーシヨンに当たり仮定したルート2の内の撮影点8の地点にも概ね合致することとなることが認められる。
(四) 海法鑑定の推定
〈証拠略〉によれば、海法泰治は、刑事事件における鑑定において、前記カラー・データ・フイルムの解析を主体とする検討により、全日空機の航跡を別紙図面七のNH五八と表示した線のとおり推定していることが認められる。しかしながら、本件におけるバツジシステム及びカラー・データ・フイルムによる解析の精度については、前記のような疑問がある。更に、右NH五八の航跡についてみるに、函館付近においては表示番号13から同16の間(その推定時刻は一三時四五分〇九秒から同四八分〇九秒。ただし、同鑑定は本件事故発生時刻を一四時二分三九秒とし、これから逆算して一八〇〇秒前を離陸時刻としたものである。なお、表示番号が一分間隔である点には誤差はないものと窺われる)に旋回しているが、番号14の表示が欠けているところから、旋回開始時点を13より後へずらしたとしても、前記認定のF・D・Rの記録から推定される旋回所要時間が約七〇秒程度であることと合致せず、次に、表示番号18から22までの下北半島西側から青森市付近までの航跡は、前記アジア航測の八ミリカラーフイルムの解析(それ自体の信憑性は前述のとおりである)による航跡と比較しても四・五キロメートル(縮尺一〇〇万分の一の海法鑑定書第二図上で四、五ミリメートル)西に寄つており、更に20から22点にかけては東方へ磁方位約一七三度で航跡が描かれているが、F・D・Rの記録上、偏流修正を最大限七度としてもそのような軌道修正をした形跡はないのであるから、これらの部分における航跡の判定及び地図上への当てはめは、正確性の高いものとは到底考えられず、表示番号15から23付近までは、真の航跡は、より東寄りに直線に近く描くべきものと考えられる。また、したがつて、同24以降の航跡についても、若干東寄りに位置する蓋然性が高いといわなければならない。
(五) 航法計器からの航跡の推定
(1) 〈証拠略〉によれば、全日空機の墜落後における計器の表示は、事故調査委員会の読み取つたところでは、次のとおりであつたことが認められる。
(イ) ADF(自動方向探知機)は、第一ADFが二〇八キロヘルツ、第二ADFが二七〇キロヘルツを示していた。
(ロ) 超短波(VHF)航行用受信機は、第一受信機が一一六・三〇メガヘルツ、第二受信機が一一四・三〇メガヘルツをそれぞれ示していた。
(ハ) RMI(無線磁気指示器)は、第一RMIにおいては、指示方位が一六〇度を示し、ADF/VOR選択スイツチの第一スイツチはVOR位置にあつたが容易に動く状態であり、第二スイツチはADF位置にあり、第二RMIにおいては指示方位は二〇五度で、ADF/VOR選択スイツチの第一スイツチは破損分離していて位置が不明であり、第二スイツチはADFの位置とVORの位置の中間にあつたが、容易に動く状態であつた。
(ニ) コース表示器(CI)は、第一CIにおいては、コースカーソル(コース指針)は一八〇度、コースカウンターは一七七度、ヘデイングカーソル(方位指針)は二〇五度を示し、ヘデイングカーソルの選択つまみは破損しており、第二CIにおいては、コースカーソルは一八〇度、コースカウンターは一八二度、ヘデイングカーソルは二〇五度を示し、ヘデイングカーソルの選択つまみは破損していた(右の内、コースカーソル及びヘデイングカーソルの表示の数値についてはなお後述する)。
(2) 〈証拠略〉によれば、次のとおり認められ、これに反する証拠はない。
(イ) NDB局間を結ぶルート上を飛行する場合、ADFを目的のNDBの電波の周波数に同調させ、RMIの選択スイツチをADFにセツトすることにより、当該NDBの方向がRMIの指針に表示され、飛行すべき方向を知ることができる。本件全日空機の前記ADFの表示周波数に該当するNDB局はないが、近いものとしては、宮古NDBの二一〇キロヘルツ、松島NDBの二七八キロヘルツがある。
(ロ) 超短波(VHF)航行用受信機の第一受信機の一一六・三〇メガヘルツは仙台VORの、第二受信機の一一四・三〇メガヘルツは松島タカンの各周波数に合致する。選択したVOR局の方向は、RMIの選択スイツチをVORの位置にすることによつて、RMIの指針に表示される。タカンは自衛隊専用の無線施設で、民間航空機が方位を知るために利用することはできないが、タカンに併設されているDME(距離測定用施設)は、民間航空機も距離を測定するのに利用することができる。
(ハ) CIはVOR局からの選択した電波のコースに対する飛行機の位置を表示するものであり、第一CIと第二CIとは連動していないところ、各CI中のコースカーソルとコースカウンターは連動して本来同一の数値を示すはずのものであり、選択したコースの方位と自機の位置との関係がコースデビエーシヨンバーと固定模型機の関係で示され、両者が合致するように操作すれば、所望の方向に飛行することができる。ヘデイングカーソルは、クランク状をしたヘデイングカーソルの選択つまみを動かすことによつてセツトされ、機首磁方位を示す。
(3) 〈証拠略〉(石川吉夫、別府芳については一部)並びに弁論の全趣旨によれば、オートパイロツト(自動操縦飛行方法)には、マニユアルモード、ヘデイングモード、ナブロツクモードがあること、その内ナブロツクモードは、CIのコースカーソル、コースカウンターに設定表示されたコースに則して、飛行機が自動的に飛行のずれを修正しつつ進行する方式であつて、最も自動化の進んだ方法であるが、当時、ボーイング七二七―二〇〇型機のコンピユーターは精度の低いもので、自動的な方向の保持を、ある程度行き過ぎてから逆方向に進行することによつて行うため、機体が大きな蛇行をくり返すこととなり、民間旅客機ではそのような蛇行は乗客に不快感を与えるため、右型式の機の飛行においては、ナブロツクモードを選択することはないこと、マニユアルモードは、CI表示のコースの方位に従い、CI計器中のコースデビエーシヨンバーを固定模型機に合わせるように、ターンアンドピツチコントロラーを操作して飛行する方式であるが、民間航空機操縦者の内にはこの方法は小さな旋回には向かないので、水平定常飛行に使用することは少ないとしている者もあること、ヘデイングモードは、ヘデイングカーソルにセツトした機首磁方位を機が自動的に保持し進行する方式であり、後記のようにヘデイングカーソルの数値は、フライトデイレクターコンピユーターを通じてADIに飛行機のとるべき姿勢を指示するものであり、民間航空機は、水平定常飛行にはヘデイングモードを使用することが多いこと、その際ヘデイングカーソルに示すべき数値(方位)は、風による偏流修正を加算したものであることを要し、また、ヘデイングモードにおいてはコースカーソルは無関係であるが、コースデビエーシヨンバーをオフにする方法がなく、絶えず動くと目触りなため、近くのVOR局の方向にセツトしておき、飛行位置を知る参考とすること、以上の事実が認められ、〈証拠略〉中この認定に反する部分は、その余の前掲各証拠に対比して採用し得ず、他にこの認定に反する証拠はない。
(4) 第一審被告は、前記(1)認定の計器の表示中ヘデイングカーソルが互いに連動していないにもかかわらず第一CI、第二CIともに二〇五度を示していたとされていることに着目し、そして、二〇五度が仙台VORから大子NDB(VOR)への方位であるところから、全日空機は仙台VORを経由して大子へ向かうべく、その方向を予めセツトしていたものである旨主張し、〈証拠略〉中にはこれに沿う部分がある。しかし、
(イ) 右主張は、仙台VORまではヘデイングカーソルを使用しない方法すなわちヘデイングモード以外の方法によつて飛行していたことを前提とするものと解されるが、前記のとおりボーイング七二七―二〇〇型機は蛇行が大きいためナブロツクモードは使用しないものであり、前記認定のF・D・Rの記録中にも蛇行の形跡は全く認められないのであるから、ナブロツクモードで飛行していた可能性はない。また、マニユアルモードについてであるが、同モードによつて函館NDBから仙台VORに向けて飛行していたとすると、コースカーソルをその磁方位一八六度(弁論の全趣旨により認める)にセツトしてあるべきなのに、第一CI、第二CIとも一八〇度の数値を示していたことは前記のとおりであつて、合致しないことは不合理である(もつとも、後記のごとく、右の一八〇度の数値を示していたと読みとることがそもそも不確かであるが、後記の読取り数値からしても、もとは正しい数値を示していたという帰結を導くには飛躍がありすぎるといわなければならない)うえに、前記(3)の認定事実によれば、マニユアルモードで飛行していた可能性自体がもともと少ないことも考えあわせなければならない。また、〈証拠略〉に徴してみても、距離にして九〇ないし一〇〇マイル(時間にして一〇分ないし一一分)も手前から次のコースをセツトすることは疑問であり、いわんや仙台VORから大子へのコースに乗つた段階で風による偏流修正を行わなければならないのにかかわらず、予め偏流修正を加味しない二〇五度という数値をヘデイングカーソルにセツトしておくことは意味が薄く、目安ないし心覚えのためにしても、機長と副操縦士がともにこのようなことをするというのは不自然であるといわなければならない。〈証拠略〉中右に反する部分は、右認定に照らしてたやすく採用することはできない。
更に、〈証拠略〉によれば、航空機が所望のコース、高度を保つためにとるべき姿勢を示す計器であるADIのFDIは、機長側と副操縦士側のそれぞれについてFDIのモードの選択スイツチによりヘデイングカーソルからの指示を受けるヘデイングモードとVOR局からの電波を受けるナブロツクモードとを選択することができること、本件において、前記認定事実によれば、副操縦士側の超短波航行用受信機の示していた周波数は松島タカンの周波数に合致し、同タカンのDMEによる距離測定に使用していたと推認されるので、FDIのモードを仙台VOR局の電波を受けるナブロツクモードとしていたとは考えられず、したがつて副操縦士側のFDIはヘデイングモードを選択しヘデイングカーソルからの指示を受けていたと見られるが、この場合に第二CIのヘデイングカーソルが二〇五度を指示していたとすると、FDIが仙台VOR到着前から絶えず二〇五度の方向への姿勢制御を指示し続けることになつて、首肯しがたい飛行方法となり、したがつて、ヘデイングカーソルを次の進行予定コースの方位である二〇五度に予めセツトしておいたという可能性は乏しいことが認められる。
(ロ) 〈証拠略〉によれば、コースカーソルとコースカウンターは前記のとおり連動し同一数値を示すものであるが、コースカウンターはデジタル式で一度単位の数字を表わすのに対し、コースカーソルは五度単位の目盛を針が示すようになつており、ヘデイングカーソルも五度単位の目盛を針が示すものであつて、パイロツトはコースカーソル及びヘデイングカーソルについては目盛の五度の間隔を概ね五等分して一度ずつに読み取つていること、全日空機については、第一CI(機長側)においては、コースカウンターは一七七度から一七八度へ移るところを、コースカーソルは一八〇度の目盛より少し下の一七八度付近を示し、第二CI(副操縦士側)においては、コースカウンターは一八二度、コースカーソルは一八〇度の目盛より少し上の一八二度付近を示しており、また、ヘデイングカーソルは第一CIでは二〇五度の目盛より僅かに下、第二CIでは二〇〇度と二〇五度との目盛の中間付近を指していたこと、したがつて、事故調査報告書記載の前記(1)の、第一CI、第二CIともコースカーソル一八〇度、ヘデイングカーソル二〇五度という数値は、目盛どおり五度単位で読取り、五度未満を切上げ又は切捨てたものと解する余地があること、以上の事実が認められる。そうすると、二つのヘデイングカーソルがともに同一の二〇五度を示していたという前提自体が確かなものということはできない。ちなみに二〇五度という数値は、〈証拠略〉によれば、全日空機の計器の内第二RMIの指示方位と第二CIの指示方位とにもあらわれるが、いずれもはつきりした根拠を見出し難く、二〇五度という計器上の数値の偶然性を消し去り難いことを付言する。
(ハ) 当審証人別府芳は、ヘデイングカーソルは構造上歯車によつて動く堅固なもので、墜落時の衝撃により容易に動くものではない旨証言するが、前記のとおりヘデイングカーソルはクランク状の選択つまみを動かすことによつてセツトするものであり、選択つまみは破損していたのであつて、内部構造が如何に堅固であるにせよ、選択つまみを破損させるような力が加えられているのにヘデイングカーソルは動かない(操作にそれ以上の力を要する)ということは、むしろ考えられないことである。
(ニ) 〈証拠略〉旨によれば、函館NDBから仙台VORへのコースはジエツトルートでも航空路でもないことが認められ、全日空機が管制承認を受けた飛行計画もジエツトルートJ11Lを経て松島NDBに至り次いで同J30Lを経て大子NDBへ至るものであつたことも前記のとおりであり、飛行計画の変更について承認を得た形跡もない。それにもかかわらず、仙台VORへ向け飛行していたというためには何らかの理由がなくてはならず、強いていえば飛行方法が簡便若しくは確実であるか又は距離の短縮による時間の節約ということが考えられる。しかし、VORの電波を利用してナブロツクモードで飛行することは簡便であるとしても、全日空機が同モードを選択したと認められないことは前記のとおりであり、NDB局を結ぶジエツトルートを飛行することが不確実な方法としてパイロツトに敬遠されていることを認めるべき証拠もない。また、松島NDBを経由する場合に比し仙台VORを経て大子へ向かう方が若干近道となることが窺われ、全日空機の千歳離陸が時刻表の時刻より大きく遅れていたことは前記認定から明らかであるが、一般に、民間定期便旅客機が時間の遅れを取り戻すために管制承認されたルートを外れて近道をすることがあるという事実を認めるべき証拠はなく、全日空機機長が、自己の判断で、敢えて管制違反を犯して僅かな時間短縮を図る意思があつたとは信じがたいことである。
なお、全日空機がオートパイロツトのモードをヘディングモードにしていたとすれば、前記F・D・Rの機首磁方位の記録から、ヘディングカーソルを一〇分余にわたつて一八九度ないし一九〇度にして飛行していたこととなり、偏流修正を四・五度とするときは、右の方位は函館NDBから松島NDBへの方位よりは仙台VORへの方位により近いこととなるが、前記のとおり、北方では偏流修正がより大きかつたものと窺われ、全日空機操縦者らが南下するにつれての偏流修正の変化を十分に折り込まなかつた可能性もあるので、右ヘディングカーソルの指示方位から、ヘディングモードをとつていたことはないと断定したり、たやすく仙台VORへ向かう意思が示されていたものと認めたりすることはできない。
(5) そのほかの(1)の(イ)(ロ)(ハ)認定の各計器の数値中、VHF受信機が仙台VORに同調されていたことは、前記(3)認定の事実によれば、ヘディングモードを選択していたことと矛盾するものではなく、その余の数値には、この点の判断に影響するものを見出すことはできない。
(6) 以上のとおり、航法計器の点から、全日空機が函館NDBから仙台VORへ向かうコースを飛行していたと認めることはできず、第一審被告の主張は失当である。
(六) 以上の諸点を総合すると、少なくとも、青森付近から雫石町付近までの全日空機の飛行経路は、ジエツトルートJ11L(第一審原告らの主張によればその中心線)からは西に寄つていたものと認められるが、第一審被告主張のように函館NDBから仙台VORへ向かう線上にあつたものとは認められず、少なくともこの線よりは東側であり、しかし、また、事故調査委員会の認定した別紙図面一の線よりも西寄りの線であつたとみるのが相当である。なお、それ以上の具体的な特定は、次に述べる空中接触地点の考察において明らかにされる。
三  空中接触地点
1  落下物の弾道計算
(一) 〈証拠略〉によれば、次の事実が認められる。
(1) 全日空機の機体の破壊分離した部分の内、垂直尾翼上部方向舵のサーボ機器は、別紙図面一二の〈7〉点に落下していた。政府事故調査委員会は、次に述べるような破壊の状況から、右サーボ機器が本件接触の初期に他の部分から分離したものと推定し、その形状や重量が大きいものであること等から落下軌跡の計算に適するものと認め、分離初期の運動条件をF・D・Rの記録(〈証拠略〉)に則つて、落下地点から逆に遡つて右サーボ機器の落下軌跡を計算した結果、本件空中接触位置を長山長円すなわち北緯三九度四三分、東経一四〇度五八・四分を中心とする東西一キロメートル、南北一・五キロメートルの長円の上空高度二万八〇〇〇フイートであると推定した。なお、同委員会の行つたF・D・Rの記録の解析からする推定接触地点は、右長円の中心から東へ一・五キロメートル、北へ一・三キロメートルの地点であつたが、同委員会は、右落下軌跡によつて推定された接触地点を結論として採用した。
(2) 全日空機と訓練生機との接触及び破壊の順序についての政府事故調査委員会の判断は、以下のとおりである。すなわち、訓練生機の右主翼フラツプステーシヨン二五付近後縁と全日空機の水平尾翼安定板ステーシヨン二〇〇付近前縁とが最初に接触し、この接触により、訓練生機の右主脚取付部付近の剛構造によつて全日空機左水平尾翼安定板ステーシヨン一〇〇から一八〇の前桁、後桁、昇降舵等が順次破壊されるとともに、訓練生機の右主翼は胴体中心線から約一・三メートルの所で破断された。この破壊が始まつた後、訓練生機は機首を右に振り、機首底部が全日空機の垂直尾翼後桁の安定板ステーシヨン二三〇付近の左側面と接触し、両機の接触部付近の構造が破壊された。
(3) 右に接触箇所と推定された部分の状況を少し具体的にみると次のとおりである。
(イ) 全日空機
左水平尾翼においては、安定板ステーシヨン二一四付近の上面外板上に赤色の線が機軸と四〇ないし四三度の角度で前桁から後へ内側に向かつて約六〇センチメートルの長さでついており、安定板ステーシヨン二一一付近の下面外板上に赤色の線が機軸と約四五度の角度で前桁後方四センチメートルの所から後へ内側に向かつて六センチメートルにわたりついていた。安定板ステーシヨン二〇六付近の前縁に赤色塗膜状の付着物があり、安定板ステーシヨン一八九から二一四付近の上面外板上に機軸と約四〇ないし四五度の角度で前記赤線と同方向の多くの擦傷があつた。また、安定板ステーシヨン一九〇付近で破断分離した翼端側の破片には、訓練生機の右主翼フラツプに使用されていたハネカム材と同種の細片が付着し、安定板ステーシヨン一〇〇付近の後桁フランジは後方へ曲り、安定板ステーシヨン一〇〇から一八〇付近の構造は小破片となつており、これら小破片の大半には多くの接触痕があつた。
なお、訓練生機の右主翼フラツプ後縁上面には、内側から長さ約七〇センチメートル、幅約六・五センチメートルにわたつて赤色の塗装がなされており、全日空機左水平尾翼安定板先端部破片の前記赤色付着物は訓練生機の塗膜と同一であり、また、全日空機左水平尾翼昇降舵の破片にも、訓練生機の塗膜と同一の赤色付着物があつた。
垂直尾翼においては、後桁の安定板ステーシヨン二三〇付近にある上部方向舵作動筒取付枠等の左側に接触痕があり、後桁の安定板ステーシヨン二二五付近より後方でかつ上の部分が破壊して外板は細片となり、その破壊した外板小破片には赤色塗膜状の付着物があつて、その内二破片のものは訓練生機の塗膜(機首底部にも赤色の塗膜がある)と同一と認められた。右前桁の胴体との取付部付近の破断部は、垂直尾翼が右へ倒れる方向に曲つており、安定板ステーシヨン一〇〇付近の右側ストリンガにも同方向の局部挫折があり、水平尾翼との取付構造は、左水平尾翼に後曲げの力をかけた方向に著しく変形していた。
そのほか、右水平尾翼、左右主翼、胴体等には、接触の痕跡はなかつた。
(ロ) 訓練生機
右主翼は、胴体中心線からほぼ一・〇メートル及び一・三メートルの位置で破断分離し、この付近の桁、外板等が破壊していた。胴体中心線から一・四メートル付近の構造は、後から前に変形するとともに、下から上に変形していた。胴体中心線から約一・四メートルの右主脚取付構造凹部には、訓練生機の右主脚カバー並びに全日空機の左水平尾翼の後桁前部外板、後桁上部、後桁後部外板、後縁材上部、昇降舵外板の各細片が奥から順に入つており、なお、その内、後縁材上部の細片は、昇降舵ステーシヨン一三六から一四七付近に対応した部位のものであつた。右主翼下の燃料タンクには接触の痕跡はなかつた。
胴体においては、機首とくに底部の破損が著しく、機首底部の着陸灯、機首パネルの破片等に青色付着物があり、その内二破片のものは、全日空機垂直尾翼の青色塗膜と同一と認められた。前脚は、その取付部が破壊し、胴体から分離していた。発動機には、全日空機の尾翼に使用されていたハネカム材及びゴムシールと同種の細片が入つていた。
そのほか、左主翼、尾翼、機首部分を除く胴体には接触を示す痕跡はなかつた。
(4) サーボ機器は、全日空機の垂直尾翼後部の安定板ステーシヨン二五〇付近の上部方向舵取付部分にあり、上部方向舵作動器と連結し、アクチユエータをコントロールする機器で、ボルトで固定され内蔵されているものである。
(5) 全日空機機体の落下地点の分布状況は、別紙図面一二及び別表一三のとおりであつて、左水平尾翼の破片及び垂直尾翼の一部とくに上部方向舵付近の破片は〈6〉、〈9〉、〈11〉ないし〈13〉、〈16〉ないし〈20〉、〈22〉、〈23〉、〈26〉の地点すなわち雫石町市街の東方に東西にわたつて散在し、胴体、主翼、右水平尾翼、発動機等の機体の主要部分の重量物は右のグループとは離れて、〈28〉ないし〈35〉、〈37〉、〈38〉に、垂直尾翼の大部分〈27〉、〈36〉とともに、雫石町市街東南方矢櫃川東岸に集まつて落下していた。また、訓練生機の機体の内右主脚は〈1〉に、右主翼は〈8〉に落下していたほか、それ以外の機体の大部分は雫石駅西方一キロメートル余の線路南側の地点〈2〉に落下していた。
なお、政府事故調査委員会は、サーボ機器のほか、参考のため、全日空機の上部方向舵のサーボ機器付近の垂直尾翼フイツテイング、左水平安定板後縁材の一部、左昇降舵バランスウエイトの一部についても同様に落下軌跡を試算し、前記推定と矛盾がない旨の結論を得たとしている。
(二) 〈証拠略〉、当審証人笹田栄四郎の証言によれば、同人は、右同様サーボ機器によつて弾道(落下軌跡)の計算を行つた結果、接触地点は長山長円を一部含みその東方から南方へかけての別紙図面一四の赤色表示の範囲であると推定したこと、この解析(以下「笹田解析」という)は、初期条件を〈証拠略〉のF・D・Rの記録(公差による幅を含む)により、サーボ機器の分離時期を接触時(一・四三秒)、五秒、一〇秒、一五秒、二〇秒及び二四秒の六通りに想定し、気象条件は〈証拠略〉により、高度は実高度に補正し、弾道係数を一〇ないし一〇〇LbS/ft2(これを求める式はW/S×CD。ただし、W=物体の重量、S=代表面積、CD=物体の低抗係数)として、右のように幅のある範囲を求めたものであることが認められる。
(三) 右各解析に対し第一審被告の提起する疑問点について検討する。
(1) まず、両機の接触状況について争いがあるが、前記(一)(3)のような全日空機左水平尾翼翼端における赤色条痕を含む擦傷条痕の存在、訓練生機の右主翼の破断、右主脚取付部に全日空機の構造部分がかみ込まれている状況から、最初の接触部分とそれに続く破壊、破断の経過に関する前記(一)(2)の判断は首肯し得るところである。第一審被告は、赤色擦傷痕の存在を争い、原審証人鷹尾洋保の証言中には、同人が全日空機左水平尾翼の破片を見たときには赤色の線は見えなかつたとし、また、その他の擦傷痕も接触時についたものではなく、破断後他の物にぶつかつてできた傷である旨の部分があり、〈証拠略〉中にも擦傷痕の原因に関する政府事故調査委員会の見解を疑問とする意見があるが、赤色条痕の存在は前記(一)掲記の証拠に徴して否定し得ないところであり、また、多数の擦傷痕が同一方向についている状況からして、前記(一)(2)の推定に合理性がないとはいえず、右証言及び〈証拠略〉の記載は採用しがたい。また、第一審被告は、右推定のとおりとすると、全日空機左水平尾翼安定板ステーシヨン二〇〇付近に衝突しながら、そこから一四インチ離れた同二一四付近に赤色条痕がついているのは不合理であり、右尾翼先端部の上面と下面の両方に赤色条痕が存在することも説明がつかないといい、〈証拠略〉記載の荒木浩の供述もこの点については明確な説明をしていないが、訓練生機がかなりのバンク角をとり、かつ両機の機軸が進行前方で交差する方向で衝突したことは、〈証拠略〉に明らかであり、前記認定によれば、全日空機の左水平尾翼先端は安定板ステーシヨン一九〇付近で切断され、訓練生機の右主翼も破断されていたのであるから、その破壊の過程において、訓練生機右主翼のフラツプが切れてここに全日空機左水平尾翼安定板が喰い込んだまま、訓練生機主脚取付部の剛構造が全日空機左水平尾翼を破壊して行く間、前者のフラツプ後縁部が後者の上面と下面を擦つたことが考えられ、他方、前記のごとく、訓練生機の右主翼フラツプ後縁上面には内側から長さ約七〇センチメートル、幅約六・五センチメートルにわたつて赤色塗膜が施されていたのであり、〈証拠略〉によれば、同機のフラツプステーシヨン二五付近で主翼上に機体中心線と平行に引いた線におけるフラツプの奥行は約二〇インチあるものと推認されるので、喰い込んだ右フラツプ後縁部が、全日空機左水平尾翼の上面と下面を擦ることによつて、その安定板ステーシヨン二一四付近の上面外板上と同二一一付近の下面外板上にその赤色塗膜がついたことは考えられることである。〈証拠略〉記載の不明確な部分も、前後の供述内容からすると、とつさに記憶を喚起し得なかつたにすぎないと解され、〈証拠略〉によれば、〈証拠略〉記載の判断も、結局右の趣旨に解することができる。
(2) 次に、全日空機の垂直尾翼後部の上部方向舵付近と訓練生機の機首底部の各破損の状況、とくに相互にその部分に相手方機の塗膜が付着していた事実からすれば、両機の右部分が衝突したことも疑いのない事実と考えられる。もつとも、〈証拠略〉は、訓練生機の右主翼が全日空機左水平尾翼安定板ステーシヨン一九〇付近でこれを切断して行つて、後者の後桁の剛構造の所で、そこを支点にして回転して機首を右に振り、全日空機垂直尾翼上部にぶつかつたとするのに対し、第一審被告は、そのような位置で回転すると、訓練生機の右主翼から機首までの長さと全日空機の左水平尾翼の長さからして、右の箇所でぶつかることはない旨主張するが、荒木供述も、回転の中心が次第に移動していくというのであつて、右支点で固定された状態で回転を考える必要はなく、全日空機の左水平尾翼先端が破断、分離して行き、訓練生機の右主翼も破断、分離して行く過程において、右支点で回転の力を与えられ、かつ、回転の中心が移動しながら、訓練生機の機首底部が全日空機垂直尾翼後部の上部方向舵付近を打撃したものと考えることも可能であり、〈証拠略〉の記載もそのような可能性を含むものと解される。
(3) 第一審被告は、全日空機の上部方向舵のサーボ機器は、垂直尾翼内部にボルトで固定されているので、最初の接触で分離するはずはないと主張する。しかしながら、同機の上部方向舵付近の外板が細片となつて分離していることは前記のとおりであり、〈証拠略〉によれば、破壊は接触と同時に起き、接触によりサーボ機器は初め方向舵の方に押し込まれ、若干遅れてゆすぶられて外へ出て来たものと推定されるところ、垂直尾翼の大部分が胴体等に近い所(前記〈27〉)に落ちていたにもかかわらず、比較的重量の大きいことが右証言から認められるサーボ機器がそれよりはるかに北側に落ち、また、より軽いと考えられる小破片がそれより東側に落ちているという状況からすると、サーボ機器は、接触の当初ではないとしても、墜落の比較的初期に分離した可能性が強いと考えられるところであり、笹田解析が、サーボ機器の分離時期を接触時からその後二四秒(別表一四の二によれば、F・D・Rの記録の内垂直加速度に異常な乱れが現われるまでに要した時間ということであろう)までの範囲内に入るとしたことは、その限りにおいて不合理のかどはない。
(4) 第一審被告は、上部方向舵作動器がサーボ機器とほとんど同一場所、僅か一〇メートルの至近距離に落下していたことから、サーボ機器のみによる弾道計算を争うのであるが、〈証拠略〉によれば、笹田解析においては、サーボ機器のみ、上部方向舵作動器のみ及びこの両者が一体となつたもののそれぞれの弾道係数を求めたところ、三者がほぼ同様の数値を示し、二〇ないし四〇LbS/ft2となつたこと、したがつて、弾道係数を前記(二)の範囲にとつてした解析の結論には、サーボ機器と上部方向舵作動器とがいつ分離したかは影響を与えないものであるとしていることが認められる。
(5) 〈証拠略〉によれば、笹田解析の用いた計算式(〈証拠略〉に参考文献として掲げられたマチソン「飛行中の分解事故の解析」の数式)には誤りがある旨が東京大学工学部航空学科教授加藤寛一郎によつて指摘されていることが認められるが、〈証拠略〉によれば、笹田は、右指摘の当否はさて措き、右加藤が正しいとする計算式を用いて計算しても、それによつて得られる接触地点の範囲は、笹田解析で示された接触位置である別紙図面一四の赤色表示の範囲よりも北へ二四ないし四三メートル、西へ六三ないし七一メートル動くにすぎず、したがつて、右計算式の相違は笹田解析の結論に大きな影響を及ぼすものではないとしていることが認められる。
(6) 〈証拠略〉によれば、有元務は、全日空機の飛行方向、サーボ機器の分離時期等について笹田解析と全く異なる前提に立つても、各破片等の実際の落下地点の分布を説明し得るとしていること、すなわち、接触後全日空機が真東に水平(俯角零度)飛行中高度四〇〇〇メートルの地点(ほぼ、雫石町市街の西方下川原付近上空と思われる)で尾部破壊を起こし、尾翼の一部とくに左昇降舵の一部(〈26〉)、上部方向舵の一部(〈20〉)、垂直尾翼フイツテイングの一部(〈6〉)等が東方の遠方へ落下し、次いで全日空機が高度三〇〇〇メートルの地点(雫石駅東南東約四〇〇メートルの地点上空と思われる)で、サーボ機器を南から東六〇度の方向へ二〇度の俯角で落としたとすると、実際の落下地点に落下することとなるとしていることが認められる。しかし、右意見において仮定された、全日空機が高度四〇〇〇メートルまで降下した後、真東へ向け水平飛行中初めて尾部破壊を起こしたという前提事実は、前記認定の接触状況、後記の目撃証言等から窺われる接触後の全日空機の飛行形態からは到底想定しがたいものであり、したがつて、このような現実性の乏しい前提に立つて、落下地点の分布状況を説明し得るといつても、右意見は、笹田解析の合理性を動かすには至らないものというほかはない。
(四) 政府事故調査委員会のした落下軌跡の計算及び笹田解析は、接触後の全日空機の飛行態様を〈証拠略〉のF・D・Rの記録(別表一四の一)によつて想定したのであるが、右記録値の正確性について更に検討を要する。
(1) 〈証拠略〉によれば、次の事実が認められる。
(イ) 全日空機に装備されていたF・D・Rの構造、機能は以下のようなものであつた。すなわち、記録が表示されるテープ(ステンレス箔)は、サプライ・スプールから数個の軸を廻つてテークアツプ・スプールに巻き取られるようになつており、その途中で、回転する軸のカムがバーを介して、垂直加速度、機首磁方位、指示対気速度、指示高度(以下この項では「指示対気速度」「指示高度」をそれぞれ単に「速度」「高度」という)をそれぞれ示す四本のアームを押してテープを打刻させるものであつて、各アームはそれぞれの計測機器から伝えられる電気信号によつて作動している。右カム軸は一秒間に一回転し、その間に垂直加速度のアームは一〇回、他の三本のアームは一回打刻するようになつており、テープの動く長さは一時間に六インチ、一秒間に〇・〇四二ミリである。テープには一分ごとにマークがついているほかは、時間、時刻の記録はなく、したがつて、各打刻の時刻は一定の基準点を定め、そこからのテープの動いた長さを測つて判断することとなる。
ところで、右のテープの送りについては、テークアツプ・スプールが常に一定の張力をかけてテープを引張ることになつているが、いくつもの軸を巻いている関係でテープには僅かな緩みがあり、また、テークアツプ・スプールに張力をかけるバネが、ある程度テープが巻かれると少し緩み、モーターが動いてまた張力をかけ直すという作動があるため、張力に強弱が生じ、そのため、テープ上の時間の経過には一時間に四、五秒の誤差が生じ得る。他方、アームは円弧状に動くので、四本のアームが常に同時に打つとは限らず、各データの打刻が必ずしも一直線上に並ばないため、データの読み取りに当たり一、二秒の誤差が生じ得るし、アームを作動させる電気の電流、電圧も変化しないとは断定し得ない。
(ロ) 喜多規之は、政府事故調査委員会の参考人としてその委嘱を受けて全日空機のF・D・Rの記録の読取りを行つたが、その際、後記の接触推定時後の最初の打刻以後についても、前記の通常の経過どおりテープが一秒間に〇・〇四二ミリメートルの割合で送られたという前提で、テープの距離によつて読取つた数値は、別表一四の二(〈証拠略〉。いわゆる笠松別表)のとおりとなつた。すなわち、同委員会は、垂直加速度がプラス一・一Gを示した時を接触後最初の打刻と推定したが、その直前の打刻を〇秒とし、速度、高度、機首磁方位についてもこれと同時点の打刻を〇秒とすると、いずれの記録も〇秒から次の打刻までの間が飛んでおり、とくに速度は〇秒の次が四・五秒分の距離の所で三つ打刻されているなど、数秒間の打刻が乱れている。しかるに、事故調査委員会が採用したF・D・Rの記録は、別表一四の一(〈証拠略〉)のとおりであるが、これは、垂直加速度を除く三種のデータについては、推定接触時以後の打刻の乱れは、接触時の衝撃により、前記のようなテープの巻取りの機構のモーターが作動し、瞬間的にテープの張力が増して、テープが急に動いたために生じたものであつて、アームの打刻自体は正常に一秒間隔でなされていたものと推定し、これに基づき、テープ上の打刻の間隔如何にかかわらず、別表一四の二の各記録値を一秒ごとに配列し、二六秒後までを図示したものである。しかし、別表一四の一でも、同一四の二でも、垂直加速度の記録は、一〇分の一秒ごとにも一秒ごとにもなつておらず、別表一四の二におけるSEC〇から一六個目のSEC二三・二の時点におけるマイナス三・三Gを、別表一四の一では二一秒後に置いているが、その理由は明らかにされていない。
(2) しかしながら、垂直加速度は暫く措き、他の三種のデータが別表一四の一のとおりと認められるかどうかは疑問であり、また、別表一四の二の表示のとおりとみることにも十分な根拠があるものとは認めがたい。すなわち、
(イ) 当審証人有元務は、右の推定接触時以後の打刻の乱れについて、テープは正常に送られていたが、ある時間打刻がなかつたものと考える方がつじつまが合う旨証言しており、打刻が欠けた理由については同証人も分らないとしているものの、その可能性を否定する資料も見当らない。
(ロ) 右打刻の乱れが、テープの送りの乱れによるものとすれば、三種のデータについて影響は概ね同一であるのが自然であると思われるが、別表一四の二においては、推定接触時以後数秒の打刻が三種まちまちであることが明白であつて、例えば、速度については、SEC〇の次にSEC四・五の記録が三個あり、SEC〇から七回目の打刻がSEC八・三であるのに対し、高度については、SEC〇の次が同四・八、同七・〇と大きく飛び、同八・三が四回目になつており、また、機首磁方位については、SEC〇、同三・八、同四・五と続き同八・〇が五回目に来ている。このような相違は、前記(1)(イ)のアームの動きから生ずる誤差の範囲に収まるものとは到底考えられない。〈証拠略〉によれば、右の速度のSEC四・五の三個の記録はテープの同一箇所に重複して三回の打刻が確認されたことによるものであり、これに対し、高度のSEC四・八の箇所に三回位重複して打刻がなされているようにも見えるが、別表一四の二では、これを一個として表示したものであることが認められる。しかし、そうだとしても、速度と高度の記録が合致するとはいいがたいし、機首磁方位については、同一箇所の重複打刻があるかどうかも明らかでない。
(ハ) もつとも、別表一四の二によれば、速度、高度の各SEC八・三及び機首磁方位のSEC八・〇から各一六個目の打刻の時刻は、それぞれSEC二五・六、同二六・〇、同二五・七と近似し、かつその間いずれも、約一秒前後のずれはあるものの、概ね一秒に一回の打刻がなされているものと認められ、なお、その間、速度は次第に増し、高度は次第に急激の度を加えて降下していて、墜落の傾向を現わしているものとみられるから、右の約一六秒間は、テープの通常の動き又はアームの正常な作動が回復していたものとみることができる。しかし、それにしても、最初の乱れによる各項目間の時刻の違いは解消されていない。
(ニ) 〈証拠略〉によれば、航空機の飛行の経路角(上下の進行方向と水平線のなす角)を求める方法として、ある時点における経路角を初期値とし、その後の垂直加速度及び真対気速度の値に基づいて経路角の変化率を計算し、これを積分する方法(A計算方式)と、真対気速度及び降下(上昇)率の値に基づいてペクトル計算によつて求める方法(B計算方式)とがあり、データが正確なものであれば、両計算方式によつて得られた結果は、近似性を示すはずであるが、有元が事故調査委員会の採用したF・D・Rの記録(別表一四の一)に基づいて右両計算方式により試算した結果には、近似性がみられず、右記録値自体に疑問があると指摘していることが認められる。右指摘は、前記(ロ)のような打刻の乱れからすれば、当然のことともいうことができる。
(ホ) 更に、機首磁方位については、別表一四の二においてSEC八・〇以降、少しずつ西へ偏る状況を呈しており、これについて原審証人荒木浩は、接触時に垂直尾翼に左側から打撃が加えられたのであるから、機首は左(東)へ転ずるはずであるが、接触により垂直尾翼が右へ曲げられた状態になつたため、かえつて右(西)に機首を向けたものと説明できる旨証言する。しかし、前記認定のとおり、全日空機の左水平尾翼及び垂直尾翼は接触時ないしその後早期に破壊されたものと認められ、急激に降下して行く傾向は前記(ハ)のとおり別表一四の二からも窺われるのであるから、同機は、接触後早期に、操縦不能となり、かつ、機体の重心におけるバランスを失して異常な姿勢となつたものと推認され、荒木供述も、垂直尾翼が機能を失つた後は横すべりして行くとし、しかし、その方向は分らないとしているのであり、したがつて、このような場合に、なお機首磁方位から風による偏流修正を差引いた方向へ飛行していたもの、すなわち、機首磁方位が機体の現実の進行方向を表わしていたものと認定することは困難であるものと考えられる。
(3) 別表一四の二における垂直加速度の記録については、マイナス三・三Gに至るまでの負の垂直加速度が増加して行く傾向は事実を表わしているとしても、その時間的推移については、別表一四の二に記載されたSECのみの数値を採り上げた理由も、これを別表一四の一のような時刻に割り振つた理由も明らかでなく、時刻と記録値との対応を確認し得る資料はない。
(4) 〈証拠略〉によれば、笹田において、別表一四の二をその表示の時刻どおりに読んで求めた全日空機の接触後の航跡は、別表一四の一に基づいて得られた航跡より約七〇〇メートル南北方向に伸びそれだけ飛行距離が長くなるので、それに基づいてサーボ機器の落下地点から遡つて求めた接触位置は、別紙図面一四の赤色表示の範囲よりそれだけ北へ拡がる可能性があるとしていることが認められる。しかし、F・D・Rの記録値が別紙一四の二のとおりであることも疑問なのであるから、これに基づく笹田解析の修正についても、依然として、その前提が問題とされるところである。
(五) 以上のとおり、笹田解析は、その解析の手法自体に合理性が認められるにしても、その基礎としたF・D・Rの記録値が正確なものとは認められず、したがつて、サーボ機器等分離の初期条件も明らかでないのであるから、結局解析の結論自体も正当なものと認めることは困難であり、更に、次にみるとおり、目撃証言との整合性にも欠けることを考えると、笹田解析は、接触地点の認定の資料として採ることはできず、ひいては、事故調査委員会の接触地点の認定も、直ちに採り得ないものというべきである。
2  目撃証言
(一) 事故調査委員会は、本件事故における全日空機と訓練生機との接触地点を探るに当たり、目撃証言を一応は検討したものの、その不確実性の故として全く採り上げなかつたことは、〈証拠略〉に徴して明らかである。もとより、一般に高空を飛ぶ飛行機を地上から目撃した場合、その位置を目撃者の証言によつて索定することは困難であることは言うまでもないが、さりとて複数人が様々な時点、角度からその方向などについて証言する場合、これらを慎重に吟味することなく一概に不確実な資料として排斥するのもかえつて科学的な態度とはいえない。さればこそICAO(国際民間航空機構)の航空機事故調査マニユアル〈証拠略〉も目撃証言の有用性を指摘しているのである。そこで以下、順次本件における目撃証言を検討する。
(二)(1) 〈証拠略〉によれば、当時角舘の小学校教諭で、付近一帯の地理にも明るく、視力も一・五の橋本裕臣は、小学生を引率して駒ヶ岳に登山し、駒ヶ岳頂上の東方であつて、標高一五八三メートルの三角点(横岳)の約三〇〇メートル北東に当たる標高約一五四〇メートルの通称焼砂地点において休憩中、岩手山の頂上の東側の方から南進して来る大型機を、次いで南の方から右飛行機よりも近い側を北進して来る小型機を見、この北進機が自分の真東の方面に来て右旋回をしたと思つたらすぐに白い煙が見え、そのあと一機は白い煙を吐いてだんだん低くなり東南東の山に吸いこまれるように見えなくなり、もう一機は風に流されるように雫石の町の北側に落ちて行つたと供述し、後日司法警察員が橋本の立会のもとに同人の目撃方向を測定したところ、二機が重なるように見え、白い煙がぱつと上つたと指示した方向は、真方位約九七・五度(磁方位約一〇五度)、仰角約二三度であつて、その方向は別紙図面一二の〈2〉(別紙図面六の〈11〉の青色の線)の方向であつたことが認められる。もつとも、橋本が、南進の大型機が飛んで来た方向の岩手山の頂上の東側と述べたのは、昭和四六年八月月一〇日付検察官に対する供述(〈証拠略〉)においてであるが、同月二八日の現地における司法警察員に対する指示説明(〈証拠略〉)においては、大型機が網張温泉の上空の方から飛んで来たといい、更に昭和五三年六月二〇日防衛庁の法務部担当官に対する説明(〈証拠略〉)においては、三角山と小高倉山との中間よりやや小高倉山に近い所に大型機を見、それが南下して高倉山の上を通過した時にキラキラ光る物が見えたとし、大型機の位置が葛根田川よりはるかに西であつたことは間違いないと述べて、同人の供述内容が大型機の航跡を次第に西寄りとする方に変遷していることが認められる。また、橋本は、最初に見た時の大型機の大きさについても、〈証拠略〉ではタバコの箱位といい、〈証拠略〉では約二〇センチメートルと述べている。ところで、これら高空にある飛行機の所在地点や航跡を地上において見る場合、その距離感には、客観性が乏しいといわざるを得なから、これらに関する右橋本の供述はたやすく信用することができず、したがつて、また、前記測定値中仰角の数字は、さほど高い角度ではなかつたという程度の大まかなものとして受け取るべきであるが、接触地点と覚しい当初の白煙の見えた方向に関するものは、これを疑う理由がなく、概ね正確なものと見てよいし、それが葛根田川の少なくとも西側であつたことを示唆する限り、留意されてよいと考えられる。
(2) 〈証拠略〉によれば、右駒ヶ岳登山グループの一人である角舘公民館主事の今野利明は、橋本とともに焼砂で休憩中、「ぶつかつた」という声で見上げたところ、真東の方の上空に花火でも上げたような白い煙が浮かび、その付近から太陽光線で反射してキラキラする細かい紙片のようなものが南東の雫石町方向に流されるように落下して行くのを見、また初めに見た白煙の付近から幾らか黒みがかつた煙がまじつたような煙が雫石町の方向になびくように落ちて行くのが見えたこと、同人が最初に白煙を見たとして指示する方向は、別紙図面一二の〈3〉(別紙図面六の〈12〉の青色の線)の方向であつたことが認められる。
(3) 〈証拠略〉によれば、右駒ヶ岳登山に参加した中川小学校六年生の児童の内、大和田克紀は、焼砂において、東側に向かい、左側の上空をマツチ箱位の大きさに見える飛行機が南方雫石町の方向へ進んで行くのを見、より小さい飛行機が太陽の光で時々ピカピカ光りながら飛んで来て東の方へ曲がつたように見えた後、雫石町の南の方の山のような所の上空で突然飛行機の破片のような物がピカピカ光つて落ちるのが見え(その方向は別紙図面六の〈8〉の紫色の線)、この付近で黒い物がくるくる回るようになつて真つすぐ下に落ちて行き(その場所は同図面の〈8〉の青斜線の円の付近)、もう一つの黒い物が雫石町の南東の山の中の方に落ちるのを見たと供述していること、同じく小学六年生の小玉均は、焼砂において、東に向かつて左側の北の方からタバコの箱位の大きさに見える飛行機が、南へ飛び雫石町の上空あたりに来たときに急に白い煙を吐き、右の方に静かにどんどん低くなつて行き、そのほかに、初めキラキラ光つてから、赤い炎のようなものを出しながら真つすぐに落ちた物がある(その方向は別紙図面六の〈9〉の線)と供述していることが認められる。
〈証拠略〉によれば、同じく小学六年生の田口美由喜は、焼砂において、岩手山の頂上の東側の方から南向きに飛んでいるタバコの箱位ないし長さ一二センチメートルの万年筆と同じ位の大きさの飛行機を見、それが真正面の月の下まで来たときに白い煙を吐き、幾らか斜めに下がつたように見え、次いで今度は黒い煙を吐きながら、右手の雫石と教えられた方向の小さな三つの山の真中の山の手前の方に落ち、それから上を見ると、最初に白い煙を出した所と落ちた所との丁度中頃にキラキラ光る物が落ちて行くのが見えたと供述していることが認められる。しかし、〈証拠略〉によれば、本件事故の時刻の焼砂から見た月の方向は、真南から東へ四五度五三分三四秒一四、水平面から真上へ一八度四〇分九秒二四であつたことが認められ、右供述のように月の下で白い煙を吐いたとすると、極めて低い角度となり、それがどの段階のものかは明らかでないというべきである。
(4) 以上焼砂関係については、各目撃証言者の供述中今野供述は、接触後からの知見であり、大和田、小玉、田口の各供述は、いずれも未だ小学校六年生で一帯の地理は橋本から教示されていた(前記各供述から窺われる)ところに基づいた観察である点で、前記のような条件を備えた橋本供述(ただし前記の限定を付する限り)の信用性を超えることはできないと考えられるので、この橋本供述に依拠すれば、別紙図面六記載の〈11〉の青色の線が、両機接触の方向と考えられる。
なお、右各目撃供述中、飛行機を見たときの大きさの印象をタバコの箱位、マツチの箱位又は万年筆位と述べる部分には、高空飛行中の飛行機の距離感にかかわるが故に、前記のごとくさほど信用は置けないものと考えられ、これによつて距離を判断する資料とすることも適当ではない。
(三)(1) 〈証拠略〉によれば、中川幸夫(当時中学二年生)は、事故調査委員会が接触地点と推定した長山長円の中心から西へ約〇・五キロメートル、北へ約一・五キロメートルの地点にある雫石町立西山中学校校庭において、ソフトボールを観戦中、何気なく振り向いたところ、講堂の南側屋根中央の尖つた所の少し北側の上空に岩手山の方から来たと思われる万年筆位に感じられる飛行機が見え、講堂と平行になる方向で雫石町の方へ向かつているように感じられ、それが講堂南側中央の尖つた付近に来た頃、その右側上方からピカピカ光る物が見え、間もなくいつしよになつたようになつて北から来た飛行機だけが見え、それが丁度講堂南側の技術室の真上に来た頃、白い煙のような物がパツと広がるように出、その付近からピカピカ光る物が沢山落ちて来、そして黒い煙を出した大きい飛行機の胴体のような物が雫石町の市街の東側にある「七ツ森」に寄つた方に落ちて行き、また真南の同市街の方に飛行機の翼のような物がくるくる回るように落ちて行くのを見、その後その方向の高所に落下傘が見え、これが大きな胴体のような物が落ちて行つた方向(後記測定の結果によれば磁方位一六〇度)に流れるように落ちて行つたと供述し、警察官が中川の立会、指示によつて測定した方向は、初めに北から来た飛行機とピカピカ光る飛行機らしい物がいつしよになつたように見えた方向が、磁方位三一二度(別紙図面一二の〈4〉の方向)、仰角五五度、白い煙を出した方向がほぼ真西僅かに南寄り(真方位二六七度位)であり、したがつて、二機が重なるように見えてから白煙を発するまでの方向は別紙図面二の「D」として図示した範囲であつたことが認められる。
(2) 〈証拠略〉によれば、防衛庁担当官らが、昭和五〇年九月二三日、中川幸夫に対し、ヘリコプターを飛ばして、当時の飛行方向、角度についての指示を求める実験をしたところ、同人が両機が重なつたように見えた位置として指示した方向は、真方位(磁方位は真方位に七度四〇分を加える)三二〇度五〇分ないし三二六度四五分、仰角は三〇度一三分ないし三八度二〇分であり、白煙を発した位置として指示した方向は同二八〇度〇四分ないし二八四度四五分、仰角は四五度四〇分ないし五五度一五分であり、右白煙を発した位置までの水平距離を算出すると、別紙図面二の「E」区域に入ること、なお、右実験においては、中川が立つていたと指示する地点は警察官に対する指示の際と防衛庁担当官に対する指示の際とで隔たりがある(約三メートル)としてその両地点に基づいて行われたこと、また、中川が原審証言に際し、二機が重なつて見えた方向として指示した方向は、磁方位三三一度四六分(真方位三二四度〇六分)であつたこと、以上の事実が認められる。
(3) 〈証拠略〉によれば、右のヘリコプターを飛ばし地上の固定物と関連させて説明を求めることは、ローパスといい、ICAOの航空機事故調査マニユアルにおいても有効な方法として推奨されているものであることが認められる。しかし、中川について行つた右実験は、目撃後四年余を経てなされたものであり、しかも中川自身がかなり身長が伸びたことは〈証拠略〉によつても明らかであり、したがつて当然物を見た感じも異なつて来ることが考えられるので、腰を屈めて当時の眼の高さにおいてヘリコプターを見、それと屋根との関係位置によつて記憶を喚起してみても、記憶が正確に再現されるものとは保し難く、このことは、たとえば、仰角一つをとつてみても、両機が重なつたように見えた位置が、司法警察官と防衛庁担当官とに対する指示において、五五度と三〇度一三分ないし三八度二〇分というごとく隔つていることに徴しても、高度、距離に関するものはとくに然りといわなければならない。また、警察官、検察官に対する指示、供述も、さきに述べたと同様、高度、距離に関するものについては正確性を担保するものがなく、むしろ、岩手山の方から来て雫石町の市街の方へ行つたように感じたという第一印象は、漠然としたものであるにせよ、それなりにそう遠くない所の上空を飛んでいたことを示唆するものとも考えられる。
しかしながら、警察官、検察官に対する指示、供述中、大きな飛行機(全日空機と目される)の方位、方向に関するものは、事故直後のもので、さきのローパスによつても大筋は裏付けられていると認められるので、基本的にこれを採用するにやぶさかではない。以上によれば、おおよそ前記「D」の範囲内でしかも西山中学校寄りの同校から北西の方向で接触事故が生じたこととなり(ちなみに、〈証拠略〉には、中川供述に基づく方向線の記載はない)、したがつて、また全日空機の飛行経路としても、岩手山付近から雫石町付近上空にかけては、少なくとも長山長円の中心より〇・五キロメートル以上、事故調査委員会の判断過程においてF・D・Rの解析から推定された飛行経路(〈証拠略〉によれば、喜多がF・D・Rを解析したところから推定した飛行経路は、長山長円の中心から約一・五キロメートル東寄りであつたことが認められる)より二キロメートル以上、ジエツトルートJ11Lより四キロメートル以上、いずれも西へ寄つたコースであつたことが知られる。
(四) 〈証拠略〉によれば、関山尚三、佐藤吉則、川和田秋男は、当時いずれも警察官であるが、外三名とともに、本件事故当時、岩手山登山のため網張温泉に向け歩行中で、同温泉に二キロメートル余手前の岩手県岩手郡雫石町大字長山第五二地割字岩手山七の九の標高約五一〇メートルの地点(別紙図面六の玄武温泉北方の赤丸の地点)に来た時に事故を目撃したこと、関山は、飛行機の音を聞き、振り仰いだところ、南の上空に飛行機雲のような白煙が薄い雲の間から垂直に下がつているのを見、それが五、六秒間降下した後急に東の方に曲がり始め、その瞬間キラキラ光る物が飛び散るのが見え、その飛び散つた中心付近から薄黒い煙が吹き上げるように見え、それが東の方に尾を引いて落ちて行き、松林の蔭に見えなくなつたこと、次いで同人が最初の白い飛行機雲状の雲が下がつたところを見たところ、それに沿うようにキラキラ光る物が回転しながら落ちて行くように見えたこと、そして、同人は、目撃地点を確認するための目標物を求めたところ、北の稜線上に三角形の山の頂上が見え、それと同人の立つている地点と黒い煙が見えなくなつた地点とが一直線上にあることを確認したこと、後日岩手県警察本部警察官が関山らの立会のもとに目撃方向を測定したところ、関山の指示による、初めて白煙が垂直に下がるのを見た方向は磁方位一八〇度、キラキラ光る物が飛び散つた方向は同一七三度、薄黒い煙が落下して見えなくなつた方向は同一六三ないし一六四度であつて、これらの状況は別紙図面六のとおりであり、最初に見た白煙の方向は同図面表示の「目撃者による推定接触位置の範囲」(ちなみに、この別紙図面六の原図〈証拠略〉は、本件事故当時全日空の現地対策本部の事故調査係であつた山下憲一―当審では第一審原告らの輔佐人となつている―が目撃者の供述調書とその添付図を基に、地図上に線引をし、符号を記し、右下隅に表を付したものである)の西限を画する線に合致すること、佐藤吉則の目撃状況もほぼ同様であつて、南の方に細い白い飛行機雲状の雲を見、それが左の方に流れるような状況になつたところ、カメラのフラツシユのような青白い閃光を見、何か飛び散つたような状況になり、黒い煙が落ちて行つたのを見、その時に黒い煙の先端が松林のかげに入つたところを写真に撮影したこと、川和田秋男の目撃状況も概ね同様であつて、飛行機雲が上から下に真直ぐにかなりの距離で線を描き、それが瞬間的に切れたと思つたとたんにキラキラと光る降下する物を見、その下方に飛行機の胴体らしい物(ただし、必ずしも胴体らしい物が実際に見えたという趣旨ではないようである)が黒い煙をパツと出し、その中からキラキラと光る物が散乱して落ちて行くのを見、その方向に煙のような物が見えて林の蔭に消えて行つたというものであること(ただし、〈証拠略〉記載の川和田の供述中目撃方向の測定結果について述べる部分の内、最初に飛行機雲を目撃した方向が磁方位一八〇度であつた―これは昭和四六年八月一七日現地に臨んだ以上三人がコンパスによつて確かめて一致した角度であるとする―との点は関山の供述と一致するが、胴体らしい物が爆発した方向が一六三度から一六七度、煙が林に消えた方向は一七三度ないし一七四度とする点は、〈証拠略〉に照らすと、両者を取り違えて記述したものと推測される)、以上の事実が認められる。なお、〈証拠略〉には、関山が最初に飛行機雲状の白煙を見た角度を仰角二二度とする供述部分があるが、同人の供述によつても角度の記憶自体は必ずしも明確なものではないというのであり、しかも、五、六秒間にわたつて降下した白煙のどの部分を見てののかは明らかにもされていないので、右供述部分は採用し得ない。
ところで、右関山の目撃供述と、大川徳満が盛岡市猪去地区から落下中の航空機の煙を撮影した写真であることに争いのない〈証拠略〉に写つている煙との関連であるが、〈証拠略〉によれば、右〈証拠略〉写真中の煙、〈証拠略〉の菊地慶が雫石土地改良事業所(別紙図面一七の「菊地」と記した点(ちなみに、この図面は、前記山下が関係者の供述等に基づいて地図上に線引き等の書き込みを加えたものであることが、弁論の全趣旨によつて窺われる))から撮影した写真中の煙、〈証拠略〉の上野三四二が御所農協(別紙図面一七の「上野」と記した点)から撮影した写真中の煙と、関山の目撃中の後半の尾を引いて落ちて行つた薄黒い煙とは同一のものであつて、概ね別紙図面一七表示の「正しい煙の位置」の上空付近、すなわち全日空機の機体主要部分が落下していた地点の内北端付近の上空にあつたものと認められる。
以上によれば、関山ら三名が最初に見た白煙、換言すれば接触時に最も近い両機の方向は、別紙図面一七表示の「正しい煙の位置」より西寄りであつて、磁北一八〇度の方向、すなわち別紙図面六の「〈1〉〈2〉」と記された磁方位一八〇度の線と目するのが相当である。
(五)(1) 〈証拠略〉によれば、上中屋敷正人は、雫石町駒木野地区矢筈橋西側の町道西駒線工事現場(別紙図面六の〈3〉点)において衝撃音を聞き道路上から空を見上げたところ、真上の空に南北方向の白い飛行機雲を見、その方向を後日測定したところ磁方位一七〇度(右図面〈3〉から出ている短い矢印)、仰角八〇ないし八五度であり、右の白い煙が短く切れて南の杉の木に隠れるまで伸びて行き、だんだん薄黒つぽい煙が出て(その仰角は約四五度)、三本の杉の木の内の背の低い木の蔭に見えなくなつたが、その木の方向は磁方位一五〇ないし一六五度(右図面〈3〉から出ている長い方の矢印)の方向であつたことが認められる。
(2) 〈証拠略〉によれば、雫石町長山地内の西山牧野農協ビル建築工事現場(後記西山中学校の隣)で作業中の三本正道、松嶺誠仙、黒井武雄、前田豊一は、いずれも接触後の墜落途中の状況を見たこと、その内、三本は、「飛行機が落ちる」と叫ぶ人の声で、工事現場二階南側の東の窓から空を見上げたところ、飛行機が白い煙を吐き小松付近の上空を飛んでいて、次第に高度を下げ、雫石町の上空辺でキラキラする物を沢山落として左へ曲つて行き見えなくなり(その方向は別紙図面六の〈4〉の紫色の線)、次いで右の方の高前田の上空付近で飛行機が二、三回回転しながら黒煙のような物を吐いて落ちて来るのが見え(その方向は同図面の〈4〉の赤色の線)、また、パラシユートも同方向に見えたと供述していること、松嶺は、「飛行機がぶつかつた」という声を聞いて、一番高い足場に上つて空を見たところ、頭の真上から少し西側の上空に大きな飛行機が黒い煙を吐きながら南の方へ一直線に飛んで行つて、前方の林の中に見えなくなり(その方向は同図面の〈5〉の紫色の線)、またこの飛行機から少し離れて右側の方を進んでいた初め破片らしく見えた物が高前田付近上空から落ちて行き(その方向は同図面の〈5〉の赤色の線)、パラシユートもいつしよに見え、そのあと頭上から南の方へ黒い煙が、また北の方は白い煙が進んでいたと供述していること、前田は、大きな音を聞いてから二、三分して空を見たところ、高前田付近の上空から赤黒い煙を吐いた飛行機が二、三回回転して真つすぐに落ちて行き(その地点は同図面〈6〉の赤斜線の円)、その東側を落下傘が落ちて来、また、飛行機が落ちた東側の空からピカピカ光る物が二、三枚落ちて来た旨供述し、黒井も概ね同旨の供述をしていることが認められる。
また、〈証拠略〉によれば、山本愛子は、西山中学校校庭においてソフトボールの競技中球の行方を追つて見上げたところ、雫石町の街の手前の辺の上空からキラキラする物がたくさん落ちて来て、その上空に黒い煙が見え、それがだんだん低くなつて山に落ちて行き(その方向として雫石市街から少し東寄りを指示)、右の方の上空を見たら飛行機が翼を上に、胴体を下にして落ちて来るのが見え、その手前の上空からパラシユートが落ちて来た(右飛行機とパラシユートの落下方向としてほぼ真南を指示)と供述していることが認められる。
(3) 〈証拠略〉によれば、佐藤千代志は、雫石駅西方にある雫石土地改良事業所(別紙図面六の〈7〉の地点、別紙図面一八の「佐藤」と記した地点。ちなみにこの図面の書き込みについては、前掲別紙図面一七について述べたところと同旨であると思われる)において、駒ヶ岳の噴火のような爆発音を聞いた後、東の窓から空を見上げたところ、両翼の見える飛行機が左の翼を下にして、事業所の上空(高度約二〇〇〇メートル)を南々東に進んでいるのが見え、また、外へ出て見たら事業所の上から落下傘が落ちて来るのを見たと供述し、大久保咲枝は、雫石町役場玄関前の戸外(別紙図面六の〈13〉の地点、別紙図面一八の「大久保」と記した地点)で、爆発音を聞いて、頭上を見ると、二〇センチメートル位に見える飛行機が後から煙を吐いて東南方へ飛んで行き、見ている内にそれがバラバラになつたように細かい物が落ち出し、吐いている煙が黒くしかも炎を混じえたようになつて御所方面に飛んで行き、役場の屋根の蔭になつて見えなくなり、他方、その間に真上にジエツト機がきりもみ状になつて落ちて来、その内その飛行機の付近から落下傘が開き、右ジエツト機と落下傘は線路を隔てた雫石川の方に落ちて行つた旨供述していることが認められる。
(4) 〈証拠略〉によれば、国鉄雫石駅長である同証人は、同駅事務室でドカンという音を聞き、上りホームに出て見たところ、西北の上空に黒い煙が見え、次いで西方の線路北側から自衛隊機が音を立てて線路の上を越えその南側の方向に落ちて行くのを見、その後落下傘が西又は西北の方向から駅南東の方向へ向かつたのを見たことが認められ、また、〈証拠略〉によれば、同駅に勤務する同証人は、上りホームにいて、自衛隊機が西の空を落下して行くのを見、その後落下傘が西から東へ斜めに流されるように降下して来て、駅の南側の方に真つすぐに降下して行くのを見たことが認められる。
(5) 〈証拠略〉によれば、岩泉徳左ヱ門は、雫石駅西南方一キロメートル弱の雫石川北岸(別紙図面一八の「岩泉」と記した地点付近)で釣をしていて、「どかん」という大きな音を聞き上空を見上げたところ、北方約四、五〇〇メートルの所(雫石高校の方向)の上空に炸裂したような白い煙が見え、そこから若干離れた地点に飛行機が飛んでいて、それには尾翼付近がなく、両翼付近から胴体位の太さの真白い煙を吐いて、ヒユルヒユルという異常音を発し、同人の真上を通り過ぎて行き、間もなくブーンと軽い音がして、胴体の尾の方が少し分解し、更にそのまま南進して、同人から三、四〇〇〇メートル離れた地点の上空に行つたとき、右翼が切れ飛び、右に傾くとともに大きな音を発し、次いで完全に分解し、そこから黒と白の点々とした物やアルミ箔の破片のような物が降るように南昌山の西斜面あたりに落ちて行き、その後間もなく頭上付近から別の小さい飛行機が落ちて来て、どちらかの翼が切れ飛び、ゆるやかにきりもみ状態の回転を始め、同人の所から四〇〇メートル位北西の田圃の中に落ち、また、それが回転を始めた時にそこから一個の物が飛び出し、それがやがて落下傘とわかり、同人から東方の見える場所の田圃に降りたと供述していることが認められる。
(6) 〈証拠略〉によれば、佐々木正志は、雫石小学校プールサイドにおいて、爆発音を聞き見上げたところ、南東方雫石駅上空付近の高さ五〇〇〇メートル位の所に円型の白煙があり、その白煙の中から一条の白煙を引きながら南東方へ流れて行く飛行機らしい相当大きな物体を発見し、それがそのまま高度を下げて南東に消えて行き、円型の白煙の中からキラキラ光る物が数多く落ちるのが見え、また、他の教師の声で西の方を見ると、五、六〇〇メートル上空に片方の主翼のない小型ジエツト機らしい飛行機一機が木の葉が落ちるようなきりもみ状態で落ちて来、その後から落下傘が降下して来るのを発見し、また、その前に同人の所から約二〇メートルの地点に車輪が落ち、右のきりもみ状態の飛行機は西の方に落下したが、先の煙を吐いた飛行機は北方から飛来したように見え、自分の頭上で衝突したように思えた位である旨供述していることが認められる。
(7) 〈証拠略〉によれば、加藤昌幸は、安庭小学校校庭において、東方上空に、東南東方向に五条の白煙を吐いて落ちて行く主翼と胴体のついた飛行機を見、その上空に破片らしい物が幾千となく乱舞しながら落下するのが見え、その一秒位後に飛行機の胴体らしい直径一メートル位、長さ一〇メートル位の物が落下して来、その直後補助タンクらしい物が二個落ちて来たが、この落下物は学校に落ちる危険を感じたと供述していることが認められる。
(8) 〈証拠略〉によれば、高橋サキは、安庭小学校西方約五、六〇〇メートルの共同採草地で作業中、大きな音で上を見たところ、ほぼ真上に灰色の煙があり、その中から二つの塊が落ちて来、その外に煙を出した飛行機が東の方、安庭小学校を経て妻の神方面に高度を下げながら飛んで行き、煙の中からキラキラ光る物が数多く落ち、その後に西の方に落下中の落下傘を見たが、右の妻の神方面に飛んで行つた飛行機は西方の駒ヶ岳の方から飛んで来たように思つたと供述していることが認められる。
(9) 〈証拠略〉によれば、雫石町鶯宿ゴルフ場でプレー中であつた石塚昭は、同ゴルフ場内の標高二四七・九メートルの三角点の付近において、雫石駅南西付近の上空の相当広範囲にわたつて無数の黒つぽいジユラルミンの破片のような光る物が散らばつているのを見、その中から南東方の安庭小学校方面に向かい黒つぽい物が薄い黒みがかつた煙のような物を引いて一〇段階位に高度を下げるようにして行くのを見、桂部落と安庭小学校の中間位の東側山中に落下したように見え、他方、右物体の五分の一位の黒い物体が、最初の物体が散らばつていた付近からほぼ垂直にゆれるような感じで落下して行くのを見、そのあと、最初に物体が散らばつていた付近から少し下方に落下傘が一個雫石町の市街地の方に流されるような状態で落下して行くのを見たと供述していることが認められる。
(10) 〈証拠略〉によれば、隈は、全日空機を発見して直ちに市川に回避操作を指示し、右旋回をしてすぐ左に切返して見たところ、訓練生機は機体の一部を失つた感じで回りながら落ちて行き、全日空機は機首を二〇度位下げ、主翼の付根付近から白い煙状の物を吐きながら、教官機の上方を通過して行つたことが認められ、また、〈証拠略〉によれば、訓練生機は、衝突後二回位回転した後次第にきりもみの前兆状態となり操縦席前方両側下部から火を吹き、きりもみで墜落して行つたことが認められ、両機の機体ないしその破片の落下地点は前記1(一)(5)認定のとおりであつて、〈証拠略〉によれば、全日空機は左右の水平尾翼が順次破壊分離して次第に降下して行く過程において空中分解をし、胴体と主翼の大部分が前記の場所に落下したものと認められる。
(11) 以上の事実に照らせば、前記(1)ないし(9)の雫石町ないしその周辺における目撃者らはいずれも接触後墜落途中の状況を目撃したことが明らかであるが、その内(2)の西山牧野農協ビル建築工事現場における目撃者らが高前田の上空付近から落ちて来たのを見たという物、山本が右の方の上空から胴体を下にして落ちて来るのを見た飛行機、(3)の大久保がきりもみ状で落ちるのを見たというジエツト機、(4)の雫石駅の目撃者の見た飛行機、(5)の岩泉が北の方に落ちるのを見たという小さい飛行機、(6)の佐々木の見た小型ジエツト機らしい飛行機、(7)の加藤が見た胴体らしい落下物、(9)の石塚が見た小さい方の垂直に落ちて来た物体が、いずれも訓練生機であることが明らかであるとともに、その墜落の状況、方向に関するこれらの各供述は概ね正しいものと見ることができ、そしてこれら供述によれば、(10)の隈供述をあわせ考えると、訓練生機は、前認定の胴体や右主翼、尾翼などの主要部分が散在していた雫石駅より西へ約一キロメートルの地点よりそう遠くない北方からきりもみ状態で落下して右地点に至つたものと認めることができる。してみると、その方向は、甲第七七号証の「〈1〉〈2〉」の線にほぼ合致し、少なくともこの線を大きく東にずれることは考えられない。
また、右(1)の上中屋敷の見た飛行機、(2)の内、三本、松嶺が初めに見た煙を吐いて南進する飛行機、(3)の佐藤の見た飛行機、大久保が初めに見た煙を吐いて飛んで行つた飛行機、(5)の岩泉が初めに見た飛行機、(6)の佐々木が見た煙を引いて南東方へ行つた飛行機、(7)の加藤が初めに見た白煙を吐いて落ちて行く飛行機、(9)の石塚が見た安庭小学校方面に向かつた物体がいずれも全日空機であることは疑いがなく、この点に関する各供述は、細部はともかく、大筋においては墜落の方向、態様を誤りなく述べているものと看取するに難くない。そして、これら供述によれば、全日空機は、おおむね矢筈橋西側を南下し、次第に南々東方向に進路を向けつつ雫石町の市街地の上空かそのやや西寄りを通つて、雫石駅南々東三、四キロメートルの「町場」付近上空で空中分解し、飛散落下したものと推認することができる(もつとも、(8)の高橋は、全日空機に該当すると思われる飛行機が西方駒ヶ岳方面から飛んで来たように思つたと供述するが、右各供述に対比し、措信しがたい)。
(六) なお、〈証拠略〉によれば、隈は、事故後の松島飛行場管制所との交信において、一四時二三分五七秒頃、事故発生場所を盛岡市の西一〇マイルあたり、高度二万七〇〇〇ないし二万八〇〇〇フイートであるとの趣旨の通報をしたことが認められ、盛岡市の中心部(県庁付近)から西へ一〇マイルの地点は雫石町市街地の少し西になることが明らかである。しかし〈証拠略〉によれば、隈は、同交信において、一四時〇三分三九秒には、盛岡の西の一〇マイルの山中あたりが訓練生機の墜落場所である旨通報したことが認められるので、隈は、右落下地点で真上を事故発生場所として前記通報をしたにすぎないと解され、したがつて、隈の通報をもつて事故発生場所を確知する資料とすることはできないというべきである。
3  落下傘の軌跡
(一) 〈証拠略〉によれば、市川の落下傘は、雫石駅南東約三〇〇メートルの別紙図面二の〈5〉の地点に着地したことが認められる。
〈証拠略〉によれば、市川は、本件接触後自機が次第に降下しきりもみ状態になつたとき、脱出装置を作動させようとしたが届かず、いつたんはあきらめかけたものの、操縦席の天蓋が飛んでなくなつているのに気付き、安全ベルトを外したところ機外に放り出され、次いで自ら落下傘のデイリングを引いて二秒位で落下傘を開傘させ、あとは落下傘を操縦することなく、風に任せて放心状態で降下し、前記の所に着地したものであることが認められ、なお、同人は、開傘から着地までは、感じとしては、一、二キロメートル位風に流されたと供述していることが認められる。
(二) 〈証拠略〉によれば、海法泰治は、市川の装備していた落下傘の特性と風の資料(〈証拠略〉による)とから求めた右落下傘の降下軌跡は別紙図面二の青点線のとおりであるとしていること、そして、右落下傘の開傘時期は明らかでないものの、海法は、市川の供述により開傘時の高度を二万二〇〇〇フイートから二万フイートと推定していることが認められる。
前記2の目撃者らの供述によつて認められる全日空機がかなり降下した後に訓練生機が墜落した状況を考えると、訓練生機がきりもみを始めるまでにより緩やかに落下していた時間も若干あつたものと考えられ、他方、同機がきりもみ状態に入つた後は、増大する負の垂直加速度に耐え得る時間も限られたものであろうこと(このことは、全日空機操縦者らについて後に更に検討する。もつとも、市川のように既に相当の訓練を受けた戦闘機操縦者は通常人よりも垂直加速度に対する耐性が強いことは当然であろう)を考えると、開傘時はかなり高度であつたという見方も肯けないではないが、海法の推定のように、開傘時期が二万フイート以上の高度であつたと認めるに足る根拠は、市川の供述に徴してもこれを見出すことはできない。他方、海法鑑定中の落下傘の降下軌跡は〈証拠略〉の風向、風速の変化を忠実に辿つたものの如く窺われるが、同表に掲げた風向、風速は平均値であると推測され、風は、とくに地表に近いほど小さな変化をしながら吹いていることは経験則上明らかであるから、落下傘のように風に流されて移動する物が平均的な風向、風速どおりに動くと断定することには疑問がある。
(三) 次に、目撃者の供述について検討するに、前記2(五)(3)のとおり、佐藤千代志は雫石土地改良事業所において、大久保咲枝は雫石町役場玄関前において、それぞれ真上から落下傘が落ちて来るのを見たと供述し、〈証拠略〉によれば、菊地慶も、佐藤とともに、右土地改良事業所にいて、その上空付近から落下傘が落ちて来たと供述していることが認められ、「真上」という語にはかなりの幅を考える必要があるにしても、かなり近い所の上空を意味するものと考えられ、前記青点線のような遠い所を指すものとは考えられない。第一審被告は、この点について、菊地が落下傘を写真撮影しようとして、太陽の中に入つてまぶしかつたので、ひさしの下に入つて撮影したと供述していること(〈証拠略〉)をとらえて、その方向を論ずるが、対象物と太陽とが一直線にならなくとも、同時にフアインダーの中に入れば、まぶしくて撮影できないことは明らかであつて、菊地の供述もその趣旨に解され、かえつて、ひさしが太陽の光を遮ぎることによつて、落下傘を撮影できたことは、両者が異なる方向にあつたことを物語るものである。また、前記同(2)の西山牧野農協ビル建築工事現場付近の目撃者らは、落下傘が高前田付近上空にあつたものと見ており、西山中学校における山本の目撃(同(2))、同中川の目撃(前記2(三)(1))も真南の方向であつた。
他方、前記2(五)(4)の雫石駅における目撃者は同駅の西又は北西の方向から落下して来る落下傘を見たとし、同(6)の雫石小学校における佐々木は、西の方五、六〇〇メートルの上空に落下傘が落下して来るのを見たとし、同(8)の高橋は、安庭小学校西方の採草地において、西の方に落下中の落下傘を見たとし、同(9)の石塚は、雫石駅南西付近上空から雫石町の市街地の方向へ流されるような状態で落下して行く落下傘を見たとしている。
同(5)の岩泉は、雫石川北岸にいて、頭上に近い所にきりもみ状態の飛行機を見、そこから落下傘が飛び出して、東方へ降りたと供述しているのであつて、右きりもみ状態の飛行機が同人の北西方へ落下した所も見ているのであるから、同所で北方を向いて見上げ、その前方ないし真上に近い所を落下傘が東へ流れたという趣旨に解され、前記青点線のように雫石川南岸を通り更に南へ迂回するようになつて南西方向から着地したという状況ではなかつたと推測される。
もつとも、〈証拠略〉によれば、吉村幸福は、雫石小学校小プール南側路上において、真西の空約六〇度の角度に落下傘を見、それを追つて雫石駅の東側へ出、踏切を南へ渡つて約二〇〇メートルの地点で見たところ、落下傘は、約三〇度の角度で西方から南東の方向へ同人の南側を降下して行き約一五〇メートル余先の水田の中に降りたと説明していることが認められる。しかし、右の説明は、事故後約七年を経た昭和五三年七月二〇日、防衛庁航空幕僚監部法務課職員の事情聴取に応じてしたものであることが認められ、落下傘が雫石小学校プールより西方から来たということ以外は、その角度等に関する陳述は採用に値しないものであり、しかも、右説明によつても、海法鑑定の描いた軌跡のように、いつたん南へ廻り込んで南西側から着地したという状況は窺われないのである。
(四) 以上に検討したところによれば、右目撃者の供述等を総合して、落下傘は雫石町の市街地より西方から降下して来たことは疑いないが、当初は北方から南へ向かい、次第に東へ向きを変え、市街地南側を東南東へ向かつて進み、着地したという可能性が強いものと考えられ、落下傘の軌跡に関する海法鑑定の推定は採用することができない。したがつて、この海法鑑定をもつて、接触位置を定める資料とするのは困難である。
4  結論
既に認定した双方、とくに全日空機の飛行経路、前記目撃証言の検討、機体破片の分布状況等を総合すると、本件接触地点は、長山長円の中心から真方位約三三〇度、距離約一・九キロメートルの地点である駒木野地区矢筈橋西詰から更に北西(真方位三一五度)へ一・五キロメートルの雫石町西根の八丁野地区北側の地点(おおよそ北緯三九度四四・五分、東経一四〇度五七・一分)を中心とする半径一キロメートルの円の範囲の上空約二万八〇〇〇フイートの所であり、その西の限界は、ジエツトルートJ11L(第一審原告らの主張によればその中心線)から約六・七キロメートルの地点となるものと認めるのが相当である。なお、右地点は、ジエツトルートJ11Lの保護空域の範囲内であり、かつ、松島派遣隊の定めた飛行制限空域内にあることが明らかである。
四  視認可能性、接触の予見・回避可能性
1  接触前の相対飛行経路
(一) 自白の撤回について
第一審原告らは、教官機及び訓練生機と全日空機との本件接触前約三分から接触時までの相対飛行経路が別紙図面五の一、二のとおりであると主張し、第一審被告は、原審において、いつたん右主張事実を認める旨の陳述をしたが、その後右陳述を撤回して、これと異なる主張をするに至つたところ、第一審原告らは、第一審被告の右陳述の撤回が自白の撤回に当たるとして、異議を述べた。しかし、第一審原告らの右相対飛行経路の主張は、主要事実である隈、市川の過失の判断の前提となる間接事実の主張にすぎないと解されるので、これを認める旨の陳述には、自白としての拘束力がなく、これを撤回することは許されるものというべきである。
(二) 政府事故調査委員会の推定
(1) 第一審原告らの右相対飛行経路の主張は、政府事故調査委員会の推定に依拠するものであるが、〈証拠略〉によれば、同委員会は、まず接触前四秒から接触までの訓練生機と全日空機との相対的位置関係を右のとおり判断するに当たつては、両機の破損の状況とくに擦傷条痕等から接触部位、接触時の姿勢、接触状況を前記三1(一)の(2)及び(3)のとおり認定し、これに基づき接触時の交差角(両機の機軸の方向の交差する角度)を七度として、甲第一号証の第一一図の一、二(別紙図面五の一、二)及び第一二図の一、二を作図したものであることが認められる。そして、〈証拠略〉によれば、市川は、最後の左旋回を開始した後、教官機の左側に出るべく、自機のバンク角を六〇度位に深め、速度をマツハ〇・七二位から速めつつ高度を下げ、最も低い位置でマツハ〇・七四位に達し、その時点でバンク角を二〇度位にゆるめたが、その時、右後方四時から五時の方向やや下方に全日空機を発見し、左旋回して上昇すべくバンク角を四〇度ないし五〇度位に深めて機首を上げかけたところで、後方から突き上げられるような衝撃を受けたと供述していることが認められる。荒木供述によれば、事故調査委員会は、訓練生機の速度がマツハ〇・七四としても緩降下中であることから水平方向への進行速度をマツハ〇・七二として、ベクトル計算をすると交差角は約五度となるが、降下か上昇かが明確でないので、一〇度までの幅をもたせ、しかし、その中で五度に近い方の可能性が強いとして中間値よりやや小さい数値をとつたものであること、このように接触時における接触両機の進行方向を機体の傷痕をもとにして解析することは、ICAOの事故調査マニユアルでも認めている一般的な方法であることが認められ、これによれば、事故調査委員会の右推定には合理性があるものと認めることができる。
(2) 〈証拠略〉によれば、事故調査委員会は、接触前四秒より以前については、全日空機が真対気速度四八七ノツト(マツハ〇・七九)で直進飛行をし、教官機は真対気速度四四五ノツト(マツハ〇・七二)で、接触前四四秒から二九秒までの一五秒間は直進飛行、その後は三〇度バンク角による水平左旋回飛行を行い、訓練生機と真対気速度四三三ノツトないし四五七ノツト(平均四四五ノツト)で、機動隊形の飛行要領に従い教官機に追従したものとし、左旋回開始時における訓練生機と教官機との間の水平距離を五五〇〇フイートとして、接触前四秒以後の軌跡をそれ以前に遡らせて、前記甲第一号証第一一図の一、二を作図したものであることが認められる。そして、〈証拠略〉によれば、隈の供述は、教官機がマツハ〇・七二を維持し、左旋回は終始バンク角三〇度で行つていた旨、また同人が訓練生機を自機の七時ないし七時半の方向に見た時、そのすぐ後方に全日空機を発見したものである旨一貫していることが認められる。しかし、右の直進飛行が一五秒間というのは、前記のとおり隈が一〇秒ないし二〇秒間と供述していることからその中間値をとつたものであることが荒木供述から明らかであるが、その数値が必ずしも正確なものであるとは認めがたく、また、市川が機動隊形の標準的飛行要領を著しく逸脱した事実はないとはいえ、これを正確に遵守し得たとも認められないから、事故調査委員会の推定した訓練生機と教官機の位置関係は、接触時から遡るにつれて精度が低いものとなり、大まかな傾向を示すものとしてしか採用し得ないものとなることは、前記のとおりである。
しかしながら、相対的位置関係は、後記のような関係各機の見張り義務、視認の有無・可能性、回避の可能性を判断する前提として必要なものであり、これらの判断のためには、必ずしも接触前三分近くまで遡る必要はなく、左旋回開始前の直進時間を隈の供述の最小限度である一〇秒間として、接触前三九秒以降の相対飛行経路を確定すれば足りると解される。そして、事故調査委員会の右推定には、著しい誤りはないものと認められるので、他に的確な証拠がない以上、これを用いることもやむを得ないものというべきである。
(3) 〈証拠略〉は、事故調査委員会の右推定を批判するが、その批判の骨子は(イ)市川の供述する全日空機の見え方が考慮されていないこと、(ロ)甲第一号証第一二図の一では接触前四秒からの関係位置の変化が曲線となるべきところを直線をもつて描いており、また、市川が全日空機の視認後自機のバンク角を深めたことによる位置の変化を考慮していないこと、(ハ)機体の損傷状況からの交差角の推定に合理性がないことである。(イ)については後記(三)に見ることとして、右(ロ)、(ハ)について検討する。
(ロ)については、〈証拠略〉によれば、甲第一号証第一二図の一は、緩やかな曲線運動を短時間に限つて表わすには直線で示しても大差がなく、かえつて簡明であり、また、市川が全日空機を視認してから二秒間にバンク角を深めても、実際に航跡の変化となつて現われるのはごく僅かであるから、考慮に入れないでよいものとして作図されたものであることが認められ、この点は首肯し得るものというべきである(仮に訓練生機の軌跡を曲線をもつて描くとすれば、接触時の位置を動かさず、全日空機寄りに湾曲した線となるべきであるが、視認、回避の状況に影響するほどの差異が生ずるとは考えられないし、接触直前の変化についても、後記のとおり視認してから操縦桿の操作を開始するまでに回避操作の判断をする時間があることを考えると、実際の横方向への移動は僅小なものと推測される)。
(ハ)については、擦傷条痕の存在が認められることは前記のとおりであり、これによつて交差角を推定すること自体の妥当性を疑う理由も認められない。なお、〈証拠略〉中には、〈証拠略〉の写真に見られるような全日空機左水平尾翼先端部の破断面は、剪断面ではなく、引張り力によつて切れた状況であるとする部分があるが、荒木供述によれば、前記認定のような両機の翼がかみ込んで破断して行く過程においてつく傷は、鋭利な刃物で切つたような明白な切断面ではなく、破断部分の組織が破壊されることも当然であつて、破断面の状況は、事故調査委員の前記判断を左右するものではないことが認められる。
(三) 鷹尾・黒田鑑定
(1) 鷹尾・黒田鑑定(〈証拠略〉)は、市川の供述する全日空機視認の状況とくに〈証拠略〉の二の同人の昭和四六年八月一〇日付検察官に対する供述調書(八・一〇調書)添付の図面(別紙図面一〇)に基づき、接触前四秒から視認時に至つて両機のなす交差角を〇・八一度ないし一・七四度と推定し、それより以前の訓練生機の飛行諸元も同一と見て、接触前一〇秒からの相対飛行経路を推定したが、その結果は別紙図面九のとおりであるというのである。
(2) したがつて、右鑑定の当否の判断に当たつては、市川の視認状況が右のような解析の基礎とするに足る程度に具体的かつ正確なものであるかどうかを検討しなければならない。市川の視認した瞬間についての供述を日付順に追つてみると、〈証拠略〉においては、市川は、相手機の左主翼の三分の二位が自分の機の下になつたように隠れて見えない状態であつたと述べ、添付図面として、胴体は先端から主翼の付根よりかなり後まで、左主翼の付根部分若干、右主翼の先端部分が見える絵を描いており、〈証拠略〉においては、視界に入つた民間機は左主翼の半分位と胴体の後部半分位の以外の部分であつたと述べ、〈証拠略〉においては、最初眼に入つた民間機の機体は、ノーズの部分、胴体のほぼ中央部、左主翼の付根部分と右主翼の先端部分であつて、ノーズと機体中央部の中間は自機の右主翼に隠れて見えず、民間機の後部や左主翼の付根以外の部分も自機の機体の蔭になつて見えなかつたと供述して、別紙図面一〇のとおりの図を描いており、〈証拠略〉においては、胴体の先端から主翼付根付近までの内、前から四分の一位から四分の二位までの間は自機の右主翼のために見えず、左主翼の付根部分若干を残した大部分と胴体の後部等は見えなかつたと思う旨述べ、胴体の主翼付根より少し後から後方部分が見えなかつた部分であるとする図を描いている。
こうしてみると、当初の供述と後の供述とが全く同一でないことは明らかであり、これは、当初の大まかな供述を後日より詳細具体的にしたものとして一貫しているという見方もあり得るものと思われるが、時日を経過し供述をくり返している間に記憶中に推測が混じることもあり得ると考えられるので、後半の供述の方がより詳細であるが故に正しいものと断定できるものではない。一般に、異常かつ衝撃的な事象の視認の記憶が鮮明で永続するものであることは肯定し得るが、それは、最初に認めたときの大よその印象としてであつて、必ずしも、細部にわたり詳細に認識し、記憶されるものとは限らないと考えられ、いわんや、視認直後の供述よりも、くり返し再現され具体化された供述の方が正しいとする根拠はないというべきである。
(3) しかも、右各証拠中の市川の供述は、全日空機視認時において、訓練生機は速度をマツハ〇・七二から〇・七四に上げ、バンク角を一五度ないし二〇度としていたが、視認後四〇度ないし五〇度に深めたと述べているものであるのにかかわらず、〈証拠略〉によれば、鷹尾・黒田鑑定は、視認時ないし接触直前の訓練生機の速度を四一六ノツトから四三四ノツト、バンク角を零度ないし三度としていることが認められ、〈証拠略〉に照らすと、これは、あくまで別紙図面一〇の視認図を基本とし、市川の供述中これと合致しない部分を合うように修正した結果であると窺われる。しかし、数値に関する市川の記憶は必ずしも正確ではないといつても、このような相違とくにバンク角の相違は、市川の感覚的な記憶とも隔りがあると考えられ、ひつきよう、右鑑定は、市川の供述の一部のみを採用し、それが他の部分と背馳することを承知したうえでの推定であると考えられる。
したがつて、相対飛行経路に関する鷹尾・黒田鑑定の意見及びこれに沿う前掲証人鷹尾、同黒田の各証言部分は採用し得ないものというほかはない。
(四) 接触前一〇秒以前の相対飛行経路についての第一審被告の仮定主張
第一審被告の接触前三〇秒からの相対飛行経路についての仮定主張は、接触前一〇秒から接触までの相対飛行経路が別紙図面九のとおりであることを前提として、これを遡らせたものであるが、右前提を採り得ないことは前記のとおりであるから、右主張はその余の点について判断するまでもなく、採用し得ない。
2  視認可能性の判断要素
(一) 〈証拠略〉によれば、視認の可否は、視程、目標物の大きさ(視角)、目標物の明るさ及びそれと背景とのコントラスト、目標物の動きの有無、視力、視線の動き、特に心理的要因として目標物の存在についての予測の有無等の諸要因によつて定まるのであるが、空中における航空機相互間の視認については、視角と視野との関係が重要であること、本件接触事故当時、接触地点付近の高空における気象状況は、雲が全くない晴天で、視程も一〇キロメートル以上であり、また、長山長円上空高度二万八〇〇〇フイートにおいて、太陽は方位角二四四度四二分、仰角五三度一四分にあり、本件関係各機相互間の視認を妨げない位置にあつたこと、各機の操縦者の視力は、隈が遠距離視力左右各一・二、近距離視力右一・一、左一・〇、市川が遠距離視力左右各一・〇、近距離視力左右各一・一、全日空機の機長川西三郎が遠距離視力左右各一・五、近距離視力左右各一・二、同副操縦士辻和彦が遠距離視力左右各一・五、近距離視力右一・二、左一・〇であつて、いずれも視力は良好であつたこと(航空法施行規則別表第四身体検査基準参照)、その他視認の妨げになる要因はなかつたこと、以上の事実が認められる。
(二) 〈証拠略〉によれば、視力一・〇とは、所定照度と距離の検査条件のもとで視認し得る最小視角が一分の者の視力であることが認められる。〈証拠略〉によれば、一般的に理想的条件のもとにおいて目標物を視認し得る最小視角は〇・七分(高さの視角)×〇・七分(横の視角)≒〇・五分2であるが、コントラストを強くし、予め目標位置を与えた実験においても、視角〇・八分で発見率が五〇パーセント、視角一・四分で発見率一〇〇パーセントという結果も出ており、実際の空中における視認に当たつては良好な条件のもとでも、少なくとも〇・五分2の四倍(二分2)の大きさが必要であるとされていること、更に防衛庁航空実験隊がF―86F戦闘機の教官搭乗による実際の飛行において調査した結果によれば、接近機についての情報が与えられている場合に、小型機(主としてF―86F機)に対しては、五、六海マイルから、接近するにつれて発見可能性が上昇し、四海マイルで発見率三〇パーセント、三海マイルで同四〇パーセントとなり、これを視角の点から見ると、五、六海マイルの距離でF―86F機を真横(九〇度)から見た場合に三・五分ないし四分、四五度の交差角で見た場合に二・五分ないし三分であり、また、三海マイルの距離で真横から見た場合に七分、四五度の交差角で見た場合に五分であるが、F―86F機の胴体は三七・六×六・六平方フイートの長方形とみなし得るから、視角面積としては、三海マイルで四・四分2ないし八・六分2となり、前記の視認可能な最小視角面積〇・五分2の九ないし一七倍、通常の発見に必要な二分2の二ないし四・五倍となり、他方、大型機(主としてB七二七―二〇〇型機)に対しては、九・五海マイルの距離で四〇パーセントの発見率を示し、その場合の視角は真横(九〇度)から見て八分(面積視角六・八分2)、四五度斜め方向から見て六・五分(面積視角五・四分2)であつたこと、また、右実験隊が、接近機についての情報が与えられていない状態でこれを発見し得た事例について調査したところによれば、小型機では、四海マイルまでは発見可能性は非常に低いが、三海マイル(視角五分ないし七分)の距離から発見し易くなり始め、二海マイル(視角七・五分ないし一〇・五分)で約半数が発見されており、なお、編隊飛行を行つている小型機は単機より発見率が良く、平均約一〇パーセントの差があり、大型機については、六ないし七海マイルから発見し始め、五海マイル(視角一二分ないし一七分)で五〇パーセントの発見率となつていること、防衛庁航空幕僚監部監察官室が異常接近事例を分析した結果によれば、約六〇パーセントの事例が一海マイル以内の距離(視角は小型機で一五分ないし二〇分、大型機で六一分ないし八七分)で始めて発見されていること、黒田鑑定は、これら調査分析等の結果に基づき、他機を発見し易くなる視角は、(1)接述機について情報を得ている場合には、小型機について五分ないし七分(距離約三海マイル)、大型機について六分ないし八分(距離約一〇海マイル)、(2)接近機についての情報がない場合には、小型機について七・五分ないし一〇・五分(距離約二海マイル)、大型機について一二分ないし一七分(距離約五海マイル)であり、また、(3)外界に対する見張りの着意はあるが、他に注意を惹かれる対象のある場合には、二〇分(小型機で距離約一海マイル)からであり、(4)他に余程注意を奪われる目標物があつても、約六度(距離五〇〇フイート)からは衝突感が生ずるとしていること、以上の事実が認められる。
(三) 次に視野についてみるに、〈証拠略〉によれば、人の視力は、眼の網膜中心窩を通る中心視線から両側への隔りによつて異なり、中心視線から両側へ一〇度隔たると相当に低下し、両側三〇度からは急速に低下し、鼻側で六〇度、側頭側で七〇度を越えると著しく弱まるもので、一般に三〇度以内を中心部視野、それ以上を周辺部視野として区別していること、また、上下方向の視認能力は左右方向よりもやや低く、中心視線から三〇度を越えると視認はやや困難となり、六〇度以上では非常に見難くなること、視野の広さについては、頭部を固定し眼球のみを最大限に動かした場合に両眼視可能な範囲(注視野)は両側四〇度から六〇度までであり、片眼で僅かでも視認し得る限度は左右各一六五度であるが、頭部及び眼球を最大限に回旋させた場合の両眼視可能な範囲(実際注視野)は左右各一三二度に達し、片眼視可能な範囲は二三七度となること、もつとも、航空機の操縦室における最大視野は、窓枠、前方及び上方の計器類によつて限定され、更に自衛隊戦闘機乗員については、救命装備品等(ヘルメツト、ヘツドレスト、縛帯、酸素マスク等)により更に制限され、ヘルメツトの冠り方が標準的な場合には片眼視も一五〇度が限度であること、なお、F―86F機には、バツクミラーが前方風防上縁、操縦士の目から約四〇センチメートル、高さ一五センチメートルの位置に装備されていて、垂直方向一〇度一八分、左右方向三三度六分の視角を有するようになつているが、見張りのためにこれを活用し得る範囲は小さいこと、前記航空医学実験隊の調査に際し、F―86F機搭乗の教官について、接近する他機の情報を与えた場合の方向別の発見可能性を分析したところ、前方方向(零度ないし三〇度)における発見率は約五〇パーセントで、斜め前方左右各三〇度から六〇度までにおいては八〇パーセントを越え、真横では七〇パーセントに低下し、後方一二〇度以上では発見は著しく困難であつたこと、また、空中における見張りのための視線の動きは複雑であるが、水平方向への視線の早い移動の際には、途中にある目標物とくに水平移動方向から上下三〇度以上の位置にある目標物の発見は困難であり、動きの速度が一秒当たり五〇度位までは視認にそれほど影響はないが、それ以上の速度になると目標物を見落とす恐れがあること、以上の事実が認められる。
(四) 〈証拠略〉によれば、視認性を考えるには、コントラストすなわち目標物と背景の明るさの差が重要な因子であり、青空を背景として航空機の機体の内の翼下部の暗い部分(コントラスト〇・六)が明るい胴体反射(コントラスト三・〇)と同一の視認性を保つためには、大きさが約二倍であることを要し、しかも、機体の明るい部分から暗い部分への移動部においては、コントラストが零(背景の明るさと差のない部分)となるとされていることが認められる。しかし、本件においては、各航空機の位置関係から、コントラストの点で視認が著しく困難になる状況があつたとは、認めがたい。
3  自衛隊機側からの視認可能性
(一) 隈から全日空機に対する視認可能性
(1) 前記のとおり接触前の相対飛行経路を正確に確定することはできないが、視認可能性の前提としての相対飛行経路は、別紙図面五の一、二によるほかはなく、なお、右経路を前提としても、各時点における方向、視角等の数値につき、黒田鑑定書(〈証拠略〉)と事故調査報告書(〈証拠略〉)とでは若干の相違があり、これが生じた理由は明らかでないが、〈証拠略〉に徴し、主として前者に基づいて検討することとする。
〈証拠略〉によれば、隈から見て全日空機は、接触前三九秒から同三〇秒までの間、方向は右方約六七度から七五度の間、上方約七度から一〇度の間にあり、距離は約六・七キロメートルから約四・四キロメートルへと次第に接近し、視角は胴体が一六分二〇秒から二三分四七秒へ、翼が一一分一秒から一七分三四秒へと次第に増大し、以後次表のとおりとなつたことが認められる。

時刻
(接触前)
方向 距離
(キロメートル)
視角
右方
(度)
上方
(度)
胴体
(度・分・秒)

(度・分・秒)

二二秒 約九四 約一六 約二・八 〇・三三・四四 〇・三一・二八
二〇秒 約一〇〇 約一八 約二・五 〇・三六・二三 〇・三七・一八
一四秒 約一二六 約二六 約一・七 〇・四二・五九 一・一・五五

ちなみに、〈証拠略〉に掲げられた教官機から全日空機への方向等の数値は、次のとおりである。

時刻
(接触前)
方向 距離
(キロメートル)
視角
(分2)

右方
(度)
上下
(度)

三〇秒 七八 上一〇 四・三 八一
二〇秒 一〇六 下一一 二・五 一八〇
一四秒 一三〇 上三 一・八 五〇〇

右数値によれば、視野及び視角の点からは、前記の実際注視野と視認可能視角から見て、接触前三九秒から同一四秒までの間常に、隈にとつて全日空機は視認可能な状況にあつたことが認められる。
もつとも、前記のとおり、自衛隊戦闘機の乗員にとつては、装備等の関係から後方への視認範囲は制限され、実際の例においても、真横になると発見率が低下し、後方一二〇度以上の方向においては、発見は著しく困難になると認められ、当審証人別府芳は、頭を固定すれば左右各九〇度、頭を最大限廻してもせいぜい左右各一三〇度位しか見えない旨証言するが、そうであつたとしても、接触前三九秒から同三〇秒までの直進飛行中においては視認は容易であり、その後同一四秒までは次第に視野の点で発見し辛くなるが、なお発見は不可能ではなかつたと認められる。なお、黒田鑑定(〈証拠略〉)は、接近につれて次第に隈が全日空機を下からすなわち暗い翼下面を見上げるようになつて、コントラストが低下するとしているが、一方で視角が増大して行くのであるから、コントラストの点から視認が困難であつたとも認めるに足りない。
(2) 〈証拠略〉によれば、機動隊形の編隊飛行訓練においては、教官は、訓練生機が正しい隊形を保つて教官機に追従しているか否かを絶えず監視する必要があり、そのため水平直進飛行中も、教官の視線は、進行方向と、後方にある訓練生機との間を絶えず移動しなければならず、また、旋回時には、訓練生機が、教官機の斜め後方から反対側へ移るためその真後を通る間、教官の視界から消えるため、教官は、訓練生機を左又は右一五〇度(時計の五時又は七時)まで監視した後、一転して反対側の一五〇度(七時又は五時)の方向に訓練生機が現われるのを待つようになり、前方及び旋回方向と計器を見ることとの間の視線の動きが大きくかつ極めて早くなるので、前記のように、その間にある他の航空機を発見することが困難になることが認められる。
そこで、〈証拠略〉によつて隈から訓練生機の見える方向を見ると、接触前三九秒から同三〇秒までの間、右方約一三二度、上方約三七度、同二二秒に右方約一五〇度、上方約三五度、同二〇秒に右方約一五五度、上方約三六度、同一四秒に右方約一七二度、上方約三五度にあつたことが認められ、〈証拠略〉によつて認められる全日空機の方向との角度の差は、接触前三九秒から同三〇秒までは水平方向に約六五度から約五七度の間、上下方向に約二七度ないし約三〇度の間、同二二秒に水平方向約五六度、上下方向約一九度、同二〇秒に水平方向約五五度、上下方向約一八度、同一四秒に水平方向約四六度、上下方向約九度となる。ちなみに〈証拠略〉による隈から見た訓練生機と全日空機との水平方向の間隔は、接触前三〇秒に三八度、同二〇秒に二六度、同一四秒に一九度であり、上下の間隔も概ね二〇度の範囲にとどまつている。
ところで、黒田鑑定(〈証拠略〉)は、隈から見た全日空機と訓練生機との関係位置が〈証拠略〉のとおりであることを前提として、接触前三〇秒以前においては、隈の視線が前方から訓練生機へと速やかに移動するため、その移動速度と移動軌跡からの隔たりとから、全日空機の視認には困難性があり、その後同二二秒(訓練生機が前記監視の限界である一五〇度の位置に至つた時点)においては、訓練生機に注意を注いでいても、その左方に何らかの目標物の存在を知覚し得た可能性はあるものの、全日空機の翼下面のコントラストの低い面を見上げる形となる点、全日空機の視角の増加が著しくない点、自機の進行方向が刻々と変化している点、訓練生機が両眼視野から外れ、単眼視力に頼る結果、眼球の疲労も加味される点等のため、視認の困難性は、接触前三〇秒以前よりもかえつて増大し、同二二秒以後は、一転して左側に訓練生機の出現を待つこととなるため、衝突一、二秒前(右表5―2によれば、接触前二秒における全日空機の方向は左約一五八度、同六秒では右一七八度とほとんど真後)にしか全日空機を発見することができず、バツクミラーで捕捉し得るのも接触前六秒頃であるとしている。しかし、黒田鑑定の右意見は、教官の訓練生機に対する注視を第一義とし、その際に併せて(いわば偶々)全日空機をも発見する可能性を論じているにすぎないものと解され、他機の存在を予測して意識的に見張りをする場合には、視角、視野の点から、接触前三九秒から少なくとも方向一三二度(前記実際注視野)未満である同一四秒までは視認の可能性があつたことを否定するものでないことが明らかであり、後に判断するとおり機動隊形の飛行訓練に当たつては教官が全面的に見張り義務を負うことを考えると、隈が、訓練生機を監視するだけでなく、同機及び自機を含む編隊の周辺に対する見張りに注意を尽くしていれば、接触前二二秒まではもとより同一四秒までも、全日空機を視認することは可能であつたと認めるのが相当である。
(二) 市川から全日空機に対する視認可能性
(1) 〈証拠略〉によれば、市川から見て全日空機は、接触前三九秒から同三〇秒までの間、方向は右方約五七度から約四九度の間、下方約一・五度ないし約二・三度の間にあり、距離は約六・二キロメートルから約四・〇キロメートルに接近し、視角は胴体が一九分五五秒から三二分一五秒へ増大し、翼が八分五一秒から一三分九秒の間にあり、以後次第に右方の角度が増し、次表のとおりとなつたことが認められる。

時刻
(接触前)
方向 距離
(キロメートル)
視角
右方
(度)
下方
(度)
胴体
(度・分・秒)

(度・分・秒)

二〇秒 約七七 約二・五 約二・〇 一・七・一一 〇・二三・三二
一四秒 約八五 約二・七 約一・一 一・五七・〇七 〇・三九・四四
七秒 約九四 約三・四 約〇・四二 五・一七・〇一 一・四三・〇三

ちなみに、〈証拠略〉に掲げられた訓練生機から全日空機への方向等の数値は、次のとおりである。

時刻
(接触前)
方向 距離
(キロメートル)
視角
(分2)

右方
(度)
下方
(度)

三〇秒 五八 三 三・一 二一〇
二〇秒 八三 三三 一・四 一、〇〇〇
一四秒 九六 三四 〇・七 三、五〇〇
七秒 一一六 三三 〇・三 二四、〇〇〇

右数値によれば、視野及び視角の点からは、市川が全日空機を視認することは、接触前三〇秒において十分可能であり、その後は視野の点では次第に見辛くなつて来るものの、なお同七秒までは両眼視野の範囲内にあり、かつ、その間に視角は著しく大きくなつたことが認められる。
(2) 他方、〈証拠略〉によつて、市川から教官機の見える方向を見ると、接触前三九秒から同三一秒までは左方約四八度、下方約三七度にあり、同三〇秒の左方約五三度の位置から旋回に入つて同二〇秒に左方約一七・五度、下方約三五・五度、同一四秒に左方約〇・七度、下方約三五・三度となり、以後右方向に移り、同七秒に右方約一九・二度、下方約三三・九度となつたことが認められる。
ところで、〈証拠略〉によれば、市川は、昭和四三年三月、航空自衛隊に入隊し、爾来航空機操縦の教育を受け、T―1、T―33ジエツト練習機による単独飛行を経験して、防衛庁の航空従事者技能証明書、計器飛行証明書(白)を取得し、同四六年五月八日基本操縦過程を終了して、第一航空団第一飛行隊に所属し、F―86F戦闘機による飛行訓練を始め、同年七月二日、松島派遣隊に配属されたものであつて、本件事故当日までに総飛行時間二六六時間一〇分、その内F―86F機によるものが二一時間であつたこと、市川は、松島派遣隊においては、既に基本隊形、疎開隊形等の編隊飛行訓練を経験済みであつたが、機動隊形による編隊飛行訓練は、本件事故当日の午前中に初めて経験し、本件事故時の飛行はその二回目であつたこと、機動隊形の編隊飛行訓練にあつては、訓練生機は、教官機に対し、飛行要領所定の間隔、角度を保つて追従しなければならず、訓練生に対する講義等の指導においても、常に教官機に追従すべきことが最も強調されていたこと、もつとも、周囲に対する見張りを常に怠つてはならないことも、重要な理念として教育されていたが、疎開隊形に比して、機動隊形では、訓練生機と教官機との間隔が大きいため、機動隊形訓練を初めて行う訓練生にとつては、教官機を見失わずに追従することが精一杯で、事実上他を見張る余裕に乏しく、指導する側も、最初から見張りが行われることは期待してはいず、機動隊形に習熟するにつれて次第に見張りが出来るようになることを期待しており、そのため、右訓練に当たつては、教官が編隊全部についての見張りの全責任を追うべきものと考えられていたこと、市川は、本件事故当日午前の最初の機動隊形の訓練においては、教官機を見守つて追従することに全精力を費やし、他を見張る余裕は全くなく、しかも、二回にわたつて教官機を見失つて、訓練終了後不可の講評を受けたほどであつて、本件事故時の飛行においても、教官機の方向以外に見張りを行う余裕は実際上なかつたこと、以上の事実が認められる。
そして、前記認定事実によれば、市川から見て、接触前三九秒から同三〇秒までは全日空機は右前方の比較的見易い位置にあつたものの、教官機は左前方にあつて、両者の間隔は一〇〇度前後あり、同一四秒には教官機はほぼ正面に来たが、全日空機はほとんど真横に来たので、市川が教官機のみに視線を向けていると、全日空機を視認し得る可能性は少なかつたものと認められる。
4  自衛隊機側における接触の予見及び回避の可能性
(一) 接触の予見可能性
右に認定した相対飛行経路、視認可能性に関する事実と〈証拠略〉によれば、隈は、接触前三九秒から同二二秒までの間に全日空機を視認して数秒間観察を継続していれば、全日空機が水平直進飛行をしていて、自機及び訓練生機の編隊と前方で交差するような飛行経路にあつて、高度の近い訓練生機と全日空機とが接触する危険があり、若干の左旋回をしてもその危険を免れないことを予見し得たものであり、それ以後においても、視認をしていれば直ちに接触の危険を予見し得たものであること、また、市川においても、接触前三九秒から同三〇秒までの間に、全日空機を視認し、数秒間継続して観察していれば、接触の危険があることを認識することができ、その後においてもいつそう接触の予見は容易になつたものであることが認められる。
(二) 回避可能性
〈証拠略〉によれば、空中衝突回避のための視覚及び反応時間について一般に用いられているMoseleyのデータにおいては、接近に関する情報が全く与えられていない場合においては、視認し知覚するまでに一・〇四五秒、判断に二秒、操縦桿の操作に〇・四秒、機体の応答に二秒、合計五・四四五秒を要するとされており(なお、大型機においては機体応答に更に一・五秒を加え、合計六・九四五秒とすべきであるとする研究もある)、また、他の文献においては、事前に情報が与えられている場合には、判断に要する時間は〇・五秒で、機体反応までは三・七秒であるとされていること、更に、他の研究においては、SST(超音速機)をモデルとしてであるが、航空機応答時間を三・五秒とし(但し、これは、初期の飛行経路から垂直間隔をとる操作の方が水平に回避するより単純であるとし、〇・五Gの負荷で五〇フイートの垂直分離を得るに要する三・三秒を基準とする)、なお、全体の反応に要する時間としては五ないし七秒では短かすぎ、通常操作で回避し得る時間として一二ないし一五秒をとるべきであるとしていることが認められる。
これによれば、右SSTをモデルとする研究結果は別論として、F―86F機の場合は、他の航空機との衝突を回避するための操作が必要であると判断してから回避の運動が実際に開始されるまでには、通常七秒あれば十分であると解される。したがつて、本件において、隈が全日空機を視認し、衝突の危険を判断し、無線によつて市川に回避の指示を与え、同人がこれを理解するまでに数秒を要するとし、かつ、機体が反応してから実際に安全間隔まで回避し得る時間に一、二秒を要するとしても、隈において一四秒前までに視認していれば市川に旋回態様の変化、上昇等適切な回避措置を指示し得、市川の回避操作が確実になされることが可能であつたと推認される。また、市川が七秒前までに全日空機を視認していれば、自らの判断で適切な回避操作をとり回避することが可能であつたと推認される。
5  全日空機操縦者らの視認の有無、視認可能性
(一) 接触時刻と視認の有無
(1) 全日空機操縦者らが接触前に自衛隊機とくに訓練生機を視認していたか否かの判断の前提として、接触時刻が論じられているので、これについて検討する。
〈証拠略〉によれば、本件事故当日、札幌管制区管制所(その受信アンテナ及び受信装置は三沢市にある)、新潟飛行場管制所、松島飛行場管制所における一三五・九メガヘルツの管制交信のテープ(以下それぞれ「札幌テープ」「新潟テープ」「松島テープ」という)に全日空機から発せられたと認められるものとして、午後二時二分三二秒すぎ(以下、秒以下のみで表示する時刻は二時二分台である)に〇・二ないし〇・三秒間の雑音、三六・五秒頃から四四・七秒頃までの約八秒間にわたる雑音が記録されており、なお右の後者の約八秒間の雑音は、他の二テープでは連続しているのに対し、札幌テープにおいては、三七・九秒から三八・五秒までの〇・六秒間と、四二・五秒から四四・六秒までの二・一秒間の雑音の中断があること(別紙図面一五のとおり)、全日空機機長席の管制交信のためのブームマイクの送信ボタンは、操縦輪左先端の裏側にあつて、操縦輪に手をかけた正常な握り位置で人指し指の腹の部分が触れる位置にあり、指に力を入れただけで送信ボタンが容易に入(オン)の状態となつて、搬送波が発信されること、また、右送信ボタンに近接してオートパイロツトのセツト及び解除のボタンがあつて、これを操作するときにも送信ボタンに触れる可能性があること、航空機操縦者は、送信ボタンを空押しすると他の交信を阻害することとなるので、平常の状態で送信ボタンを意識的に空押しすることはないこと、他方、全日空機からの送信に対する受信条件は、同機が正常に飛行している限り、札幌管制区管制所のそれが他の二管制所に比べてとくに劣つているわけではなく、札幌テープのみに雑音の中断が生じるのは、全日空機の機体の姿勢の変化により受信装置における電界強度の著しい変化が生ずる場合又は他の物体による電波の遮蔽、干渉がある場合であること、以上の事実が認められる。
(2)(イ) そして、〈証拠略〉によれば、事故調査委員会は、札幌テープにおける三七・九秒から三八・五秒までの〇・六秒間の雑音の中断について、このような短時間の中断は、全日空機自体の姿勢の変化によるものとは考えられず、同機の胴体中央付近上部にある送信アンテナと三沢の受信アンテナとを結ぶ線上又はその近傍で、かつ、送信アンテナにごく近い所に一瞬間他の物体すなわち訓練生機が介生したことによつて電波の遮蔽、干渉が生じた結果であり、したがつて、右中断の時が、本件接触事故が生じた時刻であると推定したこと、そして、同委員会は、最初の三二秒頃の〇・三秒間の雑音は、全日空機機長がその時に訓練生機を視認したか又は既に視認していた同機が予測よりも急速に接近して来るのを知つて、緊張して操縦輪を強く保持したために生じたものであり、三六・五秒以降の雑音は、訓練生機が自機の斜め前方に接近して来たため緊張状態が強まり、操縦輪を再度強く握りしめたことによるものであると推定していること、以上の事実が認められる。
(ロ) また、〈証拠略〉によれば、新潟テープには、別紙図面一五のとおり、前記雑音がいつたん終わつた後、四七・八秒から五三・六秒までの間に、全日空機機長の声と認められる音声が記録されており、その冒頭は「アー」という声で始まり、次いで聴取不能の部分があつて、五〇・六秒から五一・四秒までの間に「エマージエンシー、エマージエンシイ」と二回聞こえ、その後に雑音が入り、五二・四秒から「アー」という声で始まり、それが絶叫ととれる緊迫した音声で終わつていること、札幌テープにおいても、右の二回の「エマージエンシー」が記録されているが、同テープにはその余の音声の記録はなく、また、松島テープには、事故調査委員会が調査したときには、右の時間帯に相当する部分のテープが誤つて消去されてしまつていたとして、これを解析し得なかつたこと、以上の事実が認められる。
(3) 他方、〈証拠略〉によれば、黒田鑑定においては、新潟テープ、札幌テープ、松島テープを別紙図面一五の「黒田鑑定」の欄のとおり解析し、一つのテープに録音があつて、他のテープに欠けている部分は、全日空機の急激な姿勢変化によつて電波の障害が生じたものであるとし、翻つて、前記三七・九秒(同鑑定によれば三七・八二秒)から三八・五秒までの〇・六秒間の雑音の中断ないし記録の欠損は、事故調査委員会の推定したような理由ではなく、音声部分の欠損と同様、全日空機自体の異常な姿勢の変化によつて生じたものと考えられ、最初の三二秒頃の〇・三秒間の雑音は、接触時の衝撃により全日空機機長が操縦輪を強く握つたことによつて生じたものと推定していることが認められる(なお、新潟テープの音声部分の欠損については、〈証拠略〉によれば、「エマージエンシー」の声は三回あり、第一回目の声の最後の「シー」が小さな声で四九・〇二秒と四九・八六秒との間――別紙図面一五の〈X〉部分――に入つており、五〇・九二秒からの空白――同〈Y〉部分――は、事故調査委員会の解析にかかる五一・四秒からの雑音に相当するものであるというのであるから、受信の中断ないし欠損とはいうべきものではないと認められる)。
これに対し、第一審原告らの批判中、中断、欠損、とぎれ等の語句の区別をいうところは、必ずしも首肯しがたいが、別紙図面一五によつてみれば、前記〇・六秒の雑音の中断に比較されるべき短時間の音声部分の受信欠損は松島テープの四八・〇三秒の前の部分(同図面の〈イ〉の部分)のみであるということができ、その存在をもつて、いまだ右〇・六秒の雑音の中断が全日空機の姿勢の変化によるものであると推認することはできない(なお、松島テープの音声部分のテープが事故調査委員会の調査の当時消去されていたことは前記のとおりであるが、前掲証人百名盛之と同黒田勲の証言を対比すると、黒田鑑定は、松島テープの既存のコピーによつて解析したことが窺われるので、右テープについての右鑑定の判断を直ちに誤りとすることはできない)。
(4) 新潟テープの最後が「アー」という絶叫で終わつていることは前記のとおりであり(〈証拠略〉によれば、同テープの最後は「オー」の声に近く、その後に松島テープでは「アー」又は「ヒヤー」という声が聞きとれるが、いずれにしても極めて緊張度が高まつた声であることが認められる)、〈証拠略〉によれば、事故調査委員会は、右絶叫が、機長の手が操縦輪から離れた時であり、F・D・Rの記録による垂直加速度の時間的推移から見て、操縦輪の保持及び通話が可能であつたのは、接触後十数秒間が限度であるとし、これをもつて、前記〇・六秒の中断の始期をもにらんで接触時刻が三七・九秒以後であることの論拠の一つとしていることがうかがわれる。
そして、同委員会の解析によればF・D・Rの垂直加速度の記録は別表一四の一のとおりであつて、接触後八秒頃からマイナス一Gを超え、同一四秒頃にいつたんマイナスの程度を減じ、同一六秒過ぎ頃にはマイナス二Gを超え、同二一秒にマイナス三Gに達したとされており、〈証拠略〉によれば、事故調査委員会は、パイロツトはマイナス一・三Gで身体が天井へ押しつけられるような状態となり(全日空機の操縦席の天井は坐つたままで天井の計器類に手が届く高さにある)、操縦に困難を覚え、マイナス三Gに達すれば、操縦輪を保持して送信することは不可能であり、また、全日空機の機体はマイナス一・五Gまで耐え得るように設計されているので、それを超えてマイナスGが増大すれば局部的破壊が起きる可能性があり、同機機長の最後の絶叫の時には、マイナスGの増大による胴体上部構造の局部的破壊による与圧室の爆発的な急減圧を生じていたものであるとして、前記のとおり推定したことが認められる。
〈証拠略〉においては、負の垂直加速度の大きさと持続時間との関連において、人が生理的に耐え得る限界を判定するにつき根拠とし得る資料はないとしているが、〈証拠略〉によれば、通常、急速にかかる負の垂直加速度に対する人の耐性限界はマイナス三Gで五秒間とされていること、しかし、マイナス二・五Gで約七〇秒、マイナス三Gで二〇秒間というデータもあることが認められる。もつとも、これらの数値は、実験室における実験の結果によると推認されるが、実験室においては、予めGの変化が予定されていると推測されるのに対し、実際の飛行中の予期しない急激な垂直加速度の変化に遭遇した場合あるいは逆に緩徐に垂直加速度が三Gに達した場合の心理的要因をも加えた耐性の限界は、実験室内における実験と同一に論ずることはできないと考えられる。
他方、前記のとおり、〈証拠略〉記載のF・D・Rの記録(別表一四の一)の正確性については問題があり、負の垂直加速度が増加して行つた傾向は正しいとしても、時間的経過についてはこれを正しいものとは認め難いのであり、別表一四の二に対照してみれば、マイナス二Gに達したのが接触後二〇秒頃又はそれ以後であり、マイナス三Gに達したのは更にその数秒後であるという可能性もあるが、断定し難いとしなければならない。
更に、〈証拠略〉によれば、当時東北地方上空にあつた東亜国内航空一〇二便、二一二便の各操縦者は、全日空機機長の交信音声の「エマージエンシー」の次に、あるいは最後の絶叫の前に、「アネイプルコントロール」の声を聞きとつたこと、新潟飛行場管制所管制官は、五〇秒以後約一〇秒間に「エマージエンシー」に続いて、「メイデー、メイデー、アー、アネイプルコントロール」の声を聞いたことが認められ、〈証拠略〉によれば、事故調査委員会の検討の際に、「アネイプルコントロール」と聞こえるとの意見もあつたが、確認しがたかつたため、報告書に記載しなかつたことが認められるが、このように、交信の最後近くに「アネイプルコントロール」との声を聞きとつた者もあることからすると、機長の最後の絶叫は、負の垂直加速度が増大しかつ急減圧が起きたことにより生理的耐性の限界に達したためであるとは限らず、(〈証拠略〉中には、急減圧による吐気は絶叫とはならず、機長の絶叫はむしろ声帯の緊張を窺わせると証言する部分がある)、機体が急激に降下して行き、操縦不能と悟つた時の絶望の悲鳴とも考えられるのである。
そうすると、機長の絶叫と垂直加速度の変化とを事故調査委員会の判断のように結びつけることによつて接触時刻を確定することには、なお問題があると考えられる。
(5) 〈証拠略〉によれば、新潟テープには前記記録と同時に二四三・〇メガヘルツの管制交信も記録されており、これには隈からの緊急通信として、四八・二秒から五〇・〇秒までの間「エマージエンシー」を三回くり返した音声が記録されていることが認められ、〈証拠略〉によれば、三沢の二四三・〇メガヘルツの管制交信テープにも同様の記録があつたことが認められる。
〈証拠略〉によれば、事故調査委員会は、隈は、市川が全日空機を視認する直前に同人に対して回避の指示を与え、同時に自機を右に旋回させ、続いて急きよ左に反転して訓練生機と全日空機との接触を確認し、この時四八・二秒からの三回の「エマージエンシー」を発信したものとし、接触時から通報までの時間は六秒ないし一〇秒と考えられるとして、接触時刻をほぼ四〇秒を中心とする数秒間と推定する根拠としていることが認められる。
〈証拠略〉によれば、隈は、同人の七時ないし七時半の方向に訓練生機とその直近に全日空機とを発見し、市川に回避の指示を与えながら、同人を誘導するつもりで自機を右旋回させ、続いて左に切り返して訓練生機を見たところ、既に衝突後で、訓練生機が回転しながら落ちて行くのが見え、次いで、全日空機が白煙状の物を吐きながら、約二〇度の降下角で頭上を通過するのが見え、それから更に左旋回しながら高度を下げて訓練生機を見ると、後部胴体がなくなつたようにバラバラになつて落ちて行くのが見え、再び全日空機を探したが既にその姿は見えなくなつており、その後、それまでの交信用のチヤンネル6にセツトされていた送信機のダイヤルを緊急通信用のGチヤンネル(二四三・〇メガヘルツ)に切換え、「エマージエンシー」を三回くり返したが、記憶を辿つてみると、衝突を確認してから「エマージエンシー」の送信を始めるまでに約一五秒位を要したと思われると供述していることが認められる。
そして、〈証拠略〉は、黒田鑑定の際、松島派遣隊のF―86F機一三機を使用して、隈の陳述(右供述と同旨)を聴取したところに基づき、その行動経過を再現する実験を行つたところ、全日空機を発見してからGチヤンネルにセツトするまでに要する時間は一七秒から二二秒、平均一九・五秒であつたこと、なお、その間チヤンネルの切換えにはかなり力を入れる必要があり、また右の時間の外に、Gチヤンネルに切換えてから発信が可能となるまでの間に約四秒を要するものであることとしていることが認められる。
これに対し原審及び当審証人百名盛之は、熟練した航空機操縦者は、緊急事態の発生を目撃したならば、操縦しながら緊急事態の通信の動作に入るのが通常であると考えられ、事故調査委員会の参考人として調査に当たつた同証人が、当時隈に面接して聴取したところによれば、隈は、全日空機の尾部から白煙が出るのを見て衝突を知り、すぐに(二秒位の間に)チヤンネルを切換えたということであつて、チヤンネル切換えと送信開始に五、六秒から最大八秒しかかからないので、接触後一〇秒位には「エマージエンシー」の送信が始まつたものと判断したと証言する。
前記隈の供述のように一連の動作を順序を追つて記述すれば相当の時間を要したもののように思われるものの、事故発生、訓練生機の墜落を知つてから、なお、その後を見届けて、初めて緊急通信にとりかかるというのは、このような立場に置かれた教官の動作として些か悠長な感があり、右百名証言のように、一方で状況を見つつ、操縦しながら、チヤンネル操作にかかることがむしろ自然であると考えられるが、また、予想外の驚愕すべき事態に遭遇した隈が、二秒以内という短時間にチヤンネル切換えに着手するほどに敏速に行動し得たかも疑問としなければならない。そうすると、この点についての黒田鑑定と事故調査委員会の判断のいずれを正当とすべきかを判定することは困難であり、したがつて、隈の緊急通信の時刻から接触時刻を推測することはできないといわなければならない。
(6) 翻つて、最初の三二秒すぎの〇・二ないし〇・三秒間と次の三六・五秒から約八秒間の送信ボタンの空押しによる雑音の意味するところを考えると、〇・三秒間の雑音が、全日空機機長において訓練生機を初めて視認した時又は急速に接近して来たと認めた時に緊張して操縦輪を握つたことによるものであるとしても、また、接触時の衝撃により握りしめたことによるものであるとしても、いずれの場合でも、そのように短時間で手を弛めて次の雑音まで約四秒を経過したというのは、理解し難いところであり、むしろ、訓練生機の接近を認め、回避操作の準備のためオートパイロツトを解除しようとして、その操作の際に指が送信ボタンに触れたとする可能性もあり得ると考えられるが、そう断ずるだけの根拠もない。他方、後の八秒間の雑音は、いずれの前提に立つても説明のつくことと考えられるが、札幌テープにおけるその途中の〇・六秒間の雑音の中断の意味するところは、事故調査委員会の推定の方により合理性があると考えられる。
したがつて、以上検討したところを総合すれば、接触時刻は三八、九秒とするのが相当である。
(7) ところで次に検討するような全日空機操縦者らから訓練生機への見え方及び先に検討した交信記録の分析等に照らすと、接触時まで右操縦者らが揃つて全く訓練生機を視認していなかつたという可能性を推認するにはやはり躊躇を覚えざるを得ないが、F・D・Rの記録上回避措置をとつた形跡が全然みられないこと及び各管制区管制所の交信記録に、全日空機操縦者らからの他機の接近・接触を少なくとも推測させるに足るような音声すら収録されていないことは、いかにも不自然であり、何らかの理由で視認していなかつたのではないかとの疑いも払拭することはできない。そこで、視認していたとすれば、何故回避措置をとらなかつたか、そのことに合理的理由があるかが問題である。これについては、〈証拠略〉によれば、全日空機操縦者らは、相手機が左へ避けて行くと思つたか、あるいは高度差の判断を誤つたかのいずれか又はその双方の競合の蓋然性が最も高いこと、そして、それらのいずれの場合でも回避しなかつた理由としての合理性は薄いということをいわざるを得ない(インターセプトと誤認した可能性もあげられているが、当時日本本土の上空で自衛隊戦闘機が民間定期航空機に対してインターセプトに出ることを予想し得るような事情があつたことは、全証拠によつても認められない)。
これに対し、第一審被告は、視認しなかつた理由として、例えば食事のために見張りがおろそかになつたことが考えられると主張するところ、〈証拠略〉によれば、民間航空機の操縦者は地上で食事をとる時間がない場合には、機上において、予め用意した食事を機長と副操縦士とが交替でとることもあり、本件全日空機も、東京、千歳間の折返し便で、千歳滞在時間が短かかつたので、飛行中に機長らが食事をした可能性はあることが認められるが、だからといつて、本件接触時にそろつて食事中であつたと推定する根拠もないというべきである。
(二) 全日空機操縦者らから訓練生機に対する視認可能性
(1) 右のとおり全日空機操縦者らは訓練生機を視認していた可能性はあるものの、なお疑問の余地もあるので、以下、方向、視角等の点から視認可能性を検討すると、〈証拠略〉によれば、次表のとおりと認められる。

時刻
(接触前)
方向 距離
(メートル)
視角
左方
(度)
上方
(度)
胴体
(度・分・秒)

(度・分・秒)

三〇秒 約六二 二・三 三九五六 〇・〇八・二四 〇・一〇・四五
二〇秒 六五・七 二・五 一九五六 〇・二一・五一 〇・一三・一三
一四秒 六六・四 二・七 一一二八 〇・三八・四四 〇・二二・〇二
七秒 六七・三 三・四 四一九 一・四四・三四 一・〇・二〇
四秒 七〇・四 四・五 二〇〇 三・三八・二九 一・三六・三五

すなわち、接触前二〇秒から同七秒までの一三秒間における方向の変化は水平方向に一・六度、上下方向に〇・九度で、一秒当たり〇・一二三度、〇・〇六九度にすぎず、その間に距離は一・五キロメートル余接近し、胴体視角は一度二二分余増加したのであり、なお、右表4―2によれば、四秒前以降は急速に左後方へ移動したものである。ちなみに、後記ハリス鑑定書のアペンデイツクスEに掲げる数値もこれと大差のないものであり、〈証拠略〉によつても、接触前三〇秒及び同二〇秒において、いずれも左方六五度にあり(視角はそれぞれ二〇分2、二四〇分2)、同一四秒には左六三度(視角三九〇分2)、同七秒には左六〇度(視角三〇〇〇分2)にあり、同四秒には左六五度前後にあつて、以後急速に後方へ移動したものとされている。右数値によれば、視角の点において、接触前三〇秒には視認可能な範囲に入り、同二〇秒には視認の容易な大きさとなつており、視野の点でも、同三〇秒から同四秒まで終始視認可能な範囲にあり視認し得たものと認められる。
(2) 他方、〈証拠略〉によれば、全日空機から教官機の見え方は、接触前三〇秒において左方約四六度、下方約一〇度(距離四・四キロメートル、胴体視角九分三三秒、翼視角四分一六秒)、同二〇秒において左方約三六度、下方約一八度(二・五キロメートル、一七分二五秒、四分四七秒)、同一四秒において左方約一八度、下方約二六度(一・七キロメートル、二一分四三秒、一三分四七秒)であることが認められ、なお、〈証拠略〉によれば、接触前三〇秒において左方四三度、下方一〇度、同二〇秒において左方二九度、下方一八度、同一四秒において左方九度、下方二五度とされているが、同号証の第一三図には、教官機は接触前二〇秒以降は全日空機の機長席の前の窓枠の下に隠れ、また同三〇秒から同二秒までは副操縦士の前の窓枠の下方にもなつているように作図されており、〈証拠略〉の数値を右の図に当てはめてみても同様に窓枠の下方になると認められる。そして、当審証人高野開は、自機から上方より下方の方が見易く、かつ、訓練生機より教官機の方が全日空機の正面に近いので、接触前三〇秒から同二〇秒の間において、全日空機機長からは教官機の方を先に視認し易く、かつ、これを認めた後は、これに気を取られ、とくに窓枠の下に隠れた後も三秒間位は少し身を乗り出して見守り、以後は反対側の副操縦士席側に現われるのを待つ態勢になるため、訓練生機を発見することは困難である旨証言するが、少なくとも後段の部分はたやすく採り難い。しかも、後記のとおり全日空機操縦者らにも見張り義務のあることを前提にすれば、教官機に気を取られることがその余の方向に対する見張りを怠る理由となるものではなく、ましてや接触時までなお優に十数秒はあるのであるから、この間見張りの意思があれば、訓練生機を視認することは困難ではないというべきである。
6  全日空機操縦者らにおける接触の予見及び回避の可能性
(一) 接触の予見可能性
(1) 〈証拠略〉によれば、アメリカの航空視覚研究者であるジエームス・L・ハリスは、航空機操縦者における他機との衝突の危険性の評価及び本件における危険性の評価の可能性について、おおよそ次のとおりの意見を記述していることが認められる。
(イ) 他機に対する視認による危険の程度の評価は、ある一瞬の観察による静的な手懸りによつてではなく、ある観察期間に生ずる変化(動的な手懸り)によつてのみ、可能である。二機の非加速度飛行(旋回・バンク、前進速度の変更、上昇率又は降下率の変化を行つていない飛行)をしている航空機が衝突コース(コリジヨン・コース)にあるときは、一方の航空機から他方の航空機への関係方位角は、遭遇中ずつと変わることがなく、操縦席の窓からいえば、常に窓の同一位置に見えているのであつて、この関係方位角不変の規準は、衝突の危険性を評価する唯一の基準として一般的に受け入れられている。もつとも、人間の視覚は、動きが一秒当たり約〇・二度を超える場合に動きを感じることができるので、窓のある位置に動かずにいるように見える場合でも、必ずしも関係方位角が一定であることを意味せず、他方、観察する側の航空機、人の頭や身体も僅かずつ動いて、関係方位角の微妙な変化を分らなくさせるのであり、したがつて、関係方位角の動きの発見のための実践的閾値は、毎秒約一度位と考えるのが妥当である。
(ロ) しかし、衝突の危険のない航空機も、かなり距離が離れているときには、関係方位角の動きがほとんどないことがある。したがつて、関係方位角不変の規準は、ある航空機が自機の前窓で静止しているように見え、かつ、ある距離よりも近くに見えたときに衝突の可能性があると言い換えるべきであるが、この規準は、実際問題としては大変複雑なものであり、関係方位角の変化は、衝突に至るまでの残り時間の二乗に反比例するため、窓枠に固定して見え、将来ある一点で自機と衝突するように見えるが、動きに対する閾値との関係で、実際にはどこを通過するかについて不確実性を伴う。この不確実性は、時間と距離との関係上観察者の航空機の回避操作能力をしばしば上廻り得るため、パイロツトが行う回避操作が早きに失する場合には、それによつて衝突の可能性を消し去ることはできず、条件によつてはかえつて衝突の確率を増加することになる。なお、観察者が大型航空機のパイロツトである場合には、同人の目と機体の翼端又は尾部との隔りを考える必要があり、また、空中戦闘の訓練を受けた者等と異なり、接近遭遇の訓練のない民間航空機のパイロツトの行動は、管理された実験の中で、目標物の動きの観察に熟練した観察者が行うレベルのものであると期待することはできない。
(ハ) 航空機が加速度飛行をしている場合、すなわち、旋回・バンクを行つているか、上昇・降下率を変化させているか又は対気速度を変えている場合には、関係方位角不変の規準は、衝突の危険の明白な指針とはならず、パイロツトの判断に役立つ一般的規準は存在しない。すなわち、衝突遭遇を評価する過程においては、衝突の可能性のある航空機がその飛行のパラメーターを継続するであろうということが当然に仮定されており、民間航空機の非加速度飛行についてはこの仮定は合理的であるが、加速度飛行は、一般的に、ある飛行パラメーターから別の飛行パラメーターへ変更する過程の一時的状態と考えられ、したがつて、加速度飛行が視認されたならば、その航空機は間もなくその飛行形態を変更するかも知れないと仮定することは合理的であるが、逆に現在の飛行状態を継続するかも知れないと仮定することも非合理的ではなく、このような航空機に対する潜在的危険の評価は、現在の行動でなく、将来のある時点でとられるであろう相手機の行動に基づかなければならず、その速度と運動性が考慮されなければならない。
(ニ) 本件について、事故調査報告書(〈証拠略〉)に基づいて検討したところによれば、全日空機から見て、訓練生機は、遭遇中ずつと、加速度飛行経路にあつたので、関係方位角不変の規準は使用できず、他の実際的規準も存在しないし、また、全日空機のパイロツトは、そのような状況を評価するのに役立つ訓練を受け経験を持つべきことも期待されていなかつた。訓練生機は、遭遇中加速度飛行をしていたばかりでなく、バンク角や降下率、加速度の程度等もしばしば変えていたので、これらの運動は、性質上一時的なものであつて、相当時間継続することが予測されるものではないから、その時点での飛び方が続くであろうとの予測のもとに衝突の危険の評価を試みることは適当ではない。現実的な評価は、訓練生機の将来の行動についての予測を含むものでなければならないが、全日空機パイロツトは、訓練生機が次に何を行うかを知ることを期待される立場にはなかつた。
以上のとおりハリス鑑定書はいう。右の論旨は、次の(2)の判断に牴触しない限度においておおむね妥当であると考える。
(2) ところで、前記5(二)認定事実によれば、全日空機から見て、訓練生機は、接触前二〇秒から同七秒までの間、窓のほとんど同じ位置に動かずに(前記(1)(イ)の動きを覚知し得る閾値以下の変化で)、次第に機影を大きくしていたのであるから、ハリス鑑定にいう関係方位角不変の規準に照らせば、衝突コースにあるものと判断し得たと考えられる。もつとも、実際には、訓練生機は、その間も左旋回を継続し、バンク角を変化させ、速度、高度とも僅かに変化させていたものであるが、第一審原告らは、この点をもつて、訓練生機は非定常運動(ハリス鑑定のいう加速度飛行と概ね同義であると解される)をしていたのであるから、衝突コースにあつたとはいえないと主張する。そして、〈証拠略〉によれば、小型機でも、一マイルないし二マイル位の距離で、バンク角をとつていることを視認し得ることが認められ、前記のとおり、全日空機から見た訓練生機の翼の視角も次第に増加する傾向にあつたのであるから、全日空機操縦者が接触前二〇秒から同一四秒頃まで引続き訓練生機を視認していれば、同機がバンク角をとつて左旋回の姿勢にあることを認識したはずであると考えられる。そうすると、一面全日空機操縦者らは、接触の危険性をある程度感知しながらも、訓練生機の進路、動向を見守りながら(しかし、ハリス鑑定のいうように訓練生機が「バンク角や降下率、加速度の程度等をしばしば変えていた」との事実を当時全日空機のパイロツトが認識していたという証左はない)接触前一四秒頃に至つてもなお回避措置をとらなかつたということも肯けないことではない(進路権の問題については後に判断する)。しかしながら、他面訓練生機がこのように左旋回の姿勢をとりながらも、なお、接触前七秒まで全日空機操縦席の窓の同一位置にほとんど動かずに次第に大きく見えて来た状況に基づいて判断するならば、訓練生機は、加速度飛行とはいえ、運動の変化の一過程ではなく、同じ形態の飛行を相当時間継続しており、同様の左旋回を継続して行つたときの進行コースが全日空機の進路と交わる状況にあつて、衝突の危険性という点では、定常飛行と異ならないものであつたということができるから、全日空機操縦者らにおいては、そのまま進行した場合には、接触の危険性が著しく増大して行くことを認識し得たものと推認される。ハリス鑑定の前記意見もこの判断を左右するに足りない。
(二) 回避可能性
(1) 〈証拠略〉によれば、ハリスは、衝突の危険を評価した後の回避操作について、おおよそ次のとおりの意見を記述していることが認められる。
(イ) 前記のとおり、衝突の可能性のある航空機の将来の位置についての不確実性は、自機の回避能力を上回るかも知れず、下手に選択された回避操作がニアミスを空中衝突に変えてしまつている例が多いのであるから、回避操作は、早計にとられるべきではなく、衝突を避けることができると確信できたときにだけ、とられるべきである。これについては、国際的に認められた進路権についての規則(例えば、交差遭遇においては左側の航空機が右側の航空機に進路を譲るべきこと)がある場合には、それが回避操作の減殺を防ぐのに役立つが、それがない場合には、一方が行う回避操作が他方の行う逆の回避操作によつて減殺されることがないという確率は五〇パーセントしかない。もつとも、進路権についての規則に合致した操作をすれば、かえつて衝突を助長しかねないということを示唆する信頼し得る情報が入手されたならば、この規則の遵守は加減されなければならないが、進路権に合致した操作から逸脱する場合には、常に危険が、すなわち、相手機が当方の逸脱の理由を知覚し損い、認識を誤り、当方の回避操作を減殺してしまう行動をとるかも知れないという危険が存在する。したがつて、進路権についての規則に反する回避操作は、衝突を避けるために必要不可欠であつて、それによつて回避し得ることが確認できる場合にだけとられるべきである。
(ロ) 回避操作の方法としては、最もよく言われるのは、バンク・旋回であり、確かにこれが的確な操作である場合があるが、そうでない場合もある。最も効果的な回避操作は、その結果発生する加速度が視線に垂直に加わる操作である。対向接近遭遇におけるバンク・旋回はまさにそうした場合であるが、ほとんど平行に接近する交差遭遇の場合には、バンク・旋回は、加速度を視線と平行に加えるものであり、その操作が接近率を零に減らすまでに十分な加速度を加えるのでなければ、主として衝突の時間を遅らすように働くのみである。このような平行に近いコースにあつては、(バンク・旋回ではなく)加速・減速、上昇・降下が視線と垂直な加速度を作る。更に、バンク・旋回は、一たびその操作が開始されると、衝突の危険をいつそう効果的に評価する機会が失われ、あるいは相手機が視界から隠れてしまうという不利な点があり、また、バンクによつて翼が上下方向に立つ結果、衝突断面積を増加させ、衝突の確率を増加させることとなる。したがつて、ある場合には、パイロツトがはつきりと役に立つ回避操作を決定できないかも知れず、何も操作をしなかつたからといつて、相手機を見ていなかつたとか、何らかの過失があつたと推定すべきではない。
(ハ) 本件について、全日空機パイロツトがなし得る唯一の判断は、訓練生機がとると思われる全ての飛行経路を考慮に入れ、全日空機の飛行経路の前方空間に右の訓練生機のとり得る飛行経路のそれぞれが通るであろう全体像を頭の中で描いてみることであり、全日空機にとつての唯一安全な操作は、もしあるとすれば、自機を右の全体像の外へ出すような操作であるが、F―86F機はB―七二七型機より高い運動性能を有する航空機なので、全日空機としては、右の要請を充たすようないかなる行動もとり得なかつたということは、大いにあり得ることである。
以上のとおりハリス鑑定書はいう。右に説示するところは、一般論に関する部分はおおむね妥当するであろう。
(2)(イ) そこで、検討するに、全日空機操縦者らが、訓練生機を視認し、かつ、接触の危険性を予見していた場合に、接触前一四秒までに回避操作を開始したならば、仮に第一審原告ら主張のように回避操作に一四、五秒を要するとしても、回避は可能であつたと考えられる。しかし、一四秒前には、全日空機と訓練生機との間の距離はまだ約一・一キロメートルあつて、必ずしも衝突の危険が切迫していたとは認められず、後記の進路権の問題に鑑み、かつ、早すぎる回避操作がかえつて危険を増大させるという事情を考えれば、この時点で直ちに回避操作を決断することは、事実上困難であり、相当でもなかつたというべきである。そして、前記のように、相手機の出現について予め情報を与えられていない場合に、相手機を視認してから回避のための航空機応答に要する時間は五・四四五秒であり、あるいは大型機の場合には更に一・五秒を加えるべきであるとする見解を前提とすると、全日空機操縦者らが仮に接触前七秒より以前に訓練生機を視認していたとしても、いよいよ現実に接触の危険性があると判断し、回避操作をとる必要があると決断しその方法を選択するのに要する時間を考慮するならば、遅くとも接触前七秒までの間に回避操作をすべく、そうすれば回避の可能性はあつたというべきである。
もつとも、〈証拠略〉によれば、航空自衛隊がC―1輸送機によつて実験した結果からは、高亜音速で飛行するB―七二七型機においても、操縦輪を操作してから舵面が動くまでに〇・五秒、舵面が動いてから航空機が所望のG(垂直加速度)に達するまでに〇・五秒で足りるとされていることが認められ、第一審被告は、これに基づき、判断に二秒、動作に〇・四秒の各所要時間を加えても、回避開始までに三・四秒しか要しない旨主張し、また、〈証拠略〉によれば、航空機に所望のGがかかつてからの運動量について、垂直方向には、マイナス〇・八Gの垂直加速度によつて、一・五秒で二・二メートル、二秒で三・九メートル、三秒で八・八メートル、三・六秒で一二・七メートル下降し、また、水平旋回では、一・一Gの垂直加速度によつて、一・一秒で二・七メートル、一・五秒で五・一メートル、三・六秒で二九・一メートル移動するという結論が得られていることが認められる。これによれば、接触前七秒でも、回避操作をし、かつ、実際の回避の可能となるのに十分な時点であつたということになる。
(ロ) 前記のとおり、ハリス鑑定によれば、本件のような平行に近い交差コースにある場合に考慮すべき回避措置は、加・減速、上昇・降下であるとされる。加・減速についてみるに、訓練生機が前方にある状況から加速は考慮の余地がなく、まず減速が考慮されるべきところ、〈証拠略〉には、B―七二七型機の場合、数秒間に相当程度減速できるとの供述記載部分があるが、〈証拠略〉によれば、B―七二七型機が四〇〇ノツト以上の高速で進行している場合には、パワーを全閉にしても一秒につき一ノツト位しか減速できず、短時間の回避方法として減速は実際的でないとされていることが認められる。しかし、全日空機が接触までの間に訓練生機の速度以下になればよいのは勿論、少なくとも等速になれば事故は避けられた道理である。〈証拠略〉によれば、両機の接触直前の速度は、全日空機が毎秒〇・一四ノツト、訓練生機が毎秒〇・一二ノツトないし〇・一三ノツトであるから、その差は毎秒〇・〇一ないし〇・〇二ノツトにすぎない。全日空機としては、接触前七秒までの間に訓練生機の動静を注視していれば、たとい、両機の速度差を全日空機操縦者らにおいて正確にはつかめていなかつたとしても、自己が優速であつたことは明らかに認識し得ていたといわなければならないから、〈証拠略〉に徴しても、本件のごとき非常の場合に何ら減速の挙に出なかつたことは、やはり一の不思議といわざるを得ないであろう。次に上昇・降下については、〈証拠略〉によれば、全日空機が訓練生機を接触一四秒前で四度、七秒前で五度上方に見る状況にあつたことから、降下することが考えられるところ、〈証拠略〉によれば、前記のような相手機が操縦席の窓のほとんど一定位置に見えているときでも、彼此の五〇〇フイート程度の高度差では、確実に高度差を把握することは困難であることが認められるので、全日空機操縦者らが、降下することによつて回避が可能であると判断し得たかどうかはいささか疑問であるが、〈証拠略〉によれば、訓練生機は、接触前三〇秒から全日空機の左上方にほとんど高度を変えずに機影を次第に大きくして迫つて来たのであり、接触一四秒前、七秒前、四秒前の各視角、距離等が前記のとおりであることに鑑みれば、全日空機操縦者らが、接触の危険を感じたならば、本能的にせよ降下の措置をとることが自然であろうといわなければならない。この意味において、何らこのような措置をとつた形跡がみられないのは僅かの高度差についての判断の誤りであつたのではなかろうかとの疑いを生ずる所以である。また、全日空機操縦者らが教官機を視認し、それが機体の下方に隠れたのを知つていたとすれば、同機に対し衝突の危険を生ずる降下の方法をとる余裕もなかつたのではないかということも考えられないではないが、これを知つていたと認定するまでの確証はないところ、仮に知つていたとしても、前認定のとおり教官機は、接触前三〇秒ないし二〇秒に、全日空機操縦者らの視野から右下方へ消えて行つたのであるから、〈証拠略〉に徴すれば、高度と距離が相当程度離れている七秒前になつてもなおその教官機の動向が気になつて、いわば心理的に金しばり状態になつて下降の操作をとれなかつたという論には、たやすくくみすることはできない。
(ハ) すすんで水平方向への移動(バンク・旋回)の可能性について検討するに、操舵開始からの時間と運動量との関係については前記(イ)のような報告もあるところ、更に、〈証拠略〉によれば、右有元がB七三七―三〇〇型機及びDC―一〇型機のデータからB―七二七―二〇〇型機のロール応答(旋回による横への運動)の特性を推算したところ、旋回のため操舵輪を九〇度回転させた場合(本件のごとき危急の場合操縦士は最大の努力をすべく、したがつて一杯の回転をさせるであろうところから想定した)に、機体のバンク角(以下、本件に即していえば、当審証人有元務の証言のごとく、全日空機は訓練生機と反対側すなわち右にバンクをとつて回避するものと考える)が二〇度に達するまでの所要時間は一・二五秒、三〇度に達するまでのそれは一・五秒であり(ちなみに操縦輪を六〇度回転させた場合に、バンク角が二〇度に達するまでに約一・五秒、三〇度に達するまでに約一・八五秒である)、操舵輪を九〇度に操作した後、機体が一定のバンク角に達した時に操舵輪を当該角度まで戻して保持した場合に、操作開始時から二秒後及び三秒後の横への移動距離を見ると、三〇度バンクを保持したときには二秒後に一・五メートル、三秒後に七・二メートル、二〇度バンクを保持したときには二秒後に一・四メートル、三秒後に六メートルそれぞれ移動するという結果が得られ、本件において、全日空機が操舵輪を九〇度操作してそれをそのまま保持すれば約一・八四秒で約二メートル(なお、三秒では約四メートル)移動するので、接触前二秒にその操作を開始していれば、右バンクによつて同機の左主翼が上ることを計算に入れても、それによつて接触を免れ得たとしていることが認められる。
ところで、〈証拠略〉によれば、バンク角をとつて旋回する際には、同時に機体の下降を防ぐため強い垂直加速度(六〇度バンクで二G)をかけることになるため、乗客を搭載した民間旅客機では、急激なバンク角をとることは、乗客の安全の見地から困難であること、したがつて、旅客機が通常旋回する場合のバンク角は、二〇度ないし三〇度が限度であつて、それ以上にバンク角を深めることは実際的でないことが認められる。そうすると、実際にとり得るバンク角は、機体の性能の範囲内において、衝突回避のための緊急性と乗客に与える衝撃とのかね合いによつて決められることになるが、本件の場合の緊急性に徴すれば、いつたん操舵輪を九〇度一杯に操作し、かつ、二〇度又はせいぜい三〇度バンクに達したところで操舵輪を戻して、それを保持するのが、自然であり適切な措置であるというべきこととなる。
(ニ) ところで、〈証拠略〉に徴すると、有元の推算した右(ハ)の移動距離は、機体重心の移動距離であると解されるが、衝突回避のために必要な移動距離は、第一に、最初の接触部位である全日空機左水平尾翼先端における距離であり、第二に右バンク角により上つた左主翼における距離であつて、前者については、尾翼は重心位置より遅れて移動すると考えられるので、その点を考慮する必要がある。〈証拠略〉によれば、最初の接触部位から翼端まで(安定板ステーシヨン二〇〇付近を通つて機軸に四五度の角度で引いた線から翼端である昇降舵ステーシヨン末端までの距離)はおおよそ七〇インチ(約一・八メートル)とみられるので、接触回避のためには多くとも二メートル右に移動すれば足りると考えられる(実際は、仮に三〇度バンクをとつた場合の傾きを差し引けば、右の一・八メートルは、より短くなる計算となる。なお〈証拠略〉によれば、全日空機左水平尾翼の傾きが三〇度になれば、訓練生機の右主翼は接触せずにその下を通過するごとくであるが、右有元の証言によれば、同号証は訓練生機のバンク角を二〇度として作図したものであることが認められ、前認定のごとく、実際には、訓練生機もバンク角を深め、右主翼を上げているのであるから、右のように推定することは困難である)。他方、〈証拠略〉は訓練生機右主翼と全日空機左主翼との関係についての分析であるが、同号証によつても、操舵開始から一・五秒でバンク角が三〇度に達した(同号証の図2)後はそれを維持したとすると、一・六秒後(同図3)では訓練生機の機首部分が全日空機左主翼先端に接触する虞れがあることが認められる。これらの点を考えると、二秒前に回避操作を開始したのではなお十分といい難く、操作開始から接触回避可能距離を移動するのに三秒は必要であると推測される。
(3) 以上に検討したところによれば、全日空機操縦者らが、接触前七秒より数秒以上前から訓練生機を視認し、その動きに注意していれば、接触前七秒において、衝突の危険が増大し、相手機においてなお回避する形跡がなく、自ら回避の措置をとる必要があることを現実に知り得たものであり、そして、その場合には、適切な回避措置を判断する時間を含めても、七秒間に、減速・降下はさておいても、右旋回をして衝突を回避することが可能な距離だけ移動することができたものと考えられる。前記ハリス鑑定中これと異なる意見部分は採用しない。
また、全日空機操縦者らが接触前七秒に初めて訓練生機を視認したと仮定した場合、直ちに接触の危険及び回避の必要を判断することができれば、回避は不可能ではなかつたといえるが、右の判断のためには、ハリス鑑定のいうとおり、ある時間の動的な観察を必要とするものと考えられ、視認してから数秒間継続して訓練生機の動きを観察して初めて回避措置を必要と判断し操作を開始したのでは、少なくとも通常の二〇度ないし三〇度程度のバンク角による右旋回では、回避は困難であつたと推認され、したがつて、七秒前に初めて視認したのでは、回避のためには遅過ぎるということができる。もつとも、このような場合には、乗客に与える衝撃にかかわらず、緊急やむを得ない事態として、操舵角九〇度の保持の継続による急旋回を行うことを操縦者らが決断すべき状況にあつたかどうかが問題とされることになるが、乗客乗員一六〇名もの人命にかかわる事態であるとの観点から、右の状況にあつたとみるのが至当といえよう。
第二  第一審被告の責任
一  ジエツトルートと訓練空域
1  ジエツトルートの性格とその設定の経過
(一) 運輸大臣が、運輸省航空局長昭和三六年一〇月三一日付空管第二六八号通知をもつて、特定のジエツトルートを設定し公示した事実は、当事者間に争いがない。
(二) 〈証拠略〉によれば、次の事実が認められる。
(1) わが国の航空交通管制業務は、昭和三四年七月以降逐次米軍の手から日本側に移されて来たが、その当初は、着陸誘導管制にレーダーを用いるほか、低高度の飛行経路として航空路が航空法三七条(以下、航空法、同法施行規則の規定は本件事故当時施行のもの)によつて指定され、航空路管制が飛行計画の通報・承認と位置通報によつてなされる程度であつた。しかし、昭和三〇年代半ばから、民間航空機のジエツト化、高速化、大量輸送時代の到来に伴い、高々度を長距離の間直行することを可能にすることが要請されるようになり、また、米軍輸送部隊(MATS)がタカンを使つて飛行するについての管制を要望したことも直接のきつかけとなつて、高々度管制が行われることとなつた。その際、日本全土の上空を覆う面的な管制(エリア型管制)が理想であるが、エリア型管制を行うために必要なレーダー等の物的設備が近代化されていず、その実施は当面不可能であつたので、ルート管制を中心とすることとし、無線航行援助施設相互間を結ぶ直行経路の内、常用されると思われるジエツトルートを定めることとして、空管第二六八号によつてそれが実行された。
(2) 空管第二六八号の実質的内容は、「別添 高々度管制区における飛行方式」(以下「別添飛行方式」という)、「別添 高々度管制方式について」(以下「別添管制方式」という)及び「別添 付図」(以下「別添付図」という)に示されており、その概要は次のとおりである。すなわち、「別添飛行方式」において、「別添付図」に示す二万四〇〇〇フイート以上の空域(日本のほとんど全土を覆う形で図示されている)を航空交通管制区として指定し、高々度管制区と呼称し、この高々度管制区を飛行する全ての航空機について以下の方式を適用するとし、有視界飛行方式については「現行の諸規則を適用するものとする。注、航空法施行規則第五条第四号参照」とし、計器飛行方式については「本図に示されたジエツトルートは高速度航空機による直行飛行の要求及び航空交通管制上の便宜を考慮して作成されたものであるため、操縦者はできる限り本図に示されたジエツトルートを利用するものとし、次の二つの条件を満たす場合には、図示された以外のルートを要求することができる。(一)本図に示された高々度用航空保安無線施設によつて構成されるルートであること、(二)このルートを構成する高々度用航空保安無線施設間の距離が三〇〇浬以内であること」とし、「巡航フライトレベル」の表題のもとに、「計器飛行方式により高々度管制区を飛行する航空機は、管制機関の指示するフライトレベルで飛行しなければなら」ず、フライトレベルの指定は、原則として、(一)二万九〇〇〇フイート未満においては、磁針路〇度から一七九度までは一〇〇〇フイート単位の奇数(二万五〇〇〇、二万七〇〇〇フイート)の、同一八〇度から三五九度までは偶数(二万六〇〇〇、二万八〇〇〇フイート)の各フライトレベルとし、二万九〇〇〇フイート以上では、同〇度から一七九度までは二万九〇〇〇フイートに始まり、同一八〇度から三五九度までは三万一〇〇〇フイートに始まるそれぞれ四〇〇〇フイート間隔のフライトレベルとすること、(二)更に有視界飛行方式及び雲上有視界飛行により高々度管制区を飛行する航空機のフライトレベルについては、二万九〇〇〇フイート未満においては、右同様の磁針路に応じて、計器飛行方式のフライトレベルに五〇〇フイートを加えたフライトレベルとし、二万九〇〇〇フイート以上については、同様の磁針路に応じて三万フイート及び三万二〇〇〇フイートから始めて各四〇〇〇フイートの間隔をとる(計器飛行方式のフライトレベルとの間に各一〇〇〇フイートの差があることになる)ものとする旨航空法施行規則一七七条二号の巡航高度の規定と同一の定めをした(右の「フライトレベル」が施行規則の右規定にいう「巡航高度」と同義であることは、右の表題の文言自体からも明らかである)。
次に、前記「別添管制方式」には、「別添飛行方式」の右の趣旨と同様の記載をしたほか、更に「ジエツトルートは、高々度管制区において原則として三〇〇浬以内の距離にある高々度航空保安無線施設を直線で経路である。それは、当該無線施設から一〇〇浬までは中心線の両側一〇マイル、それ以上のときは当該無線施設より五度の角度で中心線から縁までの幅を増し、一五〇浬の地点で幅一五マイルになる区域を有する経路である。」と定義し、その趣旨を図示していた(「別添飛行方式」にはこの定義の記載はない)。なお、ジエツトルートJ11Lは、右「別添付図」においては、J15Lと表示されたが、後日、同年空管第三〇六号をもつて、J11Lと名称変更されたものである。
(3) 空管第二六八号に基づく管制業務は、昭和三七年五月四日運輸省告示第一四〇号をもつて航空交通管制区等の告示がなされたうえ、同年空管第一一四号により同年五月五日から実施されたが、それに先立ち、空管第二六八号の「別添飛行方式」及び「別添付図」は、米軍、防衛庁、民間航空会社等の航空利用者に送付され、また同年六月一五日付航空路図誌(AIP)に「別添付図」のジエツトルートが掲載された。これは航空法九九条、同法施行規則二〇九条の二第一項四号に定める航空交通管制に関する航空情報の提供としてなされたものである。
(4) 空管第二六八号による管制の実施後も当初は、右以外の管制方式については、従前の米軍と共通の基準(ATM―2・A)が用いられていたが、昭和四四年四月一日から新たに管制業務処理規程が実施され、その中の管制方式基準において、ジエツトルートは「航空保安無線施設上空相互間を結ぶ高々度管制区における直行経路をいう」と定義し、IFR機に対し既設のジエツトルートを承認する場合には、「当該飛行経路について次の保護空域を確保するものとする」として、前記空管第二六八号「別添管制方式」のジエツトルートの幅として表示されたのと同一の空域を「保護空域」と表示した。
(5) 管制上、高々度を飛行するIFR機に対しては、右の保護空域の幅による横間隔、前記フライトレベルによる垂直間隔、同一ルート・高度を飛行する機については出発に一定時間(当時は一〇分間)を置くことによる縦間隔をそれぞれ保持することによつて、各航空機ごとに安全な占有空間を確保し、IFR機相互間の接近を防止することができるとされていた。すなわち、右保護空域の定めは、航空交通管制の目的でなされたものであり、管制官が管制を行うための基準として理解された(空管第二六八号「別添管制方式」においては、ジエツトルートの幅として表示され、「保護空域」の語は用いられていないが、これは、当時のアメリカの制度「Air Space to be protected」をとり入れたものであるため、当初から「保護空域」という呼称が事実上存在していたごとく窺われる)。
(6) しかしながら、空管第二六八号の「別添管制方式」は、管制業務にのみ必要なものと考えられたため、高々度における管制に関係する機関にのみ送付され、米軍及び防衛庁には送付されず、また、「別添付図」にはジエツトルートの幅ないし保護空域は記載されず、ジエツトルートが直線をもつて表示されていたのみである(〈証拠略〉中「別添付図」に保護空域が示されていた旨の部分は採用し得ない)。もつとも、後に管制方式基準は防衛庁にも送付されたが、これは、自衛隊所属航空基地で民間航空と自衛隊とが共用する一部飛行場における管制業務が航空法一三七条三項により運輸大臣から防衛庁長官に委任されており、その業務のために管制方式基準が必要であつたためである。
(7) 航空路は、航行援助施設相互間を結ぶ直線の両側各九キロメートル(各約五海マイル)の幅を有する空域として定められているのに対し、ジエツトルートの保護空域は前記のとおりそれより広く定められているが、これは、無線計器の誤差が高空に行くほど大きくなる可能性があることを考慮し、逸脱の虞れのない幅をとつたものである。
(三) 右のジエツトルート制定をめぐる運輸省と防衛庁の協議の経過を更に見ることとするに、〈証拠略〉によれば、次の事実が認められる。
(1) 運輸大臣と防衛庁長官との間に、昭和三四年六月二三日付で「運輸省の航空行政と自衛隊の業務との間の調整に関する覚書」(〈証拠略〉)が取り交わされ、これにおいて、「運輸大臣は、航空交通管制区、航空交通管制圏及び航空路を指定する場合においては、あらかじめ防衛庁長官と協議するものとする」(第一条)、「防衛庁長官は、自衛隊の施設を設置しようとする場合であつて当該施設の設置が航空機の飛行に影響を及ぼすおそれのあるときは、あらかじめ運輸大臣と協議するものとする」(三条)、「運輸省の職員及び防衛庁の職員から成る航空関係調整会議を設け、本覚書中の運輸大臣と防衛庁長官との協議を行わせるものとする」(八条)などと定められた(なお、〈証拠略〉中には、右三条にいう「自衛隊の施設」には空域も含むというのが運輸省側の感触であつた旨の部分があるが、同号証の二の内三条の解説には「施設(飛行場、射撃場、GM実験場等)」と例示されているところに照らしても、右証言部分は採用しがたい)。
(2) 行政管理庁は、航空行政に対する監察の結果、昭和三六年一月一三日、運輸省及び防衛庁に対する勧告を行つたが、その中で、自衛隊の訓練空域について「運輸省の行う航空交通管制の対象空域内に自衛隊が広汎な訓練空域を指定して…(いる)など、航空機運航保安上調整の必要があるものがある」とし、その説明として「自衛隊の行う指定訓練空域中には、松島局地飛行空域のような定期航空の幹線(仙台・札幌線)の一部を包含し、北は岩手県、南は茨城県、西は佐渡に及ぶ広い空域を占めるもの…があつて、民間機と自衛隊機との航空事故の発生が懸念される」としていた。
(3) 運輸省航空局長は、防衛庁防衛局長に対し、昭和三六年五月一二日付空管第一〇一号をもつて、近く予定している高々度管制業務の発足に伴い、別添図に示す境界線内二万四〇〇〇フイート以上の空域を航空法二条一一項の航空交通管制区として、告示したいので協議する旨の申入れをした(別添図は〈証拠略〉とは異なるものであるが、その内容は明らかでない)。これに対し、防衛庁内部においては、ジエツトルートと自衛隊の訓練空域との調整、とくに特殊(曲技)飛行空域との分離、特殊飛行空域のWARNING AREAとしての告示又は公示等の希望が出され、これを受けた防衛局長は、運輸省航空局長に対し、同年六月二一日付「高々度管制区の設定について」と題する書面で、前記空管第一〇一号には異議がない旨、並びに、「現在自衛隊においては、部内規制により、訓練空域、曲技飛行空域、試験飛行空域及び射場を定めて現行の航空路等との空域利用関係を調整しているが、今回の高々度管制区の設定に際しては、この事情に即して、自衛隊の訓練飛行、試験飛行等の業務に支障を生ぜしめないよう空域利用関係の調整を図られたい」とし、その詳細を後日提案するとした。
そして、防衛庁航空幕僚監部防衛部長から運輸省航空局技術部長宛、同年七月二五日付書面をもつて、右の提案の具体案として、次の要望がなされた。すなわち、高々度ジエツトルートは三種に区分し、常用ルートは右書面に別添の付図のとおりとし、公示すべきもの、特殊ルートはRANGE、訓練空域等が閉鎖のときのみ使用できるものとし、直行ルートは必要に応じ航空機からの要求により飛行できるもので、原則としてレーダー・アドバイサリー・サービスの可能なときのみ許可するものとすること、「局地飛行訓練空域の設定等について」として「二万四〇〇〇フイート以上の空域の内特に自衛隊機の訓練に必要な空域(別添付図参照)を設定(公示)し、WARNING AREAとすること、一万二〇〇〇フイートから二万四〇〇〇フイートの空間におけるジエツト機のVFR訓練は、従来どおり実施し得ること、高々度ジエツトルートの新設に伴い、現行の航空路の内必要度の少ないものは整理すること」などが示された(なおここでの別添付図の内容は明らかにされていない)。右に、WARNING AREAとすることが希望された訓練に必要な空域とは、曲技、格闘戦の訓練を行う特殊訓練空域を意味する。自衛隊内には、一般訓練を含めて協議したいとの希望があつたが、最終的には特殊訓練のみを協議の対象としたものである(〈証拠略〉中、右の訓練にはレベルフライトの訓練を除く通常の訓練を含むと理解していた旨の部分は、同美濃部の証言に対比して、採用し得ない)。
(4) 右の経過を経て、昭和三六年八月一六日、「特殊訓練空域の設定に関する航空局、航空自衛隊、米空軍の三者会議」が開かれた(右日時に右三者の会議が開かれた事実は当事者間に争いがない)。その議事録に会議の目的として掲げられたところによれば、右会議は、航空局の立案したジエツトルートにつき、航空自衛隊から訓練上その一部は望ましくないのでこれを削除し、高々度管制区域内におけるジエツトルートと特殊訓練空域との調整を図つてほしいとの要請があつたため、右両者及びジエツトルートの使用者としての米空軍の意見の調整を図るために行われたものである。右会議では、航空局側から高々度管制の計画案、ジエツトルートの必要性等について説明があり、航空自衛隊側より、基地の数等から航空自衛隊が基礎的訓練に重点を置いている現状では特殊訓練空域は必要であること、しかし、この特殊訓練空域はその区域内の他の航空機の飛行を何ら制限するものではないこと、航空自衛隊によるジエツトルート削除の目的は、これにより当該地区の交通量をできるだけ減らし、訓練機との事故の可能性を減少させることにあること、これらの訓練はいずれも有視界飛行状態においてのみ行われること、などの説明があつた。そして、協議が行われ、個々のジエツトルートについて必要性を検討したうえ、結論として、自衛隊の特殊訓練空域の一部をジエツトルートと重複しないように移動、削除、縮小し(ただし、付図が提出されていないため、各空域の具体的な特定は明らかでない)、ジエツトルートの一部を削除し、新設しあるいはいつたん撤回されたものを復活させるなどを具体的に定め、なお、特殊訓練空域については公示はしないこととする旨を定めた。右特殊訓練空域を公示しないこととしたのは、公示により当該空域から他の一般交通が排除されるごとくとられることを慮つた運輸省側が反対したためである。
右の会議の際、日本の上空全部の高々度についてポジテイブ・コントロール・エリア(特別管制空域)としてIFR機の飛行のみを認めることとするという希望が雑談的に述べられたが、当時その実施を可能にするような技術面及び設備面の条件は備わつておらず、その実施が現実問題として検討されたことはなかつた。
(5) 以上の経過に基づき、空管第二六八号が実施されるに至つた。
(四) 右に見たとおり、空管第二六八号の「別添飛行方式」にはジエツトルートの幅としての空域が表示されていたが、「別添付図」には幅は表示されず、後の管制方式基準には、ジエツトルートを二点間を結ぶ直行経路と表示し、右幅に相当する部分を保護空域としているが、保護空域は公示されなかつたのであるから、ジエツトルート自体は幅のない直線であつて、IFR機は、右直線に沿つて飛ぶことに務めるよう要請されており、ただ、厳格に直線上を飛行することは不可能であるため、保護空域の範囲内でルートから外れることを管制の観点から許容されているにすぎないと解すべきである。
そして、〈証拠略〉によれば、航空自衛隊の飛行部隊の幹部においては、本件事故当時、保護空域の存在を知つている者も知らなかつた者もあり、また、日本航空のベテラン機長ですら、保護空域という語は知らなかつた者があることが認められる。
(五) また、以上に見たところによれば、ジエツトルート又はその保護空域内をVFR機が飛行することについては、前記巡航高度の定めがあるほかは、格別の規制はないものと認められる。
2  空管第二六八号以後の経過
(一) 〈証拠略〉によれば、次の事実が認められる。
(1) ICAOにおいては、一九六三年、ポジテイブ・コントロール・エリアの思想のもとに、フライトレベル二万フイート以上及び夜間の有視界飛行方式による飛行を禁止する勧告を発したが、わが国は、これに対し、高々度管制を始めて間もないことと、米軍及び航空自衛隊との調整が必要であることにより、直ちに勧告に全面的に従うよりは段階的に実施した方が良いとして、ICAOに差異通報を出していた。
(2) その後、IFR機とVFR機との異常接近が増加の傾向にあることが問題とされ、航空自衛隊内においても、航空路を横切る場合は、直線的に横切るべく、斜交通過や直近の平行飛行を極力避けるべく、また訓練空域を厳守すべき旨の指導が再三なされ、昭和四二年一月二四日航空幕僚長通達をもつて、航空路(G―四、G―五等)、高々度管制区ジエツトルート(J20L、J30L)及びターミナル管制区域(東京、大阪、浜松―名古屋)を飛行する場合は、特に見張りと早期自主回避を適切に実施することの指導がなされていたが、やがて、その対策のため、航空交通管制運営懇談会の中に異常接近防止分科会が設けられ、昭和四三年一一月八日から同四五年九月二五日までの間四回にわたり、運輸省航空局と防衛庁の担当官に米軍、日航、全日空の担当者を加えて討議がなされた。右分科会においては、航空局から、漸次ICAOの勧告を実現したいとの方向が示され、意見が述べられ(ICAOの定めは軍用機には適用されないが、航空局からは、特別なミツシヨン以外は自衛隊機もこの方針に従つてほしいとの意見が示された)、特別管制空域として、ターミナル空域で既に実施していた東京(羽田)、大阪各空港の着陸経路については空域を拡大し、他の数空港についても同様の空域を設定し、また、エンルート空域では、特に交通繁忙な航空路である東京―大阪(G―4)、大阪―福岡(G―5)、東京―札幌(A―7)を特別管制空域と定めることを予定して、そのための試験を行うこと、また、試験飛行・訓練飛行空域を交通繁忙な航空路及びターミナル空域から分離して設置することを検討すること等が定められた。
(3) その間、航空自衛隊においては、昭和四五年一月二六日付航空幕僚長名の「航空機の運航に関する達」をもつて、運航についての基本原則を隊員に示したが、その中で、ジエツトルートを「高々度管制区における航法援助施設間を結ぶ名称を付された飛行経路であつて、運輸大臣が航空情報により公示したものをいう」と定義し(二条一五号)、「航空機は、航空路その他常用飛行経路及びその付近においては、特に見張りを厳にして、他の航空機への異常接近を防止しなければならない」と定めた(一九条二項)。
(4) しかし、ジエツトルートと訓練空域の分離等が、関係省庁間の協議で実行されたのは、本件事故後であつて、本件事故直後の昭和四六年八月七日、急きよ、航空交通安全緊急対策要綱が定められ、航空路、航空交通管制区においては有視界飛行方式を低高度に制限すること、ターミナル特別管制区を追加、拡大すること、主要な航空路(ジエツトルートを含む)の内航空交通の輻輳する区間について特別管制区域を設定すること、航空路及びジエツトルートを横切る自衛隊機専用の回廊を設定すること等について速やかに運輸省と防衛庁が協議するものとされ、その後自衛隊の訓練空域の多くが海上に移動され、航空路の縁辺及びジエツトルートの保護空域から更に五マイル離して設けられるようになつた。
(二) 〈証拠略〉によれば、高々度管制区の実施以後次第に航空路監視レーダーが設けられるようになつたが、本件事故当時は、箱根と福岡県三郡山にレーダーが設置されていたのみであり、箱根レーダーの電波の届く範囲は、半径二〇〇海マイル、高度二万一〇〇〇フイートまでであつて、東北地方に及ばず、東北地方には昭和五一年宮城県上品山にレーダーが設置されたのが初めてであつたこと、昭和六〇年四月現在では、一三か所にレーダーが設置され、日本上空を全てカバーできるようになつたが、現在でも、全土でレーダーによる全面管制を行うには至つていないこと、VFR機については、レーダーの整備をまつて、昭和三九年から東京(羽田)空港を皮切りに順次他空港に及んで、出発進入経路周辺が特別管制区と指定されたにとどまつていること、以上の事実が認められる。
(三) 〈証拠略〉によれば、本件事故当時、ジエツトルートJ11Lを飛行する航空機は一日約三〇機で、その大部分が札幌―東京間の定期便であり、同ルートは南行便専用ルートとされていたこと、この飛行数は東北地方では最も多い方であるが、他の地方の交通繁忙なルート例えば東京―大阪―福岡間などよりは少なく、全国的には中位の飛行頻度であつたことが認められる。
3  訓練空域
(一) 松島派遣隊及び第四航空団が別紙図面三の二表示の範囲を松島局地飛行空域と定め、更にその中に別紙図面三の一表示の細分化された五つの局地飛行訓練空域を定めて、いずれも「訓練空域」とし、飛行訓練(第四航空団にあつては、対戦闘機戦闘訓練及び曲技飛行)は原則として右の細分化された五つの訓練空域内で行うものとし、また、ジエツトルートJ11Lの両側各五海マイルを飛行制限空域と定めて、そこにおいては、とくに定められたもの以外の飛行訓練はやむを得ない場合を除き実施しないものとしていたこと、本件事故当日、隈、市川に割り当てられた具体的な訓練空域は右細分化された五つの訓練空域以外の当日臨時に設定された「盛岡」と称する空域であつたこと、以上の事実は先に認定したところである。
(二) 〈証拠略〉によれば、次の事実が認められる。
(1) 航空自衛隊の各方面隊は、航空幕僚長の通達(昭和三七年頃)「局地飛行空域の設定手続処理要領」に基づき、各担任防衛区ごとに局地飛行空域を定め、各方面隊内の各基地も、訓令、達等を受けて、それぞれ局地飛行空域を定めており、松島派遣隊及び第四航空団の前記局地飛行空域もその一つであるが、これは、当該方面隊所属の訓練機の識別、飛行場の運用の必要性から設けられたものである。局地飛行空域の中に細分化された訓練空域を設けることについては、上級規則はなく、各部隊が任務や装備等に応じて独自に設けるものであつて、全く細分化していない部隊もあり、局地飛行空域全部をほぼ枡目状に切つて細分化し、特定の課目に限定しない使用区分としている例や、局地飛行空域を数個に分けて使用区分とするほか、特定地点を中心とする円内を空中操作や曲技飛行等の実施空域としている例等があるが、松島派遣隊のように、航空路で囲まれた三角形ないし四角形の範囲を訓練空域と定めている例は少ない。このような細分化された訓練空域を設ける目的は、教育部隊にあつては、特定の課目に便宜であるというよりは、訓練機の掌握、指揮に資することと、在空の自衛隊機相互の分離、安全のためであつたが、次第に民間航空機との分離という要請をも考慮する必要が生じて来ていた。次に、航空法八〇条に基づく飛行禁止区域を定める告示は、本件事故当時未だ出されていず、航空自衛隊において、石油コンビナート、原子力発電所等の上空を飛行禁止区域と定め、また空対空射撃訓練を特定の条件下に制限する飛行制限空域を設けているが、松島派遣隊のごとく航空路、ジエツトルートの両側を飛行制限空域としているのは、特殊な例である。
(2) 松島派遣隊においては、飛行訓練準則を隊員に配布し説明することにより、局地飛行空域、細分化された訓練空域、飛行制限空域の存在を教官、訓練生に知らせ、隈もこれについて一通りの知識は持つていた。
ところで、松島派遣隊の細分化された訓練空域は、概ね航空路の縁を境として定められている(例えば、横手空域は、W―8、W―31、W―32、R―15に囲まれた範囲である)が、F―86F機による訓練は、二万五〇〇〇ないし三万五〇〇〇フイートの高々度を主体として行われるので、むしろジエツトルート及びその保護空域との関係が客観的には問題をはらんでいた(もつとも、東北地方で保護空域を全部除くと、ごく僅かな空間しか残されないこととなる)。しかし、細分化された訓練空域自体の広さが、訓練課目によつては十分なものでなく、また、訓練空域を細分化した本来の目的は前記のとおりであり、その定め方も松島派遣隊独自のものであつたこともあつて、同隊の幹部においては、訓練は割り当てられた細分化された空域を中心として行うべきであるが、必ずしもその範囲を厳格に守らなければならないものではなく、そこからはみ出しても、局地飛行空域内で、飛行制限空域外であれば、訓練を行つて差し支えないものと理解されていた。
(3) 異常接近の増加に伴い、昭和四一年三月七日、航空幕僚長から各部隊司令官等に宛て、訓練空域を厳守されたい旨、また最近の航空路、ジエツトルート等の関係から訓練空域を再検討されたい旨の示達があつたが、右の厳守すべき訓練空域とは、既設の細分化された空域に限らず、訓練の都度指定される空域を含む趣旨であつた。
(4) もつとも、訓練空域を全面的に海上に移すことについては、基地から訓練空域までの往復の距離が長くなると、航空機の航続距離との関係から、訓練が制約されること、また、訓練生の単機による飛行訓練に当たつて地上の事物との関係で位置確認をすることができないことから、航空自衛隊としては支障が大きいとされていた。
二  ジエツトルート及び訓練空域の設置及び管理に関する過失―国賠法一条に基づく責任(その一)
第一審原告らは、国が高々度管制を実施し、ジエツトルートを設定してIFR機を管制下に置くに当たり、ジエツトルートと訓練空域、IFR機とVFR機とを完全に分離することによつて、安全確保システムを確立すべきであつたのに、運輸大臣及び防衛庁長官はその措置を尽くさず、航空交通の安全を確保すべき注意義務に違反した過失があると主張するものと解される。
1(一)  運輸大臣が、航空行政全般を主管し、統轄する権限を有することは、航空法及び運輸省設置法の規定上明らかであり、航空機の運航についてみれば、航空交通管制区又は航空交通管制圏を指定し(航空法二条一一、一二号、九四条の二)、右管制区又は管制圏においては離・着陸や飛行の方法等について指示を与え(同法九六条)、飛行計画の通報を受け、その承認を与え(同法九七条)、一定の禁止事項について例外的な許可を与える(同法七九ないし八一条、八四条、八七条、八九ないし九一条、九三条、九四条の二、九五条等)等の権限を有し、高々度管制区の指定はもとより、ジエツトルートの設定も、これら航空の運航に関する規制権限に基づくものであり、ジエツトルートを利用する飛行計画の承認に反する飛行に対しては罰則をもつて臨む(同法一五四条一項一〇号)ことによつて、右規制には強制力も具備されているのである。そして、運輸大臣のこれら規制権限の行使には、航空交通に関する行政の合目的的見地からする自由裁量に委ねられている部分が少なくなく、例えば、いかなる範囲を航空交通管制区と指定し、その中においてどのような飛行方法を指示するかは、その時々における各種航空の需要の程度、安全のための必要性、規制によつて生じ得る支障、規制に必要な人的・物的設備の有無等を総合して、判断すべきものと解される。
(二)  ところで、空は、本来、土地所有権の合理的な行使の及ぶ範囲を除き、万人の自由な使用に任されているものであり、国は、国家主権の及ぶ範囲において、法令の規定に基づき、一定の行政目的から、空域の自由使用に対して規制を加えるものであるが、空管第二六八号以前においては、飛行場周辺や航空路における管制の外に、高々度については特段の規制は存在しなかつたのである。そして、運輸大臣が、高々度において管制を実施するに当たり、いかなる規制を行うかは、前記のとおり、その当時における各種航空の需要の程度、交通量、規制に必要な人的・物的設備の整備の状況及びそれに応じての規制の実効性、複数の規制方法がある場合には各方法の優劣を総合的に判断して決定すべきことである。しかし、このような規制権限の行使が運輸大臣の自由裁量に属するといつても、空域利用者の一部の者の自由使用を合理的な範囲を超えて制限し、利用を著しく困難にするような規制を行う権限を当然に有するものではなく、各利用者の利用の目的・必要性、とくにその公益性を考慮し、その調整を図るべき責務があるものといわなければならない。
この見地からすると、航空自衛隊及び米軍は、従前からの航空とくに高々度の重要な利用者であつたことが明らかであるから、運輸大臣が防衛庁長官との間に航空交通管制区等の指定については予め協議する旨の覚書を交わしており、高々度管制の実施に当たり、航空自衛隊及び米軍と協議を重ね、ジエツトルートと訓練空域との調整を図つたことは、妥当かつ必要な措置であり、その結果も、危険の大きい特殊訓練空域をジエツトルートと牴触しない所へ設置させるなどの一応の成果を収めたものということができ、その後も、異常接近の増加に対応して、更に防止策について検討し、防衛庁等と協議を重ね、他方でその間、物的設備の整備とともに、必要性の高い空港周辺に順次特別管制区を指定することによつて管制を強化していたのであつて、決して手を拱いていたわけではなく、航空自衛隊の訓練飛行に関して、より早期により厳格な規制をすることが可能であつたというべき事情は見出しがたい。そうすると、本件事故当時までに、結果として十分な安全対策が確立されなかつたからといつて、運輸大臣が安全対策を講ずべき義務を怠つていたものと評価することは相当でないというべきである。
(三)  ところで、第一審原告らの主張は、見張り不能を前提とするものであり、航空機の高速化が見張りのみによる安全の確保を至難にしている事情は肯けないものではない。しかし、見張りすなわち目視による安全確保は交通安全の基本であり、航空法九四条は、「航空機は、有視界気象状態においては、計器飛行を行つてはならない。」と規定し、〈証拠略〉によれば、右規定は同法二条一五号の「計器飛行」すなわち「航空機外の物象を見て、これに依存することなく、計器にのみ依存して行う飛行」を禁止するものであつて、無線による管制を受けたIFR機も、有視界気象状態においては、見張り義務を免れないことを規定したものであると認められる。また、〈証拠略〉によれば、日本航空及び第一審原告全日空においても、IFR機であるとVFR機であるとを区別せず、機長及び副操縦士に見張りを怠らないよう指導していることが認められる。
そして、前記認定事実によれば、実際の飛行における調査、実験等によつて、小型機についても、かなりの距離(回避可能な距離)から視認が可能であることが明らかにされており、航空機操縦者は、視力が良好であることを要求され、しかも、訓練を受けて資格を取得するものであることに鑑みれば、空中における見張りが不可能であるというべきではない。
全ての航空機が計器に依拠した飛行を行うようになつても、計器の誤差や故障、人間の側の操作や判断の誤りが皆無となることを期しがたい以上、本来最も基本的な事故防止のための義務である見張り義務を存続させることは理由があることであり、まして、VFR機が混在する場合には、見張り義務は極めて重要な義務というべきであり、また、逆にそのような見張り義務の存在を前提としてIFR機とVFR機を完全に分離しなかつたことをもつて、直ちに違法とすることはできない。
2(一)  防衛庁長官は、自衛隊の隊務を統括する者として、傘下の航空自衛隊の業務を指揮監督し、その所属の航空機の運航に関し、他の航空機との間の安全を確保する見地から、これを規制する権限と義務を有することが明らかである。すなわち、防衛庁長官は、航空自衛隊の業務の性質上不可欠な飛行訓練を安全に行うことのできる空域を確保しなければならないとともに、それが民間航空機の交通する空域と重複するときは、両者の必要性の度合に応じて使用区分を定めるよう運輸大臣と協議し調整を図り、所定の飛行ルートに従つて飛行する航空機の運航に危険をもたらすような訓練をできるだけ行わないよう配慮すべきである。しかし、航空自衛隊が各基地から遠くない所に相当広汎な訓練の場を必要とすることは先にもみたごとく首肯し得ることであり、他方、民間機の常用飛行経路であつても、利用頻度によつては、常時その専用に委ねる必要もないのであるから、必ずしもこれと訓練空域とを全く分離しなければならないものではなく、隊員に対し、特に見張りを厳重にして飛行するよう注意を喚起するなども、安全確保の一方策たり得るものと解される。
前記認定事実によれば、防衛庁長官は、運輸大臣との間に、高々度管制の実施に当たつて、訓練空域との調整につき協議し、とくに危険性が考えられる曲技飛行及び対戦闘機戦闘訓練を行う空域の移動に応じ、以後も異常接近防止分科会において航空路等常用飛行経路と訓練空域との分離等の検討を続け、その間、傘下各部隊に対し、再三、航空路及びジエツトルートにおける飛行について特段の注意を促す指導をくり返していたのであり、とくに本件との関係では、松島派遣隊の自主的規制としてであるが、ジエツトルートJ11Lの近傍すなわち、両側各五海マイルを飛行制限空域と定めていたのである。この事実によれば、結果的に空域分離が不徹底であつたとしても、防衛庁長官が安全確保の義務を怠つていたものと断定するには足りないというべきである。
(二)  第一審原告らは、機動隊形による編隊飛行訓練は、曲技飛行、対戦闘機戦闘訓練などと同様に危険なものであるから等しく規制されるべきであると主張するようである。しかし、〈証拠略〉によれば、曲技飛行とは、国際民間航空条約第二付属第一章に「航空機の姿勢の急変、変則的な姿勢又は速度の変則的な変動を含む、航空機により意識的に行う行動」と定義され、航空法九一条に「宙返り、横転その他」と例示されているとおりのものであり、対戦闘機戦闘訓練とは、二機の戦闘機が互いに攻撃のために有利な地位に立つべく相手機に追尾しようとして宙返り、反転などをくり返す訓練であつて、いずれも急激に変化する運動を行い、その間他の物に対する見張りの可能性を一時的にもせよ全く失うものであること、機動隊形は、必ずしも戦闘時の隊形であるとは限らず、警戒、索敵のためにもなされるものであつて、旋回とそれに伴う速度、高度の変化をくり返すが、その変化は比較的穏やかなものであり、見張りが不可能なことはなく、むしろ見張りが可能であることを前提としての隊形であること(初心者の訓練生が不慣れなために事実上見張りが困難であることは別個の問題である)、したがつて、自衛隊の教育過程においても、機動隊形による編隊飛行訓練は、曲技飛行、対戦闘機戦闘訓練とは全く別個の課目として取扱われていること、以上の事実が認められる。したがつて、機動隊形による編隊飛行訓練と曲技飛行・対戦闘機戦闘訓練とは見張り可能性、危険性の点において全く異なることが明らかであつて、訓練空域を定めるに当たつてこれらを同等に取扱わなかつたからといつて、交通の安全に対する配慮を欠くことにはならないというべきである。
また、第一審原告らは、機動隊形は戦闘隊形であり、非常時飛行秩序に属するから、平常時においてはその訓練であつても一般の空域において行うことは許されない旨主張するが、機動隊形の編隊飛行自体が必ずしも戦闘行為でないことは右のとおりであるばかりでなく、自衛隊の目的に鑑み、戦闘の訓練を平時に行うことを違法視する理由は更になく、これを特別に設定した空域で行うかどうかは、戦闘行為であるかどうかではなく、その危険性の程度に応じて定めるべきことであるから、右主張も理由がない。
なお、第一審原告らは、航空法九二条、九三条により、運輸大臣の許可を受けないで、航空交通管制区において訓練飛行を行つてはならない旨を主張するかのようであるが、右規定は、同法二八条による航空従事者技能証明を有しない者が同法三五条による許可を受けて操縦練習を行う場合の規定であつて、自衛隊法一〇七条は、航空法二八条一、二項の適用を自衛隊の航空機運航従事者について除外し、技能に関する基準を独自に定めることとしており、防衛庁長官の技能証明を受けた自衛隊員が行う訓練飛行は、同法九二条、九三条の規定する操縦練習に当たらないことが明らかである。
そのほか、防衛庁長官が機動隊形の編隊飛行訓練を行う空域について特段の配慮をすべき義務があつたとする根拠は見出すことができない。
3  以上のとおりであつて、第一審原告ら主張の安全確保システムの確立に関し、運輸大臣及び防衛庁長官がその注意義務を怠つたと認めるには足りず、この点についての第一審原告らの主張は採用することができない。
三  営造物の設置・管理の瑕疵―国賠法二条に基づく責任
国賠法二条にいう「公の営造物」とは、国又は公共団体が特定の公の目的に供する有体物及び物的設備をいい、少くとも事実上、右の目的に則した管理を及ぼし得るものであることを要すると解される。ところで、空は、本来無限の広がりを持つ空間であり、そこに航空機の飛行すべき一定の飛行経路や空域を定めても、その限定は観念的なものであつて、一定範囲の空間が他から独立した一個の有体物ないし物的設備となるものではない。第一審原告らは、右にいう営造物とは可視的な有体物に限らないと解すべきであり、ジエツトルート、航空路等は、航法援助施設の発する無線電波によつてその範囲が物理的にも特定され、管理されていると主張するが、電波による管理とは、航空機が各航法援助施設の発する電波の周波数に受信機を同調させることによつてこれを覚知し得ることのみを意味するもので、当該周波数を選択しない航空機は、その範囲を具体的に知ることができないのであるから、このような電波によつて管理される空間の範囲を可視的な有体物と同視し得るか否かは疑問である。すなわち、本件で問題にされる営造物の安全性とは、ジエツトルートないしその保護空域について、当該ルートを飛行する飛行計画の承認を受けたIFR機が優先して飛行することができ、他機は濫りにその空域に立入つてはならず、あるいは立入る場合には特段の注意を払わなければならないことが他機にとつて明らかであることを前提とするものと解されるが、このように観念的な線引と電波によつてのみ範囲が特定される場合には、他機は、地図等によつて観念的にはジエツトルートの位置を知り得ても、実際の飛行において、ジエツトルート及びその保護空域の具体的な位置範囲を認識することは常に必ずしも可能ではなく、また、管制者側においても、飛行承認を与えた航空機以外の航空機の飛行を監視し、侵入に対して警告を発しあるいは排除する等の有効な手段を持たないのであるから、安全確保の見地から、事実上の管理可能性があるとはいいがたいのである。そうしてみると、自然公物も公の営造物に含まれ得るとしても、ジエツトルート及びその保護空域が公の営造物に含まれると解することは困難であり、したがつて、国賠法二条による責任の主張は、その余の点について判断するまでもなく、失当である。
四  本件訓練に関する自衛隊員らの過失―国賠法一条に基づく責任(その二)
1  訓練空域の指定に関する松島派遣隊幹部らの過失
(一) ジエツトルートは、航空路と異なり、直接法律に根拠を置くものではなく、運輸大臣が航空交通の管制の方法として定め、公示したものであるが、航空機の常用飛行経路とされ、当然に多数の航空機の航行が予想されるものである点において、航空路と全く異ならず、しかもその航空機は航空路を航行する航空機に比しいつそう高速化されたジエツト機であろうから、例えば、航空路での曲技飛行を禁止する航空法九一条二号の規定はジエツトルートにも類推適用されると解する余地があり、ジエツトルートを横切る場合にも航空路と同様の注意をもつてすべきであり、前記のとおり、ジエツトルート及び航空路の近傍では、危険性の高い飛行訓練はできるだけ避けるべきものと解される。しかし、ジエツトルートは直線をもつて定められていて、幅はなく、保護空域は管制のための基準として定められたもので、公示されていず、航空自衛隊の飛行部隊の幹部にすらその存在は必ずしも知らされていないのであるから、VFR機が保護空域を侵犯してはならないとの法律上の義務を認めることはできない。
(二) 他方、航空自衛隊の各部隊における局地飛行空域は、自衛隊の内規に基づき定められたものであり、松島派遣隊における細分化された訓練空域及び飛行制限空域は、同隊が、格別の上部規則によらず独自に(第四航空団を見習つたものではあるが)定めたものであるから、その逸脱、侵犯が直ちに違法を来たすものではないばかりでなく、前記認定事実によれば、細分化された訓練空域は、そこを中心として訓練の場所を振り分ける一応の目安ともいうべきものであつて、必ずしもそれを厳格に守らなければならないものではなく、同空域外でも、局地飛行空域内でかつ飛行制限空域を侵さない限り、訓練を行つて差支えないものと理解されていたものである。しかし、右飛行制限空域は、ジエツトルートの近傍において訓練を行うときは同ルートを飛行する航空機と異常接近する危険性が高いことから定められたものであることが明らかであり、その存在は隊員にも知らされているので、ジエツトルートの両側各五海マイルについて危険性がとくに警告されているものといえるから、同隊所属の隊員が飛行制限空域の存在を忘れ又はこれを知りながら故なく、同空域内において、例外的に許容されたもの以外の訓練を行い又は部下に行わせた場合には、これによつて事故を発生させたときに、過失を推認させる強い事情があるというべきである。
(三) 先に認定したとおり、松島派遣隊において、土橋三佐は、本件事故当日朝、隈、市川の編隊に訓練空域を割り当てるにつき、飛行制限空域の両側に跨がる空域を漠然とした仕方で指示し、田中飛行隊長、松井飛行班長もそれを承認し、これに基づき隈、市川の編隊に「盛岡」と称する空域が割り当てられ、訓練が行われたのである。そして、先に認定した空中接触地点とそこへ至る自衛隊機の飛行経路によれば、隈、市川は、飛行制限空域内で機動隊形による旋回を含む編隊飛行訓練を行い、同空域内で本件事故が惹き起こされたことが明らかである。もつとも、〈証拠略〉によれば、松井、小野寺教官は、土橋の指示した範囲から当然飛行制限空域は除く趣旨と理解した旨供述していることが認められ、また、〈証拠略〉によれば、隈は、割り当てられた空域の範囲や飛行制限空域を除く旨の明確な説明は受けなかつたが、飛行制限空域の存在は知つていた旨供述していることが認められるのであり、実際に訓練に当たる者が飛行制限空域の存在に留意して、これを避けて訓練を行えば、危険を発生させずにすむのであるから、本件事故発生の原因となつたものは実際の飛行機操縦者の過失による行為であつて、土橋の指示と本件事故発生との間には因果関係が存しないのではないかということが一応問題となる。しかし、右指示にかかる訓練空域は、その外延を明確に限定されてはいないが、その中央を飛行制限空域で分断されて狭隘なものとなることが明らかであり、実際に飛行する隊員の側に、飛行制限空域の位置についての正確な認識があり、これを遵守すべきことを意識しているのでなければ、このような空域を割り当てられた隊員が訓練飛行をするときは、漫然と飛行制限空域に入り込む虞れが大きいと考えられる。〈証拠略〉によれば、隈は、ジエツトルートJ11Lが北上川付近にあると思つていた旨供述するように、その位置、したがつて飛行制限空域の位置も正確に認識してはいず、しかも現実にも本件訓練に当たつてはその存在を十分意識しないで飛行していたごとく窺われるのであり、そうだとすると、飛行制限空域の存在について注意を喚起し、これを除外するよう説示することなしに、漫然とこれを含む空域を臨時の訓練空域と指定したことが、隈をして、飛行制限空域に立入つて飛行訓練を行わせ、その結果本件事故を惹起させる原因を与えたものであり、このような事態は土橋らにおいても予見し得ないものではなかつたと認めるべきである。したがつて、松島派遣隊において、本件事故当日、隈、市川に飛行訓練を行わせるにつき、具体的には土橋及び田中、松井のした臨時の訓練空域の設定、指示において、安全を確保すべき注意義務を怠つた過失があるというべきである。
2  隈、市川の過失
(一) 〈証拠略〉によれば、市川のように機動隊形の編隊飛行訓練をほとんど初めて行う訓練生については、機動隊形の標準的飛行要領に従つて教官機に追従するのが精一杯であつて、飛行位置の確認をする余裕もなく、また、見張りをすることも事実上ほとんど期待し得ないものであるところから、航空自衛隊内においては、飛行制限空域等とくに交通の危険の大きい場所に留意して訓練を行うべき義務及び編隊全体の航行に必要な見張りをすべき義務は、全面的に教官が負うべきものと考えられていたことが認められる。
(二) したがつて、本件訓練飛行に当たり、隈においては、割り当てられた臨時の訓練空域には、ジエツトルートJ11Lがあり、その両側各五海マイルが飛行制限空域とされていることに留意し、同空域に入つて訓練することを避け、また、やむを得ずこれに立入るときには、同空域を民間航空機がかなりの頻度で飛行している可能性があることを考えて、これに対する警戒に困難を生ずるような飛行形態をとらないようにし、見張りをとくに厳重にしなければならない条理上の義務があつたものというべきである。しかるに、既に認定した事実によれば、隈は、ジエツトルートJ11L及びその両側の飛行制限空域の存在を知らなかつたわけではないが、本件訓練に当たつてその存在を十分に意識せず又はその位置の判断を誤つて右空域内に入り、しかも、その中で、見張りが疎かになり勝ちな旋回飛行を行つて、訓練生機を全日空機の進路に接近させ、延いては本件事故に至らせたものであつて、この点において、隈は、本件事故発生につき過失を免れない。
(三) また、隈は、機動隊形による編隊飛行訓練を行う教官として、全面的な見張り義務を負うものであり、右隊形による旋回飛行を行う場合には、訓練生機と他機との接近可能性についても注意を払うべきである。同一水平面上を水平定常飛行する航空機同士の間では、第一審被告主張のように、相互に進行方向左右各七〇度の範囲で見張りをしていれば、通常は安全を確保し得るとしても、本件のように、機動隊形の編隊飛行訓練を行う場合の教官は、訓練生機の飛行方向に対する見張りをもなすべき義務があり、しかも、旋回中は危険な方向が拡大しあるいは刻々移動するのであるから、教官の見張り義務は、視認可能な限りの全範囲に及ぶべきであり、かつ、教官にはそれだけの能力が期待されているというべきである。したがつて、隈は、本件の具体的状況下にあつても、左右各一三二度までの見張り義務を負うものというべきであり、この義務を尽くしていれば、早期に全日空機を発見して接触の危険性を知り、これを回避し得たものと認められることは既に認定した事実から明らかである。しかるに、隈は、この義務を怠つて、全日空機の発見が遅れたため、訓練生機に回避の措置をとらせるのが間に合わず、本件事故に至つたものであつて、隈はこの点において過失の責を免れず、その過失は大きいというべきである。
(四) 市川は、見張りを行うことを事実上期待しがたいものではあつたが、単独で航空機の操縦に当たる者として、原則としての見張り義務を負うものであり、左右七〇度の範囲で見張りを行つていれば、早期に全日空機を発見し得る機会があり、これを回避し得たものと認められるから、市川も小なりとはいえ過失の責を免れることはできない。
3  土橋及び田中、松井並びに隈、市川が国の公権力の行使に当たる公務員である航空自衛隊員であり、その職務の執行について右のような過失があつたものであるから、国は、本件事故につき国賠法一条による損害賠償責任を負うものである。
第三  第一審原告全日空の責任
一  回避義務
1  追越機の回避義務
第一審被告は、全日空機が航空法施行規則一八五条にいう追越機として回避義務を有すると主張し、〈証拠略〉によれば、国際民間航空条約第二付属書3・2・2・3(なお、航空法一条参照)においては、「追越機とは、他機の対称の平面に七〇度未満の角度をなす線上を、後部から他機に接近する航空機であり、換言すれば、夜間において付録Bの111(a)又は(b)に規定された他機の航空機航空灯のいずれをも見ることのできない関係にある航空機である」と定義され、右の航空灯とは、両主翼の翼端に設けられた赤色及び緑色の灯火であることが認められるところ、〈証拠略〉によれば、全日空機が訓練生機に対して本件接触前において右定義のような位置関係にあつたものとは認められない。もつとも、〈証拠略〉によれば、接触前七秒頃にそのような位置関係が生じたものと認められないではない。しかしながら、社会通念上追越しとは、速度の違う二者が前後してほぼ同一方向に向かつて直進する状態がある程度の時間継続することを意味するものと考えられ、第二付属書の右定義も、それを前提として、その相対的位置関係を示したものと解される。本件においては、接触前数秒間に限つてみれば、両機の進行方向は直線に近く、前方で小さな角度で交差する形になつているが、他方訓練生機は、全日空機から見ると、横の方から来て左旋回しながら接近して来たのであり、時間を遡るにつれて両者の進行方向の角度は開いて行くのであつて、全日空機側の回避措置が可能な時点である接触前七秒より以前においては、両機が追越関係にあつたものと認めることはできないというべきである(七秒より接触時までの間については、たとい全日空機に追越機の観念を入れる余地があつたとしても、既に回避措置をとることが不可能若しくは無益な段階であるから、これを論ずるまでもない)。
2  進路権と回避義務
第一審原告らは、航空法施行規則一八〇条、一八一条により、飛行の進路が交差又は接近する両機間において、全日空機を右側に見る訓練生機が進路を譲るべき義務があり、反面、全日空機は進路権を有するものであるから、同一八六条により進路及び速度を維持すれば足り、またそれが義務でもある旨主張する。同一八〇条、一八一条の規定は、本来は、直進水平飛行をする二機の進路の交差又は接近する場合についての規定であると解されるが、本件における訓練生機のように、左旋回をしつつもほぼ一定した曲線コースを辿り、その進路が直進機と交差する場合にも、実質的に直進の場合と区別する理由はなく、右規定を適用ないし類推適用する余地があるものと解され、全日空機に一応進路権があることを肯認できないものではない。そして、このように進路権のある航空機の早すぎる回避行動がかえつて危険を増加させる虞れがあることも前記のとおりである。
しかし、当時の航空法のもとにおいても、旧海上衡突予防法二一条但書(現一七条二、三項)の定めと同様、回避機が適切な回避動作をとらず、又は、回避機の回避動作のみでは衡突を避け得ない状態になつたときには、進路権を有する機も、衡突を避けるため最善の協力動作をしなければならないものと解すべきであり、〈証拠略〉によれば、国際民間航空条約第二付属書3・2・2も、進路権の規則においては、航空機の機長が衡突を回避するため最善の措置をとることについて、その責任を軽減するものではない旨定めていることが認められ、右の解釈は、航空交通を規律する条理でもあるということができる。
本件において、先に認定したところからすれば、全日空機操縦者らとしては、接触前七秒より数秒前までに訓練生機を視認し、以後継続してその動静を注視していれば、同機が同一形態の飛行を続けて、次第に自機の進路に接近し交差する方向に進行しており、しかも、訓練生機が全日空機を回避する措置をとる形跡がなく、回避可能のぎりぎりの所まで切迫して来たことを認識し得たのであるから、接触前七秒には自ら回避措置をとることを決断すべきであり、かつ、右旋回によつて回避することが可能であつたと認められる(それにもかかわらず、何らの回避措置をとらなかつたことは、自機が管制承認を受けてジエツトルートを巡航中であるという意識のほかに、この進路権の位置関係からして、訓練生機の方で回避すべきであり、回避するとの期待を抱いていたものではないかとの疑いが生ずる所以である)。そうすると、全日空機操縦者らは、回避すべき義務を怠り、その結果本件事故を惹起したものというべきである。
二  見張り義務
先に認定した空中接触地点及びそこに至るまでの全日空機の飛行経路等によれば、全日空機がジエツトルートJ11Lの保護空域内を飛行していたものと認められ、同機が計器飛行方式により飛行していたことも既に見たとおりである。しかしながら、高々度管制区を管制に従つて飛行するIFR機の操縦者においても、原則的に見張り義務を免れないものであることは、前記のとおりである。IFR機は、ジエツトルートの保護空域、巡航高度、出発管制における時間間隔によつて、一定の占有空間を他のIFR機との関係で保障されているものであるが、前記のとおり物的・人的な誤りが絶無でなくIFR機同士の異常接近もあり得ないとはいえず、いわんや当時の日本の航空の実情においてはVFR機の混在を避け得ないものであり、そのことは民間定期航空機の操縦に携わる者は当然知つていたものと考えられる。とくに、〈証拠略〉によれば、全日空機の川西機長、辻副操縦士及びカーペンター機関士の組は、本件事故当日朝の札幌発東京行五〇便に乗務しており、その飛行中岩手県上空において自衛隊機と遭遇し緊張したことがあつた事実が認められるので、本件事故当時の飛行においても、右機長らは、当然、他機のあり得ることを予測し得たはずであり、少なくとも前記第一、四2(三)にみた視野の点から通常視認可能と認められる左右各七〇度の範囲において見張りを厳重にすべきであつたということができる。そして、全日空機操縦者らにおいて、遅くとも接触前二〇秒までには訓練生機に対する視認が可能であり、接触前七秒より数秒以上前から視認し注意を払つていれば、接触を予見し回避し得たことは前記のとおりであるから、接触前七秒まで訓練生機を視認していなかつたとすれば、見張り義務を怠り、その結果本件事故を惹起したものというべきである。
三  過失
以上によれば、全日空機の川西機長及び辻副操縦士においては、見張りを厳重にし、訓練生機を視認したならば、その後はその動静に注意し、適切な時期に回避操作をなすべき注意義務があつたにもかかわらず、見張りを怠つて訓練生機を発見し得ず、そうでないとしても発見するのが遅れて適切な時期に回避措置をとり得なかつたものであるか、又は、視認しながら危険の判断を誤り回避措置をとることを怠つた過失があるというべきである。
四、責任
川西、辻が第一審原告全日空の被用者であり、その事業の執行につき本件事故が生じたものであることは当事者間に争いがないから、右川西、辻の過失により第一審被告国に与えた損害につき、第一審原告全日空は賠償の責に任ずべきである。
第四  過失割合
前記のとおり、航空自衛隊松島派遣隊員には過失があり、とくに、隈においては、多数の民間航空機の航行が予想されるジエツトルートの近傍で、かつ、同派遣隊がその危険性を考慮して飛行制限空域と定めた範囲内で、機動隊形の旋回運動を行い、その間右空域の危険性に応じた見張りを怠つていたもので、その過失は大きいといわなければならない。他方、全日空機操縦者らも、訓練生機を視認しながら危険が切迫しても何らの回避措置をとらなかつたのであり、また、そもそも見張りを怠つて視認すらしていなかつた疑いもあるのであるから、その過失は決して小さくはないというべきである。しかし、全日空機は、一応、管制のためにもせよ、安全のための横間隔として設定されていたジエツトルートの保護空域内を飛行していたものであり、しかも訓練生機との関係では進路権があると考えられる位置関係にあつたのであるから、この過失は、自衛隊員らの過失に比すれば小さいものということができる。そこで、以上に説示した諸般の事情を総合すると、両者の過失割合は、自衛隊側二、第一審原告全日空側一と認めるのが相当である。
第五  第一審原告らの損害
一  第一審原告全日空の損害
1  全日空機の機体損害
(一) 不法行為により物が滅失した場合における損害額は、原則として、その物の不法行為時の交換価額をもつて算定すべきである。第一審原告らは、全日空機の毀滅による損害について、同機が取得後四か月余りを経過したにすぎない新品同様の物であり、その喪失を補填するためには、同一型機の新造機を購入する外に方法がないから、本件事故時のB―七二七―二〇〇型機の新造機の購入価額をもつて損害額とすべき旨主張するが、短期間の使用であつても、使用による価値の減少を免れないので、使用による減価のない新造機の価額をもつて、本件事故時の全日空機の価額と同一とすることはできない。このことは、実際上、同程度に使用された中古機の取引がなく、新造機を購入せざるを得ない場合であつても、同様であつて、仮にこのような場合に新造機の価額の賠償を求め得るものとすると、旧機を購入してから滅失するまでの間無償で使用し得たのと同一の利得を得る結果となつて、相当でないことが明らかである。
(二)(1) 全日空機の本件事故時の評価額を直接証明し得る資料はない。したがつて、同機の価額は、取得価額から経過期間に応じた滅価償却を行つて求めるのが相当である。なお、〈証拠略〉には、B―七二七―二〇〇型機の新造機の本件事故当時における価額は装備品を含めて約七五〇万ドル(当時の為替レートで二七億円)である旨の記載があるが、積算根拠等が示されていないので、直ちにこれを採用することはできず、第一審原告全日空が本件全日空機を取得するのに現実に要した金額を基礎とすべきである。
(2) 〈証拠略〉によれば、第一審原告全日空は、昭和四六年三月一二日、ボーイング社から本件全日空機を購入し、その代金及び購入費用等として合計二四億八二二四万三五三四円を支払つたが、その内には、銀行手数料及び延滞金利として九七四万五六五九円が含まれていることが認められ、この認定に反する証拠はない。そして、損害算定の基礎となる取得価額は、購入代金額に購入費用を加算したものとするのが相当であり、銀行手数料のごときものも右購入費用に含まれると解する余地があるが、購入代金の資金のための借入金の延滞金利まで右に加算すべき理由はなく、そして、右の銀行手数料及び延滞金利の内訳を区別する資料はないから、結局右九七四万五六五九円の全額を支払額から差し引いて、二四億七二四九万七八七五円をもつて取得価額と認めるのが相当である。
(3) 〈証拠略〉によれば、法人税法等において、国内線に就航する全日空機のような大型ジエツト機の耐用年数は七年とされていること、同法上、減価償却の方法については定額法と定率法があり、定率法による耐用年数七年の減価償却資産の償却率は、一年につき〇・二八とされていることが認められる。
もつとも、〈証拠略〉によれば、大型旅客機の実際の使用可能年数は、税法上の耐用年数よりはるかに長く、新規耐空証明を得てから十数年を経過した航空機も現実に運航に供されている事実が認められるが、本件全日空機について実際の使用可能年数を確認し得る資料はなく、損害額は、確実性の高いものに限り、控え目に認定すべきであることに鑑みれば、法定の耐用年数によつて算定すべきものと解される。
また、右証言によれば、第一審原告全日空は、同社の資産の減価償却の方法として、定額法と定率法の中間的な方法である級数法(例えば、耐用期間七年の場合、一から七までの合計額を分母とし、分子を初年度は七、二年目は六等として逓減して行く償却率を用いる)を使用しており、これも国税庁に承認されている方法であつて、これによれば、初年度の償却率は〇・二五となることが認められるけれども、前記のとおり損害額の認定は控え目にすべきであることに鑑みると、損害賠償額算定の基礎としての価額を求めるには、定率法による減価償却を行うのが相当である。
(4) 〈証拠略〉によれば、全日空機の本件事故後の残骸(廃材)価額は三〇万円であつたことが認められる。
(5) そうすると、全日空機取得時から本件事故の日まで一四〇日を経過していることが明らかであるから、右取得価額から償却率年〇・二八の一四〇日分(日割計算)を減じ、更に右残骸価額を差し引くと、全日空機の本件事故による損害額は二二億〇六六五万八三七七円(円未満切捨、以下同じ)となる。
2,472,497,875×(1-0.28× 140/365 )-300,000=2,206,658,377(円)
(三) 第一審原告全日空が、昭和四八年二月一日、航空保険契約に基づき、機体損害に対する保険金二四億四八〇〇万円の支払を受けたことは、その自認するところであるから、同第一審原告の損害は、これによつて全部補填され(損害賠償債権は保険代位により保険者に移転した)、結局、同第一審原告の第一審被告に対する機体損害の賠償請求権は存在しないこととなり、この点の請求は失当に帰するものである。
2  機体損害に対する遅延損害金の一部
本件事故発生については、全日空機操縦者らと航空自衛隊員らの双方に過失があり、したがつて、第一審原告全日空と第一審被告の相互の損害賠償請求においては、前記認定の過失割合による過失相殺がなされるものである。したがつて、第一審原告全日空が第一審被告に対して請求し得る機体損害の賠償額は、前記1認定の損害額の三分の二である一四億七一一〇万五五八四円である。そして、第一審原告全日空は、第一審被告に対し、右損害額に対する不法行為の日の昭和四六年七月三〇日から保険金支払の日の同四八年二月一日まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を請求し得るものであつて、その額は一億一一四四万一二八六円となる。
1,471,105,584×0.05× 553/365 =111,441,286(円)
3  信用毀損による損害
〈証拠略〉によれば、一般に、多数の死傷者を生じた航空機事故、とくに国内線旅客機の事故が起きた後には、航空機の安全性に対する利用者の不安、不信感が増大するため、旅客が鉄道、自動車等の他の輸送機関に流れるなどして、航空機の利用者が減少する傾向があり(例えば、運輸省の試算によれば、昭和六〇年八月一二日の日本航空ジヤンボ機墜落事故後同六一年六月までの航空旅客の逸走率は一〇・七パーセントとされている)、とくに、事故機を運航していた航空会社の乗客は、当該事故原因についての帰責事由の有無にかかわらず、かなり減少するのが通例であることが認められ、かつ経験則に合致するというべきである。第一審原告全日空は、本件事故によつても、同第一審原告の航空運送の安全性に対する信用が毀損され、利用者が減少して、得べかりし運賃収入を失い、損害を被つたと主張し、その損害算定の方法として、国内ローカル線については、団体搭乗予約者の取消数を、国内幹線については旅客シエアの減少を主張するものである。
(一) 団体予約客取消しによる損害
〈証拠略〉によれば、第一審原告全日空においては、一五名以上の団体客の搭乗予約を搭乗日の一年前から受付けており、平常、予約された団体旅行については、人数の増減や旅程の一部変更はあつても、団体全部の予約取消しは少ないこと、しかるに、本件事故直後から団体予約の取消しが急増したこと、そこで、同第一審原告は、各旅行代理店に対して、予約客に窓口で取消しをしないように説得するとともに、どうしても取消すという場合には、その理由を一々確認するようにと要請し、そのうえで、団体予約の全部取消しがあり、かつ、それが本件事故を理由とするものであることが窓口で確認されたものについて、各旅行代理店から支店を通じての報告に基づいて、昭和四六年一一月までに搭乗予定の団体客の予約取消しがあつたもの(取消しは、そのほとんどが本件事故当日から同年八月中になされている)のリストを作成し、昭和四八年二月に至つて、改めて各旅行代理店からその旨の証明書を徴したこと、そして、同第一審原告は、幹線(札幌、東京、大阪、福岡の内の二空港間を相互に結ぶ路線)を除く国内路線について、右の団体予約が取消されたことから生ずべき空席数から、その後他の乗客によつて埋められた数を差引いて、実際に空席のまま飛行した座席数を計上し、その分の運賃収入を算定した結果、売上減少額は四五六五万八九八〇円となつたこと、なお、同第一審原告の旅客運送約款上、団体旅客の搭乗予定日の六日前以降の予約取消しには一定の取消手数料を徴収することが定められているが、本件事故を事由とする取消しについては、会社都合による取止めとみなして取消手数料を徴収しなかつたこと、以上の事実が認められる。そして、同第一審原告は、別表三の一のとおり、右の得べかりし運賃総額から通行税及び代理店手数料を差し引くことを自認し、結局得べかりし収入額を三八六〇万二〇〇〇円と主張するものである。
右各証拠から明らかなように、本件事故後の短期間に集中して、大量の団体予約取消しが生じていることから、本件事故の発生が予約取消しの直接の理由となつたものが多いであろうことは窺うに足りるとともに、旅行代理店においても、団体予約の取消しは手数料収入に影響することであるから、窓口で予約取消しの理由を一々確認したであろうことも、推測し得ることであつて、旅行代理店の前記報告、証明の信用性を疑う理由はない。そして、人が事故後に航空旅行を取り止めることが多いというのは、かねてから航空の安全性に対する不安感を抱いており、それがたまたま事故を契機として、顕在化し、新たな選択をする結果であることは確かであるが、事故がなければ、予定どおり旅行をしたであろうという意味において、事故と旅行取止めとの間に条件関係が存することは明らかである。しかしながら、本件事故後に予約取消しをした団体客が、事故前から抱いていた不安感は、以前からの大小の航空機事故の反覆によつて醸成されていたものと考えられ、本件事故が予約取消しの直接の原因であつたにもせよ、以前の事故の影響も無視しがたいところである。また、旅行代理店の窓口における予約取消しの理由の確認及び同第一審原告におけるその集計は正確になされているにせよ、事故を理由として予約を取消した顧客の内にも、他の事情と複合した事由によつて旅行を取り止めた者がないとは限らず、とくに〈証拠略〉によれば、昭和四六年八月中旬以降いわゆるドル・シヨツクによる不況が生じたことが認められるので、その響影もあり得ると考えられ、予約取消手数料を徴しないこととした以上なおさら、事故を口実とする他の理由による取消しが混在している可能性も否定しがたいところである。
また、第一審被告は、第一審原告全日空の収入額から、旅客運送約款に基づく取消手数料として、少なくとも別表(六)のとおり六八万三四〇〇円を控除すべき旨主張し、本件事故を理由とする取消しが会社都合による取消しといい得るか否かは疑問であつて、同第一審原告が、約款の定めからは取消手数料を徴収すべきであるにかかわらず、社会的、道義的見地からこれを放棄したものではないかと考える余地がある。
そうすると、第一審原告全日空主張の団体予約取消しによる収入減の全部が本件事故によつて生じたものとは認めることができないから、第一審被告に請求し得る損害賠償の額は、本件事故が損害の発生に寄与した割合によつて決めるべきであり、その割合は、諸般の事情を総合して五割を下らないものと認めるのが相当である。したがつて、この点の第一審原告全日空の損害は、前記金額の半額の一九三〇万一〇〇〇円と認めるのが相当である。
(二) 幹線における一般利用客減少による損害
(1) 〈証拠略〉によれば、民間旅客機の旅客数は、多くの社会的、経済的変動(好況・不況、所得水準の上下、万博その他の大きな行事の有無等)によつて影響されるため、事故による運賃収入減少の損害額を算定するについて、単純に事故前の旅客数と事故後の旅行数を比較することによつてこれを行うことは困難であり、とくに、前記のとおり、本件事故直後の昭和四六年八月中旬以降いわゆるドル・シヨツクによる経済不況が生じているので、同月以降の乗客数にはその影響が生じていると考えられること、しかし、当時、国内の幹線(札幌、東京、大阪、福岡の内の二空港間を相互に結ぶ路線)の旅客機は、第一審原告全日空、日本航空、東亜国内航空の三社のみが就航しており、その内でも、第一審原告全日空と日本航空の二社が大部分を占めていたが、各会社によつて所要時間や運賃に差がない以上、各航空会社への旅客数の配分すなわちシエアは、各社の運航便数、運航された航空機の座席数のシエア、広告その他の営業活動、顧客の選好性(航空会社に対する信頼性)によつて決まるものであつて、経済情勢等の外的要因は、航空旅客全体の増減の事由とはなつても、シエアにはほとんど影響を及ぼさないと考えられること、そこで、右幹線に限つての第一審原告全日空と日本航空のシエアを見ると、昭和四三年頃から本件事故の前までにおいては、両社の平均座席利用率の増減の状況は概ね同様の傾向を示し、両社の旅客人キロ(旅客数に運送距離を乗じたもの)のシエアは、提供座席キロ(運航された航空機の座席数に運航距離を乗じたもの)のシエアに概ね比例しており、また、両社の提供座席キロシエアは事故の前後を通じて大きな変化はなかつたが、本件事故後においては、第一審原告全日空の座席利用率及び旅客人キロシエアは顕著な減少を示し、旅客人キロシエアと提供座席キロシエアとに大きな隔たりを生じており、その状況は別表(九)及び同一〇の三のとおりであること、そこで、第一審原告全日空は、このような旅客人キロシエアの変動に着目し、更に短期の景気変動等の経済的要因や季節による変化、偶発的要因による不規則変動を除去する方法として、各月ごとに旅客人キロシエアの一二か月移動平均(一二か月間の総数を加算して一二で除する方法。ただし、ここでは、当該月を最終月とする一二か月間の平均)を求め、本件事敢前の一二か月移動平均が約三二・二パーセントであることを前提として、しかし、毎年の実績からみて現実のシエアには季節的な変動があるため、右移動平均に、昭和四三年から同四五年までの各月の実績から得られる季節変動(その数値は別表一〇の二のとおり)を加減して、本件事故後事故がなかつたとした場合の第一審原告全日空の旅客人キロの推定シエアを求め、航空統計年報から得られる三社合計の運航実績に右推定シエアを乗じて得られる旅客人キロと事故後の第一審原告全日空の旅客人キロの実績とを比較して、減少量を求め、これに単位旅客人キロ当たりの営業収入(平均単価の最も少ない東京札幌間の運賃により、売上額から通行税を差引いたもの)を乗じて収入減少額を求めたこと、その結果は、本件事故後一年間にわたつて収入の減少が見られるが、その内昭和四六年八月から同四七年一月まで六か月間の収入減は、別表三の二のとおり、一〇億二七九八万一〇〇〇円となること、以上の事実が認められる。
(2) そこで、右算定方法の妥当性について更に検討するに、このように、旅客人キロシエアによつて収入減少額を算定する方法は、社会的・経済的要因の影響を排除するための一つの合理的な方法であるとともに、事故による影響の内航空輸送から逸出した数(旅行取止め及び鉄道等他の交通手段への移動)を度外視した点において、損害額の算定方法として控え目なものと評価することができる。また、短期的な経済変動や偶発的要因による変動を除去する方法として、一二か月移動平均をとることも肯認することができないものではない。もつとも、このような移動平均は、当該月を中央月とするものを求めるのが、統計上の処理として通例のごとくであるが、前掲証言によれば、本件の場合、事故の直前と直後を比較するのに、当該月を中央月とする一二か月間をとると、事故の前後に跨つて平均化されて事故の影響が不明となり適当でないため、当該月を最終月とする一二か月間をとつたものであることが認められるので、この点も、不合理ということはできない。
ところで、〈証拠略〉によれば、第一審原告全日空の本件事故直後の昭和四六年八月の旅客人キロシエアの実績は三〇・四パーセントであつて、前月の三一・六パーセントに比して一・二パーセントの減少にすぎないが、前記の過去三年間の実績に基づく八月の季節変動の数値四パーセントを減ずると、二六・四パーセントとなつて、前月比の差は更に開くべきことと見られること、すなわち、昭和四五年頃までは、同第一審原告の旅客人キロシエアは、漸増の傾向にあつたが、なお、通常月は座席利用率が日本航空のそれを下廻り、旅客の選好性は日本航空に強い傾向が顕著であり、ただ、全体としての需要がピークに達する八月には、日本航空の座席利用率が限界に近付き、溢れた旅客が第一審原告全日空の便に流れるところから、後者の利用客が増加し、そのシエアも増大するものと考えられ、昭和四三年から同四五年までの毎年八月にはその傾向が明瞭に認められ、更に本件事故から一年を経過した後の昭和四七年八月の旅客人キロシエアは三五・一パーセント(前月比四・六パーセント増)、平均座席利用率は七四・五パーセント(前月比二五・五パーセント増)、昭和四八年八月には旅客人キロシエア約四〇パーセント(前月比約二パーセント増)、平均座席利用率約八六パーセント(前月比約一三パーセント増)と、それぞれ八月がその年のピークを示していること、したがつて、本件事故がなければ、昭和四六年八月にも、旅客人キロシエアは同年中の最高値に達したであろう可能性が強いことが認められる。これに対し第一審被告は、過去の実績は昭和三九年から七年間について見るべきであり、しかるときは、八月の季節変動の数値は二・二九パーセントとなり、これを昭和四六年八月の実績から差し引くと二八・一一パーセントとなつて、激減とはいえない旨主張するが、〈証拠略〉によれば、昭和四一年二月の全日空羽田沖事故で第一審原告全日空の利用客が急減し、更に同年一一月の全日空松山沖事故の影響が加わつて、昭和四二年にかけて業績の低迷状態が続いたため、第一審原告全日空においては、季節変動の算出に当たり、同年までの数値を採用しなかつたものであることが認められる。また、〈証拠略〉によれば、第一審原告全日空の旅客人キロシエアは、昭和四九年以降は八月に増加せず、同五〇年以降はかえつて八月が他の月より低く年間の最低値を示すようになつているが、これは、同四九年頃から旅客の選好性が同第一審原告の側に強まり、通常月の平均座席利用率が日本航空のそれを上廻るようになり、したがつて、多客期には第一審原告全日空の座席利用率が限界に達して旅客が日本航空に流れるという以前とは逆転した現象が生じたためと推測されていることが認められる。そうすると、八月の季節変動の数値に関しても、第一審原告全日空の算定方法は是認し得ないものではなく、他の月に関しては、不当とすべき事情は認められない。
(3) 〈証拠略〉は、過去のデータからの将来の予測は、前者に基づく二次曲線をもつてするのが相当であり、本件事故前一年半の間の第一審原告全日空の旅客人キロシエアの実績は滑らかなカーブを描いて上昇し、昭和四六年六、七月には二次曲線が頂点に達していたとみられるので、そのカーブの延長は次第に下降し、すなわち、同第一審原告の旅客人キロシエアは以後減少に向かうと推論するのが妥当であるとしている。しかしながら、航空路線のように少数の企業の手に委ねられ、新規業者の参入がなく、運航便数も規制され、運賃も認可事項とされていて、これらを自由に変更できない(この事実は弁論の全趣旨によつて明らかである)市場においては、顧客がいずれの企業を選択するかは、広告や付随的サービス等の営業活動と、航空機特有の問題として安全性に対する信頼度によつて左右されるのであり、偶発的事情による一時的増加ではなく、相当期間にわたつて営業努力によつて獲得され積み重ねられて来たシエアは、少なくともこれをその水準に維持すべく営業活動が続けられるものと考えられるから、他に特段の事情がなければ、いつたん獲得されたシエアの水準はなお相当期間維持される蓋然性があると見るべきであり、これまでの上昇傾向が二次曲線で描くとピークに達したという一事で、以後下降すると推測する根拠があるとは到底考えられない。もとより、シエアが維持されるという予測にも不確実性が伴うことは否定しがたく、長期的には種々の理由による変動があり得るわけであるが、この種の損害の算定は、例えば、人身事故による逸失利益の算定を、事故時の収入又は平均収入と統計上の平均稼働年数によつて行うのと同様に、事故時の状態から蓋然的に予測される事情に基づいて行うほかはないのであり、本件においても、事故から相当の期間を限り、その間事故前のシエアが維持されるものと予測することには、合理性があるものというべきであり、〈証拠略〉によつて認められる、昭和四八年以後の第一審原告全日空の旅客人キロシエアが本件事故前のそれより高い水準を保つている事実に照らしても、右の予測を誤りとすべき事情はなかつたものと推認される。
(4) しかし、更に、〈証拠略〉は、第一審原告全日空の前記算定において、不規則変動の除去のため不偏分散を差し引くに当たり八四パーセントの信頼限界を求めたことを不相当であるとするところ、〈証拠略〉によれば、一か月ごとの信頼限界が八四パーセントであつても、実績がそれを下廻ることは極めて少なく、一二か月の合計量をとれば、信頼限界が九九・九七パーセントにも達するので、妥当であるというのであるが、本件においては、第一審原告全日空は、本件事故後六か月間の実績を一二か月移動平均と比較してシエアの減少を求めているのであり、事故前のシエアを維持し得るであろうという予測にも若干の不確実性があることは否定しがたく、損害を控え目に算定すべきであることに鑑みれば、第一審被告主張のように、九九パーセントの信頼限界を求めるべく、不偏分散の平方根の二・三三倍を差し引くのが相当である(なお、前掲甲第一五号証の二の一に存するとして前掲証人大村平によつて指摘された右不偏分散の計算過程の誤りは、前掲甲第二〇二号証によつて訂正され、第一審原告全日空の当審における主張は、右訂正後の数値に基づくものである)。
また、第一審原告全日空が算定に用いた単位営業収入は、代理店手数料を控除する以前のものと解されるので、第一審被告主張のとおりこれを差引くべきであり、弁論の全趣旨により手数料率は五パーセントと認められる。また前記(一)挙示の各証拠によれば、幹線における団体予約取消しの内少なくとも別表(八)のものについて、旅客運送約款上予約取消手数料を請求し得たものと認められ、幹線のシエア減少分には、右団体予約客の取消分が含まれている道理であるから、その金額一六〇万〇八〇〇円を差し引くべきである。
(5) そうすると、別表一五のとおり、第一審原告全日空の幹線における収入減は、五億六二六八万二〇〇〇円である。
(三) したがつて、第一審原告全日空の信用毀損による逸失利益の損害額は(一)の一九三〇万一〇〇〇円と(二)の五億六二六八万二〇〇〇円との合計五億八一九八万三〇〇〇円であり、過失相殺により、第一審被告に対し請求し得る賠償額は、その三分の二の三億八七九八万八六六六円となる。そして、右金額に対する損害算定最終日の昭和四七年一月三一日以降民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める請求は理由がある。
4  事故処理関係費用相当の損害
(一) 〈証拠略〉によれば、第一審原告全日空は、本件事故の処理に関して、次のとおりの金員を支出した事実が認められる。その内、(1)ないし(3)、(16)の各金員と(5)、(6)、(14)の内遭難者遺族に関する部分、(15)の内隠坊への心付は、本来遺族が本件事故によつて被つた損害であると認められ、また(18)は、第三者の被つた損害であると認められるが、第一審原告全日空は、遺族及び第三者に対して右損害を賠償すべき義務があり、その義務の履行として右金員を支出したものというべきであり、そして、右支出額について、遺族及び第三者に対する関係では共同不法行為責任を負担する第一審被告に対して、過失割合に応じて負担部分を求償することができ、かつ、その限度で被害者に代位してその第一審被告に対する損害賠償請求権を行使することができる。また、その余の金員については、第一審原告全日空自身が本件事故によつて被つた損害に対する賠償として、第一審被告に対して、前記過失割合により過失相殺をした金額の支払を請求し得るものである。
(1) 航空機による遺族輸送費
第一審原告全日空は、本件事故後、遭難者の遺族を事故現場へ往復させるため、航空機を臨時に運航し、その費用として、地上ハンドリング作業費用二一万二七七〇円、同第一審原告の航空機の運航経費八二六万一四六六円、日本航空からのチャーター便の運航費用一〇九万五二五〇円、合計九五六万九四八六円を昭和四六年一一月二〇日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(2) 遺体処理費
第一審原告全日空は、遭難者の遺体処理費として、死体検案書料五万七〇〇〇円、遺体移送費三〇二万五四〇九円、葬具(寝棺等)及び霊柩車費用五五三万九五六〇円、火葬場関係経費六八万〇一七〇円、合計九三〇万二一三九円を昭和四六年一一月二二日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。なお、第一審被告は、右葬具及び霊柩車費用と後記(11)の消耗品費の内の喪章、念珠、香典袋等の購入費用との間に一部重複の疑いがある旨主張するが、この主張に沿い、右金額の損害の発生を疑わせるに足る証拠はない。
(3) 法要費
第一審原告全日空は、法要費として、現地の祭壇及び法要に際しての供物代二〇〇万七一三〇円、生花代一〇三万六四〇〇円、祭壇設置料二〇〇万三八六〇円、遺体、遺骨仮安置の寺院住職等へのお布施代等六七万九〇〇〇円、現地通夜時に使用した貸ふとん代三六〇〇円、合計五七二万九九九〇円を昭和四六年一一月三〇日までに支払つたことが認められる(〈証拠略〉)。なお、第一審被告は、右お布施代等と前記(2)の内火葬場関係経費及び後記(15)の謝礼の内火葬場の隠坊に対する心付けとの間に一部重複の疑いがある旨主張するが、この主張に沿い、右金額の損害の発生を疑わせるに足る証拠はない。また、第一審被告は、右支出の内供物代、生花代は贈与としての性格を有する旨主張するが、法要に際し供物、生花を供することは、社会通念上相当な範囲で必要な儀礼に属することと解され、右支出が相当な範囲を超えたものであつたことを疑わせる証拠はない。
(4) 事故処理作業員等費用
第一審原告全日空は、遺体、落下物の搬出作業に従事した者の費用三四五万二三一〇円、遭難者遺族への連絡、現地への案内、その送迎の傭車代及びこれに伴う人件費等として四九一万二四九五円、合計八三六万四八〇五円を昭和四六年一一月二〇日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。なお、第一審被告は、右搬出作業員費用と後記(5)、(6)の交通費、宿泊費との間に一部重複の疑いがある旨主張するが、この主張に沿い、右金額の損害の発生を疑わせるに足る証拠はない。
(5) 交通費
第一審原告全日空は、遭難者の遺族及び本件事故処理に直接関与した同第一審原告社員の鉄道運賃、タクシー代等の交通費として合計二一三六万九七六六円を昭和四六年一一月三〇日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(9) 宿泊費
第一審原告全日空は、遭難者の遺族及び本件事故処理に直接関与した同第一審原告社員の宿泊費として合計二〇〇二万四九七一円を昭和四六年一一月三〇日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(7) 事故処理社員の人件費
第一審原告全日空は、本件事故当日の昭和四六年七月三〇日から同年八月三一日までの間、その社員延一三七三名を通常勤務外の本件事故処理に関する事務に従事させ、その超過勤務手当等として合計一六二三万六五四三円を同年九月二五日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(8) 出張関係費
第一審原告全日空は、本件事故処理に直接関与した社員の出張に要した交通費及び日当等として合計五四二万八五三六円を昭和四六年一一月二二日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。第一審被告は、この出張関係費と前記(5)交通費、(6)宿泊費との間に一部重複の疑いがある旨主張するが、この主張に沿い、右金額の損害の発生を疑わせるに足る証拠はない。
(9) 通信費
第一審原告全日空は、事故現場及び事故対策本部における臨時電話設置費、本伴事故関係の電話・電報・郵便等の料金等として合計五八二万三五九二円を昭和四六年一一月二〇日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(10) 貨物輸送費
第一審原告全日空は、遺体、残骸搬出用具の輸送、遺留品、書類等の輸送に要した費用として合計八四万〇九八一円を昭和四六年一一月二二日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(11) 消耗品費の一部
第一審原告全日空は、事故現場及び事故対策本部において必要とした、喪章、念珠、香典袋等の仏事用品購入費用七万七三三五円、事故処理のためのロープ、縄、電池等の購入費用一四万二二五〇円、合計二一万九五八五円を昭和四六年一〇月三一日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(12) 器具備品費の一部
第一審原告全日空は、事故現場における掲示板設置費用として七万八〇〇〇円を昭和四六年一〇月三一日以前に支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(13) 資料費の一部
第一審原告全日空は、事故現場の写真代一九万九七九七円、遺体、残骸等の捜索のため必要な地図の購入費六万五一一〇円、事故処理上必要な書類等のコピー代金一万三九六三円、合計二七万八八七〇円を昭和四六年一一月三〇日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(14) 衣料費
第一審原告全日空は、本件事故現場において、遭難者遺族及び社員のため下着、くつ下等を購入した代金及びそれらのクリーニング代として合計二〇六万七九三五円を昭和四六年一〇月五日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(15) 謝礼
第一審原告全日空は、火葬場隠坊に対する心付九万九三〇〇円、徹夜運転業務に対する運転手への謝礼一三万五五三〇円、関連地主への手土産代等一六万五九五〇円、事故現場における民家の電話借用に対する謝礼等三万九〇二〇円、合計四三万九八〇〇円を昭和四六年一〇月二〇日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。第一審被告は、右各支出の内火葬場隠坊に対する心付以外のものは贈与としての性格を有する旨主張するが、特別な業務に就いた運転手に対する謝礼(心付)、便益を供与されあるいは迷惑をかけた関係者に対する手土産、謝礼等は、社会通念上相当な範囲で必要な儀礼に属することと解され、右支出が相当な範囲を超えたものであつたことを疑わせる証拠はないから、これらの支出も、本件事故と相当因果関係のある損害と認めることを妨げないものというべきである。
(16) 遭難者見舞金
第一審原告全日空は、昭和四六年七月三一日から同年八月五日までの間に、遭難者遺族に対し、見舞金として、遭難者一人につき一〇〇万円、一五五名分、合計一億五五〇〇万円を支払つた(この事実は、当事者間に争いがない)。この支払は、同第一審原告が、遺族に対し共同不法行為者として負担する損害賠償債務の一部の履行としてなされたものと推認すべきである。
(17) 遺体収容所の修復費
第一審原告全日空は、遺体収容のため汚損した学校、寺院の床、畳等の修復に要した費用一七九万一八八八円を支出し、昭和四七年九月一三日、第一審被告に対してその償還を請求したことが認められる(〈証拠略〉)。第一審被告は、これについて過大支出の疑いがある旨主張するが、右主張に沿い、右金額の損害の発生を疑わせるに足る証拠はない。
(18) 山林補償
第一審原告全日空は、全日空機の墜落による山林被害の補償、遺体、機体の搬出による土地等の使用、汚損に対する見舞金として合計二三八万八五一五円を昭和四七年一月三〇日までに支払つたことが認められ(〈証拠略〉)、右見舞金名義の金員も、本件事故により土地所有者の被つた損害に対する賠償の性質を有するものと解される。第一審被告は、これについて過大支出の疑いがある旨主張するが、右主張に沿い、右金額の損害の発生を疑わせるに足る証拠はない。
(19) その他の諸雑費
第一審原告全日空は、遺族訪問時の手土産の菓子、果物代三万〇四〇〇円、発電機の燃料代、クリーニング、氷代等の事故処理に伴う雑費として五四万八九五七円、合計五七万九三五七円を昭和四六年一〇月一日までに支出したことが認められる(〈証拠略〉)。第一審被告は、右各金員は第一審原告全日空の任意の支出であるとして、本件事故との相当因果関係を争うが、右手土産代は、社会通念上必要な儀礼に属するものと推認され、発電機の燃料代等の雑費は事故処理に必要な費用とみられるから、いずれも同第一審原告の被つた損害と認めるのが相当である。
(二) 〈証拠略〉によれば、第一審原告全日空は、本件事故の処理に関して次の各金員をも支出した事実が認められるが、これらは、遭難者遺族若しくは第三者に対する損害賠償義務の履行又は同第一審原告の被つた損害とは認めるに足りないものである。
(1) 医療費
第一審原告全日空は、遭難者遺族及び事故処理に直接関与した社員に給付した栄養剤等の代金四二万八五四八円、東京から現地へ派遣した医師への日当三万四〇〇〇円、合計四六万二五四八円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、これらの内、遺族に関する支出は、遺族が本件事故の結果被つた損害の賠償といい得るものかどうかが明らかでなく、遺族へのサービスとも考えられるものであり、社員に関する支出も、通常の社内厚生事務として以外に、本件事故により特に必要とした支出であるかどうかが明らかでないので、右支出額の賠償ないし求償請求権の発生を認めるに足りない。
(2) 食費
第一審原告全日空は、遭難者遺族及び本件事故処理に直接関与した社員の食事代及び飲物代として合計七一九万四九五三円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、食費は、本来常時各人が負担すべきもので、同第一審原告は任意にこれを支出したものというべきであるから、これを本件事故と相当因果関係のあるものと認めることはできない。
(3) 消耗品費の一部
第一審原告全日空は、事故現場及び事故対策本部において事故処理事務に使用するノート、鉛筆、ボールペン等の文房具類の費用七二万六九七五円、手ぬぐい、カミソリ、化粧品等の費用二万二五七四円、合計七四万九五四九円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、これらの消耗品には、本件事故がなくても購入すべき物が相当程度含まれている疑いがあり、本件事故のためにとくに必要となつた支出の額を確認すべき資料はないから、この点の損害は認めるに足りない。
(4) 器具備品費の一部
第一審原告全日空は、事故現場及び事故対策本部において事故処理のため使用するラジオ、ライト、電灯設備等の代金二六万二六六四円、食器、水筒、たらい、テント等の代金三二万〇五四九円、合計五八万三二一三円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、これら器具備品等は、事故処理のため必要であつたとしても、事故処理終了後も残存し他の用途に使用し得る物が少なくないものと推認され、購入代金全額を直ちに本件事故による損害と認めることはできず、残存価額を確認し得る資料もないので、この点の損害賠償請求権の存在は肯認し得ないものというほかはない。
(5) 資料費の一部
第一審原告全日空は、遺族に対する情報提供等のためとして、新聞、雑誌代三万八六八五円、プラモデル、時刻表等二万〇三四〇円、合計五万九〇二五円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、これらは、遺族に対するサービスとしての任意の支出とみるほかはなく、本件事故と相当因果関係のある損害と認めることはできない。
(6) 新聞掲載費
第一審原告全日空は、本件事故の発生に関し、新聞紙上に謹告を掲載し、その費用六九五万一二二九円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、このような謹告の掲載は、企業の信用保持のためにしたものであるとしても、必ずしも社会通念上当然なされるべき行為であるとは考えられず、右支出は、本件事故と相当因果関係のある損害とは認めるに足りないというべきである。
(7) その他の諸雑費
第一審原告全日空は、弔辞の筆耕、礼状、挨拶状の宛名書きを依頼した筆耕料二〇万五五八〇円、名刺、見舞金領収書等の印刷代一万一七三五円、合計二一万七三一五円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、筆耕料については、社員以外の第三者に筆耕を依頼することを必要とした事情が明らかでないし、印刷代についても、事故の有無にかかわらず必要であつた名刺等の印刷代が含まれている疑いがあるから、右支出額をもつて直ちに本件事故によつて被つた損害と認めることはできない。
(三) そうすると、第一審原告全日空が第一審被告に対し請求し得る事故処理関係費用は、前記過失割合により右(一)の各金額の三分の二、すなわち、(1)遺族輸送費六三七万九六五七円(円未満切捨。以下同じ)、(2)遺体処理費六二〇万一四二六円、(3)法要費三八一万九九九三円、(4)作業員等費用五五七万六五三六円、(5)交通費一四二四万六五一〇円、(6)宿泊費一三三四万九九八〇円、(7)事故処理社員の人件費一〇八二万四三六二円、(8)出張関係費三六一万九〇二四円、(9)通信費三八八万二三九四円、(10)貨物輸送費五六万〇六五四円、(11)消耗品費の一部一四万六三九〇円、(12)器具備品費の一部五万二〇〇〇円、(13)資料費の一部一八万五九一三円、(14)衣料費一三七万八六二三円、(15)謝礼二九万三二〇〇円、(16)遭難者見舞金一億〇三三三万三三三三円、(17)遺体収容所の修復費一一九万四五九二円、(18)山林補償一五九万二三四三円、(19)その他の諸雑費三八万六二三八円、合計一億七七〇二万三一六八円である。また、第一審原告全日空は、右各金員に対する利息又は遅延損害金として、(16)に対しては前記認定の支払日の後である昭和四七年九月一四日以降、(17)に対しては前記認定の請求日の翌日以降、その余の各金員に対しては前記各認定の最終支出日の翌日以降、各完済まで民事法定利率年五分の割合による金員の支払を求めているのであるから、この請求は理由がある。
5  弁護士費用
〈証拠略〉によれば、第一審原告全日空は、本件訴訟の提起、遂行を訴訟代理人らに委任し、着手金六〇〇万円を支払い、更に成功報酬として二八〇〇万円の支払を約したことが認められる。本件訴訟が複雑困難な事件であり、審理にも長期間を要するものであることに鑑み、以上の認容金額合計六億七六四五万三一二〇円の約五パーセントに当たる右弁護士費用三四〇〇万円は、相当な金額であつて、これを本件事故と相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。
6  結論
以上によれば、第一審原告全日空の第一審被告に対する本訴請求(当審における請求減縮後のもの)は、2ないし5の金額合計七億一〇四五万三一二〇円及びその内3、4の各金員に対する前記各起算日(別表一六)以降年五分の割合の金員の支払を求める限度において理由がある。
二  第一審原告保険会社一〇社の損害
1  第一審原告保険会社一〇社の事業目的
第一審原告東京海上火災保険株式会社、同同和火災海上保険株式会社、同住友海上火災保険株式会社、同大正海上火災保険株式会社、同千代田火災海上保険株式会社、同日動火災海上保険株式会社、同安田火災海上保険株式会社、同日産火災海上保険株式会社、同富士火災海上保険株式会社及び第一火災海上保険相互会社(以下、これらを総称して「第一審原告保険会社一〇社」といい、個別に「第一審原告東京海上」のように略称する)が、それぞれ航空保険等の損害保険事業を主たる目的とする会社であることは、当事者間に争いがない。
2  保険契約の締結
〈証拠略〉によれば、第一審原告保険会社一〇社は、共同して、昭和四六年四月一日、第一審原告全日空との間で、次の内容の航空保険契約を締結したことが認められる。
(一) 保険者(共同保険者) 第一審原告保険会社一〇社
(二) 保険契約者兼被保険者 第一審原告全日空
(三) 保険契約の種類    航空機体保険
(四) 保険の目的      本件全日空機
(五) 保険期間       昭和四六年四月一日(正午)より昭和四七年四月一日(正午)まで
(六) 保険価額       二四億四八〇〇万円
(七) 保険金額       二四億四八〇〇万円
(八) 保険会社各社の引受割合
第一審原告東京海上 三九・二パーセント
同同和火災     一八・一パーセント
同住友海上     一二・九パーセント
同大正海上     一一・九パーセント
同千代田火災     八・九パーセント
同日動火災      四・一パーセント
同安田火災      三・〇パーセント
同日産火災      一・四パーセント
同富士火災      〇・四パーセント
同第一火災      〇・一パーセント
(九) 保険者代表者     第一審原告東京海上
3  保険事故の発生と損害賠償請求権
前記認定のとおり、本件事故により全日空機は全壊し、第一審原告全日空は、当時の機体価額等二二億〇六六五万八三七七円の損害を被つた。そして、同第一審原告は、第一審被告に対し、過失相殺によりその三分の二の一四億七一一〇万五五八四円の損害賠償請求権を取得した。
4  保険金支払と保険代位
〈証拠略〉によれば、第一審原告保険会社一〇社は、昭和四八年二月一日、第一審原告全日空に対し、右航空保険契約に基づき、各引受割合に応じて保険金合計二四億四八〇〇万円を支払つた事実が認められる。そうすると、第一審原告保険会社一〇社は、商法六六二条一項の規定により、右支払金額の範囲内である第一審原告全日空の第一審被告に対する機体損害の賠償請求権一四億七一一〇万五五八四円を各引受割合に応じて分割して取得したものというべきであり、各自の取得額は、次のとおりである。
第一審原告東京海上(一四億七一一〇万五五八四円の三九・二パーセント) 五億七六六七万三三八八円
同同和火災(同一八・一パーセント) 二億六六二七万〇一一〇円
同住友海上(同一二・九パーセント) 一億八九七七万二六二〇円
同大正海上(同一一・九パーセント) 一億七五〇六万一五六四円
同千代田火災(同八・九パーセント) 一億三〇九二万八三九六円
同日動火災(同四・一パーセント)    六〇三一万五三二八円
同安田火災(同三・〇パーセント)    四四一三万三一六七円
同日産火災(同一・四パーセント)    二〇五九万五四七八円
同富士火災(同〇・四パーセント)     五八八万四四二二円
同第一火災(同〇・一パーセント)     一四七万一一〇五円
5  弁護士費用
〈証拠略〉によれば、第一審原告保険会社一〇社は、共同して、本件訴訟の提起、遂行を本件訴訟代理人らに委任し、着手金として一二五〇万円を支払い、更に将来報酬として三七五〇万円の支払を約していることが認められ、右弁護士費用五〇〇〇万円は、本件事案と認容金額の約三・四パーセントであることに鑑み相当な額であつて、本件事故と相当因果関係のある損害と認めることができる。そして、第一審原告保険会社一〇社は、右弁護士費用を各社の保険金引受割合に応じて按分して、第一審原告東京海上が一九六〇万円、同同和火災が九〇五万円、同住友海上が六四五万円、同大正海上が五九五万円、同千代田火災が四四五万円、同日動火災が二〇五万円、同安田火災が一五〇万円、同日産火災が七〇万円、同富士火災が二〇万円、同第一火災が五万円をそれぞれ請求しているのであるから、この請求は正当というべきである。
6  結論
そうすると、右第一審原告らの本訴請求は、各自につき、右4の金額と5の金額との合計額並びに右4の金額に対する保険金支払の日の翌日である昭和四八年二月二日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由がある。
第六  第一審被告の損害
一  訓練生機及びその装備品の損害
〈証拠略〉によれば、訓練生機は、本件事故により全壊し、使用不能となつたこと、同機は昭和三四年一一月に価額一億〇九八〇万円で取得されたもので、本件事故当時既に耐用年数七年を経過し、その残存価額は取得価額の一〇パーセントである一〇九八万円であり、また装備品の事故当時の価額は一一八万四三九八円であつたこと、同機の事故後の残材としての価額は六万九九八五円であつたこと、以上の事実が認められる。そうすると、第一審被告は、訓練生機の機体及びその装備品につき、右残存価額の合計から残材価額を差し引いた一二〇九万四四一三円の損害を被つたものであり、第一審原告全日空に対して、前記過失割合による過失相殺をして、その三分の一に当たる四〇三万一四七一円の賠償を請求し得るものである。
二  全日空機乗客乗員の遺族に対する補償、見舞金
1  〈証拠略〉によれば、第一審被告は、
(一) 全日空機乗客小池庄作以下一五二名の遺族に対し、和解契約に基づき合計一六億五一八七万二八五五円、乗客渡辺市郎、渡辺百合子夫妻の遺族の内和解に応じた三名に対し五二六万八二八三円、合計一六億五七一四万一一三八円を、別表(二)の二1(一)(1)欄に対応する起算日欄記載の各日の前日に支払い、
(二) 右渡辺市郎、渡辺百合子夫妻の遺族の内和解に応じない四名に対し見舞金として一六〇万円を昭和四六年八月一日に支払い、
(三) 乗客大田倢の遺族から訴えを提起され、その判決によつて支払を命ぜられた損害賠償四八二三万六〇一一円とこれに対する仮執行の日までの遅延損害金五九一万五三六三円、合計五四一五万一三七四円を昭和四九年三月一一日に支払つた
ことが認められる。
第一審原告全日空は、右(一)の支払額中には特別見舞金名義の金員を含み、これは他の損害賠償とは性質を異にし、支払うべき根拠がなく、第一審被告において任意に支払つたものにすぎない旨主張するところ、〈証拠略〉によれば、第一審被告は、補償額の一応の基準として、成人男子一人当たり一二一五万円、成人女子一人当たり一〇一五万円、年少者一人当たり七六五万円という基準額を設定し、逸失利益、財産賠償(手荷物損害)、慰藉料、葬祭料、香典代の合計が右基準額に満たない者については、特別見舞金を上乗せして右基準額に達するようにし、この金額(ただし、前記第五、一、4(一)(16)の第一審原告全日空が支払つた見舞金一人当たり一〇〇万円を控除)を支払つたものであることが認められる。しかし、〈証拠略〉によれば、昭和四一年一一月一三日に発生した全日空YS―11機の松山沖事故の補償金額は、手荷物損害を含む賠償金三一五万円(当時の旅客運送約款に定める責任限度額)、葬祭料三〇万円、香典一〇万円のほか、見舞金として四四五万円を上乗せして、成人一人当たり一律八〇〇万円となつていたこと、本件事故発生に間近い昭和四六年七月三日に発生した東亜国内航空「ばんだい号」事故については、右松山沖事故の補償金額にその後の物価上昇分をスライドさせて(当時の約款限度額は六一五万円)、男子一般と男子高令有職者は一二一五万円(内、特別見舞金六〇〇万円)、女子と男子高令無職者は一〇一五万円(同三〇〇万円)、一二歳未満の男女七六五万円(同五〇万円)という補償の基準額が航空会社側から提示されていたこと、したがつて、本件事故に関する補償金の基準額についても、右ばんだい号事故のそれを下回ることは事実上不可能であつたことが認められ、第一審被告及び第一審原告全日空のいずれにおいても、遺族との示談交渉でこれを下廻る額で妥結することは極めて困難であり、また、訴訟で争つても、損害賠償額がより低額になる可能性は乏しかつたものと推認される。そうすると、第一審被告の右(一)の支払額は、特別見舞金名義の部分を含めて、損害賠償としての支払であり、本件事故の被害者に対する賠償額として相当なものであつたと認めることができる。そして、第一審被告は、乗客に対する関係で共同不法行為責任を負う第一審原告全日空に対し、右(一)ないし(三)の合計一七億一二八九万二五一二円の内、前記過失割合により同第一審原告の負担すべき右金額の三分の一に当たる五億七〇九六万四一七〇円の支払を求めることができるものというべきである。
2  〈証拠略〉によれば、第一審被告は、全日空機乗員の遺族に対する見舞金名義で、機長、副操縦士及びスチユワーデス四名の分、一人一〇〇万円ずつ六〇〇万円を昭和四六年七月三一日に支払い、機関士ドン・ミチエル・カーペンターの遺族に対し一〇八万円を同年八月一二日に支払つたことが認められ、この支払は、遺族に対する損害賠償の内金たる性質のものと解されるから、共同不法行為者間の求償として、第一審被告は、第一審原告全日空に対しその三分の一に当たる二三六万円の支払を求めることができる。
3  (当審請求拡張分)
(一) 〈証拠略〉によれば、第一審被告と全日空機機関士ドン・ミチエル・カーペンターの遺族らとの間に、昭和五四年五月一〇日、第一審被告が右遺族らに損害賠償合計六九九〇万円を支払う旨の裁判上の和解が成立し、同月一七日、右金額が支払われた事実が認められる。
(二) 第一審被告が、全日空機スチユワーデス四名の遺族らとの間に、昭和五五年三月二七日、第一審被告が右遺族らに損害賠償合計八七五〇万円を支払う旨の裁判上の和解を成立させ、同月二八日、右金員の支払をした事実は、当事者間に争いがない。
そうすると、第一審被告は、第一審原告全日空に対し、共同不法行為者間の求償として、前記過失割合により、右(一)の金員の三分の一の二三三〇万円、(二)の金員の三分の一の二九一六万六六六六円合計五二四六万六六六六円の支払を求めることができる。
三  訓練生機墜落による地上損害補償
〈証拠略〉によれば、第一審被告は、訓練生機の墜落によつて、地上において生じた人身傷害、耕地の被害及び建物の損傷の各損害に対する補償として合計七一万三六五四円を昭和四六年八月一三日に支払つたことが認められ、これも、第三者に対する損害賠償債務の履行と推認されるから、第一審被告は、第一審原告全日空に対して、その三分の一の二三万七八八四円の支払を求めることができるものである。
四  乗客遺族補償業務に要した経費
1  〈証拠略〉によれば、第一審被告は、全日空機乗客遺族と補償交渉を行い、次の各費用を支出したこと、その支出の最終日は昭和四七年四月八日であることが認められる(個別の支払日は別表(二)の番号二3に対応する起算日欄記載の日の前日であると認められるが、右記載によつては、後記2の償還請求を認めない費目との内訳が明らかでないので、最終日をもつて支払日と認めるほかはない)。その内(三)(4)の見舞金、見舞品は、被害者に対する損害賠償の性質を有するものと推認されるから、過失割合による求償が認められることは、前記三と同様であり、その余の支出は不法行為による損害賠償債務の弁済の費用と認められるところ、第一審原告全日空が第一審被告に対して補償の交渉及び支払を委託したかどうかには争いがあるけれども、いずれにせよ、第三者に対する損害賠償債務の内、過失割合により、第一審原告全日空が負担すべき部分については、第一審被告が右第一審原告のため補償交渉等の事務を行つたものとみるべきであるから、委託があるときは委任事務処理の費用として、委託がないときは事務管理の費用として、第一審被告が第一審原告全日空に対し負担割合に応じて求償し得るものと解するのが相当である。
(一) 交通費等
第一審被告は、乗客遺族との賠償交渉、事務連絡等補償業務のために旅費、鉄道輸送費一九三万九六八五円、有料道路等使用料三五万四三三〇円、合計二二九万四〇一五円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(二) 宿泊費等の一部
第一審被告は、補償業務の実施のための宿舎借上料として六五四万五七七〇円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(三) 事務費の一部
第一審被告は、賠償交渉、事務連絡等のため、(1)電報電話料三〇八万〇〇六〇円、(2)郵便料一万一四八五円、(3)電子リコピー等の事務器借上料六七万八八二一円、(4)訓練生機落下に伴う人身・家屋・水田の損害についての見舞金・見舞品代九万九四二〇円、合計三八六万九七八六円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。
(四) 超過勤務手当
第一審被告は、補償業務に当たつた防衛庁事務官に対し超過勤務手当一五〇万二〇二五円を支払つたことが認められる(〈証拠略〉)。
(五) 車両運行に要した費用
第一審被告は、乗客遺族との賠償交渉、事務連絡、補償金支払等のために自衛隊所有車両を運行し、その運行費用一八五万八一九六円を要したが、右金額は、車両運行の経費として、通常の交通費を上回らない相当な額であると認められる(〈証拠略〉)。
(六) 雑費の一部
第一審被告は、賠償業務に従事した者の宿泊所におけるシーツ等の洗濯代として三万二〇七〇円を支出したことが認められ(〈証拠略〉)、これは前記(二)の宿泊費と同様の性質の出費とみるべきである。
2  〈証拠略〉によれば、第一審被告は、補償交渉等に関して次の各費用をも支出したことが認められるが、これらは債務弁済のため必要とした費用とは直ちに認めがたいので、その求償を肯認することはできない。
(一) 宿泊費等の一部
第一審被告は、補償業務の実施に当たり、航空自衛隊の部隊で食事を支給し、一般糧食費四〇万五九九九円、加給食費五六万一二六六円を要したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、食費は、本来常時各人が負担すべきものであるか、又は自衛隊の各部隊において、用務の如何にかかわらず食事を支給するものと推測され、右用費の全額が補償業務のために特別に必要とした出費であるとは認めがたいので、その求償を認めることはできない。
(二) 事務費の一部
第一審被告は、賠償交渉、事務連絡等のため、(1)用紙、鉛筆等の事務用消耗品費九三万九九二六円、(2)業務調整会議費一八万二一六九円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、右(1)の消耗品の内には賠償交渉がなくても購入すべき物が相当程度含まれている疑いがあり、また(2)については会議の性質も費用の内容も明らかでないので、これらを補償業務に必要な費用と認めることはできない。
(三) 航空機運航に要した費用
第一審被告は、乗客遺族に対し損害賠償金の内金の緊急支払を実施するために、航空機を九・四一七時間運航し、その費用は四〇万三七八六円となつたことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、補償金支払等のための車両運行費用が認められることは前記1(五)のとおりであるが、それ以外に、航空機の運航によつて緊急に支払をしなければならなかつた事情が明らかでないので、右金額を必要費用と認めることはできない。
(四) 雑費の一部
第一審被告は、補償業務に従事した自衛隊員に支給した医薬品の代金一万九九一七円、靴手入消耗品代二三四八円、事務室の清掃用具等の雑貨代一万二八五五円を支出したことが認められる(〈証拠略〉)。しかし、これらが補償業務のために特別に必要とした費用であるとは認めがたい。
3  そうすると、第一審被告が第一審原告全日空に対して求償し得る補償業務費用は、1の各金員の三分の一、すなわち、(一)交通費等七六万四六七一円(円未満切捨。以下同じ)、(二)宿泊費等の一部二一八万一九二三円、(三)事務費の一部一二八万九九二八円、(四)超過勤務手当五〇万〇六七五円、(五)車両運行費用六一万九三九八円、(六)雑費の一部一万〇六九〇円、合計五三六万七二八五円である。
五  県及び市町村支出金の弁済
〈証拠略〉によれば、第一審被告は、岩手県以下八地方公共団体が遺体の収容等の事故処理業務を行つたために要した費用合計三〇〇五万五八九九円を右地方公共団体に対して別表(二)の番号二4に対応する起算日欄記載の日の各前日に支払つたことが認められる。右地方公共団体の要した費用は、本件事故によつて被つた損害であるか又は事務管理費用であると解され、前者であればもとより、後者としても、第一審原告全日空及び第一審被告において、各過失割合に応じてこれを償還すべき義務を負うものと解され、したがつて、第一審被告のした支払は、その負担部分を超える部分については、第一審原告全日空に対して、共同不法行為者間の求償、委任事務の処理又は事務管理の費用として、償還を求めることができるものというべきである。したがつて、第一審被告は、第一審原告に対し、右支払額の三分の一の一〇〇一万八六三三円の支払を請求することができる。
六  納入告知
第一審被告が、第一審原告に対し、昭和四九年七月二七日到達の納入告知書をもつて、以上の一ないし五の各金員の内、二1(一)の全日空機乗客遺族に対する補償の和解分の一部四八六万八二八三円と二3の当審請求拡張分とを除く一七億七六五九万八三二三円並びにこれに対する延滞金(法定利息又は遅延損害金)の支払方を催告し、また、昭和五〇年九月一八日到達の納入告知書をもつて、右四八六万八二八三円及びこれに対する延滞金の支払方を催告した事実は、当事者間に争いがない。
七  第一審原告全日空の抗弁及び第一審被告の再抗弁について
1  〈証拠略〉によれば、第一審原告全日空は、本件事故当時、運輸大臣の認可を受けて定めていた国内旅客運送約款の四七条において、航空機事故による乗客に対する損害賠償の限度額を乗客一人につき人身損害六〇〇万円、手荷物等物的損害一五万円、合計六一五万円と定めていたこと(以下この定めを「本件責任制限約款」という)が認められ、右旅客運送約款は、反証のない限り、各空港内の旅客の見易い場所に掲示されていたものと推認される(航空法一〇七条)。そして、旅客運送約款は、いわゆる普通契約約款として、多数の同種の契約を迅速かつ合理的に処理するため、予め一般的、定型的に契約内容を定める必要から、作成されるものであるから、第一審原告全日空とその航空機の乗客との間の法律関係には、原則として右約款の適用があるものと解される。
2  責任制限を定める約款の趣旨について考えるに、〈証拠略〉によれば、航空運送は、現代社会における高速度の輸送手段として公益性の認められるものであり、航空運送の確保とその健全な発展を期するためには、航空企業の経営基礎を確実なものとする必要があるが、航空機が大型化した現代において、いつたん航空機事故が生じたときは、被害者も多数に上り、それに対する賠償額を無制限なものとすると、その総額が極めて高額化する虞れがあり、そのような無制限の賠償義務を負担することを予想して運賃を高額に設定すると、かえつて、公衆の航空の利用を困難にし、ひいては航空運送の健全な発展を阻害するのであつて、ここに、約款をもつて損害賠償額に限度を定める必要があることが認められ、これによれば、約款で責任限度額を設けること自体には合理的理由があるものというべきである。
しかしながら、人命の尊重、事故被害者の救済の見地からは、できる限り実質的に被害を填補するに足りる損害賠償額を得させることも、当然に要請されるのであり、自動車事故等においては損害賠償額に限度がないこと、航空運送約款は、企業が一方的に決定するものであつて、旅客の側に契約内容の選択、変更の余地がなく、したがつて、約款による責任制限が無制限に認められるときは、企業が優越的地位を利用して、不当に私人の権利を制限するに至る虞れがあることに鑑みると、約款の責任限度額の定め方如何によつては、約款の当該部分は公序良俗に反し、無効となることもあり得るものというべきである。なお、航空運送約款に対する運輸大臣の認可は、公衆の正当な利益を害する虞れのないこととの基準によつてなされる(航空法一〇六条二項)のであるから、本件責任制限約款も、運輸大臣によつて右基準に適合するとの判断を一応は経たものということができるけれども、そのことから直ちに、同約款が私法上契約当事者を拘束する効力を有することに疑いがないものということはできず、責任原因発生の時点において、航空企業の保護育成と被害者側の実質的な救済との両要請の衡量に基づき、同約款になお拘束力を認めることに合理性があるか否かを検討して、その効力を決定すべきである。
3  国際運送においては、一九二九年のワルソー条約(国際航空運送についてのある規則の統一に関する条約)が、運送人は、故意、重過失の場合を除いて、生命喪失損害については旅客一人当たり八三〇〇ドル(昭和四六年当時の換算レート―以下同じ―によつて約三〇〇万円)の限度で責任を負う旨を定め、一九五五年のハーグ議定書(一九二九年一〇月一二日ワルソーで署名された国際航空運送についてのある規則の統一に関する条約を改正する議定書)が、右責任限度額を一万六六〇〇ドル(約六〇〇万円)に引き上げたこと、わが国は、昭和二八年にワルソー条約を、同四二年にハーグ議定書をそれぞれ批准したことは、当裁判所に顕著であり、本件責任制限約款は、右ハーグ議定書に概ね合致するところである。
しかしながら、世界で航空旅客の最も多いアメリカ合衆国においては、ハーグ議定書の責任限度額の定めが低すぎることを理由にこれを批准せず、かえつて、一九六五年一一月にワルソー条約の廃棄通告をし、一九六六年二月、IATA(国際航空運送協会)加盟航空会社間の暫定協定として、いわゆるモントリオール協定が成立し、これにより、アメリカ合衆国を出発地、到着地又は予定寄航地とする旅客に関して、責任限度額が、過失の有無、程度を問わず、訴訟費用を含めて七万五〇〇〇ドル(二七〇〇万円)に引き上げられたこと、更に、一九六六年三月に成立したグアテマラ議定書(一九五五年にハーグで及び一九六六年にグアテマラで改正されたワルソー条約)において、旅客死傷の場合の責任限度額は、訴訟費用を別にして一人当たり一〇万ドル(三六〇〇万円。別に手荷物損害一〇〇〇ドル)に引き上げられたこと、もつとも、グアテマラ議定書は、本件事故当時、効力発生に必要な数の国の批准を得ていず、わが国も未だ批准していなかつたこと、以上の事実も当裁判所に顕著である。
更に国内航空機事故における損害賠償額の実情をみるに、前記認定のとおり、昭和四一年一一月の全日空松山沖事故において、当時の約款限度額三一五万円を大きく超える一人当たり八〇〇万円が支払われ、昭和四六年七月三日の東亜国内航空「ばんだい号」事故においても約款限度額六一五万円を超える成人男子一人当たり一二一五万円等の補償金額が会社側から提示されたのであり、更に、〈証拠略〉によれば、昭和四一年二月の全日空羽田沖事故においては、成人一人五〇〇万円(約款限度額三一五万円)、同年三月のカナダ太平洋航空羽田事故においては成人一人六七〇万円(限度額はワルソー条約により手荷物損害を含め三二四万円)、同月の英国海外航空富士山事故においては成人一人六六〇万円(限度額は右同)の各補償が示談により支払われたこと、これら各補償に当たつては(前記全日空松山沖事故、「ばんだい号」事故を含めて)、約款又は条約の限度額を超える金額については、香典、葬祭料のほか見舞金の名目で大幅な上積みがなされたものであり、その部分を含む全額が損害賠償の性質を有するものであることが認められる。本件事故については、前記のとおり、第一審被告は、乗客遺族との間に、成人男子一人当たり一二一五万円等の基準額(最低基準額)を設定して、示談をしたものである。
また、自動車事故による損害賠償についてみれば、昭和四六年又はそれ以前に起きた事故についての判決において、第一審被告主張のように未就労者について逸失利益のみで一〇〇〇万円を超える金額を認めた例や損害総額で三〇〇〇万円を超えて認容された例も散見されることが、当裁判所に顕著である(なお、本件責任制限約款は最高限度の定めであるから、これとの比較のためには、高額の事例を見るべきである)。
こうしてみると、本件事故以前において、国際的にはハーグ議定書による責任限度額が低額にすぎることが認識され、アメリカ合衆国に限つてではあるが、モントリオール協定により限度額が大幅に増額され、更に未批准とはいえグアテマラ議定書による増額がなされているのであり、国内航空事故についても、約款、条約の限度を超える賠償が支払われていて、各航空会社においても、右限度を最高額の制限としては扱つていず、既に昭和四一年中の事故についても支払つた実額が本件責任制限約款の定めを超えていたのであり、更に国内自動車事故による損害賠償においては、本件責任制限約款の限度をはるかに超える金額が認められていたのである。そうすると、本件責任制限約款の定めは、本件事故当時の社会の状況に合致せず、損害賠償額の最高限度としての合理性を失つていたものであり、このような金額に責任が制限されることは、航空企業の保護、育成という目的を考慮しても、事故被害者の救済として甚だしく不十分なものであつて、正義公平の理念に反するものといわなければならない。ちなみに、第一審原告全日空の逸失利益の主張に徴しても、本件事故当時の同第一審原告の経営基盤が、このような約款によつて保護されなければならないほどに脆弱であつたとは、到底考えられないのである。
したがつて、本件責任制限約款は公序良俗に反するものというほかはない。
4  もつとも、本件責任制限約款の金額の定めが無効とされるとしても、約款で責任限度を定めること自体は是認される以上、損害賠償が無制限に認められるとするのは相当でなく、そこには自ずから合理的な限度が認められるべきである。そして、当時、未批准とはいえ、グアテマラ議定書に三六〇〇万円が限度額と定められていたことを考えると、約款によつて定め得る最高限度額としては、この金額が国際的水準からみて許容される金額であつたと推測される。他方、右の是認し得る限度額は、航空会社と旅客との間については、債務不履行責任であると不法行為責任であるとを問わず、適用があるものと解されるが、旅客に対し航空会社とともに共同不法行為責任を負う第三者については適用される理由がなく、ただ、第三者が損害賠償を支払つたうえ、航空会社に求償する関係においては、約款による責任制限の趣旨が航空企業の保護育成にあることに徴し、制限の定めが適用されると解する余地がある。しかし、〈証拠略〉によれば、本件において、第一審被告が乗客遺族に対する賠償額として第一審原告に求償する金額は、和解契約に基づいて支払つた金額(前記二1(一))の内の最高額が乗客一人当たり三二二四万二〇一二円、判決によつて支払つたもの(前記二1(三))の元金が四八二三万六〇一一円(遅延損害金を含めて五四一五万一三七四円)であり、過失割合によつて求償の認められる金額は、和解に基づくものが一人当たり最高一〇七四万七三三七円、判決に基づくものが一六〇七万八六七〇円(遅延損害金を含めて一八〇五万〇四五八円)であり、前記国際的水準からみて許容される合理的な責任限度額の範囲内にあることが明らかであるから、その求償は妨げられないところである。
したがつて、第一審被告の再抗弁は理由がある。
八  結論
以上の次第で、第一審被告が第一審原告全日空に対して請求し得る額は、一の訓練生機の機体及び装備品の損害四〇三万一四七一円、二1の全日空機乗客遺族に対する補償五億七〇九六万四一七〇円、二2の同機乗員遺族に対する見舞金二三六万円、二3の同遺族に対する損害賠償五二四六万六六六六円、三の地上損害補償二三万七八八四円、四の補償業務の費用五三六万七二八五円、五の地方公共団体に対する弁済金一〇〇一万八六三三円、合計六億四五四四万六一〇九円である。
また、第一審被告は、右一の金員に対しては本件不法行為の日の翌日の昭和四六年七月三一日以降民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の、その余の各金員に対しては各支払日の翌日から納入告知の日までは利息、その翌日以降は遅延損害金として民事法定利率年五分の割合の金員の各支払を求めているのであつて、その請求は正当と解されるが、四の補償業務の費用については個別の支払日を確定し得ず、最終の支払日をもつてその全額の支払日と認定するほかはないことは前記のとおりである。したがつて、第一審被告の第一審原告全日空に対する反訴請求は六億四五四四万六一〇九円及びその内別表一七の各金員に対する同起算日欄記載の日以降年五分の割合の金員の支払を求える限度において理由がある。
第七  結論
以上の次第で、第一審原告全日空の本訴請求は前記第五、一6の限度で、第一審原告保険会社一〇社の請求は前記第五、二6の限度で、第一審被告の反訴請求は前記第六、八の限度でそれぞれ理由があるから、これを認容し、その余の各請求は理由がないから、これを棄却すべきである。よつて、第一審原告らの控訴及び第一審被告の控訴による請求拡張に基づき、原判決を右の趣旨に変更することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用し、なお、第一審被告の申立てにかかる仮執行免脱宣言はこれを付することが相当でないものと認めて、右申立を却下することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 高野耕一 野田宏 米里秀也)

 

別表(一)、(二)、三の二、同九ないし同一七〈略〉
別紙図面三の三、同一三ないし同一八〈略〉

 

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